Timelineの東 ◆wgC73NFT9I


 停止した時間の中に、暁美ほむらは佇んでいた。
 見上げる森の樹冠の上に、標的の姿がある。
 立体機動装置をつけた、ジャン・キルシュタイン。


 正直、拍子抜けだった。


「――あなたの好きなように始めなさい」


 勝負を始めた時、私はそう言って、先手をジャン・キルシュタインに譲っていた。
 彼の得体の知れない大言壮語の根拠を目の当たりにしたかったのもあるし、そうでもしなければ、彼に勝ち目は無かったからだ。
 私の時間停止魔法を破るには、私の反応を超えるか、相当な意表を突くかした攻撃を当ててくるしかない。
 当然、私が親切に見せてやった時間停止を踏まえて、彼はその先手の一瞬に勝負を賭けてくるものと思っていた。


 ――それがどうだ。

 彼は後ろの木の上方にワイヤーを掛けた後、ただ上空に向けて飛び上がっていただけだった。
 距離を離して、空から狙撃でもしようと考えていたのだろうか。
 確かに、私には彼の使う立体機動装置ほどの空中機動力はない。
 しかし、彼は私が、空中を吹っ飛んだ状態から無事に着陸したことを知っているはずだ。
 私が飛行能力を有していることさえ見抜けなかったのだろうか。
 それにしたって、せめて瞬間移動することを踏まえた対策くらいはしてくるものと思ったのに。


 時間を止めたままゆるゆると上昇する。
 確かに、同じ距離を移動するにも地上での歩行より空中浮遊の方が労力も時間もかかるが、樹冠程度の高度まで追いつくのはたやすい。
 これ以上無駄に魔力を消費するのも嫌なので、最短距離でジャン・キルシュタインの前に浮上し、多用途銃剣を振りかぶった。
 彼の目は未だ、私がいた森の地面を見つめて固まっている。
 止まった時間の中で腕を動かしたり、眼で追ってきたりするような異常なこともない。
 このまま、時間停止解除と共に胸板あたりを切りつけて、勝負は終了だ。
 その程度の傷なら、放り出しても生き残る見込みはあるだろう。
 粗暴で協調性もなく期待はずれな変態には生温いくらいの処遇だが、まあ、球磨と星空凛の嘆願もあったことだし。


 ――さようなら、口ばかりのお馬鹿さん。


 左手の盾が、開いていた砂時計と歯車を閉じる。
 同時に、逆手の銃剣が空を切っていた。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


……ありのまま、今起こったことを話すわ。
 私が右手に持っている銃剣は、『空を切っていた』。
 文字通りによ。
 何を言っているかわからない?

 私は、『ジャン・キルシュタインの胸板を切りつけた』はずなのに、その銃剣は『空を切っていた』のよ!


「――!?」
「ッぶねっ!!」


 ジャン・キルシュタインの姿は、忽然と暁美ほむらの視界から消え失せていた。
 その声が、遙か下方から耳を打つ。
 驚愕と共に振り向けた眼は、彼が高速でワイヤーを引き戻し、森の木の葉の中に勢いよく潜るその瞬間を捉えていた。

「くっ!!」


 再び盾を傾け、即座に時間を停止。
 しかし、もう彼の姿は完全に繁茂する木立の中に隠れ、上空からではどこにいるのかまったくわからなかった。

 ――なんという瞬間加速力。

 最大限に引き延ばされたワイヤーリールは、その引き戻しの最初に最も強い力を発揮するのだ。
 自分もその性能は一度味わっていたというのに、虚を突かれ、全く反応することができなかった。
 私は、何も身を守るもののない上空に誘い出され、反対に彼は捕捉の困難な森の中に隠れた形になる。

 ――まさか、最初からこれを狙っていたというの!?

 彼は、私の時間停止が『触れた物体』には無効となることを見抜いていたのだろうか。
 私の時間停止中の攻撃は、必ず命中の寸前、銃火器なら発射の直後までしか動かない。
 それにしたって、私が時間を停止し、解除するタイミングはわかりようがないはず。
 どうやって、そこまで知り得た――?

 私が期待外れだと高を括ることも、魔力の浪費を嫌って馬鹿正直に正面から近づくことも、予見していたというのだろうか。
 一体、彼はどこまで私の魔法を把握し、どんな打破策を練っているというのだ――?


 冷や汗が吹き出る。
 今まで絶対の信頼を置いてきた自分の魔法に、敗北の可能性が生まれようとしている。
 久方ぶりに、恐怖というものに近い感情を感じていた。

 ――いや。
 思い返せば、私の時間停止は、どのループでも必ず敗北する相手がいる。


 ワルプルギスの夜の初撃だ。


 私が戦闘を行えば必ず、使い魔を掃討している意識の隙間を縫って襲う、彼女の恐ろしく高速で精密な攻撃を一発は貰ってしまう。
 時間を止めている間は無敵でも、その発動と解除の瞬間には私の反応が必須になる。

 所詮、魔法少女は人間のなれの果てなのだ。
 普段は今までの日常となんら変わることなく生活しているし、治るとはいえ怪我もする。
 いくら魔法を使ったところで、私の反応速度も跳躍伝導の領域を超えはしない。


 顔が、ひきつるように笑っていた。


 感謝すべきだろう。
 それを再認識させてくれたジャン・キルシュタインに。

 もはや、油断をしていい相手ではない。
 どこまで情報が把握されているのか、どんな戦術を取ってくるのかもわからない。
 大方の魔女のように愚鈍な相手ではない。
 大概の魔法少女のように浅慮な相手でもない。


 美国織莉子や巴マミと同格の相手と見てかかるべきだ。


眼下の森を見やる。
 ――時間停止を続けたまま潜行して、ジャン・キルシュタインを見つける?
 いや、それは下策だろう。

 既にかなりの時間を止めてしまっているし、森の中には姿を隠す陰は山のようにある。
 今判明している限りで彼の攻撃手段は、立体機動装置に付属のカッターナイフのような双剣による近接攻撃。
 加えて、ブラスターガンによる遠距離攻撃および狙撃がある。
 ワイヤーアンカーも、見切りづらい中距離攻撃手段として使用してくる可能性が高い。
 発見できずに後ろを晒すようなことがあれば、その瞬間に私は負ける。
 飛び道具を使わない以上、時間停止に必須な反応時間を稼ぐことが私には必要だった。
 つまり。
 私に許されている存在位置は、この見晴らしの良い森の上空のみ――。


「私はここよ、ジャン・キルシュタイン!!
 逃げてないで、攻めてきなさい!!」


 停止解除と共に、樹冠から十数メートル上空で、私はそう言い放っていた。
 そして、息を吸うのと共に、再び時間停止。
 その停止時間中に数メートルだけ、さらに上昇しておく。
 彼が森林中からの狙撃を考えているなら、この誘いでとる行動は一つ――。

 停止を解除した瞬間、目の前をブラスターガンの光線が掠めていた。
 森の中から、舌打ちと共に、木の葉を掻き分ける移動音。
 すぐさま再停止して、ブラスターガンが発射された地点を見やるが、ジャン・キルシュタインは既にそこから移動した後のようだった。

 ――これで、彼の森からの狙撃を封じるはずだった。


 暁美ほむらは、自分の狙撃を回避することができる。
 そして外せば、自分の位置が知られるのだと。


 しかし、このチャンスを活せなかったのは私にとってかなりの痛手だ。
 彼は外した際の対策まで最初から意識して射撃していたのだ。
 今の隙に完全に彼を発見・捕捉できなかったとなれば、これは膠着状態になる。
 むしろ、位置が解っても私が攻撃に転じられないとなれば、ジャン・キルシュタインは狙撃し放題だ。
 彼は的を絞らせないように間欠的にランダムな移動をしつつ、森の中から私を撃ちまくればいい。
 100発近いブラスターガンの残弾を、時間停止で避けられる自信はない。
 かくなる上は――!


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 ブラスターガンの光線が命中し、小爆発が起こる。
 しかし、その衝撃が私の肉体に及ぶことはない。
 薄紫の魔法防壁が、私の周囲を球状に取り囲んでいた。

 ――時間停止を捨て、その分の魔力を全て防御に回す。

 ジャン・キルシュタインからの狙撃は、その一発のみで止まっていた。
 流石に、遠距離攻撃だけでこの防壁を貫けるとは、彼も思わなかったのだろう。
 木々の隙間からは、固唾を飲んで私たちの動向を見守る、球磨と星空凛の姿が見える。


「……さあ、いつまで潜っているつもり?
 守れるんでしょう? 脱出できるんでしょう?
 潜んでいたところで、ヒグマも私も、倒せないわよ」


 空を仰いで、そう呟いた。
 とても穏やかな気持ちだった。

 これが、合意に基づいた勝負で本当に良かったと思う。
 もうやり直すことのできないこの時間軸で、こんな貴重な戦術的経験ができて、それを次に活かすことができる。
 この時点で既に、この勝負をふっかけたモトは取れたに等しい。

 そして、次に彼がこの防壁に対してどういう手段で攻めてくるのか。
 それを見るのが、本当に楽しみだった。


 ワイヤーアンカー程度なら問題なく、ブラスターガンでも剣戟でも、一発ずつなら確実に私の防壁は防ぎきれるだろう。
 命中の瞬間に、球形に展開していた魔力を一点に収束させるのだ。
 彼の持つブラスターガンは見た限り、映画内で猛威を揮っていたDC-17へヴィブラスター程の火力も連射性もない。
 私の防壁を破るには、彼は接近し、連続攻撃をするしかない。
 千日手は彼とて望んではいないはずだ。
 この沈黙の間に、彼は私の予想もつかない攻め手を、今度もきっと考え出してくれるだろう。


 私は、イレギュラーが嫌いだった。
 繰り返しの時間の中で、私自身がキュゥべえからイレギュラーと扱われていたせいもあるかもしれない。
 美国織莉子など、思想の違いからして相性は最悪だ。
 だが今となっては、そのイレギュラーの存在が愛しい。

 何もかもが初めてのタイムラインでは、イレギュラーもレギュラーもその概念からして存在しない。
 知り得たことの数々は、戦いの跡の水溜まりに没する。
 全てのレギュラーを投げ捨てた空は晴れ晴れとして、私にはイレギュラーだけが唯一残る。

 数々の分岐で集めてきた、皆等しく違うイレギュラーたちが、私に最大限の好意を向けて襲いかかってくれる。
 レギュラーを逸脱したときに、どう対処すればどういう結果が開けていくのか。
 無くしたものと引き換えに、彼女たちの向けてくれた敵意だけが、去り際に私の背を押してくれる。


 ただまどかを救うためだけに、私は数え切れないほどのまどかを殺し、数え切れないほどのまどかを見捨ててきた。
 その絶望的な結末へと続く、同じようにしか見えないレギュラーの道の中で、そのイレギュラーたちだけが、私を異なる道へ導いてくれる可能性だったのだ。


 彼が。
 ジャン・キルシュタインが。
 進むしかないこのタイムラインで、私に未だイレギュラーとして立ち向かってきてくれるなら。
 この勝負の結末がどうなろうと、それはきっと正解にたどり着く道になり得る。


 ――期待できる。
 私たちが正しい道に進む一歩に、彼は確かな下地をきっと築いて行ける。


 目を瞑る私は、魔法防壁の殻を越えて、どこまでも広がっていくようだった。
 遠くから吹く、風のような息遣い。
 遠くから降る、雨のような駆動音。
 私の歩んできた螺旋の履歴を綴り変え、その真摯な殺意が私を背中から染めてゆく。
 丁寧に丁寧に、私の死角から。
 彼の素敵なイレギュラーが、私の迷宮に切り込んでくる。


 ガスの噴出音が、私の背後を吹き抜ける。
 彼の、息を吹くような気合が耳に届く。
 そして次の瞬間、私の壁を砕かんとする、力強い衝撃が空に走っていた。


「そこねっ!!」


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 衝撃を受けた一点に、防壁の魔力を集束させて防ぎきる。
 一呼吸の間も開けない。
 西部劇の抜き打ち。
 時代劇の居合。
 私が可能な最大限の反応速度で、私は盾を傾ける。
 防壁の魔力が一転して、四方無辺に拡散していた。


 ――時間停止。


 勝った。
 ジャン・キルシュタインが二撃目の近接攻撃を入れる前に、私は時間を止めることができた。
 このまま、攻め込んできている彼に銃剣を突き付け、終わらせよう。


 ――よくやったわ。ジャン・キルシュタイン。

 安堵に胸を撫で下ろして、私は振り返る。

 ――私に敵わないまでも、ここまで私を追い詰めるなんて……。


 そこまで考えて見やった景色に、私は、ただ呆然と自失した。


 防壁のあった空中に突き刺さっていたのは、カッターナイフのような刃。
 ただ、それだけ。
 どこにも、ジャン・キルシュタインの姿はない。
 あの剣が刃先を飛ばすことができたことも驚愕すべき点なのではあるが、問題はそこではない。
 私は、確かに彼の気配を近くに感じていたのだ。
 如何に遠間から投擲したのだとしても、投擲には広い空間での腕の振りが必要な以上、彼はまだ空中にいるはずなのに。
 見上げる空に影はなく、森に沈んだ跡もない。

 10秒。
 20秒。

 いたずらに焦りと時間だけが過ぎていく。
 汗が、背筋から腰に落ちる。
 唾が、固くて飲み込めない。

 全く状況を理解できないまま瞠目していた私の眼はそこで、昇り来ている朝日の眩しさにふと気づいていた。


 時間停止の中でも変わらず捉えらえるその眩い光。
 東に見えるその威光の中に。
 私を導いてくれるその者が、いた。


 逆光だ。
 目を凝らさねば、その灼けつくような光の中は、伺えない。
 北海道の孤島の森の上。
 余りに澄んだその光の中に輪郭を溶かして、ジャン・キルシュタインが佇んでいる。


 右手でしっかりとブラスターガンの狙いをつけて。
 左手は投擲剣の替え刃を腰元で装填して。
 陽に溶ける細いワイヤーは眼下の森に突き立っている。


 その美しさに、私は息を飲んでいた。


 彼は刃先を投擲した後、逆光を計算に入れて、ガスの噴射による微調整でこの位置取りを狙っていたのだ。
 私は、確かに彼の二撃目の前に、時間を止めることができた。
 しかし、遠距離攻撃の二連撃を想定していなかった時点で、私は彼の策に完全に嵌ってしまっている。


 防壁から時間停止への切り替えが一瞬でも遅ければ、私はブラスターガンの餌食となっていた。
 そしてこのまま時間停止を解除しても同じことだ。
 移動して躱せば、彼はまたワイヤーを引き戻して森の中に潜るだろう。
 だが、それではまた同じことの繰り返しだ。
 むしろ、遠距離から二連撃以上の攻撃を受けるならば、私は今度こそ手詰まりとなる。
 彼が再び空中に出てきたこの瞬間に決着を着けねばならない。

 しかし、停止時間中に回り込んで銃剣を突き付けようにも、私はもう既に、相当の時間を彼の発見に費やしてしまった。
 私の魔力を、最大限に削ぐための朝日だったのだ。
 既に連続停止時間は、私の魔力運用上、危険域。
 なんと美しく、完成された私への対応策だろうか。


 潜水する海中から、酸素を求めて浮上するように、私は時間停止を解除するだろう。
 もはや、その瞬間に賭けるしかない。

 ブラスターガンの直撃を避け、身を躱しながら魔力の出力先を全て空中での推進に切り替える。
 ジャン・キルシュタイン。
 あなたを捕捉し、何としてもこの銃剣を突き立てて見せる――!


 その時の私は、多分満面の笑みを浮かべていたのだと思う。
 カリカリとかすかな音を立てていた歯車が、盾の中に閉じた。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 ブラスターガンの爆発が、オレの眼に映っていた。
 アケミが被弾した――。
 半透明の魔法の壁みたいなものは、オレが投げた剣の刃を受けて、確かに消え去っていたはずだった。

 視界の先で、盾を嵌めたアケミの左腕が、森の中へちぎれ落ちていくのが見える。
 となれば、本当にオレは、アケミに命中させることができたのだ。
 作戦は成功した――。
 アケミの手加減が前提だったとはいえ、自分でも驚くほど、綺麗に作戦は決まっていた。

 『私を倒しなさい』という言葉を真に受けて、魔法少女だから大丈夫だとか、理由もよくわからないままに撃ってしまったが、本当に大丈夫だろうか。
 むしろ、殺す気で掛かっちゃって、本当に殺してないかさえ心配になる。
 仮に殺してたとしても、合意に基づく勝負だし、そもそもここは殺し合いの場所らしいし、平気か……?
 いやいや、平気ってなんだよ。オレはアケミたちと協力するんじゃなかったのか!?


 視線を泳がせたままオレの体が落下し始めたその時、爆風を切り裂いて、アケミのグレーの衣装が鳥のように飛来していた。
 肩口から左腕が吹き飛んだというのに、その鋭い目つきは射竦めるように俺を捉えている。
 逆手に持つ彼女のナイフが朝日に光る。


 ――信じられねぇ。


 オレの心配は、全く杞憂どころか、的外れにもすぎた。


 魔法少女っていうのは、痛みも怯みも感じないのか!?
 まるで、ヒグマのような、その生命力。
 まるで、魔女のような、その強靭さ。
 本当に殺しでもしない限り倒せないのか。
 オレが煽ってしまったお前の『守りたいもの』とは、そこまで大切なものなのか。


「うおおおおおおおおおッ!!」


 ワイヤーを引き抜き、ガスを最大出力で噴射していた。
 回旋する遠心力を乗せて、アケミの突撃に全力でぶつかりに行く。

 互いに、これが勝敗を決める最初で最後、最大のチャンスなのだ。


 応える。
 アケミの大切なものに。
 オレの明日の平穏に。
 立ちはだかる巨大な敵を駆逐するために磨いてきた互いの力と技に。


 オレの剣とアケミのナイフが交錯する。
 それが、決着の瞬間だった。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 左手の剣での切り付け。
 反時計回りの高速回旋を加えた、巨人のうなじを削ぐ必殺の一撃。
 腕をうち開きながらの、今のオレにできる最大威力の斬撃だった。

 アケミのナイフが、その刃に当たっていた。
 ナイフの鍔に、オレの剣が受け止められる。
 オレの刃先の上を、そのナイフが流れた。
 逆手に持ったナイフを、腕のない左半身に向けて滑らせながら、アケミはオレの上腕を撫で上げるように、その身を寄せてきていたのだった。


 ――受け流し。


 鼻先が触れそうになるほどの近くに、アケミの笑顔があった。
 呼吸を忘れてしまいそうな、とても可憐で華やいだ微笑み。
 艶やかな唇から、暖かなアケミの息が、オレの頬に触れてくる。


「――感謝するわ。ジャン・キルシュタイン」


 その吐息を聞いた瞬間、オレの顎はしたたかに突き上げられていた。


 ――あ、肘鉄……。


 空中で入り身をしてきたアケミの速度は、見事にオレの回旋にカウンターとなる。
 逆手で受け流しをした彼女の、予想外の肘。
 ここに来て空中での白兵格闘が、このオレを襲う。
 アケミの右腕がそのままオレの腕を掴んで、肩と胸ごとオレを引き込んでゆく。
 脚が首筋に絡められ、オレの体は落下しながら見事に押さえ込まれる。


 ――エレンを馬鹿にしてねぇで、もう少し格闘訓練、やっておくべきだったかな……。


 かすかな意識でそう思ったものの。
 既に最初の肘鉄と微笑みで、オレは完全にノックアウトされていたのだった。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒



「飛びつき腕ひしぎ逆十字固め、一本、そこまでクマ!! 二人とも! 大丈夫かクマー!?」

 高高度から落下してきた二人は、紫色の光に包まれ、一塊となって着地していた。
 走り寄る球磨と星空凛に、暁美ほむらはその無表情をすっくと起き上がらせて答える。

「ええ、落下はなんとか魔法で緩衝できたみたいだから、問題ないわ」
「ほむほむ、腕が吹き飛んでるにゃ!! 問題ありまくりにゃ!!」
「ジャンくんも、ものの見事に体捌きからの猿臂喰らってたクマ!!
 なんで魔法と立体機動の勝負が格闘で決着するクマ!!」
「それだけ、このジャン・キルシュタインが優秀だったということよ」

 焦げた左肩を払いながら、ほむらは感慨深げに言った。
 地面に伸びてしまった当のジャンが、うめき声を上げなから身を起こす。

「……ってぇ。……これは、オレの、負けか……」
「いいえ、先に被弾した私の負けよ。最後のは単に、魔法少女の実力を見せておきたかったのと、あなたに一言物申しておきたかっただけだから」
「いやいやいや!! 誰がどー見ても引き分けクマ!!」
「そうかしら」
「そうクマ!! ほむらの一存で球磨まで『好きに』されるのはご免だクマ!!」

 淡々と述べるほむらに、球磨は焦って捲し立てる。
 既に勝負がどうこうよりも、ほむらの興味は、ジャンがどのようにして時間停止への対策を練り得たのか、という問題に移っていた。
 ほむらの問いに、ジャンは外門頂肘を喰らった顎先をさすりながら答える。


「……いや、な。アケミは、オレの後ろに回り込んだ時の前に、オレたちが初めて会った時にも、魔法を使ってただろ?」

 確かに暁美ほむらは、ジャン・キルシュタインを詰問した際、盾から機関銃を取り出しながら時間停止を使用していた。
 裏に回り込むだけなら、瞬間移動の魔法というのが最も考えられたが、どうやらそうではないらしい、と、ジャンは考えていた。

「だから、オレはもっと広く、『一瞬のうちになんやかんや色々できる魔法』だと考えたわけさ。
 そんでもって、その魔法を使うのには、『盾を傾ける』という動作が必要になるっぽい。
 二回とも魔法を使う瞬間に、その共通点があったからな」
「その通りよ……。よく気がつけたものね」
「まぁ、オレは昔っから現実を見るのは得意だからな……」

 ほむらは、ほとんど無意識的に行なっているその動きに着目されたことに、心底驚いていた。
 それならば、ジャンが一番最初に空中での切り付けを躱し得たことにも納得ができる。
 彼はずっと、ほむらの盾の動きにだけ注目して、ワイヤーを戻すタイミングを計っていたというわけだ。


「で、『一瞬のうちになんやかんや色々できる魔法』だから、もしその『一瞬』でできることが無制限だったり、『なんやかんや』の間に殺されたりしたらどうしようもないんだけどよ。
 そこは勝負を持ち掛けてくれたくらいなんだから何かしら限度があるものと、アケミを信じた」


 そこで、彼は最初に空中へ飛んでいた。
 ほむらが空を飛ぶ力を持っていても、敢えて立体起動装置を確保しておこうとしたところから、その能力はジャンの飛行能力よりは低いことになる。
 魔法に限度があれば、当然、その限度が来る前にことを終わらせようという心理が働く。
 盾に着目して離脱のタイミングを見計らいつつ、接近には労力をかけさせることで、わざわざ裏に回ろうなどという気持ちを起こさせなくさせることが、ジャンの狙いであった。
 それ以降も、森林中からの射撃、逆光を利用した『一瞬』の浪費など、ジャンの思惑はことごとく的を射た作戦であったことになる。

 銃火器の使える万全な状態ならば当然、こんな作戦は成立しないところであったが、短時間でほむらをそこまで分析し、筋書きどおりに動かし得たことは、凛や球磨も含めて素直に感嘆できるものであった。


「粗方把握されてるようだからもう教えておくけれど、私の魔法は『時間停止』よ。
 あなたとの戦いで私の弱点を再認識できたことは、とても糧になったわ」
「それ以外にも防壁とか空中浮遊とか腕が千切れても平気とか、色々便利に魔法使ってた気もするが……。
 まぁ、オレは指揮官殿に認めてもらおうと思ってただけだから」
「そう認識してもらえたなら、これ以上のことはないわ」

 ほむらがそう言って差し伸べた手を掴んで、ジャンは立ち上がる。
 彼女は左肩から先が弾け飛んでいて非常に痛々しかったが、その傷口は既に塞がっており、痛みも感じてはいないようだった。

「それにしても、魔法少女ってのは本当にすごいな。オレがやったくせに言うのもあれだがよ、その腕は、大丈夫なのか?」
「ソウルジェムという、私の左手の甲にあった宝石が無事な限り、私たち魔法少女は魔力さえあれば再生できるのよ。
 左腕もすぐ繋げられるわ。
 星空凛、すまないけれど、あっちの木陰に私の腕が落ちているから、持ってきて貰える?」
「良かったぁ……そうだったんだほむほむ。でも本当、心配するからそういうことは早く言っておいて欲しいにゃ!」
「ジャン・キルシュタインも予想以上の心技体で『軍』に入ってくれたことだし、私と球磨が二人の支給品を見てあげるわ」
「本当か? 最初からそれを頼みたかったんだよマジで。協力する以上あんたらに使ってもらった方が絶対マシだしさ」
「わかったクマー。なんだかんだ勝負も恙なく終わったし、上々の門出になりそうクマねー」

 ジャンは眉を開いて、後ろにデイパックを降ろした。
 ほむらに手を振って、凛も支持された方向に走り出す。
 球磨も興味深げに、屈みこんでデイパックを広げるジャンの様子を、上から覗き込んでいた。


 ――本当に、恙なく終わった。
 備え付けの13号対空電探にも、近くにヒグマの影は終始映り込みはしなかった。
 ジャンくんが大破することもなく、自分が『好きに』されることもない行司もできた。
 腕の吹き飛んだほむらも、彼女の言う通りなら心配いらないだろう。
 何よりも、ほむらとジャンくんが何一つ憂いなく、互いを認め合えたことが素晴らしい。
 ジャンくんと凛ちゃんの支給品を見てあげたら、ほむらと一緒に今後の作戦を練ろう。
 協力できる参加者を早いうちに集めて、みんなで立ち向かおう。
 主催者を倒すための艦隊が、いよいよ進水の時を迎えるクマ――。


 球磨が感慨深くそう考えていたとき、遠くのスピーカーから、ちょうど町内放送のように大きく第一回放送の声が聞こえていた。
 ジャンとともに、そちらに意識を傾ける。
 間延びと音割れが酷くて聞き取れたものではないが、死者の数は相当に多いようだ。
 馬鹿みたいに参加者同士で殺し合った例は少ないだろうから、ざっと見積もっても数十体はヒグマが島内をうろついているだろう予測が立つ。
 眼を振り向ければ、ジャンがデイパックの上で顔を顰めている。


「……誰か、知ってる人でも、いたクマ?」
「ああ……。エレン・イェーガーって奴だ。あの死に急ぎ野郎……。本当に死に急いじまったのか……」

 ジャンは沈鬱さを振り払うように首を振り、立ち上がった。
 下を向いたまま、震えながら、叫ぶ。

「だがよぉ! オレたちはそんな死に急ぎはしないよな、アケミ!
 そのためのあんたとの勝負、そのための協力なんだ!! 絶対、生きて主催者をぶっ倒すぞ!!」
『それでは、引き続きヒグマとの素敵なサバイバルライフをお楽しみ下さい』


 ピーンポーンパーンポーン♪


 勢い良く暁美ほむらに声を飛ばし、ジャン・キルシュタインは振り向いていた。
 耳障りな音割れをしていた放送が、その時ちょうど、終わっていた。


 暁美ほむらは、その伝令に、応答しなかった。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 暁美ほむらの顔は、さかさまになっていた。
 振り向いたジャンと球磨の視界で、驚きに見開いた目と、地面に向けて垂れる長い黒髪が、印象的に映った。


 首と彼女の体は、顔の隣にある。

 リズミカルに、赤い噴水が、その首の断面から噴き出していた。
 皮一枚で繋がった彼女の顔に、少しずつその赤い飛沫がかかっていく。
 彼女の体は、ゆっくりと倒れていった。
 首から背中にかけて、魔法少女衣装をぱっくりと裂いて広がる、三条の赤い爪痕。
 彼女の脚が、何者かに咥え上げられる。


 ヒグマだった。


 ほむらの踝を咥え上げ、ヒグマが立ち上がる。
 力なく垂れ下がるほむらの肉体は、ほっそりとした黒タイツの脚もその付け根まで露わとなり、まるでつまみのスルメのように、足先から喰われていく。


「おああああぁあああぁ!?」


 恐慌の声が上がる。
 ジャン・キルシュタインが、たたらを踏むように後退し、自らのデイパックに躓いて受け身も取れずに後ろへ転がっていた。
 球磨は、そのヒグマを前にしてただ声も出ずに震える。


 ――何故。
 何故だクマ。
 電探には、今でさえ、自分たちの他には何も映っていないクマ。
 音もなく、いつの間にやってきて、いつの間にほむらを殺したクマ!?


 放送である。
 このヒグマは大音声の音割れの中に自分の足音を含ませ、一撃のもとに、断末魔を出させることもなくほむらを仕留めていた。
 そして、電探に映らないこと。
 当然、球磨はこのヒグマを知っている。

 あまりに恙なく進んだ任務に、安堵して忘れていただけだ。
 ほむらと出会ったあの深夜の砲撃戦。
 夾叉に持ち込んだにも関わらず、直後忽然と電探上から姿を消したヒグマ。
 穴持たず12。


 ――あのヒグマだクマ!!


 戦慄と共に、球磨はその目の前に『山の神(キムンカムイ)』の姿を見た。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 星空凛は、落下したはずの暁美ほむらの左腕を見つけ出せていなかった。
 指示されたところの地面を、下草をかき分けていくら探しても、さっぱり見当たらない。
 気が付けば放送が始まっていた。
 これは、ひと段落したところで本人に手伝ってもらうしかないだろう――。

 そう考えて、凛は来た道を引き返す。


「おああああぁあああぁ!?」


 その耳を、ジャン・キルシュタインの裏返った声が叩いていた。
 何事か。
 いったい何があったのかと、駆け出した凛の眼にも、その光景が見えていた。


 ――ヒグマが、ほむほむを逆さ吊りにして、食べている。


 喉が締まって、笛のような音が鳴った。
 息が吸えない。
 地面には、ほむらの首からびちゃびちゃと血が降っていく。
 ぐらぐらと振られるほむらの頭と共に、自分の立つ地面がシェイクされているようにさえ凛は感じた。


「――電波吸収。ステルスによるECMかしら。あの時の、球磨の電探を抜けたヒグマ」


 その揺れていた頭がふと、口を開いていた。
 唇を伝う血液に、そんな呟きが綴られていく。


「ぬかったわ。本当に、反応できないと駄目ね」


 暁美ほむらのさかさまな顔が、いつもの無表情を呈している。
 他人事のように呟きながら、右肩のデイパックを抱えなおしつつ、彼女の右手は、頭部を首の切断面に押さえつける。
 紫色の光が走り、切断されていた首は傷跡もなく接合されていた。
 肺と再交通したその喉に、ほむらが豁然と鬨の声を吹く。


「さあ、何をしているのあなたたち! 戦闘は始まっているのよ!!」


 長い黒髪が、風を孕んで靡いた。
 右手に握られた逆手の多用途銃剣が、高い風切音を鳴らして円弧を描く。
 暁美ほむらは、喰われている左脚を回転軸にして、そのヒグマの顔面へ、腹筋と背筋だけを用いて振りあがっていた。
 人体の可動域を逸脱した動きに、膝関節が抜ける。
 靭帯が引き千切れる痛みなど端から遮断して、ほむらはその銃剣をヒグマの左目に突き立てる。
 そして深々と眼球を抉りながら続けざまに、その顎へ魔力を帯びさせた強烈な右膝蹴りを見舞っていた。


「グルオォオオォオオオォオオオ!?」


 突然の餌の蘇生と反撃に、ヒグマは驚愕した。
 だが、口をこじ開けて逃れようとするその餌の動きまでは許さない。
 蹴り開けられた口へ、前脚を使って、その黒髪の人間を腰元まで押し込み返していた。


「がはあッ!?」


 ほむらの骨盤が砕かれる。
 両脚は完全にヒグマに飲み込まれ、破裂した腸骨動脈から大量の血液が溢れ出た。
 痛みの遮断が遅れ、銃剣から手を放しそうになる。
 しかし、これを放してしまえば最後。
 つっかえ棒として捕食を踏みとどめているこの右手だけは、放すわけにはいかなかった。


 ――時間停止は、使うことができない。


 砂時計のついた盾は、左腕と共に飛んで行ってしまった。
 私の時間停止中の世界では、『触れているものしか動くことができない』。
 その基準点となる盾さえあれば、自分の胴体を切断してでも時を止め、離脱することができるというのに。
 この状態で時間を止めても、肝心の私自身が止まってしまう。
 支給された武器も、いつもの癖でほとんどが盾の中だ。
 全く意味がない。

 本当にこのヒグマは、私たちがぬかりにぬかったタイミングを狙って、出現してきたのだ。
 恐らく私と球磨は、深夜からこのヒグマにずっと付け狙われていた。
 適度に弱り、隙が生まれたその瞬間を狙うように。虎視眈眈と。


 ――こいつは、必ずやここで仕留めておかなければならない。


 私は肉体が食べられたとしても、ソウルジェムだけでも無事ならば、最悪どうにかなる。
 それでも、こんな悪辣な能力と狡猾さを持ったヒグマを取り逃がせば、また何度、私や球磨たちが奇襲されるかわからない。


 もう、誰にも頼らないと、決めた。
 共に戦う友などいらないと。
 だが、私の能力が『穴だらけ』なのは、ジャンにもこのヒグマにも散々教えてもらった。

 『穴持たず』というのでしょう、あなたたちは。
 それは正解の道を求める私にはとても羨ましい響きを持つ言葉だけれど。
 『穴を開けられたときに埋める』方法は、知らないのではなくて?

 私には繰り返したループの中で、風穴を開けられた何人もの少女たちがいる。
 私には今進むこの時間の中で、胸を抉ってくれた何人もの協力者がいる。
 素性を明かさぬ私を、ありのままに受け入れてくれた者。
 距離を置いていた私を、一足飛びにあだ名で呼んでくれた者。
 高飛車に接した私を、真っ向から討ち果たしにきてくれた者。
 とうに忘れ去っていた、穴を埋める方法。
 それを思い出させてくれた、イレギュラーたちが私には、いる。

 イレギュラーたちが、私が穴だらけにしていたこの道を、舗装してくれる。
 一人で巡り巡っていたこのボロボロの迷宮を崩して、光を差し入れてくれる。
 道が見える。
 私は道になれる。
 目を閉じて歩いても、彼らが隣で、後ろで、前で、道々の穴を塞いでくれる。
 彼らとなら、私は安心して道を作っていける――。

 とくと見てみなさい、ヒグマ。
 烏合の衆ではない。
 友達の寄合でもない。
 確固たる道を邁進する、これが私の、『軍』よ!


「ジャン! 私が止めている間にこいつを切り刻みなさい! 絶対に逃がさないように!
 球磨! 全砲門発射用意! ジャンの援護と、ヒグマの進路を閉塞して!
 凛! 後はあなたにかかってるの! 盾と紫のソウルジェムよ! お願い、見つけて!!」


 ヒグマにその半身を捕食されながら、指揮官はその部下たちに燃えるような檄を飛ばしていた。
 口元から、プゥッと血の霧が舞う。
 恐懼におののくだけだった3人の部下は、その氷のように的確な指令に、我を取り戻した。

 ――自身がまさに死に瀕している最悪の状況下でも、その怜悧さを失わぬ指揮官。

 ジャン・キルシュタインには、調査兵団における伝説の『兵長』の姿が。
 球磨には、自身の艦長がいつも話してくれた『軍神』の姿が。
 星空凛には、どんなに苦しいライブにも皆を率いて突き進む『先輩』の姿が。

「おおっ!!」
「クマぁ!!」
「うんっ!!」

 その姿が、確かな道の先に、見えた。
 脳裏に浮かぶ絶対のビジョンが、本当に魔法でも使ったかのように、部下たちを震わせる恐怖を鎮めていた。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 球磨が太平洋戦争の折、最後に乗せた艦長は、杉野修一という人物だ。
 彼は終戦時にあの戦艦『長門』を守り抜き、最終的に大佐にまで昇進した。

 彼が自身の父について語るとき、決まって話に上ったのが、その『軍神』。
 広瀬武夫である。
 『軍神』は、杉野が敢えて語らずとも、球磨がその伝説を知っているほどに名の知れ渡った人物だった。

 杉野修一の父は、杉野孫七といい、日露戦争において広瀬武夫の部下として旅順港閉塞作戦に従事した。
 その際、乗船していた福井丸を投錨自爆させる役目を、杉野孫七が担っていた。
 しかし、福井丸はまさにその点火の瞬間、敵の水雷に被弾し瞬時に轟沈した。

 広瀬は、乗組員全員をただちに端舟に移して脱出させた。
 その中で唯一、船倉へ爆薬の点火に向かった杉野孫七のみが、いなかった。

 広瀬は、彼を探した。
 浸水し沈没してゆく船の中を、三度。
 旅順港を囲む山々から大小の砲弾が辺りに炸裂し、探照灯が海面を掃く、この世のものとも思えないような光景のさなかをである。
 杉野の名を懸命に叫び、全員を以て生還させるべく、広瀬武夫はその声を発し続けた。
 このエピソードをもって、彼は『軍神』としてその名を歌に遺す。


 ――ほむらの姿は、まさにこの『軍神』クマ。


 大和魂というのすら生温い。
 仲間と部下の全てを率いて連れ行く、強い意志。
 そして、この人物についていけば大丈夫だと感じる、とてつもない安心感。
 希望。
 運命も何もかもを牽引する、力強い希望の化身である。

 大道廃れて仁義あり。
 道の道とすべきは常の道にあらず。

 自然の摂理と運命から逸脱しようとも、それを捻じ曲げて道を敷く力。
 すさまじいカリスマ性であった。


 ――今までのほむらとは、桁違いクマ――!!


 明らかにほむらの変化は、ジャン・キルシュタインとの勝負の前後に起きている。
 あれだけ秘匿しようとしていた自身の魔法を、自分たちに教えた。
 自身の肉体の破損よりも、自分たちとの話を優先した。
 凛ちゃんやジャンくんに対して、言葉の端々に、欠落していたはずの思いやりが明らかに付加されていた。
 家族愛にも似た、友情の結束。
 友達というのとも、戦友というのとも違う。


 彼女との結束には、『愛』が宿っていた。


 球磨のエンジンの奥底から、ぞくぞくと熱い感情が立ち上ってくる。
 興奮に口元が笑う。


 ――やってやるクマ。
 絶対に、ほむらを助けるクマ。
 ほむらの思いを、必ず叶えて見せるクマ。
 秘書艦として、球磨はほむらに、粉骨砕身するクマ!!


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 穴持たず12は、口に咥えた餌が発した音声で、周囲に点在する3匹の人間の体臭が、明らかに変化したのを捉えていた。
 怯えしか無かったその体が、一瞬にして戦闘状態に。
 その異常性は、ヒグマの本能をして明確に逃走を促させるほどの危機感を抱かせた。


 ――早急にこの餌を噛み殺す。
 同時に全速で撤退し、深夜に砲撃を行なってきたあのアイヌ(人間)を狙う機会をもう一度伺う。


 瞬時に四足歩行となって、穴持たず12は風のような速さで森の木々に走ろうとする。
 しかしその動作に移ろうとした瞬間、彼は左前脚に灼けるような痛みを受けて停止していた。


「させるかヒグマ野郎ッ!! アケミは連れ去らせねぇッ!!」


 地面に転倒していたジャン・キルシュタインが、そのままの体勢からブラスターガンを発射していた。
 その小爆発は、ヒグマ型巨人と同様に明確なダメージにはならなかったものの、その毛皮を確かに焦がすには足りるものだった。
 ほむらが銃剣を突き立てる、ヒグマの左目側。
 かつ、意図せず低姿勢で死角に潜った最善の位置取りを、ジャンは最大限に利用していた。

「クマ! ブラスター! 頼む!」
「ようそろっ! ジャンくん頼んだクマ!!」

 隣の球磨にブラスターガンを投げ渡すと同時に、ジャンの体が跳ねた。
 腹筋で跳ね起きると共に、前方の木立に投射したアンカーのワイヤーを高速で引き戻す。
 穴持たず12の死角である左側を掠めるように、高速旋回するジャンの双剣が走っていた。
 濃い色の毛が空に撥ね飛ぶ。
 しかし、そのブレードが厚い皮の下に届くことはなかった。


 ――鎧の巨人のような硬質さとは多分違うが……、なんて『ねばり』だ、ヒグマの皮膚ッ!!


 木の幹に掴まって驚くジャンに、下から暁美ほむらの声がかかる。

「繊維の方向を見なさい!! 動物である以上、必ず皮にも刺入の容易な点があるはずよ!
 球磨、酸素魚雷は無駄撃ちせず! 単装砲とブラスターガンで、機動力から削いで!
 凛、ソウルジェムの座標は、地表より高い位置! 木にかかってるのかも知れないわ!!」
「クソッ……やってみるッ!!」
「了解クマ!!」
「ごめんね、ほむほむ!! 絶対見つけるから!!」

 ヒグマに右前脚で口へ押し込められながらも、ほむらは全身に紫色の魔力を纏ってその圧力に耐えている。
 脳髄まで抉らんとばかりに眼球に刺した銃剣をこじりながら、発せられるだけの指示を各人に振り絞っていた。
 しかし、どれだけ抵抗しても、一椎体ずつ、寸刻みにほむらの体はヒグマの牙に砕かれていく。


 100メートル以上逃走されても駄目だ。
 ただでさえソウルジェムとの距離が遠く魔力の伝達が悪いというのに。
 たったそれだけ離されるだけで、その瞬間に身体機能は全て停止する。
 指示も出せず、逃走に集中され、私たちはこのヒグマから完全に振り切られてしまうだろう。


 そのほむらの思考に呼応するように、球磨が森の地面を高速で滑り込んでいた。
 タービンを吹かし、全速力でヒグマの進路上に回り込む。
 竣工時の長門すら上回る9万馬力の高出力が、彼女のしなやかな脚を大地に走らせる。
 太平洋戦争の時と同じフル装備、7門の14cm単装砲に加え、両手でしっかりとブラスターガンをヒグマに向けながら、歴戦の巡洋艦が駆動する。


「取り舵一杯、目標9時、全門撃ち方始めクマぁ!!」


 振り向きざまに狙った一斉打方の砲弾が、旧日本海軍の世界最高水準の初弾命中率を以てヒグマの四肢を襲う。
 口元のほむらを完全に避けながらも、砲撃としてはほぼ接射に近い超至近弾がヒグマを叩く。
 左前脚の骨が粉砕され、右半身の肉が肩口から抉れる。
 たじろいだ穴持たず12は逃走経路を変更し、球磨を躱すように森の木々に飛び移り始めた。
 仰角30度を超すと、球磨の単装砲は狙いをつけることができない。

「ジャンくん、撃墜願うクマぁ!!」
「おおっ!!」

 次弾装填しつつ見上げる球磨の上を、ジャン・キルシュタインのワイヤーが伸びた。
 木々の梢を渡って逃走を図るヒグマに、樹冠の上から剣を振りかぶる。


 ――オレとの勝負に、律儀にハンデを抱えたまま最後まで付き合ったから、アケミは喰われてるんだ。
 どう転んでもオレの負けだったのに。オレの力を、今でだってフルに引き出そうとしてくれている。
 ここでアケミを救えなけりゃ、さっきの勝負や今までの訓練で勝ち得たことが、全て無意味になっちまう。
 削ぐ。
 削ぎ殺す。
 アケミに認めて貰い、訓練兵団でも上位に食い込んだこのオレが、ヒグマごとき駆逐できなくてどうする!!


「おおらぁああああっ!!」


 ヒグマのうなじの毛並み。
 繊維の走行を見極め、その隙間から抉りこむように剣先を喰い込ませる。
 上空に背部を晒す穴持たず12に、高速落下するジャンの全体重が超硬質ブレードの白刃で襲い掛かる。
 フィレナイフのような撓りを呈しながら、ジャンの双剣はヒグマの毛皮を縦割していた。


 肩甲骨から脊椎を撫で下ろすように筋繊維が分断され、椿の花弁の如く背の肉が彫り出される。


「グオォオオオオ!?」
「やった――! ごほぉ!?」
「ジャンくん!?」

 しかし落下しざま、穴持たず12はその背のジャンを、回転しながら木の幹に叩き付けていた。
 バキバキと、ジャンは自身の肋骨の折れる音を聞きながら地に落ちる。
 肺から空気が絞り出され、痛みと衝撃で身じろぎもできなかった。

 一方のヒグマは墜落から着地すると共に、開いてしまった口で、更に深く、口元の餌を噛み込んでいた。


「がッ……ぶッ……!?」
「ほむらっ!」


 球磨は、立て続けに起きた仲間の甚大な損傷に息を飲む。
 ほむらの口と鼻から、大量の血が噴き出していた。
 胃が食い破られたのだ。

 もう、横隔膜や肺、心臓まで喰いつかれるのにいくばくの猶予もない。
 循環血液も明らかに足りない。
 右腕に力が入らない。
 全身に回すにはもう魔力も限界だ。いったいどれだけソウルジェムは濁っていることか。
 痛覚遮断も解けてきている。
 魔法少女になって以来忘れていた、泣けてくるような痛みだ。
 ジャン・キルシュタインと単装砲でヒグマに致命傷を与えられないなら、覚悟を決めるしかない。
 球磨と、私でできる、最大限の攻撃。
 言葉を発せられるのも、何か行動できるのも、これがきっと、最後のチャンス――。


「球磨……、今から私がする、攻撃のあと、私ごとヒグマを、雷撃処分なさい。
 それで殺せるくらいには、弱らせられる、はずだから……」


 目に涙を湛えながら、口に血の泡を吐き、ほむらは球磨を見やっていた。
 その全身を覆っていた紫の光は、明らかに減弱し、消えかかっている。
 ヒグマは、多少ダメージにふらつきながらも、未だ逃走を続けようと立ち上がっていた。
 島の奥側に立ちはだかる球磨と、真正面から対峙している。


「できないクマ……、そんなの、駄目だクマ……」


 それでも穏やかな、ほむらの眼差しを受けて、球磨は大粒の涙を零しながら、首を振っていた。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 『軍神』広瀬武夫のエピソードには、勿論続きがある。
 船内を三度、本当に足元が水に浸かるほどまで捜索を続けても、杉野孫七は発見できなかったのだ。
 機関士が、たまりかねて広瀬をボートに促した。
 広瀬はやむなく杉野をあきらめ、船の後部を爆破し、全員で端舟に移っていた。

 砲弾から小銃弾までが周囲に落下し、海は煮えるようであったそうだ。
 あとはボートを漕ぎ続けるのみ。
 しかし、その死地において、隊員は否応にも恐怖で体がかたくなる。

 広瀬はボートの右舷最後部にすわって、泰然とした笑みを湛え、みなを励まし続けた。


「みな、おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ」


 旅順港を舐める探照灯が、このボートをとらえつづける。
 そして空中を、巨砲の砲弾が、轟音と共に飛び抜けていた。
 もう少しで離脱できる、その間際。
 広瀬武夫の肉体は消えていた。
 一片の肉片だけをこの世に残り散らせて、彼はその砲弾に吹き飛ばされていたのだ。

 最期まで、仲間のことを思い続けて。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 ――ほむら、やめるクマ。
 ――そんな、球磨みたいな真似を、しないでクマ!!


 全砲門をヒグマに向けたまま、球磨は泣いていた。


 1944年1月11日。
 前世で、球磨が轟沈した命日である。

 彼女は杉野修一艦長を乗せ、対潜戦演習のため、駆逐艦浦波とともにペナン沖にいた。
 そこを、英海軍ツタンカーメン級潜水艦タリー・ホーに発見された。
 タリー・ホーの発射した7発の魚雷のうち5発は回避したものの、右舷後部に2発の被弾を許し、球磨は炎上した。


 浦波とともに、逃げられるだけ逃げた。
 しかし、積んでいた魚雷に誘爆し、球磨はいよいよ沈んでいく。
 杉野は優秀な艦長だった。
 最後まで球磨を助けようとした。

 だが、球磨は、彼を浦波に託した。


 ――優秀だからこそ、球磨の道連れにするわけにはいかなかったクマ。


 ミッドウェイ海戦で空母『蒼龍』と命を共にした柳本柳作艦長。
 あるいは空母『飛龍』の艦橋で、共に沈んでいった加来止男艦長。
 優秀な艦長がその艦と命運を共にすることが、美談として語り継がれるような風潮だった。


 冗談ではない。と、球磨は思う。
 お国のために死んで、魂が靖国の社に行ったところで、どうなる。
 そんな素晴らしい魂ならば、生きられるだけ生きて、皆を助けなければならないはずなのに。
 そしてできるならば魂はずっと、仲間の傍に寄り添っていて欲しいのに――。


 今わの際の球磨の判断が、終戦を迎える時に、戦艦『長門』を生きながらえさせた。


 暁美ほむらの姿は、『軍神』だけでなく、その時の自分の姿に、そっくり重なっていた。
 自分の身を捨て去っても、後世により多くの希望を繋げようとするその姿。
 わかっているのに。
 それが最善の判断だとわかっているはずなのに。
 自分ではなく、仲間がそんな辛い判断をしなければならないのが、見ていられない。
 ほむらを、自分と同じ決断に追い込んでしまった無力さが、許せなかった。


 ほむらは、光の落ちた瞳で笑っていた。
 もう球磨の顔など見えていないだろうに、何もかも解っているような微笑みで。


「……球磨。もう私の体は、残したところで、役に立たないわ。意味がない。あなたたちに、託す」
「なんで、そうやって自分を犠牲にするクマ!!
 役に立たないとか、意味がないとか、勝手に自分を粗末にするなクマぁ!!
 やっと、やっと、こんな場所で提督と僚艦ができたところなのに! ほむらを大切に思う人のことも、考えてクマぁ!!」
「……そう言ってもらえるだけ、私は幸せよ」


 ――私自身が、まどかに言いそうなセリフね。


 ほむらは笑いながら、銃剣から手を離した。
 脱力する右腕から、デイパックが落ちてゆく。
 その中に差し入れた手に、過たず掴むものがある。

 暁美ほむらに支給された武器。

 小銃も手榴弾も、確かに自分の使ってきた武器だ。
 しかし、それが『得意武器』かと言われると、微妙なところである。
 自分の支給品は、あと一つだけあった。
 自分が得意武器だと言えるものは、きっと、これだ。
 でもそれは、武器と言うにはあまりに小恥ずかしく、使い道も思いつかなかったから、盾には仕舞わなかった。


 デイパックから、長い柄が滑り出る。
 魔力の切れかけた、貧弱な、少女の力でも、この武器は応えてくれる。
 私がこの迷宮に入る前、まどかが私と一緒に、初めて選んでくれた武器。
 私の持つ武器の中で、唯一、他人からの希望を託された武器だ。
 中古のリサイクルショップで、巴マミと3人で見繕った、思い出の詰まった武器だ――!


 ゴルフクラブ。
 ブリヂストン・オールターゲット11の1番ウッド。ドライバーだ。
 手元のしなりが感じやすく、シャフトの剛性が高く安定している。
 重量が軽いのに、重心位置やフェースの弾きが作りこまれていて非常に打ちやすい。
 心臓病から回復したての私でも、容易にヘッドスピードを出せた。


 薄まってしまった紫の光を、全てこのドライバーに集束させる。
 ヒグマが、抵抗力の抜けた私を口の中へ放り込む。
 その速度さえ加えて、私は残る全力を振り絞って、ある一点をめがけてドライバーをスイングしていた。


「……また会える時まで、指揮を、頼んだわ」


 球磨に向けて、最期の息を吐いた。

 自分の体を、捨てる。
 私はただ、魂に帰るだけ。
 私が皆に渡した希望の分だけ、私の前にどんどん道ができていくのがわかる。
 私の希望が練り上げた工程表に沿って、皆が道の穴を埋めて整備していってくれる。
 見上げた空は、晴れ渡っていて。
 そこから真っ直ぐに、私の元に道が今、ここへ。
 東に昇る暖かな光は、なんだかまどかのように、私を笑顔で包んでくれるように思えた。 


 ドライバーがインパクトした瞬間と、私の大脳が牙に砕かれた瞬間とは、全く同時だった。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 暁美ほむらのドライバーが打ち抜いたのは、89式多用途銃剣の柄頭であった。
 ヒグマの左目に刺さるこの銃剣は、利便性を高めるために、刃渡りと全体長が以前のモデルに比べて短縮されている。
 ほむらがいくら奥まで刺し抜いても、ヒグマの眼窩を割って脳に突き入れることはできなかった。

 しかし今、ほむらはその柄から手を離し、その銃剣全体を穴持たず12の体内に打ち込んでいた。
 27cm。
 眼球の表面から内側へ向けて斜めに、その絶対的な長さが刺入される。
 一般的なヒグマの頭骨は、口端から計っても、その全長は30cm程度しかないのだ。

 篩骨、蝶形骨をぶち抜いて、眼窩が頭蓋内に吹き抜けた。
 頭蓋底に陥入する刃先が動脈輪を貫き、脳神経群を縦横に引き千切り、小脳に突き刺さって止まる。


 穴持たず12が暁美ほむらの体を食いちぎると同時に、その鼻からは勢い良く血が噴き出していた。
 ヒグマの口元から覗く、ほむらの白い右腕から、力なくゴルフクラブが滑り落ちた。


 ――倒れろ倒れろ倒れろ倒れろ――!!


 球磨は、動きを止めているヒグマに向けて、震えながら念じた。

 まだ、ほむらはヒグマの口の中で生きているかも知れない。
 まだ、彼女の体を、助けだせるかも知れない。
 ほむらの一撃で、沈め。
 倒れろ。
 頼むから、轟沈してくれ。
 球磨に、雷撃処分をさせないでクマ。
 自分の身ならいざしらず、球磨は仲間を、魚雷で撃ち殺したくなんてないクマ――!!


 ヒグマは、暫くの間停止していた。
 流れ落ちる鼻血が、口からはみ出るほむらの黒髪を伝って、地に落ちた。
 一歩、ヒグマが踏み出す。
 ごりん、と、ヒグマはほむらを咀嚼した。
 二歩で、ヒグマがほむらのデイパックを踏みつぶした。
 そのまま、穴持たず12は口端で揺れていたほむらの腕を飲み込む。

 ふらつきながらも、彼は四足になり、逃走を再開していた。


「ほむらああああぁあああ!!」


 泣き叫ぶ球磨の声を割るように、穴持たず12は彼女の上を飛び越していた。
 空中でバランスを崩し、肩から落ちたものの、彼は未だ、死には至っていなかった。
 千鳥足のような覚束ない足取りながらも、彼は走っていく。


「ア、アケミッ……!!」


 ジャンが苦痛に耐え起こした眼の先で、放心状態の球磨が見送っていくその先で、穴持たず12の姿は遠くなっていった。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 ひたすら走った。
 ほむほむの鋭い声を聞いて、もう一度森の陰に。

 ――なんで凛は、あの時探すのをあきらめてしまったのにゃ!!

 自分で自分を、叱った。
 もっと早く自分が左腕を見つけていれば、ほむほむはきっとヒグマに食べられなかった。
 そして、今度こそ自分が探し出せなかった場合、ほむほむは死んでしまう。

「凛、ソウルジェムの座標は、地表より高い位置! 木にかかってるのかも知れないわ!!」
「ごめんね、ほむほむ!! 絶対見つけるから!!」

 凛の背中に、それでもほむほむはしっかりと声をかけてくれる。
 叫び返した時に、ほむほむの方は、振り向けなかった。

 ほむほむは、凛に、『役割』を与えてくれたのに。
 『自分のできることは早く見つけておきなさい』とまで言ってくれていたのに。
 凛は、それに応えられなかった。
 『これでいいだろう』と、妥協してしまった。


「全門撃ち方始めクマぁ!!」


 ここが殺し合いの場だとか。
 ヒグマがいるからとか、関係ない。
 中学の陸上部のときから。
 凛は、いつもそうだったにゃ。
 なんでも、できることが中途半端だから。
 真面目に最後までやって、負けるのが嫌だから。
 本気で勝負することから、常に、逃げていたにゃ――。


「おおらぁああああっ!!」


 言われた地点にたどり着いて、辺りを見回す。
 遠くで、ジャンさんやクマっちが叫んでいるのが聞こえる。
 ――あった。

 地面ばかり探していて気がつかなかった木の上。
 枝葉の中に、ほむほむの微かな紫の光が見える。
 ――高いにゃ。

 4~5mはあるだろうか。
 そんなところの小枝に、ほむほむの左腕は引っかかっていた。

 木に登る。
 急がなきゃ。
 ほむほむは今だって、ヒグマに食べられている。
 ジャンさんやクマっち、ほむほむみたいに、凛は特別なことなんてできはしない。
 でも、μ’sのみんなだって、普通の高校生から、アイドルを目指していったんじゃないか。

 大丈夫。
 凛は、運動神経だけはあるんだから。
 ジャンさんだって、良い体だって言ってくれたじゃないか。
 このまま登るにゃ。
 早く、でも正確に、自分の体を持ち上げるにゃ。
 本気を。
 本気を出せば、すぐに届くはずにゃ!

 こんなところで諦めてちゃ、はなよちゃんやみんなに顔向けできない。
 勝負から逃げなかったジャンさんに。
 その勝負をしっかり見るよう言ってくれたクマっちに。
 なにより、こんな凛に命を預けてくれたほむほむに、申し訳も立たないにゃ!!

「……誰よりがんばっちゃえ、とにかく、情熱のままに……!!」

 凛に、力を下さい。
 いつもみんなで歌っていたこの歌で。


 ――目指すのは綺麗な風、吹く道。


 幹から太い枝へ。
 梢の先へ。
 ほむほむの腕を掴むように、手を伸ばす。
 枝が体重でたわむ。
 これ以上、進むのは無理だ。枝が折れてしまう。
 あと少しで届くのに――!


「羽のように、腕上げて……。
 まぶしい未来へ、と――飛ぶよぉ!!」


 跳ねた。
 全身の力を振り絞って、その紫の光の元へ。
 しっかりとその腕をとって、抱え込む。
 凛がどうなっても、絶対にほむほむは守る――。

 落ちながら、梢の先が肌を切っていく。
 見開く目に、急速に地面が近づく。
 足から着地して体勢を崩し、凛は背中から草の上を転がっていた。

「で、できたにゃ……」

 体のあちこちに擦り傷ができてる。
 脚もじんじんと痺れて、痛い。
 でも確かに、ほむほむの腕は、この胸に――。


「ほむらああああぁあああ!!」


 クマっちの、悲痛な叫びが、聞こえた。
 そして、起きあがった凛の目にも、見えてしまった。
 ほむほむを飲み込んだヒグマが、森の奥にふらふらと消えていくのが。

「う、そ……」

 胸に抱えたほむほむの腕。
 そこに宿っていた光は、消えていた。
 菱形をした紫の宝石は、もうほとんど真っ黒に。
 どす黒い墨汁のような濁りに染まってしまっていた。

「そんな……」

 間に合わなかった。
 凛のせいで。
 ほむほむは、食べられてしまった――。

 ぼろぼろと、眼から涙が零れ落ちていた。
 泣いてほむほむが帰ってくるなら、いくらでも泣くのに。
 もう、ほむほむは、いない。
 こんな冷たくなってしまった腕だけを残して――。


 眼を閉じて、現実を遮断した瞼の裏で、ほむほむの黒髪が、手の届かない遠くに靡いていた。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


『何を泣いているの、星空凛。
 あなたは立派に、私が願った役割を果たしてくれた。感謝するわ』

 ふと、脳裏に浮かんだほむほむの後ろ姿が、話しかけてきていた。
 瞼の裏の遙か遠くで、ほむほむが振り向く。
 彼女は、蓮の花みたいな可憐さで、笑っていた。


 ――なんで。ほむほむは、凛のせいで、食べられちゃったのに……。

『いいえ。私は、あなたの隣にいる。
 あなたが私に、本気で、真っ直ぐに向かってきてくれたお陰で、私は最後の魔法を、託せた』

 瞼の裏で、ほむほむが左手を差し出す。

『さあ、星空凛。もう一度私たちが会うときまでしっかりと、このタイムラインを歩んでいって。
 きっと勝ち鬨が聞こえる。その瞬間を、見させて――』

 すぐ近くに、ほむほむを感じて。
 眼を開けた。


 ――カリカリカリカリカリ……。


 一滴の雨粒ほどの宇宙。
 私の零した涙が、空中に止まっていた。
 その涙の中に、紫の光が映り込んでいる。

 ほむほむの腕が、凛の手を握っていた。
 その盾の中が開き、紫の砂を湛えた砂時計に、歯車が回っている。


 ――隣にキミがいて……(嬉しい景色)。
 ――隣はキミなんだ。


 星空凛は、暁美ほむらがこの世界に、無限に広がっているのを見た。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


「ジャ、ン、さ、ぁ、あ、あ、あ、あ、ん!!」


 森の木立を、凛の声が裂いていた。
 ジャンが、球磨が、その声に我を取り戻す。
 星空凛が、紫の光を纏って、瞬間移動を繰り返しながら高速で接近していた。

 ――アケミの時間停止。

 ジャンの腕が掴まれる。
 目の前には、燃え上がるような光を放つ、凛の瞳があった。

「ジャンさん、立体機動装置で、クマっちと一緒に飛ぶにゃ!!
 ほむほむが託してくれた思い、みんなで実現させるにゃ!!」
「リン……!」
「凛ちゃん……」

 あばらを押さえるジャンを右手で引っ張りながら、凛は膝崩れする球磨の元に歩み寄る。
 凛の左手を、暁美ほむらの白い左腕がそっと握っていた。
 球磨の左手に、凛はジャンの右腕を掴ませる。


 円の形をした盾が、高貴な色の威光を伴って、開いていた。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 その時既に、穴持たず12の冑(よろい)たる体は、限界寸前であった。


 ――なぜだ。なぜ、キムンカムイ(山の神)たる私が、アイヌ(人間)如きに、ここまで……。

 左前脚を砕かれ、右半身を抉られ、背の肉を削がれた。
 視神経交叉を半切され、眼球から動脈輪を貫かれ、小脳を刺された。
 もはや、視界は暗黒に閉ざされている。
 ただその真っ暗な、死へと続くのみの道を、私はふらふらと逃走していた。

 その暗い、耳と耳の間の世界に、黒髪のメノコ(少女)が座っていた。
 先ほど自分が食い殺した餌であったはずだ。
 彼女の着ていたハヤクペ(冑=肉体)は、確かに私が砕いたはずなのに――。
 彼女は、魂だけでにっこりと笑っていた。
 私の耳と耳の間に突き込まれたマキリ(小刀)から、彼女は私に語り掛ける。


『どうだったかしら。まだまだ人数は少ないけれど、これが今の私の軍隊。
 立ちはだかるイレギュラーが何者であろうと、私たちは乗り越えて、道を進ませてもらうわ』


 その微笑みに、私は気づいた。


 ――ああ。私が戦っていたのは、『戦神』であったか。
 ――『アイヌラックル(人と変わらぬ神)』の化身に、私は無謀にも挑んでしまったのだ。


 アイヌラックルは、地上と人間の平和を守る神だ。
 かつて彼は、巨大な鹿が人間たちを襲い、さらには、夜中に魔女らしき者が現れるという噂を聞きつけていた。
 神々の助言により、アイヌラックルはこの一連の噂こそ、魔神たちが勢力を増す兆しだと知り、地上の平和を守る神として、魔神たちに戦いを挑む決心をした。
 アイヌラックルは大鹿と魔女の退治に出発し、途中、小川のほとりで美しい姫に出逢った。
 彼の妻となるべき、『レタッ・チリ(白鳥)姫』であった。
 アイヌラックルは姫に一礼し、道を急いだ。

 そして遂に大鹿が現れ、早速アイヌラックルに襲い掛かった。
 子供の頃によく鹿と相撲をとっていた彼も、通常の鹿の2倍はあろうかという巨体の前には、さすがに苦戦を強いられた。
 激しい死闘の末、遂にアイヌラックルは大鹿を倒した。

 アイヌラックルは、この鹿は到底野生の者ではなく、もうすぐ成人する自分の力を試すため、天上の神々が使わした者に違いないと悟った。
 アイヌラックルは大鹿を手厚く葬り、地上の神である自分は相手が何者であろうと戦わなければならないことを告げた。

 そしてアイヌラックルが真新しい矢を天上目掛けて射ると、大鹿の魂はその矢に乗り、天上へと帰って行ったという。


 ――それならば、私はカムイの一柱として、あなたの道に光あらんことを祈ろう。
 ――魔女と魔神を討ち果たし、愛する姫と結ばれるよう、あなたをカントモシリ(天上の国)から応援しよう。
 ――願わくは、ユーカラ(伝説)と同じく、私が天上に帰れるよう、手厚い葬送を――。

『ええ。四連装酸素魚雷で良ければ。今、私の仲間たちが、あなたの上に、撃ってくれたところよ』

 私の耳と耳の間に座るアイヌラックルの少女は、その腕の盾を閉じた。
 紫色の砂時計が、再び時を刻み始める。

 ――あなたのようなカムイと手合せできたことに、感謝する……。

『私も、感謝するわ。穴持たずのヒグマ』


 私の上で二人の伴を連れ矢を番える人間は、アイヌラックルを優しく、時に厳しく養育した『イレシュ・サポ(育ての姉)姫』であったようだ。
 ユーカラ通り、火を司る彼女までいるのであれば問題ないだろう。
 カントモシリに帰ったら、すぐさま彼女たちを全力で支援だ。
 アイヌラックルの少女が、白鳥姫と結ばれるのが今から楽しみである。


 そして、育ての姉姫が真新しい雷撃を私目掛けて射てくれたので、私の魂はその爆発に乗り、天上へと帰って行った。


    ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒


 落ちていた打球棒を、そっと拾い上げた。
 今ではゴルフクラブと言うんだったっけ。
 敵性スポーツの孔球にご執心だったとは、ほむらも内向的に見えて大胆な奴クマ。


 球磨の後ろで、凛ちゃんとジャンくんが、声を潜めて泣いている。
 凛ちゃんは、血の気の失せたほむらの腕を抱えて。
 ジャンくんは凛ちゃんの背をさすってあげながら、ほむらのあげた立体起動装置を見つめて、鼻をすすってるクマ。
 やっぱり若い者は涙もろすぎていかんクマ。
 年とっても、涙腺が緩んできていかんクマ。


 ほむら、これで良かったクマね。
 命令通りヒグマはほむらごと、きちんと欠片も残さず雷撃処分したクマ。

 ……ただほむらを救うためだけに、球磨は今ほむらを殺し、ほむらを見捨ててしまったクマ。
 だから球磨は、ほむらがまたこの世に建造されてくるまで、提督不在中のこの艦隊を、旗艦としてしっかり引っ張るクマよ。
 球磨が教えるまでもなく、命令系統を最後に動かす絶対の信頼を学び取るなんて、ほむらは油断のならない子だクマ。
 本当、球磨のこんな性格まで計算に入れて命令してたんなら、やっぱり最初に思った通り、ほむらには完全に気を許せないクマ。

 そんな危険なほむらのゴルフクラブは、帰ってくるまで球磨がもらっちゃうクマ。もう離さないクマ。
 ふっふっふ~、悔しいクマ? 形見になんてさせないクマよー。
 再着任したら、ほむらには経年劣化した球磨の涙腺もメンテナンスさせてやるクマ。
 球磨に艦隊ごと預けっぱなしで帰ってこないとか、絶対許さないクマ。クマクマッ!


「……ほむら、お疲れだクマ。偶にはゆっくり休むといいクマ」


 ……だから、しっかり目を閉じて立ち止まって。
 帰ってこれるようになるまでは、ゆっくり英気を養うといいクマ。
 二宮金次郎みたいに積みっぱなしの荷物も、その間にきっと降ろせるクマー……。


 ――ありがとう。そうさせてもらうわ。


 すぐ近くに、ほむらの声が舞ったような気がして。
 球磨は晴れ晴れとした空に、ほむらと一緒に広がった、唯一無辺を思い出した。


【F-8 森林/朝】


【穴持たず12 天上から『ほむまど』支援を予約しつつ死亡】


【ジャン・キルシュタイン@進撃の巨人】
状態:右第5,6肋骨骨折
装備:ブラスターガン@スターウォーズ(94/100)、ほむらの立体機動装置(替え刃:3/4,4/4)
道具:基本支給品、ランダム支給品×2
基本思考:生きる
0:あぁ……クソが……最悪だチクショウ……アケミがいなくなるなんて……。
1:アケミを復活させられるよう、クマやリンと協力して生き抜く。
2:ヒグマ、絶対に駆逐してやる。今度は削ぎ殺す。アケミみたいに脳を抉ってでも。
3:アケミが戻ってくるまで、オレがしっかり状況を見て作戦を立ててやる。
4:リンもクマも、すごい奴らだよ。こいつらとなら、やれる。
[備考]
※ほむらの魔法を見て、殺し合いに乗るのは馬鹿の所業だろうと思いました。
※凛のことを男だと勘違いしています。
※残りのランダム支給品は、『進撃の巨人』内には存在しない物品です。


【星空凛@ラブライブ!】
状態:全身に擦り傷、発情?
装備:ほむらの左腕@魔法少女まどか☆マギカ
道具:基本支給品、ランダム支給品×1~3
基本思考:この試練から、高く飛び立つ
0:ほむほむのソウルジェムは、本気で、守り抜くから……!
1:自分がこの試練においてできることを見つける。
2:ほむほむやはなよちゃんに認めてもらえるような本気で、ヒグマへの試練にも立ち向かうにゃ!
3:ジャンさんに、凛が女の子なんだって認めてもらえるよう頑張るにゃ!
4:クマっちが言ってくれた伝令なら……、凛にもできるかにゃ?
[備考]
※ほむらより、魔法の発動権を半分委譲されています。
※盾の中の武器を取り出したり、魔力自体の操作もある程度可能でしょう。


【球磨@艦隊これくしょん】
状態:健康
装備:14cm単装砲、61cm四連装酸素魚雷、13号対空電探(備品)、双眼鏡(備品)
道具:基本支給品、ほむらのゴルフクラブ@魔法少女まどか☆マギカ
基本思考:ほむらを甦らせて、一緒に会場から脱出する
0:ほむらの願いを、絶対に叶えてあげるクマ。
1:ほむらが託してくれた『軍』を、きっちり導いて行くクマ。
2:ジャンくんも凛ちゃんも、本当に優秀な僚艦クマ……。
3:これ以上仲間に、球磨やほむらのような辛い決断をさせはしないクマ。
4:もう二度と、接近するヒグマを見落とすなんて油断はしないクマ。


【暁美ほむら@魔法少女まどか☆マギカ】
状態:左下腕のみ
装備:ソウルジェム(濁り:極大)
道具:89式5.56mm小銃(30/30、バイポッド付き)、MkII手榴弾×10
基本思考:他者を利用して速やかに会場からの脱出
0:本当に、あなたたちと出会えたことを、感謝するわ。
1:まどか……今度こそあなたを
2:脱出に向けて、統制の取れた軍隊を編成する。
3:もう身体再生に回せる魔力はない。回復できるまで、球磨たちに、託す。
4:私とあなたたちが作り上げた道よ。私が目を閉じても、歩きぬけると、信じているわ。
[備考]
※ほぼ、時間遡行を行なった直後の日時からの参戦です。
※まだ砂時計の砂が落ちきる日時ではないため、時間遡行魔法は使用できません。
※左腕と武器の盾しか残っていないため、ほとんど身動きができません。腕だけで何か行動したりテレパシーを送るにも魔力を消費します。
※時間停止にして連続30秒、分割して10秒×5回程度の魔力しか残っておらず、使い切ると魔女化します。


No.111:金の指輪 本編SS目次・投下順 No.113:文字禍
No.100:死のない男 本編SS目次・時系列順 No.092:ラディカル・グッド・スピード
No.090:論理空軍 球磨 No.119:Hidden protocol
暁美ほむら
ジャン・キルシュタイン
星空凛
No.032:山の神の怒り 穴持たず12(ステルス) 死亡

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最終更新:2015年12月13日 16:50