文字禍 ◆wgC73NFT9I
遠くの方に海が見える。
朝日を照り返して煌めくような海。
言葉にできないような美しさの、海。
それでも。
『海』という文字でしか海を知らなかったあいつと一緒に見た海は。
もっと、息をするのさえ忘れるくらい、美しかった。
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「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰イアラスコト、猶、蛆虫ガ胡桃ノ固キ殻ヲ穿チテ、中ノ実ヲ巧ニ喰イツクスガ如シ」
「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」
「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ痲痺セシムルニ至ッテ、スナワチ極マル。」
文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。
もっとも、こう言出したのは、七十歳を越した老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。
ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。
埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做みなしているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
(中島敦『文字禍』より)
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―――その時の様子を、ヒグマは後にこう語る―――
ええ、僕は逃げてました。
すいませんね逃げ腰で。でも、どう考えても逃げて正解でしたよ僕なんかじゃ。
魔法少女っていうものの強さを、僕は初めて目の当たりにしました。
真っ白な服と金色の硬貨を舞い散らせて、猟銃なんか足元にも及ばない乱射乱撃の銃弾の雨です。
片脚が撃たれてたとは言え、逃げる穴持たず5さんに空中からピッタリ追いすがってましてね。
もう僕はその時半分逃げてたんですが。
決死のジャンプで、彼はその魔法少女を撃墜しようとしてましたが、今度は逆に大量の紙束みたいなものに絡めとられて、墜落です。
その後は、今まで撃たれた硬貨が全部彼の体に殺到したんですよね。
続き?
無いですよ。
だってあんな大量の金貨にすり潰されたら、死にますよ、誰だって!!
兎に角、
キュゥべえさんと魔法の恐ろしさは身に染みたので、島の中心に向けて急いで逃げていったわけです。
そこでもまた激戦を目にしちゃいましてね。
奇妙な装置を身に着けた人間の男の子と、黒髪の女の子――たぶんこの子も魔法少女だったんでしょうね。
その二人が森の上空で凄まじい試合を繰り広げていました。
瞬間移動する黒髪の魔法少女に、男の子はワイヤーを使った空間機動で巧みに対応し、光線銃や投擲剣なんかで的確に攻撃していたんです。
最後は魔法少女の方も、投げ技で応戦するしかなかったみたいですね。
これは純然たる試合か決闘だったようで、特に後腐れもなく終わっていました。
で、まあ、夜中から戦いの現場にばかり出くわす僕ですが、ここでようやく隙を見て人間の一人くらい食べにいけるかなぁと思ったんです。
ですが、先客がいまして。
穴持たずの、12番の方だそうです。
気配が全くというほど感じられないヒグマでした。
……隣で話しかけられるまで、僕ですら彼の存在には全く気づけませんでして。
『……あのアイヌ達は私の獲物だ。その冑(よろい)の耳と耳の間に座りたくなくば、キミは下がっていなさい』
と、言われまして……。
すっごく怖かったです。
とりあえず後学のためと思って、遠間から彼の狩りを見学させてもらったんですが。
彼は運が悪かったとしか言いようがありませんね。
最初に、隙だらけで手傷も負っていた、例の黒髪の魔法少女を彼は襲いました。
そして、彼は女の子を確かに仕留めたんですよ。首も折れて、足からむしゃむしゃ食べてましたし。
でも、彼女は、神か悪魔か、とりあえずそんな生物の常識を逸脱した者の如く蘇りました。
そして、喰われながら、その場にいた全員に恐ろしいほど冷静で的確な指示を飛ばしたんですよ!
穴持たず12さんも僕も、その瞬間は驚きで動けませんでした。
彼は必死に逃げながら、その女の子を食べつくしました。
ですが、彼女は本当に、食い尽くされる最後の瞬間まで仲間への指示と戦闘行動を継続してまして。もうどっちが狩る側だか狩られる側だかわかりませんでしたよ。
結局、穴持たず12さんは左眼を僕のように潰され、脳を抉られ、爆弾を落とされて死んじゃいました。
もう僕は泣きたかったです。
人間って、ヒグマより遥かに恐ろしい生き物なんじゃないかって。
ヒグマが如何に強い力を持っていても。
腕一本と信念だけで、力を受け止めた先に奇跡を起こす人間がいます。
お金とかいうものの力だけで、完全にヒグマ一頭の力を凌駕してくる人間がいます。
言葉と態度と自分の肉体だけで、仲間の力を見せつけてくる人間がいます。
だから僕は思いました。
この先、自分一頭だけじゃ絶対に生き残れない。
ほとんど群れたこともないヒグマですが、僕も仲間を見つけて力を合わせない限り、こんな人間たちや他のヒグマには立ち向かえるわけがないと。
ええ、そうして、更に走って走って、逃げている時でした。僕が彼と出会ったのは――。
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「……もう、夜明けだな」
オレは放送を聞いて、林立する建物を透かして見える海から目を逸らした。
相当、人が死んだらしい。
6時間の間ずっと、この建物の中で様子を伺っていたが、やはり外には人喰いのヒグマが相当数うろついているようだ。
夜中に起きた火山の噴火。そして、朝方にこのE-6エリア一帯を一度は埋め尽くしたクッキーの嵐。
珍妙な現象ばかり起きるので、命を守るためにはここに隠れておくのも良いかと思った。
ハイソなことに、この建物には故郷で発明されたばかりのエスプレッソマシンが置いてあった。
伝統あるコーヒー文化が時代に合わせ素直に進化したエスプレッソは、実に尊敬に値する飲み物だ。
オレは謎のヒグマが空を飛びながらクッキーの嵐を食い尽くす前に、何枚か窓から確保しておいた紅茶ビスケットやチョコチップクッキーをつまみつつ、お湯多めのルンゴを淹れて時間を潰していた。
だが、やはり性に合わない。
いつまでも待ったり、こそこそと策を弄するのは、流儀に反する。オレの嫌いなことだ。
クッキーの中に、コラトゥーラかブリストみたいな明らかにクッキーとしてはハズレな味と匂いのものが混ざっていたことも嫌気がさした原因の一つだ。
何が嬉しくて血や臓物味のクッキーをヒグマみたいに喰わねばならんのだ。
生きて帰るためには、こちらから積極的にヒグマを狩るしかない。
それで生き残れればそれでいいし、ヒグマを狩ったことで助かる他の参加者が、オレの代わりに脱出法を見つけてくれるかも知れない。
参加者さえオレを殺しにくるのなら、それもそれで、正当に決闘し、討ち果たせばいい。
階段を降りる建物の内装は、オレのいたネアポリス王国とは大分異なっている。
窓の外の景色を見ていても思ったことだが。
恐らくこの建物と周辺の街並みは、事務作業を効率的にこなすために設計された建物たちだ。
ヴェスヴィオ火山のような山(夜中に噴火したし、まずもって活火山だ)に隣接してるにしては新しいというか。
金属的。機能的。
それでいて長い間研究されてきた伝統と流儀を忠実に守っているが故の、噴火とクッキーの雨に負けない堅牢な高層建築だ。
主催者の名前はアリトミといったか。
多分、東洋。日本の名前だ。
ここはその日本の、北国の島だ。
美しい。
敬意を払うべき、古き良き流儀が、ここには息づいている。
殺し合いだのヒグマだの関係なしに、一度あいつと一緒に来てみたいとも思う。
そのためには、オレは帰らなければならない。
オレには、今日ヤるはずだった、決闘が控えている。
奴を、待たせている。
遅れずに来いと言ったのはオレの方なのにな。
すまないが延期させることになっちまった。
付き添い人を頼んだツェペリさんにも迷惑をかけちまう。
その件で新たに決闘を申し込んでくれても、オレは文句は言わん。
どれもこれも、オレを攫った主催者アリトミとやらの所為だ。
血反吐を吐くまで殴りながら殺りまくってやらにゃあ気が済まねぇ。
主催者どもがいる場所の見当はついている。
地図を一目見た瞬間に、一発で分かった。
オレの一番嫌いなやり方で、折角の建築の流儀を台無しにするような都市設計だったからな。
爆弾つきの首輪が鬱陶しいが、どうしても解除の仕方がわかんねぇ時は、この『技術』で爆発位置を移動させて、命がちょっとでも残ってる間に殴ってやる。
オレのこの『技術』は、奴より劣っているだろう。
剣なら勝てるかも知れんが、奴の『技術』は仕事仲間の内でもピカイチの腕だからな。
だがそれは、奴がキチンと祖先から受け継ぐ流儀に敬意を払っていたからだ。
オレも、流儀には敬意を払う。
親父は財務官だし、ちっちぇえ頃からそこら辺は厳しかった。
勝てる見込みが薄くても、流儀に則った決闘を、オレはする。
どうせ勝てても、奴を絶命させられるほどの威力は、オレには出せないだろう。
だから、ネアポリスに戻って決闘した後は、奴は『消す』。
死んだことにして、国外追放だ。
オレの体面も、あいつとの生活も、奴の命も、祖先への敬意も、全部守れる素晴らしい方法だろう?
オレが気に食わないのは、奴がこそこそ裏から根回しをした、そのこすっからい所業だ。
あいつは、オレの歪みと鬱憤を、全部受け止めてくれた。
何の取り得もねぇつまんねぇ女だったが、オレにとっては掛け替えのない女だ。
奴と違って不器用だし、メシはオレの方が旨く作れるし、性格の尊大さだけは奴に似てるし。
だが、殴りながらヤらせてくれて、それでもオレを受け入れてくれる女なんて、あいつだけだ。
ツンツンしてた口ぶりが、ベッドの上でヤりまくる時だけは気弱になって、そん時のカワイイ表情が良いんだ、あいつは。
例え義理の兄で仕事仲間だからって、神聖な夫婦の間のことに、そんな小賢しい裏工作で立ち入ろうなんざ許せねぇ。
オレとあいつを別れさせたいなら、法王に直訴なんざしねぇで最初から決闘を申し込んで来いってんだ。
あいつもあいつだ。オレのせいで片目が見えなくなってたなんて、なんで面と向かって言わなかった。
おまえら兄妹揃いも揃って、大切なことは全部、流儀をかわして回りくどいやり方でしやがる。
流儀を、わからせてやる。
ヒグマにも。
参加者にも。
主催者にも。
帰った後はおまえにもだ、ウェカピポ――。
デイパックから二つの鉄球を腰のホルダーに提げ、携えた剣の重みを確かめて、オレは建物のドアを押し開けた。
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ちょうどオフィス街の一角。エリアE-6に南側から入った時でしたね。
ここまでくればいいだろうと、逃げる速度を緩めて歩いていた時のことです。
目の前の路地から、一人の人間の男が出てきていました。
何でしょう、貴族風というか、いかにも上流階級の者だ、というような身のこなしでしたね。
黒髪をポマードで固めて、紫のコートにスカーフ。
腰には西洋剣を提げて、何か珠のようなものも持っています。
肩のデイパックが酷く場違いに見えました。
そして彼は、僕の姿を見ても特に慌てた様子もなく、ふと息を吐いて、その剣を鞘から抜いて僕に向けてきました。
「……早速ヒグマか。オレは日本のサムライの流儀には詳しくないんだが……。
いや、それとも、マタギとかいう猟師の流儀に則るべきなのか? 仕留めた後は敬意を込めて心臓を開くんだったか?
まぁ、もたもたする事もない……一瞬でカタをつけよう」
信じられますか?
ただの人間が、ヒグマにあえて向かってこようとしてるんですよ。
何かの自信か根拠があるのか知りませんが、とにかくこの人間も今まで見てきたアブナイ連中の一人だと僕は思いましたね。
武器は剣なのかと思って、僕は彼の走り来るであろう間合いから飛び退りました。
ですが、飛んできたのは剣の突きではありませんでした。
彼は、空いた左手で、あるものを投げてきたんです。
皆さん知ってますよね、金平糖とかいう人間のお菓子。
前ちょっと落ちているのを食べたことがあるんですが、あんなやつです。
あれが人間の手のひらサイズにまで大きくなったやつ。
そんな形をした、『鉄球』でした。
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「ウオォオオオォオオ!?」
当然、弾き飛ばしました。
回転する鉄球の威力はかなり高く、受けた左前脚に内出血が起こるのがわかるほどでしたが、それでも僕だってヒグマの一頭ですから。流石にそれを弾く位の腕力はあります。
しかし、攻撃はそれだけでは終わりませんでした。
弾いた鉄球の表面から、更に小さな球体が飛び出し、僕目掛けて散弾のように襲い掛かってきたんです。
右眼で瞬間的に把握したその数、実に14個。
小さな鉄球とは言え、目や口の中に打ち込まれたらシャレにならない速度でした。
「ガアァアアァアアア!!」
前脚で顔面をガードしながら耐えました。
ですが流星の砕けていくような鉄球の攻勢が終わる時、その人間は僕に向け、こう言い放ったんです。
「『壊れゆく鉄球(レッキング・ボール)』。これがオレたち王族護衛官の受け継ぐ『技術』であり『流儀』だ。
すまないがサムライの流儀にもマタギの流儀にも明るくないから、オレたちの流儀と戦法でやらせてもらう」
それだけ言い残して、彼は僕の視界から、忽然と姿を消していました。
どこに行ったんだか、さっぱり解りません。
気が付けば、視界の左半分が、ごっそり欠落していました。
もともと僕は左眼が潰れていますが、そのせいではありません。
右眼で見えるはずの左側の半分も、消え失せてしまっているんです。
視界だけではありません。
音も、匂いも、触覚も、さっき鉄球を弾いた左前脚の痛みも、体半分がごっそり消えてしまったみたいに左の感覚が全くなくなっているんです。
――左半身失調。
どういう理屈か知りませんが、先ほどの鉄球を受けたせいで、僕の右脳の機能が一時的に麻痺してしまったようなのです。
パニックになる寸前でしたが、直感的に、なんとかギリギリのところで僕はこの現象を認識することができました。
僕が隻眼であること。
これが僕の命を救ったんです。
左眼が潰されてしばらく経つので、僕の左側の認知機能の一部が、右脳だけでなく左脳でも処理されるようになっていたんでしょうね。
僕は、感覚のない左側から迫る刃の閃きを、一瞬だけ感じ取ることができました。
「グロォオオオオオッ!?」
「む……、見られたのか?」
男の剣が、僕の顔を切り裂いていました。
左の瞼から、頬にかけて、皮一枚。
一瞬でも身を躱すのが遅ければ、目から脳みそまで貫かれて抉られ、僕は殺されていたでしょう。
「元々眼が潰れていた分、いくばくか適応していたのかも知れないな。
左側失調の範囲を見誤った。だが、次はない」
彼の左手には、さっき投げたはずの鉄球が、小さな14個の弾も合わせて、過たず戻ってきていました。
左半身失調は、十数秒すれば元に戻るようですが、その間に完全なる死角から襲われれば、何をすることもできません。
万事窮す――。
そして、彼が今一度鉄球を投げようとしたときでした。
空がにわかに掻き曇って、暗くなっていました。
男の人と僕は、揃って上を見上げていましたね。
「……これは。近くに落ちるな……」
「グルォオオ!?」
上から、巨大な人間の靴底のようなものが降ってきていたんです。
火山から、本当に巨大な人間が出現していたんですよ。あなたがたも見ましたよね?
こんな考えと戦闘に夢中になっていたせいか。どうも感覚が鈍っていけません。
少なくとも僕は、その巨人の存在にその時まで気づかなかったんです。
もう、戦闘どころじゃなかったです。
足の裏が落ちてくるまで数秒も残ってませんでしたが、僕らは逃げました。
長径ゆうに数百メートルはあろうかという、巨大な靴底が、上空数千メートルから高速落下してくるんです。
風圧に耐えようと、丸くなりました。
男の人は投げようとしていた鉄球を、自分の体に押し当ててましたね。
続き?
無いですよ。
――この後は、ご説明することもないでしょう?
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「あ、あぶねぇトコだったぜ……」
髷を結った男が、ヒグマの背の上で瞑っていた眼を開いた。
風圧を感じるほどの近くで、背後にあった平原は巨人の脚に踏みつぶされていた。
自分が背につかまっていたヒグマ――李徴という人物が、その直前から気づいて全速力で草原を走り抜けていなければ、自分たちは二人とも確実にぺちゃんこのエビセンベイのようになってしまっていただろう。
草原を踏みつぶした白髪の巨人は、『わしはすぐに行くぞ、アカギィィィィィ!!!』などとよくわからない言葉を叫びながら、地響きを立てて島から離れていった。
オフィス街の中に、ヘッドスライディングのようにして滑り込んだ李徴の行動は、ヒグマの状態に『酔って』いるにしては冴えた判断だった。
「……作品だけは、私の作品だけは、潰させるわけには……」
背の男――
フォックスは、ヒグマの姿の李徴が、人語でそうぶつぶつと呟いていることに気がつく。
「おい、李徴さんよ、あんた、正気に戻ったのか?」
「ひゃい!?」
「おいおい何慌ててんだよ。今更ヒグマになんなくていいから。
どうして人間の気持ちに戻ったんだあんた」
腹ばいで倒れ込んでいた李徴は、その呼びかけに我を取り戻し、焦って起きあがる。
フォックスはその狼狽を、ジョッキーのように手慣れた動きで宥め、彼の次の言葉を促した。
震えながら視線を背中に送り、李徴はぼそぼそと言い訳がましく笑っていた。
「……今さっき、放送が流れただろう。死者44名。
あれを聞いたら、どうしても考察したいという気持ちが心の奥から湧いてきて……。気づいたら人間に戻っていた。
……自分はやはりロワ書き手なのだ。その業からは逃れられないんだぁあ!!」
「落ち着けよ! いいじゃねぇか放送ごとに人間に戻れるんなら!!」
「あああ、紙と筆が欲しい! 書きたい!
対主催になるにしてもマーダーになるにしても必須だぞ放送の考察は!!」
狂乱したように腕を振り辺りを見回す李徴の眼は、そのときようやく、自分たちの様子を伺っている二対の視線に気がついていた。
遅れて、肩越しに見やるフォックスもその眼に気づく。
彼らと同様に風圧で吹っ飛ばされたらしい、一人の人間と、一頭のヒグマだった。
人間の男は、掌で回転させていた鉄球を停止させる。
樫の木のように硬く引き絞られていた皮膚が元に戻っていた。
「おまえら……一体何者だ? ここでは人間とヒグマが行動を共にするのが流儀なのか?」
「グルォ……、グルルルルウルルル……?」
男と隻眼のヒグマが、揃って問いかける。
李徴の耳には、そのヒグマの言葉が、『僕も……、そこが疑問なんですけど……?』という意味を伴って聞こえていた。
李徴は悶絶した。
「あああ、ヒグマの言葉がわかってしまう!!
駄目だ! 自分はやはりヒグマなのだ!! 今少し経たてば、俺の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまう!!」
「馬鹿ヤロッ!! だったら猶更今のうちに考えられるだけ考えとけよ!!
すまねぇあんたたち、こいつを抑えるの手伝ってくれるか?」
「ヒグマと意志疎通するのが流儀なのか……。驚いたな。
まぁ、『壊れゆく鉄球』は捕縛にも適しているし。敵対するつもりがないなら構わないが……」
男は、暴れる李徴を抑えているフォックスを尻目に、隻眼のヒグマの方を見やっていた。
伏し目がちに身を引きながら、ヒグマはか細い声で唸る。
『もう左半身失調はこりごりですので、僕が生き残れるんでしたらそれで構いませんけれど……』
と、彼は言っていたのである。
文字もなく言葉も通じない人間とヒグマであったが、李徴以外の人間にも、彼の様子から大体言わんとしている事柄は伝わっていた。
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金属的な建物の林立する交差点のど真ん中に、奇妙な生物の集団が形成されていた。
ヒグマが二頭、人間が二人。
そのヒグマのうち一頭は、李徴という人間だったらしい。
人が殺し合う小説を書いていたら気が狂ってヒグマになり、当の殺し合いの会場に連れて来られていたというのだから、因果応報の伝統の恐ろしさを実感できる。
隻眼のヒグマが語る唸り声を同時通訳しつつ、彼はその内容に逐一興奮気味に相槌を打っていた。
その李徴の大きな背中の上には、剃り上げた髪を頭頂部で結い上げるという奇妙な髪形の男、フォックスが乗っている。日本の拳法家だそうなので、そのサムライのような髪型は恐らく彼の流派の流儀だ。
革ベルトを基本にした鎧を着ていて、蛮人か何かのような人相の悪い顔をしているが、今現在彼は隻眼のヒグマの語るこの島で起きた戦いの内容を、慣れない手つきで必死に口述筆記していた。
彼が打つのは、平たい板を二枚合わせたような形の、新型のタイプライターのようだ。
キータッチは非常に軽そうで、文字の訂正もインクではなく電気で行なっているのか、非常に便利そうだ。
100年以上の伝統を持って徐々に進化してきたタイプライターをここまで便利にさせたのなら、日本は敬ってしかるべき技術大国であるといえよう。
人間のうちのもう一人は、オレだ。
正直、ただの人喰いだと思っていたヒグマが元人間だったり、ここまで深い戦いの観察をしているものだとは思っていなかった。
自然は、この世界の中で最も長く尊い伝統と流儀を有している存在だ。
だからオレはその一部であるヒグマにも敬意は払う。
堂々と流儀に則った戦いの上で殺害すべき存在だと、オレは思っていた。
しかし、よくよく考えてみると、オレはネアポリスと王族護衛官の流儀は知っているが、やはりサムライや、ヒグマの流儀は知らない。
ヒグマの流儀を知らずして、王族護衛官の流儀と戦法でヒグマに戦いを挑んでしまったのは、やはり大変失礼な行為に当たるだろう。
郷に入れば郷に従え。
ローマにありてはローマ人の如く生き、その他にありては彼の者の如く生きよ、だ。
オレとの戦闘のくだりが終わって、李徴は隻眼のヒグマに、眼を輝かせながら語り掛けていた。
「……素晴らしい!! 何という緻密な観察か。貴公もロワ書き手になるべきだ!!
まさしくロワイアルにおいて一隻眼を持っているぞ! 是非ともお名前をお聞かせ願いたい!!」
『へ……? 僕たち羆はほとんど名前を持ったりしませんけど……。僕、とか、あなた、とかで通じますし。
僕も、集められたヒグマの中で2番目の片目のヒグマだったので、便宜上隻眼2と言っているだけです』
「ならば親愛を込めて、小隻(シャオジー:隻ちゃん)と呼んで構わないか!?
貴公の語ってくれた内容はそのまま作品になりうる!! スレに投下したら大反響になるぞこれ!」
『は、はぁ……。人間の文化はよくわかりませんけれども……』
以上の会話は、全部李徴が一人で同時翻訳しながら喋っている。
流石に人間から気がフれてヒグマになっただけあって、テンションの切り替え速度がハンパではない。
楽しめているうちは彼の正気が持ちそうなのは良いが、彼は周囲の全員にドン引きされていることを解っているのだろうか。よくわからない。
その背中で「オレにも李徴の文化はわからねぇよ」と呟いているフォックスに合わせ、一人芝居を断ち切るようにして、オレは隻眼のヒグマに話しかけていた。
「……ところでシャオジーとやら。オレはおまえらヒグマの流儀について聞きたい。
オレは先ほどおまえに、完全にオレたちの戦法を用いて全力で攻撃してしまった。これはヒグマの決闘における流儀としては正しいことだったか?」
隻眼のヒグマ――シャオジーは、その驚くべき観察力で、既にヒトの言葉の意味を聞いて理解できる程度にまで覚えていたようだ。
李徴が翻訳するまでもなく、その表情が変わる。
フォックスと李徴とシャオジーは、揃って『何を言っているんだこいつは』というような視線をオレに向けてきたのだ。
言葉や文字がなくとも通じる気持ちが、そこには確かにあった。
『ええと……。仰っていることがよく解りませんが。
先ほどから語りましたように、穴持たずの方々は、自分の持っている能力を最大限に活用して戦いますし、参加者の方々もそうだったので、別に問題はないかと……。
穴持たずの初期の方の中には、やたら決闘が好きな方も多いそうですが……』
「なるほど。つまり、初めにフォックスたちのように意思疎通を試みた後は、持てる技術を尽くして戦うのがヒグマの流儀というわけだな。
そして決闘の文化はヒグマの中にも確かにあると。ならばオレの採った行為は流儀に反してはいなかったわけだ。安心した」
おまえたちには大した問題ではないかもしれないが、オレにとっては流儀に則っているかどうかは最重要事項だ。
温故知新。
どうなるかを知りたければ、どうであったかを考えなければならない。
現代の人間が小賢しい策を弄したところで、古くから脈々と続いてきた伝統に裏打ちされた流儀の前には敵うはずがないのだ。
流儀を知らずに破ろうとする馬鹿は、オレの一番嫌いなもの。
流儀を知って敬意を払いながら敢えてブッ潰しにいくようなウェカピポみたいな野郎は、オレの一番大っ嫌いなものだ。
「……オレの質問は終りだ。もたもたする事もないだろう。
いつまでも憐憫の視線を向けてねぇで、放送の考察とやらをするんならしろよ!」
だからおい、おまえらオレをそんな目で見てんじゃねぇ。
オレは李徴と同レベルかよ。いい加減キレるぞ。
「すまねぇが……流儀流儀言われたところで正直意味がわからんのだ。名乗りもせず質問だけするのがあんたの流儀なのか?」
オレの苛立ちを察してか、フォックスはかなり噛み砕いた言い方でオレに問うてきた。
しまった。そう言われれば、オレだけ素性を明かしていない。
「これは失礼した。オレはイタリアのネアポリス王国で王族護衛官をしている者だ。名前は……」
流儀に反してしまい、ウェカピポとの決闘の約束まですっぽかしてしまったオレに、自分の名を名乗る資格はない。
情けない話だ。
ヒグマを操る首魁を殴りながら殺りまくり、あいつのところに帰るまで、オレは、ただ単なる奴の妹の夫だ。
「……オレの名は、城壁の北西に置いてきた。
ウェカピポの妹の夫と、ただそう呼んでくれればいい」
「何のこだわりがあるんだか……。とりあえず義弟さんってことでいいんだな?」
「妹夫(メイフゥ)か」
『名前って置いてこれるものなんですか。初めて知りました』
「……好きに呼んでくれ」
㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆
あ、こいつは李徴と違って、少なくともオレたちがドン引いてることには気づいているんだな。
とその時俺は思った。
いけすかねぇ感じの、世紀末じゃ南斗六聖拳の伝承者くらいしか着てねぇんじゃねえかというほどの立派な服の優男だが、この島に来てようやく話の通じそうな人間に会えたということは有り難いと思っておこう(李徴はヒグマとして区分することにした)。
シャオジーの体験談によれば、便利そうな技の伝承者らしいから、また例の如く李徴が暴走したり、シャオジーが襲い掛かってこようとしても十分対処してくれるだろう。
とりあえず当座のところはお互いに情報交換するということで落ち着いているし、こいつも利用できるだけ利用させてもらおうか。
「まぁわかった。おい、李徴さんよ。メモなら俺がとるから、義弟さんの言う通り、気の済むまで考察してくれ」
「おお、その通りだ。小隻の話に夢中になっていたが、本来はそれをしたかったのだ。
いやはや、俺と同じ身の上に成った者でなければ解らぬと思っていたこの気持ちに、理解者がこんなにもできたとは。この上なく嬉しいぞ自分は!」
『え……? うん、まあ、あの、そうですね。僕も嬉しいです』
「ああ……。それがロワ書き手とやらの流儀に則ってるなら、オレも嬉しいよ」
「ヒグマとなってもこのような崇高な思考を持つものがいると解れば、もう俺は恐れなくともよいのだ! おお、なんと素晴らしいことか!!」
とりあえず、李徴が唯一この殺し合いに対しての知識がある人物だから、なんとか正気を保っているうちに、機嫌を損ねず情報を引き出すのが最善手だということは、全員が暗黙のうちに理解していたらしい。
本当に、言葉が通じるってありがてぇ……。
そんなこんなで、道路のど真ん中で、李徴先生の有り難いヒグマロワイアル考察が始まった。
㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆
会場は北海道の火山島。
恐らく主催者側が事前に購入し、『穴持たず』と名付けられた特殊なヒグマを中心とした『ジョーカー』役を多数配備していた。
ジョーカーとは、ロワイアル内で、主催者側の介入を受け、積極的に人殺しをして回る人物のこと。
そうでなく、生き残りを目指して人殺しに走る者は『マーダー』と呼ばれるらしい。
だが、強大なヒグマが多数存在している中では、よっぽどの快楽殺人者か何かでもない限りマーダーには走るべきでないと誰もが思うことだろう。
その場合参加者は、『対主催』と大まかに区分される、企画そのものの打倒を掲げて行動する団体になっていくだろう。
参加者同士の協力を取り付け、互いの特技を活かして、主催者への対抗策を練っていくわけである。
しかしこの時にも、『危険対主催』と呼ばれる、企画は打倒するがそのためには参加者殺しも厭わないという思想の持ち主や、『ステルスマーダー』と呼ばれる、対主催に紛れ込んで隙を見て弱った者の殺害を狙っていくスタンスの者も出るので、注意は欠かせないそうだ。
『そうですね。確かに僕も、食べれる機会があるなら弱った方は食べたいです』
「オレも、参加者が決闘を挑んでくるなら討ち果たすつもりではいるが」
「まぁ……。結局一時的な協力関係なんだしそんなすぐに信頼とかできねぇよな」
「なんだと!? ここのパーティーは危険対主催とステルスマーダーばかりか!?」
(おめぇがそれを言うのか、李徴……?)
(どう考えても気が狂う可能性のある李徴さんが一番危険ですよね)
(いかに理不尽でも、尋問の際は情報が出尽くすまでは聞くのが流儀だ……)
李徴以外の三者は困惑しながらも、李徴の話に耳を傾けた。
とにかく、対主催として行動する場合肝心なのは、戦力・人材の確保、首輪の解除、主催者戦力の特定・打倒方法、脱出手段の確保であるそうだ。
「対主催の優秀な戦力は我々の他に、小隻が伝えてくれた限りでもまだ島の南東部だけで10人以上が残っている。
放送での死者は44名と確かに多いが、大体は
第一回放送までが最も死者の出る時間であり、半分以上死んだとしても、生き残った参加者はまだ20~30人程度はいるはずだ」
次に首輪のことであるが、これは禁止エリア――地図の範囲外などに行った際に、数十秒から数分の警告の後に爆発し、参加者を殺すためのものである。
脱出と対主催のための大きな枷であり、主催者側が盗聴器を仕込んで盗聴していることもあるという。
「え!? じゃあこんな会話してるのは不味いんじゃねぇのか!?」
「遠隔爆破されることもあるとはいえ、それはよっぽど主催者が不都合と思ったときのみだ。
だがもしフォックスや妹夫の首輪が爆発したら、次の機会には話さないことにしよう」
「自分はヒグマ枠だからってひどくねぇかそれは!!」
冗談はさておき、この首輪は、電気回路に詳しい者ならば割と簡単に構造を解析、分解できるものらしい。
最悪首輪が解除できなくとも、こちらは隻眼2のように、殺し合いに乗らないヒグマを集めて主催者のところに乗り込むという手に訴えることもできる。
ヒグマとの協力体制を作って挑めることは、李徴がいるゆえに可能な奇策だ(ただし気が狂っていない場合に限る)。
残る問題は、肝心の主催者がどこにいるのかを特定し、島からの脱出手段を確保することのみであった。
「それが一番問題だよな。下手すると島の外って可能性もあるしよ……」
「小隻は、ロワイアル開始前の状況を覚えているか?」
『研究所のようなところで檻に閉じ込められていたのは確かですが、生憎移動中は眠らされてまして……』
「この隴西の李徴も、その時は酔わねばならぬ頃合いだったからな……。惜しまれる」
「……いや、オレは、主催者のいる位置の見当はついている」
その時、ウェカピポの妹の夫のデイパックから地図が取り出され、地面に広げられていた。
そして彼は、地図のど真ん中、火山の位置を差し、はっきりと言い切った。
「主催者が、ヒグマを多数収容できるような研究所にいるのならば、それはここしかない。
高層の建物から見てもそれらしい建造物はなかったから、恐らく、地下だ」
「は……?」
「なんだと?」
『どうしてわかるんですか?』
「この島は、都市計画の流儀に反した、『スプロール現象』という名の発展過程を辿っているからな」
全く理解のできない三者に向けて、義弟は滔々と説明した。
島の中に都市が形成される場合、まず、港などの交通の要所から街並みが作られるのが一般的だ。
しかし、この島は四方が高さ十数メートルの崖に囲まれ、全く周囲と隔絶されている。
飛行機というものが開発されているという話は聞くので、空中からの輸送がメインとなっている可能性はあるが、その場合でもこの島は島外との交通の便が悪く、極力島内で自活できるように都市は発達していくだろう。
大量のヒグマを飼うとなればなおさらだ。
その場合、産業の拠点となる場所から都市は広がる。
もし都市計画が整然となされた場合は、世界各国で見られる条坊制や都城制を基本とした発展をみせるのだ。
しかし。
「……この地図を見ろ。街のある部分は火山からほぼ放射状に、かつ無秩序に入り組みながら広がっている。
拠点となる街の中心から、住民のことも利便性も考えず手当たり次第に街を広げていったことを示している。折角の建築や温泉地が台無し。東部の端に廃墟があることはこの無計画性の裏付けだ」
発展の中心となっているのは明らかに火山である。しかし夜間にも噴火した活火山の上に都市の中核を据えるとは考えづらく、実際に外にはなんの建造物もなかった。
「だから、地下だ。オレの故郷でも、ヴェスヴィオ火山の噴火で埋まったポンペイという街があるが、そこの建造物は埋没していても形を保っていた。
現代まで続いてきた流儀ならば、噴火しようが巨人に潰されようが地下で耐えうる構造物があってもおかしくない。たぶん、その研究所と繋がる大型のリフトのようなものがE-5には隠されているはずだ」
そして、都市の中核が地下にあるのならば、空からの交通手段は絶たれる。
その場合やはりメインの輸送ルートは海からということになる。
義弟の指は、地図を西側へたどった。
「……西側には、自然の温泉を巻き込むような無計画な街並みにも、廃墟がないだろう。
そして唯一、町が崖の端まで続いている。交通拠点が、こちら寄りに存在していると考えられる。
地図上で見えない港。恐らく、カプリ島の『青の洞窟』のような海食洞が、島の地下を西から火山の下まで繋いでおり、そこここで地上と行き来できる隠し通路があるのだと考えれば、全ての辻褄が合う」
脱出手段となる港の存在。及び攻め込むべき主催陣営の存在位置を、ピタリと義弟は予測してのけた。
フォックスは、自慢の策略が活かせるかと声を華やげる。
「おお、それがマジなら、爆弾なり毒ガスなり見つけて、火山から忍び込んで仕掛ければ主催は一網打尽にできるわけか!」
「……おい、何故堂々と殴り込みに行かない。お前も拳法家だろう。そんなウェカピポのような卑怯な手を使うな」
「あ……?」
だが反対に、ウェカピポの妹の夫は眉を顰めていた。
フォックスの価値観としては、手っとり早く確実に相手を仕留められるなら、使う手段には卑怯もクソもない。
そもそも彼の拳法の流儀自体からして、卑怯すれすれの奇襲を旨としているのだ。
彼は義弟をなだめようと、自分の所属軍団の首領、ジャッカルの例を出した。
「義弟さんよ。俺のいた軍団の首領はよ、南斗爆殺拳っていってダイナマイト投げつけて殺す拳法の使い手なんだ。
だから別に、爆殺も毒殺も卑怯ってわけじゃ……」
だが、それが逆に妹の夫の逆鱗に触れた!
「そんな言い訳が通ると思っているのか!
それが事実なら、火薬に頼って何が拳法だ。おまえの首領は拳法の定義自体に恥をかかせてくれた」
フォックスが言葉を言いきるのも許さず、殺気を纏った義弟の怒号が彼の声を寸断していた。
ウェカピポの妹の夫は腰の剣を抜き放ち、李徴の背のフォックスに突きつける。
「いいか……おい。拳法の場合はなぁ……フォックス、自らの鍛えた肉体と技術で勝負するのが良いんだよ。
じゃなきゃあちっともフェアじゃねーし……つまんねぇ名前負けになる」
そして彼は李徴、隻眼2と剣の先で指し、最後に自分の腰元から金平糖のような形の鉄球を取り出して叫んだ。
「ヒグマならば自らの身体機能と能力!
オレの場合は当然! 『鉄球』だッ!
祖先から受け継ぐ『鉄球』ッ! それが流儀ィィッ!!」
(うっわ、こいつめんどくせぇ~~!!)
(確かに爆薬を使って拳法を名乗るのは烏滸がましいだろうが……)
(穴持たず12さんとか、自分の能力を活かしたら卑怯な奇襲しかできないんですが……)
憤るウェカピポの妹の夫の様相に、三者はたじろぎながら身を引くしかなかった。
義弟は三者を睨みつけながら剣と鉄球を納め、声の調子を落とす。
「……確かに、いつでも流儀に則った行動を心がけるのは、苦しく、難しいことかも知れない。行動を矯正すれば歪みも生まれる。
オレだって、妻を殴りながらヤりまくらなきゃ日々の鬱憤は晴れなかった」
(李徴と同レベルのクソ野郎だこいつ)
(妻を放って置いた人間として身のつまされる思いがする)
(やっぱりアブナイ人間の一人だったんだこの人も)
道路に広げられた地図を掴みあげ、義弟は三者に向かって更に言葉をつないだ。
「だがなぁ、そういう歪みは、公の場で出してはいけない!
この島の都市計画のように、一つ一つの建物や住人に多大なる迷惑をかける!
それに流儀に則って堂々と主催を倒せば、オレたちが集められて殺し合わされた鬱憤も、堂々と殴りまくって発散させられるだろうが!
おまえたちが島全体を巻き込んで流儀に反するなら、今ここで命を差し出してもらう。『決闘』だ!」
義弟の一連の発言には、確かに筋は通っていると言えなくもない。
しかし結局は義弟が、自分の性癖どおり殴りまくりたいだけなのだろうということは薄々三者とも察していた。
㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆
とにかく、誰もその程度のことで徒に命を失いたくはない。
「わかった! わかったから落ち着いてくれ!
流儀に反さず主催者をぶっ倒せるよう努力するからよ!」
「ならばいいだろう」
フォックスが悲痛な叫びを上げて、ウェカピポの妹の夫を押し留めていた。
義弟は先ほどから突拍子もない言動ばかりしているように見えるが、その実、最初に会ったときから誰にも背中を晒していない。
常に戦闘が行えるようにその神経を周囲に張り巡らせている。
地図一枚で主催者の位置を特定した知識と推察能力も侮れない。
彼の伝承する『壊れゆく鉄球』ならば、ここにいる李徴も隻眼2も、瞬時に殺害される可能性すら十分にあるとフォックスは見立てていた。
隻眼2にしてもそうである。
大人しく語り手に従事してはいたが、それはたまたま彼が自己保身を徹底しているからというだけだ。
彼の観察眼の質と思考能力は、ヒグマどころかそこら辺の人間を遥かに凌駕している。既に彼は各人の弱点を見抜いているかもしれない。
しかもヒグマの一頭ではあるわけなので、奇襲でもするつもりならば、李徴や義弟とも最低でも相打ち以上にはなるであろう。
そして一番危険なのはやはり李徴だ。
いつまたささいなきっかけでヒグマ状態に気がふれるかわかったものではない。
そうなれば、制御の効かない無差別殺戮動物となることはほぼ確実なので、今のところは隻眼2や義弟とともに、ロワイアルのことでもなんでも考えさせて人間状態に保っておくのが肝心だった。
今一番後ろ盾がないのは、フォックス自身だ。
跳刀地背拳を活かせるような環境はここにはない。
近接武器で、威力も足りないカマでは、この場の全員に対して相性は最悪。戦えば確実に殺される。
確保している
支給品は多いが、李徴の暴走に振り回されていて中身の確認もしていない。
自分の持っているアドバンテージは、李徴の背中をとっているという、ただその一点だけであった。
――これ俺、こいつらをどうにか纏めて協力関係作らねぇと死ぬじゃねぇか!!
非常に危なっかしいバランスの上に構築された関係を死守しなければならないことに、フォックスは背中でしっとりと冷や汗をかく。
そんなフォックスの心中をよそに、三者をねめつけていた義弟は、改めて厳しい口調で語り掛けていた。
「……何にしてもだ。いくらロワイアルという小説が参考になっても、文字に書いたことと、現実に起こっていることとは違う。
確かに文字は伝統ある流儀だが、それは現実を模写して抽出したコピーに過ぎない。
風景画と実在の景色、エスプレッソとコーヒー豆くらいの違いがある」
――ほら、気づいているか、おまえたち。
義弟は、十字路の両サイドに向けて、ゆっくりと両腕を広げていた。
三者が道路の先に視線を走らせると、その先には大量の海水が、津波となって道を流れている様が映っていた。
ウェカピポの妹の夫以外の誰も。
フォックスは勿論、ヒグマの肉体を持つ李徴も、そもそもヒグマである隻眼2も、そのことを指摘されるまで、津波の到来を感じてはいなかった。
いや、感じていたとしても、それ以外の膨大な思考に、その感覚情報は流されてしまっていたのである。
「折角のヒグマの五感も、人間の思考と文字で食い荒されていたら意味がない。
オレたちが会話に夢中になっている間、津波が島を襲ったんだ。だが、なぜか海水はこのエリアを避けている。
その幸運がなかったら、今頃おまえらは海の藻屑だぞ。
本来は李徴かシャオジーが指摘してくれなきゃ困る。人間かヒグマかその他か、どの流儀を本懐として大切にすべきなのか、各人考えてくれ」
三者は、薄ら寒い恐怖に包まれていた。
放送の考察どころではない。本当ならば、すぐにでも避難していなければ、全員死んでいてもおかしくなかったのだ。
凍り付いたような彼らの緊張を和らげるように、義弟は口調を和らげて踵を返す。
「まぁ避難を兼ねて、オレのいた建物にでも来ねぇか。
そこで、次にE-5を覗いてみるのか、シャオジーの出会った参加者を訪ねてみるのかとかを決めればいい。
少しは食材もあったから、カプチーノとローストビーフサンドイッチでも作ってやろう。たぶん人肉より旨いぞ」
「お、おう……。すまねぇ、そうさせてもらうぜ」
「三明治(サンミンジー)か……。有り難い。久々に人間の心で食事ができる」
『申し訳ありません、本当に、僕が気づくべきとこでしたのに……』
「いや、今度からどの流儀で行動するのか、はっきりさせればいいだけの話だ」
当座の危険を逃れるために、四人はとりあえず議論を保留し、足早にその場を離れていく。
その中で、ウェカピポの妹の夫は、隻眼2の傍らにさり気なくにじり寄っていた。
そして、後方の李徴とフォックスには聞こえないように、彼に耳打ちする。
「……おい、シャオジー。肯定か否定かで良いから答えてくれ。
『穴持たず』というヒグマの中には、『脳を操作する能力を持ったヒグマ』がいたりする可能性は、あるか?」
『……?』
李徴の翻訳がないので、言葉で回答を伝えることはできない。
しかし、隻眼2はしばし逡巡した後、肯定の証として首を頷かせていた。
どういう意図で義弟がそんな質問をしたのか尋ねたかったが、もう彼は、先導するように前方へ離れて行ってしまった。
――『穴持たず』は、僕の知る限りで50体以上いる。
僕のように、外から後々連れてこられたヒグマは、便宜的に60番台以降の番号をつけられたり、そもそも研究員自体が覚えていない程度の適当さで扱われていた。
しかし、研究所で作られた『穴持たず』のヒグマの中には、恐ろしい能力を有したヒグマたちが沢山いる。
僕の知る限りでも、穴持たず5の超感覚、穴持たず12のステルス・ジャミング能力、研究所内ではあまりにも有名だった穴持たず00の高速演算及び穴持たず1の肉体操作能力などがある。
それを鑑みれば、穴持たずたちがどんな能力を持っていてどんな形態だったとしても別に驚くには値しない。
たぶん李徴さんだって穴持たず七十何番とかそこらへんの番号がつけられていたりするのだ。元々人間だったのに。
――それにしても、なんでメイフゥさんはそんなことを聞いたのだろう。
考えるに、今までの殺し合いの中で、そんな能力を想定したくなるような状況に出会い、疑問に思っていたのだろう。
言葉が発せられれば、そうでなくとも文字が書ければ、もっと質疑応答を発展させられるだろうに。
李徴さんを間に挟んでの会話は、奇妙ではあったが今まで味わったことのない充足感を得られるものだった。
だから、急にその会話が欠落したことで、今までの状態に戻っただけなのにとてつもない断絶感だけが残ってしまう。
――人間の、流儀。
メイフゥさんから聞かされた言葉を反芻しながら、後方の李徴さんを振り向く。
ロワイアルの話ができ、サンドイッチを食べられるという高揚の奥に、自分がヒグマになったことへの恐怖と、ヒグマになるべくしてなった激情が、確かに潜んでいるように見える。
その背中のフォックスさんは普通に振る舞っているように見えるけれど、明らかに李徴さんの気狂いや僕を警戒して、腕の届かない範囲に身を縮めている。
僕が、ここまで考えられることは、異常だろうか?
ほかのヒグマと深いコミュニケーションを取ったことはほとんどないので、それはわからない。
しかし、彼らとなら、意思疎通ができた。
一時的な関係とは言え、仲間と言えなくもない動物同士の関係だ。
――その関係が維持できるのなら、人間の流儀を、学んでみてもいいかもしれない。
文字。
李徴さんが書くという、ロワイアルという小説の中の文字。
僕はそのロワ書き手になるべきだと言われた。
文字を学べば、彼らとの関係は、維持できるかもしれない。
李徴さんが完全にヒグマになっても、僕なら、彼を人間に、また繋げてあげることができるかもしれない。
コピーされ、情報の欠落した、影の流儀であっても、それは確かに魂の一部を伝えうるものだろう。
たぶん、僕はもう、ヒグマの流儀からは逸脱している。
初めに穴持たず4とハンターの戦いを見た時から。
――僕はきっと、人間に、憧れていたんだ。
㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆㉆
オレたち王族護衛官の手癖のようなものに、暇さえあれば鉄球の回転の練習をする、というものがある。
それはもう無意識的に、腰のホルダーの中で『壊れゆく鉄球』を回したり、レストランでは料理が出てくるまでコーヒーカップを回したりしている。
日々の鍛練こそ流儀。それが、いざという時の正確な回転につながる。
まあオレの場合は、キレやすいし、そもそもの投球精度が低いって欠点を補うための意識もある。
それとはまた別に、オレたち王族護衛官の使う『壊れゆく鉄球』は、鉄球本体での最大威力の攻撃を行う以外に、その表面の14個の『衛星』を拡散させ、その衝撃波で『対象の右脳の一部を麻痺させる』ことを戦法の一つとしている。
訓練じゃあお互い、左半身の感覚はだいたい失調しっぱなし。
その脳機能の落ちた中で、いかに自分の体を正しく動かし、相手の死角に潜り込み、仕留めていくかが大切になる。
――だから、自分の脳機能が変化した時の感覚は、わかる。
今さっき、津波が押し寄せてくる前。
ふと、いつもウェカピポにやられているような、綺麗に左側失調を決められた時に近い感覚が、オレを襲っていた。
本当に一瞬の、かすかな感覚だったから、気のせいかとも思った。
でもオレは、いつもの癖で、会話をしながらも鉄球を回していた。
『自分の左半身が失調する』ような回転で。
左側は見えなくなり、音も聞こえなきゃ、一切の感覚がなくなるはずだった。
――だが、視覚と聴覚と、振動覚だけは、失調しているはずなのに、残っているように感じられた。
周囲と違和感なく繋がるようにして上書きされた感覚。
『穴持たず』だ。
オレらの『壊れゆく鉄球』と同じかその上をいく、『脳を操作する能力』を持ったヒグマがいるのだ。
李徴やシャオジーが津波の到来に気付かなかったのは、そいつのせいもあるかもしれない。
オレらとは違い、感覚を『消す』のではなく『上書き』する分、余計タチが悪い。
そしてそいつは、自分の存在を感覚の死角に潜り込ませながらオレたちの傍を通り過ぎた。
今鉄球を回しても、左半身は綺麗に失調している。もう、その『穴持たず』は近隣にいない。
さらにそいつは恐らく、このエリアから津波を退けた張本人だ。
あの余りに不自然な割れ方をしている津波。
水中の生物の全ての感覚を操り、流体の進行方向を無理やり変えたとは考えられないか?
だとすれば、この穴持たずというヒグマたちは、本当に常軌を逸した恐ろしい存在だ。
俺が見た限りでも、砲撃を飲み込むヒグマ、クッキーの嵐を食い尽くしたヒグマがいたわけだし。
人間の流儀でも、護衛官の流儀でも勝てるか、解らない。
ヒグマの流儀を一から学ぶにしても、人間の体のオレが付け焼刃で挑んだところで敗北は目に見えている。
彼ら穴持たずを上回って余りある流儀を。
コピーでも影でもない流儀を、学ばねばならない。
――『自然』そのものの流儀だ。
この世界の中で最も長く尊い伝統と流儀を有している存在の流儀。
それに敬意を払い、学ばねばならないだろう。
ネアポリスから、決闘の約束をすっぽかしてまで訪れてしまった極東の地だが。
流儀を学ぶための留学と考えれば、実り多い旅にしようというモチベーションも、働く気がした。
【E-6・街/朝】
【
ヒグマになった李徴子@
山月記?】
状態:健康
装備:なし
道具:なし
基本思考:羆羆羆羆羆羆羆羆羆羆
0:こんな身でロワイアルの地にある今でも俺は、俺のSSが長安風流人士のモニターに映ることを願うのだ……。
1:小隻の才と作品を、もっと見たい。
2:フォックスには、まだまだ作品を記録していってもらいたい。
3:人間でありたい。
4:自分の流儀とは一体、何なのだ?
[備考]
※かつては人間で、今でも僅かな時間だけ人間の心が戻ります
※人間だった頃はロワ書き手で社畜でした
【フォックス@北斗の拳】
状態:健康
装備:カマ@北斗の拳
道具:基本支給品×2、袁さんのノートパソコン、ランダム支給品×0~2(@
しんのゆうしゃ) 、ランダム支給品×0~2(@
陳郡の袁さん)
基本思考:生き残り重視
0:メンバーがやばすぎる……。利用しつづけていけるか、俺……?
1:李徴は正気のほうが利用しやすいかも知れん。色々うざったいけど。
2:義弟は逆鱗に触れないようにすることだけ気を付けて、うまいことその能力を活用してやりたい。
3:シャオジーはいつ襲い掛かってきてもおかしくねぇから、背中を晒さねぇようにだけは気を付けよう。
[備考]
※勲章『ルーキー
カウボーイ』を手に入れました。
※フォックスの支給品はC-8に放置されています。
※袁さんのノートパソコンには、ロワのプロットが30ほど、『
地上最強の生物対ハンター』、『手品師の心臓』、『金の指輪』、『
Timelineの東』の内容がテキストファイルで保存されています。
【隻眼2】
状態:左前脚に内出血、隻眼
装備:無し
道具:無し
基本思考:観察に徹し、生き残る
0:主催者に対抗することに、ヒグマはうまみがあるのかしら……?
1:とりあえず生き残りのための仲間は確保したい。
2:李徴さんたちとの仲間関係の維持のため、文字を学んでみたい。
3:凄い方とアブナイ方が多すぎる。用心しないと。
[備考]
※キュゥべえ、白金の魔法少女(
武田観柳)、黒髪の魔法少女(
暁美ほむら)、爆弾を投下する女の子(球磨)、李徴、ウェカピポの妹の夫が、用心相手に入っています。
【ウェカピポの妹の夫@スティール・ボール・ラン(ジョジョの奇妙な冒険)】
状態:健康
装備:『壊れゆく鉄球』×2@SBR、王族護衛官の剣@SBR
道具:基本支給品、食うに堪えなかった血と臓物味のクッキー
基本思考:流儀に則って主催者を殴りながら殺りまくって帰る
0:とりあえず今後の行動方針を決める。ウマが合わなければ単独行動も視野。
1:フォックスは拳法家の流儀通り行動すべきだ。
2:李徴はヒグマなのか人間なのか小説家なのかはっきりしろ。
3:シャオジーは無理して人間の流儀を学ぶ必要はないし、ヒグマでいてくれた方が有り難いんだが……。
4:『脳を操作する能力』のヒグマは、当座のところ最大の障害になりそうだな……。
5:『自然』の流儀を学ぶように心がけていこう。
最終更新:2015年12月13日 17:02