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自我の破砕 - (2024/01/28 (日) 11:10:02) のソース
あたりは静まり返っている。 ヘッドライトが点滅し、あたりを包む砂埃を照らした。 なんとかドアを開け運転してきた方向を見たが、月明りは見えなかった。 鉄師一夏 こ、ここは… 九霄 一夏、大丈夫か? 後ろから九霄の声が聞こえてきた。 鉄師一夏 ……大丈夫です。 ただ、トンネルが完全に崩れてしまったみたいです。 最近、地震が増えてきていたからでしょうか。 九霄 少し先に進んでみよう。 歩いて外に出られるかもしれないし。 鉄師一夏 はい……。 トンネルの壁を伝って前へと進んでいった。 頭上で天井を支えている石の塊から聞こえる「ミシミシ」という音が不安を掻き立てる。いつまた崩れてもおかしくない状況だ。 トンネルの壁を伝って前へと進んでいった。 頭上で天井を支えている石の塊から聞こえる「ミシミシ」という音が不安を掻き立てる。いつまた崩れてもおかしくない状況だ。 九霄 一夏—— 少女が私の手を引っ張った。 九霄 暗いからこうした方が歩きやすい。 鉄師一夏 ……は、はい。 (早く出口を見つけないと......。) 体から汗が吹き出し手のひらも濡れるほどだったため、鉄師一夏は九電に失礼じゃないかと申し訳なく思った。 だが九霄は気にする様子もなく鉄師一夏の手を握り続けた。 九霄にとって、そんな事はどうでもよかったのだ。 本当に……。 本当に心地よい人……。 &bold(){だから私……。} 歩くペースを早めた。 次第に暗い環境に目が慣れてきて、倒壊したトンネル内の様子を目で捉えることができるようになった。 しかしそれと同時に気がついた—— 今にも落ちてきそうな岩がある事に。 それは九霄の頭上の岩だった。 考える暇もなくすぐに少女を押した—— 鉄師一夏 ……危ない! 壊れたトンネルの天井の岩が—— ものすごい勢いで当たった—— 「ドン!」 九霄 一夏! 初めは何も感じなかったが、その後強烈な痛みが左足を襲った。落ちてきた岩に挟まれていたのだ。激痛はしばらくすると麻連した感覚へと変わり、長くは続かなかった。 それでも、風船に針を突き刺した時のように、傷口から何かが止めどなく流れ出てくるのがはっきりとわかった。 九霄 待っていろ!我がすぐに助け出すから! 九霄がそう言うと、あたりに立ち込める空気中の何かが一瞬で別のものに変わったように感じられた。 のしかかっていた岩がまるで羽毛のように軽々と別の場所に移され、足の傷が何か不思議な感覚に包まれた。それによってケガが治りはしなかったが、出血はほぼ収まったのだった。 体が少女によって抱き上げられ、耳元で慌てたような声が聞こえた。 九霄 まだ痛い?他にケガをした所はない? 鉄師一夏 私は……大丈夫です。九霄さんはどうですか……岩は当たりませんでしたか? 九霄 我は大丈夫に決まっている。忘れたのか?我は律者だ。 鉄師一夏 ……… そうでした、あなたは律者でしたね。 本当にバカだった。何も考えずに行動してしまうバカ。これじゃ毎日、上司に怒られても当然だ。 だって私の前にいるのは、歩くし話もする核兵器のような人なんだから。 九霄 ちょっと見てみたが、この先も崩れて塞がっているみたいだ。でも大丈夫、我の実力を見せるいい機会だ。 &bold(){だから……私は……。} 九霄 一夏は横になってて。こんなトンネル、我が一撃で買通させて、すぐにお主を病院に連れて行くから。 先ほどの不思議な感覚の波動をまた感じた。 この感じ、崩壊エネルギーだ。 自分もあの大戦を生き延びた人類のひとりだから、崩壊エネルギーを感じたことがないわけじゃなかった。 しかし伝わってくる崩壊エネルギーの波動は、これまで自分が感じたことがないくらい強大で、不思議とやさしさを感じさせるものだった。 これこそが英雄の力……。 &bold(){だから……。} &bold(){私は彼女に対して……。} 鉄師一夏 これこそが……真の英雄。 九霄 ……ああ。後は我に任せて。 鉄師一夏 ですが……どうかやめてください。 九霄 ——えっ、どうして? 鉄師一夏 それをしてしまったら「ケアプロジェクト」の契約の、少なくとも14項目以上の内容に違反することになってしまいます。 崩壊エネルギーの使用、公共施設の破壊、それに崩壊エネルギーの大規模な使用……それを人契連本部の近くでしてしまうんですよ。 …私が…私があなたのことをいくら弁護しても……手当をすべて没収されてしまうことになります……。 目の前がさっきよりも暗くなってきたような……それに少し寒い……。 鉄師一夏 ですから……あなたにとって一番いい選択はこのままここで……救助を待つことです。全域連結が働いていますから、もうすぐ救助に来てくれるはずです。 これが……人契連の執行官としての判断です。 彼女は今、どういう表情をしているのだろう?私にはもう見えない……だけど彼女、何か言っている。彼女は今、どういう表情をしているのだろう?私にはもう見えない……だけど彼女、何か言っている。 九霄 構わん! そんな事! 彼女の声が聞こえた。 九霄 一夏、お主は我の友人だ。それにあの手当にしたって元々我が稼いだお金じゃないし、別にどうでもいい。 余計な事は考えるな。この救世主様が一夏を救ってやる。 少女の声には英姫の決意があふれていた。 それは生まれた日から自分の道を歩き続け、恐れを知らない声だった。 …………ああ。 鉄師一夏 わかりました。 これが英雄、真の英雄なんだ。 強くて、自由で陽気で、慌てず落ち着いていて、人の気持ちを汲み取れて、誰にでも優しい。 &bold(){だから私……私。} 鉄師一夏 やっぱりそうです……[[蓬莱寺九霄]]さん、私わかりました。あなたは本当にいい人。 九霄 それじゃあ、顔を背けてて。 &bold(){だから私はあなたのことが……。} 鉄師一夏 &bold(){だから私はあなたの事が嫌いなのです。} 九霄 ……へっ? 頭がクラクラし、私は壁にもたれかかっていた。 血に沿って流れ落ちるかのように、その言葉は静かに響いた。 流れ落ちた血液が地面にたまり、九霄の足元へと近づいていく。 鉄師一夏 「陽光と共に:戦後特殊人物ケアプロジェクト」は人契連本部の十大プロジェクトのひとつで……私にとって一番重要な仕事なんです。 ここであなたに崩壊エネルギーを使われてしまったら、私の任務はもう.....失敗したも同然です。 そうなれば業績がこれ以上ないほどマイナス評価されてしまいます。今いる部署はただでさえ、いつリストラが進められてもおかしくない状況ですから、きっと部署内のミスとかも全部、私のせいにされてしまいます。 九霄 ……いや、でも、それって—— 鉄師一夏 「仕事なんて大したことないんじゃないか?」って思われるかもしれませんよね? でも私にはこの仕事しかないのです。 家賃も払わなければいけないし、食べてもいかなきゃいけない。私の両親は「娘が人契連で働いている」という事で虚栄心を満たしているんです。 崩壊が発生した時、私はイヌのように逃げました。当時、家族で交代しながら防護服の購入申請をしてもひとつも買えませんでした。 崩壊との戦いが終わった後も、勝利や栄誉とは無縁でした。家具をまた一式買って、あの間仕切りで分けられた、いつも上でずっと工事をしてる騒々しい部屋で過ごすしかありませんでした。 私はあなたのひと月分の手当ての十分の一ほどの年収を得るために、趣味を捨てて、真面目に勉強して、毎日オフィスで口汚く罵られるのを耐え忍びながら仕事をしているんです。 私のように平凡な人は、いくらだって替えがきくんです。他の人にとって代わられないためにも、たくさんの事を耐えなければならないんです。 私は英雄でも、戦いの女神でもありません。律者でもなければ聖痕もありません。 あなたにとっては取るに足らないホコリのようなものが降ってきただけで、私の足は折れてしまい、私は膝をついて這いつくばるしかないんです。 つまりこの世界で、私は脇役を務める資格すらないんです。それはもう初めから決まっていたことなんです。 だから…………… お願いです。私、この仕事を失いたくないんです。 九霄 ……………えっと……。 鉄師一夏 どうかお願いです。律者・違菜寺九電さん。 どうか……どうか私の英雄にならないでください……。 九霄 …一夏。 お主がそんなことを思っていたなんて……。 彼女は沈黙した。 そうよ……私のこと軽蔑したでしょう……。 鉄師一夏 (ハハ……。) 私は心の中で自分のことをあざ笑った。 意識がもうろうとしてきた。 でも体は軽くなった。 まるで宙に浮いているみたい。 こうして……空に浮いていたい。 それが……私の小さい頃の夢だった。 でも「そんなの不可能よ」って言われてしまった。 ……でもそうよね? 普通の人は飛ぶことなんてできない。 普通の人は常識に従わないといけない。 普通の人は常識に支配される世界に居続けなければならない。 ふと突然、気がついた—— 自分が本当に宙に浮いていることに。 九霄 ここ、ここだ!ここにケガ人がいる——! 鉄師一夏 …… 私、さっきあんな事を言ったのに少しも怒っていないんですか? 救世主って、そこまで普通の人と考えが違うものなんですか? 九霄 何を言っている。我ら、別に喧嘩なんてしてないだろう? 一夏は我に本当の気持ちを打ち明けて、我はそれを聞いた。ただそれだけの事だ。 鉄師一夏 ……。 さすがは世を救う英雄ですね……。 思わず苦笑した。 ………私、あなたのことが嫌いだと言ったよね? あなたの事を否定する人に対してそこまで優しくなれるものなの? ………私が言った事で怒って、私の事を嫌いになればよかったのに。 ………そうすれば私はあなたと…… 少しだけ共通点を持つことができるのに……。 疲れという布団に全身を包まれたように、次第にまぶたが下りてきて、意識が長い夢の中へと落ちていった。 ……。 小さい頃はこんな感じではなかった。 あの頃は世界もまだ封を解かれたばかりのようで、私はとても純粋だった。 引きだしから白い人形が見えれば、それらが夜になると活動し始め、人形主体の世界を作り出すだなんていう幻想をいつも抱いていた。 空を覆う雲があればそれを見上げて、白い雲の後ろに人の形をした影が見えるのを期待していた。 ノストラダムスの予言やマヤの神話、はるか昔の古代文明の伝説を信じて、記号学や神話学に没頭していた。 それに……。 英雄の作品についても。 常に前を向く姿、後悔することのない決意、人々の注目を集める勇ましい姿。 まるで網膜に焼き付くかのように、一度姿を現せばあらゆる人々の視線を引く存在。 小説の中の伝説のように危機を前にして聖剣を掲げ、永遠の輝きを受け天地を割く存在。 ゲームの主人公のように、体がいくら傷だらけになろうとも勇敢に、世を救う者としての道を進み続ける。 激しい旋律の中で、自分には何も無いとしても、目の前に数え切れぬほどの敵がいようとも、自信に満ちた笑みを見せるアニメの主人公のよう。 …… だからそれを見た瞬間、私は虜になってしまった。 そういう存在になりたい。 そういう立場の人になりたい。 英雄のように喝采を浴びながらも、喝采すら超越し、孤独ながらも感傷にふける必要のない孤独な存在になりたい。 だから英雑になるための努力をした。 自分にはなんら特異的なものがないにも関わらず。 おかしな夢も見ないし体のどこかに印があるわけでもない。「あなたは選ばれし存在」と言ってくれる人もいなければ、他の人とは違う出来事に出くわしたこともない。 でも、自分の事を自分で選んだ。 自分が特別な存在だということを信じて。 クラスメイト一緒にいる時も、楽しさを感じながらもそうした楽しさを拒まなければならないと思った……なぜならそれは普通の人が持つ感情だから。 そうして高い壁を築き、自分だけの小さな王国を作り上げていた。 演劇部に入って英雄の役を演じた。 いつの日か天から光が射し、不思議な力が目覚めるのを夢見て。 でも…… それは単に英雄になりたかったのか、それとも「人に英雑と気づかれる英雑」になることを望んでいたのか? それについては考えていなかった。 低俗な分析は「英雄」の夢を壊してしまうから。 両親に怒られながらも夢中になり、自分には人と異なる使命がきっとあると頑なに信じる。 …… それこそが自分がこの世界に生きる意義。 平凡な一生を過ごしたくないと思っていた。それが自分の未来だとは思わず、使命というものが必ず、必ず存在し、いつかそういう日が来る……。 日々そう願っていた。 14歳になるまで。 ……。 「リリリリンーー」 電話の呼び出し音で夢から目が覚め、思い出のシーンが突如終わりを告げた。 電話に出ると上司の声が聞こえた。 上司 鉄師一夏! 何日も寝て、いつまでそうしているつもりだ。いい加減、ケガもよくなったはずだろう!? 早く本部に来るんだ。「ケアプロジェクト」の最後の報告がまだだろう! 鉄師一夏 ああ、はい—— 答え終わるよりも先に電話が向こうから切られた。 あっ……ということは人契連の総会がもう終わったのね。鉄師一夏の任務も終わったんだ。 周りの様子を見てみた。日の光がベッドを照らしていたが、そばには誰もいなかった。足はまだギプスで固められている。ベッドのそばに果物のかごが置かれている。貼られている紙からして慕さんが届けてくれたもののようだ。 空調の冷気で久々に涼しさを享受することができた。 鉄師一夏 スレッドを見てみよう……書類が何枚もデッドラインを迎えている… 早く仕事に戻らないと。 電話を置き服を着替えた。鉄師一夏は病室のドアを開け、足を引きずるにようにして蒸し暑い外へと歩いて行った。 ---- そして再び本部へとやってきた。 エレベーターのガラスに映った自分の姿はそこまではっきりとは見えなかったが、それでも悴していることはすぐに見て取れた。 仕事をする顔には程遠い。鉄師一夏はそう思い、すぐにコンパクトを取り出し薄化粧をしようと思った。 しかしコンパクトの鏡は割れてしまっていた。仕方なくガラスの反射を利用して化粧をした。そして九霄に見せた自分の弱い姿を化粧で覆い隠したのだった。 任務はもう終わったし、彼女の事は忘れよう。 英雄の交響曲に、私のような取るに足らない音符が入る余地はない。私にふさわしいのは仕事、クレーム処理、残業、徹夜くらいのもの。 鉄師一夏はそう自分に言い聞かせ、オフィスのドアを開いた。 鉄師一夏 鉄師一夏です。 上司 ギプスをつけて入ってくるとはどういうつもりだ?同情でもしてもらいたいのか? 鉄師一夏 …………。 上司 まあいい。 鉄師一夏、今回の「陽光と共に:戦後特殊人物ケアプロジェクト」の蓬菜寺九霄の業務は完了だ。 戦後二回目となる人契連の理事総会も順調に終えることができた。 おめでとう。ミスはやはりあったが、お前の本部最後の仕事もこれで円満に終了したというわけだな。 鉄師一夏 はい。 ……? ……最後の、仕事? 上司 そうだ。「ケアプロジェクト総会作業部会」は元々、本部の他の部署から人員をかき集めて作られていたからな。 総会関連の任務が終われば、参加者は全員他の部署に戻るというわけだ。 だが残念なことに、今回の総会で、財務負担を軽減するために本部の組織のかなりの部分を解体することが決まった。 お前が以前所属していた「内部情報課」もその対象に含まれてしまったのだよ。 上司の顔には、いい気味だと言わんばかりの笑みが見え隠れしていた。 その瞬間、鉄師一夏は挙を握りしめた。 鉄師一夏は、反射する光で上司の胸につけられたバッジが以前と変わっていることに気が付いた——バッジはより精細で質が高いものになっており、位の高さを感じさせるものになっていた。 鉄師一夏 …… わかりました。ではこれからはどの部署の業務に就くことになるのでしょうか? 上司 部署自体がなくなってしまったし、他に受け入れてくれる部署も見当たらないからな。本部にお前の居場所はない。 だが……お前がこれまで努力してきたことに免じて、私がいい場所を探しておいてやったぞ——ほら、大陸南端にある支部の責任者のポストだ。給料は現地水準の2.5倍だぞ。どうだ?この土地では高給取りだぞ。 鉄師一夏 ……あなた——他人の功績で昇進しておいて、私のことは僻地に追いやるつもりですか!? 抑えきれず鉄師一夏はついに声をあげた。 鉄師一夏がここまで明確に怒りを表に出すのは初めてだった。 上司の目に一瞬、驚きの表情が走った。だがすぐに血の臭いを嗅ぎつけたライオンのように、上司は得意げな笑顔を見せた。 上司 ほう……察しが良いな。そうだ、お前の努力のおかげで蓬莱寺九霄は我々の業務に「非常に満足」と回答してくれてな。私も晴れて高官に昇進したというわけだ。 …… お前はスポンジか何かのように、いくら罵られても何も反応しないとばかり思ってきた。だがどこまでも吸収できるというわけではないようだな。 もうお別れだしいい機会だ、ひとつ教えてやろう——お前という奴は人と会ってもしっかり目を合わせようとしない。目が二つあるのに焦点があっていないというか、つかみどころがない。だからお前の姿を見るたびに私はすごくイラつくんだよ。 だからそういうクセを直してやるために、毎日ここでこうしてお前をしつけてやってるというわけだ。 これからはせいぜい自分の悪い癖に注意することだな。新しい上司が、私のように慈悲に満ちた人物かどうかわからんしな。ハハハ! 以上だ。業務上の書類を持ってすぐにここから出ていけ——行き先は草木が生い茂る素晴らしい土地だからな。嫌なら辞めることだ! ……。 鉄師一夏はオフィスを出た。 オフィスに着いてから10分も経たたず、鉄師一夏はぼんやりとしながら再びエレベーターに乗った。透明なガラス張りの壁に、ぼやけた自分の姿が映った。 映りこんだ自分をじっと見た。 この目が? この目つきが人を苛立たせ、侮厚してもいい存在なんだと人に思わせるの? ……そうだったのね。 「ガタン——」 落ちていく。 エレベーターが落ちていく。 鉄師一夏も落ちていった。14歳の彼女と共に。 あの頃の自分は「英雑」ものの演劇の練習に毎日励んでいた。ステージの上で自分は光り輝いていると感じていた。その物語が作られたもので、演じる世界もそういう世界だったとしても、そこにはなんらかの真実がきっとあると思っていた。 —— あの頃、私はそう信じていた。 でもその次の月に、演劇部で市が開催するイベントでの劇をすることになると両親は怒った。 両親は中間テストの成を手に、最近まじめに勉強しているのか、部活が原因で勉強がおろそかになっているんじゃないかと怒りながら詰め寄った。そしてそんなわけのわからない課外活動にはもう参加せず、学業に専念するようきつく言い渡したのだった。 泣き叫び、言い争い、懇願し、思いつく方法はすべて使いつくしたけれど……なんの効果も無いばかりか、夢中になって周りが見えていないと思われてしまった。そして両親は鉄師一夏の外出を禁じ、諭すようにして彼女にこう言った—— 「演劇で演じてるものなんか虚構のもの。そんな部活動、将来のためにまったくならない....」 「演劇で有名大学に受かるとでも思ってるの?その歳で芸術系を目指したって遅すぎる!」 「それに芸術の大学なんて狭き門……趣味やアマチュアでいくらやっていても、学校でみんなが尊敬するのは成が優秀な人だけ!社会に出たら権力やお金を持っている人しか尊敬されないのと同じ!」 「あなたの年齢で自分を証明できるものは成績しかない!」 どれもこれも低俗な言葉だった。 鉄師一夏はそれらを自分の耳から完全に排除した。 外出を禁止された数日間、彼女は「英雄」の作品に思いをはせ、英雄達の恐れを知らない姿を想像し勇気を得ていた。 そしてあの大雨が降った日に彼女は自作の工具で窓につけられていた鍵を壊し、こっそりと家を抜け出した。 大雨が降っていた。 しかし鉄師一夏の心はとても興奮していた。 雨に打たれ、しかも帰宅すれば両親に怒られることは明らかだったが、心の中で血がたぎった。外出を禁じられた状態から家を抜け出す行為は、小説の夢の世界そのもので、自分が物語の主人公になる一歩目を踏み出したようだと彼女は思った。 彼女は雨で濡れながらも演劇部の練習場へと走っていった。 しかし……。 元々彼女が演じるはずだった主役は既に別の人が担当していた。 「どうして!?私は?私はどうなるの?この劇、私が構想を練ったものなのに!」 鉄師一夏に問いただされた生徒はばつの悪そうな表情を見せた。 結局、ある程度仲のいい別の生徒が彼女の突き付けた疑問に答えてくれた。 「あの、数日前にご両親が来て、鉄師さんはもう演劇部に来られないって言われたのよ。でも劇は来月に迫ってるし、主役なしで演じるわけにもいかないでしょう。それで……。」 「…… 問題ないわ。私はこうして来たじゃない。主役を続けられるから私にやらせて!」 彼女が必死で頼み込むのを見て、友達も他の部員達も顔を見合わせた。彼女達の表情は非常にこわばっていた。 「その、なんて言えばいいのかな……とにかく見てもらうというのはどうかしら?」 鉄師一夏はその子に待つように言われ、代役の子が演じる様子をしばらくの間見た。 そして—— 怒り、動揺、信じられないという思いは、最後には沈黙へと変わった。 自分が書いた劇だというのに、その代役の子は自分よりも高いレベルの演技をしていた。 表情も動作も自分よりも何倍も細かくできていた。 —— あれは想像の中の自分の舞台のはず。 —— あれは自分だけが演じられるもののはずなのに、あの子は私よりも「英雄」があたかもそこに存在しているかのように演じていた。 鉄師一夏を打ちのめしたのはステージ上のその子の演技だけではなかった。[[慕寒音]]以外の人々の目線もあった。 あの無言で問いかけてくる目線、彼女に黙って身を引くよう求める目線、「あなた、私達の練習時間をどれだけ無駄にしているかわかっているの」と詰問するような目線だ。 鉄師一夏は練習場を駆けだした。 あの時から彼女は、自分が「英雄」や主役には決してなれないことを知ったのだ。 舞台自体、自分のために作られたものではないことも。 ステージに登り声を張り上げても、結局それは陳腐なものにしかならず、自分しか感動しない劇になってしまう。 失意のどん底にあった鉄師一夏が家に戻ると、両親は不思議と怒らなかった。風邪をひかぬようにとショウガのスープをいれてくれ、お風呂に入り着替えるよう促された。 翌日、鉄師一夏は持っていた小説もアニメのDVDもゲームもすべて箱にしまい、自分の部屋の机で教科書を開くようになった。 漫画フェアのコスプレも諦め、アニメのストーリーについて友達と語り合うのもやめた。窓も締め切り、家の下で何度も呼ぶ募塞音のことも相手にせず、人よりも上に立つ事だけに力を注いだ。 大雨で洗礼されたかの如く、それ以降、鉄師一夏の成績はうなぎ上りとなった。 その頃、演劇部の劇も市が開催するイベントで一位を獲得していた。鉄師一夏も見に行ったが、主役の子の演技は鉄師一夏をも感動させるものだった。 しかし演劇部のその結果は、学校の門の近くの掲示板の隅でしか紹介されなかった。 一方、同じ時期に掲示板で一番目立つ形で紹介されていたのは、鉄師一夏を含む数人の生徒の各前だった。 そこには「本校の生徒のxxxさん、xxxさん.....鉄師一夏さん.....彼らは今回の進学テストで優秀な成を収めました。おめでとうございます。」と書かれていた。 …… そういう事だったの? 両親が言っていた事の意味が、その時になってようやくわかった。 鉄師一夏は現実を悟ったかのように、その後もどんどん上を目指して歩んでいった。しかし、成功することもあれば、失敗することもある。紆余曲折はあったにしろ、彼女は一流の大学を卒業して人契連本部の一員となった。もはや彼女は両親の心配の種などではなく、自慢の娘となっていた。 …… 人契連の職場は、両親にとって非常に大切で価値のあるものと映っていた。実際には毎日大変なプレッシャーに直面しながら働いているという事実を両親は知らなかった。 …… 自分は一番下の執行官に過ぎず、まったく自慢になんてならないのに。 …… ずっと心の中の焦りと不安に耐えてきた。他人に怒りをぶつけるなんてことできない。人に嫌われるような事もしたくなかった。 …… ずっと耐えて、ずっと自分から引き、ずっと服従し、ずっと気持ちを抑えつけてきた。 それでも鉄師一夏は自分が得たいものを手にすることはできなかった。 翼のない鉄師一夏が得られたのは、結局落ちることだけだった。