外界の街というものを、まともに歩いた記憶は少ない。
幼少の頃は、母メディアの館で、日々を静かに過ごしていた。
父の助けとなるために、力を磨いていた頃は、パライストラに閉じこもっていた。
故に、こんな灰色の大都会は、オリオン星座の
エデンにとっては、生まれて初めての体験であり。
「………」
されど、今のエデンの心には、そんな未知の光景すらも、まるで響くことはなかった。
「……アリア」
立ち尽くし、ぐっと拳を握る。
コンクリートの地面へ落とした視線が、歪む。
下らない。
その一言に尽きた。
(アリア)
つい先ほど、1人の娘が命を落とした。
誰よりも大切だった少女が、己の目の前で死んでしまった。
アリア。
次なるアテナの座を継ぐ者。
妹のように愛した光の神子。
父の切り拓いた世界を、共に治めていくはずだった。
自らは世界を統べる王として、アリアは世界を守る女神として。
共に手を取り合って、争いのない理想郷を、2人で築いていくはずだった。
「アリア……」
されど、彼女はもういない。
この世のどこにも居はしない。
あの生意気なペガサスの小僧――光牙とその取り巻きを守るために、父と戦って命を落とした。
あの少年とアリアの間に、何があったのかは知らない。
己も知らされていない何かが、アリアを突き動かしたのかもしれない。
それでも、彼女は死んでしまった。
父に刃向かったが故に、その杖で命を絶たれたのだ。
「………」
伝説の黄金聖闘士の死?
命をかけた殺し合い?
大勢の人間が閉じ込められて、命を奪い合うことを強要されている?
下らない。
そんなものが何だというのだ。
一番大切な命を亡くした己の心を、今更十把一絡げの有象無象が、一分でも動かせるとでも思ったか。
馬鹿げた遊戯だ。
気をやる気分にもなれない。
だからこそ、何もしたくない。
こんな退屈なゲームごとき、乗る気も逆らう気も起きない。
(もう、放っておいてくれ)
僕は疲れた。
もう僕に構わないでくれ。
バラの女に対して、白い魔人に対して。
全てに吐き捨てるようにして、心中で呟いた刹那。
「―――」
かつん、と響く靴音が、エデンの背後から鼓膜を揺らした。
音のする方へ、振り返る。
距離にして、20メートルほどか――ちょうど曲がり角になっているあたりに、1人の少女が立っていた。
いつから、そこに立っていたのか。
さながら、幽鬼か何かのような。
クリーム色の学生服を纏いながら、茫洋と闇に溶け込むように、少女はそこに立っていた。
「………」
アリアではない。
当たり前だが、彼女ではない。
黒髪をボーイッシュにまとめた顔は、水色のベリーショートとは、到底似ても似つかない。
闇夜に蛍が舞うかのように。
宵闇と混ざる黒髪の下で、猫のような金眼が、静かに光を放っていた。
「……ふん」
一向に、攻めてくる気配はない。
殺気というものが感じられない。
紛らわしい真似をするなと。
やる気のない奴が近寄るなと、そうぶつけるように鼻を鳴らす。
どうやら、あれは放置してもよさそうだ。むしろ今の気分では、変に関わるのは面倒でならない。
故に、エデンは踵を返し、その場から立ち去ろうとする。
「つれないね」
その、瞬間だ。
不意に、女の声と共に、頭上から影が差したのは。
「ッ……!?」
僅かな月明かりが遮られる。
びゅん、と風の音が鳴る。
声と音がする方を向けば、そこにあったのは金の瞳だ。
長袖と黒いスカートの、学生服を着込んだあの女だ。
指先が仄暗く、光を放つ。
闇さえ飲み込むかのような、濃紺色の光が広がる。
瞬間、頭上に舞った少女の姿が、指先から見る間に一変した。
黒く、黒く。
闇色へ染まる。
中指から広がる暗い光が、黒ずくめの装束へと変わっていく。
「チッ!」
ほとんど直感的に、身を退かせた。
飛びのいたその鼻先を、鋭い風が通り抜けた。
着地し、アスファルトを滑る。冷ややかな気流をなぞりながら、エデンは眼前を見据える。
果たしてそこにあったのは、爛々と輝く三閃の爪だ。
右手を振り抜いた姿勢の、漆黒の少女の姿があった。
「ふふっ……なかなかどうして、速い迅い」
賞賛はまるで軽口のごとく。
エデンを讃える気持ちどころか、戦場の緊張感すら感じられず。
遊戯の腕前を褒めるように、少女はそう言ってのけた。
巨大な鉤爪を伸ばした、白い袖口を引き戻す。黒髪の少女の纏う服は、先ほどまでとは様変わりしていた。
ミニのタイトスカート以外は、ほとんど男装のような姿だ。
黒一色に染まった装束は、男性の燕尾服によく似ている。胸元に見えるシャツと、袖口のフリルとだけが、白い輝きを放っていた。
その袖から覗く刃――これまた黒く染まった爪が、エデンを襲った武器というわけか。
(聖闘士か? いや……どう見てもあれは聖衣ではない)
鍛えたのは身体だけではない。こんな状況下にあっても、明晰な頭脳はフル回転する。
油断なく構えを取りながら、エデンは眼前の闇を見定めた。
あの黒服は、恐らくは、彼女の戦闘装束だろう。瞬時に纏ったそのプロセスは、聖闘士の聖衣にも似通っている。
しかし、それでも服は服だ。どう見たって鎧には見えない。
何より、あの娘からは、小宇宙がまるで感じられない。
得体の知れない妙な力が、彼女から発せられているようには見える。しかし、その力の流れからは、小宇宙の気配が読み取れない。
彼女が殺意を持って己に接し、刃を振るった敵であるなら。
オリオンの青銅聖闘士・エデンは、まるきり未知の標的を、戦い退けなければならないということだ。
それも、恐らくは主催から没収された、オリオン聖衣のない状態でだ。
「まさしく神業ってやつだね。そこらへんの人間じゃあ、避けられないようにしたんだけどな」
くつくつ、と単眼の少女が笑う。
いつしか彼女の金の右目は、黒い眼帯に覆われていた。爛々と光を放つのは、今は金の左目だけだ。
黒水晶は細く、長い。
今では同じ金眼も、肉食の獣のそれに見える。
「……去れ。誰かは知らないが、今は虫の居場所が悪いんだ」
少女を睨み、エデンが言う。
鬱陶しいから関わるなと、少女の笑みを拒絶する。
「遠慮するよ。ここで君を殺さなきゃ、いつまでもゲームは終わらないからね」
「知ったことか。下らないやり合いが望みなら、余所で勝手にやってくれ」
そうだ。知ったことではないのだ。
こんな馬鹿げた争いになど、一分一秒も関わりたくはないのだ。
「じゃあ、さ――ッ!」
刹那、疾走。
されどその願いを無碍にして、少女は無慈悲に殺到する。
まばたきの間に距離が詰まった。
目と目がゼロ距離で向き合った。
「――さっさとおっ散んで一抜けちゃいなよッ!」
「くっ……!」
びゅん、びゅんと。
迫る爪劇は、今度は2つ。
両の手の六爪と化した少女の刃が、エデンの喉笛へと襲いかかる。
これも何とか、身をよじってかわした。
突撃する少女はその勢いのまま、背後のビルへと突っ込んだ。
「まだだ!」
次なる音は、激突ではなく。
がんっ――と響いたのはキックの音だ。
コンクリートの壁を蹴った少女が、そのまま反転して飛びかかってきたのだ。なんとめちゃくちゃな挙動か。
(速い……!)
己が小宇宙を左手に集め、迫り来る凶刃を捌きつつ。
敵の攻撃を回避しながら、エデンは苛立ちに歯噛みする。
最初の一撃の瞬間から、厄介に感じたのはこの速さだ。あの娘は動きを止めたかと思えば、唐突なまでの勢いで加速する。
振りかぶる爪は掌打で弾いた。
蹴りかかる脚は身をよじってかわした。
それでも少女は休むことなく、次々と襲いかかってくる。縦横無尽に闇を駆け、灰色のジャングルを猛然と飛び交う。
立体的なその挙動は、密林を疾走する豹のそれだ。しなやかに、苛烈に迫る爪牙は、人の繰り出す攻撃ではない。
「っははは! 虫が何だって!?」
メスガキめ、と内心で毒づく。
飛びかかる獣を飛び退ってかわし、エデンは眉間に皺を寄せた。
同時に左手に煌めくのは、内より輝く小宇宙の光だ。
ばちばちばち、と音が鳴る。小宇宙の7大属性の一角――雷の力が炸裂する。
これ以上付き合いきれるかと。
「トニトルイ……サルターンッ!」
苛立ちと共に、叫びを上げた。
轟、と唸りを上げるのは、雷鳴瞬く小宇宙の弾だ。
突き出された左の手のひらから、稲光りする弾丸が発射された。
光は闇を切り裂いて、黒き少女へと向かう。
されど、当たらず。
雷は虚空へ。
芸のない直射など無意味だ――そう嘲るかのように、少女は難なくこれをかわす。
無論、当たるなどとは思っていない。
エデンの目指す真の的は、その遥か後方上空にあった。
「ッ!」
どん――と鈍い音が響く。
爆裂の音が鳴る先は、少女のすぐ傍にあるビルだ。
壁は砕け、瓦礫と化す。
さながら崖の崩れるように。
3階の高さの壁が破壊され、生じた大量の破片が、少女目掛けて降り注いだのだ。
「二度も同じような手を……ッ!」
少女の反応は素早かった。
憎々しげな声を上げながら、一気に正面へと加速した。
「はッ!」
しかしその先に待ち構える者こそが、オリオン星座のエデンだ。
向かってくることが分かっているのなら、拳を浴びせることは容易かった。
「ぐ……っ!」
どすん、と響く拳撃の音。
絞り出すような少女の呻き。
迎え撃つエデンの右ストレートが、遂に女のボディを捉えたのだ。
「フン!」
瞬間、炸裂。
迸る電光が宵闇を照らす。
練り上げられた雷の小宇宙が、拳の中で爆発する。
ばちっと裂音が響くと同時に、少女の身体が吹っ飛んだ。
どん、と音を立ててぶつかったのは、エデンの放った稲妻の弾――トニトルイ・サルターンの着弾地点だ。
衝撃は爆発跡に追い打ちをかけ、盛大な粉塵を巻き起こす。
だんっ、とアスファルトから跳躍。
力任せに大地を蹴って、エデンも闇へと飛び込む。
度重なる筋肉と小宇宙の修練――鍛え上げられた聖闘士の身体は、一跳びでビルの高さへと到達した。
「目ざわりなんだ……!」
闇の中を手繰り、掴む。
血を吐くように呟きながら、煙の中から少女を見出す。
首根っこを掴み、持ち上げると、今度は地上へと投げ落とした。
「――失せろッ!」
崩れた壁を蹴り、再度跳躍。
宵に迸るは六閃の雷光。
その名も、トニトルイ・フェラカーラス――6発のサルターンを同時展開し、一点に収束して放つ必殺技だ。
瞬間、炸裂。
束ねられた雷光が、極光となって黒を引き裂く。
音よりも速く、光となって、激烈な小宇宙が爆裂する。
轟――と爆音が響き渡った。建物はびりびりと振動し、窓ガラスが立て続けに砕け散った。
閃光は網膜を焼き焦がし、衝撃波は轟音を伴って鼓膜に刺さる。
もうもうと立ち込める煙の下には、赤々としたクレーターが形成されていた。
コンクリートすら溶解させるほどのプラズマの波動が、このバトルロワイアルの会場に、深々と傷跡を刻み込んだのだ。
「………」
灼熱の大地に、着地する。
ゆらゆらと立ちこめる陽炎が、エデンの頬を生ぬるく撫でる。
月下に広がる地獄の最中、それでも、彼の顔は晴れない。
「……何をヘラヘラと笑っている」
ぎり、と歯ぎしりをしながら、言った。
またしても背後に立っていた、漆黒の襲撃者に対して。
彼女は倒れていなかった。必殺のタイミングで放たれた、あのトニトルイ・フェラカーラスを、紙一重でかわしていたのだ。
「何がゲームだ……何が殺し合いだ……!」
握る拳が、力に揺れた。
眉間に深々と皺が刻まれた。
気に食わない。
何から何まで気に食わない。
どうしてそんな顔で構う。
どうしてへらへらと笑いながら、いちいちじゃれついてくる。
「本当に大切なものを奪われた痛みが、貴様などに分かるというのか……ッ!」
何も知らないくせに。
この胸の痛みも苦しみも、お前は何も知らないくせに。
それを暢気に笑いながら、命を奪うなどと笑わせる。
血を流すような本音だった。心に溜めた哀しみも怒りも、一緒くたにしてぶちまけた。
返される声は、何もない。
背後に立っているであろう黒服の少女は、何のアクションも起こさない。
「……力の差は分かっただろう。もうこれ以上、僕につきまとうな」
ただそれだけを言い残した。
それだけを背後へと吐き捨て、エデンはその場を後にした。
かつかつかつ、と靴音を鳴らす。
歩みのリズムは千々に乱れる。
もう、何もかもどうでもいい。
何もするつもりもないから、誰もかれも近寄らないでほしい。
(放っておいてくれ)
苛立ちの中、それだけを繰り返し、エデンはビルの谷間へと消えた。
雷の王子が立ち去って、地上の地獄には少女が1人。
黒い戦闘装束は、上半身の右半分が破れ、カッターシャツが露出されている。
「………」
痛む腹を押さえながら、少女――
呉キリカは光を放った。
破損した黒服を指先の指輪へとひっこめ、元の制服姿へと戻った。
魔法少女、呉キリカ。
親友・
美国織莉子の大願のため、殺戮を繰り返した漆黒の少女。
世界を救うという大望のため、同族殺しに手を染めた、裏切り者の魔法少女。
「強かったな、彼」
この場に立ち尽くしていたのは、対峙した相手の強さゆえだ。
恐らくは、同い年ほどだろうか――顔立ちが整っている以外は、何の変哲もない少年のはずだった。
それでも、あの妙な電撃攻撃の破壊力は、下手すれば自分の爪以上だ。
最後に放った攻撃など、速度低下でかわしていなければ、命を奪われていたかもしれない。
その上、強い上に頭も切れる。
背後からの攻撃は、
巴マミ相手にも経験したが、まさかそれを避けるのも計算して、正面攻撃の用意をしていたとは。
魔法少女よりも強い男など、前代未聞の存在だった。
「ま、仕方ない! あれはまた考えるとして、今は他を当たるとするか」
自分に言い聞かせるように言うと、キリカは行動を開始する。
向かう先は、エデンとは別の方向だ。あれを攻略するとするなら、より万全を期して挑まねばならない。
それにあの男は、現状、殺し合いに乗るつもりはないらしい。
であれば、今優先するべきは、織莉子を害する可能性がある、他のまだ見ぬ殺し屋達だ。
(あの時、あの部屋には織莉子もいた……)
数分前の光景を回想する。
あのバラのタトゥの女が、ゲームの説明をしていた時のことを思い返す。
状況からもしやとは思ったが、やはりこの殺し合いの会場には、美国織莉子も連れ込まれていた。
少し周囲を見回せば、見間違えようのない後姿が見えた。
優先すべきは彼女の命だ。彼女の命を守るために、あらゆる敵を排除することだ。
(……失う恐怖となら、何度でも戦ってきたさ)
少年の言葉を、追想する。
大切なものをなくす痛みは、確かに味わったことはない。
それでも、大切なものをなくすかもしれないという恐怖には、何度となく震え続けてきた。
だからこそ、もう絶対に手離しはしない。
この卑怯で臆病者な己を、それでも受け入れてくれた彼女を、決して手離すわけにはいかない。
たとえ何者が相手であろうと、命に代えてでも彼女を守る。
差し伸べられた織莉子の手は、絶対にこの手で掴み続ける。
確たる決意を胸にして、キリカは次なる戦場を目指した。