もうじきに太陽が空のてっぺんを回ろうかという折の、東京の片隅。
川下医院という、新宿の一角に紛れるように立っている病院の軒先は、退屈なくらいに平和だった。
蒸れた風が運ぶうだるような熱と、ともすればちりちりと肌を焼くような日差し。
そんな炎天下に訪れる患者の気持ちを、僅かにでも華やげるように並んだ植木鉢の色彩の上を、季節知らずの蝶がへたりながら滑るように飛んでいて。
その蝶の羽を湿らせることのないようにじょうろから降り注ぐ水は、熱に渇くこともなければ後数日もしないうちに彼等をより瑞々しく仕上げるだろう。
そのまま玄関前に水を撒けば、エントランスの日陰に相俟って午後には僅かばかり過ごしやすい空気が漂うはずだ。
戦争も、誘拐も、行方不明も何もない、ただの街並みの一角の風景。欠伸が出てしまうような、夏の日のありふれた一頁。
じょうろを持った彼女は、事実本来ならそうあるべき存在だ。
ただこうして、日々の平穏を祈り生きることこそが、アイドルであり、そしてただの少女としての彼女が送るべき日常である。

――されど、因果は巡る。
末端といえど、此処は既に戦場の隅。
さながら隅々に張り巡らされていた糸をゆっくりと手繰るように、その日常は非日常へと引きずり込まれる。

そしてその運命の糸は、皮肉なことに、その平穏の中心にいた彼女へと紐付けられていた。

怪物たる病院の主は部屋に籠っていたし、彼が鎖を握る獣は今も次元一つ隔てた先で時を待っている。
彼女が従える幽鬼もまた、この会場において彼を包む因果との邂逅を未だ果たす兆しもない。

だから、その時。
じょうろから垂れた水の重さに耐えかねて、滴る雫を落とした葉とか。
生温くも肌に張り付いた汗を冷やす風に揺られて、ざわりと世界を揺らした音とか。

そんな、都市部の一角を彩る情緒を一色に塗りつぶすような、重い空気を纏ってやってきた通告を。
ただ、その通告の行先であった彼女だけが受け取って。

――そうして、戦禍は巡る。
戦争の舞台を回す歯車を、ひとつの命が回し始める。
その先にある運命を、未だ誰も知ることのないままに。


午前の診察が終わって、皮下はふと無意識に出てきた欠伸を嚙み殺す。
界聖杯から与えられた医者の役割(ロール)は、正直なところ退屈に過ぎた。
そもそも根本的なところとして命に価値を見出していない、という自身の性質を抜きにしても、舞台装置として設えられた単なる機構を『診察』する、というのは非生産的に過ぎる。なにせ大体が健康体だし、継続的に問題があるような患者も聖杯戦争が終われば消える泡沫の存在だ。役割をこなすという意味では重要だが、行為そのものには根本的に意味がない。
地下で実験体として扱っている人々から得られる葉桜のデータは、そうしたただの舞台装置から得られる情報としては珍しく有益といえるが――

(……さて、どうするかねえ。葉桜の備蓄に関してはまあまあだけど、投入のタイミングは考えねえと宝の持ち腐れになっちまうからなあ)

――その葉桜も、葉桜を用いて強化した私兵も、すべては聖杯戦争の為の道具に過ぎない。
聖杯戦争を勝利した上で願いを叶えるという順序である以上、種まき計画の実行自体は元の世界で帰還した上で行うことになる。その為の葉桜は既に元の世界に貯蔵してあるし、そうでなくとも願いを叶えれば葉桜が存在しなくともその成分が世界中に散布されるだろうことは疑わずとも良いだろう。
故に、ここで製造した葉桜については惜しむ余地は特にない。川下がこの戦争の場において葉桜を増産しているのは、単に勝利の為のリソースとしてだ。
その活用方法は、主に三つ。
ひとつは、この東京における活動資金の確保。
彼の医者としての収入は決して少なくはないものの、それ以上の出費を強いられていることもある。それはライダーを賄う為の酒代であったり、実験体や兵士の確保における人身売買やパイプ作りであったり、あるいは葉桜の研究費用そのものであったり――そうした面を差し引いても、戦争において元手は大いに越したことはないというのは、先の大戦にて前線とは離れた場所にいた彼の身にも染みていた。
もうひとつは、葉桜の適合者として彼の部下となる私兵の増強。上手く適合者となったNPCの私兵たちならば、対サーヴァントは論外としてもマスター狙いの鉄砲玉、肉壁程度の役割くらいは十分にこなしてくれるだろう。
実験体の出所については、元の世界と同じように脚が付かないものから人身売買に闇取引まで程よく集められた。あるいはサーヴァントを失った元マスターやらも紛れているのかもしれないが、そこに関しては知ったことではない。
そして最後の一つは、『鬼ヶ島』の顕現の際に、彼が従えるライダーの部下――百獣海賊団の猛者どもの、更なる強化(ブースト)を行えるかどうか。

(正直なところ、あんまり期待はしてないけどね)

だが、最後のひとつに関しては皮下も否定的であった。
まず前提として、彼の部下のうち、幹部級であるらしい「大看板」と「飛び六胞」を除いた大軍勢は、大きく分けて三つ。
そしてその区分けは、SMILE――ライダーが生きた大航海時代にて、食べたものをカナヅチにする代償として様々な異能力を授けるという「悪魔の実」を人工的に再現した代物がボーダーとなっている。
ウェイターズ/未だにSMILEを手にしていないもの。
プレジャーズ/SMILEを食べた結果、能力を得ることなくただ笑うことしかできなくなったもの。
そして、ギフターズ/SMILEによって、人知を超える力を手にしたもの。
細かくはギフターズの上に座する真打ちなどもいるが、概ねこれら三つで織りなされた大軍勢が、カイドウの鬼ヶ島擁する戦力である。

(提督ってば、そういうところはクソ真面目だよねえ。律義に百獣を揃えようとするとか暇人かっつの)

とはいえ、手段であるか目的であるかの違いこそあれど、やっていることは似たようなものだ。
悪魔の実から再現するSMILEと、夜桜の血から再現する葉桜。自然が産み落とした埒外の領域を、人の手によって再現したということには違いない。

もっとも、そうした共通点に無暗に感じ入りたいわけではない。今差ししまった問題は、葉桜が彼等軍勢に十分な効用を齎すかどうかだ。
サーヴァントはただでさえ未知の代物なのに加え、SMILEに適合しなかった――薬物への拒絶反応の前例があるというのは嬉しい情報。
特に、葉桜は未だに完全ではない。適合するかどうかは精々五分がいいところで、そうでなければ死に至る。単純計算でも軍勢そのものが半減するような博打には中々出れないだろう。
ギフターズと真打ちの実力は確かなものであるとしても、ウェイターズ・プレジャーズに対してどこまで試したものか。

――閑話休題。

どちらにせよ、サーヴァントにせよ葉桜の私兵にせよ、動かすとしたら一気に、が常套手段だろう。変に二つの足並みを揃えなければ、サーヴァントの間欠を埋めるという葉桜軍団の目的も完全なる軍政としての動きもただの無謀な逐次投入になり下がる。
故に、結局は鬼ヶ島顕現まで、地道な地盤固めと無為な診察を続ける――というのが、何度考えても無難ではある。

(色々やりたいことがあるけど、今下手に動くのコエエんだよな~~~。嗅ぎまわってる奴もいるっぽいし)

元の世界にいた、そこそこの適合率を有しつつも懇意にしていた協力相手――ノウメンと同じ容貌のNPCを思い浮かべながら、彼の呟いていた興味深いことを思い出す。

『最近、こういう取引の情報を漁ってるらしいという情報があったわ。不用意な取引だと脚が付きそうだし、今後はより慎重に動くことにしましょう』

時期からいって、聖杯戦争の参加者が裏社会に何らかの形で手を伸ばしているのは確実だろう。
皮下も100年の間姿を隠してきたこともあってそれなりに暗躍の術は整えているが、所詮はスパイ協会の網から逃れきることができなかった身だ。そこまで大規模な活動を起こして足が付くよりは、今は大人しくしておくほうが賢明――


「……うん?」

と。
そこまで思考を巡らせたところで、彼の視界の端に止まるものが一つ。
窓から見える景色の中で、先程まで言葉を交わしていた少女が駆けていく姿を、皮下はその目に捉えていた。

「霧子ちゃん?おいおい、どうしたどうした」

急に、それも人気のない方向へと走り出している彼女に、思わず眉を顰める。
ただでさえ、彼女がマスターである可能性は考慮しているのだ。何があったのかは知らないが、本戦も始まったばかりのこのタイミングで動きがあるというのなら注意をしておかなければならない
ちょっと様子くらい見ておくか、と椅子を立ったその時、必然か偶然か――

『――では、次のニュースです。人気アイドルグループ『L’Antica』に所属する白瀬咲耶さんが、昨夜から――』

――病院のテレビから垂れ流されている昼間のニュースは、皮下の耳にほぼ同時に飛び込んできていた。


――娘は、泣いていた。
人知れず、誰もいない、誰もこないような場所で。
たった一枚の紙片を握り締めながら、ただ、泣いていた。

しとしとと垂れる涙は、花を濡らし葉から垂れる水のよう。
滂沱と流れることもなく、静かに。静寂に混じる嗚咽は、風と蝉時雨に掻き消されて。
ただその中で、ただ気持ちを噛みしめるように、座り込んで。

――ここに、彼女の手記があります。ただ……

煙草を咥えた大柄な白髪の男と共に尋ねてきた赤眼鏡の刑事は、そう言い残して病院を去った。
暫し衝撃に呆然としていた彼女は、のろのろと関係者以外入れない屋上の片隅に腰掛けて。
数度の逡巡の後で、やはり、紙片を開いて。

読み始めてすぐに、くしゃり、と皺が寄った。
その後、小さく、か細いしゃくりが空気を揺らせて。
そして、やはり間もなく、涙と嗚咽が、熱を含んだ空に消えていった。


――耳障りだ、としか、黒死牟は思わなかった。
人を偲び、死を憂いて流す涙など、己にはない。あの鬼狩りの組織にいた時とて、脇目も振らずあの男に追いつく為に剣を磨き続けた己には。
死は不可逆の喪失であり、それ以外の何物でもなく嘆かわしいものだ。故にそれは永遠でなければならず、生が断たれれば鍛え上げた武練も何もかもが水泡に帰す。そこから新たな発展に繋がることなどない。
ならばこそ、この身は鬼としての不死性を得ることを選んだのだから。

――なんの心配もいらぬ。わたしたちは、いつでも安心して人生の幕を引けばよい。

ほとほと、反吐が出る。
そんなことをずけずけと言ってのける、あの男の記憶に、苛立ちが募る。
焦瞼――己を灼く炎の音が聞こえた気がして、実際に日の下に居る訳でもないのに身を焦がす熱が灯った、その時。

『……セイバーさん……』

静かな声音が。
念話越しに、彼の耳朶へと届いていた。

『……咲耶さんは……どこに、いたのかな……』

呟くように問われた言葉に、霊体でありながら尚眉根を寄せる。
いや、それも越えて、呆れ返ったというのが正直なところかもしれない。

『死した者の場所等……探した処で詮無き事……』

突き放すように、そう告げる。
赤子でも分かることだ。死者は、既に此の世の何処にもいない。
一度荼毘に伏された者がこの世に帰ってくる道理など、それこそこの英霊召喚、あるいは聖杯の願いのような例外をおいて他にない。
花畑のような思考回路も、ここまでくれば滑稽の域だ。誰が死んだか知る由もないが、この戦場において現実逃避にまで縋るかと、哀れみの情も沸いてくる。

『………でも………見つけてあげなきゃ………』

されど、彼女に狂気はない。
その瞳は未だ濁ることなく前を見て、その言葉はか細く震えながら清らかに。
正気にてそれを言っているのであれば――成程、納得できる答えは確かに在った。先程思い当たったばかりの例外。死者蘇生とて叶うであろう、万能の答え。

『然らば、その為にこそ……聖杯を求めるか』

同胞の為。成程、理解はできよう。
復讐の狂炎に囚われた鬼狩りの柱を、幾人となく返り討ちにしたことがある。
死した仲間を必死に蘇生しようとする隠を、感慨もなく一刀に伏したことがある。
そうした行動に理解を示す意はないが、主が望むのであれば。その果てに己が戦いを果たせるのであれば、態々水を差す意味も無い。

――しかし、そうですらなかった。

「……違うの……そうじゃ、なくて……」

それも違うとかぶりを振る少女に、先程の苛立ちがぶり返す。
ならば、何だ。
現実も知らぬ女の分際で、何を答えと宣うものか。
沸々と沸き上がる惰弱さへの怒りが、僅かに黒死牟の精神を揺らす。

――此処までならば、最早切り捨てるのも已む無しか。

そこまで黒死牟が考えを巡らせていたその刹那に、霧子は、歌うようにもう一度その口を開いて。


「……心が……どこにもいけないままだと……」


たった、一言。


「……命も……どこにもいけないから……」


太陽の色をしたその言葉は、いとも容易く。
崖を上るように、焦がれ、焦がれ、ただしがみついた。
それだけに囚われた命を、焼いた。


ずっと、考えていた。
通達が来た日から。この戦争が、新たなる幕開けを迎えた日から。
終了条件と、それに伴う――『器の消滅』の可能性を、知った日から。

「みんなが……聖杯と一緒に、なかったことになっちゃうなら……」

自分は、聖杯に願うような願いはないけれど。
その裏で、この聖杯戦争に参加している人たちには、きっと色んな願いがあるんだろう、と、なんとなく察していた。
果たさなければいけない願い。そうしないと叶わない願い。その先にしかない、どうしようもなく焦がれる願い。

――いいよねえ、あんたは……!

あるいは、あの時もそうだったのかもしれない。
どうしようもなく道が閉ざされた彼女から、満ち足りていた自分へと向けられた激情を思い出す。
そのステージに至るまでの道中も、きっと様々なことがあって。
けれど、それは理不尽に閉ざされる。
この会場においては、ステージよりも無情で残酷な、死という終わりによって。
それはきっと哀しいことだけれど、ただ哀しいと思う心を、果たしてどこに向ければいいのか。
それが分からぬままに、ただ幽谷霧子は待っていた。

「生きて帰る……だけじゃなくて……」

――その代償が、これで。
――それで得たものが、これだった。

これがもし無情なただの報せであったなら、或いはもっと深く迷っていたかもしれない。
けれど。

――私は貴方を許します。
――世界が貴方を許さなくても、私は貴方を許します。
――だからどうか嘆かないでください。
――傷つけないでください。貴方の心を。
――謝らないで下さい。昨日までの全てを。

その、どうしようもなく深い、白瀬咲耶の愛が。
霧子の想いに、一つの答えを出した。

白瀬咲耶という、身近な命が遂げた死という現実と。
同時に、彼女がこうして遺した想いの形が。
幽谷霧子の中に、実像を結ぶ。

「咲耶さんの心が……ここに……届いたみたいに……」

くしゃりと彼女の中で音を立てたそれは、白瀬咲耶の遺した心だ。
この世界に呼ばれ、孤独でありながら世界を愛し、誰もを救う祈りを描いて命を燃やした、美しき少女の心だ。
その善が、その愛が、こうして形になって、届いたのなら。

「生きている人も……もういない人の分も……いっぱい、いっぱいの想いを抱えて……」

――その祈りを。
――その物語を。
――その、ありのままの、気高くて、寂しがりで、愛に満ちた命を。心を。

「それを歌うことが……わたしに、できることだって……」

幽谷霧子が受け取ったそれを、せめて、多くの人に届けられるように。
白瀬咲耶を愛した誰かに、わたしが愛した白瀬咲耶を届けられるように。
無念を迎えた、あるいは手の届かなかった誰かの思いを。
その『誰か』のことを想う人に、届けられるように。
受け取って、聞き届けて、その一端を、返せるように。

「私も……どうなるかわからないのは、わかってます……」

――平和な世を生きる幽谷霧子が、生死を争った経験などありはしない。
病院でそれを目に留めたことこそあれど、それが己に襲い掛かるような戦場に臨したことなど一度もない。

「でも、それだけじゃなくて……みんなの心が、どこにも行けなくならないように……」

――さりとて。
生きる重さを、知らぬ訳ではない。
たとえばそれは、未だ種に過ぎない花が、地を押し上げて芽生える為に力を振り絞るように。
たとえばそれは、大嵐に手折られた花が、粛々と最期を看取られながらも尚想われるように。
命が、それが抱く想いが、強く在ること。
それが生きる為に、何を越えていくのか。
それを喪う時に、何を遺していけるのか。
幽谷霧子は、知っている。
他ならぬ、白瀬咲耶の死が、その痛みに最後の答えをくれた。

「わたしが、もしも生き残れた時に……みんなの、ここにあった想いも、願いも……」

その上で。
ここが、戦争の場であるなら。
その命が、やがてひとつを除いて消え去り、他の全ての祈りに意味を与えないのならば。
生き残る為に砕ける思いは、きっとこれだけでは済まないだろう。
この手紙と同じように心を裂かれる人は、きっと多くいるのだろう。

「ここにあったよって……消えたり……しないんだよって……」

どうやって帰るのかなんて、未だに分からない。
どうやって生き残るのかなんて、形にすることはできない。
帰る為に他の皆を踏みつけにする必要があるのかもしれないし、その道を選んだとして自分が生き残れるかどうかも分からない。
けれど、それよりももっと手前。
「皆が抱えている願い」が、こうして届くこともなく、ただ虚数の地平に消えてしまう前に。

「だから……」

その祈りを唄に変えて。
その願いを聲に乗せて。
今後どのように運命が巡ったとしても、確かにそこに在ったことを、唄えるように。
そうして、もし自分が潰える時が来ようとも、聞き届けたその祈りを、願いを、また誰かに届けられるように。

「わたしは、そのために……頑張ろうって……そう、思います……」

――その為に、幽谷霧子は戦うのだと。
そう締め括った虚空への言葉に、ここにはいない幽鬼は、暫し沈黙していた。
風と蝉時雨の中に、ぽっかりと、僅かばかりの沈黙があって――やがて、振り絞るような声音で、ゆっくりと返答があった。

『……何方にせよ、此の身は落陽まで動けぬ身……主である貴様が何をしようと、私が動くことは出来ぬ……十二分に注意を払え……』
「はい……ありがとう、ございます……」

それきり、ぶつり、と念話は途切れる。
問いかけようとするが、そこから伝わる拒絶の意思を感じて、霧子は困ったような笑みを浮かべた。

――彼は。何を、思っているのか。

サーヴァントが、人理の影法師――今は本当にあったかも知れない英霊の現身であることを知って。
その中でも、彼が陽の光に晒されることのない、夜の闇の中でのみ歩く魔性であることを知って。
人を喰らい、刃を振るい、人類種に仇を成す、混沌なる存在であることを知って。
けれど、未だ知りえない、彼が囚われた陰の正体を、霧子は未だに想い続ける。

――セイバーさんの……ことも……
――覚えて……忘れないで……

仮に、英霊が今この瞬間にしか容を保てぬ、座に記録された記録帯に過ぎないとしても。
それでも、他の参加者と同じように、彼がどこにもいけない想いを抱き続けることになるのであれば。
彼の呪いも。
彼の無念も。
いつかは。
いつかは。
この唄に乗せて、明るい場所に。

「お日さまの下で……あの人の想いも……伝えられるように……」

――誰にも届かなかった、彼の、陽だまりへの願いを。
彼に微笑んでいたお日さまの下へ、届けられるように。


「あーあ、折角の目の保養だったのにさあ」

皮下がそう呟いた時には、既に霧子は廊下の角を曲がって見えなくなっていた。
それこそ暇つぶし、とばかりに霧子を追った川下と、裏庭から徒歩で歩いて戻ってきた霧子が通用口に辿り着いたのはほぼ同時だった。
泣き腫らした顔の霧子に事情を聞いても細かいことは聞き取れなかったが、見た目の様子と先程のニュースの情報を照らし合わせれば、大体何があったかは想像できる。
むしろ意外だったのは、そんな中で、想像よりも彼女が芯のある目をしていたことと。

――すみません……午後、ちょっと……おでかけします……

彼女の、その発言だった。
どうやら白瀬咲耶の死が、何等かの形で彼女に刺激を与えたらしい。聖杯戦争の為か、はたまた単なるNPCとしての周囲への心配か。
断定はまだできないが、随分といい起爆剤が転がり込んできたものだ、と思う。
そんな彼女の、感情が分かりやすく窺い知れる珍しい様を思い返して――皮下は、静かに嗤いを浮かべる。

「まあ、それだけでモチベが上がるってんなら楽な話だよねえ」

――皮下真という男は、どうしようもなく人でなしだ。
人の死を何とも思わない。あるいは、何とも思えないくらいに死に囲まれて育った人間。
人の死を思えば何かが変わるような世界を、彼は生きていなかった。
病魔により家族も知人も問わずばたばたと死にゆく世界に産まれた時点で、彼の死生観もまた常人から外れたそれとなった。
だから、彼がそこで泣いていたらしいちっぽけな少女に思うことは、「友達の死にいちいち反応するとか多感な子だなあ」ということだけだし。

(ま、少なくとも、彼女は関係者の可能性が高いことが分かったのは良い事かな。とりあえずタイミング的には流石に怪しいよねえ、咲耶って子)

彼にとって、死はやはり手段であり、情報としか見ていなかった。
実験体のデータに等しく、また今もこの病院の地下で牙を研ぐ大喰らいが食らう魂に等しく。
白瀬咲耶の行方不明――もとい状況証拠から見て濃厚な予選での死亡、そして「幽谷霧子という少女がそれを見て行動を変えた」という情報のみが、彼がここで知った情報だ。
アイドルであること。病院の宿舎寮にわざわざ住み込んで働いていること。全身の包帯。そして、本戦開始直後に伝えられる「関係者の死亡」。
もちろんそれらは、糸として繋げるのに不足があるものではない。彼女が包帯を巻いているのは元かららしいし、青森出身らしいから宿舎寮住みも納得はできる。
「白瀬咲耶がマスターだったから、その関係者である幽谷霧子がNPCとして呼び出された」という逆説的な思考に基づくのは、少なくとも現段階では有力だ。
それに。

(まあ、知っても今つっつくのはねえ。流石に本戦始まってこんなところで旦那出すのもって感じだし)

仮に、幽谷霧子がマスターであるすれば、当然の理屈として彼女にサーヴァントがいるということだ。
この内気な少女に限って下手なことにはならないとも感じるが、サーヴァント側を何等かの形で刺激して不意を突かれる――というのは、如何に「再生」の開花を持つ川下としても避けたい。サーヴァントの埒外さ自体は、予戦で見ていてもよくわかる。
そうなればライダーを召喚するしかないが、予戦ならいざ知らず、本戦の今となっては彼の巨躯を徒らに現界させるのは悪目立ちが過ぎる。
特に、嗅ぎ回られている状態で彼女を殺し、その結果本当にマスターではなく、二人目の行方不明者としてこの病院に白羽の矢が立つ――というのが最悪の想定。一応ノウメンのホテルを始めとする簡易な隠れ家もあるとはいえ、籠城をメインに考えてる本拠地を手放すリスクは大きい。
ライダーの絶対的なアドバンテージを盤石なものにするという目的に比べれば、目の前の可能性を一つ潰すのには見合うものではない。

「とはいえ、見逃すってのもナシだよなあ」

ただし、それもライダーの準備が整うまでだ。
彼が十全に戦力を整えた時が来れば、今更情報の隠匿も何もない。マスターだろうとNPCだろうと、あるいは従えているサーヴァントだろうと一刀に伏すだけ。
その上で、居場所が割れている1/22を楽に潰せるというのなら、それに越したことはない。

――じゃあ、俺の知り合いを一人だけ付けておくよ。ほら、今時アイドルの子を一人で歩かせるってのも物騒だろ?最近何かと物騒だし。女の子なら、霧子ちゃんも安心だろ?

怪しまれない範囲での。もし接触があれば報告。「変なもの」が少しでも見れた場合、連絡。
殺せそうなら殺していい――とまでは言わなかった。迷ったが、下手に手を出してサーヴァントに殺されるのもそれはそれで面倒だ。
いや、それならそれで相手がマスターだと分かるのだが、最後の足取りでここに辿られたりした日にはやはり厄介なことになる。
最低限、白瀬咲耶とその周辺人物の人間関係と、聖杯戦争の関係者っぽい人間に当たりをつけておいてほしい――それが、ひとまず『彼女』に下した命令だった。

「いやはや。返す返すも、病院の軒先で警察の相手してくれたのは思わぬ幸運ってな。ありがとよ霧子ちゃん」

かくして、タンポポは、ゆっくりと茎を伸ばし始める。
綿毛を飛ばすその時まで、ゆっくりと。
幾ら踏まれようとも春を待つロゼッタのように、静かに時を待ちながら。


天辺を超えた太陽が、そのぎらつきを増してアスファルトを灼く中で。
幽霊のような陽炎が揺らめく中で、白い少女が道を行く。
ひとまずの目的地は、手紙の送り主がいた寮か。同じく手紙を送られただろう仲間がいるはずの事務所か。はたまた、これまで黒死牟や彼女自身が見つけた戦争の断片を辿るか。
そのいずれに向かうか悩みながら、彼女は確かに一歩を踏み出す。

「よろしくね、霧子ちゃん」
「はい……えっと……」
「ハクジャでいいわ。ボディーガード、って訳じゃないけど、これでも護身術くらいの心得はあるから……気持ちばかりの護衛だと思ってちょうだい?」

傍らには、皮下の知り合いを名乗る女――ハクジャ。
それを窺いながら、霊体化した黒死牟は静かに眉を顰める。

(……不用意な……あれもまた……間諜の類だろう……)

化外の者たる皮下の部下ともなれば、まず間違いなく真っ当な人間ではない。
されど、今は殺せない。下手に殺せば、それこそあの男に霧子と聖杯戦争を結びつける確信を与えることとなる。
幸い、此方が陽の下に出れないという条件が知られていることは無いだろう。サーヴァントを警戒するのであれば、下手な行動に出て己から死を選ぶことはないだろう。
……或いは、それも込みで手を出してくる可能性もあるやもしれぬ。その時は――

――その時は?

(……いや。何を……考えている……?)

一瞬己を過った余りにも短絡的な考えに、思わず精神が揺らぐ。
先程の言葉が、それ程迄に意識するべきものか?
いや、あんなもの。他愛の無い戯言に過ぎない筈だ。ただの小娘の、実現しようもない理想論。
此処に喚ばれるその直前まで、焼かれながら足掻き手を伸ばしていた妄執に、手を伸ばすような言葉。
それを思い起こす度に、知らず歯を食い縛る。知らず、拳に力が籠る。
幾度となく感じていた胸の焔が、黒死牟の何かを、ちりちりと。
太陽光が、漆黒のアスファルトを焼いているように、ちりちりと――





界聖杯がこの地において執り行う聖杯戦争は、何処までも自動的に行われる戦争というシステムそのもの。
敗者が都合よく生き返る奇跡も、想いのみが引き起こす理想も、ただ敗北という事実の元に自動的に否定する。そこに横たわる祈りも願いも、意味のないものとして理解を拒む。
そうである以上、彼女の行動は無駄だ。不要ないものだ。
既に枯れた花も、咲くことがなく蕾で終わった花も、ただそこで踏み躙られるだけのこの世界で、それに哀れみと手向けを捧げる行為の、なんて無価値なことか。

――それでも。
それでも幽谷霧子は、命に花を手向けるだろう。
その価値が、その意味が、風が吹けば飛んでしまうような、幽かな霧の中にしかないとしても。
消えゆく命が、ただ消えるだけで終わらないように。
残酷にも見えそうなこの世界で、彼女が未だに、優しさを見失わないように。




【新宿区・皮下医院/一日目・午後】

【幽谷霧子@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:健康、お日さま
[令呪]:残り三画
[装備]:包帯
[道具]:咲耶の遺書
[所持金]:アイドルとしての蓄えあり。TVにも出る機会の多い売れっ子なのでそこそこある。
[思考・状況]
基本方針:もういない人の思いと、まだ生きている人の願いに向き合いながら、生き残る。
1:色んな世界のお話を、セイバーさんに聞かせたいな……。
2:病院のお手伝いも、できる時にしなきゃ……
3:包帯の下にプロデューサーさんの名前が書いてあるの……ばれちゃったかな……?
[備考]
※皮下医院の病院寮で暮らしています。
※川下の部下であるハクジャと共に行動しています。

【セイバー(黒死牟)@鬼滅の刃】
[状態]:健康、苛立ち(大)
[装備]:虚哭神去
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:強き敵と戦い、より強き力を。
1:夜が更けるまでは待機。その間は娘に自由にさせればいい。
2:皮下医院、及び皮下をサーヴァントの拠点ないしマスター候補と推測。
3:上弦の鬼がいる可能性。もし無惨様であったなら……
4:あの娘…………………………
[備考]
※鬼同士の情報共有の要領でマスターと感覚を共有できます。交感には互いの同意が必要です。
 記憶・精神の共有は黒死牟の方から拒否しています。


【皮下真@夜桜さんちの大作戦】
[状態]:健康
[令呪]:残り三画
[装備]:?
[道具]:?
[所持金]:纏まった金額を所持(『葉桜』流通によっては更に利益を得ている可能性も有)
[思考・状況]
基本方針:医者として動きつつ、あらゆる手段を講じて勝利する。
1:病院内で『葉桜』と兵士を量産。『鬼ヶ島』を動かせるだけの魔力を貯める。
2:全身に包帯巻いてるとか行方不明者と関係とかさー、ちょっとあからさますぎて、どうするよ?
[備考]
※咲耶の行方不明報道と霧子の態度から、咲耶がマスターであったことを推測しています。
※会場の各所に、協力者と彼等が用意した隠れ家を配備しています。掌握している設備としては川下医院が最大です。

【ライダー(カイドウ)@ONE PIECE】
[状態]:健康、呑んべえ(酔い:50%)
[装備]:金棒
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]
基本方針:『戦争』に勝利し、世界樹を頂く。
1:『鬼ヶ島』の浮上が可能になるまでは基本は籠城、気まぐれに暴れる。
2:で、酒はまだか?
[備考]
※皮下医院地下の空間を基点に『鬼ヶ島』内で潜伏しています。



時系列順


投下順



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008:きりさんぽ 幽谷霧子 027:燦・燦・届・願
セイバー(黒死牟) 038:283さんちの大作戦〜紳士と極道編〜
皮下真 030:龍穴にて
ライダー(カイドウ)

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最終更新:2021年09月05日 23:54