「もう死んだから出て来ないと思ったかい? 私だヨ!」



「ああ待って待ってページを閉じないで謝るから! ごめんなさいネー!」

「……ああ、よかった。折角セッティングした教室で出禁にされるなんて恥ずかしくて仕方がない。
 うん、『もう死んだんだから引っ込んでおけ』? うむ正論だ。しかし私はこう返そう。
 『こんなこともあろうかと、私が道半ばで死んだ時に自動再生されるメッセージを保管していたのだ』とネ!」

「確かに私はマスターに『最後の策』を与えた。
 嘘偽りが華の悪の教授ではある私だが、こと献策については虚偽は一切言わない。あれが最後だとも。
 最後だが……。これまでに何個の策を用意したかはまだ明言していない……! そのことをどうか諸君も思い出して欲しい。
 つまり……私がその気になれば今後連合に仕込んだ策を10個でも20個でも発動する事も可能だろう……ということ……!」

「さて、では話をしよう。
 今起きている戦いには関係ないが、とても大事な閑話だ」

「議題は我がマスターの持つ異能について」

「……ああ、失礼、『異能』でなく『個性』と呼ぶのが向こうでの常識だったね」

「社会の構成からはぐれた異なる能力などではない、大半が生まれつき持ち合わせた能力。
 その人と分かちがたい、各々の特色だと認められるべき資質」

「上手くはまった言葉選びだ。計算か、はたまた衝動か、提唱者の意図がこれ以上なく伝わって定着している」

「そう、個性だ。一人にひとつきりの適正。
 生まれたままの姿から持ち合わせた、肉体の才覚によって人格は形作られる。思考する脳髄だけが人間ではないのだから」

「容姿に恵まれれば自尊心が育まれ社交的な性格になるだろう。優れた体格であればフィジカルを活かした職業に就く可能性が高くなる。
 逆に自意識にそぐわない容貌であれば内向的に沈む。遺伝的なハンデは行き方の指針の決定を余儀なくされるだろう。
 幾ら情報化社会といっても、完全に実体を捨てた精神生命にシフトするには、人類は幼すぎる。あと100年か、何らかのブレイクスルーが起きなくては」


「ならば。
 そんな人格形成の礎になる『個性』が、触れた万物を崩壊させる能力だった子供の精神とは、いったいどうなってるのだろうか?」


「私が初めて会った頃の彼の個性は、とても小規模なものだった」

「それは彼が、幼少期に起きた出来事を記憶ごと封じていたことが原因だった」

「今よりもずっと小さな頃の時点で、彼の個性は家一件を丸ごと更地に変えられるほど強力だったのに」

「つまり、個性と人格、正確には記憶と感情、意思か。このふたつは密接に繋がっている。少なくとも彼においては」 

「特にキーとなるものは、殺意と憎悪。彼にとってその感情が個性を最大限に引き出すのか? それとも個性に適合する感情がそれだけなのか?
 人格と能力、主権はどちらにあるか興味深いが……ここでは置いておこう」

「重要なのは、彼の個性の出力弁は感情が握っている事」

「感情とは心の顕れ。何をどのように感じるかは個人の認識で変わる」

「即ち、解釈次第で、壊せ(ふれられ)る範囲は広がるという事だ」

「言い逃れは許されない。何故なら既に実例は証明済みだ」

「本質は霊体であり肉体は仮初のエーテル体でしかないサーヴァント……それも強壮な霊基質量を持った相手に、彼の個性は確かな効果を発揮した」

「恐らくは契約の影響だろう。一ヶ月間サーヴァントと因果線(パス)を繋ぎ続けた事で、自然と魔力の概念を取り込んでいった」

「彼の世界に存在しない、無形である筈のものを『触れられるもの』と、彼の脳は認識していたのだ」

「これはとても面白い結果だ。彼が『触れられる』と感じたものは、全て崩壊の対象に含まれてしまうのだから。
 炎に水、雷が押し寄せても、原子レベルにまでミクロな干渉をすれば……酸素や水素の分子結合を解いて分解できてしまう。化学において分解は新たな創造の前段階だ。
 全てを壊せるのならば全てを創れる、まさしく万能の王の力だ。
 ……まあ、それには彼に最低でも大学教授レベルの化学知識を叩き込まなくてはならなくてはいかなくて、そういう知識の理詰めは出力する感情の邪魔になる本末転倒になってしまうわけだが。上手くはいかないものだヨ」

「ともかく。彼の『崩壊』は今や神秘の領域を侵せる域まで引き上げられている。
 これは対人対地に限らない、より大きな存在へ対抗する駒へと使用できる」

「するとどういう事が起きるか? 
 その結果はさぁ───実演を以て見てみるとしよう」



 ◆





     地平聖杯戦線 ─Why What White Wolrd─





 ◆




「うぉおおおおおおおお~~~~んッッ!!!」



 鬼が泣いた。
 龍が啼いた。
 大山鳴動する叫喚が、赤い塔に木霊する。



「畜生ォォォォォォまた死んじまっァァァ! 殺しちまったァァァァ……! ウェッ、ヴォッ、ヴェアアアアアアアア!」



 鬼の目にも涙、という。
 どれだけ非情、無血な人間でも感情を動かされ、露わにする場面はあるという事だ。
 その点でいえば彼はまさしく人情を解する男だったといえよう。
 惜しみなく涙を流して慟哭する。見るに忍びない哀れを誘う悲嘆ぶりには、誰であれ同情したく鳴る事だろう。
 身長7メートルを超え、山脈の如し筋肉を纏い、頭部に角を生やした髭面の大巨漢という事実から目を逸らせばだが。



「あれだけ焦がれて待ち続けたってのあんまりだぜ……なんで戦いってのは始めるとすぐ終わっちまうんだ……? 生と死とは一体何なんだ……」



 遂には哲学めいた事までぼやき始めた。
 鼻をつく漂う酒気の濃さは、男がどれだけヤケ飲みして酔っ払っているかを示している。居酒屋で悪酔いして他人に愚痴を聞かせているのと大差ない。
 周りにとっては迷惑千万。ましてそれが鬼であれば。



「それもこれもよォォ~~~あいつがつまらねぇ口車に乗せられたからだぜェ……聞いただけで鱗が剥がれるような寒い妄想をよォォ………………」



 登り続けていたボルテージが、急速に冷めていく。
 冷水を浴びせられて醒めた目が、取り巻く集団のうちの白銀に向いた。
 しゃくり上げる音が、止む。





「お前か」





 まず殺気だけで死ぬると悟った。
 意思が物理的な破壊力を伴ってアシュレイの五体を突き刺し、そのまま粉々に爆散させられると、現実より先に認識が幻視した。
 実際の攻撃が来るより先に、『殺す』という決定だけが牙を突き立てる。
 金棒が雷速で振り抜かれて、抵抗も末期の叫びもなく死ぬ他なかっったアシュレイがまだ生きているのは独力ではなく。

「……セイバー!」
「~~っ!! おっもぉ! しかも速いとかいいとこ取りすぎでしょうが……!」

 幻覚が現実が追いつくまでの秒針が一段進む半分の時間に、武蔵の刃が割り込んだからでしかなかった。
 腕に痺れを残しながらも、女性らしい柔らかな肢体でどうしてあの鉄塊を捌けたのか。
 余人には伺い知れない技量と経験の賜物であった。


「……あん? てめえ、沙都子のダチのサーヴァントじゃねえか。リップは何やってやがる?
 まあそっちはいい。おい、そこの銀灰のガキ。お前が『方舟』を率いてるサーヴァントだな?」

 余程酔っていて区別もつかなかったのか。
 抵抗したのが部下が縛っていた筈の武蔵であるのに漸く気づいたカイドウは、さして気にもせず殺し損ねたアシュレイに改めて強面を向けた。

「今すぐ跪いてワビ入れな。船も廃棄しろ。そうすりゃてめえの首ひとつで勘弁してやる。
 でなけりゃお前のマスターも他の仲間も元の形が分からなくなるまで”叩き”にして殺すぞ」

『従え。さもなくば仲間を全員殺す』。
 解釈の余地を与えない明確な降伏勧告だった。
 アシュレイを、ではなくその仲間達を質に要求するあたり、効果的な脅し方にも理解があった。
 戦士・勇士は自らの死は恐れないが、守るべき者が標的にされた時、一転して脆弱を晒す。

「…………!」

 折れる事は絶対に許されない。
 我が身可愛さで仲間を差し出す気は皆無でも、首一つで手打ちにして水に流すといくわけがない。
 降伏は方舟の沈没を意味し、マスター達の生還の絶望視を意味する。
 であれば戦う他ないが───果たしてそれは無謀か。自棄か。

 どれだけ交渉の余地もない悪漢相手であろうとも。
 会話不可能で無差別に襲ってくる怪物でもない限り、アシュレイは相対手との交渉を諦めない。
 対話の基礎は粘りだ。一朝一夕の会合で事が済めば世の外交官は苦労しない。
 袖にされても、取り付く島がなくても、初手から歩み寄りの姿勢を捨てるのは民主主義の放棄だ。
 今にも決壊する明王の怒りを刺激せず、言葉を選んで宥めようと足を前に出し────



「今すぐっつったろうが酔っ払ってんのか?」



 ────出す前に、金棒から射出された弾丸が顔面を撃ち抜いた。

「───ガ……………ッ!」

 上体が反り返って後頭部を大地に打ちつけた。
 左目がひしゃげた。眼玉と付属物を収める眼窩がぐしゃぐしゃに粉砕されている。
 脳に及ばなかったのはたまたまだ。浮いた足を置く位置が爪先分だけでも違っていれば、貫通した弾は前頭骨に入り込み内容物をペースト状にかき混ぜていただろう


「弱ぇ」


 片手で軽く降った【金剛鏑】は、カイドウにとっては小技のひとつでしかないが、アシュレイには過剰なぐらいの必殺だ。
 戦う舞台(ステージ)の、階級が隔絶している。


「脆ぇ」


 倒れたアシュレイに代わってカイドウが歩を進める。
 途中、物陰のメロウリンクの狙撃が胸板や顔面に直撃しているが蚊に刺された風ですらなく無視している。
 踏み締める度、地が揺れ動く。

 気を宥めるなど、何を寝言を言っているのか。
 鬼はとうに許容を過ぎている。忿怒の相は表出して、目に映るものは踏み潰す蟲と区別がついてない。

「分かってんのか? お前らはもう負けてんだよ……見な」


 掲げた金棒が指し示すのは、太陽が昇りだした空。
 ……そこに浮かぶ、日を覆い隠す鬼の貌。
 天変に二角の魔羅(ツノ)を立て、首だけで浮遊する頭蓋骨。


 その正体は城。
 百獣のカイドウが玉座に座る王城。
 鬼が棲む島の名など、ただひとつしかない。
 明王鬼界・鬼ヶ島。
 世界の狭間に隠匿されていたライダー最大の宝具が、ここに顕現される。


「今あそこの下……シブヤっつったか。そこでおれの部下がNPC(たみども)を喰らってる。この界聖杯(せかい)の真実を教えた上でな。
 だいたい知ってんだろ? 聖杯戦争を知った奴ほど、摂れる魔力の質が増すってのをよ」
「……!」

 ギリギリで左顔面が再生されるアシュレイの表情が歪む。
 衝撃。そして焦燥。
 予想していた仮説ではあった。
 NPC達の聖杯戦争への介入。理解の度合いによって覚醒した人間は界聖杯から供給される魔力の必要量が上がると。
 それを狙って意図的に魔力を取り込もうと企む陣営が現れる事も、可能性の範疇には入れていた。
 だが───一地区全ての住人を意図的に覚醒? それを纏めて乱獲?
 発想のスケールがおかしい。規模が違い過ぎる。

「お前は……この世界を……終わらせる気か」
「最初から『そうなる』予定の舞台だろうが。おれが早めたところで何の問題がある」

 世界への不信。
 社会常識の崩壊。
 バランスを欠いていた界聖杯の設定基幹に大穴を空けた暴挙に、アシュレイは確信する。
 奴らは……ここで決める気でいる。
 展開した軍勢で手当たり次第に覚醒NPCを総浚いして魔力を徴収、供給されたカイドウが霊地を奪って全ての敵を駆逐する。
 どこにも逃げ場のない最終戦争(ラグナロク)の口火を切ったのだ。


「そこは同意しておこう。このような仮初の世界、幾ら壊れようと私には何の痛痒も感じん」
「だろうな。お前とおれは同類だと思ってたぜ。ウォロロロロ……」

 朝焼けに満ちる黄昏の気配にも怯まぬ精神。
 身の丈でいえば4倍しても届かない巨人を見上げても、大和は自らこそが上に立つとばかりに居丈高な態度を変えずにいる。

「お前ほどの男なら、降れば他の連中と違って破格の扱いにしてやってもいいぜ。
 貢献次第なら”大看板”にだって成り上がるチャンスをくれてやってもいい」
「突き返そう。廃墟同然のボロ宿の看板なぞ、貰ったところで私に得はない」

 目は曇っていない。
 敵の実力の程はよく理解している。
 手持ちの駒にして個の戦闘力ならば最強の判を押せるベルゼバブと最後まで一進一退の攻防を繰り広げ。
 そして今、龍脈の儀によって召喚した龍を一撃で叩き伏せた。
 カイドウの姿は以前より変じている。
 鬼と聞き連想されるイメージから倍に盛られた体に、鱗や尾といった龍の要素が付加されている。
 ベルゼバブからの報告で、龍に变化する能力があるのは知っていた。それを人型のままで発揮できるよう融合した形態なのだろう。
 要は───ベルゼバブとの戦闘レポートは、もう参考にはならない。


 令呪で呼び戻す選択肢はない。
 今もひっきりなしに魔力を吸収している具合からして、あちらも激戦を継続させているのは察せている。こちらの備蓄を食い尽くしかねない勢いだ、
 大和の全霊と龍の総和、現保有の戦力でこの怪物を留めなければならない。

 仮に……方舟の戦力も貸与させると勘定に入れても。
 アシュレイは牽制にもならない陽動役でしか利用できず、潜伏しているメロウリンクはどの攻撃も通じない。
 他に対抗できるのは剣豪、新免武蔵のみ。
 だが主を押さえられたままでは、例え肉体の縛りがなくとも精神に歯止めがかかってしまう。


 不可能だ。
 困難どころではない。
 マスターの身でサーヴァント数体と拮抗するだけで偉業であるのに、英霊複数相手を鎧袖一触に伏す鬼を相手にするなど。
 尋常に考えれば狂っているとしか言いようがない。
 狂人であっても振り切れて正気に戻りかねない。

 だが───それが一体、どうしたというのか。

 負ける理由があるからといって、負けていい言い訳にはならない。
 勝てようが勝てまいが、戦わなくては死ぬのならどうしてそれ以外の選択肢を取れる。
 怯え。恐れ。それは王の心にはあってはならない。
 人の心を持っていては王になる事はできない。
 王とは、国を守る為になら誰よりも人々を殺す存在だ。
 自分を殺す儀式は、総帥の座を得る前に済ませている。

 戦うと決めた。
 何があろうと、誰が敵であろうと、誰を殺すことになろうとも。
 途中で潰える最期の一瞬まで。
 国に、人類に、強き未来を遺す。
 自分の意思で指定した使命を完遂するために戦い抜くと。


「時間が惜しい。さっさと来るといい。それともランサーが戻ってくるまで待って欲しいか?」
「ウォロロロロ! 相変わらずいい根性だ! お前を地べたに寝転ばせたなら少しは酔いも回りそうだな……!」


 龍と龍。王と王の戦いが始まる。
 どうあれ峰津院大和はここで死ぬ。これは決定事項だ。
 数値(パラメーター)が、環境が、力量が、それを証言する。
 この場に集う誰もが、この場に集まる因果が、否定しようのない未来を形作る。
 勝敗に関わらず、霊脈の行方に関わらず、大和の死という結末だけは変えられない。

 覆すものがあるとすればそれは運でも情でもなく。
 この場に来る、新たな力を携えたものでしかない。




「──────────」


 落雷が落ちた。
 少なくともアシュレイの反射的な所感はそのようなものだった。
 倒れていた自身の背後に立つ柱に稲妻が落ち、轟音を鳴らしたものだと。
 だが実際は雷など落ちておらず、音が鳴ってもいなかった。

「─────────────ハ」

 真っ先にそれを見たのはやはりカイドウ。
 返らない声。消えた筈の心音をしかと耳に捉え歓喜の雄叫びを上げる。

「そうか、そうだ、そうだろうよ!! 一度殺されたぐらいでお前が死ぬタマなものかよ!! なぁおでんよぉ!!」

 宿敵の哄笑に男は応えない。
 無言で俯いたまま歩き、アシュレイと、傍まで寄った武蔵の間で立ち止まる。
 電話でやり取りをしただけで、顔は初見だが言わずとも分かる。
 カイドウと因縁深く、縁の薄かった自分らに惜しみなく助力をしてくれた侍だと。

「おで───」

 追い詰められた状況を前に何を言うまいか一考し、名を呼ぼうとしたら。
 ガシッと、腰を野太い指に掴まれた。


「え?」
「ん?」


 アシュレイと武蔵、疑問。
 何事かと不思議に呆けていると、伏せていた男の顔が上がる。
 路地に落書きでもしている、悪戯好きな悪童並の笑顔が見えて。


「選手、交代だ」


 2人の体が、高く高く打ち上げられた。


「なっ」
「ちょ、ぉっ─────────!?」


 スカイハイ。フライアウェイ。
 地面を踏み締めた脚の反動を腰から腕に素早くかつ満遍なく伝わらせた力で投擲(なげ)られる両者。
 戻ろうにも突拍子ない行為での動転と、体を巻き取る空気圧によって抵抗虚しく、遥か隣の地区の彼方に消えて行った。
 よく飛ばせたなと、満足げに頷く侍を残して。

「うっし」
「……何やってんだ、お前?」
「あいつらはこの先に必要な力だ。ここで潰すわけにゃいかねぇよ」
「”先”、だ?」

 やっと、カイドウに応える。
 かと思えば、妙な事を口走った。
 再起したおでんを怪訝に睨みつけ、カイドウはその違和感に思考が割かれた。

(何だこの”声”は……いや、”心音”か? これは……まるで別人のような……)

 覇気を極めた者は、武芸のみならず生命感知にも敏感になる。
 見聞色の分類されるそれを極めて高レベルで習得してるカイドウは、今いるおでんの異常な心拍音に眉を顰めた。
 一度心肺停止してからの蘇生で乱脈に陥るのは自然といえば自然、であるが……病み上がりと無視できない警鐘が聞こえている。

「……そんなもんはねぇ。ここがお前らの終着だ」

 いずれにせよ、戦えば済む。
 愛用の八斎戒を肩に背負い態勢を取る。邪魔な雑魚が消えたのは、これはこれで都合もいい。
 戦いだけが喉を潤してくれる。乾いた心を満たしてくれる。
 一度ならず二度倒した男がまたこうして立ち上がり、挑んでくる。なんという幸福か。
 飢餓を埋める永遠の闘争を、夢にまで見たそれをお前となら演じられるのだ。

「”雷鳴八卦”!」

 抜かれる豪雷一閃。
 寝覚めにはきつすぎる一杯をお見舞いする。同時に対応から、違和感の正体を見抜く。   
 そういうつもりで撃った、手心はないが必死にはならない手。殺せるとは思わないがかわせるとも思わない攻め。

 それがかすりもせず、首筋の頸動脈から大量の血潮が噴射される手痛い代償に、カイドウの両目が見開かれた。

「ガ……ァア!?」

 首に手を当て、起きた現象に驚愕する。
 斬られたのはいい。普通なら失血死確実の量だが耐えられる。声を上げた原因は別にある。
 傷口が、熱を持っている。いつまでも消えない炎に焼かれ続けているようだ。
 全身の細胞が慄く疼き……この感覚には覚えがあった。


「終わらせやしねぇよ。その為に起きて来たんだ」

 雷速でも見えなかった抜刀。
 血振りするおでんは、普段見せる事のない厳粛さで顔を上げた。
 そこには──────。



「今度は『悪い』とは言わねェぞ、縁壱」



 隈取のように浮いた、赫い、痣が。



 ■


「先に、言っておく」


「お前の肉体と技術はとうに円熟期に入っている。
 生来の素質を長年の鍛錬と実戦で練磨し、成長させた、お前に最適な呼吸と体幹が既に出来ている」


「それを下地にして新たな技術を学ぶのは、お前の体に途轍もない負担を与える事になる。
 文字通り、息の仕方から変えていくのだから。……だが、お前はそれすら乗り越え、己の一部に変える事を可能にした」


「だから────」


「お前がこの領域に入る道も、やはり当然ではあるのだろう」


「使うな、とは言えん。お前の意思の硬さは十分に見た。
 だが時は選べ。一度足を踏み入れれば……もう後戻りはきかない」


「……呪い、と一時は糾弾されたのも無理はないだろう。私自身もそう思っていた。
 幾多の同胞を志半ばで倒れさせ、兄の凶事を招く一助としてしまった責は濯ぎようがない。
 お前は笑って受け入れてくれたが……それでも私には、心苦しいのだ」




「……呪いだなんてとんでもねえぜ縁壱。こいつは縁起だ。
 おれにまた戦える力をくれた、花火みてぇに景気のいい最高の贈り物だ!」

 心臓は、何度も爆発を繰り返す炸裂弾だった。
 血管は、氾濫した河の洪水を一本の管に注ぎ込んでいるに等しい。
 体中が溶岩になって溶けてしまっているかと思うほどに、熱い。
 超えてはならない一線を超えてしまったのだと、おでんという鍋の器が沸騰の湯気を立てている。


 『痣』の発現。
 呼吸術の最終段階、始まりの呼吸が拓いた限界を超える道。
 技と体を極限まで磨き、日の呼吸……継国縁壱に近づいた事の証。
 体温39度以上、心拍数200以上。
 重症の風邪にかかったのに近い症状になって始めて至る、寿命を担保にした能力の限界突破だ。

 縁壱から初めて呼吸術を教わってから一ヶ月。
 予選期間の終わりの頃には、おでんに痣の兆しは表れていた。
 ワノ国いちと謳われた剣腕は既にどの柱よりも高みにあり、そこに呼吸が付属され体得すれば、条件は容易に満たされる。

 その事を早くから知っていた縁壱は、おでんに痣を開くのを固く禁じていた。
 痣者が25から先の歳を超えて生きた例はひとつとしてない。
 それより上の者が発現させた場合、明朝に達した時点で息を引き取ってしまう。
 おでんの齢は39。下手をすれば出した直後の憤死しかねない。おでんにしても戦う前に死んではたまらないと従っていた。

「……ッこの斬れ味と熱……あのセイバーの技かァ!」

 その封が今、破られた。
 巡る息吹はおでんの強靭な体をひと月かけて改造し、内界を新生させた。
 痣者の寿命を大きく過ぎていながら、戦えるだけの時間を残す事ができた。

「お前もたいがい節操のない野郎だ! 自分の従者に剣の教えを乞うなんざよォ!」
「おう、おれも真面目に鍛錬をするなんざ生まれて初めての経験だったぜ! 一度はやっとくもんだな!」

 普通の人間であれば全盛期は終わり老衰に向かっていく時期の齢。
 だがおでんは海賊。波も国も人も生き物も何もかもが荒くれっぱなしの日が日常の海の民だ。
 白ひげの、ロジャーの船で揉まれた海賊人生は、戦国で明け暮れる鬼狩りの日々にも負けず苛烈。
 よって生まれるのは新たな例外。
 光月おでんは、痣のは反動に耐えきれる。
 ひとつの国で生まれた一代限りの才能は、世界という海原を乗って、果ての大陸の侍に受け継がれたのだ。


「だが……ああ、いいぜ。それでこそだ。そうでなくっちゃ面白くねぇ。
 過去のお前は死ぬ前に倒した。現在(いま)のお前もさっき倒した。
 だったら次は……未来(さき)に進んだお前を倒せば、完全にお前を超えた事になるわけだ!!」

 暴竜の欲望、なおも尽きまじ。
 生前と数分前。二度に渡りおでんに勝利してきたカイドウは、三戦目にあっても意気を萎えさせはしない。
 カイドウは楽しんでる。煮ても焼いても刀を落とさない侍との戦いを。
 カイドウは喜んでる。負けるたび強くなり喉笛に留まらず首を討たんと向かう剣士との逢瀬を。
 不撓不屈。不死身の戦士。世界に己ただひとりではない孤独が癒やしてくれる。これを楽しまず何が四皇か。何が海賊か。


「三役揃えとは贅沢な奴だぜ……ただおれはこれ以上お前と戦うなんてごめんだからよ。
 今度はお前が終わる番だぜ、カイドウ!」
「上等だ! 来い、おで──────」
「じゃあ、やろうぜ大和」

 閻魔の刀の鋒が、横に立つ少年を指して向けられる。


「……あ?」

 鬼に虚無が落ちる。
 いるのはサーヴァント達が投げ飛ばされ、タワー前にはただひとり残されたマスター。

「つうかなにさっきから黙ってんだよ。おれが声かけなきゃずっとそこで蚊帳の外してるつもりだったのか?」
「私とて空気を読む。貴様らの因縁などどうでもいいが、わざわざ割り込むような無粋は見せないさ」
「えっマジかお前? 空気とか読めるのお前?」
「戯けが。勝手に潰し合っていろと言ってるんだ」
「おいおい、らしくねぇなぁ。それでいいのかよ」
「どういう意味だ」

「てめえのシマをどっかのバカに荒らされてムカつかねぇのかって聞いたんだよ」

「……」
「勝てねぇ敵には挑まねぇ。そういう方向で利口な真似ができる奴じゃなかった筈だぜ、お前はよ」

 いやに気安く、馴れ馴れしい距離の詰め方に、刹那ばかり呆気に取られた。
 らしくない、などと。偉そうに言えるような長い付き合いですらないのに。
 大和とおでんは一度刃を交わしただけの、単なる敵だ。少なくとも大和の方の認識はそうだ。
 強敵であるが負ける気はしない。強くはあるが理想を共にできない愚か者とだけ記憶していた。
 なのに、向こうはそう考えてはいなかった。

 大和の理想に反発し、性根を叩き直すと豪語した。
 だがおでんは『大和を否定する』ことだけはしなかった。
 為政者ならずとも世に生きれば嫌でも目にする不条理と不幸に怒りを感じる大和を、おでんは正しいものだと感じている。
 その過程で起こした虐殺の片棒を担いだ事や、弱者に厳しすぎる理想については、それはそれ、これはこれだ。
 道理や一問一答で動くようなら、光月おでんは名乗れないのだから。


「つうわけでカイドウ、こっからは乱戦だ。入り乱れていこうぜ」
「本気(マジ)でか……本気で言ってんのかお前……」
「ここいらは元々こいつのナワバリだ。そこに乗り込んだおれらはどっちも侵略する側なのは同じだろうよ。
 強さだっておれでも手に余るぐらい十分にある。文句はねぇだろ?」
「───ァアアッ! ……ったく、いいぜ。三つ巴で宝を奪い合うってのも面白そうだ。
 ついでにもうひとつ、しみついた因縁って名前(ヤツ)にケリをつけておくのも、まあ悪かねえな」

 鱗の覆われた顔をがしがしと掻き、不承不承に。
 戦いの形式を是認したカイドウの覇気が膨れ上がる。寒暖の時間は終わりを告げる。


「つくづく……勝手に話を決めるのだな。いつ私が貴様らの遊びに付き合うと言った」
「じゃあ逃げるってか? それこそ無ぇだろ。おれが音頭を取らなくったってこうなってたさ」

 不思議な空気が戦場に流れていた。
 確かに逃げるつもりもないし、外部の勢力であるおでんを当てにする気も更々なかった。
 ランサーにも極力弱みを見せず、自己のみを信に置いて聖杯を目指してきた大和に、新しい風を吹き込んでいく。
 先の交渉人ばかりでなく、戦馬鹿までもが大和の心を見て、言葉を届けて、ある種の信頼を向けているのだ。

 可能性という甘い夢には踊らされない。
 半生を注いだ信念を折り曲げる事など、それこそ無様に敗れ死ぬとしてもあり得ない。ない、が───。

「私は貴様に阿りもせんし共闘もしない。射線に入れば即、殺す。
 だが……貴様よりかは、あのサーヴァントの方がより難敵だ。
 せいぜい命を削って食らいついてみせろ。後は憂いなく諸共に葬ってやる」

 仰臥していた黄龍に活が満ちる。
 竜人に撃ち落とされようとも圧は健在。
 スカイツリーに貯蔵された霊脈の魔力を費やして生まれた概念龍が、大和の最大の牙の役目を取り戻す。

「じゃあそれより先に斬ればおれの勝ちか。はははっとんだ博打じゃねえか!
 痛い目みてこその賭場よ! 半が出るか丁が出るか、ツキ比べといくとするかぁ!!」

 双刀に覇気が宿る。
 痣の熱が伝わったかのように、天羽々斬と閻魔の黒き刀身に赫が混じり出す。


 最強のサーヴァントに挑むは、最強のマスター。
 英霊に人間が挑む、不可思議不可解不可能の三重苦。
 だが成立する。この勝負だけに限って、この時間に限って。
 何故ならこれが。
 彼にとっての、最期の大勝負となるのだから。



 さあ─────────心を燃やせ。



 ◆



 氷柱の宮殿が解ける。
 氷結の教祖、虚無の主を失った社は存在意義をなくしたと自らの手で幕を下ろすように砕け大気に還る。
 永久凍土だった周囲は早回しで解けて、元の空間に戻る。
 戻らないふたつの要素───未だ殺気を身に充満させる猗窩座黒死牟のみが、異物として依然空を凍えさせていた。


 壱と参に挟まれた上弦の弐は敗れた。
 死には届かず。だが不死身の鬼をして戦線離脱を余儀なくされる重さの傷を負って、格付けは済まされた。
 ならばあとの時間は、結果の見えた消化試合か。
 そうはなるまい。剣鬼、黒死牟はそう見立てる。
 結果は不変。己の勝ちは見えている。
 如何に不可思議な、新たな力を体得しようとも、此方も同じく奥伝を修めた。成長が同様なら力の開きもまた同じく。
 しかしその力こそが肝要だ。童磨に食らわせた最後の一発は見た事のない形態、そして飛躍的な破壊力の上昇だった。
 通常の倍どころではない。乗に等しい数が重ねがけされていた。
 筋力、骨格、拳の振りの構え、打点の巧さ、そうした技術とは異なる。
 魔力、呪力、サーヴァントと成って新たに開いた目で見えた力の流動が、拳と衝突して弾けたような。
 然らば、上の位階の撃破も叶う原理。壱たる身といえど驕慢は許されない。
 死した後でも己を高めるとは求道者の鏡。血戦の二の舞とはいかぬ、良き練磨になるであろう。
 そう高揚する血を抑えようと構えたのに、心臓は踊らず、血が巡る事もなかった。

「………………………………」

 何故だ。何故心が沸き立たぬ。
 お望みの戦場の筈だ。戦いさえ設えてあればそれでよかった筈だ。
 我は鬼。血に飢え刀振る戦餓鬼。
 方舟。同盟。斯様な瑣末事に関知しない。敵と、場所だけで事足りる。
 成長した部下が牙を突き立てに到来した、待望の戦だというのに。
 部下といえば、そう────変化はまだあった。

「……堕落したな……猗窩座…………」

 今しがた見せた力の事ではない。
 そんなものよりも、遥かに致命である凋落。

「かつての貴様にあった……強さへの渇望……餓狼の如き執念……それが今や……見る影もなく……萎びておる……。
 一度死して……精神を折られたか……素晴らしき技を……得たというのに……何という無様よ……」

 拳と剣を交わすだけで理解する事とてある。
 童磨がそうであったように、黒死牟も猗窩座の内面の違いに気づいていた。
 上の立場にいる自らに阿る事なく睨み、超える目標と定めて挑みかかる気骨。
 獣が牙を剥き出しにして吠え立てる執念が、拳や佇まいから嘘のように感じられなくなっている。
 あの上昇志向を気に入って、過去の血戦で喰らわず生かしたというのに。折角の武技もこれでは宝の持ち腐れだ。
 失望を顕とするのも当然といえよう。

「そういう貴様はお喋りだな。貴様から俺に語りかける機会なぞ、そうなかっただろうに」

 憤怒も屈辱も乗っていない、醒めた声で猗窩座が答えた。

「何を…………」
「お互い様だ、と言っている。俺達は、敗者だろう」


 ひどく乾いた口調で、猗窩座は鬼(じしん)の負けを口にした。



「この地に集った以上、そうなのだろう。俺も、貴様も、奴も、かつての主さえもが鬼狩りに敗れ去った。
 鬼は全て滅び、奴らは生き残った。卑劣悪辣なく正道を歩んだまま」

 自身が滅びた後の事態など知りはしない。
 ただ上弦と主が揃って召喚された現状を鑑みた事実として、始祖を含めた種族は潰えたのだと淡々と認めた。

「敗者は敗者らしく這い蹲っていればいい。勝者の、強者の足元で踏み台となって築かれるのが最低限の努めだ。
 それでもなお蘇り、仮初の命で無様を重ねるとするならば、堕ちるのは当然の帰結だ」

 人と鬼の戦いの歴史は、陽の当たる側の勝利で幕を閉じた。
 そこに思うところは、特にない。敗北を素直に認め、粛々と地獄に落ちて行くのみ。
 それをたまさかの縁───何も守れず、何も残らなかった役立たずなどというろくでもない因果で引っ張り出されても。
 こうしてここにいる事にも、振り返る思いはない。

「俺はもう、何も求めない」

 使えるものは、染み付いた殺戮の武芸。
 殺すだけの、狛犬の役目を果たせない汚れた猟犬の手前。

「武の極みも主への忠節も、闘争も殺戮も、何もかもが無意味だと知った。
 この『俺』に生きている意味など、微塵たりとも残っていない。
 ただの嵐。ただの暴力装置。ただの災厄。それでいい。それが分相応だ」

 ならば、そう在ろう。
 人殺しの鬼。血濡れた化け物。物語の主役の武勇を飾り立てる半英雄。
 主役無き舞台で、清廉な筋書きを台無しにする役を任じよう。

「貴様はどうだ、黒死牟。
 生き恥を重ねてでもまだ、求める程のものを握っているのか」
「…………痴れ言を……………………」

 知らず、青筋を立てる。
 挑発のつもりではない。
 猗窩座は単に聞いているだけなのだ。完全に敗死しておいて武人を名乗る顔の厚さで、なお望みはあるのかと。


 恥だと。
 恥を感じもしないのかだと?
 何を言っている。何を言っているのか。
 そんなもの───当然あるに決まっているだろう。

 一体、幾度となく、この地で恥を上塗りされたと思っている。
 丹念に。丹念に。いっそ執拗な程に塗りたくられた。
 ただの娘に気遣われ。行き逢った女侍、離別した弟に憐れまれ。
 ……馬鹿とつける他ない放蕩侍に、褒められると同時に怒鳴られて。
 覆しようのない敗北を与えられながら、温情を受けて生き永らえている。


 そうだ。醜い。
 身に余る大望を抱き、天からの陽に焼かれながら、浅ましくも足掻き続ける姿は実に醜い。
 他人がしているのを見て、初めて分かる。

 娘とその知己らしき男、猗窩座のマスターとの会話。
 鬼と妖術師との睨み合いを演じていたのと興味の為さから仔細まで耳を立ててこそいないが、概要程度は入っている。
 敵陣からの、共通の敵の打倒までの一時休戦。
 そして男の語る、過去の清算。 

 心底、下らないと思った。
 どうにも取り零した女を救う為に敵陣に身を売り渡し、獅子身中の虫を演じてるらしいが……なんという愚鈍。
 守るだの救うだの聞こえのいい言葉を宣うばかりで、やっているのは敵手の使い、守ると言った陣営の娘を窮地に追いやるのを見ているばかり。
 娘側からすれば、人質が敵の尖兵に仕立て上げられているようなもの。
 責を負うのなら潔く腹を切ればいいものを、あまりにも見苦しい。
 そしてその見苦しさを───塵屑と見做しながら無視できない我が身のどうしたことか。
 古い鏡を見せられてるような。万華鏡の内部に取り付けられたような、そんな無視の居所の悪さは。

「私の望みは……唯の一度も……変じておらぬ…………」 

 どれだけ歪み捻れようとも、初志は忘れていない。
 骨の焼け付く嫉妬の音は耳にこびりついている。
 それだけは違えてならない。黒死牟が費やした生涯の全てを懸けて。
 長刀を揺らめかせ問答の終わりの合図とし、猗窩座もまた構え直す。
 しかし意気を絶やさぬ両者と違い、場はこれ以上保てなかった。
 鬼が血戦を始める前から、とうに国土は限界だった。
 鏡世界がひび割れ、砕かれ、砂時計の終わりのように虚無の奈落へと崩壊していく。

 二人は気にしない。鬼ならば足場がなくなるまで戦い続けられる。
 問題は、ここには互いに戦いには無力のマスターを置いているという点。
 助けを必要とする顔を思い出し、苛立ち混じりに踵を返す。猗窩座も突っ込む愚は冒さず、主の救出に向かいに逆方向へ跳躍した。


 ◆


 雷霆(ヒカリ)。
 蒼光(ヒカリ)。  
 街路樹に、地下通路に、眩い帯を残していって駆け走る疾走するヒトガタの光。

 避難しそびれた僅かな通行人がそれを目撃しても、何であるか判別する事はできない。
 本物の光の速度には遠く及ばず、音速に届くかという程度ではあるが。
 人にとっては見えぬ風が傍を通り過ぎ、舞う木の葉を見て漸く形が見れる程度ではある。
 即ち速く、勢いがある。見るも止めるも叶わない。
 ただの自然現象に意思を見出すとしたら、風は彼等の邪魔を許さず、障害物として吹き飛ばすだろうと、そう思わせる震えが。


 ヒカリは光速に届かず。音にも足らず。
 故に、そこに着くのに「彼」は19の時間を必要とした。


「──────して……」


 息を切らして。
 運動による体温上昇に伴う調節機能とは別種の汗を背筋に張り付かせて。
 アーチャー・ガンヴォルトはそこで立ち止まる。


「どうして…………!」


 そこには誰もいない。
 そこには何もない。
 爆ぜ割れた地面。砕けた鏡面。僅かな血痕。氷の破片。
 無数の痕跡以外に残されたものはない。
 命あるもの、命だったものは、何処にも。


「どうして、ボクは──────!」


 音がした。
 地面に膝を力なく落とす音。
 心の硝子(グラス)が砕けて割れた音を。


 例えようのない、言葉で表しようのない悔恨の嗚咽(コトバ)だ。


 飛騨しょうこ、GVのマスターは死んだ。
 契約を結んだマスターとサーヴァントとの間で繋がれた因果線(パス)。
 どれだけ離れていても感じ取れる証は、機凱のアーチャーを退けた直後に断ち切れた。
 ぷつん、と。糸にナイフを当てたみたいに、あっさりと。

 唐突に刻まれた令呪と一緒に添えられた念話を聞いたばかりなのに。
 もうこの声を聞くのは二度とないのだと。
 姿を見れない場所で、命が摘み取られた瞬間だけを知覚させられる悪寒は、直に死に様を見せつけられると同等に感情を打ちのめした。

 令呪にある協力相手の存在を無視して。
 マスターの残り香、微かな因果線を辿って全速力で走っても。
 結果は変わらず、変えられない。
 光も超えられない速さで幾ら跳ぼうとも時は戻らない。
 倒れている筈の遺体すら残っていない疑問に目を向ける余裕すらない。
 マスター・しょうこが世界から抹消(デリート)されたという事実だけが、今の彼の心を支配していた。


「どうしてボクは……いつも……大切な人を守れないんだ……。
 守ると誓った……ずっと傍にいた人を、また……!」


 失ってばかりの人生(モノガタリ)だった。
 蒼き雷霆の神話。皇神(スメラギ)を殺し、理想郷(エデン)を破壊した咎人。
 差別と被差別の階級反転、能力者の支配を跳ね除けて求めた自由は遂に手に入らず。
 組織、仲間、友、師、最愛。残したいと思ったものをこそ残せずに。
 残ったものは、癒えぬ爪痕だけ。

 鎖環(ギブス)に繋がれる未来を知る前の己が、戦いの対価に第二の生を歩める身と変わってから、少し先。
 マスターとして共に戦う少女の願いが『ここから外に連れ出して欲しい』であると知った時から。
 固く誓ったのだ。心の奥で。
 二度と掴んだ手を放す事はしない。今度こそこの願いを完遂する。
 自由なる翼(フェザー)を持った小鳥を、守り切ってみせる。
 憶えている記憶。声はもう聞こえなくても、思い出はまだ残されているから。
 縁もゆかりも一切ない無力な少女に召喚されたサーヴァントが自分である理由は、それなのだと信じた。


「信じて、いたのに………………!」

 なのに何故、己はこうして這い蹲っている。
 乾いた地に身を擲ち項垂れている。
 誓いを胸に刻んだ信念は、いったい何処に消えて失せた。
 立ち上がる意義(チカラ)は、いったい何処で抜けて落ちた。

「ぐ……」

 延々と周回(ループ)する脳を苛む頭痛。
 纏まった思考が固まらないのは、これも原因だ。
 さっきからずっと、己の考えとは関係のない単語と記録だけが反響している。





 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■



『大戦』

『星杯(スーニアスター)』

『神』

『人類種(イマニティ)』

『機凱種(エクスマキナ)』

『解析体(プリューファ)』

『髄爆』
『崩哮(ファークライ)』
『虚空第零加護(アーカ・シ・アンセ)』

『幽霊』

『意志に誓って(アシエイト)』

『同意に誓って(アッシエント)』


 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■




「──なあ、またゲームしようぜ……今度こそ、勝ってみせるから、さ……」




 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■




「うる、さい……!」

 柄にもなく、荒らげた声で振り払う。
 手で前の空間を切ろうが頭の声が消えるわけでもないのに。
 聞きたい声を聞けずにいるのに聞きたくもない雑音が群がってくるのが、鬱陶しくてかなわない。

 しょうこの隣に控えていた筈のさとうとキャスターを見つけるという、最優先の目標すら設定できず。
 悲嘆と鬱屈が、GVの自我を埋没させていく。
 死者(サーヴァント)の末路、終わりの場面を再現して。
 一度目を救っていた奇跡(ウタ)は今は流れない。故に。




『…………………………!』
「え……?」



 故に。
 逸話(キセキ)はここに、再現される。



 声が聞こえた。
 懐かしい声。歌姫(シアン)のものではないけど、さっきまでずっと聞いてきた、まだ耳朶が憶えている響き。
 音の出処は───。

「ミラーピース……?」

 懐で淡く光る紫色の鏡面。
 幻想を閉じ込める理想郷の欠片は、誰かの心臓の鼓動のように明滅を繰り返している。
 脈打つ鏡に耳を当てる。雑音はいつの間にか消え、やがて明瞭な言葉が代わりに浮かび上がって聞こえてきた。

『……チャー………………アーチャーってば…………!』
「……マスター?」
『あ! やっと聞こえた! ピーピー泣いてないでマスターの声ぐらい気づきなさいっての!』
「え、あっ…………」

 洗いざらい聞かれていた羞恥で、意識と顔が赤熱化する。
 そんな暇はないと分かってるのに、消えた主の存在を確かめた安堵が重なって、醜態を上手く隠せなかった。

『ま、あんな風にギャン泣きするあんたが見られたのは新鮮でちょっと嬉しくもあるかな。
 その原因が私なのは……ごめんと思うけど』

 声だけでも、済まなさそうに顔を背けてるのが幻視できる。
 GVの記憶にあるのと差異のない、本物としか思えない飛騨しょうこが『そこ』にいる。



「どうして、ミラーピースからマスターの声が……?」
『分かんない。何で私がこうなってるのかここにいるのとか、全然検討もつかないや。
 この私が本当に私なのかも、正直言って自信ないし。
 それでも無理くり理由をつけるなら……私の最後のお願いがあなたに聞こえる声として届いたのかもなー……なんて』
「願い?」
『うん』



『さとうを、守って』



 ────どこまでも、彼女らしさに満ちた、ありふれた尊い祈り。


『本当はさ、もっとあるんだよね。
 あさひ君を守って、しおちゃんを守って。私も、やっぱり聖杯が欲しいし。
 でもいちばん最初に思ったのがこれだったからさ。時間もなかったし、選べるのがひとつだけなら、仕方ないなあって』

 その言葉を受けた瞬間、GVは我が身の力の賦活を感じた。
 単独行動スキルの恩恵で現界は保たれてるものの、要石たるマスターを喪って減衰してきていた魔力が、急速に充足されていく。
 過程を省いた奇蹟の理屈は、ひとつだけ浮かび上がった

 今のしょうこの言葉は、単なる言霊以外の力が内包されていた。
 しょうこに魔術師としてのスキルは備わってない以上、過大な供給の源は令呪の効果でしかあり得ない。


 死の寸前にあって。
 命の脈が途切れる最中でさえ、彼女は友の為に行動した。
 見捨てても咎められない状況だったろうに、痛みと恐怖を噛み殺して願いをGVに託した。

「僕で……」
『え?』

 その思いの強さにこの上ない敬意を抱きながら……いや抱くからこそ、即断で頷けないGVがいる。

「僕で、いいのかい……? 君の願いを聞くのが、僕で」

 二度と友から目を逸らさないと、自分自身を裏切らず最期まで果たしてみせたしょうこ。
 そんな尊き幻想を、幾度なく裏切られてきた己がバトンを握る役目でいいのだろうか。
 失敗は悩みを生み、進む足を凍えさせる。恐怖が蔦となって絡みつく。
 死ぬのが怖いのではない。
 しくじってしまえば、しょうこの願いが無為になり、彼女の決意に泥を塗る行為になりはしないか。
 希望に応えられない己の無力こそが、GVには何よりも恐ろしい。

『何言ってんの。私のサーヴァントでしょ』
「そうだ。ボクはキミのサーヴァントだ。……なのに君を守れなかった。マスターを守護する最低限の役目さえ、果たせなかったんだ」
『もう十分守ってもらったよ。あんたがいなきゃ何回死んでると思ってんのよあたし』
「でも…………!」
「あんただからいいのよ」

 唱えた呪文は魔法。
 神秘の香りを生じさせないまま、雷霆(ヒカリ)が暗雲を切り裂いた。

「他の人じゃやだ。誰にも教えたくなんかない。
 あんたがいい。あんたにこの思いを背負って欲しい。
 私のサーヴァントだったあんただから、私の願いを全部託せるの。……分かってよね、この乙女心。彼女いるんなら」

 ───恋仲と呼べる程、睦まじい関係ではあれなかったのだが。
 そんな訂正も間に合わない衝撃が、稲妻となって駆け巡る。


 かつて『電子の謡精(サイバーディーヴァ)』の能力を分割したミラーピース。
 変遷して戦闘した相手の情報を蓄積する宝具と化した今でも、かつてのシアンのように誰かの心を保存する機能も残されている。
 契約の因果線を通じて流れたマスターの情報が僅かなれども蓄積されていたとしたら……。
 それとマスターの死亡とほぼ同時に送られた令呪とが混線して、保存されていた情報(しょうこ)の形に加工されていたのか。
 あるいは───ピースの中にいるかもしれないシアンの声が、聞こえない霊基に合わせてマスターの声に変換されたのか。

 答えは分からない。
 正解なんてないのかもしれない。
 ただの魔術的効果。霊基のエラー。そんな程度の理屈の方がずっとあり得る。


「───我の身は汝の心に、汝の命運は我が剣に。
 聖杯のよるべなくとも、この意、この理に従い、我が名に誓う」


 いや。
 理屈なんて、なくてもいい。

 この声を奇跡と呼んでいいのなら、ただの事実の何倍も力が漲ってくれる。


「キミに呼ばれた騎士(ナイト)として、受け取ったこの命、必ず果たそう。今度こそ、我が身尽き果てるまで」


 意志に誓って告げる。
 同意は返ってこない。もう声は聞こえない。
 けれど哀しみは感じなかった。肌を突き刺す茨の棘は枯れ落ちた。
 地下空間で吹いた風に乗って消えゆく彼女の顔は……笑っていたから。
 それが都合のいいように解釈した幻想に過ぎないとしても、その思いに心から感謝を。


「さようなら……ボクのマスター。
 このセカイで会えた、眩しいヒカリ。キミに出会えて本当によかった」



タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2023年04月30日 20:55