◆


 同盟の力を削ぐ為に、折を見ていずれ必ず潰さなくてはいけない障害があった。


 鏡あるところ全てに監視の目を置き、自在に侵入する事ができる移動経路。
 家庭でも会社であろうと、鏡の置いていない建造物などまずない現代で、あらゆる扉の鍵穴に通るマスターキー。
 犯罪卿の手練手管をすり抜けたのはこれが理由に間違いなく、即ち今後も方舟に乗り込んでいる彼女達を脅かす凶手となる。そもアイドルに悪質なストーカーはご法度だ。

 素人目線でも分かる足場のぐらつきに危機感を覚える。
 疑いようなく、ただならぬ異変が鏡世界で起きている。 
 この空間が壊れる事自体は、構わない。むしろ望むところだ。
 それがこうして勝手に叶いつつあるのだろう、変動の只中にあって。
 この胸には喜びも、達成感も、奮起すらも生まれていなかった。

 今起きている崩壊に、自分は関わっていない。
 別のサーヴァントが内部が保てないほどの激しさで戦っているのか。
 結界の元締めたるライダーに、展開を維持するだけの余力がなくなってきているのか。
 外の状況を窺えない身に知る術はない。あるのは、自分を他所にして状況は動き続けているという事実のみ。
 労せず障害がひとつ排除された、望外の幸運と受け取ればいいのに……不快な感覚が拭えない。

 ……他人に手を下しておいて今更後戻りできない。どれだけ汚れても構わない。必ず助ける。
 にちかの為に自身を薪にして炉に焚べて、283のアイドル達にも無事でいて欲しい。
 不退転と捨身の決意で飛び込んでおきながら、いつまでも勝利への道筋を掴めずにいる自分。
 お前は何をしてきた?
 お前に何が出来る?
 徒に浪費される時間で、出来たのは走狗の使い走り。
 進展など何一つしていない。界聖杯に招かれる直前の頃と同じ位置だ。
 投げ出された海洋で溺れ、ばたつかせた手に触れた藁を救助のボートだと思い込んだようなもの。
 第一義に埋め込んでおくべき、何を願うべきかも定まらないまま────。


「──────────────」


 物陰の向こうから、誰かの話し声が聞こえた。
 身を隠しつつも慎重に、片目を出して様子を窺えば、数分前に別れたばかりの、銀の髪が揺れていた。
 連れ合っていた妙齢の女性と、同じ金髪の幼い印象の少女の傍で、戸惑いを隠せない表情で周囲を見渡している。

 何故、霧子がここに来ているのか。
 鏡世界には許可がなければマスターでも侵入できない筈。この振動が何か関わっているのか。
 推測を並べてみても分からない事ばかりであるが、何の為に霧子がここにいるのかは、はっきりしている。
 ……追ってきたのだ。自分を止める為に。


 止める、というのは正確ではないかもしれない。
 表現するかたちが少し独特なものだから読み解くのに一工程を挟むが、幽谷霧子はとても聡く、未だ計り知れない優しさを抱えている。
 ただ手を伸ばすのではなく、その人の心に紡がれた物語を聞く事から始めようとする。
 貴方の祈りを聞かせて欲しい、届くべきどこかへ届く為の手伝いをしたい。
 ふん縛って強引にこちらに引き戻すより手緩く、それ以上に困難で。
 願った通りの答えが見れるかも不透明な道を選べる子だから。
 そうする事を望んでもいいと、かつて教えたから。
 淡い、今にも消えてしまう新雪を思わせる、奇跡みたいな在り方に、ひと目で魅了され。
 霧子と同じ気持ちを共有したいなんて……思っていた日もあった。


 そう、唯一無二の太陽のように。
 覆い隠した罪も業も、日の下に曝け出させてしまう。


 ……霧子達のいるのとは反対方向に歩き出す。
 近く、ランサーが脱出の迎えに来る手筈だ。その際彼女達のサーヴァント、特に霧子のセイバーと出くわしてしまったら衝突は避けられない。
 空間からの脱出は壁面に張られた鏡をくぐるだけで比較的容易だ。隣に護衛も付き添っているなら心配するものでもない。そう、尤もらしい言い訳をつける。

 霧子には、会えない。
 彼女の祈りはとても優しくて、暖かい。
 役立たずの自分よりも、もっと大勢の人を照らせる子だ。
 一緒ににちかへの祈りを考えられる時間も自由もない男に付き合わせて、穢していいものじゃない。



「そうやって、ずっと逃げ続けるんですね」

「がむしゃらに、むちゃくちゃに走って裂けた踵から出る血を見れば、自分が何か頑張ってるって感じになれるから」

「自分で自分を痛めつけて、ぐちゃぐちゃに引き裂かれて、格好悪く転んで失敗して」

「みんなにかわいそうな自分を見られて笑いものにされたら、もう諦められるから」



「……はは」

 愚計。余りにも愚計。
 幻覚すらも味方してくれず、砂のような笑いを漏らす。つまりは誤魔化し。
 そうだ。逃げるのは怖いからだ。
 彼女の許しを。祝福を。それによってつけられる傷を予感してなおその身に引き受けてしまう優しさを。
 とうに破綻していた心が触れた暖かさに解きほぐされれば、自らの重みで内側から潰れてしまうという、ただの防衛反応なのだ。


 ああ。お日さまに当たるのが怖くなって逃げるなんて。
 まるで俺が鬼になったみたいじゃないか────。



 ■




「………………ねえ、これ、やばくない?」

 刻一刻とめくれあがっている壁面を眺めて、鳥子は呟いた。

 近くに敵の気配を察知したとだけ残してひとり駆け去った黒死牟を待つこと数十分。
 待っていろと言われたでもないが、この人数で纏めて移動できる手段であったリムジンの操縦手がいなくなった為に自然と立ち往生になってしまった。
 だがいい加減に覚悟を決めていかないといけないらしい。
 精確な座標すら分かってない曖昧な空間だが、この進行が安定を欠いた、緊迫したものであると感じるのは間違いではあるまい。


 指針の決定を促すのは自分が適任だろうと、鳥子は今自らが演ずるべき役目を務める。
 聖杯戦争の本分である直接の切った張ったでは分が悪いが、【裏世界】での探検ではこうした『常識の通用しない環境を生き抜く』事態に対しての経験の方が強く活きる。
 ネットから民間伝承まで蔓延る都市伝説(フォークロア)を下地にした、人を恐怖させる為に無意識で作られる構造物。
 鉄道駅、海辺の家、猫の館……法則性はきちんとあるが人間の理解力では追いつけないからこその無理解と恐怖。
 銃の扱いは人取り学んでるし、遭難した自衛隊と協力しての行軍なんかもこなしてきたが、基本的に【裏世界】での異物には一に避難、二に防衛だ。
 手を変え品を変えてこちらに接触してくる、意思すらないのだろう【彼等】を見て、触れて、鳥子と空魚は圏域からの脱出を何回も果たしてきた。
 ここでならその知識を応用していけるのではないか。というかしなければ死ぬのだからやるしかない。

「アビーちゃんどう? ここが壊れたらそのままスポーンって元の世界に戻れると思う? ちなみに私はまったく思いませんっ」

 相手のテリトリーがまるごと、こちらを飲み込むように展開されるというケースは、【裏世界】でもままある。
 そして取り込まれた者はまず助からない。命を落とすはまだいい方で、姿形がおぞましい変貌をして【彼等】の都市伝説の一部なってしてしまう場合も多い。
【裏世界】に長時間滞在する事は、それだけで現実に復帰する可能性を下げる高いリスクがある。
 そして今回に当て嵌めれば……全体の振動と崩落という、向こうではあまり見ない物理的に破壊が起きているシーンである。
 失踪も発狂も抜きにして、ダイレクトに、死ぬのだ。

「わ……私も……そう思うわ……! きゃっ……!」
「よね! じゃあ霧子ちゃんのセイバーには悪いけど一足先に失礼しよっか!
 アビーちゃん、近くに鏡がないか探して! たぶんそれが出入り口になってるから!」

 望むべきはただひとつ。
 最短最速での脱出のみ。
 敵連合の『M』の助言、光月おでんの裏付け。
 2人が語る鏡世界にいつの間にか迷い込んでいたとして、その侵入口を何と言っていたか。
 走行中に通過したミラー、ビルの反射鏡面等に車体が移り、それがなにがしかの不具合で開いたタイミングで引っかかった形だとしたら。
 同じように鏡をくぐれば、元の場所に帰還が叶う筈。


「大変だわマスター……! どこの鏡も、みんな割れてて外が見えない……!」

 見えてきた光明はしかし、あっさりと暗闇に隠されてしまう事になる。
 走り寄るアビーの両手には、小さく割れた鏡らしき破片の山。
 遅すぎた。脱出に必要なトンネルは時間と共に潰れてしまっていたのだ。
 もう周囲に、人間大の身長が通れる鏡は残されていない。

「あ……! 田中さん……大丈夫……ですか……?」
「……っ! くそっ……くそっ…!…」

 止むどころか回数を増していく地割れに足を取られて倒れる田中を、霧子が支える。
 逃げ場どころか足場も少なくなってきている。このままでは本当に、あるかどうかも分からない谷底へ真っ逆さまだ。
 いや、落ちるだけならまだ、細糸ほどだが希望は切れない。理論上でなら昇れる可能性もあるという事だからだ。
 ここでいう絶望とは、落ちさえせず、永遠にここに閉じ込められる事。
 難破した船から大時化の海に投げ出され、上も下も行けず、息もできず、苦しみ続ける。

「そんなこと────!」

 認めない。
 鳥子は絶対に御免だった。
 諦めない。生きる事を投げさせない理由。自分が生きていく意味に足るものが、もう鳥子にはできてしまっている。
 何か、何か、都合のいい偶然は存在しないかと目を全景に走らせ────鳥子は”それ”を見た。

「なに、この穴……っ」

 連続した地響きで陥没だらけになった地面にできた穴のひとつが、鈍い光を放っている。
 この異常風景で今更穴が光ったところで無視してもよさそうなものなのに、いやに鳥子の興味を引いて近づいてしまう。
 いや……引かれているのは、鳥子の残った片腕だ。
 透明な指先。第四種接触者と呼ばれる者の証は、穴の奥から放つ光を透かして煌めいている。

「あ……ここは……」
「アビーちゃん?」
「マスター、これ……扉だわ。少しだけど、繋がってる……!」

 言い表せない感覚に立ち止まる鳥子に、アビーが叫ぶ。
 前のめりになって穴を覗き込み、自分の認識を確かめようと食い入るように観察する。

「扉? じゃあここから外に出れるってこと?」
「いいえ……まだよ……。これは入り口と繋がってない、この世界そのものにある大きな扉。水の中を揺蕩う泡のようなもの……。
 鍵穴が定まってないからどこにでも行けるけど……どこに行けるかもわからない。本当に……『外』に繋がってしまうかも……」

 アビゲイルはこの穴を扉といった。
 家の玄関。襖の仕切り。内と外を分ける境界。
 鏡を中継して移動できる法則が存在する場所における大元、移動する力そのものの根源とでもいうべきか。

 外、というのは地上とは違う、界聖杯とも元の世界とも違う異邦という意味なのか。
 ともかくつまり今、ここに飛び込ぶのは身投げと変わらぬ自殺行為と言いたいのだろう。
 かといって迷ってる暇はない。運良く鍵とやらが見つかるまで、ここで待つか? 扉ごと消えてなくなるのがずっと早い。

「そう……だから……」

 伏せていた顔を上げる。
 アビゲイルの表情は意を決した、これからする事への恐れと、それを克服する覚悟を秘めている。
 正面の扉に向けてゆっくりと手を翳し───両腕の中心から、光が溢れた。

「私が鍵を造れば……!」

 禁断の一端、解かれる錠前。
 アビゲイルの内側から発した魔力が、空間上の無に広がり、ひとつの現象を起こす。

 「……? シャボン玉が……いっぱい……」

 霧子の言う通り、それは虹色に輝く球体。
 憧憬を喚起させる石鹸水の膜。
 しかし、その実態が穏やかなものである筈がない。
 みるみると増殖していく虹玉は日常の風景から、正気を消失した者の口の端にこびりつく冒涜的めいたものに印象を変える。
 泡はひとつひとつが光を出して、輝きを相乗させていく。


 鳥子はこれを知っている。
 アビゲイルの中に眠る、深き淵よりも最果てに座する存在。
 異なる位相。異なる次元。異なる■■からの呼び声。
 門にして鍵。そう呼ばれた言葉のままに、無名の穴に鍵を通そうとしているのか。
 何処の門にも繋がってないが故、鍵の鋳型次第で好きな場所に出られる。そういうことなのか。

「う……!」

 眉間に皺が寄る。
 アビゲイルが苦痛に俯く。
 体に傷は生まれない。多大な魔力消費がもたらされてもいない。現に供給源の鳥子には負担は襲ってこない。
 問題は出力の量じゃない。出力する、アビゲイル自身の器。
 力を封じたまま力を使わなければいけない矛盾。
 本当なら、相応しい霊基(からだ)で行使するべき操作を幼い姿で行う負荷の影響。

「ううう…………!」

 それでも、諦めたりせず。
 泣き出しそうな顔で、震えっぱなしの腕で懸命に。
 アビゲイルは両手を広げる。後ろに控える人を守る、幼くも英雄の在り方で。


 とても、良い決意だと思う。
 中身にいったいどれだけの恐怖の源泉がねじ込まれていようとも、信仰深い少女の精神でいるアビゲイル。
 あっさりと外してしまえばいい鍵の錠前を、全員に危険が及ばないようギリギリに調節する自分のサーヴァントを、立派に誇れる英霊だと自慢してやりたい。

 けれど一個だけ。
 間違えている箇所がある。
 2人は守るか守られるかだけじゃなく───一緒に戦う関係なんだと。


「ここに、あるんだよね?」


 指先でしっかりと、その”取手”を握りしめる。
 アビゲイルの背中から左腕を伸ばし、光の中枢に透明な指を這わす。

「……! はい! もう少し前に……右……そう、そこよ……!」

 希望に満ちる金砂の髪。
 無形にただ広がるだけの泡に”触れた”途端、光芒が収束していく。
 集まり、固まり、輝きだけが増していって、意味を持った形状に。

「みなさん……行きたい場所、会いたい人を思い浮かべて……。
 鍵は心……扉の先は、あなたの願いの中に……!」

 そう、制御に手が回らないのなら、分担すればいい。
 アビゲイルが門を開き、鳥子が鍵を形作る。
 鳥子の触覚のままにこねられた光は今、鍵となって指に絡められている。
 行きたいところに自由に入れる、世界の裏を開ける魔法。

「マスター! 回して!」
「オッケー!」

 思い切り、手首を返す。
 それに呼応して、穴が裂けた。
 そうとしか言いようのない変化だった。
 そこにあるだけの空間の開きだった穴が、別の居所と続く裂け目(ポータル)へと生まれ変わった。

「霧子ちゃん、来て! 田中もこっち掴む!」

 一瞬の逡巡もない。
 既に殆どが下に消えた地面に見切りをつけて跳躍。
 こんな世界でも重力は正しく機能し、鳥子達は真下の裂け目に身を躍らせた。

「あ、ああ……!?」
「あ……! セイバーさん……! こっち……!」

 手足をばたつかせ狼狽する田中と、追いついたセイバーを目に入れて呼びかける霧子。
 2人の声を最後にして、御伽の国が終わりを迎える。
 生者の痕跡は軒並みばらばらに砕け散って、どこでもない水底に沈んでいく─────。



 ◆




 極小の宇宙が、広がっている。
 砂丘の粒ほどの宝石を蕩尽させたか如くに煌めく航路。
 その一筋に至るまでが彼方の星々の集まり。滴から始まり流れになり、運ぶ河となって無間に海図を更新している。
 そこに住まう生命ひとつひとつまでもを丹念に、偏執的にまで焦げついた情熱を注いで描かれたと、有無を言わせぬ精妙な迫力。
 ───東京タワー地下。龍脈連結誘導式召喚魔法陣。
 地上で起こる全ての戦いの到達点と見做される地点に影を写した1人と、それを待ち受ける1人。
 2人の人と、人でなきもの。

「さては、あんたがリンボでしょ」

 ”ぬるり”という擬音を侍らせて出てきた怪人物。
 魔法陣が玲瓏に光る暗室にもかかわらず窺えない黒を、空魚は断定した口調で名を呼ぶ。

「ン───」

 名前を呼び、つける事。意味を与え形を縛るという式に括られ、虚飾が剥がされる。
 いいや、始めから隠す意図もないのか。
 見せた全身は、雅と奇を履き違えて着飾り、それがひとつの意匠として成立してしまった芸術品を思わせる。
 美しき肉食獣。
 アルターエゴ・リンボの自称す名称の体現なれば。

「成る程、成る程。斯様な穴蔵にまで拙僧の名は届いておりましたか。
 この都で右へ左へ駆けずり喧伝して回った甲斐も、あるというもの。
 然り。拙僧こそリンボを名乗りし法師陰陽師。アルターエゴの器(クラス)を纏い、聖杯を臨まんとするサーヴァントに御座いますれば。
 して貴婦人や。貴方様の名をお聞きしても?」
「言わない。誰が言うか。ていうか知ってんでしょもう」
「知りませぬ。拙僧、貴方の名に連なる報をちいとも知りませぬ。
 これでも一通りの主従、英霊とその契約者の許へ赴き、花を咲かせたものですが……どうしても貴方に辿り着くものはありませなんだ。
 もしや、本戦の始まりからこの洞穴に籠もりきりで? ずっと?
 それはいけない。宮仕えとはいえ不養生は体に毒になりますぞ」
「なんか申し訳無さそうに言うなっ余計なお世話だっての」

 流れ弾を受けながらも口は割らない。
 本名は死守する。
 名はあらゆる呪に用いられる依代。守護にせよ呪詛にせよ、知られれば使われる。  
 殊に、このような外法を外法と思わず用いる外道には。
 空魚の母がはまったカルト信者より胡散臭いくせに、放たれる妖しげな圧は冗談にもならない。
 あの信者と違って。奪うのは金銭では収まらない。命でだって満足しない。
 持ち得る全て、全て、総てを絞り出し最後の一滴を嚥下するまで、にやけ顔を止める気などないのだろう。

「拙僧が知れたのはひとつ、ただひとつの報せです。
 我が大願成就に必要となる、薔薇の眠り香し銀の巫女、その主。
 彼女らの向かう先を追う仕込みをして、併せて卦も見たところ一致した場が此処であるという。
 よもやよもや、誰も彼も眼血走り口垂涎の的たる霊地とは思いませなんだが、これもまた都合良しと卦に表れる通りでして」



「───フォーリナー、アビゲイル・ウィリアムズのマスター。仁科鳥子
 貴方はその縁者でありましょうや?」


 ほら、こうして。
 遠慮を微塵もなく、地雷をぶん投げてくる。

「だとしたら、どうだっていうの?」
「死んで頂きたい」

 丁寧に。丁寧に。
 真摯を込めて希う、殺意。

「ただ死ぬでは駄目です。なるべく苦痛を味わったまま死んで下さい。
 怨嗟を喉に張り付かせて、眼窩を涙で溶かして、愛と希望の無意味さと儚さを悟りながら死んで欲しいのです。
 肉(そと)と臓物(なかみ)も入れ替えれば足りますか? それとも首を落とし畜生と挿げ替える? 何でも宜しいですよ。ご要望にはお応えします。
 なにせ、どう死ぬとしても、その様を見た巫女殿とその主が墜ちてしまえば、構いませんので」

 法師は空魚の命を奪いに来たのではない。
 空魚の立つ土地の霊脈に用があり、空魚と交流し親交のある鳥子の、そのサーヴァントに用がある。
 つまりは。
 ついでの、ついでの、ついでに、死ねと言っている。
 その理由が、紙越空魚の生命の喪失に足ると。

「ああ、そう。やっぱ地獄界なんたらの絡みなんだ」
「そちらは流石に知っておいででしたか。それはそれは。話が早くて助かります。興味がおありで?」
「あるわけないでしょ」

 窮極がなんたら。
 地獄がうんぬん。
 まあ、つまりは、とても悪くて酷いことをしようとしている。
 知っていていいのなんて、それぐらいで十分だろうと、理解をやめる。

 鍵となるアビゲイル・ウィリアムズの掌握。
 その堰となっている鳥子の排除。
 その鳥子の目的となっている、空魚の抹殺。
 最初の目的を果たすのに、いやに迂遠な道のりを選ぶ。用意周到が行き過ぎて、これでは天頂に着くには日が暮れている。



 ───否。之こそが最良だ。最上だ。
 リンボは人の心を知る。己の覇道を挫き敗北せしめた根幹を知る。
 英霊が、人間が、大悪を前に対峙して見せる気質。
 邪悪と戦うと決め、刃を手に立ち足を動かす想い。
 即ち、変生した蘆屋道満オルタ・リンボを倒すもの。
 人、それを正義という。

 故にまずはそれを奪わねばならぬ。
 邪悪が正義に勝利するには、体を殺すより前に心を殺しておかねばならない。
 弱き個が群れ合い縁を結ぶ事で大いなる因を呼び招く、確かにそれは脅威。
 だが個はあくまで個のまま。
 1人ひとりの力は弱くとも連なればというが、逆も然り。
 連なり、結び、繋がらなければ、人はかくも容易く、濡れ紙が如く破れるもの。

 そして繋がりは連鎖する。
 熾した正義が接続した同士で伝播するように、1人から流れた悪意もまた伝染するもの。
 紙越空魚の死が仁科鳥子の死を。
 仁科鳥子の死がアビゲイル・ウィリアムズの死を。
 結び、紐づけ、順に導く。
 先の小事が、後の大事を決定づける。


 時は満ちた。
 霊脈の守護者である峰津院は、海賊同盟の盟主、カイドウと対決。
 新免武蔵を始めとした、同じ場に集いし方舟の面々も退く事はできず。
 無数の陣営、無数の勢力。
 空いた守りに忍び寄り、抜け駆けできる時間と手段を、リンボだけが手札に揃えた。
 門番は間に合わせの心得なきマスター1人。しかもそれが地獄界曼荼羅樹立の要となる、銀の鍵にかけられた鎖を断てる剪刀となれば。
 収奪には、之こそ絶好の潮。


「だからさぁ───────」


 がしがし。
 がしがし。
 頭を苛立たしく掻いて、空魚は吼えた。
 吼えた、とするには声量は小さい。覇気も足りない。
 それでも声は咆哮だ。
 敵対───殺すものへ牙を剥く威嚇だった。

 重ねて。
 空魚は理解していない。
 窮極の地獄界曼荼羅とは何なのか。要素となるアビゲイル・ウィリアムズの力とは何なのか。聖杯戦争に勝利する為に解放を必要とする理由は何なのか。
 理解しないまま、知らないまま。
 ただ、ひとつだけを、理解している。
『ようはそんな理由で私と鳥子を殺すのか』という答えを。

 ああ、なんて単純。シンプルイズベスト。
 こいつは、こいつらは、引き裂くのだ。
 空魚を。鳥子を。空魚と鳥子の間にある、共犯者という強固な関係をダシにして。
 自分だけの目論見を達成しようとしている。

「どいつもこいつも、あいつを景品のオマケ扱いするなよ」

 フォーリナーのマスター。
 巫女の精神の楔。
 聖杯戦争ではそんな風にしか記憶されない鳥子。
 認知度を広めたいわけじゃない。鳥子を知って、考えているのが自分だけだっていうなら、それでいいとすら思う。
 どんな風に笑って、どんな事を考えて、仁科鳥子がどんな人間なのか。
 知る気がないなら、知らなくていい。

「要望を言えって? じゃあ遠慮なく言ってやる」

 リンボは勘違いをしている。
 混迷した戦線でぬけぬけと火事場泥棒をしに霊脈に侵入し、そこで空魚と偶然出会ったのだと錯覚している。
 事実は違う。
 待っていたのだ。空魚は。
 リンボが、空魚が顔を見れる場所までやって来るのを、ずっと待ち構えていた。


「即刻、ブッ死ね。クソ坊主」


 髪を掻き上げて空いた目で、”見”る。
 蒼い瞳の中に、リンボの顔が吸い込まれる。
 その映り込む眼鏡の内側から───まつろわぬ『異』がまろび出た。



 ■




「グ────────」 

 リンボの体が揺れた。
 原因は突如起きた、脳が丸ごと裏返るかのような不定の狂気を換気する感覚に膝を崩したため。
 そしてもうひとつは───はだけた着物から覗く裸身に生えた、鋭利なオブジェ。
 それを握る、黒い男の手に握られた刀に背中から突き刺されたためだ。


 無音俊足の暗殺手。
 東京タワーの裏手から地下通路を降り、空魚とでリンボを挟み込めるポジションに回り込み、取り決めた合図を皮切りに踏み出すまでの間。
 足音、気配、魔力、全てに痕跡を残さず。
 凶器に心臓を貫かれるまで己の死すらも気づけない。

 悪あがきも許されない。瞬間的に【裏世界】の法則を叩きつけられて焼かれた精神は、延命の術を練る集中を保てない。 
 伏黒甚爾。魔の気配を過敏に察知し、抗魔術対策に血道を上げる術師(キャスター)を嘲り笑う殺しの手並みは、ここでも遺憾なく発揮された。
 現にリンボは、我が身に起きた事態を受け止めきれていない呆け顔のまま死に様を晒し────。


「っ違う! そいつじゃない!」


 死体の輪郭が腐乱した果実のように崩れ盛大に中身を破裂させるよりも、空魚が叫ぶ方が早く。
 それよりも更に、釈魂刀で呪いの実に斬撃を振るって膨張を止める方が速かった。

「……まあ、俺は手応えがなさ過ぎるからすぐ分かったが……お前はよく気がついたな」
「右目で見たら、分かりやすいぐらい偽物って形になったから……。形代とか符術符、ていうの? 見たまんま身代わりの」
「成る程ね。俺と違って立派に呪われてる眼だ。せいぜい引っ張られないようにしときな───ほら、今度は本物か?」
「く───────」

 それぞれの手段で偽装看破した二者の頭上。 
 全てを俯瞰し物見に興じていたと嘲笑する声が、暗黒に響く。

「ハハハハハハハ! いやいやお見事! よくぞ見破りなされた! ああ、やはり備えというのはしておくに限る!」

 浮遊したまま見下ろすは、床で消滅していく肉塊の元の形と寸分違わぬ見目。
 アルターエゴ・リンボ、健在。

「……うん。たぶんこっちは本物。黒いケモノに心臓みたいなのがみっつ……いや本人も含めてよっつか?
 なんだろ、逆ケルベロス? 首が3つなんじゃなくて、何人分かの体がくっついてるみたいな」

 かつての【怪異】と同じく、右目で視たリンボの形は左目で覗くのとはかけ離れた姿。
 あるいは、現実より強く、存在を特徴する写実であるのか。

「とはいえ───とはいえ、一矢報いられたのもまた事実。それを省みぬことには気分に障りがありまする。
 拙僧の後ろを、何の前兆も起こさず取るとは実に面妖。
 気配遮断? 足運び? 暗殺者の英霊といえどそこまでの気配の遮断は叶わぬもの。そこの御仁、何者なるや?」
「憶える意味もねえ猿だ。忘れな」
「猿───。そうですか、はははは、そうか猿と! はははははは!
 して猿殿。一芸見せ終わって次はどのような芝居を?」

 笑みが変わる。
 陰惨酸鼻を極める劇を演じる側から、滑稽な喜劇を眺める観客の側へ。
 居所を変えて甚爾を指差す。
『次の芝居を見せてみろ』と。
 畜生の踊る様を見ていてやると、座席に座り込んでいるのだ。


「慌てんなよ。芸には仕込みが必要だろ」
「では僭越ながら手をお貸ししましょう。術師たるもの、式や星詠みのみならず、風雅や遊戯も修めなくてはお上の顔覚えが悪くなりますので」

 手をひらひらと翻し、自分はからっけつだというアピールする甚爾に構わず、リンボは指を鳴らした。
 音はぱちりと黒い空間で弾け、”合図”を送られた従わされしものが闇から出てくる。

「ほうら、この通り」

 そして、怪異は姿を見せた。
 人の形はしていない。二手二足のていを成していない。
 腕は精密に動く触覚器官としての指ではなく、得物を挟み、切り裂く用途としての鋭い刃を備えている。
 胴は太く長く、連結されるのは複数の脚。
 口は───口だけだ。咥えた骨も石も噛み砕ける咬合力の顎。
 蜘蛛か、蟷螂を巨大化して、捕食する相手(にんげん)を模倣させたような形。
 妖怪と恐れられるもの。平安の都。後に千年王城と呼ばれる事になる京に蔓延る百鬼夜行のひとつ。
 名を、土蜘蛛といった。

 召喚された土蜘蛛が甚爾たちを取り囲む。
 土蜘蛛は複数いた。合計で5体。
 甚爾を包囲するので4。網から漏れた空魚ににじり寄るので1。
 生体であれど大型でない土蜘蛛の幻創種としての位階は低く、せいぜいが魔獣程度。100束ねたところで英霊を前には屍の山に変えられるだけ。
 その為に、数を揃えた。数とは力だ。
 4匹で甚爾を足止めし、稼いだ数秒を投入して孤立した1匹が要石のマスターを引き裂く。
 召喚された土蜘蛛に戦術を練る知恵はないが、ここには入れ知恵をする召喚者がいる。 

 多脚をしならせて駆けてくる。
 速くはない。精々が法定速度下にある自動車ぐらいのもの。
 つまりは、自動車がブレーキなしで突っ込んでくるぐらいの衝撃は、保証されている。
 何より土蜘蛛に自制はない。傷も死も恐れる事なく躰は、敵を殺す武器であり同時に自由を奪う鎖となる。
 爪と一体化した腕を振り下ろす。高速、重厚。当たれば人体を容易に裂く腕は───標的に届く前に切断され宙を浮く。

 そこからは、一瞬の出来事。
 音に並ぶ速さで体ごと旋回した刀は無数の斬撃を生み、軌跡上にある怪異共を両断、分断、寸断。
 連続回転を止めずに、すかさず残りの1匹に向かって何かを───一部分が欠けた短刀を投擲しこめかみを直撃。それでも勢いを殺せずに大きく吹き飛ばされる。
 2秒と経たず、怪物は駆逐。
 マスターの命も、サーヴァントの消耗も奪えず仕舞い。

 「お上手、お上手」

 されど、2秒の時を使われた。
 使い魔の役目は始めから秒針を二度刻む間だけの足止めだったのか。
 迎撃と守護を選択した甚爾に対して、リンボはただ攻勢を押し続ける。
 呪符が舞う。蒼穹を疾走る燕も同様に縦横無尽に飛翔する。
 その一枚すべてに必殺の呪力が練り込まれていて、牽制はひとつとて無い。
 左右を踊り、上下に潜り、四方八方に散り散りに飛び、目線を限定させない。
 その内の一枚が、飛来する。星型に瞳を入れられた符は炎上し、より火を燃え上がらせようと脂身の乗る人体へ吸い寄せられる。

 ……無手の五指が符を握り潰す。
 掌の中で酸素を求め足掻くのを握圧で鎮火させる。肌は焦げ目すらついていない。
 武器で払わなかったのは正解だ。一投目に続く以降の次弾は着弾のタイミングを微妙にズラしているので、闇雲に振り回すだけでは捌ききれなかった。

 炎上。爆発。雷霆。重撃。
 扱う呪力は同一であるのに、別種の属性に変化を加えられて放たれる万化の毒。
 貫くように。斬るように。押し潰すように。
 殺すという結果は変わらないのに、ここまで技を枝分かれさせる事に意味があるのか。
 大いにあると天は笑う。リンボも然りと肯くだろう。
 釣瓶打ちの標的に据えられし甚爾には未だ……一発も着弾してないが故に。

 五感の鋭敏性は、研ぎ石を逆に割る妖刀にも等しい。
 迫る弾丸、機関銃の連射速度を全方位から見舞われようとも。
 甚爾には見えているし、触れている。
 光の反射。風切りの音。空気の振動。血煙の臭い。呪いの味。
 特殊な器官もない普通の人間が有する当たり前の感覚の延長が、殺到する神秘を捉えて弾く。
 だがそれが人間が無限の可能性を秘めた栄光の証である筈がない。
 伏黒甚爾は呪われている。
 呪いを奪われた体になっても解けない縛りが、今でも暴君には取り憑いている。


 間断なく続けられていた呪いの飛来が、止まる。
 敵に倣って自身も棒立ちせず領域内で脚を駆動させた結果だ。
 追いきれていないのだ、甚爾の速さに。
 無論速さだけの理由ではない。
 術の飛弾に付けられてるだろう追跡(ホーミング)の効果が、落ちている。
 呪力、界聖杯式に直せば魔力の保有をゼロとする甚爾の肉体は、魔術的には認識されない幽霊(ステルス)だ。 
 狙うには目視か、ごく単純な生命反応の検知に再設定する他なく、それが間に合わないという事は────。

 「!」

 呪力に関わらず、猛然と襲い来る殺気の流れに目を見開くリンボ。
 正面で対決していながらの不意打ち。見えているのに追えない奇襲が成功する。

 白兵戦の間合いまで近づいていた甚爾の得物は、変わっていた。
 毛のある鍔の太刀から、鎖で繋がれた三本の棍棒へ。
 特級呪具・遊雲。物理的呪的破壊力のみを主眼に置かれた、甚爾が持つべき呪いの暴力。

「ギ──────!」

 反射で防御した右腕の橈骨尺骨が粉砕した。一緒に散らばる光芒の紋様を見るに障壁も出していたようだが関係ない。
 続けざまに顎へ払い、鳩尾へ突き、背後から頸椎の三連撃。
 どの方角から攻撃が来るかを読ませない、三節棍の持ち味たる変幻自在。
 新たに張られた衝撃で威力は減衰させられるも、いずれも破砕し、守りの上からでも十分な痛打を与える。

「ぐ、げ、がはっ──────」

 言葉はない。
 一流の術師は口から出る音ひとつで人心を括る。呪言でなくてもかける『すべ』は幾らでもある。喋らせてこちらに有利な事はまず皆無。
 これは本体だ。直に触れている甚爾には確信がある。今度こそ身代わりはいない。
 このまま滅多打ちにして、全身の骨を砂になるまで叩く。
 即刻、黙らせたまま、殺す。
 悲鳴、虚言に耳を貸さず殴打し続け、



「猿の正体、見たり」



 耳朶の奥の底。三半規管に入って通る、粘ついた声。


 砕かれた筈の顎で、なぜ喋れる。
 揺るがされた脳髄で、どうして笑える。
 疑問は捨てる。何よりも優先するのは身の安全。
 前衛的なオブジェになりかけていたリンボの傷口、折れた箇所から噴出した赤黒い波濤、純粋なる呪いの圧から逃れる。

「やはり、猿は猿ですなあ」

 呪いへの耐性を持つ天与の肉体には適切といえる範囲攻撃。
 血の津波から出てきたリンボの体は、全快していた。
 骨は元の位置に戻り、ズレた肉はみな復元。
 特殊概念を省いた単調な破壊力は随一の呪具である遊雲をもろに食らっているのに、再生が早すぎる。
 それほどまでにリンボの呪術への理解と技量は卓越してるのか。それとも魔力に任せた強引な埋め合わせか。

 いずれにせよ、分かる事はひとつ。
 『自分の肉体の性質に気づかれた』。
 天与呪縛、呪力と引き換えの超人性を暴かれた。

 その身で直に味わいながらも、リンボの顔は嘲弄と余裕。
 能力のタネが割れた程度で何が出来ると、自信を保つ気は甚爾にない。
 甚爾は自分を無敵の強者と思った事はない。
 むしろ臆病といわれるほど慎重に動かさなくてはならない駒だと自覚している。
 これまで上手く立ち回ってこれたのは、特性を悟られぬよう過度な接触を抑えてきたため。
 それが、仕留めるのが長引き、特性を十二分に知悉する使い手に知られてしまった時────。


 再び現れる炎、雷、風。
 手数と威力は依然脅威、つまり先程と変わりなし。
 だが今度は、高速移動する甚爾を精確に狙い撃っている。
 無論、ただ受けるだけはせず切り払って防御するが、意味するところは大きい。
 探知を切り替えた。甚爾の反応ではなく、その手に持つ呪具の反応にだ。
 霊を傷つけ得る神秘を保有する呪具はステルスの恩恵に与らない。
 魔力だけで視覚を映す場合、武器だけがひとりでに浮遊して動き回っているように見えることだろう。

 自身に取り付けられたビーコンにされた遊雲を、甚爾は未練なく放り捨てた。
 呪弾は追尾した呪具に殺到し、不可視に立ち戻った甚爾は新たな武器を取り出すべく胃に収めていたモノを吐き出す。
 芋虫に人間の顔を貼り付けた、醜悪な呪霊だ。
 戦闘力は皆無だが、腹の中に幾らでも道具を詰め込められる、武器さえ霊体化できない甚爾にはなくてはならない『生きた武器庫』だ。
 透明人間は内臓まで透けて見える。器官内にまで呪いに強い甚爾は、丸めて飲み込む事で呪霊ごと武器を保管していた。
 口から取り出したその呪霊が、意に沿わぬ挙動に身悶えした。
 震え、うねり、決して口を開こうとせず。
 全身から出血し膿を作りながら崩壊していった。

「───────────────」

 呪言など不要。
 真の呪術師は目で殺す!
 離れた位置にいる相手を殺す、リンボの呪詛!
 町ひとつ隔てようとも、祟りを飛ばすも自在なる蘆屋道満。
 契約で守られていようと、低級呪霊程度、視線だけで呪殺するのに造作もなし!


 咄嗟に呪霊を口に含み直して隠す。
 胃の中に戻して呪詛は弾いたが、これによって無手、丸腰となってしまう。
 まさしくその好機を待っていたのだと飛んでくる大型の符。
 独楽のように回転しながら詛呪を撒き散らす殺戮道具に拳で応じる。
 殴った拳は呪われない。だが呪力から変換された熱量が肌を黒く染めていき、出力を殺せず後方へ押し出されていく。

「あ───アサシンっ! 足元、埋まってる!」

 見れば分かるが逃げようがなかった。
 素手で掴んだ独楽を投げようにも、周囲を飛んでいた呪符が足を止めた甚爾に一斉に殺到して勢いを減じさせない。
 ずり下がる踵がある地点を超えた途端に罠、空魚の知識でいう『グリッチ』が作動。
 床に血の絨毯が敷かれ、瀑布となり噴き上がった。


「猿では儂は殺せぬ。誅せぬ。一芸、一能、道具を用いようと知恵を使おうと、人の真似を超えませぬ」

 大爆発を見届けながらリンボは綴る。

「黄金ほどの衝撃もない。
 雷光ほどの輝きもない。
 火焔ほどの鋭さもない。
 絡繰ほどの巧拙もない。
 鬼女ほどの暴力には、些か足りない」

 平安の都を鎮護せし源氏武者。地獄を斬り伏せた轟雷一線。
 いずれ英霊に登り詰める、絢爛の英雄たる益荒男達を脳裏に宿して、甚爾を測る。

 呪いを視覚で捉え、生身で術師を凌駕する身体能力・呪力への完全耐性とステルス。
 喪失を補って余りある効力を得られるフィジカルギフテッドだが、そしてそれは術師・呪霊に絶対の有利を約束するものではない。
 穴というものは必ずある。 
 呪的耐性を持つが、逆に呪力を練れないため呪霊を祓えない。
 生家の禪院で虐げられたのは単なる贔屓や嫉妬の連鎖ではない。歴とした、呪術師の適性の無さにある。
 当然甚爾は弱点を理解し、補える道具を多数用意してある。
 正面から勝てない相手には地道な人海戦術で精神をすり減らし、死の一撃を当てられる状況に誘導する。
 それこそが術師殺しと渾名される所以であるが……このリンボもまた、術師の枠組みに収まらぬ美しき肉食獣。
 外法に対する外法。人を陥れる術法には、一日の長がある。

「正義、信念なき猿の牙には、この首はくれてやれぬなぁ」  

 アルターエゴ・リンボは悪を標榜する。
 正義に阻まれる外道を志し、真実そう在れるよう自己を弄っている。
 その道こそが終生追い続けた怨敵を貶められる唯一の手だったからか。
 安倍晴明を───まったき善と正義の担い手と誰よりも認めているが故か。
 己を倒せる者は、晴明に連なる『正義』でなくてはならないと、戒めているかのように。

 甚爾の実力は確かなものだ。驚嘆しよう。称賛しよう。
 だがその腕は殺すだけの腕。義、情、念、人が持ち出す善の要素を捨てた者のみが体得する畜生道だ。
 同じ穴の狢だ。
 そんな刃の下に心なき輩に───どうして敗れる事ができよう?


「道義を語れる立場の坊主かよ。口が腐って知らねえぞ」

 波が収まった後でも、果たして甚爾は立っていた。
 顔や腕を汚す赤は返り血ではなく、どれも自分から出たもの。
 継戦できるだけの体力は残ってるが……無視できない域の失血(ダメージ)だ。


 初撃を逸した時点でこうなる事は分かっていた。
 事前に調べ上げた情報でリンボの名は割れている。
 蘆屋道満、なるほど大物だ。
 こちらの世界の『そのもの』である可能性は低いとはいえ、似たような世界で、似たような経歴を持っているなら、呪術界の歴史に名を連ねるビッグネームだ。
 クラスは違えど練達したキャスター並の術技を誇るのは疑いようがなく、故に対策は初手必殺を心がけていた。
 術師殺しの天与の暴君を名を売ってきていても、甚爾自身はそれを誇りに思った事がない。
 呪術師の家系に生まれながら猿呼ばわりされる境遇を当然だと思うし、人以下の畜生と自虐する余裕すらある。
 尊厳も、愛情も、捨てられるものは残らず捨てた。
 生前には物置で埃を被っていたそれらを持ち出してしまったばかりに、人らしい『勝負』をして死に負ける羽目になった。
 呪術師からすれば奇跡のような、望んでもない第二の生をもらっても、湧き上がる欲求はない。
 折角、呪いばかりか生きてるしがらみからも解放されたのだ。
 次はちゃんと猿らしく、仕事(ほんのう)だけに従事する歯車であるべきだと、身の程を弁えたのだ。

 だから、今もこうしている。
 奇襲が失敗した時点で、本当ならもうマスターを抱えて逃げていた。
 勝てない相手に正面からやり合うなんて真似は、生前の二の舞だ。
 サーヴァントとしてどれだけ特異な在り方でも、『なぞれば』またあれが繰り返される。
 それをしないのは今、ここで、リンボを殺す事こそが依頼人(マスター)のオーダーである為だ。

 理不尽を嘆く暇は捨てた。
 雇われの身なんてこんなもの。
 手は抜かないし全力で事に当たるが、そこに熱はない。
 矜持だなんだを優先するよりはマシな末路だろうと、乾いた結論を笑うのみ。


「それにな。そんな猿でもいい道具を持たせればしぶとく生き残るもんだ。
 噂の安倍某も、おたくみたいなゲテモノでなければさっきので殺れたかもだし、な」


 まあ、このまま好きに嬲られるのは癪なので。
 意趣返しに毒のひとつでも投げつけてみるが。


「───ほざいたな猿めが。貴様が如き木っ端、晴明は愚か儂の足元にも及ばぬわっ!!」
「ずいぶん過剰に吠えるじゃねえか。そういう声も出せたんだな。自分を下に置くあたり、立場の差はしっかりと教え込まれたみたいだがな」 

 よし、だいぶ溜飲が下がった。
 もう思い残すことはないな。

 下衆は下衆らしく怒れる呪いをせせら笑って。
 後は地獄に帰るまでの間にどれだけ依頼に沿わせられるか。そう死後の勘定を試算したところで。


「え……なにこれ?」

 マスターを置いてきていた光の線が、いつの間にか輝きを増していた。



 魔法陣の内円に入っているよう空魚に言いつけたのは、リンボの干渉を少しでも弾く算段だ。
 とにかく魔力さえあればいいと大雑把に考えてる手合いならともかく、このリンボについてはそんな浅い欲望は抱いていない。
 彼ほどの術師であれば、土地に根ざす魔力を根こそぎ引き上げられる。そしてそれだけの量でしでかす大仕掛けがある。
 動機は分かれつつも霊脈を入手するのが至上命題。可能な限り無傷で手に入れたい筈。
 いわば魔法陣をリンボを釣る餌と、盾に利用していたからだが、ここで蠢動を起こすのは計画には入っていない。


 上の戦いの影響か。はじめはそう当たりをつける。
 海賊同盟なり方舟なり敵連合なり、敵勢力が雪崩込んできて切羽詰まり、使われる前に使ってしまえと、大和が踏み切ったか。
 否定する。それにしては勢いが弱い。
 呪いを肉体の感覚で捉える甚爾には、魔法陣の起こす振動は土地に貯蔵されている魔力を吐き出す兆候にしては小さすぎる。
 半ば直感での予想だが、これは『底にあったものが出てくる』というよりも『遠くにあったものが呼ばれる』に近い────

「オイ、離れ───────」

 何はともあれ、これ以上中にいるのは拙い。
 リンボに狙われる危険があるが陣の外に引っ張り出そうと駆け出したと同時に、締め切った地下には風が舞い、燐光は火花を散らす稲妻になった。

 滔々と溢れる眩いばかりの光。
 旋風と閃光を纏って現れいでる誰彼。
 それはこの聖杯戦争に集められたマスターの殆どが知らない事だが────。
 あらゆるマスターが『彼ら』と対峙する際に起こる、『召喚の予兆』だった。


 かくして、召喚は成る。
 峰津院大和が設置した、繋げた地脈を通じて異なる場所へ転移する簡易ターミナル。
 その経路に崩壊した『鏡世界』の断片が『特異点』を契機に侵入し、『銀の鍵』を介して裏口が開通される。
 闇に閉ざされた空洞に、招かれざる『彼女達』は我が者顔で乗り込んだ。



「そ」



 一音。
 金砂の髪が揺れ、星の煌めきに照らされて踊り、透明な指先が翻る。



「ら」



 二音。
 虹色に透けて見える────空魚の右目では蛸足そのものの触手が少女の振る手に呼応しておぞましく広がる。



「をーーーーーーーーーーーーーーーー!」



 三音。
 空気を叩いて殺到する巨大な触手の群れは、湧いて出てきた闖入者に唖然とするリンボを囲み、隙間なく押し潰した。



 もって三音。
 全宇宙に轟けとばかりに恥ずかしげもなく名前を叫んで。


「………………お待たせ!」

「なんっってとこから出てきてんだお前ぇええ───────!?」


 着地するなりにっかりVサインを決める仁科鳥子に、空魚はつい渾身のツッコミを入れてしまった。




 ◆


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最終更新:2023年04月30日 21:06