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 聖杯戦争に召喚される七騎のサーヴァント。七騎のクラス。
 完璧な再現を果たすには膨大すぎる情報体である英霊を、特定の指向で区切り型を抜く事で使い魔の分類に落とし込む。
 勇猛の逸話。叡智の逸話。暗殺の逸話。狂瀾の逸話。
 過去の履歴を参照に各々の特性、性質に分類される器のうち、最優と称されるクラスがある。
 手に携えるは光。振り翳す逸話は豪華絢爛に彩られた英雄譚。
 汎用的な基礎能力に優れ、英霊の清廉性の側面を強調させて顕現する騎士の華。
 願い、欲望を競う舞台の殺し合いに、誇りと尊厳を有り示す輝ける星。
 名をセイバー。剣士の座を戴く英霊である。



「………………うっわ、マジ?」

 そんな、界聖杯戦争に召喚されたセイバーがサーヴァントの一騎。
 二天一流開祖、漂流の剣士宮本武蔵は、開口一番からドン引いていた。

 元はといえば、おでんに豪快に投げ飛ばされて徒歩で港区に戻る途中だったところ。
 それが帰路で見えた双星の衝突に足を止めさせられ、出歯亀の空気で乗り込んできてしまった。
 どの道梨香を人質を握られていてはカイドウとはまともに戦えない……そうした打算よりも、剣に人生を捧げ身を立てている身としての好奇心に負けたといえる。 
 刀鍛冶が草薙剣に魅入られるのと同じように。『刀で斬る』という道の窮極、その先に到達した剣を、頭蓋骨にはまった天眼で余さず観察してしまった。
 暗黒の魔力を唸らせる有翼の英霊に真っ向結ぶあの剣士こそ、本人もサーヴァントと張り合える実力の光月おでんが、自分よりも上だと太鼓判を押していたサーヴァントだと。

「剣鬼剣聖はちらほら見てきたけど……戦慄で刀を抜きたくなるなんて初めてよ。
 ただ『斬る』という方向性が人の形に宿ったみたいな完成形のくせして、本人の自覚は無しときた。ええ、ええ、そりゃあ殺気やら気勢なんかいらないでしょうよ」

 血生臭さの消えることのない剣の道に咲く花と称えられる美貌は損なわれている。
 強い強いと噂ばかりは聞いていたが、『こういう』類だとは全くの想定外だった。
 剣術など所詮は殺人術。凶器を振り回す外道。その気もないのなら学ばないのに越したことはない。
 ただたまに、有無を言わぬ天禀が本人の人格を塗り潰してしまう手合いがいる。縁壱はその中でも一歩二歩先を行く規格外だ。
 一献場を設けてくれれば是非とも立ち会いたい所存だ。殺気が出すぎて惚れ惚れしてしまう。

「………………何を、している」

 そして反対には、武蔵とはまた違った意味の殺気で縁壱を睨みつける六眼。
 黒死牟がこの場に引き寄せられたのは本人の意図しないところだが、しかしある種の必然でもある。
 鏡世界より空いた孔に目がけて飛び込んだ瞬間。現実に浮かび上がるための指定先の座標は霧子達と重ならなかった。
 無意識にでも想起する脳裏に焦げ付いた跡とは縁壱に他ならず、結果ひとりマスターと離れた戦場に飛ばされる羽目となっていた。

「何だ……その腕は……その様は……」

 衣服を裂かれ、全身を血で濡らし、隻腕の不具となり。
 戦場で傷ひとつ付かず、息ひとつ切らせない縁壱の負傷を、黒死牟は初めて目の辺りにした。
 天地が逆しまになるより絶句を隠せない光景に、それを超える激情が熱となって口を割らせる。
 血臭漂わし徘徊する鬼には、垣間見る事も叶わぬ天外魔境であった男のまるで人間のように戦う姿が、どうしようもなく癪に障った。
 絶対の太陽と見ていた弟の凋落、あるいは損ねさせたものに対して。


「それでも私が……」

 目指した男か、と言いかけて、言葉を止める。
 それ以上を口にするのは憚られると、無意識に喉の震えで遮断された。
 この期に及んでそれを恥じる感情に、何故だと戸惑いを覚えながら。

「…………」

 そんな二方向からの殺気を総身に浴びる当の縁壱は、なんとも呆けた顔で立ち尽くしていた。
 何を考えてるのかまるで分からない、昔から気味が悪かった仏頂顔ではなく、僅かに何かに驚いたような。
 これもまた黒死牟には見慣れない光景だ。

「……おでんが遣わしたセイバーで、相違ないだろうか」

 すると意を決したように交互に見て、姿勢を正してから。

「ええ、まあはい、遣わされたっていうか投げ飛ばされて勝手に割り込んでしまいましたが。それが何か?」
「助勢を求める」

 頭を軽く下げ、助力を請う言葉を紡いだ。

「兄上にも、力を貸して頂きたい」
「──────────────────」 
「私一人では、あれを相手にして先が続かない。後に残る者がいなくては、この戦いに意味はない」

 武を志した者が始めに見上げ、当然のように諦め首を衆生に下ろす他ない高台に立つ。
 太陽を象徴する男に、自分が求められている。
 そこに喜びはなく、しかし怒りもない。ただただ沈黙しかできない。

「共に……戦えというのか……お前と……私が……」
「はい」
「お前が勝てぬ存在に……お前を厭う私が……手を貸すとでも……思うのか……」

 神の寵愛を受けた炎舞にも、一歩も退かす肉薄する魔獣。
 夜の闇が一点に凝縮し人の形を取った、断じて人ではない神の片鱗。

 ───お前が勝てない相手に、私が加わって何になる。

「わかりません。かつては兄上も、私と思いを同じくするのだと何の疑いも持たずにいましたが……今となっては、確信がありません」

 超然として無謬であった男の顔は、自信なく翳っていた。
 双子の兄の心ひとつ、解する器用さがないと恥じ入る、ただの人間のように。

「ですが……だからこそ……」

 迷いながら、惑いながら、明かりのない部屋の中、手探りで拾った言葉には。
 正解のない、心が宿る。

「どうか今こそ……あなたの隣で戦う機会を、私に授けてほしい」

 ───視線が重なる。
 血と灰と埃で汚れた縁壱の眼を、黒死牟は受け止める。  
 鬱陶しく、憎らしく、記憶からも現実からも消えてほしくて仕方のなかった、けれど片時も消えることのなかった顔が。
 心象に焼き付いた顔よりも、克明に映っていた。


「茶番は終わりか?」


 嵐と稲光。陽を落とす闇。
 戦場に轟く、暴なる声。

「疾く失せろ。余が今殺したいのはそこの侍のみ。貴様らは邪魔でしかない」

 招かれざる客が闖入しても、混沌王の裁決は変わらない。
 混沌進化を果たしたベルゼバブが真っ先にすべきは、己を凡愚と同じ地平に卑しめた狼藉者の断罪。
 これを済まさないことには、聖杯に最強を示す栄冠の時は訪れないと、そう頑なに信じているのだ。

「小虫を潰すだけのつまらぬ作業に、今の余の時間を割かせるな」

 ───ベルゼバブにしてみれば。
 目の前の敵を見逃すという判断は、例外的に寛大な措置を下したつもりだった。
 縁壱を始末した数秒後にはすぐ殺す標的に戻るとしても、その数秒には値千金の価値がある。
 澎湃と涙を流し、己の名を讃える言葉と共に感謝を述べるのが自然で、喜びのあまりその場で自害しても已む無しだろうと疑わない、身に余る栄誉である筈なのだ。


 だが───それはベルゼバブの意に、真っ向から反抗する結果を齎した。


「あはははははは。鯉口切った相手を見逃すとか、噂に聞くよりもずっとお優しいじゃない。
 何をおいても先に倒しておきたい敵がいるって気持ちは分かるけどさぁ、それ、完っ全に逆効果って分かってるのかしらね?」

 かんらからからと笑う声。
 笑みこそ麗しくあるが、纏う雰囲気だけは『喜』とは相容れない。

「峰津院のサーヴァントなら向こうと無関係ってわけでもなし。無理やり交代させられたんだし、あっちはあっちで頑張ってもらいましょうか。
 我が運命ではなくとも……斬りたいものでは、あるようだから」

 天眼が殺気に据える。
 鞘から刀はとっくに抜かれている。機を見れば今すぐにでもあの不格好な羽を斬り落としたい。
 言うに事欠いて、見逃してやるから尻尾を巻いて逃げろと宣られるとは。
 原初の神を断った眼が、再び混沌を睨めつける奇縁に細められ。


「邪魔…………か。ああ、そうだ……その通りだ……」

 萎えかけていた指は、握り拳になって刀の柄をきつく締める。

「くだらぬ観念に自惚れ……太陽を落とすと妄言に耽り……私の道を阻む……」

 何故、こんなにも苛立つのか。
 敵わぬと認めたのに戦意は消えず、どころか盛るのか。
 理由など最初から、既に言い放っていたではないか。
 決めたことは、何よりも優先すべき衝動は、ただの一言。


「何よりもまず………………お前が……邪魔だ」

 この無闇に巨大な障害物を、一刻も早く退かすだけだ。


「───そうか」

 瞬時、世界は塗り替えられた。


「よくぞ言った。では、ここで死ね」

 三人の侍が宣誓した決意を、残らず果てのない底に沈める闇。 

 秩序を歪ませる特異点と、腐らせる星辰光。
 必滅。死滅。絶滅。
 殺し倒し潰し消し去る、ただただ力の激流。
 混沌の具現体となったベルゼバブは、一騎の英霊、サーヴァントの枠を逸脱しかけている。
 ひとつの完成した世界を蝕む、特大の癌細胞(キャンサー)。
 個が起こせる被害の波及を超えたベルゼバブはもはや英霊と呼ぶに能わず。
 世に降りかかり、禍害を撒き散らすひとつの現象。厄災と呼ぶべき人類の敵だ。

「余の慈悲を受け取らず塵屑の如く扱われる末路を賜りたいというのなら是非もない。望み通り塵にしてやろう。
 考えようによっては、セイバークラスが三騎……最優などと持て囃される英霊を同時に屠れば、余こそ最強のクラスだと英霊の座に知らしめるまたとない機会となろう!」

 滅びの厄災の翼が広がる。
 たった二文字の称号を獲得するために、界聖杯を我一色に染め上げんと飛翔する。
 立ち向かうは三本の刃。零の無空に舞う陽月。

「……ちょっと錆が落ちた? 納める鞘だけなら貴方のマスターかと思ったけど……ふむふむ、どうやらいい研ぎ師にも会えたみたいね」
「相も変わらず……下らぬ戯言を抜かす……この鉄火場でも……減らず口を叩くとは……」
「ええ、そりゃね。あんな弟を持ってしまった身を思えばこそよ。
 うん、あれはやばいわ。私でも引く。流石にちょっとは同情しちゃうかなあ」
「…………………………放言の代償は、後で支払わせよう……。今はただ……」
「ええ。このデカブツを片付けてからね!」

 光を還さぬ漆黒に、自らの誇る白銀の瞬光を叩きつける。
 鬼を滅ぼす物語。四文字を礎に集い、最新最凶の鬼退治が幕を開く。

「余が殺す。余が滅ぼす。
 余は王であり、余は無毀無窮の理である。
 遍く命は余の糧になるため生まれ、余に捧げられる為に存在する!」
「いいや、そんなものはない。お前の理想はお前しか救わない。
 誰もお前の所業を認めはしないし、許されることもない。お前のユメは、我らがここで終わらせる」

 そして、最後の刃が抜刀される。
 継国縁壱。人の身で人智を超える神災に、人技の極地が白峰を映す。
 日輪と暗黒。昨夜の邂逅に端を発した頂点同士の戦いも、決着が近づいている。
 自分と仲間とが手に持つ光を縁にして、混沌の渦の中を突入していった。




 ……走り出す二人より、一歩下がって背を見た縁壱は、眩いものを見たように微かに目を細め。

「……最後に、共に戦う夢が叶うとは、思ってもみませんでした」

 戦いの最中では致命の弛緩、許されぬ油断だと気を引き締めても、内に宿る躍動は隠せずに。
 零れた希望(のぞみ)は誰かの耳に届く前に、風に裂かれて無くなった。




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆









                  滅びの厄災


              B E E L Z E B U B





                   総者


                 昏き陽の下にて



                  命捧げよ



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 漆黒の鋼翼が羽撃き、同色の羽が舞い散った。
 翼と呼べないほど肥大化した翼は、始めからそうであるかのように過不足なくベルゼバブを宙に留まらせる。
 落ちた一枚は剣となり、またある一枚は槍となり……全ての羽が多種多様の装具と変わりながら空を裂いた。
 舞踏の絢爛さはなく、ただ生命を撃滅するだけを役割とした破壊の旋律は、それ故に極まった美を演出する。
 死とは、人が恐れながらも焦がれる事象のひとつであるのだから。

「ケイオスウェポン──────征け!」

 ケイオスマターの概念を染み付かせたアストラルウェポン───ケイオスウェポンと別称を新たにした武装群が発射される。
 どす黒い流星は闇夜のキャンバスを落書きで埋め尽くし、荒廃した地上を復興不可能な域に蹂躙し尽くす。
 ただでさえ最上級の宝具と同等の威力を、蓄積魔力を炸裂させる『壊れた幻想』で着弾時に爆散。
 破壊の範囲を比喩する対象は機関銃では不足も甚だしい。対地用ミサイル、それも禁止条約に指定された、弾頭に数百の子弾をばらまき地上を制圧するクラスター爆弾でようやく釣り合うか。
 人も、街も、文明の痕跡の一切を無に帰す爆風は、さながら西洋世界を荒らし回った騎馬民族の歴史再現。

 たった三騎の人型を対象としたものではない、完全なるオーバーキルの爆撃。
 真に恐るべきはこれだけの暴威も、ベルゼバブにしてみれば新たな力の試運転でしかないことだ。
 肩慣らしの発憤が、街の区画を灰にしていく。
 もしベルゼバブがその気になって、高高度の上空から渾身の力を地上に向けて撃てば、街一つを粉々に……界聖杯内界そのものを消滅させる行為も可能だろう。

 そうしないのは単に、それが敵を屠るのに効率的ではないから。
 少なくとも今すぐ実行するには、マスターの安否や界聖杯の仕様上ルール違反にならないかの懸念に対処するのが面倒でしかないから。
 気まぐれ一つで世界の存続が決まる。ベルゼバブはもう、そういうカタチに定義されつつあった。
 ヒトが畏れ、敬い、崇めることで加護を得て、自らに災いが降りかからないよう祈るしかない、神(そんざい)に。

「そうら、燻らされて羽虫が出てきたぞ」

 爆裂の煙幕から抜ける影は……三。
 四散する死の散弾と爆風を、ある者は月輪で防ぎ、ある者は剣風で押し返し、ある者はその全てをすり抜けてベルゼバブに殺到する。
 それを黙って待ち受ける、況してや刀の届かぬ空に逃げの一手を打つベルゼバブではない。
 練習台が慣らしを終えるまでに壊れるようではどうする。試し撃ちの次は試し切りだと、身を捩らせて急降下する。
 この移動した衝撃波だけでも、当たれば英霊を轢き殺す。一挙手一投足にすら混沌の波動は宿るのだ。
 大地を亀裂が生まんばかりに両足で踏みしめ、鋼翼の一部、剣状のケイオスウェポンをもぎ取る。

「前菜は貴様としようか───女ァ!」

 双眸が選んだのは───二天一流、武蔵。
 居並ぶ獲物の中でも華奢で、柔い肉を残した肢体に狙いを定める。
 肉欲目的では断じてない。あるのはどうやればその燦たる顔を恐怖で歪ませて殺せるかという純然たる戦闘欲のみだ。

「応ともよ!」

 臆せず正面に立つ武蔵。
 頭上に墜落する凶星を、受け止めるにはあまりに頼りない左右の二刀が打って出る。

 一刀目は剣で競らず半身でかわす。溝落からつむじまで駆け上る悪寒にこの判断は正しいと知る。
 当たっていないのに頬が痺れ火傷を負った。存在の根本から腐らせていくような、吐き気を催す悪寒。
 これは滅びを招くモノだ。
 当たれば死ぬ。近寄れば死ぬ。
 この男に対抗する行為自体が、生理的嫌悪を齎すほど、生命の本能が警鐘を鳴らしているのだ。


「ふ──────っっっ…………!」

 されど二天一流、未だ屈せず。
 混沌色の長剣から振り下ろされるは破城槌の勢い。重さもまた比肩している超加重。滅殺の豪刃。
 薄い鉄を張り合わせた造りでしかない打刀が、一合でからへし折れないの不思議なほど、剣戟は長く続いた。

 編纂事象に生きた男の武蔵同様、女の武蔵もまた兵法を知る。 
 悪鬼羅刹、剣豪無双、多くの術理と体技を見てきた彼女には分かる。
 ベルゼバブの剣技は、洗練されていた。自前の肉体と出力に物を言わせた怪物などでは断じてない。
 振りの動作、体幹の流動、所作の全てに身を削る鍛錬と合理的な研鑽の跡が見て取れる。
 種族からして人間とは造りが違う、上位種と呼べる個体だろうに、今いる座で満足せず貪欲に資料を漁り、自らを高めてきたのだ。
 我欲、我執に塗れていながら、明鏡止水の境地に足を踏み入れている練達ぶり。剣聖の段位に登るのを阻害しているのは、目を瞑っても察せる、腹にたっぷりと詰め込んだ業だけだ。 

 "ああ───ならばやはり、私の■■は"

 天眼は鈍らずとも、そこに映り込む景色には激しくノイズが食い込む。
 影響の元は、度重なる負荷に軋み上げた武蔵自身。
 シュヴィ・ドーラの汚染魔力を食らった肉体は、見た目以上に進行している。
 おくびにも出さずにいるため誰も気づかないが、現状でさえ重症といえる有り様なのだ。
 肉は痛み、骨は疼き、口内は常に血の味で埋まっている。
 このまま放置すれば、汚染は除去が不可能な部位にまで食い込み、間違いなく取り返しのつかない事態になる。
 そんな半死人の状態でベルゼバブの猛撃に抵抗できている事自体が驚嘆であり、また同時に、これ以上の奮戦は不可能であるのを示す。
 梨花の安否。方舟の守護。戦線の維持。抱える負債がこうも多くて、この魔王に太刀を向けられるはずもない。

 なので武蔵は、一旦それらをぜんぶ忘れることにした。

 傷の痛み、体の負傷、己の生死。
 そこに付随する、マスターと方舟の今後すら棚上げにして、ただ目前の敵に専念する。
 それだけで霞んでいた視界は明瞭さを取り戻す。気分の問題ではなく、本当に『そうなった』。
 いわゆる意識の切り替えだが、新免武蔵が行うそれとは肉体の自己改造にも等しい変革を引き起こす。


 混沌を────────。

 見る─────────。


「小癪な眼だ。それは要らぬな」

 ───眼玉といわず顔全面を削ぐ圧撃。
 新たに爪の武装を装着した手が稲妻を連れて迸る。
 虱潰しに斬る道順を模索していた武蔵を笑う、直線の凶器。1人では間に合わない到来は、風の如き速さと自在さで滑り込んだ刃によって妨げられる。
 日輪が、漆黒を阻む。

「ハッ──────やはりそうくるだろうよ、貴様は!」

 僅かに、1ミリ上にズラされた軌道。それだけで武蔵が逃れるには十分だった。
 回避が叶うのと同時に、闇夜を照らす縁壱の赫刀は間髪入れずベルゼバブの首筋へ伸びるも、長剣にて斬撃を弾く。
 始めから来るのを知っていたような、予定調和の事前察知。そこからの乱舞も一手たりとも漏らさず潰し、いなし封殺してのけた。

 動きを、読んでいる。神速の足運び、刹那の太刀、縁壱の動きが読まれている。
 こと経験値の蓄積とそれの運用に関してベルゼバブに及ぶサーヴァントはこの地にはいない。
 幾千幾万重ねた交差、直に受けた傷、かけた時間だけベルゼバブは鍛え上げられる。今なお研鑽を止めぬとはなんという暴食ぶりか。
 時間をかけすぎた。縁壱の剣技が神業にあっても、この短期に存分に披露すれば徒に敵に見切る機会を与えるだけ。
 この悪食相手に孤軍で戦い続けられる事が異常に近い奮闘であるのだが、そんな評価はなんの慰めになりはしない。


(威力が、大幅に増している。正面からまともに打ち合えばこちらの刀が一方的に折られてしまう) 

 骨肉が軋む音、体内で火花が弾ける音を確かに知覚しながら、縁壱は長閑な家屋の縁側かに腰を下ろしたままの平静さで分析する。
 透き通る眼で通したベルゼハブの世界は、数刻前と一変していた。
 筋肉と骨の密度はより凝縮し、絶えず流動する血液はまるで溶岩のように煮え滾っている。そこから生まれる爆発的な熱量の余剰が、不浄のガスとなって噴き上がる様は、正しく混沌の具象だった。
 始まりが始まるより前の、生命の存在しない惑星の土台。
 湧き上がる異星の法則、アステリズムの発動値(DRIVE)を、ベルゼバブは攻撃に全て振り分けていた。
 集束性の一点特化。防御不可にして相殺不可。攻めも護りも遍く貫く事を信条とした柱。

 (かわすかいなすしかないが、それですら徐々に侵されていく。 毒の沼、硫黄立ち込める火山口と大差ない)

 ケイオスマターも、アストラルウェポンも。
 神秘の格も武器としての強度においても、縁壱の赫刀はこのふたつとは及ぶべくもない低級の宝具でしかない。
 鬼を尽く散滅する凄絶さは、縁壱当人の技巧あってこそ。正面から衝突すれば、一合目の時点で一方的に腐らせて折られる。
 そうならないでいるのは、手首の返しと絶妙な力の流動で衝撃を逃していたからだ。
 これまでの斬り合いの全て、一級の手練であっても力ずくで押し切られるのが必至の攻撃を、一手足りとも抜かりなく。極限の集中力を要する工程を切らせずに。
 柳を引き裂き、暖簾を押し潰すベルゼバブが直撃をかわされ続け、気を揉むのも当然の話だ。

 その構図は、今この時をもって崩された。
 ケイオスマターと一体化した武装は、縁壱の防護圏を確実に侵略している。
 向かう力が、強すぎる。天地を返す大嵐が人の形に無理やり纏められたに等しい。
 刀は押し戻されて、いなすどころか逆に弾かれる。縁壱が許容できる総量をとうとう超えた証だ。

 (そして、呼吸を使うか)

 鼓膜が破ける大音を鳴り響かせている中でも届く独特な息吹。
 全集中の呼吸。縁壱が産道から取り上げられる前からごく当たり前にしていた動作をも模倣された。
 宝具の再開発で発生した出力を持て余したりせず、全身の毛細血管と筋繊維に適切な配分で流して強化を成している。
 星辰光の性質を偏重させ過ぎて、本来なら精彩を欠いてしまうところを、自前の別口の技術で繊細なコントロールを行う。
 大崩壊(カタストロフ)で既存技術が損なわれた新西暦では叶わない、ベルゼバブのみが使える用法だ。

 再三に渡る新要素を取り入れたて膨れ上がった力を、ベルゼバブは全て『自己の強化』に充て続けていた。
 己の肉体を強くするという、いわば基礎部分を鍛えることを忘れていない。
 星を壊す武器を握ろうが、振るう者の地盤を固めてなければ無用の長物になるどころか、我が身を焼く。
 装備を揃えるもよい。能力を増やすもよい。だが最後にものを言うのは我の身ひとつのみ──────。
 断崖に落とされ己以外全てが敵の環境を生き抜いたベルゼバブの、それが戦いへの持論だった。

 突きの通過上にある地表が、遥か後方に続く先まで無くなった。
 物質の無い空間が弾き出され一瞬の真空状態を生み出し、周囲を巻き込む旋風が吹き荒れる。それが縁壱の行動を更に制限する。
 世界から色を剥ぎ取る暴挙こそケイオスマターの恩恵だが、引き起こす事象はベルゼバブの武練あってこそのもの。
 次第に、接触地点での剣閃の火花が減ってきている。縁壱の反撃の回数が目に見えて落ち、反比例するように回避の比率が増していた。
 活路を見いだせぬまま武器を消耗するのを避ける為の、致し方ない選択ではあったが、逆にベルゼバブを勢いづかせてしまった。

「随分としおらしくなったものだな。挑んだ山嶺の高さにようやく身の程を弁えたか!?」

 加減なく叩き込まれる死の舞闘。
 縁壱から刃が返ってこないのをいいことに、空いた領域を自らのスペースで敷き詰める。
 埋める。埋没する。埋葬される。
 黒より濃く闇より深い混沌色の海嘯が矮小な人間という木片を藻屑に変える。
 前面にはくまなく死。地面は今にも融けて海に変わってしまうのではないかという重圧。
 つまり、死ぬしかない。そうなるしかない只中であっても───縁壱の歩みは乱れはしない。


「………………」

 見ている。
 緋の視線は曇りなく、津波の先に待つ男から離さない。
 足は強く地を踏みしめ、俊足を維持して回避を保ち、時を稼ぐ。
 光も届かない暗雲から、一筋が差し込むのを待つように。
 あるはずのない希望を見る愚昧なる軽挙。そう見るのは傍観の視点に過ぎない。
 現にベルゼバブは最も自身に迫る侍の滅殺に集中するあまりそれ以外の剣から目を離しており──────。

「何」

 海が、斬り拓かれた。
 絶え間ない連斬を繰り返していたベルゼバブの腕が、意図していない上方にかち上げられる。
 晴れた視界で刀を振っていたのは縁壱ではない。
 その背後から身を乗り出して来た、艶美色の女。

「───見えたぞ、混沌。そうか、『こう』斬るのね」

 一刀を当ててみせた新免武蔵の冴えは往時の太刀。
 一つの事柄に全存在を懸けてそれをなす、真の武蔵の剣。
 転じたのは心気のみならず、出で立ちもまた。
 典雅を極めし綾羅錦繍。血臭は隠せずとも血華に非ず、凛として咲く綺羅の花。
 腰には四つの鞘。両手の二刀に加えて二刀。二天一流、ひいては武蔵の真髄を発揮する最大限の支度。

「衣替え完了! さっきはごめんなさいね。腑抜けたものをお見せしてしまって。
 ここからは本気の本気、我が剣の極意、その身で受けて味わうがいい!」

 四刀一心、五輪に書す。
 霊基再臨、第三段階。
 オリュンポス、神を落とした戦いで封切りされた決戦仕様。
 後先を考えて温存しても死ねば元の木阿弥。ならば景気よく、その絢爛を披露してしまえばいいと開陳した。

「余の猿真似をしおって。羽虫が着飾ろうとただの欺瞞よ!」

 痺れも残らない腕を再動。
 フェイトレス……水の属性を象徴する清廉が見る影もなく暴虐に染まった刀身を見舞う。
 武蔵の太刀筋は、鋭さも圧も、確かに先よりも一回り強くなっている。
 数値上での比較では全てをベルゼバブが上であるにも関わらず、武蔵は混沌を捌いていく。
 ならば原因は数字上ではなく、概念上の話へと伸びる以外にない。

「やはり、目障りな眼よ……余の命脈を断つというのか」

 武蔵の眼が、魔眼邪眼なりの効果を及ぼすのは、とうに見抜いている。
 ベルゼバブが積んだ鍛錬とは、目に見える数値や能力だけではない。より根源的な部分、想念、次元を理解する智慧も求める力の範疇だ。
 この眼に見られている間、剣を振る毎に、自己の内の「何か」が測られている感覚が常にあった。
 自分がどこを斬られ、どう斬られるのか。武蔵の脳が描くイメージが現実に投射されているかのような。
 未来、寿命、運命論……肉体を破壊する過程を挟まない、存在そのものに向けられた切っ先を。

「笑止!」

 見るだけの異能。夢想は所詮夢想の域を超えない。
 命を測られても、そこに届く前に刃を追ってしまえば無傷のまま。
 そも、ベルゼバブは運命を恐れない。むしろ踏破する事こそが本命だ。
 目的の一致のため手を組んだルシフェルがそうであるように。神に定められた道筋を歩かされる屈辱、甘んじて享受する気などない。

 軒昂に攻める武蔵だが、状況はおもわしくない。
 塗り替えられた海図は書き換えられない。依然、優位はベルゼバブの手中。
 虚を突いた天眼の太刀筋はすぐに対策された。
 天眼で見せられた『斬られる』構図と同じ図を自己の脳内で築き、それを残らず破壊する結末に改変した上で逆に叩き返す。
 イメージトレーニングによる未来視の阻害。
 武蔵の天眼が完成に極まっていたのと、非戦時でも絶えず仮想敵との戦闘に明け暮れたベルゼバブの思考力が噛み合ってしまったが故の悲劇だった。

「運命などという枷があるのなら、それごと破壊すればいいだけであろう!」
「うわ、むちゃくちゃだコイツ……っ!」

 ベルゼバブ以外が言えば子供の我儘としか聞こえない放言。
 しかし他ならぬベルゼバブが言うからこそ、一笑に付せない説得力が乗る。
 己がそう信じているから、出来ると。
 疑いを一切持たない意志は、いっそ純心ですらあるといえた。純粋無雑な、邪心であった。

 決定打を呼び込む眼(て)も塞がれ、じりじりと後退。
 直に喰らうのは防ぎ切っているのは流石の二天一流だが、いつまでも防げるものではない。武蔵という刀が折られるより先に、握る得物の悲鳴が上がる。
 持ち堪えられない斬り結びが途切れた。
 武器の限界ではなく、空から落ちてきた無数の月牙が盤面に突き刺さったからだ。
 衝突点の間合いより離れた中距離からの【玖ノ型 降り月・連面】。とうに長大刀に構えた黒死牟の振るう月の呼吸が、均衡を乱すべく放たれた。

 ベルゼバブは振り返らない。
 網目状に交差して降りかかる斬撃の時雨は確かに頭上に当たる位置にあるというのに微動だにしない。
 代わりに動いたのは双肩より生える鋼翼だ。
 左右非対称の翼はそれ単体がひとつの生き物の如く鎌首をもたげる動作をする。
 いや、そう見えただけだ。左の羽が円形に膨らみながら数本の弦を結ぶ様が、生物的な動きと錯覚しただけ。
 イノセント・ラブという琴型のケイオス・ウェポンがひとりでに弦をかき鳴らすと、怪物の断末魔さながらの絶叫が鳴り響いた。
 美神が爪弾く旋律とはかけ離れた、殺戮の波を伝播させる音響兵器・ゴールデンソーンは、音の届く範囲一帯を震撼させた。
 我が目を疑う光景と衝撃が、黒死牟を襲う。ベルゼバブの頸椎に到達しようとした降り月のひとつが、柔らかいゼリーのように折れ曲がったのだ。
 残りの斬撃と月輪も同じく芯を失ってぐにゃりと崩れていき、月の形状すら保てず空中で霧散していった。
 音波の振動で破砕されたのではない。波に触れた物質が構成の結合を解かれ、内部から腐り落ちた。

「…………!」

 そして音であるが故に、崩壊の波は月輪だけでは終わらず仕手の黒死牟にまで及んだ。
 全身を打ちのめす苦痛。かつての死闘で柱達に負わされた赫刀と同じく、細胞の一個一個が泣き喚く。
 過去と異なるのは、その痛みと傷が数瞬で復元せず、いつまでも体に残留し続けている点。
 不滅を滅するケイオスマターは始祖に連なる半不死の鬼の体を覿面に灼いた。
 痛みで体が苛まれるなど、数百年忘れていた。爆心地からは距離があったから重い傷ではないが、上弦の最大の優位性が無意味と化した意味は、より重い。

「──────! 南無、天満大自在天神……!」

 対して、至近距離で浴びる羽目になった武蔵は、全力でこれに抗じた。
 武神への祈願を発破に、刀が轟く。宝具の一端、先触れの剣圧を速射する。
 波を剣衝にて干渉し相殺する思いつきは功を奏し、これ以上の汚染を防ぐことには成功するも、代償に使った剣は中程から折れてしまう。
 用をなさない武器に見切りをつけた武蔵は、一も二もなく投げた。ヤケクソ込みの全力で投擲した。
 突撃して回転する飛刀の行き先はベルゼバブの眉間。ゴールデンソーンから逃れた武蔵を追撃しに前に出たのを挫く、転んでもただでは起きない武蔵根性の賜。
 避けるか防ぐかに手を消費するか、目眩ましにでもなれば上等という目論見は呆気なく崩れる。
 旋回する柄が褐色の肌に触れた途端、刀は木端微塵に砕け散り、視界の覆いにもならなかった。

「───────」

 目を見張る武蔵を後目にして、頭蓋を狙う打槌。
 寸前に縁壱が担いで間合いから消え、ユグドラシル・ブランチは地面を地層深くに至るまでを原初に還すのみに終わる。


「……当然のように無傷かあ。分かってたけど。驚くのにも回数制ってのがあるのですね」
「……」

 半ば呆れて愚痴をこぼしてみるも返事はない。冗談も返さない朴訥さである。
 懸絶の才とはあまりに不釣り合いな性根の善さは素面なら好感も持てたのだが、ここにきては申し訳なく思いつつも空恐ろしくもなってしまう。
 いっそ最初から外れていれば、才のままに振るえる人間であった方がまだ見合っていたろうに。何も捨てず損なわなず、生まれたままにこうであったのだろう。
 内も外も人であるのに、人の生き方から程遠い道を進まされる。
 どんな外道も笑って斬れる武蔵でも見たことがない、哀しい男(ひと)であった。


 そんな寂静もすぐさま立ち消える。
 身を起こした縁壱は前置きもなく武蔵に向かって、

「あと、何度で辿り着く?」

 と、問うてきた。


「─────────────────────」


 筋が、通った。
 組み立てた論理が、積み重ねた連理が、研ぎ澄まされた本能が。
 茫洋と浮かぶばかりの点線が、この瞬間、一本の道となって結ばれた。

 何が、何を、と聞き返さない。
 それは武蔵がこの戦地に身を投じると決めた時点で組み上げられていた図式。
 何もないところに向けて剣を振っていればいつか空間が斬れるのかとう、猫でも行わない絵空事。
 女の新免武蔵でなければ思いつきすらしない図式を、この侍は全て把握していた。

 その慧眼を、どう評したものか。
 意を汲み取ってくれるのは有り難い限り。とはいうものの、これは裏を返せばこっちの理屈を初見のあちらが看破してのけてる驚天動地の事実も発覚するわけで。
 手前味噌でも答えを得た身としては、素直に賛同しては剣士が廃るかと思いも、まあする。

「私に関してはあと一度。そこでようやく準備完了ってとこ。
 後は……そっから先でまた手探りね。『どこまでも届く』って触れ込みだけど、現実でやるには間合いとか隙とか、生臭な話がつき纏うのでして」

 とはいえ、それはそれだ。
 意地や矜持など勝負事では些末と切り捨てられるのは常日頃。
 武蔵の剣に泥を塗る行為でなければ取捨するに迷いはない。そしてこれは、そういう類の話ではない。
 ただ少し、私もけっきょくまだまだ未熟者なのだなあと、伸びていた鼻を折られるだけだ。

「わかった。それはこちらが請け負おう」

 縁壱も、なんでもない頼み事を受けたようにさらりと答える。
 鬼を滅する難行も、妊婦に産婆を送る道中も、彼にとっては等しく功ある価値だ。理由の如何で刀を握る力が変わることはない。
 そこで────ふと、本当にこれこそなんでもない所用を思い出した風に、首を明後日の方角に向けた。

「…………………………」

 視線の先には、音撃に胸を押さえる黒死牟。
 縁壱が自分を見ていることに気づき、黒死牟は見返す。
 それだけだ。
 ただそれだけだった。



「会議は終わったか。では殺すぞ」

 宣告と共に、鋼鉄の焔が虚空を滑る。

「とくと見せてみろ。貴様らの策も、力も、信仰も、丹念に執拗に微塵に、余の手で砕いてくれる」

 星辰光(かがやき)が、大地を奪う。空を刈る。
 世田谷の街───もう街といえる部分は完全に失いつつある土地が嘆きの驟雨で濡れそぼつ。
 中距離以上の迎撃手段を持たない侍の選択肢は、前進、前進、前進あるのみ。それ以外に活路はない。
 死に活を見ない限りは、死しか手元には残らない。ベルゼバブも理解してるからこそ、宝具を乱射して追い立てた。

 侍達の経路は三方向から。
 全員で一斉に向かい取り囲む挟撃の形。一騎を倒しても残る二騎で隙を突く、数利を活かした基本戦術。

「何かと思えば数頼み───どこまでいっても虫は虫か!」

 そんな見え透いた術理に惑わされるベルゼバブではない。
 稚拙極まる突貫を待って入られぬとイノセント・ラブに換装、蔑みを楽譜に乗せた魔曲を聞かせようとする。
 遮蔽物は軒並み分解され、逃げる暇はない。飛んで火に入る夏の虫の実演とばかりに破壊の旋律をかき鳴らそうとして───。
 耳元の付近で、音が断たれる音を聴いた。

「ぬ……!?」

 事態を知るよりも、現在に迫る頸を狙う白刃に思考を優先させる。
 甲高い金属の衝突が音の絶えた空間に新たに時を刻む。ベルゼバブと縁壱の得物が渾身の力で、数分ぶりにぶつかり合った。

 速さは瞠目に値しない。事前に察知していれば、この通りすんでのところで防御できる。
 摩訶不思議なるのは縁壱の移動だ。戦闘記録を再生してみれば、踏み込みから斬撃が間合いに入るまでの時間が、半歩分早まってる。
 わけても今しがたのは走破ではなく跳躍。しかも一度地を蹴ってからもう一度空で足を蹴り上げた二段跳躍。
 魔術を収めていない縁壱では実現できない魔技の絡繰りは……辺りを漂う、朧なる月影だった。

 突き立つ幾筋の柱に縁壱が向かう。
 周辺の小月輪を前に身を躍らせ……身を裂くことなく力場に足を乗せ、力強く蹴り出す。
 自身を着弾地点にして射出されたベルゼバブは態勢を取るが、周辺を舞う月輪を再び蹴った縁壱は急速に方向転換。
 空中で加速したまま『鋭角に跳ね回る』意味不明な挙動が、ベルゼバブをして目を泳がせる不明を生む。
 背後へと回った縁壱に意識を取られ、前方二方向からの剣筋が身体に届く範囲に入るのを許してしまう。

「───────────!!」

 挟撃は、成った。
 進行途中で足を止まらせず無傷で斬れる距離まで来れた。
 速度も、威力も、全てがまるで違う刃が、とうとう混沌王に一斉に押し寄せる。

 三種三様の剣刃の到来に、瞬時に選択した。
 危険度、脅威度、優先度の順位から、縁壱に5、武蔵に3,黒死牟に2の配分で判断を対応。
 両の手に武装。両翼に砲丸榴弾焼夷弾炸裂弾放擲あらゆる装備を装弾し装填し逐次発射───。




『ォォォォオオオオオオオオオオオオオオ!』



 誰の声か、誰の叫びか。
 判ずる術もなく響く音は、まさしく混沌の鍋の中身がぶちまけられたかのようだ。


 陽が落ちれば月が踊る。
 月が砕かれれば花が舞う。
 花が散らされ、陽が廻る。
 その中心部で、常に黒一点が胎動している。

 ───朝は失せ、夜も来ない無明の世に踊る星。
 斬撃の可視化と長大化に、付随する月輪の刃を発生させる。呼吸術と血鬼術を融合させた黒死牟の呼吸。
 弟を超える為編み出され、結局は掠り傷も負わせられなかった業を、今、その弟は足蹴にしている。

 怒るべきなのだろう。鬼ならば、剣士ならば。
 心血と骨肉を注いだ結実が、執念の対象を高く跳び上がらせる遊具に扱われる。
 腸が煮えくり返る屈辱に身を震わせるべき、なのだろう。本来の黒死牟であれば。

 援護のつもりで使っているわけではない。
 黒死牟は、真実あの魔人を刻むべく月の呼吸は発動され剣林を生やしている。
 殺傷力も、軌道も、何一つ倒す以外の意図を含められてはいない。
 武蔵、縁壱とて、割って入るようなら構わず斬り捨てて構わない腹積もりで、全力を投じているのは明らかだ。
 縁壱の力量を鑑みれば避けるに能わない、軌道を読んで己の足場に転用するのが造作もない事ぐらいのは確かだろう。
 だが、それでもこんな、助勢になればと我武者羅に撃ち放っているわけでは断じてないのだ。

 おのが剣技を愚弄される真似を目にして、なのに今、黒死牟に怨毒の念はない。
 どころかこれは、何処か浮足立つ心持ちさえ芽生えてはいまいか。

 胸中の迷いとは裏腹に、黒死牟の月の呼吸は今までになく冴え渡っていた。
 月虹、月映え、月龍、蘿月。技が消える度次の技を繰り出し、溢れんばかりの月の欠片が戦場に散りばめられる。
 再生不可能の腐毒は虚哭神去の刀身を錆びつかせボロ屑に変えるが、その度矢継ぎ早に刀を再生産して力場の形成を続行する。
 月刃も月輪も、ベルゼバブの体表を傷つけるのには至らない。全て弾かれるか、触れるまでもなく漏出する混沌の魔力で融解するか。
 効果は攻撃以外に表れている。月を足場とした縁壱の攻撃の速度と範囲は著しく向上していた。
 僅かでも着地を誤れば足首が失くなるのを厭わず踏みしめ、全角度からの攻撃を可能とする。
 そこにあるのは、踏み外す失態は冒さないという絶対の確信なのか。
 あるいは、自分に対して殺意を向けてすらいる兄に対する、絶対の信頼か。

 真実は窺い知れず、示されるのは厳然たる事実のみ。
 人と鬼の兄弟が、ひとつの敵を前に、共に戦っている。
『鬼滅の刃』と云う物語に綴られる伝説の再演。星の消えた空に、人鬼の作るヒカリが駆け巡る。

「調子に乗るなよ、塵屑風情がッ!」

 埒の明かない円環に業を煮やした、王の赫怒が爆発し大気を撹拌させる。
 月の呼吸を乱発して滞空していた月輪の尽くは一斉に四散。
 魔力放出、否。使える隙はない。侍達に包囲されてる間には一瞬の溜めすら惜しい。
 今放ったのは殺気。それは即ち、飛ばした怒気が、ケイオス・ウェポン同様の音響兵器として機能した証左。
 遂に、ベルゼバブの意思は物理的な干渉力までも発揮するようになった。


 "ここ───────────!"


 その発露こそを、武蔵は待っていた。


 剣聖を制した武蔵といえども、安全も確認しない月の連弾を縁壱のようにかわし、あまつさえ発射台に変えられる真似はできない。
 辛うじて最低限の労でかわし、混沌の爪牙から身を隠す遮蔽物にするのが関の山。
 その甲斐はあってベルゼバブの足を止め、三騎がかりとはいえ拮抗を生み出す機会を得た。

 この男は概念に護られている───。
 命を担保に今まで積んだ経験から、武蔵は敵の性質を見破っていた。
 ギリシャの大英雄、十二の難行を超えたヘラクレスと同様。条件に満たない攻撃を一律弾く伝承防御。
 しかしこの概念、護りの方向に一切使用されていない。
 肉体性能こそ激増しているものの───防御力は、おそらく以前と据え置きだ。

 ベルゼバブが纏うものは滅び。万物が存在するゆえに必ず抱える終端。
 死にほど近いこの概念を形作るのに、最も相応しい名とは何か?
 概念と名前の照応。名探偵(ホームズ)の真似事ではないが、この場この限りではこの手がよく効く。

 いずれ訪れる終わり。
 すべてが帰る場所への送還。
 始まる前であり、終わった後。
 故に─────────原初神(カオス)。

 然らば、通る。
 柳生宗矩が通らずとも、佐々木小次郎が通らずとも、編纂なりし宮本武蔵でも通らずとも、この武蔵は、通る。
 問うまでもなし。何故なら己は既に────────。



「仁王倶利伽羅!」


 殺気には剣気。
 怒声には大声。
 以て握られし刀が波動を相殺させる。

 背に負いしは武神像。
 実存する神仏、武蔵が帰依する天満自在天神にも非ず。
 之こそは武蔵の剣の具現。
 無二の先、究極の一を超える零に達した座の天覧。



「小天衝───────!」
【月の呼吸 拾伍ノ型 虧月・牙天衝】
【陽の呼吸 陽華突】


 刹那に遅れて、継国の侍も必殺を期して詰める。
 殺気放出で全員を弾き出す算段だったベルゼバブに、一気呵成を止める手段はない。起死回生の絶好の機運、零さず掴む。
 呼吸の合致。隙を補完し合った連携。三騎のセイバーが結集した、決着を疑う筈のない剣は。





「この程度か?」





 黒漆の篭手が、赫刀を握る。
 神速の御業、遍く人鬼が霞と消えるまで終えない太刀筋を、覇気覆う五指の中に収められている。

「これで終わりか、羽虫共?」

 倶利伽羅剣は、混沌翼の薙ぎ払いで4本纏めて柄の根本から奪い去られ。

「慣らしは終わりだ。準備運動にしては上々だったと褒めてつかわそう」

 月牙は、受け止めすらしなかった。
 頸動脈に目掛けた狙いを見切り、武装色を集中させ硬化した首の筋肉で、逆に刀が折れ曲がった。

 三手封殺。
 以て、滅尽の嵐は侍を絡め取る。
 何のことはない。星辰光の出力弁を全開にしたベルゼバブの動きが、3人全員の攻め手を対処して間に合うほど上回った単調な話し。

「では、喰らうぞ」

 掴まれた刀が腐らずいるのは、陽熱による消毒の賜物か。
 刀は折れず、縁壱は手放さず。ベルゼバブは頓着せず腕を空へ掲げる。
 地面に根を張るが如く食い縛った縁壱の足が浮き、重力を裏切って闇夜に投げ出される。

「───砲翼・解放」

 死門が開く。
 暴食の獣が自らの衝動を抑えきれず、牙を剥き出して吠える。
 周辺の魔力、世田谷に渦巻く聖杯戦争の犠牲者の怨念が、ベルゼバブの名に隷属を強いられる。

 そもそも、それははじめから翼などではなかった。
 羽となる骨格が裏返り、露出された部分には弾が込められている。ケイオスマターの憑依先だった、黒き槍の形をした飛翔体。
 これは、砲塔だ。
 貯めに貯めた魔力を噴射剤に、設置された塔(バベル)を天に打ち込む発射台だった。

 武蔵と黒死牟が次撃を打つ。
 アレを決して撃たせてはならない。狙われてない自分達ですら見ただけで総毛立つ量の魔力と、滅びに満ちている。
 あんなものを地上で使おうというのか。本当に世界が壊れかねない。
 一手一瞬でも発射を遅らせるべく、月輪と剣圧を翼に集約するが……雲霞の群れを成したケイオス・ウェポンに前進を阻まれた。

「が…………!」
「ぁ───ぁぁあああ!」

 連携を止められ、呼吸の合一を失った2人にこれを凌ぐ術はなかった。
 避けなくてはならなかった直撃が手足に突き刺さり、爆裂の波に押し流される。

 破られる剣の結界。邪魔者を一掃し、いよいよ格納された滅槍は発射準備(シークエンス)を整える。
 照準固定。抜錨される矛の行き先は日の神楽。羽を持たない人間には、回避はおろか祈りすらも許されない。


 いざ開け、原初の路。
 仰ぎ見よ、侍共。
 平伏すがいい、聖杯に招かれし全てのマスターとサーヴァント。
 界聖杯崩壊の階となる、最強最悪を冠した一撃の名を──────────。


「ケイオス・ジェネシス───────!!」


 屹立するエテメン・アンキ。
 神へ弓引きし傲岸なる王が、ここに旧き伝説を刷新する。
 槍は東京都上空を突破、界聖杯が設定した生存圏の限界地点まで到達し──────────────────。




【      
       「                      
                    』
            )                   》 




 風が止んだ。
 雲が消えた。
 音が死んだ。
 空が堕ちた。
 国が割れた。
 世界が壊れた。       
 宇宙が滅んだ。


 創生なき破壊が、開かれてはいけない境界線の壁を越える。


 地上にはいつかぶりかの静寂が広がっていた。
 戦いの音は、相対する者が誰もいなくなったことで立ち消えている。
 残ったただひとり、己の足で立つベルゼバブは。

「……どうだ」

 耳を澄ませ、返答を待ち。

「………………………………………………はは」

返ってくる音がないのをたっぷりと時間をかけて確認してから。

「ハハハ、ハハハハハハッ! ハーハッハッハッハッハッ!!」

 完全勝利を謳う、歓喜の哄笑を上げるに至ったのだ。



「余の勝ちだッ!!」

 宣言する。
 これこそが勝利だ。
 甘美の時は今こそ。久しく味わう事のなかった味が口腔を満たしていく。どんな美酒にも勝る芳醇に酔いしれる。
 これこそが勝利。ベルゼバブという獣のレゾンデートル。
 実体も定かでない魔力で形作られた茫洋たる身になっても変わりない、己を己たらしめる最古の楔。

「見ていたか界聖杯! 余の隆盛を、余の最強を! 貴様がかき集めた英霊の全てを凌駕する余の偉業を!
 なんとなれば、今すぐ賞品を余に献上しても構わんぞ!? クハハハハハハハハハハハ!」

 報復劇は成れり。
 しかしこんなものは橋頭堡にすぎない。
 勝利の後には待ち受けるのは安寧ではない。次の戦い、次の試練、さらなる強き力とより困難な問題。
 常人では心が折れ、英雄でも疲弊する勝者の義務を、ベルゼバブは微塵も恐れない。両手を広げ喜んで身を投じる。
 無限の時間。無限の試練。それは彼の日常であるのだから。

「さあ、次の敵を寄越せ。煌翼、海賊共、纏めて混沌に飲んでやろう!
 誰であろうと余に敗北はない。勝利の未来を願う限り、この世の理を支配するまで余は無敵だ!」

 まずは縁壱に続いて己に最大の失墜を与えたヘリオスをもぎ取り、雪辱を果たす。
 決着が流れたカイドウとビッグ・マムにも引導を渡す。
 その時点でベルゼバブは聖杯戦争の勝者の座につき、界聖杯を手中に収めることになるが、真の始まりはここからだ。
 聖杯のリソースを注ぎ込み霊体から肉持つ身へと再臨を果たすと共に、ルシファーすら凌駕する力を手にしたら、大和から聞き及んだ全次元宇宙の支配域・ポラリスの到達を目指す。
 敷いたプランに瑕疵は見当たらない。ベルゼバブが存在を認識し、勝つと決めた時点で、時間と手段を置き去りにして結果は定められる。

 次の敵を。次の次の敵を。
 次の勝利を。次の次の勝利をお。
 蒼天に座す日輪を追いかけるように単純な精神で、宇宙の星を喰らわんとす混沌王に停滞はない。
 既にベルゼバブの思考に縁壱達敗者の存在は記憶の底に追いやられ、忘却の淵にある。


「───────────」

 だからこそ、唐突に目についたその影に気づいた時。
 饗膳を並べた椅子の下に食べ残しが落ちていたのが落ちていたのを見てしまった不快感が、些細にも走った。


 やせ衰えた老木か何かかと、はじめは思った。
 黒死牟の体はそう呼んでも差し支えない惨状だった。人ではなく植物の破片だと見れば見えてしまうほどに。

「………………、……………………………………」

 呼吸の音も、か細く聞き取れない。
 睡眠時の無意識でも途切れない常中の全集中もできているのか。まさに虫の息だ。

「折角の勝利の余韻を冷ましてくれたな」

 心底冷めた態度。

「だが何故立てている? その手足、確かに叩き落とした筈だがな」

 鬼の体といえど、滅尽滅相の効果は例外ではない。
 むしろそうした不死性を頼みとした手合いにこそ、この宝具は格好の毒として効く。
 至近距離からのケイオス・ウェポンの炸裂に、武蔵共々黒死牟は防御叶わずその両手足を千切られた。目に移ってはなくとも確かな手応えがあった。
 失った四肢は戻らず、黒死牟は今も達磨のまま地面に転がっていなくてはならない。
 二の足で立つ黒死牟をベルゼバブは観察し、疑問の答えを解いた。

「なるほど。羽虫ではなく百足であったか」

 地面から起き上がった黒死牟。
 だが体を支えているのは、足ではなかった。
 刃だ。
 ケイオス・ウェポンの爆散で爛れたまま治癒しない断面の周りから無数の刀が生え揃い、隈なく噛み合わさって、足の形状に擬態しているのだ。
 腕についても同じことだった。破壊を免れた右手以外の四肢には、内側の肉を空洞にしたままに篭手と具足がはめられていた。

 刀身に目玉が乗った不気味な刀身は、体の各所からも生えている。
 黒死牟の本体が無事でいた理由もこれだった。
 一斉に生成した刀を、武将の甲冑の形に編み込んで身を包み、加えて力場を全周に展開して混沌の魔力を僅かでも遠ざけたのだ。

「醜いな」

 不快を通り越して、侮蔑一色。

「こんな醜悪な虫を守らんがために無為に死ぬとは。やはり弱者とは枷よ。真の強者にとって助勢など邪魔にすぎん」 
「…………………………」

 反応らしき動作をした黒死牟を無視し、滔々と続ける。

「奴は、取り得る手段の中で最も愚かな選択をした。余に勝とうとするならば、全てを捨て、孤剣にて挑まなければならなかった。
 さすれば芥子粒程の可能性といえど、余に抗う手はまだ残っていただろうに。
 だのにあの侍は勝利を捨て、弱者の庇護などというヒロイズムに酔う愚行を犯した。自身に余を注視させて、他の連中に防御の余裕と、攻撃の機会を譲ったた」

 敗北の要因は敵よりも、力量が劣り足を引っ張る味方と指摘して。


「”勝利”とは願うこと。何故と問うことで生まれる可能性を、無限大に広げること」

「高みを目指すのを止めた時点で、あの男の敗北は決まっていたのだ」

 だから貴様らは負けたのだと。
 故にこそ己は必ず勝つのだと。
 勝者と敗者を分かつ最後の境界を踏み越える意識の差異は、断頭の刃となって黒死牟の頸を落とした。


 ───勝てない。
 あんなものに、勝てる筈がない。


 縁壱と死闘を演じ、遂には滅ぼしてしまった褐色の人外の覇気に、自尊心を粉々に砕かれた。
 諦観と絶望が苛み、全身から気力を奪い去る。
 何だったのか。この剣は。
 血と汗の研鑽、殺戮と狂気の求道。重ねてきた石積みの低さに哀れさすらこみ上げる。
 あんな怪物を前にすれば毛一本にも満たない鈍らに、どれだけのものを注いできたのか。
 自らの卑小さに気づかず、空も飛べぬ身で太陽に触れようと藻掻いて、当たり前に地に落ちる。傍から見ればさぞ惨めに見えたのだろう。
 自分は何も残せない無意味な存在だ。残せる価値は微塵もない。 
 これ以上、無様に生き永らえる必要はない。


「黙れ」


 ないと、いうのに。



「お前が……奴を軽々に語るな……!」



 心がまだ、諦められないと燃えている。



 右腕が構えを取る。
 具足だけの足が死が満ちる世界に一歩近づく。
 背中に折れぬ芯が入っただけで、精も根も尽き果てた体があっさりと動いた。
 腹腔で再び吹いた火に突き動かされての、過去の焼き直しとは違う。
 それが嫉妬から起きた炎でないことに、本人は気づかない。

 向かったところで、後に待つのは勝負にもならないただの掃除にしかならないこと、灼けた脳でも充分に承知している。
 だが関係ない。大局ではなく感情。
 勝負の帰趨が決していることと、この混沌の英霊に斬りかかるより他の処方など、何一つ思い当たらなかった。

 ようは許せないのだ。あの存在が。
 自分から縁壱を奪うものが。
 全存在を賭しても届かない、自分を灼き焦がした煌きを穢す、あの混沌が。
 それが盲信してきた像が見当違いのものであったのを認められないが故の狂気であるのか、それ以外の、冒されたくない何かなのか。判別の術はなくどうでもいい。
 太陽が奪われるのを黙って見ている生命が、世界の何処にもいるというのか。


「───────」 

 終焉の光が広がる。
 一斬もできない質量の魔力。此度の戯れ合いの幕引きには呆気ない、羽虫に殺虫剤をかけるが如き無造作。
 敬意が欠けてようが迎撃が不可能な事実に変わりなく、黒死牟は肉が原子に還っていく様を眺めるしかない。
 そう、彼は、眺めていた。 


「ああ…………」


 眼前を、眩い何かが通り過ぎた。
 黒曜石が火を吹き赤熱した色。
 宇宙を焼く赤天球。天地万物、光を育み燃焼し無限に照らし続ける。 
 目に焼き付いて消し炭になっても色褪せない記憶。

「本当に……忌々しい……ものだな……」
「申し訳ありません。ですが、これが私なのです」

 毒づく怨嗟に、すまなそうに腰を引く謝意。
 地獄の戦地に赴いても朴訥な性根のまま。
 継国縁壱が、そこに立って、黒死牟と目を合わせている。

「行くのか」
「はい」
「……そうか」

 縁壱は黒死牟を見る。
 黒死牟は縁壱を見る。

「……行け」
「はい」

 それで話は済んでいた。



「ハ────────」

 驚きはない。
 ケイオス・ジェネシスの砲火に晒された縁壱が、骸も残さず滅んで然るべき状況を覆した事態にも。
 切っ先が折れた刀で魔力光を斬り伏せた不可解な技を目の当たりにしても、ベルゼバブは笑みを浮かばせてみせる。
 復活劇は己が何度もしてきた。相手がそれをしたところでいちいち反応する必要もない。

「先を急ぐ。貴様はもう、不要だ」

 とうに格付けは済んでいるのだ。生きているなら、この手で再度殺せばいい。
 瞬間移動に等しい軌道を経て、直接斬殺を決行。
 この侍の動きは完全に読み取った。反応速度、身体速度、斬撃速度、いずれも絵に描いて想像できる。
 見るからに満身創痍の体躯、人間なら迎える限界をとうに超過した状態。
 よしんば今の御業を披露したとて、ベルゼバブの全てはそれを読み、正体を暴き、破壊してみせる。

 そうした自信と共に振り下ろしたケイオス・ウェポンが、手元から消え失せた。


「な、に?」

 そう、呟くしかなかった。
 自身の剣筋に対称して斬り上げる動作を視認し、その刃ごと叩き落とす気で振り下ろした。
 にも関わらず相手は死なず、刃は折れず、こちらの得物のみ手品のようにすり抜ける始末。
 空白。虚脱。武器を落とし敵前に立ち尽くす蒙昧を晒した怒りに、疑念を燃焼して反射的に後退。
 胸先を掠めた炎舞は、死を超越している混沌の体の背筋を凍えさせる。
 回避の勢いそのままに中距離の位置についたベルゼバブはそこから黒鱗を放出。
 機関砲の怒濤の雨霰。剣が牙が槍が槌が琴が、炎が氷が雷が音が光が、世界の元素が分解され包囲し殲滅の戦列をなす。
 凛、と鈴を鳴らした音が聞こえたかと思えば、展開されていた武装群は残らず神隠しに遭ったかのようにまたもや消失した。
 音の出所は、縁壱の刀だ。刀の舞い流れる様が神楽の調べに見えた故の幻聴だ。

 おかしい。何だこれは。
 潰されたのはいい。手品の種を見破るための絨毯爆撃の形態だ。そして起きた事象をしかとこの目で観察した。
 魔力効果は感じられない。攻撃や式に特殊な干渉をかけられてもいない。
 なのに消滅する。半壊の武器が翻る度に天地に並ぶものなき武群れが姿を見失う。
 神々に比肩する叡智と慧眼を持つベルゼバブはそこで、他者に答えを求める言葉を吐いた。

「何を、した?」
「斬った」

 事もなげに、勿体ぶる素振りもなく答えは返ってきた。

「理解できているだろう、お前には」

 なのに聞くのかと、逆に問うように。

「万物には綻びがある。混沌を司ろうと、無限に強くなろうとも、存在してる以上はお前は有限のものだ。そこには必ず終わりを迎えるための道がある。
 その道に、刃を押し通しただけだ」
「───────」


 背後から、巨大な手に全身を鷲掴みにされる感覚。
 それが悪寒であると、ベルゼバブは気づかない。


 ベルゼバブが己の観察力を疑わない限り───。
 縁壱の剣には何ら超常を引き起こす神秘は乗っていない。
 で、あるならば。発言には虚偽も戯れも混じらない、事実のみを告げている。
 そう。理屈は通るのだ。
 『壊れかけた生半可の刀の宝具を振るって遥か格上の神秘を備える宝具を斬滅させた』事実を認めさえすれば。 

「貴様、まさか……」

 敗北の先にあるもの。
 もうこの先はないという終わり。
 混沌にはなく、ベルゼバブにまだあるもの。過去数え切れないほど身近に迫り、退けて、なおも離れない首にかかる縄。


「『死』の具象を体現したというのか───!」
「──────」


 この世の全ては、発生した時点から滅びるようデザインされている。
 完全な物体とは想念の世界にしか存在せず、一から壊れてやり直したいという願望を潜在させている。
 人間は言うに及ばず、大気にも意志にも、時間にだっても。
 始まりがあるのならば、終わりがあるのが当然。
 完全無欠を謳うベルゼバブ、その同種がデザインした窮極の星晶獣すら、例外ではない。

 細かく現代的に訳すならば、物質を形成する分子の結合。
 未だ故郷の惑星を飛び立てぬ幼年期の人類には知れない地平では、宇宙の定理すら数式に落とし込まれているのかもしれない。
 そこに計って差し込めば、あらゆる物質は崩壊を免れない。これは自滅と同様。いわば寿命死と定義されてしまうのだから。

 魔術界においてその能力はこう呼ばれている。
 ケルトの古き神バロールの所持する権能。一睨みで死(おわり)を引きずり出させる越権行為。
 『直死の魔眼』と。



「化け物め……!」

 悪態罵倒こそあれど、肉体は前進制圧以外を選ばない。
 我は暗黒。宇宙の終わりを有り示す黒天体。森羅万象、光をも喰らい自壊せず永遠に喰らい続ける天司。
 ただの人間、今にも死ぬる弱き命に恐れを抱くなどあるはずがない。
 恐れなど、ない。

「ジャアアアアアアアアアアアアアア!!」
「──────」

 黒きベルゼバブ。
 赤き継国縁壱。
 そう座(な)を刻印された対極の星は、摂理の外、宇宙に反旗を翻す寸前の剣戟と魔咬の応酬。
 互いの光は要らぬと、確殺必死同士が相克する。

 双星は、無を煮え滾らせる灼熱を孕んでいた。
 存在しないものは壊せない。そんな形而上の常識は焼却される。
 無を無たらしめるには有限を定めなくてならない。世界には「無い」さえも「在る」のだから。
 何もないように見える空間には無数の塵が舞い、原子が浮かび、揺らぎがある。
 星はその揺らぎを斬り裂いた。全ては決着の二文字の為に。

「ケイオス・レギオン・レガトゥス───!!」

 悪霊の軍勢が、幽世から抜け出て同胞を増やさんと手を伸ばす。
 射出したケイオス・ウェポンの各器に充填される滅亡光。その総てが進化前のベルゼバブが必殺とした技と同威力。
 ここにきて新技の開発、刻苦を厭わぬ精進が最新を更新する。
 ケイオス・レギオンの多面制圧一斉砲火という、出鱈目尽くしの一撃も、過去の焼き直しに終わる。
 だが一手前とは破壊の範囲も空間に及ぶ影響力も桁違いの魔力が霧散したのを見た事で、ベルゼバブは究明に至った。

「次元屈折……! それに事象飽和か、これは!」

 多重次元屈折と呼ばれる現象がある。
 速すぎる物体の移動が時空を歪め、同一軸上に複数の軌道が偏在させる時間を生み出す。
 これが適用された技は平行世界の可能性を呼び込み、超高速とはまったく異なる完全同時の斬撃となる。

 事象飽和と呼ばれる現象がある。
 これはその次元屈折の応用ともいえる副次要素だ。
 完全同時の物体の軌道を重ね合わせ、一撃目を防いでもその時点で二撃目三撃目は当たっているという矛盾。
 タイムパラドックスの軌跡は局所的に時空崩壊を起こし、結果として防いだという事実ごと無かったことになる。

 縁壱は一振りでケイオス・レギオンを斬り伏せたのではない。
 あの瞬間、あの時分、縁壱の刀は数百数千単位にまで分裂し、それらが纏めて束ねられた一閃の形態を取ったのだ。

 "いいや────違う!"

 弾き出した推論を自らの脳で否定する。
 そんなものではない。あれの真価は、たかがそんなひとつふたつの現象とは隔てた次元にある。
 『それをする』だけなら今のベルゼバブにもできる。
 時空と次元を侵食するケイオスマターの概念を得た今ならば、同様の現象を起こすことは可能だ。
 混沌の星辰光のみならず、それを実現するスペックを、種族特性として始めから備えている。

 縁壱は、これらに一切の魔力を用いていない。
 地を蹴る反動を活かし、体幹を用い、筋肉のバネを効かせて、肩、腕、指先の末端にまで行き渡らせる。
 そんな基礎中の基礎、ベルゼバブ程の強者からすれば児戯の範囲で実現させてしまっている。

 次元屈折。事象飽和。そして直死。
 ひとつでも時代に名を刻まれる秘剣、絶招と称されるに相応しい異能も。
 この侍は、何も意識していない。
 向こうの方から、才気に魅了されたか如く勝手についてきていた。

 力の限り速く動かした故に、次元屈折(かたながふえ)。
 同じ箇所を続けざまに斬りつけた故に、事象飽和(たちすじがかさなり)
 それを無限回に等しい回数試行し続けた故に、直死発現(しがおきた)。

 想像を絶する、としか言いようがない技だった。
 これが人の、羽虫と呼び捨て憚らない弱者の群れから生まれた生命体なのか。神が作り出した星晶獣と言った方がまだ納得できる。
 魔なく、神秘なく、我意なく。殺気も闘気も戦意を微風も出さず。
 差し出されるは、ただ一字。




"何故だ"


 ────殺される。


"何故、この死に損ないをいつまでも殺せん"


 ───間違いなく殺される。


"何故つまらぬ演舞を抜けられない。何故此奴を引き剥がせない"


 ───他の誰にでもなく。


"何故、余の頭にこんなものが湧いて出る。角から湧いた蛆虫のように"


───他の何にでもなく。


「そんな、事が」


 ────お前は、この男に殺される。


「あって、たまるかァァァッ!」


 忍び寄る死の足音が耳元で聞こえた怖気を殺意に変換し、赫怒と吠える。
 技量の敗北はいい。潔く認めよう。
 だがそれがどうした。異能でなく技術ならば鍛錬で獲得できる。
 あくまで今は敵わないだけなのだ。時間さえかければ、己は如何なる力も血肉に替えてみせる。
 試合の勝利はくれてやる。しかし、殺し合いの勝利だけは譲らない───!

 砲翼の顎が開く。周辺に散った魔力が食い尽くされる。
 真奥義ケイオス・ジェネシスの発動予兆。次元を越える攻撃を破るには、同じく次元違いの絶対破壊の力こそが正答。
 この距離ではベルゼバブにすら反動が及ぶ自爆行為となるが、頓着しない。
 肉体の頑健は依然こちらが上なのだ。結果は痛み分けでも、厳然たる種族値の差で自分が競り勝てる……!


 聖杯を呑み込む龍の大口。
 世界すべてを我が物として操るに足る力は、甚大、膨大。
 この悪魔を、悪鬼を前にして、人の技が何になろう。
 倒す術はない。逃げる道はない。奇跡も偶然も手を差し伸べる余地はない。

 あるとすれば、それは。

『前に縛っちまったワビ代わりだ、残り全部持ってきなァ!』

 遠くで、掲げる手の甲で赤光が輝いた。
 一蓮托生の相棒の窮地を肌で感じ取り、彼のマスターは裂帛の気合いに乗せて告げる。



『勝てよ、縁壱ィ!!』


 心が燃える。
 命が震える。

「ありがとう、おでん。その誓い、必ず果たそう」

 相互に信頼関係を結び、斬る以外に魔力を注ぐ先のない肉体に、令呪の効力は覿面に発揮される。
 令呪からでも耳朶を叩く大音のおでんの声援は、背に万軍が生まれた心地にさせてくれる。
 そう。この安堵こそ、生前の彼が得られなかった縁。
 傷つき散っていった同胞がそうしてきたように、この刀に思いを乗せる。


 構えは正眼。基本の型。
 そこから生まれしは無限の流れ。無形、無影、無窮の久遠。
 かつては鬼の始祖と相対した際に開眼した型。それを基礎に、対魔性の魔剣に調整する。



「えにしはめぐり、ひはまたのぼる」 


 祝詞を歌う。
 其の名を、告げる。






「日の呼吸、拾参の型────────────────」








 円環を、成す。







 その瞬間に何が起きたかを観測できた者は、誰もいなかった。
 近くで見ていたベルゼバブにも、正確な事象を見切る事は出来なかった。
 よって、ここに界聖杯内界で記録された事実のみを記す。


 ベルゼバブの放ったケイオス・ジェネシスは、縁壱の次元屈折現象により並列化した12の斬撃と、12回分重複され事象飽和現象を起こした斬撃、しめて8916100448256の斬撃により、草一本動かす事なく世界から消滅した。




 型を出し終えた縁壱の全身が、ぐらりと揺れる。
 体内の筋肉、毛細血管は断裂と破断を起こし、血液の凝固作用を凌駕するほど上昇した体温が肉を焦がした。
 対するベルゼバブの様子は、なお壮絶だった。
 再構成された砲翼は魔力砲もろとも粉微塵に。混沌を貫通した斬撃は斬るというより抉り抜く形でベルゼバブの体積を削減。素のままでも雲を突く巨躯が、やせ細った末期癌の患者かのように縮められた。

 鬼滅譚、終劇。
 決着の幕が下りたのを、どの観客が見ても納得せざるを得ない光景。
 だが、しかし、それでも、だというのに。


「まだだ───ッ まだ、余は生きているぞッ!!」


 打ち倒されるべき役目の演者だけは、自分の物語に改竄せんと筋書きを破り捨てた。

 満身創痍と呼ぶのも憚られる瀕死の重傷は既に死体。
 生物的は言うに及ばず、魔術的見地でも霧散してなくてはいけない地点を過ぎ去っている。
 手足も目も翼も、存在自体が不揃いになるまで切断され、何故まだ活動できているのか。
 人間が活動できる限界量の血液を流していて、何故まだ腕を振るえているのか。
 答えはない。
 用意した草案は提出する前に灰と化し、そもそも理由も必要ではない。

「ここが貴様の限界よ! 余は止まらぬ、余は省みぬ、勝利するまでは、決してッ」  

 術技で上回れ、力を無効化された。傲岸という天に届く塔の頂から落とされながら、欲界王の渇望は尽きまじ。
 必ず逆転して勝利する、お約束の英雄譚。機械仕掛けの神の頭を掴んで引きずり出して、主役に目を向けさせる。
 まだ、生きている。
 この首、この心臓、
 ならば戦う。勝てる。
 力の果ても、技の極みも出し尽くした。
 英霊の種別は霊であり魂。自滅を厭わなければどこまでも活動できる。
 ならば後は純粋な"意志"の対決。
 縁壱とベルゼバブ、どちらが相手の意志を折るかの、魂の競り合い。
 草木の穏やかな気性と、灼熱の溶岩の気性。傾く天秤は決まっている。



「そうだ。私は、やはりここまでの男なのだろう」

 血霞で視界を靄に覆われ前後不覚の縁壱は、落ち着き払って不覚を認める。


「常に、そうだった。私は私が撃つべき者を、必ず仕損じてしまう」

「私がやれた事はひとつだけ。後の時代に、後に続く者に、思いを託すこと」

「それが私の勝利の形。曇りなく人を見て、未来を信じ抜くこと」

 穏やかに、そう告げて。



「後は、頼む」



「応じよう。日輪の申し子。我が空道、我が生涯、とくとその目で御覧じろ!」



 襷が、手渡される。
 円環の追走、その最終選手が漸く走り出す。


 いつから、その手に剣は握られていたのか。
 いつから、その眼はこの結末を視ていたのか。

 その質問は無意味だ。
 始めから彼女は言っていたではないか。
 港区を追い出された先でそれの気配を感じ取った時から、彼女の眼はその一点しか映していない。
 日月の兄弟と轡を並べたのも、死んだふりをして機を窺っていたのも、後から付随した過程に過ぎない。
 永く永く引き伸ばされ、順路の最後尾で順番待ちにされていた運命は、日ノ神楽で祓われた道、刹那の隙に滑り込む。


「混沌よ、確かにお前は全てを支配するでしょう」

「その腕は限りなく広がり、いつしか宇宙の果てまで掴むのでしょう。その飽くなき渇望こそ武の初歩にして極み。無窮の武錬に敬服します」

「だが、今は違う」


「何故ならお前は、私に出会った」
「私が斬るものに、お前は成った」


 その剣───無空に届き、零の先に至る。
 二度目の破神、原初神斬り、此処に承る。




「我が魂の真名、新免武蔵守藤原玄信!
 かつて、混沌(オマエ)を斬ったモノだ!」




【六道五輪・倶利伽羅天象】




 対人・対因果宝具。
 あらゆる非業、宿業、呪い、悲運すら一刀両断する仏の剣。
 右眼が潰れ、至る骨が折れようとも、無我の境地に一滴の水も落ちはしない。
 人を斬り、魔を斬り、神を斬り、虚空を斬った『零』の太刀は。
 今度も過たず、運命の輪に一閃を通した。


「───────────────」

 ベルゼバブは動かない。
 避ける、という選択肢は初手から除外されていた。
 光速移動、現実改竄、時空間操作、次元航行、どれをとっても変わらない。
 武蔵の天眼を最大限拓いたこの奥義に、『斬られる』以外の運命は訪れない。
 混沌を名乗り、カオスの概念と一体化していたベルゼバブと、オリュンポス原初神カオスを斬った武蔵は照応され、歴史を再現させた。
 袈裟に入った切断面は肺から心臓にかかる軌跡。間違いない致命傷、いや即死の跡。


「……」

 会心の手応えを覚えながらも、残心する武蔵の顔は優れない。
 受けた傷に汚染はすぐにでも表情を歪ませたくなるほど痛いが、それではない。
 確かに入った。結果は見ての通りで疑う余地のない出来栄え。
 けれど最初の一斬、100点を越える100点の際を比してみると、違和感が拭えない。
 斬るべきものを斬ったのに。既にそこには何も無かったかのような。

「まさか……こいつ……」

 違和感は疑念に変じ、生じた疑念は解答を求め膨れ上がる。
 行き着いた答えに武蔵が戦慄し、頤を上げた直後。





「まだだ!」




 聞き飽きた男のあり得ない叫びが、豪と解き放たれた。


「嘘でしょ……!」

 唖然とする武蔵。こればかりは本当に勘弁してほしいと、開いた口が塞がらない。
 零の剣を受けても起動する理不尽。その理由に行き当たってしまった。

 そう、あろうことかこの男、『混沌であることを捨てた』。
 自分の運命を、無理やりに捻じ曲げたのだ……!


 摂理を狂わす特異点、その真骨頂だった。
 人理を狂わす時空の乱れを表す名称と同じ名を冠するベルゼバブは、運命に干渉する事ができる。
 迫る剣を避けるも防ぐも叶わないと本能で悟った瞬間、対処を眼前の凶器から己の内側に着手した。
 因果の流れを追い越す勢いで自身の魂を強制的に侵入、侵食、改竄。
 『定められた運命と別の運命』に差し替える事で、運命を断つ武蔵の剣を紙一重で凌いだのだ。

 そしてその為に支払った代償は。

「ギ、ガ、ガガガッガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

 自らの霊基の、崩壊だった。

 独力で自己改造を施し星辰光を獲得したベルゼバブは星辰奏者よりも人造惑星、プラネテスの性質にほど近い。
 正式な星辰奏者と一線を画す出力を誇る秘訣の一つは、超合金オリハルコンを心臓部に移植して能力を底上げする点にある。
 ベルゼバブにとっては、死毒を克服する為にルシフェルに埋め込ませたコアに加え、合成星晶獣アバターの残滓が相当する。
 その核を摘出してしまえば著しい弱体化、ないし死しかないが、それを承知で命を繋ぐべく身代わりに消費した。
 そして因果の斬撃から逃れようとも、現実では肉体に致命的な損傷を負っているのに、現界を意志力で拒絶している。
 心臓を斬られる前に自分で心臓を抉り出したのだから、まだ死んでないと言い張ってるようなものだ。
 ハッキリ言って馬鹿の挙動だ。詐術として成立の体を成していない。

「まだだ! まだだまだだまだだまだだぁ!! 余は最強! 余は無敵! 空も星も統べる極天に立つべき存在! それがこんな、こんな下らぬ羽虫如きに! ああ! ギャアアアアアアアアアアアアアアアアウ!!」

 激痛と呼ぶのも生温い崩壊が今も襲っている。
 精神力云々で堪えられる域ではない。ベルゼバブは今、『自分』を否定した。
 即死から逃れる為に数秒後の破滅を受け入れた。
 とめどなく連発してきた覚醒を起こす燃料……傲岸不遜な自己の拘り、ここまで支えてきた基盤を一瞬とはいえ捨ててしまったのだ。


「ヤマトォオオオオオオオ! 何をグズグズしている! 早く余に龍脈を使えぇえええ!」

 ここにはいないマスターに治療を要求する。
 命乞いにしても横柄極まりない態度だったが、すぐに処置は行われた。

『───令呪を二角以て我が盟者に命ず! 持ち堪えろ、そして勝利せよランサー!』

 迸る光、令呪の使用。
 術者とは別にある外付けの法外な魔力が解放される。
 因果律を崩壊させる一歩手前の極限の呪法が、割れ開いた胸板を縫合していく。

「言われるまでもないわ羽虫が! 余は、余が君臨する為にこそあらゆる敵を討ち殺し、遍く全てを滅ぼそうぞ!」

 当然の命題に応じる。
 同意に則った令呪はサーヴァントの行動を後押しする噴射剤(ブースター)となって、実体の枷を融かした意志を力強く蹴り上げる。
 その場凌ぎの応急処置だ。傷の深さは令呪で賄えないところまで及んでいる。
 癒やすにはより多量多寡の魔力で全身を再構成するだけの魔力が要る。それを可能とするだけの貯蔵地は、龍脈の他にない。

 とっくに大元が瓦解しているベルゼバブの霊基は、どうしようもなくグズグズに爛れていて。
 気合と根性で乗り越えて起きた現象に準ずる魔力を、大和から簒奪しようとも見向きしない。
 土地も、龍脈も、令呪も、マスターも、聖杯も、何もかもを寄越せと当然の権利だと主張する。

「そうだ───この世の全ては余に捧げられる為だけに存在する!」
「いいや───この世の全ては、ただ在るだけで美しい花だ」

 同じく、二角の令呪を受け取った縁壱がその傲岸さを糾す。
 技量に特化した縁壱自身の霊基質量、魔力消費は高いものではない。
 ただの行動の消費、単純な運動量だけで、今のベルゼバブと大差ない消耗を生み出していた。 
 終わりの見えない螺旋の攻防は、現実を凌駕した精神に肉体が耐えられず自壊の末路を辿る筈だった。
 だのに戦いは終わらない。
 2人は戦いを止めない。

「その花を無残に散らすお前を……私は許す事ができない」
「ならば花も大地も消し飛ばしてくれよう! 余が君臨するには無窮の空さえあればいい!」

 結局のところ、2人は他を寄せ付けない力を持つ者同士でありながら。
 どこまでも対極に反発し合う、相容れない敵同士だった。


 神に授けられし刃が素っ首を撥ね飛ばす。
 神をも屠る腕が心の臓を引きずり出す。
 双方が必殺を確約した侍と天司の交錯の行方を、複数の主従が見守っていた。

 空にいるリップとシュヴィ・ドーラは、戦闘データを収集しながらも決して半径2キロメートル範囲内から観測を続け。
 鬼ヶ島の兵の露払いを努めたチェンソーマンは、自分と同類の悪魔の臭いに釣られたのを隣の神戸しおに宥められ。
 誰も、踏み入ろうとはしない。
 そここそは人知未踏の天蓋。
 人と天と地と星が始まり、旅立ち、最後に還る場所。
 物見遊山で見物に来る場所でも、漁夫の利の浅ましさを得られる生け簀でもない。
 踏み入れば即座に英霊の座へ送還される死地。ここに飛び込む蛮勇、人の英霊が持ち合わせてはいない。






 では、鬼ならば。


 「──────────」


 ベルゼバブは気づかない。
 残存僅かな熱量の肉体を稼働させる精神力は、眼前の縁壱のみに集中している。
 後ろから迫ってくる小虫に割ける神経は一本足りともない。


 「──────────」


 ベルゼバブは気づかない。
 遂に斬撃の間合いに入った黒死牟が腕を振り上げるのにも反応しない。
 だが仔細ない。縁壱以外の全存在を忘却しようとも、危機を感知すれば全自動で反射する。
 脆い蟷螂の鎌がベルゼバブの首筋に触れて、肉が押し込む刃を弾き返した瞬間、鋼翼の破片が不埒者を塵埃に等しく霧散させる。

 剣が踊る。
 刀身に月輪が宿らない、何の変哲のない横薙ぎだ。
 上弦の壱の名に違わぬ練度でも、ベルゼバブの外皮には歯が立たない筈の刀が、滑らかに沈んだ。 


「──────────」


 ベルゼバブは気づかない。
 心臓の摘出。星辰光の失効。
 制御盤を失ったケイオスマターは呼吸と覇気のみでは抑えきれず、無害だったベルゼバブの体に腐毒が浸されて、防御力を著しく下げている事を。

 それでも、一方からだけならば耐えられていた。
 平時のように精神力を爆発させた覚醒で凌いでいた。
 それを阻むは、正面から来る、まったく同一、対称線にかかる剣閃。
 連携を合わせるべく位置取りの調整をすればベルゼバブはすぐに意図を察していたが、2人の間には何もない。
 有り得ないものは存在せず、ないものには気づけない。
 ベルゼバブは、脊椎を滑る刃に気づかない───。


 黒死牟は縁壱を見ていた。
 縁壱は黒死牟を見ていた。
 答えは全て、そこにあった。


 神の手も、鬼の業も伴わない、人の縁が、ここに線を結ぶ。

 悪鬼滅殺。
 25を超え、400を過ぎ、那由多の時を経て、2人の兄弟は本懐を遂げた。




「──────────────────────」

 首筋に線が入った。
 前後で挟み合わさって互いの刀が擦れる音を聞き、漸く自らが斬られた事実に追いついた。

 「──────────────────────────────────────────────────────────────────何故だ」

 痛みはない。
 怒りはない。
 沸き起こるのは疑問だけだ。
 永遠に解けない命題を背負った哲学者のように、重い表情を変えない。

「何故、心臓が治らん。首が再生しない。煌翼に出来た事が、何故余に出来ないのだ」

 心臓の消失に続いて、首の截断。
 蘇生宝具も含めた『完全な死』から復帰するサーヴァントは存在しない。
 これを覆すには、光速突破による因果律崩壊。
 己の死を精神力で破壊する、救世主ヘリオスと同じ特異点(ステージ)に昇るしかない。

 スフィアとは比翼。
 同士であれ、家族であれ、伴侶であれ、宿敵であれ、星へ願う思いを同じくする、他者による共鳴が必須となる。
 どれほど強さが限界を突破しても、高次元の干渉能力を獲得しても、たった独りの片翼では、同じ場所を永遠に旋回するのみ。
 ベルゼバブには誰もいない。友も、同胞も、配下も、伴侶も、強さの不純物だと一顧だにせず捨ててきた。
 答えは一つ───ベルゼバブは絶対に、極晃星には至れない。


「ア────」

 生来の素質と不屈の精神力で全ての壁を越えてきた男へ、今───最悪の形で、呪いが返る。

「────────? ? ? ? ?」

 滅されても直立不動でいたベルゼバブの肩が、水風船を割ったみたいに勢いよく破裂した。
 漂うばかりの素子、肉体を構成する魔力さえもが、傲岸を誅するが如く全身で暴れ始めた。
 破滅に抗おうと精神を昂ぶらせても、出てくるものは何もない。

「ア、アアアアアアアアアアアアア」

 差し伸ばされる腕はない。 
 あらゆるものを踏みにじってまで自尊と野望を奉じてきた男に、誰が報いるというのか。
 敵、味方、刀、宝具、個性、令呪、魔力。
 世界の全てが、ベルゼバブを拒絶する。

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 天へと腕を掲げたまま、空へ飛翔する。
 何かを目指そうとしたのか、それとも破裂した背中から魔力が噴射した偶発的なものか。 
 そこには何もないというのに。 




 「ァア────アアアアアアアアアアアアアアアアアア──────────────────!!」




 最期の叫びが何を意味するのか、知る者も声を聞く者も、何処にもおらず。
 強さを求め続け、強く在り続けた、ただ最強であるだけのモノは、誰にも見届けられず、誰にも看取られないまま、蒼穹の彼方に消え去った。


【ベルゼバブ@グランブルーファンタジー  滅殺】


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最終更新:2023年04月30日 21:22