「うぷ……! へへ……縁壱の野郎……気張ってんじゃねえか……」
息が苦しい。
手足が重い。
戦いとは異なる疲労感が肺腑を満たす。
鬼王からどれだけ殴打されようが、折らなかった侍と王の膝が曲がった。
内側にある活力、魔力……自身を支える根源の泉から水をごっそりと持っていかれて。
「……………ッランサーめ……残らず絞り取る気か……」
汗をかくのも惜しいと総身から一気に力が抜けていく。昼夜を寝ずに執務に取り掛かる大和をして、今すぐにでも意識を遮断してしまいたい睡魔に駆られる。
サーヴァントの行動に伴う魔力消費は、すぐさまマスターの回路から徴収される。
誰しもが忘れかけていた聖杯戦争の基礎
ルールが、ここにきておでんと大和を襲った。
魔術師として、戦士として、図抜けた力量を持つ2人だからこそ、この瞬間まで気づかなかったのだ。
縁壱と
ベルゼバブが───英霊一騎では到底収まり切らない量の魔力を使用していた事に。
致命傷からの覚醒、弩級の能力上昇。
これらの現象はサーヴァント単体の意志だけでは発動する事ができない。
気合いと根性を発揮しようと彼らは死者。生者のみの特権を起こすのに用いられる魔力はマスターに依存する。
大和とおでんという、マスターとして別格に位置するマスターを得ているからこそ、再三に渡る摂理超越を成し得て、超抜の戦闘力を再現していたのだ。
特に
ベルゼバブの現在の消費は甚大に過ぎた。
霊基に登録されてない宝具を無断で開発し、零の剣から逃れる為に、魔力炉の役目を果たしていた星晶獣のコアをも摘出した。
これにより、大和が本戦に備えて用意させた補給線は崩壊。峰津院家の名で差し押さえた霊地にある備蓄が、次々と枯渇していく事態を招いた。
大和が十全に自身の魔力で戦うため、予備電源として接続させていた土地の魔力に、次々と
ベルゼバブは手を出している。
底の空いたバケツとなった体を維持するには、穴を補修する暇もなく、さらに広がるのも構わず魔力という水を注ぎ続けるしかない。
魔力の圧力で無理やりに霊基の拡散を抑えている状態だ。器の中身が横溢しては穴から抜けていき、際限のない蕩尽で貯蔵は真っ先にゼロになる。
そして今、最後の霊地を枯らした事で、とうとう唯一の供給元になった大和自身の魔力を奪い取りに来たのだ。
カイドウだけでなく、自陣のサーヴァントにすら牙を剥かれる最悪の四面楚歌。
対策だけなら簡単だ。繋がっている魔力の供給をカットすればいい。あくまでも主導権はマスターにある。
だがそれは選べない。絶対に。魔力を断てばランサーは死ぬ。
ベルゼバブは今瀕死だ。いったい誰とどのような戦いを演じてるかは知らないが、紛れもなく死力を振り絞っている。
幾度も致命傷を負い、堤防の霊核もないまま、勝利に向けて死体を引きずりながらひた走っている。
その強者の矜持を、大和の信念を大和以上に体現する鋼の覇者を───弱者(おのれ)が足を引っ張り無に帰す事だけは、してはならない。
令呪を消費し、聖戦に投じるそれぞれのサーヴァントの背を押し。マスターは萎えかけていた身に活を入れる。
「息も絶え絶え、といった風だな。その様子ではもう無理か」
「これぐらい……おでんでも食えばすぐ回復できらぁ」
「減らず口を叩けるだけの余裕はあるか。しかし……オーディン神を喰らうとは大きく出たな。貴様はフェンリル狼よりもテュール神あたりが妥当だろうに」
「……おい、お前まさか、知らねえのか」
「何がだ」
「おいおい……マジかよ……」
令呪二角による戦闘続行は長くは保たない。
2人が戦えるだけの魔力の供給、痛覚や稼働のペナルティの無視を付与はしても、傷そのものの回復はしない。
そも全角を投入しても復帰の目処は立たないだろう。魂以外の霊基は燃料に変換されている。
ベルゼバブの消費速度から換算して……再度大和に負担が向かうまでの時間は、約2分。
故に。
勝負の結果も、この時間に定められる。
「おれというものがありながら……なにイチャついてやがる!」
”怒裡上戸引奈落(いかりじょうごラグならく)”。
鬼ヶ島を落とされた慟哭も勢いに加え、
カイドウの八つ当たりじみた暴虐が、隕石が落ちたかのようなクレーターを生み出す。
「気色悪いこと言うんじゃねえ! こっちは所帯持ちだ!」
「おれもだよ!」
「まじかよ凄ぇな! どんな肝っ玉してんだそいつ!」
おでんは痣で上昇した反射で絶妙にいなす。
回避と反撃を並行した、舞うが如く踊りにて懐に潜り一斬を見舞った。
「まったく手を焼く倅だったぜ……! 死んだお前を見てからというものの『自分は
光月おでんだ』なんて名乗りやがる!」
「……!? なんでだ!?」
「おれが聞きてえよ!!」
二斬を狙う振り下ろしにカウンター気味に迎撃する”熱息”の奔流。
不用意に飛んでしまったおでんは為すすべなく閃光をもろに浴びてしまい、逆らえず自由落下する。
「ゼーッ……ゼー……。
だがまあ……お前の死に様を見た奴は多かれ少なかれそうさ。誰もがお前の幻影を背負っている……死んでもなお国を人を動かす見事な散り際だとな」
絶好の追撃の機会にも関わらず、傷を増やした胸を手で押さえて
カイドウは蹲った。
疲弊している。不停止で進行上の障害物を撥ねて回る暴走特急の
カイドウが、怯みを見せている。
これまでの堆積は無意味ではない。補給路を叩かれ潤沢な魔力に翳りが出て、
カイドウという器の底は着実に露呈し始めていた。
「供給が途絶えたなライダー。先ので皮下は死んだか? ともかくこれで漸く条件は対等だ」
「抜かせ。燃料切れになるのはお前らが先だ」
「さて、どうかな。生憎と───私の手札は、まだ使い切ってないぞ」
ケルベロスに騎乗して絶えず移動していた大和が、準備を終えたと手を上に掲げる。
大和とおでんの奮戦で守護されている東京タワー。その全形が眩く照らされ始めた。
街灯や照明が点いても区別のつかない白んだ朝にも関わらず、光は金色の羽衣をありありとはためかせた。
その神々しさ、溢れ出す練気の間欠泉、もはや疑うべくもない。2つ目の龍脈を、大和は使用するつもりでいるのだ。
秘蔵しておくべき第二の龍脈の開帳を、大和は躊躇わなかった。ポラリスへの対抗に備えた魔力も、ここで負ければ抱え落ちだ。
エネルギーの移送先は、自身のサーヴァント。令呪でも賄えない重傷を負った
ベルゼバブを快復させるには、これしかない。
未来の獲得も繁栄も目の前の勝利あってこそ。順位を違えはしない。
「おうコラ、人のモノを勝手に使ってんじゃねえぞ!」
これに堪らぬのは
カイドウだ。せっかくの宝を拝んでおきながらおめおめと散財されては海賊の立つ瀬がない。
『盗人上戸』が働き我先にと塔に急ぐ道を塞ぐは龍脈の化身。峰津院の技術の結晶たる人類守護の牙。
「またソイツかよ。無駄な……!?」
龍同士の格付けはとうに済ませ、恐るるに足らずと突進した驕慢を、展開された陣を見て挫かれた。
東京タワーを背に鎌首をもたげる龍。その周囲で百を超す白銀の鱗。
塔に配備されたロンゴミニアド。鋼翼の宝具で量産されたアストラルウェポンが龍より伸びる紐を通して帯雷する。
龍脈の力を注ぎ込まれ、疑似宝具は真作へと至って槍の豪雨を降らせた。
大地(カミ)の恩寵賜りし光槍が、欲界を統べる悪龍へ懲罰を下す。
「コイツは効くぜ……! だがァ!」
このままでは釣瓶撃ちにされると察した
カイドウは、ここでガードを解いた。
鱗つきの野太い腕で隠した胸が露わになり、ロンゴミニアドが突き刺さる。
肉に食い込んだと同時に自壊、貯蔵魔力を火薬に直接変換された爆発が内側から穴を穿つのも構わずに進撃した。
砲兵の一斉射を真正面から受けながら、濁る目は騎乗する大和を雷速で接近。
縮地と疑う歩法で遠距離から近距離の間合いを詰めた
カイドウを目の前にしても、大和は動じず。
冷静の正体は体表を覆う白い薄布。テトラカーンの反射膜だ。
これにより大和に向けられた物理攻撃は相手に跳ね返り、
カイドウは自身の腕で振り抜いた金棒を無防備に受ける羽目になる。
「バリアなんざ……使ってんじゃねぇええええ!!」
覇気が、全てを凌駕する。
鬼の持物に相応しい巨大さの金棒が、一回り拡大されたと錯覚する重圧。
炎、氷、光、拳が空を切る無形を有形と捉える皇帝の覇気は反射の壁をも貫き、剥き出しの生身を押し潰す。
玉砕確定の暴威から主を守護したのは、元の世界からつき従い、忠義を尽くした仲魔だった。
勇者の精神は大和に降りかかる痛打を身を挺して引き受け、己の上半身が泣き別れになって吹き飛ばされるのを代償に主命を守り通した。
即死こそ免れたが、守護の上からでも大和に伝わった振動は五臓が破裂しかねないほど強力無比。
限界まで肉体強化の術をかけていても耐えられなかった大和の全身から血が吹き出す。かつてない大打撃に眼光が翳る。
「───近づいたぞ」
否。翳りに見えたのは、眦に秘めた決意の表出。
口内に満ちる血の味がする泡を噛み締め、仲魔の身を捧げておのが身を死地に送る。
大和では
カイドウ、おでんらと近接戦を演じられない。必ず距離を取る。
長引く戦いで自然と刷り込まれた認識。その空白地帯こそが奥の手を開陳する好機。
手に握られる光の槍は、果たしてロンゴミニアドとは違っていた。
ベルゼバブの宝具の一部では
カイドウの表皮を浅く裂くのが関の山。
ではどうするかといえば───煎じ詰めれば、答えは明白。
「くれてやる。貴様らが求めてやまなかったものだ」
長さは以前の疑似宝具と大差なし。
外見は、黄金を湛える異形へと変じている。
細かな細工は龍を象っており、首を数珠つなぎにしたかのような意匠が施されている。
そして……目に見える最大の変化。
龍体の
カイドウですら超えていた、龍型の召喚獣の巨体が、港区から影も形もなくなっていた。
「お前、ソイツは龍脈の……!」
今しがた見せた、ロンゴミニアドの砲列に付与した応用。
龍脈の魔力を一本の槍に収束。極大の一撃にして使い捨てる。
派手に目立つ大仰さで龍脈を発動したのも、全てはこれの工程から目を逸らさせる布石。
龍核装填/龍を縫い付ける矛。
仮称宝具『天之逆鉾(あまのさかほこ)』。
対軍・対城レベルの宝具出力を対人用に再調整した、真なる切り札。
フェイントの織り交ぜない、直線の突き。
侍や四皇に及ばなくとも、その速度は瞬息。
身につけた武芸を信念と併せて放たれた槍は、
カイドウの胸板に振れるや否や、何の抵抗もなく吸い込まれる。
殺せる。この槍が貫けば、
カイドウといえど死に至らしめる。
死が沈み込み、心臓めがけて突き進む──────────────ものの。
「ッガァアアア!!」
与えられた特権を惜しげもなく利用し動かした体躯で、あらん限りの蹴りを大和に入れた。
「……っ!」
テトラカーンの加護もケルベロスの献身も失くした大和に、これを耐える術はない。
木枯しに吹かれる木の葉も同然に宙に浮き、地面に落ちても無様に転がり回って瓦礫に激突した。
極槍が、内蔵した魔力を解放しないまま地に刺さる。
「カイドォォオオオオオウッ!」
「来るか……おでぇんっっ!!」
陥落した王者に目もくれず、
カイドウは仁王立つおでんへと吶喊する。
そうだ、終幕を飾るのはこの男でなくてはならない。
固執妄執の破壊の念が、男との対決に衝き動かす。
あの以来、夢見てきた。
悪夢になって出てきた日もあった。
腹に括った一本の槍を挫く、乾いた勝利。釜の栓が抜かれ、飲めど汲めども喉は潤わず。
世界中の海水を溜めた風呂に身投げでもしなければ満たされなかった渇望が、今日、終わるのだ。
歓びをもって迎えよう。無上の悦を味わおう。自分は、今、生きているのだと、杯を飲み干して謳おう。
先手は
カイドウ。
培われた武勇がそのまま威力に置き換えられる、幻想と現実が融和した龍人体。
受け取れ光月。茹で釜から這い出た侍に送る冥土の土産だ。
これが我が力。我が速度。我が武装。我が覇気。我が全て……!!
「”大威徳雷鳴八卦”!!」
最大最速最強威力。
疲弊という概念を忘れてしまった、最終局面での計測更新。
生涯を戦いに明け暮れた猛者がただ一度振るえるかどうかの至高の一閃を、最後の最後になって引き当てた。
覇王に相応しい豪運、四皇の称号の面目躍如。
おでんは避けない。
一敗地に塗れさせた前回の焼き直し。あらゆる回避は間に合わない。
そう、元より───避けるつもりは毛頭ない。
人体が出せる音ではない破滅が鳴る。
間違いなく会心の手応えが腕に伝わる。しかし
カイドウは腕を振り切れない。
愛用の八斎戒は止まっていた。
山脈ごと吹き飛ばせる轟撃が、たったの人間ひとりをその場から動かせないでいる。
(受けただと……!?)
「おでんの呼吸、締(しめ)ノ具材!!!」
黒炭オロチに人質を取られた事で醜態を晒し、民衆に見捨てられた侍に付き従った赤鞘衆。
二十年の時を超え勢ぞろいし積年の討ち入りを果たしても、当時のおでんに敵わない程度の力量。
取るに足らないと断じた、おでんの幻影を背負った侍達が、今度はおでんの肩に手を置く幻影となって表れている。
言わずとも感じている。
言葉でも気配でもない、魂の震えでおでんは背中に立つ影に気づいた。
こんなとこまでわざわざ来てくれたか。まったく誰に似たバカなのか。
朦朧した意識で見た幻覚だとして、だからどうしたというのか。それで力が漲ってくるのなら万々歳だ。
さあ、それでは御覧じろ。
食らえ龍王。この一撃を以て共に冥土に落ちようぞ。
我が生涯。我が士道。我が刀。我が侍。
これぞ、我らの武勇譚!
「常世武業・須佐之男(とこよぶぎょう・すさのお)ォォ!!!」
狙うは一点。
愚直に打ち続けてきた同じ箇所。過去の轍の十字傷。
一度の技で倒せないのなら、重ねてしまえばいい。
傷を開くのではない。深く、より深く穿孔させる。
斬撃の範囲は刃渡りだけ。はち切れる寸前まで圧縮された覇気が、遥か天上の片隅で起こる超新星の爆発を生む。
……友はこの事を知っていたのだろうか。
敵を屠るのに大仰な技は必要ない。
首を断つ、ただ一刀があればいい。
血まみれの視界と意識で、ふとそう思った。
「■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーーーー!」
血の声が上がる。
ワノ国の総意が凝縮された奥義は、簡素な素振り。
基本に即した袈裟斬りは、砲弾を弾く龍鱗と、鋼を超える繊維で編まれた筋肉と、名刀魔剣を通さぬ骨を残らず断ち、中枢の心臓に刃を押し当てた。
出血は最小限。ついた傷痕はこれまでの激戦では埋没するほど目立たぬ小ささ。
なれど与えた損害(いたみ)は、過去に例のない最高地点に到達した。
「■■■■■■■■■■……! ■■■■ア、■アアアアアアアッ!!」
それでも、魔龍は止まらない。
魂を割る致命の傷を前にし、逆に抗わんと激憤を張り出す。
効いた。これは最強に効いた。
匹敵するのは、己の伝説を破った、新時代の小僧の渾身の拳ぐらいだ。
治療がなければ、遠からず死ぬだろう。実感として理解できる。おでんの全魂の斬撃なのだから。
だが───今ではない。
ではないのならば、幾らでも引き延ばそう。
最小の傷で最大の破壊をもたらすという事は、肉体そのものはまだ動く。その間に、補給を済まらせればいい。
念話の応答がない皮下から令呪の支援は期待できなくとも、もっと間近で手に入るアテはある。
基底状態から励起に移った龍脈という、すんでのところで散財されなかった宝が。
動力を壊され、停止が秒読みに近づこうとも、それさえクリアすれば死を乗り越えられる……!
「おれの勝ちだ、おでぇぇぇええええん!!」
おでんは直前の受け身と、全精力を注いだ奥義を放った直後で身動きひとつ取れず。
大和は龍脈の槍を杖に立ち上がり、龍脈をいち早く解放しようとするが間に合わない。
勝利の雄叫びを制する声は上がらず、海賊の簒奪はここに成る。
「なんだ、まだチンタラ戦ってんのかよ」
◆
『えーと、みんなと話し合った結果、やっぱり好き放題に暴れさせちゃうのはよくないなーってことになりまして』
「おお」
『お願いが通るんでしたら、渋谷に出てきたおっきなお城をなんとかして下さいっていうのが、こちらの提案です』
「ヴィランに人助けを頼むかよ普通。頭がユルイのかイカれてんのか判別つかねぇな」
『あまのじゃく、ですね。でもあのお城って、東京タワーの方で暴れてるひとのものですよね。
こっちを先に止めないと、結局マズイんじゃないですか』
「ああ……一理あるな。じゃあうちの戦力をひとつ出す。ていうか俺以外に使えるのソイツしかいねえしな」
『……そっちもけっこうボロボロなんですねー。だからもうひとつ欲しいなんてワガママするんですか。
霊脈なんてパワースポットに旗を立てたら勝ちー、なんて単純な話じゃないですし』
「あ? あー…………」
『?』
「あー、あーあーあー………………………………そういや、そうだっけ」
『あの……?』
「ありがとな、アイドル」
『え、ちょ、なんですか』
「思い出したよ、最初の気分ってやつを。そうだよ、陣取りゲームなんざ趣味じゃねえ。
やっぱりここは、スッキリさせとかないとなあ」
◆
「えーと、あったあった。これか、『座標』」
空を飛ぶ。
足を地に着かず、手を壁につけず、何もない場所を浮かぶ。
世界の悪意も、誰かへの憎しみも持たなかった、幼い過去。
そんな空想の絵空事、選ばれた『個性』を持って生まれないと叶わない夢を、幼心に抱いていた頃がある。
悪意を知り、憎しみを覚え、『個性』を自覚しても。
空は飛べず、地を這うようにして歩く日々。
頭の中を掻き毟る鬱屈と吐き気を堪える毎日。
それが終わり、こうして飛べる体になって図らずも幼い夢を実現できて、思う。
なるほど、これは気持ちがいい。
背中に炎を貼り付けてないといけないというのは少し窮屈だけど、これでも自分の一部なんだから我慢できるし。
上も下も左右にも、遮るものが何もないというのは、気分がいい。
けれどどこか落ち着かない。
飛ぶのは慣れてないにしても、体の見えない部分がむずむずとする。
せっかく自由を満喫できるのにこれでは台無しだと、どうしてかと考えてみる。
すると、ああ、理由はそこにあった。
届かないし触れられないぐらい遠いのに、地平線を隠してもいないのに。
下にある街並みを見るだけで───こんなにも苛々する。
「なぁ海賊共。それと王様」
空を抜ける。
切り分けた魂、焔を燃やすホーミーズから足を離し、雲を裂いて地に落ちて行く。
「お前らの欲しいもんは、俺が跡形もなく崩壊(こわ)してやるよ」
頬を切る風の心地よさを感じながら。
突っ切る全身に胸を踊らせながら。
「見果てぬ夢は叶わない」
手が──────────。
伸びる─────────。
「残 念 だ っ た な あ !」
おれ/ぼくの声が。
あらゆる音を引き裂いて、崩す。
東京都港区増上寺。全長333メートルの電波塔、東京タワーの天辺が。
瞬時に、輪郭を崩す。
触れたのは、ひび割れた、白い手だ。
枯れ木のように乾いている指は、触れたものの水分を全て吸収してしまうように。
崩す。崩す。崩す。崩す。崩す。崩す。
元の形が何であったかさえ認識できない。
ばらばらの破片に至るまで、刹那の間に。
「は、は」
───笑い声。
あらゆる苦悩から解放された、混沌(じゆう)を謳う、真白い姿。
「はははははははははは」
ドンドットット。ドンドットット。
心臓の鼓動は楽しげにリズムを刻む。
「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
魔王の後継など仮初の記号。
ここに在るのは新世代。秩序(LAW)も中立(NEUTRAL)も飲み干す混沌(CHAOS)の化身。
東京タワー、崩壊。
界聖杯内界・東京都にある巨大霊地が砕け散る。
聖杯戦争の趨勢を担う魔法陣。その地下が刹那、消滅する。
残るものは何もない。
因縁も、宿敵も、何もかもが彼方へと消え去っていく──────────
◆
鮮血、絶叫、薬莢。断罪。
ある少女と紳士の逆襲撃を目の当たりにして狼狽の熱冷めやらぬ霧子に、執行を終えたメロウは足早に近づいた。
「
幽谷霧子……で合ってるな? 俺はアーチャー、
田中摩美々のサーヴァントだ。……元は七草にちかのサーヴァントだがな」
「摩美々ちゃんの……? あれ、でも摩美々ちゃんは……」
疑問を抱く霧子に有無を言わさず、メロウは腕をつかんで連れて行こうとする。
「悪いが話をする時間はあまりない。急いでここを離れないといけない」
「あ……待って下さい……! さっき……どこかから梨花ちゃんの……お友達の声がして……」
「……ここに来ているのか? さっきの声がそうなら確かにまだ近くにいるが……くそ、間に合うか────?」
新たに舞い込んだ要救助者の報せにメロウは頭を悩ませる。
彼は知っている。ここはもう時間がないと、マスターから知らされている。
近く崩壊する定めとなる霊地のある場所を、経験則と直感を元に潜入を敢行。
果たして読みは当たり、リンボの簒奪を未然に防げたが、霧子との遭遇、そして梨花の安否という方舟の指針に関わる案件まで揃うとは。
地獄の戦地を練り歩いたメロウの最も冷酷な部分が、このまま霧子のみを助けるべきだと順位に優劣をつける。
つけようとしたが、止まる。
「…………」
無言のまま、徒手の構えを解かず。
どう見ても敵でしかない関係で、複数の主従に睨まれて、リンボを喪い孤軍となっても、
猗窩座の戦いへの意志は消えてなかった。
「また会ったな。だが俺は、今お前に用はないんだ。そのマスターにもな」
「ああ、だろうな。お前は救う者の目でもない。撃つ時には撃てる、戦士の目をしている」
深夜の公園での面識があるメロウが言葉を紡ぐ。その声は冷淡だった。
283プロのアイドルが
プロデューサーをどれだけ慕い、擁護しようが、メロウにとっての
プロデューサーとは、自身の最初のマスターである『七草にちか』を死に至らしめた『共犯者』だ。
直接的でなかろうと、脅迫や精神的状態を斟酌しようとも、ランサーをけしかけリンボの兇手がにちかを手にかける一助を担った事実には間違いない。
方舟の陣営の、アイドルのサーヴァントの中で、彼は最も『いざという時』の選択を念頭に入れていた。
方舟の方針とマスター達の手前積極的に害する気はないが、翻せばそれ以上の、出過ぎた真似をしないということでもある。
「俺のマスターからビッグ・マムとそのマスター……海賊同盟の片割れが死んだと報告があった。
そっちの目論見もご破算だろう。ここに長居しても得るものはない。すぐにマスターを抱えて逃げた方がいい。
その後どうするか、ちゃんと話しておくことだな」
なのでここでは、とにかく命を繋げという撤退勧告に留める。
加えて、
プロデューサーが寝返りを打った最大要因であろう殺し屋の壊滅も伝え、こちら側につくお膳立てもする。
メロウ個人でいえば危険が去ったからといってあっさり出戻りする男を迎えるのは気持ちのいい話ではないが、それこそ感傷というもの。
「関係はない。いずれ倒す敵が減ったとなればむしろ都合がいい。『ここ』の恩恵を専有する手間が省ける」
同様にそれを、より深く認知している
猗窩座は、提案を撥ね付ける以外にない。
プロデューサーから撤退の指令は下っていない。
ビッグ・マムが落ちたという報せは流石に肝を冷やす事態だが、だからこそそこには閉じていた光明が差す。
首尾よく陣地を奪い取っても両巨頭か、それともリンボのどちらかが独占して譲らないだろう龍脈の仕様権が宙に浮いている。
状況は四面楚歌。だが勝算のあるなしなど最初から考えていない。そんな利口な頭であったなら、彼は今こうなってないし、ここにいもしないのだから。
甚爾が、アビゲイルが、僅かに身構える。
語るまでもない分かりきった結末。鬼の残骸が骸すら残さず消える時を待たずして。
「……待って……ください……」
おずおずと、控えめな、小さな声。
けれどはっきりとした意志の宿った言葉が、全員の耳に届けられた。
制するメロウの手を優しく解いて、一歩進む。
猗窩座にも、何処かに潜む
プロデューサーにもまだ届かない。ただ、意味がある。
「もう一度……もう一度だけ、
プロデューサーさんと……お話を……させてくれませんか……」
この場に集う者の中で、誰よりも戦う術を持たない少女はこの一時のみ、誰よりもこの場の中心に位置していた。
「下がれ、女。奴に語るべきことは語った筈だ」
断とした拒絶が無情にも突き返される。
「これ以上、奴には何も届かない。その為の時間もない。気遣うというのならこれ以上、奴に無為な浪費をさせるな」
───身を震わせて希う、雪の結晶を思わせる、白い女。
どこで見たわけでもない懐古を振り落とし、僅かに乗った感情の残滓を漂わせつつも、要求を跳ね除ける。
猗窩座の言葉はそのまま
プロデューサーの意志と受け取られる。拳を血で濡らし、命を散華させた凶行も、
猗窩座と咎を共有される。
そうして罪を背負わなければ、息をするだけでも苦しいから。
命の環から外れた者は、もう生きてさえいないから。
咎人という免罪符で目を逸らす言い訳でも、直視すれば真実、死に至らしめる程の疵なのだから。逃げ道なく突きつけられる場面までは、覆い被せるしかない。
「…………それでも…………」
祈りの在り処を探すだけの時間は
プロデューサーにはなく、命の灯火が尽きかけている。
あの時そう嘯かれて、そこで言葉は止まってしまった。
「幸せも……お祈りも……歩いては……こないから……」
今は、少し違う。
知っていることと、知らないこと。
プロデューサーに纏わる多くの事柄を知ってしまった、今は。
過ごした時間でいうなら、
猗窩座は誰よりも
プロデューサーの理解者だといえる。
彼の絶望を知って否定せず傍らにつき、矯正も促しもせず、彼の意を汲む。
その殉教こそが、今の男には必要なのかもしれない。地獄の道先を案内する役こそが求められる任なのかもしれない。
けれど、人は現在(イマ)だけで形作られていない。
未来を描くのは、いつだって過去の記憶が礎となる。
この
幽谷霧子は、この
プロデューサーの絶望を知らない。
正しい歴史。折れ曲がり先のなくなった過去のない、汎用なる事象。
歯車の抜けたアンティーカでないこの霧子はまっとうに正調であると同時に、界聖杯では異端の存在だ。
彼女と同じ時を、同じ視線を持ったアイドルは、この世界にいない。
失意のない日々。輝くままの翼。
望まぬ姿に変わり翼を手折られた男に寄り添うには、足りないのかもしれない。
それでも。
それでも、いいと思う。
「寄り添えなくても……思いを……分かち合えなくても……一緒には……いられなくても……」
「聞かせてくれた……
プロデューサーさんの言葉……お祈りを……届けられれば……。
プロデューサーさんの……行きたいとこへ……送ってあげることが……わたしの、できることなんだって……思うんです……」
心の問いに正解は用意されていない。
自分の声が正しく報われる保証は、どこにも置いてない。
伝えることを怖がっていたら、何が間違ってるのかもわからなくなってしまう。
だから答えを出すことを恐れないで。足りないものは、一緒に補うから。
その言葉を、憶えている。
霧子は諦めずに答えた。
過去の彼を信じるのと同じように、現在の彼を信じる。
中間でどうしようもない断絶があろうとも、過去に意味がなくなるなんてことはない。
昔の言葉は生きている誰かに届く時、そこで再び生き返る。
名前も知らない誰かが残していった、物語のように。
「…………」
今度は、
猗窩座は答えなかった。
中継する
プロデューサーは言葉を失っていて代弁はなく、
猗窩座自身が語るべき心情はない。
ああ、いつ死ぬとも知れぬ身に当たり前の言葉を送り続けることの、なんと残酷で希望に満ちたことか。
そういう心情を、棚奥にしまい込むのみだ。
斯くして、時間は過ぎ去る。
説得の成否はともかくとして、戦いを継続できる猶予はこれで失われた。
猗窩座と
プロデューサーに戦闘意欲があっても、後は逃げるしかない。それはもう決まっている。
銀糸の祝福の成就、偶像と導き手の対面は捉える楔を打ち込んで持ち越される。
───呪いが、廻らなければ。
「【悪霊左府】──────────!」
「なに……っ!?」
瞠目し振り返る。
メロウが見たのは、暗闇に昇る黒き太陽。その上部で手を招く烏帽子の怨霊。
万能を叶える泉の地脈を片腹痛しと笑い叫ぶ、殺すしか能のない呪いの泥沼。
泉に毒を投げ入れる悪行の下手人など、この男を置いて他にいまい。
突き刺したパイルバンカーに胸部を抉られていながら、リンボは宝具を行使していた。
霊核である心臓を破壊され、本来なら退去を始めていなければおかしいのに。
仰向けのまま指を組み、血走る目と吐き出す口で殺意を表明する貌は今にも死ぬる亡霊のそれではない。
決して、貴様らを許さぬ。
必ず、殺す。
そうした意志のみで退去を拒み現世にへばりつく。
何という執念。何という負に徹した精神力。
これぞ
蘆屋道満。千年王城に潜みし魑魅魍魎を束ねる悪なる者の代名詞、アルターエゴ・リンボ!
悪辣の極み、怖気を走らせる呪の津波が押し寄せる。
今まさに貯蔵された魔力が汲み上げられ、ここではない何処かへ転送されようとする龍脈を、己色に染め上げんと広がり満ちる。
しかし宝具が及ぼす影響を目で見た者は誰もいなかった。それよりも早く、地下空洞内には破滅的な亀裂が入る。
「……クソッ!」
時間が切れだ。
呪詛の広がりを、漂白が上塗りする
崩落の、時が来た。
天蓋が、抜ける。
罅割れて砂塵を流す地下空間。
遮断されていた外の日差しが露わとなり、音も、色も、空魚の認識の全てが純白に染められる最後。
「─────────────────」
そこで、空魚は見た。
脱兎の如く走って自分を掴みに来る甚爾。
流れる自身の血を媒介に魔法陣に触れ、そこから抽出した魔力を結晶化させるリンボ。
その接続を打ち抜き、光芒に直接手を突き入れる
猗窩座。
必死に戻ろうとする霧子を背に抱えて、一目散に扉へ駆け出すメロウ。
───どれも、一切目に入らない。
「鳥子?」
見ているのは、一人だけ。
さっきまで肩が触れ合うぐらい隣にいたのに、今は少しだけ前に立っている金砂の髪。
空魚の共犯者。空魚の相棒。
「────────────」
その鳥子が、空魚の体を手で突き出して何かを言った。
天井が落ちてくる音で、声は聞こえない。
「マスター? 今の令呪は───?」
封切られた魔力を受けたアビゲイルは、伝わった内容に目を白黒させる。
空魚には、聞こえない。
「空魚」
自分を呼ぶ愛しい声に耳が震える。
この音だけは聞き逃したくないと集音が一極化する。
空魚の方を見て、鳥子は微笑んだ。
見たこともないぐらい、綺麗な顔。
その下の服には赤い、血のような赤い華紋が。
「負けないでね」
「鳥子……」
ばちゅん、と。何かが破裂した音を聞いた。
水袋を地面に叩きつけて中身が晒されたような。
目と耳を離さないでいた、鳥子から、そんな音が、して。
「どりっ」
遮断、断裂、暗転。
音も光も落ちる。
もう、何も聞こえない。
◆
「『
峰津院大和が龍脈を開いた直後に個性を使用し、接続した相手諸共土地を崩壊させる』。
以上が私の提示したプランだ」
「このプランの第一の有効性は、『龍脈を破壊する』という方向性の目的を持った参加者という不穏因子(イレギュラー)を、戦線に投入できる点にある。
「海賊同盟も、方舟も、その他陣営も。
『峰津院が確保する龍脈を奪えば勝利に大きく近づく』のを共通認識として、この戦線は開かれた。
持てば勝てる───というのは、峰津院のように龍脈を最大効率で操作する魔術の心得がない限り過大ではあるが、魔力というものはあればあるほど有利になる。
峰津院とて、都内にある有数の霊地を押さえてるからこそ、法外な魔力消費量のランサーを枷なく戦わせながら、自身も魔力を使用するという離れ業が可能なのだろうしね」
「そして、第二の要素こそ最大の有効性。
『接触した物質を崩壊させ、連鎖的に崩壊を侵食する能力』を持った、我がマスター、
死柄木弔だ」
「これについて、峰津院はまったくの無知ではない。
マスターとは既に電話で言葉を交わし、連合の隠れ蓑だと突き止めたデトラネット系列の会社付近で、『崩壊』の事例も報告を受けているだろう。
結びつければ、連合には戦略破壊兵器級の宝具、ないし能力持ちがいるのを予測するのは難しくはなかった筈だ」
「だが彼は、『これ』をする事は無いと考えていただろう。何故ならば───連合には私(モリアーティ)がいる」
「自身を出し抜いた参謀、犯罪界の皇帝。私が連合の作戦指揮を担ってる以上、霊地という旨味の引き出し方が数しれない利益を破棄するプランは練らないと括っていた。
死柄木弔の意思を最大限活かす。この方向に舵取りをしている事を読み取れずに」
「『崩壊』の個性が魔力形質にも影響を及ぼす事は証明済み。
大地に流れるエネルギーを一点に集約させる龍脈の中心に彼が触れれば、土地の魔力は無論、その『接続先』にも伝播されるだろう」
「これはこれで、霊地を放棄してでも実行する価値はある。
魔力という餌に釣られ、各地に散らばっていた陣営が一堂に会したところで、餌そのものを爆弾に変えて諸共に吹き飛ばす。
霊地を『勝利の手段』ではなく『勝利条件そのもの』と履き違えた相手ほど、この詐術に引っかかる」
「これは賭けだ。策と呼ぶには、綱渡りを要する場面が多すぎる」
「真正面から陣に向かったとて門前払いだ。戦闘が始まれば土地狙いどころではない。
直接戦闘を避けて標的に到達するには、長距離からピンポイトでの精密狙撃……私の宝具が必要となる。しかも弾丸はマスターでなくては意味がない。マスターを弾にしてぶっ放すサーヴァントって何だろうネ?
なので令呪を使ってマスターを弾丸として扱うよう宝具を加工する予定だったのだが……それは杞憂に終わったわけだ」
「もっとも難しいのは、タイミングだ。まず龍脈の使用を踏み切らせるまで彼らを追い詰めるという工程が途轍もなく重い。しかも我らの介入なしで、だ。
早すぎれば迎撃される。よしんば土地殺しを達成しても、峰津院とそのサーヴァントが健在なら、霊脈の加護なしで討たなくてはならない。
かといって遅すぎれば、土地のバックアップを受けて完全無欠と化した峰津院の前に、あえなく撃墜される」
「これはもう計算で弾き出せる数字じゃない。戦場の機を味方につける、天運と呼ばれる補正を身につけなくてはならない。
後の結果は……この通りというわけサ」
「……」
「すまないね、オール・フォー・ワン」
「他人の生徒を横から掠め取るだなんて真似は、本来なら私らしくもない犯罪(こと)だ。悪の枢機ではなく大学の教授の見地として外法と謗られるべき行いだ」
「だが君、彼を使い潰す気でいるだろう?」
「肉体(ハード)のスペアにするか精神(ソフト)を乗っ取るか……後継といいつつ自分好みの色に染め上げる計画なのだろう?」
「させんよ。サーヴァントは、マスターを守るものだ」
「悪を任ずる姓において、私は彼の全てを擁護する。君は真に自由を獲得した、混沌の化身の帰還を待つといい」
「この世界の破壊を終えた彼を見て、君が何を感じ、何を思うか」
「ビックリ箱(ジャック・イン・ザ・ボックス)が開かれる瞬間を、ここで鑑賞させてもらうとしよう」
◆
完璧な不意討ちだった『崩壊』の波を見て、大和は己の敗北を悟った。
龍脈に溢れる魔力を抽出し、大和と
ベルゼバブに供給ラインを接続しようとした最中の強襲。
外から触れた手は、タワー全体を一瞬で崩壊。地下にある龍脈制御の魔法陣、龍脈そのものにまで及んで徹底的に蹂躙した。
龍脈と、触れた地点を物理的に崩壊させる『土地殺し』との相性は極悪過ぎた。
結果、大和が受け取りかけたのは『自在に操れる無限の魔力』ではない『崩壊の性質を持った魔力』だ。
着色概念のされてない、純粋な力の塊であるのが仇になった。あの瞬間、澄んだ清水は水源を汚染された濁った毒に変わってしまっていたのだ。
毒に気づいた大和は、即座に龍脈との接続をシャットダウン。
だが少量は既に体に入ってしまい、体の内側で細胞の崩れるのを激痛で感じ取った。
毒物を接種した際の対応マニュアルを参考に、体内の魔力で一気に毒素を排出して事なきを得たものの、強制遮断で乱脈に陥った回路は魔力の生成を一時的にストップしてしまい、大和は崩壊を続ける大地にひとり、取り残される羽目となる。
以上の情報整理と状態確認を脳内5秒で終わらせ、自らの手詰まりを大人しく受け入れた。
魔術なき身では大和といえど常人の範疇の肉体能力しかない。補える仲魔も勝利の礎としてしまった。
無論、口惜しい。計り知れないほどの無念さに臍を噛む。
大和は世界を背負っていた。たとえ世界中の人間が知らずとも、崩壊する世界の命運を懸けて戦いの準備を進めてきた。
歴史に稀代の虐殺者として名を刻まれるのも厭わない、腐る荒れ地を黄金の果樹に変えてみせると理想を志した。
その理想もここで潰える。このどことも知れぬ異邦の地での戦いで。
望まざる戦場へ拐かされた悲運を嘆きはしないし、罠にはめた敵を恨みもしない。
争いは常にどのような形でも起こるもの。戦いは相手が上手だっただけのこと。
番外戦術のきらいはあるにせよ、少数単騎で可能にするだけの力をあちらは持ち、大和はそれに負けた。
真に平等な実力主義。掲げた信念に殉ずる死であれば、無念は尽きずとも後悔は持ってはいけない。
だから大和はこの結末に納得している。
戦いの結果に難癖つけて恣意に変更するなど、それこそプライドが許さない。
あるのは、もう大和の生きる世界を救う手段はない、ダストデータと判断した管理者の手で、何もわからぬまま消える宇宙への憂いだけ。
敗者は敗者らしく、叶わぬ理想を抱いて消えるのが道理である筈だ。
大和はもう、負けた者は潔く死すべき筈だ。
なのに、
「ぬ"ぅ"ぉ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"~~~~!!!」
敗者が受ける洗礼を、守護の盾となって立ちはだかる偉丈夫が引き受けていた。
「貴様……
光月おでん……! 何のつもりだ!」
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!」
叫ぶ。
自分の体がばらばらに砕け、塵になる痛みと恐怖に、おでんはたまらず声を張り上げる。
叫びながら、大和を上に抱えて崩壊の範囲外から逃がそうと、遅々としながらも歩み続けている。
「馬鹿が……貴様ひとりなら逃げ出す余力も残っていただろうに……」
「お前は死なせねぇ! 性根を叩き直すっつったろうが!」
『崩壊』はおでんの下半身を覆い、その機能を破壊し尽くしている。
細胞の組成を壊し、分子の結合を解き、ミクロ単位になるまで分解の波動を浴びせる。
なのに、おでんの足は動いている。
牛歩の速さでも、僅かに、少しずつ前進している。
そもそも、『崩壊』を受けた時点で全身に転移してなければおかしい筈なのに。
覚醒を果たし、龍脈で大幅に底上げされた、サーヴァントすら滅する波濤の中で、おでんの上半身と、その腕に持ち上げられる大和だけが無傷だ。
分からない。
大和には何故おでんがこんな無意味を仕出かしてるのか理解ができない。体より先に脳細胞が壊れたのか。
助けたところで何の利も出ないのに。利を得られるおでんはすぐ死ぬというのに。
「いいから離せ! この期に及んで情けなど───!」
「王道とは、死にあらず!」
「……!?」
白濁する半身を、熱湯の風呂釜にでも浸かってるかのように気に留めず。
戦いでも聞かなかった威厳ある喝破が耳をつんざいた。
「武士道とは死ぬことと見つけたり───剣士であれば前のめりで倒れて死ぬるは本懐!
だがお前は王! 理想は生きてこそ叶えられる!」
「何を……」
「『お前は凄いやつだ』って言ってるんだよ!
おでんの味も知らねえ奴が世界だなんだと言いやがって……! ドデカい器が勿体ねえ! それがこんなところで割れてどうする!」
言ってから、上半身と腕の筋肉だけで大和を上空高く投げ飛ばす。
崩壊の範囲外からは脱出するも、未だ不調が復帰しない身では身体強化はおろか重力制御での速度低下も使えない。
「任せたぜ!!」
「……っ請け負った!」
そのまま落ちるしかない空中で、誰かの腕に抱えられた。
他ならぬおでんに離脱させられ、銀炎をたなびかせて今また舞い戻ってきた
アシュレイ・ホライゾンだ。
「こいつもくれてやらあ! 三途の渡し賃にはちと高すぎるんでな!
黒い方は六つ目のバカ兄貴にでも渡しとけ! 得物の違いで道ってのは変わるもんだってな!」
投げ渡された二振りの刀を掴み、一言で全てを了解したアシュレイは進行方向を反転させる。
助けられるものなら、おでんも助けたい。
見ず知らずの他人からの頼みを快諾して、最後の最後まで戦い抜いてくれた益荒男に報いたい。
だが状況を見れば如何に救助が絶望的であるか分かり……なおかつおでんが託したものの意味を見れば、すぐにでも離れざるを得ない。
顔を合わせてろくに話す機会もなかった武侠(おとこ)に、あらん限りの敬意を込めて踵を返して現場を去る。
飛び去るアシュレイが受け取るのを見届けた直後、おでんの胸板に亀裂が入り、崩壊が加速を始めた。
ここまで持ち堪えたのが冗談のような奇跡。未来の器を逃した事でそれも使い果たし、本来あるべき姿に変わっていく。
顔面に線が走るのも構わず、おでんはますます高らかに鬨の声を上げる。
「逃げも負けも幾らでも味わえ! 苦み渋みも出汁にしてこそ人生よ! そうして最後に立っていれば、最高のおでんの具になれる!!
おれはお前らに張った! 賭けた! だから気にせず、最後まで突っ走りやがれ!!」
目眩のような暗転。
砂塵の嵐が吹き荒れ視界が閉ざされる。それが最後。
方舟のサーヴァントと大和が見た、
光月おでんの最後の勇姿だった。
■
壊れる音が聞こえなくなって、ようやく死柄木は俯いていた顔を上げた。
清々しい気分だ。
こんなにも腹の底から笑えたのは、生まれて初めてかもしれない。
自己の存在という定礎。俺は生きてここにいるのだと、証を残せた達成感。
ヒーローでもヴィランでも、必ず抱えているフラストレーション。
生まれ持った『個性』を遠慮なく発散させられた者だけが味わえる爽快さを、ようやく実感できた。
今なら賢者の領域にだって立てる気さえする。
「オ"エ"ッ」
白一面に、生々しい黄土色が落ちる。
『個性』使用の反動ではない。指は爪の先すら剥がれていない。
肉体の強度は完成(マスターピース)に至っていても、変化自体に細胞が追いつけていない。
『自分と全く異なる能力を手に入れる』ための下地は出来ているが、調整も準備期間も一足飛びにした、生き肝の踊り食い。
ようは食あたりだ。死柄木にしても悪食の自覚は、ある。
「……ま、まだまだ成長期だ。そのうち消化できるだろ」
心地のいい砂の感触を素足で楽しむ。
動くものは誰もいない。
形あるものは何もない。
周りの建造物は軒並み砂塵。
区の一帯は丸ごと更地に均された。
地平線の遥かまでとはいかないが、遮るものが消えて遠くまで見通せるのは、とても気持ちがいい。
「……へえ」
砂埃の中で見つけた影に、目を細める。
近づくと、それは石灰で出来た彫像のようだった。
人間の微細な表情までを余さず象った、見事な細工。
死柄木の知識にはないが、古代の遺跡にある、都市に流れ込んだ溶岩に焼かれた遺体とは、こういう形をしていたのだろう。
全身を溶かされ、火山灰で肺を焦がされる断末魔の瞬間を残したそれとは、目の前の像はだいぶ違って見えるけれど。
その顔には───。
恐れも、恥も、みな無縁。
腕を組み仁王立つ姿は威風堂々。肌着一枚着けてない裸身には、"おどけ"も寄りつかず吹き飛ばす。
為すべきことを為した者。人生に"逃げ傷"を負わずに終えられた者だけが浮かべられる男の顔。
「カッコいいな、ヒーロー」
嗤いは起きなかった。
折角の景観を損ねられたという気はせず、これはこれで悪くないと思う。
証拠はないが、確信はある。コイツは、そうする奴だと。
たとえ初見でも、自分の敵だと理解したから。
死柄木が壊そうとしたものを、吠え面をかかせて殺してやりたかった連中を、我が身を呈して守ったのだろう男に。
惜しみなく、偽りない賞賛を送る。
死柄木と男の間に、一迅の風が吹いた。
風は砂を巻き上げながら、一緒に男もさらって行く。
灰だけになった体を崩しながら。
春に舞う、大輪の桜の花弁のように、ふわり、ふわりと。
「……でも、お前が守ったもんも、俺はみんな壊すよ」
やってみなと、灰ノ中から笑い声が聞こえた気がした。
───辞世の句を二度も歌う無粋は冒さない。
釜の底ではなく、空の彼方へと。
遠く、地平線を越えて散っていく。
もうこれ以上掴めなくなった塵が消えて見えなくなるまで、死柄木はずっと眺め続けていた。
【光月おでん@ONEPIECE 死亡】
◆
魔星は墜ちた。
我意のみで万象を貪食する混沌王は、自らの業を種として燃え尽き、蒼い空に還っていった。
「ぁ───は、は────は──────」
猛烈に襲いかかった虚脱感で膝から崩れ落ちる。
呼吸が荒く、心臓は破裂寸前になるまで躍起に飛び跳ねている。
人間らしく振る舞う体調の急変に戸惑う。今や人間より鬼として生きてきた時間が数百倍だ。
生きている────そんな当たり前の事が、ひどく鮮烈に感じる。
最後の一瞬の交差。
技に血を込める発想も出てこないほど自我は希釈されていた。
触れただけで肉が腐る不死を死なす黒威が風に乗って掠めるのも目に入らない。
前へ。ただ前へ。
思考は純化し、無我へと濾過され。
そうでもしなければ、一迅が首皮を削ぎ腐食が腹を爛れさせる、あの暴風圏に入ろうとする気さえ起きなかっただろう。
手足は復元を終えている。混沌が死し、不死殺しの呪いが解除されたのだろう。
だが繕えたのは見た目だけだ。消耗した体力だけはまだ戻ってこない。どこかで補充する必要がある。
暗黒だった地面に、少しずつ景色が鮮明さを取り戻す
特異点が消えた事で、裏側に隠れていた太陽も現実に復帰しつつある。
既に朝日が出ている時分。一刻も早くこの場を離れ日陰に行かなくては。
「縁──────」
急速を欲する足に鞭打ち立ち上がり、そこにいる弟にふと目が行き───口が止まった。
……先程の
黒死牟が枯れ木なら、縁壱は実像から取り残された影だ。
とうに肉体は消えてなくなり、地に焼き付いた影だけが痕跡を残すだけ。
そこにいると感じられないぐらいに、縁壱の生気は弱まっている。
いや弱いどころではない。これはもう残滓でしかなく───。
「兄上」
はたと立ち返る。
縁壱はまっすぐにこちらを見ている。送る視線すらどこか萎んで見える。
「鋼翼のランサーは討ち祓われました。我々の勝利です」
勝利───。
人間としての己の名にも入っている二文字を聞いても、胸には乾いた風が吹くばかりだ。
勝利の感慨とは、このようなものだったか。
鬨の声を上げ、意気揚々と凱旋する気は微塵も湧かない。
この戦いで、どれほどの事を為せたのか。
死闘を彩ったのは人の極地の剣を見せた縁壱であり、混沌を断ち切った武蔵だ。成果を出せた気がしない。
「私ひとりではあの魔物は討てなかった。破壊と再生は円環を成し永遠に繰り返すばかりで終着に行き着きはしなかった。
彼女の剣が均衡を崩し、兄上の刃が最後の決め手になってくれました。皆がいたからこそ、この勝利はあった」
擁護でもしているつもりなのか、いやに語りかけてくる。
あんなものはお溢れに預かる野党と大差ない。添え物の扱いだ。
止めの一手こそ刺せたが、結局は縁壱に目を奪われた背を不意討ったに過ぎない。
月は……どこまでいっても、太陽の影に隠れるしかない。
「……私と立ち会え……縁壱……」
向き直り、刀を抜く。
月輪のない剥き出しの刀身は記憶にあるよりもずっと細く頼りない。
「今こそが……弥終の刻だ……」
未明の夜に交わした約定。
あの赤い夜に果たせなかった続きを仕合う。それを果たせる日は、今を置いてない。
見た目こそ死に体だが、老骨の身でありながら全盛の技を放てる縁壱ならば仔細ない。一瞬で決着がつくだろう。
だというのに。
「……」
「縁壱……!」
茎(なかご)まで露わになった刀が、手から落ちる。
指先は微かに痙攣するばかりで、微風が吹いただけでも溶けてしまうのではないかと思うほど、重さというものがない。
刀を握る力すらも、縁壱からは失われていた。
あの魔獣に孤剣で互角以上に戦い抜いた、当然の代償だ。
そしてその結果、自身の果たし合いを務められないまま、現世より退去しようとしてる。
「お前は……! お前はまた……消えるのか……! あの夜のように……私に敗北を与えぬまま身勝手に消えるのか……!」
誉れある最期を送られなかったばかりに、このような無様を晒して生きてきた。
その結末を覆す為だけに執心し、武の心得もない小娘に動きを縛られる見に甘んじて、英霊の座より罷り越して現界する事を悲願とした。
だがその結果としてもたらされたのは、あの日の夜の全き追体験でしかなかった。
「私との決着など……所詮その程度の些事でしか……ないのか……。
どこまで……虚仮にすれば……!」
秘めていた感情を曝け出してしまう情けなさと恥辱で両肩が震える。絶望がとぐろを巻く。
二度目の生のあり得ぬ邂逅を経てさえ、この男との関係は何一つ変わらず終わるというのか。
「あなたに果てを与えられぬこの身の不始末……申し開きもございません」
縁壱は哀しげに頷いた。感情の源泉はまた憐れみか。
そうして刀も持たずゆっくりとこちらに近づいてきた。
ただ歩くのにも全霊を懸けねばならないほど弱り果てた身で。
「何の救いにもならない。さらなる責め苦なのかもしれない。ですがそれでも……あなたに託したい命(もの)がある」
何本かは骨も見えている指が緩慢に伸ばされる。
向かう先が己の握る刀であると気づいた時、何か言い知れぬ悪寒を感じた。
それを止めろ。そいつがやろうとする事を今すぐ止めさせろ。
恐懼に駆られた叫びに惑う間に──────縁壱の指が、切っ先を固く掴んだ。
「……!?」
動揺と驚愕。
今までの遅々の動作はこの瞬間に残りの力を費やす気だったのか。
鋭利な鋒は圧に負けるという事もなく肌を裂き、残量僅かな血が流れ峰を伝って鍔にたどり着く。
そこで漸く、『鬼に血を与える』行為の重大さに総毛立った。
「誰かの一部になって、食べてもらうことが命なのだと、教えられました」
間近に縁壱の顔がある。
「思いを託し、願いを受け取る、命という大きな輪の中に入って、そのひとつになる。
そういう生き方を……私も送りたかった」
それは縁壱が作れなかった未来。
黒死牟が捨てた過去。
互いに欲したものを、本当に必要な者に与えられていなかった双子の不遇。
いっそ逆であればどれだけ妥当な結末だったのだろう。
「同じ消えるならば、ただ聖杯の中に還るよりも……私の命を、兄上に受け取って欲しい」
「馬鹿な……!」
信じられぬ求めに、愕然と戦慄いた。
「私は……鬼だぞ……下らぬ世迷い言を……!」
家族を鬼にされるのでも自ら鬼に志願するでもなく、鬼に喰われるのを望む鬼狩りなどいた試しがない。
そんな真似をするのは真の狂人だけだ。悪鬼滅殺に血眼で躍起になる鬼狩りですらこんな放言をする戯け者はいない。
そうだ。馬鹿だ。馬鹿以外に言い表す術がない。
ここに来てこの男は、同じ親を戴く弟がとんでもない大馬鹿者だったのだと、結論づけるを得なかった。四百年越しの、驚愕の事実だった。
「どう言おうと……私が人を喰う鬼である事実は……変わらぬ……」
血を与えられた事で、活性化した鬼の本能が疼いている。
何度も唾を飲み込まなくては、涎が口の端から垂れる粗相を冒してしまう。
そうなった己の身を恥じ入りこそすれ後悔はしていない。あのまま痣の寿命が尽き始祖に殺されるより余程マシな選択だったと、今でも疑わない。
「今もお前の滴る血に……飢える私に……何を託すという……!」
この身は鬼。幾百の年月に幾百の命を喰らってきた夜の魔物。
こんなもので、今更心が覆るとでも思ってるのか。切望していた力を手にすれば、より凄惨な死が増えるのは目に見えているであろうに。
「兄上は、この地にてひとつでも、命を殺めましたか」
「───────!」
声が詰まる。
召喚されて以来、娘からの供給を除いて魔力を補充したのは、予選の段階で街の各所を哨戒していた使い魔。
だがそれは只の偶然だ。たまさか巡り合せが悪く、機を逸していただけに過ぎない。
……稚拙な言い訳だ。人肉が最適な栄養価になる鬼にとって街は狩り場だ。娘に気取られないよう喰らう手段など幾らでもあった。
「兄上の罪と業、それは私では濯ぎようがないものです。
ですが我らはサーヴァント。過去の誰かの影を映した分け身に過ぎない。そこに生前の罪を問われる謂れはないでしょう」
偶然の堆積だとしても構わない。
過去の罪科を現在で裁く秤はなく、現在で誰の命も屠ってないのならば。
ここにいる『セイバーのサーヴァント』には何の罪も背負っていないと。
「だからこそ、今の兄上が思う……本当にやりたいことを、思うままにしてほしいのです」
やりたいこと───そう聞いて去来するのは、やはり昔日の記憶。
幼子の頃から大人も負かす縁壱の才に毒炎を吐き、憎みながら力を欲した。
力を欲する始原はあれからも変わらず中枢に据えられている。だが今は、どうか。
腹腔は満たされるどころか、寒々と吐き気がこみ上げるだけ。待望の力が吊り下がっているのに。
「そのために、この体は兄上に。心は彼女に。それが聖杯ではない、私が私自身に課した、ただひとつの願いです」
切々と語る弟に、何を言えばいいのか分からない。
憐れみはない。怒りはない。
神の化身と謳われ、事実そのように目に映っていた弟は何処にもいない。
時間と空間を置き去りにした剣舞は、混沌の餞に連れ去られた。
神は去り、英霊は去り、立つは一人。
「……っ!」
言葉が出てこない。
血を媒介に命をこちらに渡す縁壱の現界はもう数刻と保てない。
速やかに滞りなく魔力の情報が取り込まれていくのは、かつて同じ胎から生まれた名残か。
元は一つであり、狭い産道から生まれる際、二つに別れたものが、再び一つに戻ろうとしている。
痛罵すればいいのに。
お前が消えた暁には残る方舟とやらの生き残りを血祭りに上げるとでも吠え立てればいいのに。
そうすれば、この愚かな喜捨も思い留まってくれるのではと、希えば。
時は止まらない。
こちらの思いを一顧だにせず針は進み、別離は近づく。
「こんな形とはいえ、またあなたと会えて、胸の内を知り、共に戦えた」
「待て」
やめろ。
言い遺すな。そんな満足げな微笑みを見せながら逝くんじゃない。
「最期に看取る者がまた兄上である等と……少しは兄弟らしい顛末だったと、いえるでしょうか」
「待て、行くな」
まだ何も得ていない。人生の答えも、お前との清算も、まだ、何も。
俺を置いていくな。俺を独りにしないでくれ。
でなくばまたお前の背を追わなければならなくなる。いや消えろ。早く死ね。お前のせいで俺は永遠に焼かれ続ける。違う。お前の強ささえ手に入ればそれだけで違う、違う違う違う言いたいのは告げたいのは───────
「消えるな………………!!」
「兄上の弟に生まれたことは、俺にとって誇りでした」
「たとえ道を違え、鬼畜に堕ち、結末が何一つ救われなかったとしても……あの日貰った笛を憶えている。送ってくれた言葉を憶えている。
そのひとつひとつが道を照らし、独りの闇夜でも生きる標となってくれた。唯一無二の、月のように」
凧の糸に絡まったのを笑いながら優しく解いてくれた。
双六の出目が上だったのが悔しくて、もう一度と催促した。
封じられていた記憶が蘇る。
伝わる血と共に、誰かの夢が幻と見える。
家名から尊厳まで、あるものは片端から捧げ続けて。
捨て切ったと思ったがらんどうに熾る、消えない思い。
どんなに忘れたくても、それでも断てなかった関係。
兄と、弟。
「ありがとうございます。
俺の兄に、なってくれて」
陽が舞台を包む。
微笑みは柔らかな朝日の光に溶けていき─────────
最終更新:2023年04月30日 20:49