異様な光景が広がっていた。
 立ち並ぶ二人の人斬り、剣の極み。
 それと相対する巨鬼が酒瓶を傾けているのだ。
 ごきゅごきゅと喉を鳴らしながら酒を呑み干す姿は宛ら大江山伝説の再現か。
 やがて鬼が瓶から口を離し、酒臭いおくびを漏らして口元を拭う。
「死合の最中に…宴に興じるとは……。挑発のつもりか……それは……?」
「あ、そういうの気にするタイプなんだ。お侍様って感じねお兄ちゃん」
 放り投げられた空の酒瓶がからからと宙を舞う。
「心配すんなよ。弱くなりゃしねェ…見てろ、見てろ。来るぞ、来るぞ来るぞ来るぞ――」
 酒瓶が地に落ちて。
 からんと音を立てて割れた時。
 カイドウが蕩けるように笑った。
「――来た」
 …その瞬間に起こった出来事を、黒死牟も武蔵も説明出来なかった。
 カイドウの姿が刹那にして消失。
 それを認識した瞬間には、新免武蔵の五体が遥か後方に消し飛んでいた。
 血の気等失せて久しい鬼の体に戦慄が走る。
 咄嗟に構えた刀が虚哭神去ではなくワノ国生まれの大業物だった事は彼にとって幸運だった。
「が………!?」
 そうでなければ此処で炸裂した大衝撃。
 先刻味わった物より更に上の怪力が、刃を粉々に砕いていたに違いない。
 目視不能の速度から繰り出された一撃は当然のように威力を跳ね上げていて。
 剣豪達が今しがた炸裂した理不尽への理解を漸く追い付かせた所で、カイドウは咆哮した。
「――ウィ~~~~~! 久々に気持ちの良い酔いが来たぜ…こりゃ良い宴になりそうだ! ウォロロロロロロ~~!」
 それは場末の酒場で悪酔いする遊び人のような、風情もへったくれもない歓喜の叫びであったが。
「ふざけた…男め……」
「えぇ、全く同意見。何が一番ふざけてるって、アレで――」
 武蔵には解る。
 黒死牟も同様だった。
「バカみたいに強くなってる。先刻よりもずっと」
 視界に映るその巨体。
 肌で感じる、その覇気。
 カイドウという怪物が放つありとあらゆる強さが、根拠も理屈もなく増大している。
「強くもなるさ。おれァ…お前らみたいな気骨のある敵を待ってたんだ」
 敵の攻撃をわざと受け入れ推し量る悪癖。
 己を討てる器でないと解れば途端に冷めて叩き潰す二面性。
 図体と強さに見合わぬ繊細さ、興が乗った時に見せる加減なしの強さ。
 その全てを乗り越えた先にこそ、カイドウが真に怪物と呼ばれる所以がある。
 神の写し身とさえ互角に戦い、あまつさえ討ち果たしかけた剛力の化身。
「付いて来いそして魅せてみろォ! 振り落とされたら殺しちまうぜ、ウォロロロロロロロロロ――!」
 酒龍八卦。
 真の竜は酒で眠らず寧ろ猛り狂う。
 突撃するなり走る覇王色の稲妻――剛撃が討ち入りの主役達を襲う。
「上等だと、言った筈よ…!」
 武蔵、黒死牟それぞれが竜の哄笑に剣で応じた。
 放たれた衝撃をいなしつつ感覚を研ぎ澄ましてその速度に適応を試みる。
 簡単な話ではないが出来なければ死ぬだけだ。
 これは竜王主催の盛大な火祭り。
 主役を喜ばせられない役者は蹴落とされるのみと相場が決まっている。
「…、……!」
 月の呼吸・弐ノ型――珠華ノ弄月。
 三つの連なる斬撃が竜を囲む檻を創る。
 が、無論この怪物は弄月等と風流な趣向に付き合ってくれる見世物ではない。
「フヒャッ、フッヒャッヒャッヒャ! 何だそりゃ爪楊枝かよォ!? おれを笑い死にさせる気か六つ目野郎! ヒョホホホホホ!!」
 笑い上戸。
 ケタケタと巨体を揺らして笑いながら月の斬撃をバキボキと破壊していく姿は異様な事この上ない。
 挑発を聞き流す黒死牟ではなかった。
 いや、これは挑発ですらない。
 本当に腹が千切れそうな程愉快だから笑っているのだ。
 己の剣が物笑いの種に堕ちている事実が黒死牟の剣を更に鋭く研ぎ澄ます。
 怒りではなく、寧ろそうかと呼応するように。
「ならば…腹を抱えながら……死ぬがいい……」
 次いでは拾ノ型、穿面斬・蘿月を繰り出した。
 陽融と継承、そして誓いを経て黒死牟は剣士として格段に強さを増している。
 その剣の冴えは、ベルゼバブと戦った時の事が遠い過去に思える程。
 数百年越しに動き出した時計の針は止まる事なく高速の回転を続けている。今もだ。
 だからこそ此処で開帳した拾ノ型も以前のとは比にならない威力を孕んでいた。
 カイドウと一騎討ちを演じた時よりも更に上。
 人の一生のように、学びながら強くなっていく黒死牟の剣才は今やカイドウをして侮れない域にまで達していたが――
「おい」
 そんな急速の研鑽を以ってしても竜の背は未だに遠く彼方であった。
 上機嫌な笑い声から一転して氷点下にまで冷めた声が響く。
 八斎戒を振り被る予備動作の風圧だけで剣戟の到達を阻み。
 そして金棒を一閃すると共に、カイドウは先とはまた別の感情を爆発させた。
「本気でェ…! 笑い死にさせようとして来る奴があるかァ――!!」
 笑いは怒りへ、賽の目を転がしたみたいに変化する。
 赫怒と共に振るわれた全力の一撃が哀れな月の斬撃を忽ち調伏。
 確実に攻撃を避けた筈だった黒死牟の全身を、然しそれでも風圧と衝撃で撹拌した。
「興が醒める真似をしてんじゃねェぞ黒死牟ォ! 侍の名が泣いてるぜ…!? ウィ~~~……!」
「知った風な口を、叩くものだな……」
「知ってるさ。よ~~く、な! おれァアイツらのファンなんだ! 昔からなァ!」
 これでも足りない。
 これでもこの怪物には児戯の範疇でしかない。
 そうか、ならば――更に磨くまで。
 黒死牟の魂が屈辱に灼かれる事は最早なかった。
 突いた膝を上げ、埃を落とす事もせず再度地を蹴る。
 今の己は侍に非ず。
 然し名が泣くぞと謗られては黙ってもいられまい。
 矜持を魅せながら放つ拾肆ノ型、兇変・天満繊月。
 果敢なる剣鬼の奮戦を横目に見ながら、笑みを浮かべて女武蔵が駆けた。
「楽しそうじゃない。私も混ぜなさいな、お二人さん!」
「ウィ~…! 女の癖して一丁前に猛りやがって……身内のじゃじゃ馬を思い出すぜ」
 武蔵の剣を受け止めながら黒死牟の剣をも捌く。
 酩酊し泥酔している状態とは思えない身のこなし。
 体の芯にまで戦闘の技巧が染み付いているからこその完全無欠。
 それでも負わせた傷の数は決して零じゃない。
 戦況が劣悪なのは間違いなかったが、同時に"戦えている"のも間違いなかった。
 この最強生物を前にして戦線が成立している。
 その事実の重さは、一度でもカイドウの戦を見た者ならば等しく理解出来る筈だ。
「おれは育児が下手でなァ…。息子と呼べと言い出すわ、おれの言う事は聞かねェわ、挙句の果てには親の敵と仲良く肩並べ出す始末でよォ……」
 変則故に柔軟。
 然し剣の作法を決して蔑ろにしてはおらず、寧ろ積極的に攻性を高める材料として使っている剣戟。
 それが武蔵の二天一流だ。
 この性質は無茶苦茶の体現者であるカイドウと打ち合うに当たって少なからず功を奏していた。
 逆に黒死牟は手数と範囲でカイドウの逃げ場を奪い、ジリジリと削る。
 刃が通る以上最早それを豆鉄砲の乱射と侮るのは愚の骨頂だ。
 その証拠にカイドウは先の一騎討ちとは異なり、体で斬撃を受けながら進む類の戦法をめっきり用いなくなっていた。
 彼もまた立派に竜王の敵対者なのだ。
 どちらも侮れる敵ではないと、カイドウはそう判断している。
 のだ、が。
「おれはアイツを国の将軍にしてやるつもりだった。そりゃ多少手荒に育てはしたけどよ、だからってあんな狂犬になるなんて聞いてねェ」
「…、えっと。あの……」
「大体よォ…! おれァまともに教育を受けた試しなんてねェんだぞ? そんなおれに誰か一人くらいガキとの向き合い方ってのを教えてくれても良かったんじゃねェか?
 あんなに仲間が居たのによ……そしたらヤマトのバカもちょっとはおれに従順な息子に育ってたんじゃねェのかな……」
「…………カイドウさん? 大丈夫? 話聞こっか?」
 もう一度言おう。
 あくまで祭りの主役はこの男なのである。
「――うおおおおおおおん! おれは父親失格だ! おれにはガキを育てる才能がないんだァ~~!!」
「ほぐ、ぶッ……!」
「…………、……ッ!」
 泣き上戸――支離滅裂な言動と共に巻き起こる感情の再爆発。
 武蔵の横っ面を八斎戒で張り飛ばし、そのまま得物を地面に叩き付けて隕石の着弾にも等しい衝撃を生成。
 剣戟の構えに入っていた黒死牟の呼吸を断絶させて吹き飛ばした。
 月の呼吸による範囲攻撃の手が途切れる。
 それを良いことにカイドウは武蔵の頭上へと跳躍。
「なァお前…おれの悲しみが解ってくれるか……?」
「げほッ…! は、ッ。生憎、だけど…私も、大概の人でなしなのよね……!」
「……解ってくれねェなら死ねよォ! アアアアアアアア~~!!」
 泣き→怒りへのスイッチ。
 回転する感情の中でもその覇気は微塵たりとも衰えていない。
 いやそれどころか、感情の高まりに比例してどんどん強くなって――
「――"怒り上戸引奈落"ゥゥウウウウウ!!」
「――――――ッッ!」
 激情の一撃は武蔵ごと大地を大きく抉った。
 その最下部に鎮められた武蔵の様はまさに奈落に落ちた罪人のよう。
 拮抗に宝具の解放が要求されるのが当たり前の火力の乱舞は、最早剣一本で相手出来る領域をとうに過ぎている。
「が、ぁ、あ…」
 肺が破壊されて呼吸が追い付かない。
 桜の血を流していなければこれで終わっていた可能性さえある。
 武蔵の再起を待たずしてカイドウは八斎戒を再び振り上げたが。
 そんな彼に迫るのは、月の斬波の暴風域だった。
「情けのない…姿だ……。巻き込まれた所で……責任なぞ持たぬ………」
 武蔵を一瞥して漏らし、黒死牟が因縁の刀をワノ国の悪竜に振るう。
 八斎戒と閻魔。
 大業物二振りの激突が火花と言うには烈しすぎる極彩色の光を演出していく。
 当然ながら技の速度はカイドウの方が二段は上を行く。
 よって黒死牟は常に全力で追い縋らねばならず、鬼となり強化された肉体さえもがその反動で絶叫しているのを感じていた。
「黒死牟ォ…。てめえ相当な人殺しだろう。見りゃ解るぜ、腥くて敵わねえ」
「……驚いたな…。よもや貴様に……そんな言葉を掛けられるとは………」
「別に責めやしねェよ。だが手緩いな。いい機会だ、おれがお前に殺戮(ころし)の何たるかを教えてやる」
 ゾクリ。
 何度目かの悪寒が黒死牟を貫く。
 カイドウの眼に宿る光が絶対零度の暗黒を帯びた。
「"殺戮上戸"だ」
 攻撃の意識を全て防御に切り替える。
 鬼は首を刈られねば死なない生き物だ。
 その事を黒死牟は無論誰より知っている。
 だが生物としての本能が、そんな理屈の一切を無視させた。
 そしてその判断は正解だったと言える。
「…ッぐ、お、オ……!」
 振るわれる乱舞乱舞また乱舞。
 撓った肘から先が黒い線としてしか目視出来ない。
 全てに対応する為に意識を限界まで研がねばならず七孔噴血に至るまではすぐだった。
 息を吐くだけで百の人間を殺せる竜が見せる本気の殺戮。
 生きる為に殺すのではなく、極める為に殺すのでもない。
 只殺す。存在するだけで命を奪う。
 そういう在り方の全てが地獄絵のように浮かび上がった酔いどれの暴威が、ものの数秒で黒死牟の肉体を血袋に生まれ変わらせた。
「――カイドウッ!」
 奈落から浮上した武蔵が刀を振り上げなければ、どうなっていたかは想像に難くない。
 自身の至らなさに歯噛みしながらも、武蔵の介入を好機に黒死牟は殺戮の雨に一石を投じた。
 鎧装構築。一度は砕かれた号哭鎧装を…血鬼術と呼吸法の真なる融合技を用い、壊れゆく体を補って逆に反撃の材料にする。
「ウォロロロロ! 性懲りもねェ…! またおれに砕かれてェか!?」
「異な事を言う…砕かれる為に鎧を纏う者が、この世の何処に居る……?」
「――だろうなァ! ギラついた眼ェしやがって…似合わねェぜ化物!」
 自動反撃の斬撃がカイドウの血を吹き荒ばせた。
 更に武蔵の剣が、彼の肩口に新たな傷を追加する。
 決して小さくない痛手であろうに笑みは消えない。
 楽しくて仕方ないとばかりに嗤う姿は、鬼のようであり同時に童にも似ていた。
「おい見ろよ。気付いてるか? 随分と街の様相が変わって来た事によ」
 体を翻らせながら、回転するように八斎戒を振るって纏わり付く両者を振り払う。
 号哭鎧装の斬撃さえ純粋な力押しで跳ね除け、武蔵程の剣豪でさえ鍔迫り合いを避けたがる圧倒的な力は未だ以って比類のないそれだ。
 そんなカイドウが言った通り…只でさえ見る影を失っていた渋谷の街並みはより顕著な異界化を始めていた。
 桜の繁茂する速度と密度が常軌を逸している。
 青空が包み隠される程に桜が犇めき合って地上を照らす光を桃色の淡光に変えている。
 無論武蔵達もその事には気が付いていた。
 何が原因でそう成っているのかにも、察しは付いていた。
「皮下が動いた。あの野郎、此処で勝負を決めるつもりだ」
 自分を脇に置いて勝手に勝負を決める等、この怪物は怒りそうな物だが…しかし彼の浮かべる笑みは愉快げなものであった。
 カイドウは皮下から全てを聞いている訳ではない。
 そもそも暗躍肌の皮下と戦闘狂のカイドウとでは根本の部分は合わないのだ。
 仮に全てのプランを打ち明けられていたならば、カイドウは不興を示していただろう。
 ――界聖杯内界から人間の生存出来る余地を奪い去って聖杯戦争を終結させる等、怪物好みの幕引きでは間違いなく無いからだ。
「お前らがおれを倒そうが、倒すまいが…もう何もかも手遅れだ。言わなくても解るよな? お前らは負けたんだよ、ウォロロロロ」
 彼の言う通りもう全ては手遅れだ。
 少なくとも武蔵と黒死牟にとっては。
 この戦闘を放棄して皮下の討伐に向かえば或いはという話ではあるが、その場合決戦を反故にされたカイドウは怒り狂いながら其処へ向かう。
 そうでなくとも皮下が令呪を用いてこの怪物を召喚し、種まき計画をより強固な物へと変えてしまう。
 彼らはカイドウを止めるしかない。
 戦いの以前に、作戦で負けている。
「大した早合点ね。まだ目の前の敵を一人も斃せていない身で勝った負けたと語るのはどうかと思うわよ?」
 だが、彼らの眼に悲観の色はなかった。
 彼らは微塵も戦意を落とす事なくカイドウを睥睨し、彼と見えている。
「それに――私は心配なんて全くしてないわ。だって今、あっちでは私のとびきりのマスターが世界を終わらせない為に頑張ってるんだから」
古手梨花…夜桜の力を継いだ死にかけの要石か。か細い希望だな。人間如きが皮下の野郎を倒せると思ってんのか?」
「倒すわよ」
 カイドウの問いに武蔵は断言を返した。
「勝つわ。梨花は、必ずね」
 不遜。
 それでいて不可解。
 正しいのはカイドウの方だ。
 借り物の夜桜と繚乱の夜桜では格が違う。
 この地を覆う樹海が散華を迎える時までに皮下を殺せる確率は砂粒程に低い。
 武蔵もそれは承知だ。
 承知の上で、こう言っている。
「そうと解ったら構えなさいカイドウ。貴方はまだ勝ってなんかいない。
 必死こいて私と其処の鬼さんを倒さないと――後で後悔しても知らないわよ?」
「ウォロロロロ…! 口の減らねえガキ共だ……!」
 武蔵が笑い。
 カイドウも笑った。
 黒死牟は微笑みこそしないが、何も否定する事なく剣を構えた。
 世界は滅亡の瀬戸際に立たされている。
 滅ぶにしろ続くにしろ、直に一つの結論が出るだろう。
 これはその傍らで繰り広げられる殺し合い。
 桜舞う――世界の終わりの剣豪舞台。
 花が咲く。
 雷が轟く。
 月が出る。
 三者三様の粋を織り交ぜながら、終末のボルテージは頂点に達そうとしていた。

    ◆ ◆ ◆

 体温の抜けた亡骸をそっと地面に横たえた。
 既に結界は消えている。
 領域の展開は解けている。 
 辺獄のアルターエゴは死んだ。
 そして、彼を使役していた少女も息絶えた。
 もう二度と彼らの悪意がこの地に降り注ぐ事はない。
 その事実を、古手梨花は他の誰よりも強く噛み締めていた。
「…沙都子。ボクはそろそろ行くのです」
 何の誇張も抜きに百年間ずっと見てきた顔だ。
 だというのに飽きは来ないし、辟易した事もない。
 やっとの思いで勝ち取った未来を穢されてもそれは変わらなかった。
 すれ違いの果て、惨劇の担い手となってまで自分を追い掛けて来た親友。
 彼女との対話はきっとこの世界が無ければ成し得なかったのだろうなと梨花は理解していた。
 この界聖杯と言う願望器、ひいてはそれが生み出した世界については言いたい事が山程ある。
 誰彼構わず盤面へ招来して殺し合わせるそのやり方を肯定出来る日は未来永劫来ないだろうと思うその一方で。
 少なくとも北条沙都子との決着を着けられたという一点に関してだけ言うならば、梨花は界聖杯へ感謝している
「もう寂しがる必要はないのですよ。まったく、沙都子が其処までボクの事を好きだとは思わなかったのです」
 にぱー、と敢えて表向きの顔で笑って。
 安らかに眼を閉じたまま息絶えている親友に語り掛ける。
 後悔はある。
 やり直したいという気持ちの丈は計り知れない。
 もしもほんの少しでも歯車を掛け違えていたなら、古手梨花は自分達のあるべき未来を求めて戦う選択を下していたかもしれない。
「また会いましょう、沙都子。また何かのなく頃に」
 けれど沙都子との最後の対話が梨花のそうした迷いを断ち切ってくれた。
 自分達は互いに互いの全てを曝け出して戦い、そして結末を定めたのだ。
 伝えるべき想いも晒すべき地金も全て見せ合った。
 許される限り殺し合って語り合った。
 幕切れは不本意な物だったが、それでもあの時間が無意味だったなんて事は思わない。
 寧ろその逆だ。
 あの時間があったからこそ、自分達は救われたのだと梨花は心の底からそう思っている。
 これにて、自分達の業を巡る物語はお終い。
 互いに業を卒して次の物語に向け眠りに就く。
 祭囃子の音色を聞きながら、いつ覚めるとも解らない眠りに墜ちるだけ。
 沙都子は先に其処へと旅立った。
 自分も後一つ残っているやるべき事を果たしたならば其処へ向かう。
 いつか何処かの、何かがなく頃を目指して。
「――梨花ちゃん」
「…お疲れ様なのです、セイバー。勝ってくれたみたいで何よりなのですよ」
「結構苦戦したけどね。でもちゃんと宿業両断成し遂げました。色々あって取り逃しちゃった因縁だから、晴らせて個人的にも気分が良いわ」
 それで、と武蔵。
「間に合った?」
「はい。勝ち負けは尻切れ蜻蛉になってしまいましたが、ちゃんとお互い言いたい事は伝え合えました」
「そっか。ごめんね、あの生臭坊主ったら解ってた事だけど手強くて。
 本当なら貴方達二人には、何の邪魔も入る事なく語り合わせてあげたかったんだけど」
「みー。気にしないで欲しいのです。…ボクと沙都子の仲はとっても深いのですよ。あれだけの時間があれば十分伝え合って、解り合えますのです」
 黙して眠る少女の金髪を優しく撫でながら梨花は言う。
 何度となく見て来た屍だったが、これが最後だと思うと気分も違う。
 只後悔していないのは本当だった。
 語るべき事は全て語れた。
 伝えるべき事は全て伝えられたし、受け取れた。
 おまけに友の最期をこの眼で看取る事まで出来たのだ。
 自分達の幕切れとしては十分過ぎる。
 もう悔いは何一つとしてない。
 古手梨花の戦いは、北条沙都子が息を引き取ったあの瞬間に終わりを迎えた。
 だが。
「…でも、もう一つだけ。私にはやらなきゃいけない事がある」
「解ってるわ。皮下真との決着、でしょう」
「ええ。どうせ死ぬならツケはきちんと払って逝きたいし…私個人としても戦う理由はあるもの。
 あの男を退ける事で、私の仲間…霧子やにちか達が一歩でも明日へ近付けるのならそれ以上の事はないわ」
 古手梨花は恐らく直に死ぬ。
 無理の代償は既に体の随所を蝕んでいる。
 仮にこのまま大人しくしていたとして、それでももう命は数時間と保つまい。
 それこそは夜桜の力を借り受けた事の代価。
 人間である事をやめたその代償。
 しかしどうせ死ぬのなら、それまでの時間はなるだけ有意義な物であるといい。
 例えば、そう。
 少なからず親交のあった仲間の為に身を粉にして戦うだとか。
 残り僅かな命を、恩人との誓いの為に燃やすだとか――。
「セイバー…いいえ、武蔵。少し早いけど、貴女に一つ言っておきたい事があるの」
 梨花はそう前置きして武蔵へ微笑みかけた。
 波瀾万丈、艱難辛苦にばかり見舞われて来たこの世界。
 過ごした時間は一月弱。長いとも短いとも言い難い時間だったが。
 その中で恐らく一番であろう笑顔を浮かべて梨花は武蔵に言った。
「今までありがとう。私は、ボクは――貴女が来てくれて本当に幸せだった。
 私の為に戦ってくれてありがとう。ボクの事を支えてくれて、ありがとう。
 …改まってごめんなさいなのです。でも最後の前にこれだけは、直接ボクの口から伝えておきたかったのですよ」
「…、……何よ、もう。そんな健気な事言われたら、お姉さんきゅんきゅん来ちゃうじゃない」
 彼女達の旅は直に終わる。
 梨花は皮下の許へ向かうだろう。
 そうなれば武蔵は、彼のサーヴァントの方へ向かう事になる筈だ。
 海賊カイドウ。かの怪物と皮下が足並みを揃えて世界の破壊に臨めば最早梨花には止められないから。
 北条沙都子及び蘆屋道満との決着。
 この時点で、古手梨花とセイバー…新免武蔵の二人による旅路は一つの終着を迎えていたのだ。
「今生の別れみたいな会話だけれど、私はまだ諦める気なんてさらさらないわよ。
 私がカイドウを斬って貴方の所に戻るから、貴方は皮下に勝ってそれを出迎えて欲しいな。
 そしたら方舟の他の子達も交えてお疲れ様会の一つでもしましょ。散々駆け回って来たんだもの、そのくらいは期待してもいいと思わない?」
「…みー。確かにそうなのです。お互いに死んだり消えたりするのを前提にお話するだなんて、思えば縁起悪い事この上ありません」
「そうそう。蓋開けてみたら、案外梨花ちゃんも私も全然無事のまままた会えるかも知れないし。その時に備えて約束でもしときましょ」
 武蔵が手を差し出す。
 梨花も、迷う事なくその手を取った。
 互いにもう解っている。
 この約束が果たされる日はきっと来ない。
 そう解った上で――手を取り未来を誓うのだ。
「"またね"、梨花ちゃん。次会った時には梨花ちゃんの入ってた…なんだっけ。部活? の話ももっと沢山聞かせて欲しいな」
「お安い御用なのですよ。朝日が登って日が暮れるまでお話しても足りないと思うので、覚悟しておいて下さいなのです。にぱー☆」
 これは古手梨花が皮下真と。
 そして新免武蔵がカイドウと接敵する数十分前の話。
 各々の正念場を前にして、彼女達が追憶している最後の会話だった。
「だから"またね"、武蔵。私の最高のサーヴァント。私の大好きな仲間の事、もっといっぱい紹介したいんだから――死んだら嫌よ。約束」

    ◆ ◆ ◆

 古手梨花は確信していた。
 自分が生きている事の意味。
 親友を看取って、尚も枯れる事なく立ち続けているその意味を。
 夜桜つぼみとの誓い。
 皮下真との因縁。
 どちらも彼女が立つ理由である事に違いはなかったが、本質では無かったのだと今此処に至って理解する。
“ああ、そう。私は”
 咲き誇る夜桜の樹海。
 一秒毎に臨界へ近付いていく終末装置。
 全ての希望も絶望も塗り潰してしまうだろう終わりの景色が此処にある。
 世界が、終わろうとしている。
“この光景を止める為に、生かされていたのね”
 力を込めた途端、体の中から"ぐじゅり"と異音がした。
 どうやら既に内臓が溶解し始めているらしい。
 生きながらにして体が腐っていく。
 重度の放射線被曝を受けたのと状態としては似通っている。
 どの道、自分の寿命はもう数分も無いだろう。
 借り物の力を身の丈に合わないやり方で振り回し続けたせいか、もう騙し騙しやって行くのも厳しいようだった。
「――アイ。ライダー。この際…危ないとか敵同士だとかそういう話は抜きにさせて」
 柳桜を握り締めて前に踏み出る。
 皮下が放って来た超高速の質量攻撃は先刻梨花を無慈悲に叩き潰したのと同じそれだが。
 今回、梨花は同じ手を食わなかった。
 殆ど直感に任せた一閃で迫る八卦を両断する。
 今は体を蝕む激痛さえ有り難かった。
 これだけ喧しく喚き散らしてくれていれば、意識を失う暇も無さそうだったから。
「皮下を止めましょう。私達がやれなきゃ全部終わってしまう」
「そりゃ言われるまでもねぇけどよ。アイツ相当強いだろ。アテはあんのか?」
「あるわ」
 デンジの問いに梨花は即答する。
 瞳に輝く桜の紋様、その発光が強まった気がした。
「皮下は私が持って行く。だから力を貸して」
「……」
 マスターが何を言ってんだよ。
 お前、俺らが助けなかったらやられてたじゃねえか。
 そんな軽口は不思議とデンジの口から出て来なかった。
 只の人間の分際で、自分よりも前に立って宣言したその小さな背中に…理屈ではない大きな何かを感じ取ったからだった。
 それは宛ら魔法のように。
「梨花…」
「…みー。ごめんなさいなのです、アイ。ボクだって本当はもっと……アイの事を知りたかったのですよ。
 一緒に居た時間は短かったけど…鬼ヶ島でボクを助けようとしてくれた時、本当に凄く嬉しかった。
 せめてもう少しボクに時間があれば、ボクの仲間達直伝の色んな遊びを教えてあげたかったのですけど」
「アイさん、やだよ…梨花も、霧子も、皆も――誰も、死んで欲しくないよ……」
「ボクだって死にたくはないのです。それにまだ決まった訳じゃありませんよ。
 案外すっごく素敵な奇跡が起きて、笑顔でアイの所に帰れるかもなのですよ。こうやって、にぱー☆って」
 愛がなければ魔法は視えない。
 その点、梨花が唱えた言葉は間違いなく魔法だった。
 アイが唇を噛み締める。
 それからわがままを言うのを止めて拳を構えた。
 梨花を止める為ではなく。
 彼女と共に、世界の終わりと戦う為に。
「行きましょう、二人共。ボクを、私を――助けて下さい」


「演説は終わったか?」
「ええ。待たせて悪かったわね」
「気にするな。俺にしてみりゃ時間は稼げる程良いんでね」
「そうでしょうね。時間が欲しいのは私もあんたも同じだもの」
 皮下の全身は神々しい淡光を帯び始めていた。
 渋谷を満たす夜桜のみならず、彼の体もまた臨界に達そうとしている。
 恐らく梨花と同等かそれ以上の自壊に苛まれている筈だ。
 つまり皮下もまた直に死ぬ。
 然し彼はそれを承知で、それよりも早く全てを終わらせるつもりだった。
 最終決戦なのは互いに同じ。
 二つの夜桜が対峙する。
「終わらせましょう。夜桜を」
「ああ、終わらせよう。俺達は少々長生きし過ぎた」
 言葉と共に放たれたのは文字通りの天変地異だった。
 炎、冷気、有機合金、異常に伸長する毛髪、そして猛毒。
 この世界で生きそして散っていった花の残影が同時並行して再生される。
 そうして繰り出されるのはそれぞれがそれぞれを潰す事なく共存する混沌だった。
 燃えながら凍り、靭やかなまま硬く、構成する要素の全部が強毒を帯びる。
 皮下真が積み上げて来た計画の結集とでも呼ぶべき光景が具現した。
 その中を、古手梨花は臆さず走る。
 身を焦がされ、溶かされ、貫かれ切り刻まれ。
 それでも走るのだ――目前にて咲き誇る"奈落の花"へ捧ぐ終焉を謳う為に。
「雑草にだって花は咲くもんだ。寄せ集めてみればこの通り、多少は綺麗な花になる」
「そういう台詞の出て来る根性が、最悪だって言ってんのよ…!」
「悪いな、性分なんだ。何かを使い潰して生きるのが一番ラクだからな――君にも覚えはあるんじゃないか? お互い長生きだもんなぁ」
 柳桜は夜桜を…悲劇を繰り返す花(モノ)を殺す性質を持つ。
 だが万能ではない。
 その陥穽は此処までの交戦で既に見えている。
 其処を突く為の混沌。手数重視の虹花乱舞(コズミックダスト)だ。
「えぇ…ッ、勿論あるわよ。そうやってやさぐれてる内は、何も上手くなんて行かなかったけどね!」
「現実を見ろよ百年の魔女。善良に生きた結果がその惨死だろう? 一難去ってまた一難、禍福は糾える縄の如し。
 与えられた安息を当たり前みたいな顔である日突然取り上げられる、そんな君の人生が成功だったと言えるのか?」
 炎海に織り交ぜられた桜の枝が梨花を串刺しにする。
 足が物理的に止められた。
 槍衾に変わっていく幼い肢体を嘲笑と共に見つめる瞳は酷く儚い。
「その点俺のはイージーだ。殺すだけで終われるんだからな、後先もクソもない」
「人の幸福を、上から目線で勝手に語ってんじゃないわよ…ッ」
 全身が瞬く間に絡め取られていく。
 後は圧潰も滅多打ちも自由自在だ。
 手数の暴力という身も蓋もない殺し手で詰みに向かう梨花を、然し断崖から救う音が響いた。
「何の話してるか解んねぇけどよお…その気持ち、すっっげぇよく解るぜ~!」
 ぶうん――
 刃音一つ。電刃一閃。
 桜の枝と蔓を断ち切りながら、チェンソーマンが出現した。
 彼もまた虹花の毒に冒されていたが気にしている様子はない。
「偉そうに小難しいことくっちゃべって来る野郎はよ、クセえ老害って相場が決まってんだ!」
「えぇ、全く同意見――あんたが連合でさえ無ければ完璧だったんだけどね!」
「差別主義者がアアアアアアア!」
 チェーンを梨花の細足に結んで上空へ放り投げる。
 夜桜化していなければ足の骨が確実にお釈迦になる無茶だが、今更その程度負傷の内にも入りはしない。
 空へ昇る古手の巫女。
 桜花の一太刀を地に向けて振るうや否や、皮下の右半身が消し飛んだ。
「流石だな。こと俺を殺す上でなら、まさに君が適任者って訳だ」
 紛れもない致命傷。
 然しそれも一瞬の内に再生する。
 無限に等しい再生力は、まさしく夜桜の奇跡の体現者。
「なら俺も君に倣おう。元々こういうのは男の子の領分だしな」
 再生した皮下の半身。
 その形状は異形だった。
 腕というよりも筒状の肉塊と言うべき造形。
 それは嗚呼まるで、巨大な銃身(バレル)のようでもあって。
「…ッ! なんて出鱈目を考え付くのよ、あんたは――!」
 その内側で再生される開花の数々。
 これまでに見せてきた虹花の技は勿論、奈落を上がる事なく死んでいった失敗作達の物まで無作法に結集させていく。
「絆の力だ。俺なりの奇跡も見てくれよ、梨花(つぼみ)」
 限界まで圧縮させた混沌の桜吹雪。
 最大の収束性で撃ち放たれたそれは、夜桜の使徒は愚かサーヴァントでも容易に消滅させる皮下の最高火力だった。
 アレに直撃してはならない。
 もしもしくじればその時点で全てが終わる。
 確信して細胞を駆動させる、梨花。
「逃げるか。利口だな」
 されど笑うのは皮下だった。
「逃さねえけどさ」
 光が空中で折れ曲がる――屈折する。
 理外の追尾性能。
 ホーミングする確殺攻撃という悪夢が現出する。
 咄嗟に柳桜で打つ判断を下せた梨花は立派だろう。
 反応が一瞬でも遅れていれば、彼女の体は原子レベルで消し炭にされていたに違いない。
「ぎぃッ…!」
 柳桜ごと半身が消し飛んだ。
 まるで先刻の意趣返し。
 梨花の再生は皮下程の万能ではない。
 だからこそ半身を欠いた状態で、柳桜まで失った状態で為す術もなく落ちて行くしか出来ず。
“まず、い…!”
 そしてそんな梨花を喰らうべく、地中から巨大な"桜坊"が出現した。
 恐るべきは皮下の思考の速さと広さ。
 夜桜を殺す者、チェンソーのライダー、虹花の生き残り――樹海の臨界を維持しながらこの三人を同時に相手取り、その上でこんな策まで用意しているなんて言うまでもなく馬鹿げている。
 川下医院の崩壊と共に落命した『チャチャ』という葉桜適合者が居た。
 皮下は戦いの傍ら、彼の開花を再生。
 生まれ乍らに異常な頭脳を持っていた彼の性能を擬似的に再現し、本家本元にも迫る分割思考を実現していたのだ。
 地中にてのソメイニン培養。
 消耗を考えずに加速化させる事で歴代最高の暴威を秘めた桜坊を完成させた。
 手負いの梨花を喰い殺す、奈落上がりの荒神だ。
「――梨花っ!」
 駆けたのはアイだった。
 デンジへの警戒は皮下とて怠っていない。
 二度と邪魔立てされないように開花の釣瓶撃ちで動きを封じ、梨花との連携を阻害し続けている。
 となれば動けるのはこの場で圧倒的に力不足…然し皮下に二度も可能性の躍如を魅せた大神犬の少女だけになるのは自明だったが。
「だよな。お前ならそうすると思ったよ」
「駄目、アイッ!」
 皮下がそれを読んでいない筈はなかった。
 アイの行動はまさに飛んで火に入る夏の虫。
 え、とアイの口が動いた時。
 皮下は跳躍を終え、彼女の前に浮いていた。
「助けてくれてありがとな。でもいい加減邪魔だ、親(ミズキ)の所に逝ってくれ」
「――ぁ"、ッ」
 有機合金の刃を一閃する。
 アイの細い腹を引き裂いて鮮血を吹き飛沫かせた。
 その上で地面に蹴り落とす。
 地上は夜桜の犇めく地獄だ。
 そうでなくても虹花開花の残影が埋め尽くしている。
 手負いの葉桜一人が生き残れる領域ではない。
「…っ!」
 皮下真はこうして最後の虹花の殺処分を完了した。
 アイの行動に意味があったとすれば、焦燥と怒りが梨花の出力を一段引き上げた事だろう。
 蘇る夜桜殺しの神剣・鬼狩柳桜。
 未だ体は再生途中の不格好だったが、手を拱いている時間はない。
 ありったけの激情を込めて桜坊の頭蓋へ柳桜を突き立て、梨花は桜の暴風雪を巻き起こした。
「アイも可哀想に。希望なんて知らなければ、もっと未練なく逝けたかもしれないのにな」
「黙りなさい――明日を生きたいと思う気持ちに、善も悪もある訳ないでしょうッ」
 特大桜坊が一撃の下に消し飛ぶ。
 目を瞠る戦果だったが、それが評価される局面では当然無い。
 アイの処分を終えた皮下が満を持して梨花への攻撃に臨もうとしているからだ。
「善悪がないからこそ残酷なんだろう。生きたいも何も、最初から明日なんて無いんだから」
 つぼみの力を最大まで引き出せば無論、皮下に届く域の再生速度を叩き出す事も理論上は可能だろう。
 だがそれをすればタイムリミットを待たずに梨花の体が崩壊するのは間違いない。
 こればかりは足に合わない靴を履く者――天を目指して飛ぶ蝋翼の宿命だった。 
 そしてその脆弱性故の限界が、此処で致命的な格差となって浮上する。
「清々しい程の偽善だな"方舟"。だからお前らは負けるんだ。始まりからして失敗してんだよ」
 受け入れられない全否定の言葉に然し反論の隙は存在せず。
 古手梨花を散華させる為の一撃が放たれようとしたその瞬間。
「だ、か、ら、よぉ……!」
 彼女の代わりに皮下真を否定する、英雄(ヴィラン)の嘶きが響き渡った。
「先刻から聞いてもいねぇ事をベラベラと五月蝿えんだよッ!」
「…!」
 チェーンで皮下を絡め取り力づくで引く。
 無論、さしものデンジでもこれだけの質量を千切っては投げとは行かない。
 彼に可能だったのはほんの十数センチその巨体を動かす事までだった。
 然しその僅かな干渉が梨花への攻撃から致命の二文字を取り除き、未来を繋げる事に成功させる。
「格好良いなぁチェンソーマン。無辜の少女を殺されてキレるなんて、まるで正義のヒーローみたいじゃないか」
「あぁ? …ンな訳ねぇだろ。会って一日も経ってねぇガキの生き死になんざ今更いちいち響くかよ」
 だから脳裏を走るこの感情はきっと単なる気の所為で、錯覚だ。
 デンジは自分をそう納得させながら皮下の体を切り刻んでいた。
 ――砂糖菓子の少女ともう一人。
 霊基の問題でか上手く思い出す事が出来ないが、脳裏に浮かぶ顔があった。
 デンジは其処まで義に厚い人間ではない。
 本人の言う通り、会ってすぐの見知らぬ子供が殺されたとして義憤に燃えるような性格はしていない。
 にも関わらず多少なり心に響く物があるのはきっと、"黒髪の幼い少女"という情報を自分の知る誰かに重ねているからなのだとデンジは理解した。
「今回俺ぁ悪役だぜ。てめえが後生大事に抱いてる願い事、グチャグチャになるまで踏み躙ってやるよ」
 支配の悪魔を殺したデビルハンター。
 地獄にて恐れられたとある悪魔の騎乗物。
 そう定められて召喚された霊基の水面に波紋が立つ。
 その意味は今は彼にすら解っていない。
 解っているとすればそれは、彼を駆る心臓(あくま)だけなのだろう。
 そしてそんな意味有りげな注釈も、此処で皮下を討てなければ全てが無駄打ちに終わる。
「それは結構だけどな。まさかそんなチャチな刃物でこの俺を削り切れると思ってる訳じゃないよな?」
 デンジには不死殺しならぬ永遠殺しの経験がある。
 あちらが死にたくなるまで殺し続ける激痛の永久機関。
 それは皮下に対しても適用可能だと思われたが、違うのは敵がデンジよりも格上であるという点。
 デンジの唱えた永久機関の大前提、無限に殺し続けられるという一文が崩れ――皮下の体内から出現した無数の刃が彼を針千本に変えた。
「へ、へへ…バカがよぉ。まんまと引っ掛かりやがったな、マヌケェ……!」
「…お」
 が、デンジとてそれは想定の上。
 彼は阿呆かもしれないが馬鹿ではない。
 脳を心臓を肺を肝臓を、余さず串刺しにされながら少年は獰猛に笑っていた。
 瞬間。彼の体からチェーンが伸びて、皮下と自分とを繋ぐ刃へ勢いよく絡み付いていく。
「運命共同体だぜ。一緒に戦おうや皮下先生よォォ!」
「はは。マジで無茶苦茶だな…まあ良いぜ? 望み通りそうしてやるよ」
「あ?」
 デンジお得意の自傷戦法。
 不死身を良いことに、自己の損傷を考えずに相手を切り刻み続ける十八番。
 見事に皮下へ決まった形だったが、皮下は嵌められた構図とは裏腹に事も無く笑った。
 そして次の瞬間…彼の体が爆発的に肥大化する。
 粘菌の類が殖える様を早送りで見ているような肥大と増殖。
 彼と密着していたデンジもまた皮下の体積増大に併せてその体内に呑み込まれていく。
「ウゲ! 気持ち悪ィ! 最悪だなオマエ!」
「逃げんなよ、お前が持ち掛けてきた二人三脚だろ。袖にされたら流石に傷付く」
 堪らず離脱を図るデンジだったがそれを許す皮下ではない。
 チェーンと有機合金を繋ぐソメイニン漬けの体細胞が接着剤の役目を果たしてチェーンの駆動を妨害する。
 そうしている内に哀れなデビルハンターの体はズブズブと皮下の体内に呑まれていった。
「! ……、――――!!」
「無駄だ、出られやしない。流石に英霊相手ともなれば夜桜で殺すのは難しいだろうが、閉じ込め続けるだけなら余裕だ」
 異形の怪物の体に人間の上半身が生えているような構図は、視認するだけでも精神を削られるような酷く冒涜的な代物だった。
 その内に収められたデンジは何やら喚いていたがそれもすぐに聞こえなくなる。
 後はこのまま種まき計画の成就まで閉じ込められ続けるだけだ。
 しおが令呪を切って彼に"交代"を命じれば話も変わるだろうが…それは彼女の望む勝利を大きく遠ざける結果を招く。
 文字通りの八方塞がりにチェンソーマンを幽閉し終えた皮下は、こうして再び一対一の状況へと帰って来た。


「さてと。これで邪魔者は消えたな」
 再生を終了させた古手梨花が皮下を睨み付けている。
「種まき計画の実行まで後三分って所だ。俺を止めたきゃそれ以内に何とかするんだな」
 わざわざ自分のリミットを明かした理由は言わずもがな勝利を確信しているからに他ならない。
 アイは死んだ。デンジは無力化された。
 残っているのは梨花一人。
 そして彼女が一人では皮下に及べない事は此処までの戦いで散々示されている。
 力はある。
 相性だって抜群に良い。
 だが経験が足りない。
 準備してきた物が足りない。
 夜桜としての年季が足りなすぎる。
「お友達の侍を呼ぶか? それとも仲間だけでも一か八か逃してみるか。どっちでもいいぜ、どうにもならないからな」
「…正直、甘く見てたわ。あんたの願いの強さを」
 古手梨花は人間の意思が持つ力の大きさを知っている。
 強い意思を以って実行された行動は、未来を知っていようが簡単には覆せない。
 絶対の意思は常に望みの未来を描き上げ続ける。
 何度繰り返そうとも、必ず。
 それを阻む事の難易度は破格と呼んでもまだ生易しい。
 だからこそ梨花は此処に来て皮下真という男の本質を理解した。
 かつて鬼ヶ島にふんぞり返っていた頃の彼ならば付け入る隙は山程あったろう。
 だが今の彼は違う。
 今の皮下は――"彼女達"の同類だ。
 神の座を奪い取ろうとした百年の黒幕。
 愛憎の果てに魔道へ入った絶対の魔女。
「そうまでして、救いたいのね。夜桜つぼみを」
「別に救世主を気取って酔っ払ってる訳じゃない。俺は只殺すだけだ」
 鷹野三四や北条沙都子と同じ、絶対の意思の持ち主に他ならないのだと確信する。
「アイツも、この血も…もう全部終わって、眠るべきなんだ。
 知らない仲でもないからな。何もしてやれなかった無能な主治医として、それくらいの責任は果たそうと思ってよ」
「素直じゃないのはあんたも大概ね。ライダーの事を笑えた義理じゃないわ」
「男ってのはそういう生き物さ」
「馬鹿な奴ね」
「それで結構。で、君はその馬鹿にこれから全てを奪われる。そういう運命だ」
 語らいに興じている暇はない。
「…男、ね」
 柳桜を握り締め、梨花は前に出た。
 選択肢なんて最初からこれ一つだ。
 運命への挑み方は色々あるが、背を向けて逃げ出す事が打開を生んだ試しは一度もなかった。
「知ってる、皮下? 男にとって宿命だとか運命だとかそういう言葉は、凄く尊くて熱い意味がこもってるそうよ」
「何の話だ。無駄話に花を咲かせてる時間があるのか?」
「さぁ、何の話なんでしょうね。いつか何処かでこんな言葉を…誰かに言われた気がするってだけ」
 なんて言いながらも誰が言ったのかは見当が付いている。
 こんな熱くて、冷静になったら気恥ずかしくなってくるような台詞が言える人間を梨花は一人しか知らない。
 他人の褌で相撲を取るようだが、これも仲間の特権って奴だろう。
「此処であんたに全てを奪われるのが私の運命だと、あんたはそう言ったわね」
 これはもう部活ではない。
 祭囃しの音を数刻後に控えさせた"あの時"の再演だ。
 すなわち。
「いいわ。ならその運命とやらを――私がブチ壊してあげる」
 ――運命に挑め。

    ◆ ◆ ◆

 サイコロの目を決めるのは、天でも、神でも、ましてや偶然でもない。
 それは全てを打ち破り貫こうとする、誰にも負けない意志の力。
 信じる力が運命を打ち破る。
 奇跡を起こす。

    ◆ ◆ ◆

 神剣の初太刀から皮下は瞠目の憂き目に遭った。
 振り上げられたその刀身。
 其処に理屈ではない本能的な破滅のビジョンを見たからだ。
 抱いていた余裕と勝利への確信が刹那にして覆る。
 時間切れを待つなんて悠長な事を言ってはもういられない。
 一刻も早くこの子供を…つぼみの器を殺さなければならないと彼の本能が警鐘を鳴らしていた。
「…は。敗北寸前の雑魚の強がりじゃないって事か」
 皮下の肥大した総体から無数の桜が生え始める。
 数は千に達し、その全てが純度百パーセントの夜桜だ。
 迫る梨花を迎え撃つ木々の波。
 養分を求めてうねり撓る桜達を――悲劇を"繰り返す"その花を――
「どけえッ!」
 偽りの柳桜が一撃で切り祓う!
 この神剣は確かに贋作。
 古手梨花の記憶を参照して鍛造された張りぼての剣。
 この剣で北条沙都子は殺せまい。
 彼女に力を与えた大いなる者を貫く事も叶うまい。
 然し!
『最後よ。梨花ちゃん』
「解ってる!」
『私達に付き合ってくれてありがとう。貴女の優しさに感謝します、遠い世界のあなた』
 古手梨花には夜桜の神が憑いている。
 ならばこの時、夜桜に対してだけは彼女の剣は紛うことなき神剣となる!
 臨終の刻限を間近に迫らせて、限界(最高)のその先まで同調を深めたからこその破壊力。
 徒花と咲いて散る最後の桜がひた走る。
 一人きりの夜桜前線。
 運命への、疾走――!
『助けてあげて』
 迫るは混沌。
 再生の開花を最大まで極めたからこその疾風怒濤、桜吹雪。
『こんな私に…悍ましく恐ろしいこの花に……手を差し伸べてくれた人。
 本当はとても優しくて、だけど不器用なひと。川下先生を――』
 梨花の寄る辺は神剣一振り。
 信じるものは己と彼女と歩んだ道程のその全て。
 末端から形を失い始める肉体はもう泥の人形にも等しいけれど。
 それでも――それでも――
『赦してあげて』
 応と答えの代わりに振るった剣が吹雪の夜を終わらせた。
 春のその先、ひぐらしのなく夏からやって来た巫女が夜魔を祓う。
 足元が凍った。
 無視する。
 炎の渦に囚われた。
 無視する。
 千もの刃に貫かれた。
 無視する。
 数百トンにもなるような巨体が腕の形を取って、音を超える速度で殺到した。
 此処で初めて梨花が攻撃(それ)を見る。
 だけどそれもほんの一瞬の事。
「…何よ皮下。これが、こんなものがあんたの言う"運命"なの?」
 梨花が笑う。
 そして柳桜を、振り上げて――
「金魚すくいの網よりも薄いわね。出直して来なさいッ!」
 今度は斬りすらしない。
 太陽の輝きが夜の闇を掻き消すように、神剣を翳した途端に皮下の攻撃が兆枚もの花弁に分解されて消滅した。
 接触する前に壊してしまえば超質量も超高速も一切無意味だ。
 何を生み出して来ようとその根本にあるのはソメイニン、つまり夜桜ならば。
 神憑りの夜桜にそれを否定出来ない道理はない。
「…運命になるのは君の方だったってオチか。笑えねぇな」
 あまりに劇的、そして理不尽。
 皮下真は自分の誤ちを確認する。
 それは運命だなどと驕った事。
 蓋を開けてみればこの通りだ。
 運命は己に非ず。
 己の前に立つ原点(つぼみ)こそが、自分を試す最後の運命だったのだ…!
「――あぁ、全く笑えねぇよ」
 皮下の顔から笑みが消えた時。
 梨花を覆ったのは桜で構成された巨大な球体だった。
 それが一重、二重、三重四重十重二十重…マトリョーシカのように重なって構築されていく。
「侮りを詫びよう。俺も必死こいて勝ちを狙う事にする。あまり格好の良いやり方じゃないけどな」
 この檻に殺傷能力はない。
 これはあくまでも只の檻だ。
 そも、皮下は必ずしも梨花を殺さなくても良いのである。
 時間さえ稼げれば。
 渋谷を満たした夜桜樹海が起爆するまで耐えられれば――もしくは古手梨花の消滅まで持ち堪えられればそれでいい。
 だからこそ彼が此処で打って来た勝利への一手は時間稼ぎだった。
 柳桜の力があればすぐにでも破れるか細い檻。
 然し梨花が一枚壊す間に、檻は二枚三枚と増えていく。
 現に今の時点でさえ層の数は千を超えており、皮下が常に最大の労力を割いて生成し続けているから増殖が止まる事もない。
“先刻の時点で形を失い始めていた。更にそれは、俺の"腕"を消した所で余計進行の速度を上げたように見えた”
 アレだけの力に代償が伴わない訳はない。
 梨花は力を使えば使う程、自己の崩壊を加速させてしまうと皮下は既に理解していた。
 であれば尚更この桜の檻は最上の切り札として機能する。
 一枚一枚は薄っぺらな檻、されど立派な障害物だ。
 ましてや増殖していく入れ子構造から抜け出そうと思えば余計に莫大な出力を要求されるのは必然。
 よしんば策を超えて梨花がこの檻を抜けられたとしても…
“その時、古手梨花の肉体は殆どが崩壊している筈。其処まで弱っているのなら…やりようは幾らでもある”
 ――古手梨花は皮下真に勝てない。
 こうしている間も種まき計画完遂へのカウントダウンは、梨花の寿命を数えるそれと並行して進行を続けている。
 追い詰められたように見えたのも束の間、再び皮下の勝利は盤石の物と化した。
 十秒、二十秒、三十秒と追加で六秒。
 時がそれだけ経った頃、梨花は皮下の想定を"予想通り"に超えてきた。
「はは――随分見窄らしい姿になったじゃねえか」
 数万層に及ぶ桜の檻を引き裂いて現れた流星。
 皮下が科した運命をまた一つ打ち破った梨花の姿は然し、見る影もなく変わり果てていた。
 左腕が肩口から途切れているのはまだ可愛い方だ。
 問題は彼女の胴体、心臓のある地点から下。
 其処には既に人の肉体は存在していなかった。
 桜の花弁…ソメイニンを"つなぎ"にして崩れた体を繋ぎ止めているだけ。
 更に頭部の左半分も既に消失して桜の花弁が満たすだけと化している。
 体の七割にも及ぶ部位が崩壊し、苦し紛れの補繕も追い付かず化物としても文字通り片手落ち。
 柳桜を握る右手が残っている事を除いて、其処に希望らしい物は何一つ見て取れない。
「来いよ。最後くらいは…まともに相手をしてやる」
 ソメイニンを練り上げる炉心に自らの体を作り変える。
 再生、再生、再生、再生…あらん限りの開花を再生させて混ぜ合わせるその技はもう梨花に対して一度見せている物だ。
 夜桜を統べる者だけが放てる混沌の桜旋風。
 それを、神剣担う巫女を討つ最後の一手として皮下は此処に再び開帳した。
「――眠りなさい、皮下真。彼女はそれを望んでる!」
「諦めろ。俺は俺の願いを叶えるまで止まらない」
 放たれる極光。
 夜桜の史上を塗り替える最大の一撃に、梨花の神剣が触れる。
 今この瞬間だけは何の小細工も存在しない。
 純粋な、二種の夜桜による力の比べ合いだ。
 決戦は既に佳境。
 どちらの桜が勝るのか、その結末は此処で定められる。


 …閃光が爆ぜて。
 皮下と梨花の周囲を覆っていた樹海が、草の根一本残らず消し飛んだ。
 皮下は空を見上げていた。
 その眼には驚愕が宿っている。
 空。あらゆる雲が晴れた、真昼の青空。
 其処で太陽を背にしながら落ちて来る小さな影が一つあった。
「――馬鹿な。アレを、破ったってのか」
 体の殆どを花弁で補いながら。
 折れた神剣を確りと握って、桜花は其処に居た。
「は」
 皮下の喉から乾いた声が漏れる。
 それは完全なる根負けの声音だった。
 今の一撃は正真正銘の全力であった。誓って嘘ではない。
 それさえもこの少女は乗り越えてのけた。
 文字通り金魚すくいの網を破るように、凌駕してのけたのだ。
「はは、はははは――こりゃ無理だ。お手上げだな」
 よって皮下は此処に万策尽きる。
 彼は古手梨花と戦う手段の全てを失った。
「やっぱ歳なんて…取るもんじゃねえわ。どれだけ見かけを誤魔化したって、若者(ほんもの)の熱には勝てないもんなんだなぁ……」
 さらば。
 愛に出会い、愛に狂した者。
 幾千の犠牲を積み上げながら、最後まで悲劇の女に尽くした男。
 世界に怖気立つ程優しい死を吹かせようとした怪物。
 半ばで欠けた神剣の刀身が空からその頭蓋へと振り下ろされて――
「つーわけで認めるよ、勝負は俺の負けでいい。但し本懐は遂げさせて貰う」


「…ッ!?」
 いざや散華と言ったその瞬間。
 皮下真は、自らの山脈のような巨体を当然のように切り捨てた。
「どうした? もしかして本気で真っ向勝負してくれるとか期待してたか? 駄目だぜ梨花ちゃん、大人の言う事簡単に信じちゃ」
 上半身だけの状態で離脱した皮下。
 その真下で、今まで猛威を奮っていた巨体が嘘のように沈黙する。
 理屈としては蜥蜴の尻尾切りと同じだ。
 皮下は梨花への敗北を認めながら、肉体の死を避ける為に此処で古い体を捨てたのである。
「色々格好良い事言わせて貰ったけどな。俺は結局…最後に勝てれば後はどうでもいいんだわ」
 皮下の勝利条件は種まき計画の成就。
 そして、梨花が制限時間に到達する事。
 梨花の想定外の奮戦により前者は破綻した。
 だが後者ならば今からでも掴み取れる。
 皮下は彼女への敗北を認めながら、然し勝利だけは逃すまいと逃げの一手を打ったのだ。
「待ち、なさい…! 皮下ぁ……!」
「楽しかったよ。そしてありがとな」
 梨花にもう時間はない。
 間に合わない――逃げられる。
 失意の梨花へ皮下が向けるのは感謝だった。
「こんな形で終わりはしたが…アイツの言葉を届けてくれた事には素直に感謝してる。最後の敵が君で良かったよ」
 …斯くして終焉。
 夜桜対決は少女が制したが。
 勝負の真髄の部分は魔人が掻っ攫う。
 それが意味するのは世界の滅び。
 あらゆる人間の死と、皮下真の願望の成就だ。


「――まだ」
 そう。
「――まだ、おわってない…!」
 この対決が本当に一対一だったならば。
 皮下真は、間違いなく勝っていた。


「――何」
 肉体を捨てて翔び立った皮下の側頭部に衝撃が走った。
 殴られた。それは解る、だが誰に?
 答えは明らかだった。
 今響いた終わりを拒む幼き声を、皮下真は知っている。
「どうして、お前がまだ…」
 結末に否を唱えたのは一番最初に散った虹花の少女だ。
 大神犬の遺伝子を宿した成功作の一体、アイ。
 彼女が皮下の虚を突いて打撃を加え、彼の逃走経路を破壊した。
 アイは皮下に腹を裂かれた。
 その上で桜生い茂る地表に叩き落されたのだ。
 生きている筈がない。
 疑問と共に少女の姿を見れば、其処には凄惨な姿があった。
「アイさん、約束したもん…」
 幼い体には桜が生えていた。
 桜の苗木が患部から突き出て体の形を大きく歪めている。
 顔の半分が溶けて原型を失っており、誰が見ても永くないと解る――生きている事が不思議な程の容態で。
 それでもアイは梨花を助けに来た。
 その拳で、逃げる夜桜を殴り飛ばした。
「梨花の事、助けるって…約束した、もん……!」
 皮下の脳裏に走った動揺。
 全くの予想外。
 アイに驚かされるのはこれで三度目だ。
 二度ある事は三度あるとはよく言った物だが、すぐに脳を冷静へ引き戻す。
“まだ回避は間に合う。俺の開花を使えばどうとでも……”
 所詮アイは可能性なき者。
 大局は揺らがず結末は変わらない。
 重篤な損傷を被った体に鞭打ち桜の蔦を生み出す。
 これをワイヤー代わりにして動けば距離を稼げる。
 今の梨花が相手ならそれでも十分事足りる筈――そう思った所で。
 皮下は、音を聞いた。


 ぶうん。


「残、念…!」
 それと同時。
 真下で物言わぬ廃棄物と化していた、皮下のかつての総体から何かが飛び出た。
「だったなァァアアアアアアアア!!!」
 チェーンだ。
 その主が誰かなど最早言うまでもあるまい。
 肉と桜の山が内側から切り崩されて破砕。
 そして、内側から血塗れの少年が飛び出した。
 神戸しおのライダー、デンジ。
 皮下が封じ込め無力化した筈の雑兵が、伏兵に生まれ変わって彼の命運を絡め取ったのだ。
「…アイめ……! やってくれたな、このクソガキ………!」
 デンジへの警戒はずっとしていた。
 彼が逃げる己へ何かしてくる可能性は想定していた。
 それだけならば対処出来る筈だったのだ。
 然しその状況に陥る前に起こった不測の事態が全ての想定を覆した。
 アイ。この場で最も無力で無価値だった少女の意地。
 運命の車輪に紛れ込んだ小さな小さな一個の砂粒が、目前に迫った勝利を破壊する。
「やれ!」
「やっちゃえ…!」
 チェーンで皮下を繋ぎ止めたデンジ。
 拳を振り抜いた格好のままのアイ。
 二人の言葉が、重なった。
「「梨花ァ!」」
 彼らの境遇は呉越同舟。
 されど今この時だけは一つの目的の為に。
 皮下は動けない。
 彼もまた満身創痍――そして凶悪なる巨体は切り捨ててしまった。
 そんな男に目掛けて。
 古手神社の巫女、桜花の血脈の末子が神剣を突き出す。
「――――――――!」
 最後に響いたのは誰の叫びだったか。
 定かではないが、一つだけ確かな事がある。
 折れた神剣は過つ事なく振り下ろされた。
 その上で皮下真の――春来に至りし夜桜の魔人の心臓を、確りと貫いていた。

    ◆ ◆ ◆

 桜の雨が降るのを見た。
 梨花は一瞬それが何だか解らなかったが、すぐに気付く。
“ああ――”
 これは自分の体だ。
 崩れ形を失った自分の体が桜に変わって散っているのだ。
“終わったのね、全部…”
 死を目前にして、然し梨花は冷静だった。
 死なんて百年の魔女にしてみれば幾度も超えてきた丘でしかない。
 それに今回のが終わっても、また何処かで新たな物語が始まるのだと解っているから怖くはなかった。
 また何かのなく頃に、自分は物語の門出を見る。
 悔やむ事があるとすれば方舟の彼女達の行く末を見届けられなかった事。
 後は全てやり切った。
 皮下を斃してつぼみとの誓いも果たせた。
 このまま風に身を任せて散るだけだ。
 何とも気楽で、そして安らかなものだった。
「梨花」
 崩壊していく右手を握る感触があった。
 一度は閉じた眼を開いてみれば、目前には虹花の少女の顔がある。
「…アイ。ごめんね、あんたを巻き込んじゃった。
 あんただけならもしかしたら……霧子達と一緒に新しい世界で生きていけたかもしれないのに」
「えへへ…気にしないで、アイさんこーかいしてない……。
 梨花を助けれてよかった……アイさん、生きてて、生まれてきて…………よかったぁ……」
 彼女の体もどうやら限界のようだった。
 元々生きているのが不思議なくらいの状態だったのだ。
 目的を遂げて、張り詰めていた命の糸が切れてしまったのだろう。
 もう痛覚も働いていないのか面影を残している半面は安らかだ。
「あのね…でもね……アイさん、死ぬのは………まだちょっと、こわいの…………」
 可能性なき者でも明日に辿り着ける。
 その可能性は確かに示された。
 けれど、叶いはしなかった。
 方舟の崩壊が無かったとしてもアイは生き残れなかった。
 それでも、誰の眼にも止まる事なく無価値なまま塵芥のように消えてなくなる事だけはなかった。
 彼女は一矢を報いたのだ。
 皮下に対しても、そして傲慢な聖杯(かみ)に対しても。
 未来の事だって思っていいのだと示す事が出来た。
 少女はそうして生きて、こうして死んでいく。
「だから、ね…梨花……」
「うん」
「手を、握ってても………いい…………?」
「…勿論」
 桜の雨が降り頻る中で少女達の命は尽きる。
 アイに抱かれて墜ちていく中でも梨花は微笑んでいた。
 隻腕で彼女の手を握りながら、寄り添っていた。
「よくできました。偉いわ、"アイさん"」
「……………えへへ………………」
 そうだ。
 とってもよくできた。
 自分もアイも。
 この世界に生きた誰も彼も。
 みんな、よく生きた。
“あぁ…疲れた。流石にちょっと眠たくなってきたわ”
 落ちて行く。
 只何処までも落ちて行く。
 でもその先はもう奈落ではない。
 井戸の底なんかじゃ断じてない。
 百年を生きた魔女は物語を終えて、新たな旅立ちを迎えるのだ。
 これはその前の、ほんのちょっとした仮眠に過ぎない。
“一眠りしたらすぐに行くから…今度は、不貞腐れたりしないで……大人しく待ってなさいよね………”
 先に旅立った親友の顔を思い浮かべながら梨花は再び眼を閉じた。
 それきりだ。二度と瞼を開ける事はなく、古手梨花はこの世界から永劫に消失する。
 軽い音がひとつして。
 地には人獣の少女が一人眠っているだけ。
 桜の花を胸いっぱいに抱き締めながら、少女は静かに眠っていた。

【古手梨花@ひぐらしのなく頃に業  脱落】

    ◆ ◆ ◆

 花びらが一枚、少女の額に触れた。
『ごめんなさいね。悪いようにはしないから』
 響いたのは女の声。
 それと同時に意識がぷつんと落ちる。
『少しだけ、貴女の体を貸してください』

    ◆ ◆ ◆

 …立ち上がる。
 そして敗北を噛み締めた。
 現実逃避など許されない程明確にその光景は広がっていた。
 夜桜の樹海が枯れていく。
 世界を満たす滅びの花が。
 もう二十秒もあれば種を撒けていた筈の夜桜が、生まれた時と同様に急速に朽ちていく。
 その光景を前に皮下は「は」と小さく笑った。
 彼の体は五体満足の状態にまで再生していたが、先刻までの煮え滾るように暴力的な生命力は何処にも見られなかった。
 ――敗けたのか、俺は。
 ソメイニンの躍動が感じられない。
 鬼ヶ島ごと地に落とされた時も確かに危なかった。
 然し今のこれはあの時のとはまるで違う。
 体の全てが限界を迎えている感覚があった。
 細胞、臓器、筋肉、骨、神経まで全てだ。
 どうも今しがたの再生で全ての余力を使い果たしてしまったらしい。
「…梨花ちゃんは先に逝った、か」
 それでもこの有様ではどうにもならない。
 全てを失う破滅からさえ立ち上がった皮下でも、これは流石にお手上げだった。
 そも、最後の再生だって申し訳程度のものでしかなかった。
 体の中で正常に機能している部分は推定で一割を遥かに下回る。
 恐らく自分はものの数分で"枯れる"だろうと皮下はそう理解していた。
 つまり、これは負け犬が敗北を噛み締める為に与えられた意地の悪いロスタイムという事だ。


 幽鬼のように一歩を踏み出す。
 一歩が重い。
 歩くだけで存在が霧散する錯覚を覚える。
 あの紙麻薬、一応抱えておくべきだったか。
 そんな益体もない事を考えながら歩く事数メートル。
 其処で皮下は霞む視界の先に一人の少女を見付けた。
 覚えのある少女だった。
 付き合いで言えば全ての聖杯戦争関係者の中で最も古い。
 けれど違うと一目で解った。
 何が違うのかと聞かれれば上手く説明出来る自信はない。
 それでも、違うと思ったのだ。
 そんな男に。もう死ぬのを待つだけの敗者に。
 少女は、幽谷霧子は―― 
 霧子の姿をした"誰か"は柔和な笑みで口を開いて。
「お久しぶりです、川下さん」
 そんな事を…お日さまの少女が言う筈もない事を、言った。
「私の為に…大変な苦労を掛けてしまいましたね」
 皮下の眼が見開かれる。
 古手梨花の予想だにしない強さを目の当たりにした時。
 アイの乱入を受けて命運を断たれた時。
 そのどちらよりも強い…忘我の境に立たされる程の驚きが見て取れた。
「でも、もう十分です。私はもう大丈夫だから」
 これは霧子ではない。
 霧子の体を借りて喋っている何かだ。
 その名については敢えて語らない。
 語らずとも、解るからだ。
 少なくとも皮下には。
「共に足を止めましょう。私は、先生(あなた)と出会えて幸せでした」
 ――男は笑みを浮かべた。
 前髪が双眸を隠している。
「苦痛に満ちた、呪いのような人生でした。それでも…貴方が私に語ってくれる未来にはいつも心が踊ったものです。
 幼い日に…まだ幸せだった頃に聞かされた寝物語のように、貴方の言葉には希望が溢れていました。
 先生と話している時だけは、ふふ――只の少女のように夢を見られた」
 …夜桜は呪いの花だ。
 その血は人を不幸にする。
 悲劇と争いを生み続ける。
 その事を男はよく知っていた。
 だというのに片時もそれに背を向ける事は出来なかった。
 それは何故なのだろう。
 答えは、もう出ている。
「だから」
 女はそう言って、少女のように笑った。
「もう、どうか休んで下さい。ね?」
 …情けのない話だ。
 皮下は自嘲する。
 悟ったような面で決意を吐いておいて、言葉一つでこの体たらくとは。
 そう思いながら男は漸く言葉を紡いだ。
「…ホント、最悪の女だよ。お前は」
 でもお前がそう言うのなら。
 もう、いいか。
 体から力が抜ける。
 保っていた命がかくんと折れたのを聞いた。
「おやすみなさい、川下さん。ありがとうございました」
 灯火が消える直前、鼓膜に触れたのは忘れるべくもない女の声で。


「…あ、れ……?」
 少女の体を借りていた"彼女"が離れ、元のお日さまが帰ってきて。
「皮下、先生………っ」
 少女が自分の名を呼んだのと丁度同じタイミングで。
 ぱぁん、という軽い音が響いて。
 其処で咄嗟に右手を突き出して。
 短い悲鳴を漏らしながら吹き飛ぶ少女の姿を視界に収めながら――背中に強い衝撃を感じて。
 其処で皮下真という愚かな男の意識は永遠に途切れた。

【皮下真@夜桜さんちの大作戦  脱落】


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最終更新:2023年11月20日 04:21