――その花言葉は、【あどけなさ】

 わたしはまだ、この世界の"裏"を知らない。

 穢れを隠して綺麗に彩られただけの"表"に焦がれて。その装飾の犠牲となった数えきれない者たちを知らないままに、帰る場所であると定めている。

 だけどわたしは、いつだってわたしだ。魔王によって開かれた殺し合いの中であっても。或いは仮にこの殺し合いがなく、新世界の争奪戦へと巻き込まれていたとしても。

 誰も犠牲にならなくていい未来をこの手に掴むため、わたしは戦う。





 戦局は、一瞬の硬直を見せていた。

 仮にもゴルベーザを仕留めるために全身全霊で放った五月雨剣をその一身に受け止めた黒竜。皆殺しの剣の呪いで防御力は下がっているはずのゴルベーザとは違い、その装甲を貫くのは困難を極めるだろう。しかしゴルベーザとひとたび剣を交えれば、黒竜の脅威から早季殿を守る余裕は無くなる。

 まるでジレンマだ。そもそも、元よりゴルベーザ一人に対して何とか拮抗していた戦局だったのだ。それに加えて黒竜という強敵をも同時に相手取ることになれば、どう足掻いてもこちらの不利となるのは当然のこと。

「――メルビンさんっ! 下がって!」
「むっ!?」

 硬直が崩れる。唐突に聴こえた、後方からの早季殿の声。戦闘慣れしている様子ではなかったが、しかし彼女の冷静さは子どもながら信頼に足るのも確か。言われるがままに、一歩引き下がる。

 すると次の瞬間、岩石群が黒竜とゴルベーザの上方から降り注いだ。早季が見せつけるだけに留め、行使せずにいた力を、ゴルベーザとメルビンの距離が離れ、黒竜という大きな的が現れたために放出したのだ。さらにそれは一撃では終わらない。その場にある数々の岩を次々に浮かべては、呪力によって投擲していく。早季の呪力という力について最低限は聞いていたが、その規模はメルビンの想定の上をいっていた。まだ幼い少女であるというのに――想起されるは、幼くも天地雷鳴士の真髄に到達し、森羅万象を司る魔法を極めたにもかかわらずこの世界の犠牲となった少女、マリベル。その末路を知っているからこそ、早季殿に後を追わせるわけにはいくまいと、改めて気概を湧き上がらせる。

 しかしすでにそれをブラフとして仄めかされていたゴルベーザにとっては、予期していた攻撃が今さら訪れたというだけだ。今さら心を掻き乱されることもなく、自分たちへと飛んでくる岩のひとつひとつを皆殺しの剣による長距離斬撃で打ち払っていく。

「黒竜よ、あの老兵を刈り取れっ!」

 そして、その隙を補うために黒竜に前進の指示。黒竜と密接していたら、早季にもメルビンにも範囲攻撃で纏めて攻撃されかねない。

 現状の早季は、メルビンが大きく後退したことも相まって皆殺しの剣の射程外から呪力による攻撃ができている。だが、立て続けに飛んでくる岩石も、それを飛ばす力も、所詮は有限。どちらかのストックが切れるまで老兵の攻撃を凌げば、黒竜との連携で殲滅は容易だ。


「グオオオオオッ!」
「この気迫……できるっ!」

 黒竜は命令の通りにメルビンに狙いを定め、"黒い牙"を構えて突撃する。ゴルベーザとの斬撃の応酬とは違い、種族差と体格差に任せた重量攻撃。力で押すのは厳しいか。ならば、技巧で逸らすのみ。

「真空波っ!」

 竜という種族からすれば向かい風に過ぎない風の刃も、動きを遅めるには充分。その速度を殺した上で、迫る牙の方へと跳躍。

「へんてこ斬り!」

 己へと伸びる長い首を撫でるかのごとく削ぎ払い、その首の向かう先を斜めに逸らす。追加効果で混乱状態に陥った黒竜の牙は虚空を切り、そしてメルビンの狙いは未だ早季の攻撃を防ぎ続けているゴルベーザに定まる。

「さあ、第2ラウンドと参ろうか!」

 早季の飛ばした岩とワンテンポズラして突撃するメルビン。両方を同時に対処しようとすると、その手段は限られる。斬撃の一閃ではタイミングが合わない。

 まだ見ぬカードを切ってくるのならそれで良し。すでに見た魔法であるならば――

「――サンダガッ!」
「そうくると思っていたでござるよ!」

 辺り一面に降り注ぐ落雷の嵐。飛んできた岩を撃ち落としつつも、メルビンへの牽制にもなる。しかし一度受けた魔法である手前、その威力も知っている。

「マジックバリアッ!」

 最低限のダメージは覚悟の上。身体周りに構築した光の壁で伝道する雷撃の威力の大半を殺し、疾走。黒竜と連携されては攻撃に移れる機会こそ稀だ。早季殿の協力の下で訪れたこの好機、"すてみ"の覚悟で活かしてみせる。

「ぬおおっ!」
「ふんっ!」

 両者の業物が火花を散らして唾競り合う。

 しかしこの局面を作り出すまでに、幾つものハンデを背負っている。軽減済みとはいえサンダガのダメージを甘受せねばならなかったし、早季殿のお膳立てがなければゴルベーザに食らいつくことも難しかっただろう。この応酬でゴルベーザを倒さねば、もう一度この状況に持ち込むことすら困難を極めるのは間違いない。

 さらには、拮抗を長く続けることは明確にメルビン側の不利だ。へんてこ斬りの追加効果で混乱を与えた黒竜であるが、決して倒れたわけではない。いずれ、混乱が解けてこちらを襲ってくる瞬間は訪れる。

(できるか……ではないでござるな。やらねばならぬ。)

 実現可能性は、考えたとてノイズにしかならない。それができなかった時はすなわち、敗北とその先の皆殺ししかないのだから。この策は元より策ですらなく、糸を手繰るかのごときか細い道を強引に渡っているだけだ。僅かに運が敵の側に傾こうものなら――


「グオオッ……!」
「なっ……!ㅤしまっ……」

 背後から黒竜の咆哮が耳に入る。メルビンの想定よりも、へんてこ斬りの混乱から立ち直るのが一手早い。しかしゴルベーザと至近距離で打ち合っている今、黒竜に回せるリソースは無い。

「あなたの相手は……わたしがっ!」

 そんな中で唐突に、黒竜の動きが止まった。

 メルビンとゴルベーザの距離が縮まりつつあることを見て、すでにストックもほとんど無くなりつつあった岩石の投擲を中止した早季は、呪力の向ける先を黒竜に変えていた。愧死機構が抑制されてなお残る人間への攻撃の躊躇は、黒竜という異形の怪物には働き得ない。メルビンへと黒き牙を突き立てようと迫る黒竜の首を呪力が捉え、絡め取った。

(あれは……)

 背後から感じた力から、その様相を察知したメルビンは、再び眼前のゴルベーザへと集中力を戻す。

「ふぅ……首の皮一枚、でござるか。」
「なに、ただの延命に過ぎんさ。」
「そうかもしれぬな。それでも……」

 再び訪れた、ゴルベーザとの一騎打ち。まるでそれが運命の導きであるかのごとく、この瞬間は必然の到来であったのだ。

「……その延命が、魔王を滅ぼす刃となるのならば、本望!」

 遥か昔に繰り広げられた、神と魔王の頂上戦争。いつか未来の世界に一人の英雄を希望として託しながらも、その結末は神の敗北に終わった。永きときの中で、戦火に倒れていった友の無念は常に胸に在り続けた。

 そして、現代。ホットストーンから復活した英雄メルビンは、新たなる仲間たちと共に、ついに魔王オルゴ・デミーラを討ち滅ぼした。亡き友と創造主たる神の願いにひとつのピリオドを打った今、遥か昔の友に再び会えるその時を待ちながら、平穏な余生を過ごす……そのはずだった。それがメルビンの帰る場所であるはずだった。

 だが、如何なる運命の悪戯か。魔王オルゴ・デミーラはいま一度蘇った。そして開いたのは、人間同士――それも仲間や友達同士で殺し合わせるという、悪辣な催しだ。

 そして魔王は、その催しに際し一人の男に呪われた剣を授けた。それが魔王の歪んだ意思によるものなのか、それともその軍門の誰かの思惑なのか、はたまた無作為抽出の結果であるのか、それは知り得ない。それでも、現にゴルベーザが殺し合いを加速させる"舞台装置"として選ばれたのは事実。

 それならば、神に選定された英雄と、魔王に踊らされる傀儡が戦いを繰り広げるこの構図は、紛れもなく神と魔王の代理戦争と言えるだろう。太古に行われしラグナロクを模した戦いの、その最前線はこの地だ。

 大昔の大戦は、神の敗北という形で幕を閉じた。その歴史を目で見てきたメルビンであるからこそ、あの時の結末までもを再現させるわけにはいかない。ただでさえ死にかねないほどの大怪我を負っていてもなおまだ戦い続けるメルビンの原動力は、その使命感である。呪われた剣から転写された狂気では、その志を真似ることはできない。この心だけは、明確にゴルベーザに勝っている。あとは――両者の刃だけが、その結末を導き出すのみ。





 呪力は、イメージを具現化させる万能の力である。愧死機構の妨害がなければ、人を殺すこととて容易いだけの破壊力をも帯びている。同族以外に対しては、人間はあらゆる生物よりも強い。バケネズミに人間を神と奉る文化が存在するのも、他の追随を許さない呪力の絶対性に由来する。

 しかし目の前の敵、黒竜にその絶対性は通用しない。殺すこととて厭わぬとの決心の下、呪力を全力で行使してもその身体を破壊できず、せいぜい外から内に向けた力でその身を拘束するのが精一杯だ。この殺し合いの世界による制限があるとはいえ、その地点で黒竜は、人間が他生物に対して抱いてきた規格を明らかに超えた存在であるのは明らかだ。

 ドラゴン、それは上位種であれば神性をも帯びるだけの位を有する神話生物。偽りの神性を掲げ、その力を同族に向けてきた人間よりも、その格を遥か上とする。本来早季が出会うはずのなかった、呪力を行使しても殺傷できない人間以外の生物。生死を分ける戦いの経験すらない早季が直面するにはあまりにも強大すぎる相手だ。しかし曲がりなりにも、偽りの神性を掲げられるだけの力、それが呪力でもある。内向きの力による阻害に打ち破られずとも、一方で打ち破ることもできない黒竜は、メルビンへの接近を一旦、断念。

「っ……!」

 しかしそれが内向きに働く力であればこそ、そのベクトルに沿って首を回転させるだけであるならば、容易い。自らに向いた力の源を察知した黒竜は、早季の方へと向き直る。視線がぴったりと合った時、その鋭い眼光は早季の心臓を高鳴らせた。

 それでも、視線は逸らせない。視界内に働く呪力は、黒竜から目を逸らせば消えてしまうから。己の恐怖に、打ち勝て。強く気を保て。この拘束を解いてしまえば、メルビンさんの方へ向かわれてしまう。



 ――呪縛の冷気



 黒竜の口から放たれた凍てつかんばかりの極寒の吹雪が、早季へと駆け巡る。眼前の大地に到達したそれは、連なる氷刃と化して早季の身体へと走り始める。

「っ――――!」

 叫びたかった。嫌だ、とか、来ないで、とか。絶対的な恐怖を前にした少女が当然に口に出すであろう言葉を、わたしもまた叫びたかった。

 でも、それを口にしてしまうと今度こそ、恐怖が勝ってしまいそうで。

(……気張れ、わたし。)

 呪力を用いれば、目の前の吹雪を散らすことは、可能かもしれない。一瞬の後に必然的に襲い来る痛みだけは、避けられるかもしれない。

(アイツだけは……絶対に離すなっ!)

 それでも早季の視線は、吹雪の先にある黒竜を捉えていた。吹雪が到達し、全身に痺れるばかりの凍傷を刻みながらも、常に呪力は黒竜を捕らえ続けた。絶対に、メルビンさんの下へ向かわせはしない。


「痛っ……!」

 全身にまとわりつく、冷たさすらも感じないほどの痛み。足に、そして腹に突き刺さった氷刃は早季の身体から多くの出血をもたらす。血を失ったことによって、ぐらりと揺れる視界。死線を潜ったことのない12歳の少女の心を折るには充分すぎる苦痛だった。

 それでも、黒竜から一時すらも視線を外すことは無い。日常から大きく乖離した痛みを受けてもなお折れぬは、偏に早季の誰よりも突出した才能、精神力の賜物だ。

「う……ぐっ……それ、でも!」

 なぜなら、その決意の先に――雪解けが待っていると信じているから。誰かを守るために戦うメルビンさんの矜恃を、わたしも抱いていきたいと、そう思ったから。

「わたしたちは……絶対に負けないっ……!」

 我が身可愛さに他者の命を妥協することを、許さない。それが、後に世界を変革に導こうとするリーダー、渡辺早季の信念である。彼女を真に突き動かした友との離別を未だ経ていないとはいえ、その根底となる思想は、すでに宿している。

 しかし、そんな早季の宣誓を嘲笑うかのごとく――黒竜は再び息を吸い込んだ。意味するところは明らか。呪縛の冷気――人間の命を摘み取るには充分すぎるだけの氷点下。それがもう一度、放たれようとしているのだ。

「っ……!」

 どれだけ強い決意を抱いたところで、精神力で耐え抜いたところで、生命力は誤魔化しようもない。まるで人間は無力だと突き付けられているようで。有り余る無念を噛み締めながら、早季は黒竜を呪力で縛り続けた。


「――ごめんなさい、ふたりとも。」

 そんな時、背後から声が聞こえた。その声の主を早季が思い出すと同時に眼前に燃え盛る業火が走り、壁となって早季を襲う吹雪を防いだ。

「アタイ、マリオのことをわるく言われて……何か誤解があったかもしれないって、考えられなくて……ふたりのことも、こうげきしちゃった。」
「ビビアン!?」
「アタイは……アタイのせいで死なせてしまったドラえもんのこと、わすれないわ。」

 ビビアンの"まほうのほのお"で形成された炎の壁に阻まれ、黒竜の姿を視認することができなくなった早季。そのせいで呪力が届かなくなってしまったが、受けた呪縛の冷気の麻痺効果によって視認できる場所に移動することもできない。

 たとえ黒竜を倒しきることまではできずとも、せめて動きを止めないとメルビンさんの方へと向かわれてしまう。そんな早季の焦燥に対し、分かっていると言わんばかりにビビアンは黒竜の方へと向かって行った。

「だからまずは……ドラえもんのカタキをとるの。マリオに……ううん、自分に顔向けができるアタイであるために!」

 ビビアンの手に握られているのは、先端に三叉の刃が取り付けられた深緑色のムチ。カゲに紛れて黒竜の背後へと顕現し、一振りでその細い首に何重にも巻き付けていく。

 まほうのほのおが消えた時に早季の眼前に映ったのは、身体に巻き付けた鎖で、呪力ではなく物理的に黒竜の動きを封じているビビアン。メルビンとゴルベーザの、常に動き回り一瞬の交錯が繰り返される戦場とは対をなすかのごとく、その戦局は完全に硬直していた。

 しかし黒竜の身体に巻き付けられているのは、ある世界の富豪がその富と財を用いて集め回った宝具の中でも、特に絶品と評される神具『グリンガムのムチ』。伸縮自在の鞭の先に取り付けられた刃は黒竜の硬い皮膚にも傷をつけて刺し込まれ、そのまま締め付ける力によってその傷口を広げている。苦悶の声を上げる黒竜、硬直した戦闘の中でも、分は明らかにビビアンの側にあった。

 さらに麻痺の影響が抜け始め、少しであれば身体を動かすことも可能になった早季。

「わたしも、ごめんなさい。」

 拘束は、すでにビビアンが成している。早季が行うべきは、黒竜の身体にくい込んだ刃をさらに身体の芯まで深く、くい込ませること。傷口に呪力を行使し、ムチの刃先を深く深く沈めていく。

「放送でドラえもんの名前が呼ばれた時にね……ビビアンのこと、疑っちゃったの。」
「……状況が状況だったもの。アタイがドラえもんを殺したって思われてもしかたないわ。」
「ううん、違うの。もちろん、状況を見て思ったのもあるんだけど……」

 ドラえもんの死を知った時にビビアンを疑ったのは、ドラえもんがビビアンを追っていたからという状況証拠によるものだけではなかった。

「それよりも、人間が他の人を殺すなんて、思っていなかった。ビビアンが人間とは別の生き物だっていうだけで、ビビアンがやったのだと思い込んでしまった。」


 確かにビビアンはドラえもんと喧嘩をしていた。ここが殺し合いの場だからこそそれが決定的な不和に映っていたけれど、だけど些細な意見の食い違いから言い合いに発展することくらい、人間にだってあるじゃないか。わたしだって、わたしに似て意地っ張りなところがある覚とは、たびたび喧嘩をする。そう、誰にだって起こり得ることなのに、それを安直に"殺し合い"に結び付けてしまったのは、人間に対する理屈のない信頼と、それ以外への根本的な不信に他ならない。ビビアンを疑った理由は、ビビアンが人間ではないという、ただそれだけの理由でもあったのだ。

 もしも運命の歯車が極わずかに食い違っていて、ゴルベーザに殺されたのがビビアンの方であったならば――わたしはきっとドラえもんのことも、ビビアン同様に疑っていただろう。彼の優しい心には、少なからず触れていたはずなのに。

「だからわたしも、ビビアンに謝るわ。」
「……わかった。……向き合ってくれて、ありがとう。」

 ビビアンがドラえもんに言った、謝罪の言葉。その答えは、返ってくることはなかった。ドラえもんの亡き今、彼を真に許せる者など、この世にはいないのだろう。仮に居たとしても、それは早季ではない。それ以上に彼と、短いようで長い時間を共にした少年がこの世界にいる。

 しかしそれでも、早季とビビアンの邂逅は、両者の心に蟠っていた罪悪にひとつの答えを差し出した。まるで呪われているかのようにから回った関係性の負の連鎖は、今ここにひとつの解呪を迎えた。

「グギャアアアッ!」

 そんな早季たちに、黒竜は三度目となる呪縛の冷気を放つ。身動きを封じられている現状、それが黒竜に許された唯一の抵抗だ。しかしそれは、早季が一人で黒竜を足止めするならば決定的な致命打でもあった。

 だけど今はもう、一人じゃない。

 わたしが黒竜を縛り付けている呪力を解いたとしても、その進軍をビビアンが止めてくれる。


「大丈夫、わたしに任せて!」

 吹雪に真っ向から呪力をぶつける。二度に渡って早季に命の危機を訴え続けた冷たさはその力を微塵も発揮することなく、早季の眼前数メートルの地点で霧散する。

 呪力は、万能の力と呼ぶに足るだけの特異的な力だ。殺傷への躊躇が想像力を阻害し、愧死機構がなくとも簡単には人体を爆散できないこと。同じく呪いの力を秘めた皆殺しの剣への干渉ができないこと。種族として格が違う黒竜を即座に破壊できなかったこと。この戦いにおいて早季を苦しめたそれら全ては、あくまで例外である。

 それらの要素から乖離した冷気それ自体への対処であるならば、呪力の強みをもってすれば、赤子の手をひねるよりも容易い。

 そして眼前には、刃をその身にくい込ませた一匹の竜。呪力で滅ぼすには強靭すぎる身体を持つ、人間を超えた存在。けれど、その身体に少なくとも物理法則は通用する。傷の付いていない外殻を破るよりも、傷の入った殻をその部分から引き裂く方が、より小さい力で大きい破壊を成せるのは自明である。

「……あなたも、もしかしたらあの男の力に無理やりに従わされているだけなのかもしれない。」

 グリンガムのムチの刃がくい込み身体の内部が裸出している箇所へと、呪力を集中し――その箇所を中心に、外側に放出。

「あなたを滅ぼすことが正しいのかどうかは分からない。あなたにも、家族や守りたい存在がいるのかもしれない。だけど……」

 固い甲羅によって身を守る亀も、いったん甲羅にひび割れを作ってしまえば、そこからの虫の侵入を食い止める術がないように――

「それでもわたしはわたしの守りたい人のため、あなたを倒す。」

 ――黒竜の首は、ぶちぶちと音を立てながらちぎれ飛んだ。思わず目を背けたくなるほどの流血を切断面から吹き出しながら、切り離された首も魔力で浮遊していた胴体も、重力に任せてその場に落下する。改めて生死確認などするまでもなく、絶命したとひと目で分かる有り様だった。

「……すごい。やったわね、早季!」

 まだ幼い早季が見せた異様なまでの出力の魔法に、ビビアンも驚きを隠せない。その使い手が早季のような優しい者でなかったとしたら――続く想像を振り払うように首を横に振った。

 さて、黒竜を倒したのなら、次の方針は語るまでもない。メルビンが黒竜戦に巻き込まれないように、そして早季たちを巻き込まないように意識的に戦場を離したからか、戦場は大きく移動して呪力の影響を直接及ぼしにくい程度に離れている。方角と距離を考えるに、地図上で言うところのF-5にまで移動しているようだ。

「……ねえ、ビビアン。」
「なにかしら?」
「ひとつ、作戦があるの。」

 黒竜を倒しながらも、その一方で組み立てていた思考。ゴルベーザに聴かれる距離にたどり着く前に、メルビンたちの方へと向かいながらその作戦内容を簡潔にビビアンに話す。


「……どうかな?」
「……そういえば、わすれていたわ。これを実行するとなるとアタイたちも危険だけど……たしかにそれが最善だとおもうわ。」

 おそらくその計画の根底にある事実には、メルビンさんも敵も、気付いていない。そんなことに気を回していられるはずもないだろう。

「それじゃあ、メルビンさんの加勢に……」

 そして、その時。

「っ……!」

 呪力の要である視力に長けている早季は、その先の光景がはっきりと、見えた。見えてしまった。

「どうやら、ここまでのようだな。」
「ぬぅ……無念っ……!」

 長きに渡る斬撃の応酬の果てに、メルビンが敗れ、その場に崩れ落ちる光景を。

 戦闘開始前から、限界は近かった。むしろ、ここまで耐え抜いたことこそが奇跡と言えるほどだ。その確定された結末が、当然に訪れたに過ぎない。長期戦になればなるほどメルビンの側が不利であることは、最初から分かっていたのだ。

 そしてゴルベーザは静かに、膝をついたメルビンに向けて皆殺しの剣を振り上げる。

「メルビンさんっ……!」

 咄嗟にメルビンの方へと駆け寄ろうとするが、呪力で止められるほどの距離を詰める時間など、無い。また、仮に届いたとしても、皆殺しの剣を止められないのは分かっている。

 早季にもビビアンにも、確定された死刑の執行を、もはや見守ることしかできない。

 片や、世界の命運を背負った英雄。片や、世界に大厄災をもたらした月の民。その二人の決着に割り込める者など、いるはずがない。

 仮に、そのような者が居るとするならば。


「――プギーッ!」


 その者はきっと、後の世にひとつの称号と共に語り継がれることとなるだろう。――『勇者』という、称号と共に。

「なんだこれは!?」

 どこからか吹き出してきた糸がくるくると、ゴルベーザの腕に巻きついた。その糸の出処へとゴルベーザが振り返ると、そこにいたのは一匹の小さな虫の姿。

「チビィ!?」

 早季には、ゴルベーザの背後からにじり寄るその存在が真っ先に視界に入った。同じ姿の別の生き物の可能性も一瞬よぎったが、先ほどまで常にあり続けたザックの中で蠢いている気配が無くなっている。チビィが窒息しないようザックを開きっぱなしにしていたため、いつの間にかそこから外に出ていたのだろう。


「おのれ……虫けらごときが……邪魔をするなぁっ!!」
「いやっ……待っ…………」

 今度こそ、その死刑執行を止める手段はなかった。しかし、その受刑者はすでに倒れたメルビンではなく、現在進行形でゴルベーザの歩みを阻害していたチビィ。

 ゴルベーザの手のひらから放たれた火の粉は、絡み付いていた糸を伝ってその先にいるチビィの身体へと到達すると、轟々と音を立てて燃え盛る火柱へと変わった。

 その火柱の中心で、チビィはそれ以上抵抗することもできずに燃え尽きていく。心做しか、その顔は――最後の一瞬まで満足そうに、笑っているようにも見えた。

「あ……。」

 ドラえもんの時とは、また違う。名前だけが呼ばれた放送と違い、目の前で命が命だったものに変わっていく瞬間。悲しいとかよりも、怖いと思った。

 これは、殺し合いだ。オルゴ・デミーラと名乗ったあの存在は、これを望んでいるのだ。

 悪趣味だとか、そういった言葉で断ずるのは違う。わたしたちはそれを楽しむかどうかの判断を下す以前に、人が人を殺すという発想自体が生まれ得ない世界で生きているから。

 わたしが黒竜の命を奪ったように。ゴルベーザがチビィの命を奪ったように。わたしの生きる上での価値観に、すでに殺しという概念は、入り込んでしまった。

(わたし、は――)

 そんなわたしは元の世界に、帰れるのだろうか。頭をよぎるのは、存在しないはずの姉の記憶。"何か"が世界と適合しなくて、生きることを許されなかった者。帰る場所を否定するその記憶に――たった、一言。

(――それでも、未来を諦めたくない。)

 涙は、流れなかった。チビィが稼いだその一瞬は、わたしたちがゴルベーザに追い付くには充分すぎる一瞬で、"託された"のだと、そう思ったから。涙に立ち止まっている暇なんてない。涙で視界を霞ませ、呪力の範囲を絞るわけにはいかない。

 呪力を行使できる程度の距離まで接近した早季は呪力をゴルベーザへ向ける。もう、殺傷それ自体への躊躇はなかった。抱いたイメージは、体内からの爆破。


「っ……!」

 しかしゴルベーザへと到達した呪力は、皆殺しの剣を狙っていたわけでなくとも、虹色の蜃気楼を発しながら弾けて消えた。皆殺しの剣の呪いは、すでにゴルベーザの全身に回っている。全身を包む呪いが、ゴルベーザを呪力から守っているのだ。それでも、衝突し合った呪いの力は弾ける際に衝撃を生み、ゴルベーザの身体を少しだけ押し出した。その一瞬に、周囲のオブジェクトのカゲを伝い、ビビアンもまたゴルベーザの眼前に到達してカゲぬけパンチで殴り付ける。

「早季! この人をお願い!」
「……うん!」

 それ以上丁重に運ぶ暇は無いとばかりに、後ろ手でメルビンを早季の方へ放り投げるビビアン。呪力とカゲぬけパンチの連撃に怯んでいたゴルベーザもすぐに立ち直り、ビビアンへと斬り掛かる。

 すかさずグリンガムのムチの刃先で勢いだけを殺しつつ、回避。

 その応酬の間に、メルビンの身体を呪力でキャッチした早季は、そのまま戦線から離れ始める。

「かたじけない、早季殿。ビビアン殿と……そして、チビィも……。くっ、この身体があと少し、動こうものなら……。」

 誰かの命を守るのが英雄の役目であるのなら、チビィは紛れもなく、英雄だった。そして、明らかに自分よりも強い相手にも億さず立ち向かうその勇気は、後世に勇者として名を残すに相応しく。

「……メルビンさんは、ずっと戦っていてくれていたんです。今は、わたしたちに任せて休んでいてください。」
「しかし早季殿、奴は相当のやり手。むやみに戦うのは……」
「かもしれません。でも……だからこそ倒すなら、今しかない。」
「……? それは、どういう……」
「よし……ここなら、大丈夫だと思います。」

 早季はメルビンを戦場から50メートルほど離れたその地点に下ろす。そしてザックから地図と時計を取り出し、辺りを見回しながら眺める。

「早季殿?」
「今の時刻は、7時55分。」
「……! そうか、つまり……」
「はい。今ビビアンが戦っているあの周囲は、あと五分で禁止エリアになります。危険な賭けにはなりますが、あの男を倒すまたとないチャンスです。」


 早季は、この場の誰よりも冷静に戦場を俯瞰していた。息づく暇もない戦闘の中でも二時間前の禁止エリアの情報を常に意識し続け、そして戦術に組み込もうとする。一度も実戦経験の無い時からこの素質、紛れもなく軍師としての才である。否、その力の使い道は戦闘に限らず、どの分野で発揮したとしても指導者として有望な芽であろう。

「……何故、そうまでして頑張るのでござるか?」
「え……?」

 だからこそ、疑問が浮かぶ。呪縛の冷気を全身に受けて、傷だらけになりながらも、まるでそれが当然とばかりに立ち上がって、敵に立ち向かう。

 神兵として訓練を受けた者たちとは違う、人の心の弱さというものをメルビンは知っている。だからこそ、早季殿の強さが異常と呼べるまでの域であることも分かる。

「早季殿は拙者と違い、戦わねばならない理由はないはずでござるよ。」

 自分には、神より賜りし宿命がある。同時にそれは、亡き友の無念を晴らすという目的でもある。それが、ゴルベーザに立ち向かわねばならない理由だ。魔王の傀儡と化したかの強敵を、宿命のために討ち取らねばならない。

 しかし、早季殿はそうではない。友達を守るという動機も、その主体は必ずしも早季殿でなくともよい。ゴルベーザという魔王の驚異から逃げたところで、誰も彼女を責めることはあるまい。

「……確かに、メルビンさんに……大人の方に任せていれば、楽だと思います。」
「いいや、それを楽な道に逃げたと言える者は、どこにもいないでござろう。時には逃げることこそが正解の時もあるでござる。そうでなくとも……そもそも大人は子供を守るものなのでござるよ。」
「……それでも、わたしは――」

 世界は優しさで構成されていないのだと、知った。人間同士を殺し合わせて悦びを感じる者がいるし、誰かを殺すことに躊躇いのない人もいる。大人が子供を守るものだというだけでその世界から目を背けていられるのなら、それはただ仮初めの優しさに溺れているだけだ。

「――誰かがくれた水で、誰かの花壇に行儀よく咲いた花よりも、雪の中でも耐え忍びながら歪に咲いた一輪の方が、より美しいと思えるから。」

 わたしは、向き合いたい。たとえそれが苦しい道でも。そうやって、血や泥に塗れながら戦って勝ち取った世界こそ、優しさで舗装できるものであると信じているから。


「……仕方ない、でござるな。」

 正直なところを言うと、早季殿にはこのまま、自分もビビアン殿も放って逃げ出してほしいと思っている。ビビアン殿の実力は未知数であるが、ゴルベーザを上回るような歴戦の猛者はそうそういるものではないだろう。少なからず戦えていた自分が倒れた今、早季殿の安全は以前にも増して保障できない。

「早季殿……三分でござる。」
「……?」
「拙者はこの三分、身体を休め――その後は意地でも起き上がり、奴を禁止エリアに必ずや留めてみせるでござる。」

 だけど、早季殿の信念を挫く言葉を、メルビンは持っていない。早季殿は『誰か』になろうとしている。自分の生に、意味を与えようとしている。その答えを見出した時に、その瞬間が彼女の帰る場所となれるのなら。この無謀とも呼べる勇気にも、意味が与えられるのであれば。それは彼女が、命を賭けるにも足る願いだ。老いぼれが安易な言葉でねじ曲げてはいけない、若き芽の決意だ。

「だからそれまで……必ずや、生き延びてくだされ。そこから先はこの命に代えても、奴を――」
「……分かりました。必ず。」

 メルビンの言葉が終わると同時に、早季はビビアンの方へと走り出した。その背についていけない自分をもどかしく思う。肝心な決着の時にその場に居合わせることが出来ないことだけは嫌だ。戦友皆が死地へと向かう中で、己だけがホットストーンの中に眠ることになったあの無念を、もう一度繰り返すわけにはいかない。

(頼みましたぞ……早季殿……ビビアン殿……!)

 傷を癒すのに使える時間は、僅か3分。宿屋で泊まる時の、僅か200分の1。そんな僅かな時でもう一度立ち上がれる保障なんてどこにもない。

 できるのは、信じること、ただそれだけ。根拠なき信仰に、命すら張って――やはり彼らは、狂信者なのだ。散りゆく最後の瞬間まで、いつか帰る場所を信じながら戦い続ける。


最終更新:2022年06月13日 16:24