キレイなままで摘まれたい、なんて思わない。

 穢されても、踏み躙られても構わない。

 照らすものが、照明器具でないのなら。あの太陽の下で、咲けるのなら。





 メルビンさんのいなくなった戦場には、縦横無尽に斬撃が飛び交っていて。あの人の背中の頼もしさを、改めて実感することとなった。自分の力で生き延びてきたような気にもなっていた。だけど、わたしを直接庇ってくれた時だけではなく、わたしの気づかない内にも、わたしはあの人に幾度となく守られていたのだ。

 別に、ビビアンが頼りないなどというわけではない。だが、少なくともメルビンさんの戦い方とは根本的に異なっている。カゲからカゲへと移りながら、相手の攻撃を受けるのではなく避けることによって流していく、トリックスターばりの相手を翻弄する技術。それは確かに戦いを有利に運びこそすれ、しかしそれ自体はわたしへの攻撃を防ぐことはない。だからこの場では、自分の身は自分で守らなくてはならない、と――その認識は充分にあったはずだった。

 振り抜かれた斬撃は何の干渉を受けることも無く最後までビビアンを狙い済まし、しかしその最後の瞬間にビビアンの姿は消え、どこか別のカゲに現れる。それを繰り返している内に、ふと敵の視線が、こちらへと向いた。

「早季っ!」

 刹那、ビビアンの声。同時に、横に薙ぎ払われる剣が視界に映ったかと思えば、視界がぐらりと揺れてブラックアウトする。

 ああ、もしかしてわたしは斬られた……のだろうか。刹那浮かんできた真っ当な思考は、しかし次の瞬間に差し込まれた光によって遮られる。

「今のは……?」

 その視界の先にあるのは、横薙ぎに剣を『振り終えた』ゴルベーザ。その射線上にわたしは間違いなく居たはずなのだが、斬撃による痛みは一切受けていない。

「カゲの中のせかいよ。」

 背中からビビアンがその答えを教えてくれた。いや、決して疑問の根幹を解消してくれたわけでもないのだが、それでも一つだけ分かった事実がある。たった今ビビアンにも、わたしは守られたのだということ。

 これまで何十分と戦い続けている中の、たったの三分。それだけでいいのだ。しかも相手を倒す必要もなく、ひとまずは生き延びればそれでいい。もちろん、やれるだけの消耗を促せばメルビンさんの負担を減らすことに繋がるし、倒しきれるのならそれに越したこともないのだけれど、それでもメルビンさんに頼まれた最低限の仕事は三分間持ちこたえることだ。

 しかしその三分を生き延びることが、こんなにも難しいとは思っていなかった。一瞬でも気を抜こうものなら、あの剣が即座にわたしの首を狙いすまし、そして刎ね飛ばすだろう。

 今は何分、経っただろうか。ああ、メルビンさんとの約束から、まだ30秒も経っていない。


(――メルビンさんは、こんな死線を何度も……!)

 わたしはどこか、大人に近付いているような、そんな気分に陥っていたと思う。全人学級で、なかなか上手くいかなかった呪力のコントロールが段々とできるようになっていった時。禁則に触れながらも、溺れているバケネズミを助けた時。真里亞との関係に、より深く歩みを進めた時。なんでも出来るとまでは言わずとも、自分という世界はどこまでも広がっていけると、それが井戸の中であるとも知らずに根拠の無い全能感に溺れていた。

(まだ、だ。)

 だけど、殺し合いを押し付けてくる残酷な現実は、頼りになる大人がそこにいないというだけで、これほどまでに心を掻き乱してくる。

(まだわたしは……守られてる。)

 剣という危険から物理的に守られているというだけではない。それを守ってくれる人がいること自体に、精神的にも守られている。

 誰かに守られること自体が、悪いというわけではない。むしろ、誰かと助け合うことは美徳だ。班対抗の搬球トーナメント、班単位で取り組む夏季キャンプの課題など、全人学級でも人と人の繋がりを強めるためのカリキュラムは数多く組まれている。そもそも、交合う相手もおらず独りで生きていく人間の方がよほど稀な存在だと言えるだろう。

 それでも――いや、だからこそ、だろうか。わたしも、誰かを守れるようになりたい。誰かどころか、自分すらも守れない今の私から、脱却したい。

 だから――

「――もう、吹っ切れた。」

 呪力を全力で放出。ゴルベーザへと叩き付けられたそれは、やはり虹を生んでかき消える。しかしそれに伴い生まれる衝撃は明確にゴルベーザを前方から打ち込み、怯ませる。そしてその力は――先ほどよりも明確に、強くなっている。

「ぐっ……!?」
「この力で誰かを傷付けるのが、怖かった。だけど……」

 これまでは、皆殺しの剣の呪いなど関係なしに、メルビンさんを巻き込まないために戦闘中のゴルベーザへの呪力の干渉はできなかった。もちろん、それは戦略的に見ても妥当と言える考え方だ。誤って味方を背後から打ってしまおうものなら、陣形なんて一気に崩れ去る。

 だからといって、リスクを負わずとも生き残れるという状況は、とうに終わっているのだ。呪力という便利な力は、少なくともこの三分間を生き残るのには必須である。ビビアンのカゲがくれの力は、ゴルベーザをこの場に留めておく力はない。ターゲットを変更されてメルビンさんの方に向かわれようものなら、その地点でメルビンさんは殺され、さらにはゴルベーザを禁止エリアに留めておく作戦も失敗する。

 だから、ゴルベーザを留めるのに必要な力は、わたしの呪力に限られるのだ。


「……力を使わずに誰かを失う方が、よっぽど怖いんだ!」

 そしてわたしは、知識として知っている。呪力は、心の力。恐れを抱きながら行使しようものなら、心の乱れが反映されてその出力も弱まってしまう。

 だったら、意識的に吹っ切れてやる。呪力同士の干渉に伴う虹色の蜃気楼が、周りに何かしらの悪影響を及ぼす危険性などという曖昧な脅威は、もはや考慮なんてしていられない。倫理規定違反だとか、幾度となく死に直面している今やどうでもいい。

 撃てる限りの呪力をこの三分間に込めて、どんどん撃ち込む!

「おのれっ! それならば……」
「――その意気よ、早季。」

 ファイガによる空襲により、火球を対処しようとすると剣で、剣を縛り続けると魔法で――その二択を迫ろうとするゴルベーザ。その行使を止めるために、ビビアンが割って入る。魔力を込めた右腕に、グリンガムのムチが巻き付いた。そのまま、思い切り引っ張って手のひらの向く方向から早季を外す。

 それは、黒竜の拘束にも使った手段だ。しかしゴルベーザは、改めて魔法を詠唱し直し――

「無駄なこと、ブリザガッ!」
「えっ?」

 ――対処法の有無という点において、黒竜の時とは違う。ムチを凍結させながら伝う氷刃が、ビビアンの腕まで到達し、ムチと連結させた状態で凍り付かせる。

「っ……! しまった!」
「これならば、影に紛れる妙技も扱えまい。」

 ムチによるゴルベーザの拘束は、一転してビビアンの拘束へと変わる。一方のゴルベーザ、余った左腕で皆殺しの剣を縦に振り下ろす。地上に繋ぎとめる氷の楔でカゲがくれを封じられた今、ビビアンにゴルベーザを制するだけの体術は備わっていない。

 ――ガッ!

 しかしそれと同時、ビビアンの方へと首を向けていたゴルベーザの側頭部に、高速で飛来してきた何かが衝突した。呪いで防御力を失った肉体。さらには人体の急所に当たったそれはゴルベーザの視界を大きく揺らし、膝をつく。

 早季が呪力で投擲したのは、彼女に支給された『トアルの盾』。本来の用途は防具であれど、呪力の出力で投擲すればそれは相応の質量を宿した武器である。


「……!」
「助かったわ、早季。」

 そしてゴルベーザの起き上がった先には、まほうのほのおでブリザガによる凍結を溶かし、拘束を解いたビビアン。

「ここからは、アタイがっ!」

 そのまま、カゲぬけパンチが炸裂した。その拳に宿したやけどの追加効果によって即座に反撃に移れないゴルベーザを尻目に、木陰へと移動する。その位置から、まほうのほのおで遠隔攻撃に移る。

「ファイラ!」

 その移動先を見切ったゴルベーザはその先へと右腕を突き出して、同時に繰り出された炎魔法によってまほうのほのおを相殺。

 しかしそれで、構わない。目的はゴルベーザをなるべく足止めすること。こちらの殺傷ではなく攻撃の相殺にリソースと時間を割かれるのであれば、その一手には意義が生まれる。

 だからこそ、現状はうまくいっているという認識が根底にあった。カゲがくれの移動先に対する相手の反応速度が明らかに速くなっていることについて、危機感もないままに――ゴルベーザのカゲへと移り背後から現れたビビアンが、拳を突き出す。

「甘いっ!」
「っ……あああっ!」

 一方のゴルベーザは、その瞬間を待っていたのだ。これまでのやり取りでビビアンの攻撃のクセは少しずつ分かっていた。

 ビビアンも意識的にタイミングをズラしていたことによって、明確にいつであるかは分からなかったが、定期的に放つカゲぬけパンチの瞬間は間違いなく刃の射程内に入ってくる。

 その瞬間を突く準備を、常に意識し続けた。そして、まほうのほのおとファイラの衝突が生み出す爆炎は、両者の間に煙幕を生み、互いの動きを見えなくするのには十分すぎた。だからこそ、カゲがくれの瞬間を視認できず、気付かれないままに背後に現れる絶好の機会であり、同時にゴルベーザにもその接近が予期できる瞬間でもあった。ファイラの発動と同時に己が作り出すカゲの方へと向き直り、斬撃を向ける準備を完了させていた。

 炎を纏った拳と、皆殺しの剣が真っ向からぶつかり合い、競り勝ったのはゴルベーザの側だった。ビビアンの拳は魔法の力でやけどを負わせることによって足りない威力を補っているに過ぎない。斬撃の威力と範囲に特化した剣との真正面からの衝突としては、当然の結果だ。

 刃が正面から突き刺さった拳からは、赤い血が溢れるように流れ出す。

「はぁ……はぁ……。」

 これ以上の攻撃は臨めないと判断したビビアンは、咄嗟に近場のカゲに飛び移りゴルベーザの追撃の回避に移る。だが、すでにゴルベーザに対して手の内を明かしすぎている。直前に動いたビビアンの視線を、ゴルベーザは見逃さなかった。

「――そこか。」
「えっ……? うぁっ……!」

 咄嗟の判断に、攪乱までを計算に入れたカゲとカゲの移動などできようはずもなく、それ故に、最も読みやすい。ゴルベーザが手のひらを向けた先に放たれるは、詠唱速度を極限まで高めたサンダラ。瞬時に電流がほとばしり、ビビアンの全身に駆け巡った。


「う……ぐ……。」
「ビビアンッ!」

 その電撃で一時的な麻痺に陥り、ビビアンは続く斬撃を躱すこともできそうにないのは早季にも分かった。そのため、ゴルベーザにかけ続けていた呪力を、一旦解除。安全な場所に避難させるために、ビビアンへと呪力を向ける。

「――隙を、見せたな。」
「えっ……?」

 結果から言えば、それは悪手だった。

 それまでゴルベーザが早季を狙わなかったのは、呪力による向かい風方向の力が常に働いていたからだ。それを無視して強引に早季を斬りつけようとしても、力の波に押され動きが鈍くなる間に、ビビアンのカゲがくれが先に早季の身体を保護するのは分かっていた。

 だが、その呪力が消え去ったとなれば話は違う。手負いのビビアンよりも『逃げ得る相手』を狙うのは、少なからず合理的だ。

 だが、その合理性以上に――

『――力を使わずに誰かを失う方が、よっぽど怖いんだ!』

 ――あの言葉が、何故か頭から離れなかった。

 皆殺しの呪いは、全ての者に等しく及ぶはずであるのに。あの瞬間から、皆殺しの思念すら振り切るほどに、早季の言葉を遠ざけたくなった。

 自らがもたらした黒魔法の技術によって殺された男、クルーヤ。彼は、暴徒と化した月の民に襲撃を受けた時、黒魔法の力を持っていながらも、抵抗しようとしなかった。それは、セオドールという心優しき青年が、ゴルベーザとしての歩みを進める瞬間となった事件。今の彼の心に、その記憶は残っていない。けれど、残滓のように微かに灯る憎しみが、彼を突き動かした。

 その結果――


「あっ……。」

 ――皆殺しの剣が、斜めに早季の身体へと走った。

 ビビアンのカゲがくれによる視界の暗転とは、違う。目の前が、むしろ真っ白に染まっていく感覚。胸から紅い鮮血を散らしながら、意識を消失させていく。

「早季いいいぃっ!!」

 駆け寄ろうとするビビアンに、返しの太刀が迫る。ああ、すでにゴルベーザは早季への興味を無くしている。ドラえもんのように身体を両断されたわけではない。まだ生きている可能性は十分にあるし、治療次第では助かるだろう。だが、仮に早季が生きているとしても、駆け寄ろうものなら共に斬られる。僅かな希望さえも、引き裂かれてしまう。

 ビビアンは立ち止まりながら一瞬カゲに潜り、回避。僅かな時とはいえ心を交わした優しい人を、治療にあたってやれないのが歯がゆい。

「……っ! こっちよ!」

 カゲの身体を縦に伸ばし、上方から重力を乗せたムチを走らせる。その一撃の重さに、皆殺しの剣を横に構えて防ぐゴルベーザ。

 さらに空いた片手で、まほうのほのおを降り注がせる。ゴルベーザはそれを回避しようとはしない。これまでの応酬でその威力を把握している。中級魔法のファイラで相殺できる程度の魔法。月の民の黒魔法の真髄には、遠く及ばない。

 それを甘受しながら、横薙ぎに薙ぎ払う。カゲを縦に伸ばしているビビアンは、即座にカゲに潜ることができない。

「うっ……!」

 咄嗟に身体をくの字に曲げて、回避。しかし完全には避けきらず、剣の切っ先がカゲの身体を掠めて大きく切り傷を残す。

(痛い……だけど……)

 ビビアンのチカラをもってすれば、回避に専念すればゴルベーザから逃げ切ることも不可能ではない。

(早季たちにこれ以上、ダメージを重ねられるわけにはいかないわ!)

 そうなれば早季に、はたまたメルビンに、トドメを刺されてしまう。彼らが生きていること、それは喜ばしいことでありながら、しかし同時にそれ自体が『人質』を取られているのと同等である、最悪の状況でもあった。





 すでに身体はボロボロ。死んでいてもおかしくないだけの傷跡を全身に刻みながらも、それでもメルビンは立ち上がった。

 戦場の様子は、音だけでも伝わってきた。早季殿が斬られたという事実が、メルビンの後悔を駆り立てる。守りきることができなかったこと。そこに居ることすらできなかったこと。遥か昔の魔王との戦いの結末と同じ雪辱が蘇ってくる。

 早季殿が血塗れで倒れていたのが真っ先に目に入る。まだ辛うじて生きてはいるが、このまま何の治療も施せなければ命は無いだろう。そもそも、早季殿が倒れている場所は2分後に禁止エリアへと変わる。治療ができるかどうか以前に、場所の移動を行う必要がある。

 そして早季殿ほど深い傷ではないものの、ビビアン殿も満身創痍という様子だった。早季殿や拙者へと攻撃が向かわぬよう、回避よりも受け止めることを中心に戦った結果であろう。

「よく持ちこたえてくれた、ビビアン殿!」
「……メルビン! えっと……」

 どこかぎこちない様子でビビアンは返す。再び立ち上がってくれたことへの感謝、攻撃してしまったことへの謝意、そして早季を守りきれず、危篤に追いやってしまったことへの落ち目。そのような場合でないと分かっていても、様々な感情がぐるぐると駆け巡ったが故の反応。

 だが、そんな感情一切を吹き飛ばすかのごとく、メルビンはただ敵のみを見据え、斬り掛かる。刹那、巻き起こるは金属音。剣と剣がぶつかり、弾き合う。

「しぶといな。拾った命を、捨てに来たか。」
「否……こぼしかねない命を、拾いに!」

 おびただしい傷跡、吹き出ている血の量。それは今立ち上がり、ましてや剣と剣の応酬ができていることそれ自体が奇跡と思えるほどの大怪我だった。たった三分間の自然治癒力で得た力など、底が知れている。メルビンがまた倒れるのは時間の問題だなんて分かっている。そしてそんなメルビンに比べて、アタイの傷はまだ浅い。まだできることはある。まだやるべきこともたくさんある。


 アタイがここに来た目的は、ドラえもんの仇を取る事だ。ゴルベーザを倒すことを考えるなら、いつ倒れてもおかしくはないメルビンに加勢することが最善である。

 だけど――これまでマリオのためにやっていた行動が、結局はアタイのためでしかなかったように。その積み重ねが、自らの愛に疑念を挟む結果を生んでしまったように。アタイがやるべきはアタイがやりたいことをすることではなく、アタイが報いたい気持ちに、報いること。

 あれだけ傷つきながらも、メルビンが戻ってきた理由。それはきっと、ゴルベーザへの恨みや憎しみといった、マイナスの心ではなくて。

(わかってるわ。だってアナタも……マリオとおなじ、やさしい人。)

 その心を、汲み取りたい。命を賭けてまで、早季のために戦いにきてくれた人がいるのなら――アタイがやるべきは、メルビンの望みを――早季の命を、最優先で守ること。

 メルビンとゴルベーザの戦いをよそ目に、倒れた早季の元へと向かっていく。ビビアンに傷の治療の造詣なんてない。だけど、この一帯が禁止エリアになっても早季の首輪が爆発しないように場所を移すのは、誰かがやらねばならないことだ。それに、倒れた早季が人質のようにこの場にいることで戦い方に制限が課せられるのは、先ほどビビアン自身が経験した通り。早季の安全を確保するのは、メルビンの助けにも少なからず繋がっている。

 そんなビビアンの行く手を遮るように――

「――えっ……?」

 ――小さな爆風が、ビビアンを襲った。

 その爆発に吹き飛ばされる形で、早季のいる場所から弾き出されたビビアン。何が起こったのか理解するために、瞬時に思考を巡らせる。

 ゴルベーザに止められた? それならばメルビンはもう倒れたのか? 疑問と共に振り返るも、二人はまだ戦っている。手練同士の戦闘、直接危害を加えようとしているわけでもないアタイに攻撃する暇なんてあるはずがない。

 ならば、第三者の襲撃? 否、禁止エリアへと変わる時間を目前にして、このような場所に張り込む物好きなんているはずもない。ゴルベーザとの戦闘がなければ、とっくに脱出していてしかるべき場所なのだ。殺し合いに乗った者が獲物を求めてやってくるには不合理がすぎる。

 そうなれば残る可能性は、ひとつ。理由も目的も分からないけれど、現実として起こり得るのはそれしかない。何よりも――目の前で起こった爆発は、黒竜を撃破した時に目にしたそれと酷似していた。


 ビビアンの前で、倒れていた人影がのそのそと立ち上がる。その身体は血塗れで、意識が朦朧としているのか、虚ろな目を地に向けながら、糸の切れた人形のように歩いてくる。

「早季っ……! いったいどうしたの!?」
「……ビビアン!? わ、わたし……。ご、ごめんなさい!」

 ビビアンを攻撃した者の正体は、早季以外に考えられなかった。だけど決して正気を失っているというわけではないようで、自分がたった今ビビアンに向けて発した呪力の跡を、得体の知れないものを見るような目でまじまじと見つめていた。

 そして、早季の異常はそれだけではなかった。

「それよりも早季、傷は……」
「えっ……?」

 流れ落ちる血の、その下に――身体に斜めに走っていたはずの裂傷が消えていた。それを指摘され、あるはずの痛みも無いことに気付く。

「……分からない。わたしは確かに、斬られたはず……なのに……。」

 浮かんだ疑問は、次の瞬間に弾き出されることとなる。考える暇なんて、与えられないくらいに――

「わっ……!」

 ビビアンの足元の草木が、急激に生い茂りビビアンの身体に纒わり付く。咄嗟にまほうのほのおで焼き切り拘束を脱するが――その様子を見ながら、早季は何かに気付いた。

「えっ……、もしかしてこれ……わたしの呪力……なの……?」

 彼女は、まだ知らない。己の身に起こっている事象の名前を。いや、知らない方が、幸せなのかもしれない。彼女の帰る場所を失う、この"病気"のことは。


『橋本・アッペルバウム症候群』

 それが、早季の現状を示す病名である。呪力の無意識の暴走により、本人の意思に依らず周囲に破壊的な影響を与え続ける、呪力を司る機構の疾患。もしもの未来で早季から想い人を奪うこととなる、世界の"裏"側。そしてその病気は、大人たちによる子供の処分に脚色を加えた"表"側では、こう呼ばれている――『業魔』、と。

「どうして……呪力が際限なく、漏れ出ているみたい。」
「それは……だいじょうぶなの?」
「分からない。だけど……」

 早季の業魔化の原因に、如何なる要素が含まれているのかは定かではない。

 僅かな時間に休まることなく与え続けられた死の恐怖というストレスを、持ち前の人格指数の高さ故に人格が壊れることなく感じ続けたためか。

 或いは、皆殺しの剣で斬られたことにより、複数の呪力やそれに類する力が体内で干渉し合った影響か。

 或いは、この殺し合いの茶番化を防ぐために愧死機構をDNAから取り除く際に、本来ならば起こり得なかった反応が現れたためか。

 或いは――

「それよりも今は、行かないと……。」

 様々な可能性や再現性、その何もかもが、現に業魔と化している現実を前にしては、どうでもいい。業魔となった想い人の末路に立ち会っていない今の早季にとって重要なのは、自分の身体に起こっている謎の現象ではない。この力によってビビアンを傷付けかねないことと、ゴルベーザとメルビンが今なお戦っているという事実そのものに他ならない。

「早季……ちょっと……!」
「近付かないで!」
「っ……!」

 こちらへ心配そうに駆け寄ってくるビビアンに、一喝。同時に、ビビアンの眼前で小規模な爆発が巻き起こり、それに萎縮するかのようにビビアンは立ち止まった。呪力は、心の力。コントロールできなくとも、強い感情を向けた先に無意識的に強く、発現する。

 だとしたらこれ以上、わたしのせいで物理的に傷つくビビアンを見たくなかった。この現象に、誰も巻き込みたくなかった。

「でも、ケガが……」
「それが……どうしてだかは分からないけど、全然痛まないの。」

 業魔化に伴って発現した、早季本来の呪力の才能。DNAの中でも寿命を司る『テロメア』の部分に至るまで効力を及ぼせるだけの、『再生』の力。黒竜による呪縛の冷気と、皆殺しの剣によってもたらされた傷は、すでに再生を果たしていた。


 周囲にじわりじわりと破壊を及ぼしているこの現象が良いものであるとは、思えない。だけど、そのおかげでわたしはまだ立ち上がれる。メルビンさんやビビアンだって、守れるかもしれない。解決策を探すのは、ゴルベーザを倒してからでもきっと、遅くはない。

 一歩前に進む度に、残す足跡の代わりに歪な形をした植物が顔を出す。破滅がじわじわと広がっていくかのごとく、その周囲の草原の色も、禍々しい紫色へと変わっていく。ビビアンの悲しげな視線を背後から感じながら、わたしは進み始めた。

 そして――それと同時のことだった。じれったいほどにゆっくりと進んでいた時計の針がついに、8:00を示す。

「――禁止エリア内に滞在しているようだな。」

 全員の首輪から、終末を告げるおぞましい声が鳴り響いた。

(――オルゴ・デミーラ……!)

 その声の主を、メルビンは知っている。戦いの決着を魔王の裁量に委ねなくてはならないことは雪辱の極みであるが、催しとしての平等性を信じる他に無いのも事実。というよりも、奴が不平等なジャッジを行うというのなら、そもそも首輪によって生殺与奪を握られた地点でこちらの勝ちはないのだ。

「この警告が終わった後、30秒の猶予を与えよう。それまでに禁止エリアを出なければ命はない。」

 数十秒の猶予があることは、すでに第一回放送で把握済み。早季のみならず、ビビアンもメルビンも心の準備はできている。そればかりか、福音と呼んでも差し支えないだろう。

「そうか、貴様らの狙いはこれだったか。」

 したがって、この放送で最も計算を狂わされているのは必然的にゴルベーザとなる。だが、禁止エリアとなるF-5と隣接するE-5の境界線まで、走れば数秒の距離だ。ここからゴルベーザを禁止エリアに留め続けることこそが、この戦いにおける最後の関門。

「――それでは、スタートだ。」


最終更新:2022年01月19日 14:50