正座

  • 疑問点

本来は居合膝が主流だったはずであるが、現在は正座が主流になってしまっている。

1. なぜ正座があるのか?

2. 正座からの立ち上がりは居合膝からの立ち上がりと同じ身体運用なのか?

同じだとしても居合膝の身体運用を正座からの立ち上がりに生かすべきであり、
単に正座から立ち上がる動作一般を居合膝からの立ち上がりに当てはめるべきではない。


「現代居合道についての武術的考察」平成9年1月25日 石田泰史(無双直伝英信流)
http://homepage2.nifty.com/ubk/ubk13.01ronbun.htm
こちらに正座についての考察があるので引用しておく。

5.「正座」の武術的解釈
 無双直伝英信流を学ぶにあたって、初めに習うのは「正座の部」の技である。もちろん礼式その他、技に入る前に学ぶことも多くあるが、技に関してはすべての基本として、まず「正座の部・前(初発刀)」を稽古する。
 周知のとおり、この正座の部は大森流という別の流れの技であったが、今日では完全に英信流の技術体系に取り入れられている。
 聞くところによれば、大森流は新陰流の剣術に小笠原流の礼法を取り入れて作られたものだという。
 大森流が成立した江戸期の日本には畳文化が定着しつつあり、それ以前の戦場を想定した剣技と比べると少し性質の違うものであることは容易に想像される。このことは居合について考える際、最も慎重に捕らえなければいけない要素の一つであろう。
 大森流の他にも正座の状態からの抜刀を伝える流派は多くあるが、現代において武術家の間で論議の絶えないのが、この「正座での帯刀」についてである。
 時代劇を見ただけでもわかるように、正座での帯刀(しかも大刀だけ)という姿は実に不自然である。
 当時の日常生活において正座をするというのは、まず畳の上に限られると言ってもよいだろう。平和な時代に自分の家の中で帯刀していることはまず考えられないし、まして他人の家や城中などにおいては、なおさらあり得ないことである。
 さらに言えば、技の想定にあるような「互いに正座帯刀の状態で敵と対峙している」というような状況は、あまりにも非現実的である。
 この問題については既に多くの研究家の方々が諸説を唱えていらっしゃるので、ここでの細かい検討は省略するが、「正座帯刀」の解釈のしかたとしてはおよそ次のような例が挙げられるだろう。

①作法・たしなみとしての刀法
 これは「時代背景に伴い、実戦における刀法を必要としなくなった武家社会において、それでも武士のたしなみとして刀の抜き差しを心得ておくべきであるという考えに基づき、屋敷内でも稽古できるように取り入れられたもの」という意見である。

②鍛練のための正座
 正座の状態で長くいるというのは足にかなりの負担がかかるもの(特に現代人にとっては)であり、体勢を変化させることが難しい。
 また、立ち座りを繰り返しながら抜刀することによって、足腰が鍛えられるという考え方である。

③立業の為の正座
 これは②と重なる部分もあるが、要するに「正座という不利な体勢において抜刀を稽古しておけば、体の自由が利く立った状態での抜刀は容易にできるようになる」ということである。(この意見は立膝にもあてはまる)

④礼儀としての正座
 自分より目上の人間の前で居合の演武を行う際、または神前に奉納する場合に、立った状態のままでは失礼にあたるというところから、正座の技が考案されたとする説。

 以上のような考え方が、この「正座の居合」に対する代表的なものではないかと思う。
各説要点のみを挙げたので言葉足らずのところが多々あるが、いずれにせよ「どれが正解」というようなものではなく、正座の居合の成立過程にはすべての説がわずかずつでも当てはまるのではないだろうか。
 ここで考えてみたいのが「正座居合の武術的必要性」についてである。
 振武館・黒田鉄山師範によれば、正座と居合膝(立膝)では全く技の性質が異なるということだが、それでは(私の知る限り)民弥流には存在しない正座の技は、武術的には何の意味も持たないのであろうか。
 現代に伝わる諸流派の技から武術的身体運用が失われ、その形骸化が進んできたことは否めないが、正座の技が古くから存在したということも紛れもない事実である。
 先述の①~④説を含め、何らかの必要性、必然性があってこそ正座の技が生まれたと考えれば、その中に居合膝からの抜刀とは異なった術理が存在してもよいはずだ。
 個人的には②③説を踏まえたうえで、次のように考えたい。

立膝からの抜刀は民弥流に見られるように浮身を使った身体運用で、立った状態の相手に対してより有利な体勢を作ることが可能になるが、正座の場合は淀みない体重移動が困難であり、より精妙な身体運用が求められるものであろう。従って、一般的に行われているような、基本技としてではなく、立業・立膝を学んだうえで研究されるべき究極の技術が「正座の居合」である。正座の姿勢から、気配なく動ける技術を得られて初めて、その存在意義に答えが出せると言える。

 異論は多々あるに違いないが、正座からの抜刀を武術の技として受け継いでいくからには、このような考え方しかないのでは、と思う。
 基本として正座居合を教え、習うのは悪いとは言えないが、それならば立膝・立業を習得した後に、正座の技についてもうひとつ上の次元での分析・研究がなされなければ、ますます技の形骸化は進むであろう。
 英信流修行者は、正座居合の存在をもっと深刻にとらえなくてはならないはずである。

補足
 英信流の租、長谷川主税助英信は元来柔術を得手とした人物であったらしいという説もあり、正座や立膝からの抜刀と柔術の関係も、今後考察の必要がある。

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今年もいよいよ稽古の最終週となった。最後のまとめとして、居合術教室と定例稽古の両方で、正座からの立ち上がり方について、身体操法の観点からおさらいをすることにした。
通常正座から腰を上げる際には、一旦上半身を前に傾けて膝に重心を預けることで下半身を浮かせるようにする。しかし古流居合術の教えでは、大腿部を内旋させる感覚で両膝を詰めることによって、上半身の傾きを伴わず腰から頭までが垂線を保った形で浮きを作るようにする。
腰を浮かすことに力を感じることなく、「浮くという意識」さえあれば、大腿部の操作のみで自然と腰を上げることができるのだ。上半身の変化が少ない分、当然気配も出にくく、また膝に体重が乗りにくいので軽く足を踏み出すこともできる。この腰の浮かせ方ができれば、背後から両肩を押さえられた状態からでも、力のぶつかりをほとんど感じることなく立てるようになる。合気道などの座技にも有効であることはもちろんのこと、日本人の日常生活に広く活かせる身体操法であると言えるだろう。
居合術には正座の業と立膝の業が両方存在するが、腰を浮かせることについては、それぞれに全く違う身体操法が要求される。この違いを理解せずにいると、「ただ座り方が違うだけのもの」に堕してしまう。
正座から立ち上がるということは、ある意味で立膝よりも数倍難しいと思っている。正座の難しさを理解して初めて、立膝という構えの有効性が浮き彫りになると言っても良いかもしれない。
日常の中での立ち座りとは、考えることを必要としないごく当たり前の動きである。だからこそ考えに考える値打ちがあると言えるのではないだろうか。

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最終更新:2011年06月14日 12:08