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 教育行政とは、教育という行為を社会が組織的に、それも主に公的な機関によって運営管理されていることを前提に、そうした管理を総称して呼んでいるものである。
 そして、その管理には当然社会的なルールが存在しており、そのルールが教育法であると言える。
 現代の学校制度は膨大な学校が、国や自治体によって設置され、また私立学校も多く運営されている。国民はすべて義務教育として学校に通うことが必要となっており、前に見たように、教師や生徒の数は国民の大きな部分を占めている。こうした国家的制度を維持していくためには、公的な管理・運営、そして財政活動が必要であり、国家組織として文部科学省が、そして、地方公共団体には教育委員会が置かれている。主要には、そうした文部科学省や教育委員会の行う活動が教育行政であるが、学校の中の運営や、PTA、学校評議会などの活動も含めて考えていくことが必要であろう。また、戦後から1980年代の始まりくらいまでは日教組の力も強く、教育界に対して大きな影響力を行使していた。日教組や民間教育研究団体の活動なども、広い意味で教育行政学の対象となるだろう。
 さて、2年次の「教育哲学」では、教育学と心理学の相違として、価値的立場の有無を示した。つまり、教育は常にある「価値観」を前提とし、その価値観を社会の中で実現することを意図している。カリキュラムというのは、そうした実現すべき価値観の体系とも言える。教育行政が教育の組織運営に関わることであるとすれば、当然教育行政もある価値観を前提とせざるをえない。しかし、詳細は以後の各章で分析するとしても、ここに内在する論理的問題について考察しておこう。
 教育行政学の最初の体系的な構築者であった宗像誠也は、教育行政を次のように定義した。

 私は教育行政とは権力の機関が教育政策を現実化することで、と考えている。そして、教育政策とは権力に支持された教育理念だ、と考えている。ここに教育理念というのは、教育の目的と手段と、内容と方法との総体を意味し、そこには当然なんらかのイデオロギーが貫いているわけである。1)宗像誠也「教育行政学序説」著作集3巻 p165

 ここで宗像が「教育理念」というのが、「教育的価値」といってよい。個々の学校での授業では、おそらく教師がその教育的価値観に基づいて実践を行っているだろう。また、学校運営においては校長や教師集団の価値観が反映している。それと同じように、教育委員会や文部科学省が行う「教育行政」においても、当然「価値観的立場」が基礎になっていると考えられる。
 ところで、近代教育の原則として通常あげられる「義務性・無償性・世俗性」のうちの「世俗性」とは、狭義においては「公教育は宗教に関わらない」という意味であるが、宗教とはひとつの価値観の集大成であるから、公教育が宗教に関わらないという原則は、ある特定の価値観に関わることに対する「慎重な姿勢」を要求するものである。実際に世俗性が前提となっている先進国の教育においても、宗教的なものであるのか、あるいは宗教とは無関係の価値であるのかは、しばしば争われる。2)オランダではカーニバルやクリスマスが、宗教的な行事であるのか、特定宗教を越えた一般的・市民的行事であるのかが、しばしば議論の対象となっている。
 このことが、教育行政に関わる教育基本法の規定において問題となるところである。教育基本法に関わる論点は第一章で行うが、ここでは次の点を指摘しておきたい。
 学校での教育実践における価値については、それほど深刻な対立がない。学力が向上することや、健康や安全が保持されることは誰にとっても重要なことであり、共有された価値であるといえる。しかし教育制度という社会的なシステムに広がるに従って、価値観の対立が大きくなってくる。特に教育行政や教育政策は政治と結びついているから、政治的対立が教育的価値に反映することになり、そうした対立が学校に逆に持ち込まれる場合が起きるのである。
 教育内容に関わる対立として最も顕著な歴史教育においては、歴史学の成果に基づいて歴史をできるだけ正確に教えること自体を否定する人はほとんどいない。しかし、外交関係などが介在したあとの教科書検定などで対立が顕著になり、それが教室の現場に逆輸入されるような対立が戦後続いてきた。
 いずれにせよ不毛な対立は、政治の場でも同様だが、特に教室では避ける必要がある。こうした対立をどのように克服するのか、これも教育行政学の重要な課題であろう。これはまた現代の民主主義がどのように有効に機能するかという問題にも関係している。


教育行政の法律主義 法律に基づいた行政


最終更新:2008年07月22日 22:05