「
学校の危機」とは、学校が、「学校に関わる人たちのものになっていない」ことを意味する。教師や生徒や親、そして地域の人々が学校のあり方に満足をもっているなら、学校は危機にならないわけだから、それは彼らの意に添わない、あるいは、意に添うように学校が運営されていないことを意味する。学校で教えられている内容が意に添わないならば、学校を新しく設立することになるだろう。また、教えられている内容は問題ないとしても、教え方や運営の仕方に疑問を感じるなら、あるいは、設備が不十分であるなら、改めることを目指すだろう。いずれにせよ、「学校づくり」と言われる活動が実際に取り組まれてきた。
まず、新しく学校を設立することを考えてみよう。
学校が危機になったとしても、新しい理念に基づく学校を設立することが、とても難しければ、学校の危機を克服することもまた難しくなる。日本は、おそらく極めて学校の設立が困難な国ではなかろうか。学校は、構造改革特区の例外はあるにせよ、法人でなければ設立することはできないだけではなく、莫大な資金が必要である。日本の学校には、標準的な基準が定まっており、敷地、校舎、校庭、図書や教具などから始って、教師等、予め充足しなければならない条件が非常に高く設定されているのである。そして、条件を満たさなければ、認可されず、学校として機能すらできないのである。そのために、学校の物的な教育条件は、国際的にも高いが、逆に、同じような学校ばかりが設立されることになる。「個性」重視の時代とは言え、学校自体、あまり個性的な学校はない。
それに対して、欧米では、学校に必要とされる物的条件は極めて低く設定されており、「認可」が必要とされない場合もある。(アメリカには、日本のような公的な機関による「認可」は存在しない。)従って、日本人からみると、貧弱な学校としか見えないものもあるが、しかし、理念に従って、新しい学校を設立することが、日本よりはずっと容易である。
オランダでは、一定数の生徒を集めれば、私立学校であっても、経常費は公費によって支出される。つまり、財政的には私立と公立の差がないのである。
また、デンマークの民衆学校(フォイケスコレ)は、日本では専門学校のようなものであるが、民衆が自発的に設立する例が多く、これも、テーマの意義が認められ、ある程度の数が学生として登録されれば、公費補助がでる。日本人が設立した民衆学校も存在しているのである。
日本でも遅まきながら、また非常に限定された形ではあるにせよ、学校の設置を容易にするための政策が検討されている。2003年1月に出された
文部科学省の方針で、限定された目的の学校で、かつ特区として地方自治体が設定する場合に限られるが、校地取得が学校設置の条件であったのを、取得しなくても設置できるように条件を緩和された。
原則的なことだけ考えておこう。
学校を簡単に設置できることはいいことなのだろうか。あるいは却って国民にとって不利益になることが少なくないのだろうか。
設置が基準によって厳密に検査され、検査に合格した場合にだけ学校が設置されるとすれば、それは学校に対する平均的な信頼感が保証される。つまり、教育条件が低い学校は存在しないわけだから、安心して学校に子どもを任せることができる。少なくとも設備等に関しては。それに対して、設置基準があいまいで検査もあいまいであれば、教室が足りなかったり、教具として必要なものが揃っていなかったり、あるいは教師も資格をもった教師がそろっていなかったりする危険性がある。入学して初めてそれに気づいたとしても、学校を簡単に変えることは難しい。日本でも塾のように設置基準や審査の存在しないところでは、入塾して被害を受ける場合もある。そして、その場合被害の救済も困難な側面が多い。
しかし、教育に対する要求が多様になってくると、基準が厳格であると、多様な要求に応えることは難しくなる。基準は平均的な要求や社会的なニーズを多く反映するから、どうしても画一的な基準になる傾向がある。そうすると現在の不登校に現れているように、その学校に適応できない子どもが増加してくる。そうした事態に対応するためには、個性的な要求にも応えられるような学校を設置することが必要となる。しかし、そのためには基準を厳格に指定することはマイナスであろう。
この基準には、もちろん設備や教員に対するものばかりではなく、上記文部科学省の政策に見られるように、それまでは「所有」が条件であったものを「賃貸」でも可とするかどうかというような面も含まれる。理想的には、土地を所有し、そこに教育理念にあった校舎や施設を建築することことが望ましいだろうが、日本のように土地や不動産が極めて高価である場合、所有を絶対条件にすると学校設置は極めて困難になる。しかし賃貸である場合には、契約継続の不安定さや教育理念を発揮できる建築物が使用できるようになるかどうかの困難さが生じる。
問題はどのように制度的にバランスをとるかであるが、いくつかの方式がある。
アメリカのように、民間団体が基準協会を作り、そこが基準作成、審査を行い、結果を公表するという方式である。この場合、基準そのものが多様になるから、画一的な基準になることを防ぐことができる。
オランダやデンマークは私立学校にも公費支出をするが、生徒数を確保することが求められ(オランダとデンマークではその意味が異なるが)「支持」されるていることが学校設置の条件となる。オランダやデンマークでは不動産取得の制限はあまりない。
1980年代の政府の審議会では塾を学校として認めるべきだというような報告もなされた。
従来日本の「学校づくり」という言葉は、新しく学校を設立することではなく、既存の学校の教育改善に取り組むことであった。この意味での学校づくりは現在でも活発に行なわれ、インターネットで「学校づくり」で検索すると、たくさんの自治体や学校が「学校づくり」に励んでいることがわかる。また、行政を含まず、学校の教師集団が取り組む事例も多数ある。
このような学校づくりは、戦前の軍国主義教育から解放された戦後の民主主義の導入が可能とし、日本中の多くの学校で取り組まれた。(資料参照)そこに共通に見られるのは、地域に支えられながら、教師集団が協力して、新しいカリキュラムを創造的に考案していくことことが、中心となっていたことである。
新しい学校を設立しなくても、学校の様々なあり方を変えることによって、新しい学校を作ることができる。そうした試みは、戦後もたくさん行なわれてきた。特に、戦後直後、新制中学ができたときには、破壊された経済の中で新しい校舎を作ることが十分にできなかった自治体にかわり、地域住民が木材を切り出したり、購入したりして、自分たちで校舎を建てたり、資金を提供したりして、文字通り学校づくりをした例も少なくなかった。 ひとつだけ例を紹介しよう。広島県本郷小学校は、村をあげての調査活動を軸に、新しい学校づくりの案を作成した。
数字の会合を通じて我々は次の結論に到達している。
(1)実態の調査に基づいた科学的な改善意見を立てなければならない。
(2)実態に基づいている限り、各年齢層、階級、職能について広く意見を吸収する。
(3)地域社会の全生活問題をもれなく取り上げるために、幾つかの専門部会に分かれて討議する。
(4)役員や委員を設けることによって、特権者をつくることを警戒する。
そして、懇話会を介して、詳細な学習課題表を作成して、新しい教育に取り組もうとしたのである。(\footnote{宮原誠一他編『資料日本現代教育史1』三省堂1974 p499-507}
このような運動は戦後何度も取り組まれた。「教育課程の自主編成運動」や「学校白書運動」など、当時は文部省と日教組の対立の中で取り組まれた運動も、現在では文部科学省の重要な政策の一環となっているものも多い。
現在の教育行政では、地域と学校の関係を密接なものとするような政策が実施されている。具体的には、学校に「学校評議会」や「
学校運営協議会」を設置して、地域住民の声を学校運営に反映させようとするものである。
ホームページには、たくさんの学校の学校協議会の議事録が掲載されている。これらを読んでいくと、学校の運営のあり方が次第に変化していることが実感できる。
例えば、大阪寝屋川高校の議事録にはは、以下のような部分がある。
校長:
10月に実施した「学校教育自己診断」の結果に基づいてご意見をいただきたい。今回は私の着任時の平成16年度以来3年ぶりの実施である。
本年度は本校の最大のイベントである体育大会と学園祭の日程を変更した。学園祭を7月下旬に体育大会を9月中旬に実施することにしたが、これは3年生
に集中していた負担の軽減を図り、進路実現に向けた体制づくりが必要であったからである。しかし、この変更については生徒の中に強い不満があった。
今回の「学校教育自己診断」はそうした状況下で、体育大会直後の10月5日に実施した。よって、生徒の評価に行事変更の影響が色濃く出る結果となった。
生徒の評価全体では前回に比べ6ポイントも下がった。それに対して保護者は7ポイント上がり、教員も4ポイント上がった。
お手元の資料の分析結果にはそのことを最初に挙げている。要は生徒の意識と保護者・教員の意識にずれがあるということだ。教員や保護者は生徒を3年間しっかり鍛えたいと考え、生徒は束縛の少ない自由で楽しい学校という思いが強い。例えば、高校を選択する基準の調査では、中学生では部活動・学校行事・制服を選択する者が上位を占め、保護者では教育内容・学費・交通の利便性が上位を占めるという統計結果となっている。本校の学校説明会でも「本校に期待するもの」というアンケートを生徒と保護者に採ったところ概ね同様の結果となった。まあそういう部分がベースにあるということだ。
(略)
委員:初めに校長先生が生徒と保護者・教員の数字にずれがあると言われたが、これがその一つかなと。例えば、先生方は一所懸命やっているつもりなんだけど空回りしているというか、本当に生徒に必要な厳しさではなく、変に優しくなっているとか変に丁寧になっているだけとか。実態を知らないから無茶なことを言って失礼かもしれないが、生徒がこれは面白いなというぐらいまで授業に参加する姿勢が出来ているのだろうか。\footnote{
http://www.osaka-c.ed.jp/neyagawa/Kyougikai/Gk2007_2.htm}
保護者代表と生徒代表、学校代表の委員で行なうヨーロッパの学校運営協議会と異なって、日本のものは、あくまでも校長や
教育委員会が人選をするもので、しかも生徒代表は参加していないが、生徒の声が考慮されていることは伺える。そして、従来教師たちの閉鎖的な見解で運営されていた学校が、外部の人間の批判を受けながら、それに応えることを引き受けねばならないように、変わってきているのである。
こうした学校運営の変化によって、学校の内実が変化していけば、やがて学校の危機が克服される場合も出てくるだろう。
学校白書運動
最終更新:2008年09月01日 21:50