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 教育が科学であるかどうかを検討するために、教育における実験の意味を考察しておかなければならない。科学的であるためには、命題が反復可能であり、かつ事実によって検証可能であることが必要だと考えられている。事実によって検証するために、通常「実験」を行う。その場合の実験とは「何かを試しにやってみる」ということではなく、科学的な実験に必要な要素を満たしていることが不可欠である。命題Aを検証するためには、A以外の要素をすべて同じにして、Aを含む群とAを含まない群のふたつの群を設定した上で実験を行うわけである。
 新しい薬の効果を調べる実験では、同じような病気の状態のふたつのグループに対して、新薬を投与するグループと、新薬と称して偽薬を与えるグループにわける。新薬を投与されたグループでのみ明確な効果が見られたときに、新薬は効果があるとされる。
 教育の「実験」は様々な点を考察しなければならない。
 もちろん実験は頻繁に行われている。文部科学省は昔から「実験校」や「研究指定校」と称して補助を与えながら新しい試みを実践する学校を指定してきた。そうして学習指導要領の内容を変える資料として使ったりする。
 それが本当に実験としての科学性をもっているかが、まず検討される必要がある。
 教育の必要性や効果は、科学的に検証することが困難である。というのは、元来人間は科学的実験の対象となりにくいだけではなく、医学研究のような限定的な分野での「実験」(人体実験は必須であると考えられている。)ではなく、教育は人格全体を対象にするために、実験が可能であったとしても、それが許されることであるかどうか、極めて疑問だからである。
 以上のことを確認した上で、人間を操作するという点について考えておきたい。
 いわゆるピグマリオン効果についての実験を素材にしよう。
 アメリカの学校で、教師の期待が生徒に及ぼす影響を実験的に調べるために、あるクラスをふたつの群に分け、ひとつの群に対しては、1年間、常に褒めるようにし、期待している旨を伝えた。他の群に対しては、常に誇りを傷つけ、けなすようにして指導をした。もちろん、生徒たちには、その旨は一切知らせなかった。
 その結果は、期待を表現し、褒めた群の生徒は、能力の上昇が認められ、けなした群の生徒は上昇しなかった、というものであった。生徒は教師の期待するように、努力するというのが、ピグマリオン効果というものであるが、この実験は、妥当なものだろうか。
 以上のような文章が以前のテキストに書かれていたのであるが、人間科学科の神田先生から以下のような指摘を受けた。

 先生の「教育学概論2000年度 (同時中継)」を拝見しました。なかなか魅力的で
学生の意欲や問題意識を高める授業であると感心いたしました。
 ただ、第1回目の授業をピグマリオン効果のことを取り上げていらっしゃいますが、そ
の際、紹介されている実験が私の知っている実験とだいぶ違っています。私の知ってい
る研究は下記のような内容です。
 [Rosenthal \& Jacobson (1968)の研究]
 [目的]
 教師がある期待(よい成績を上げる子どもだと信じる)を持って子どもに接すると、教師はそれが 実現するようなやり方で子どもに関わり、その期待通りの結果を子どもに生じさせるという仮説(予言の自己成就)のもとに以下のような実験を行いました。
 [方法]
 1学年~6学年まで各学年3クラスの担任と子どもたちを対象に、新しい知能検査を開発したのでそれを試すための研究というふれこみで実験を行いました。
 次に、各クラスからそれぞれ20%の子どもを知能検査とは無関係にランダムに抽出し、新年度の初めに、その子どもたちのリストを各学級担任に提示しました。その際、各担任の先生は「この子どもたちは、この検査によると、この学年にうちにこれまでの成績よりもずっと高い学力を上げる可能性のある子どもたちである」 という偽りの情報を与えられました。
 その後、実験者は教師たちと一切関わりを持たず、その学年ののわりに、実験者は、前と同じ知能テストを児童たちに再度実施した。それと同時に、教師たちに対して、 各学級児童全員の知的好奇心の程度と彼らに対する好意度を評定させた。
 結果
 1学年から6学年まで全体を見てみると、実験群の児童たちの知能指数(IQ)の増加の 程度は統制群 より大きく、特に1,2学年でその傾向が顕著であった。
 つまり、教師から期待を持たれた児童は、実際にその期待通り知能指数が伸びていたのである。知的好 奇心や好意度についても実験群は統制群よりもその程度が強いと評定されていた。
 結論
  児童に対する教師の期待は自己成就し、期待に沿った方向で児童に実現されたのである。
  Rosenthal&Jacobsonは、この教師期待効果を、ピグマリオン効果と名づけた。

 早速インターネットでピグマリオン効果について調べたところ、意外なことがわかった。検索サイトにかけたところ、ヒットした多数(約7割という感じ)は、神田先生の指摘通りなのだが、それだけではなく、3割ほどは私が書いたのと同じ趣旨の説明があったのである。例えば一例をあげておこう。

 ほめる教育(ピグマリオン効果)

 アメリカの教育心理学者ローゼンタール博士は「叱る教育」と「ほめる教育」の効果について次のような実験を行ないました。年齢も学力も同じレベルの30人のクラスA組とB組をつくり、同じ先生が数学、理科、社会、語学等を熱心に教えました。そして試験が終ったあと、A組はきちんと採点し、一人一人間違ったところを指摘し、注意を与えたり叱ったりしました。「こんな簡単なところを間違えるようではダメじゃないか」「君はミスが多すぎる、全て鈍感だ」等と全員を批判し非難したのです。B組は、答案を返さないし結果も発表せず「このクラスは全員よくできている。先生もじつに教えがいがある。すばらしいクラスだ」「それから〇〇君、君は前回よりはるかにいいぞ。この次もがんばれ」というようにわずかな進歩でもほめ、激励し、期待をかけたのです。このようなことを一年間続けた結果、A組の成績はみるみるうちに低下してきて、欠席や遅刻が増え、サボリも多くなったのに、B組の方は全員の成績がめざましい向上を示し、休む者も殆どでなかったというのです。このようなことから、ローゼンタール博士は「人は、ほめられ、期待されれば必ず感動する」「教師の積極的ないし肯定的期待にしたがって、生徒は自ら向上し、よりよい結果をもたらす」「人はこうなりたいなあ、という方向へ必ずいく」という結論をだし、これをピグマリオン効果と名づけました。*7)http://www.hw.kagawa-swc.or.jp/mental/dai25.html

 これは倉持英雄という元高校教師が書いた本から、筆者自身がホームページに部分的に掲載したものである。ふたりの指摘はふたつの重要な相違点をもっている。
 神田先生の指摘によれば、心理学者たるローゼンタールは期待のもてる生徒だという指摘だけして、具体的な指示をしなかったこと、そして、期待されたグループが知能検査の結果が向上したのに対して、倉持氏の紹介では、誉めるグループとけなすグループにわけて教師は実践し、それぞれ誉めたグループは、成績が向上し、叱ったグループは低下したということになっている。
 当初の紹介では、多くの学生が疑問をもつだろうと思うし、事実、いろいろと批判がおこった。しかし、このような実験は、あまり意味があるとは言えず、やらなくても長年の経験から、分かっていることを、実験で明らかにしたと言っているにすぎない面がある。だからこそ、批判も強かった。そして、半分の群に対しては、最初から向上を阻害するように、教師の指導を計画したのであるから、批判を受けても仕方なかろう。
 しかし、この実験の批判者は、「けなす」ことによる成績の低下や自信の喪失に対して反対しているのだから、ローゼンタールの実験が、そもそも「期待を表明する」だけのものであれば、そうした批判は成立しないことになる。
 では、なぜ、私や倉持氏のような実験理解が生じたのだろうか。そこは現時点ではわからない。国際的に広く使用されている心理学の教科書には、ローゼンタールの実験後、何人かの心理学者が更に実験・観察を行った結果、ある生徒への期待を示すと、教師が期待を持たない生徒に対しては、消極的な態度をとることがわかり、そのことが生徒への否定的な結果をもたらす可能性があることを指摘したのである。

 以下参考までに英文をそのまま引用しておく。

Using IQ scores or other labels to categorize people may also have more subtle effects on how they are treated and how they behave. In a controvercial study, Robert Rosethal and Leonore Jacobson (1968) found that labels create \textit{ expectancies} that than can have dramatic effects. Teachers were told that a test could indicate which grade-school students were about to enter a "blooming" period of rapid acacemic growth, and they were given the names of students who had supposedly scored high on the test. In fact, experiments \textit{ramdomly} selected the "bloomers". But during the next year, the IQ scores of the bloomers dramatically increased; two-thirds showed an increase of at least twenty points. Only one-quater of the children in the control group showed the same increase.

Apparently, the teachers' expectancies about the children influenced them in ways that showed up on IQ tests. How can expectancies become a self-fulfilling prophecy? To find out, Alan Chaiken and his colleagues (Chaiken, Sigler \& Derlega, 1974) videotaped teacher-child interactions in a classroom in which teachers had been informed (falsely) that certain pupils were particularly bright. They found that the teachers favored the "brighter" students in several ways. They smiled at these students more often than at others, make more eye contact, and generally reacted more positively to their comments. Children receiving this extra social reinforcement are not only getting more intense teaching but are also more likely to enjoy school, to have their mistakes cerrected, and to continue trying to improve.

These results suggest that the "rich get richer"; those perceived to be blessed with high mental abilities are given better opportunities to improve those abilities. Is there also a "poor get poorer" effect? Clearly, it would not be ethical to conduct an experiment in which children were falsely labeled stupid. However, there is evidence that teachers tend to be less patient, less encouraging, and less likely to try teaching as much material to students whom they do not consider bright (Cooper, 1979; Luce \& Hoge, 1978; Trujillo, 1986). Thus it is not hard to imagine that being tagged with a low IQ score or some other negative label may limit a person's educational opportunities.*8)Bernstein, Roy, Srull, Wickens "International Student Edition, Psychology v2" 1991, p411-412

 そして、以下の私の返事メールである。

 私の原稿は昔読んだ本の記憶によって書いたもので、確かにあいまいと言えばあいまいでした。
 しかし、インターネットで検索できるピグマリオン効果に関する文章を、できるだけ読んでみましたが、必ずしもすべてが神田先生ご指摘のような内容ではなく、私が書いた内容と同趣旨の文章が少なからずあることがわかりました。
 そこで、以下のようなことを考えてみたのですが、どうでしょうか。ここは教育学と心理学の分野に関わる問題であるかも知れません。
 ご指摘のように、ローゼンタールその他の心理学者が行った実験は、神田先生の書かれた内容だったのだと思いますし、そのような紹介をしているインターネット上の文章もたくさんありました。実験者自身の報告があるでしょうし、心理学の方たちは、その報告が源資料となって、認識が形成されているはずです。
 しかし、実験でもわかるように、多数の教師が参加しており、教師によって多様な生徒への関わりがあったと考えられます。
 どんなに正確に意図を説明し、行動の範囲を限定したとしても、教師がそれを厳格に守り、統一的な対応がとられたと考えることは、相当な無理があります。
 神田先生の説明文によると、ローゼンタールら企画者は、教師たちに、わずかの情報しか与えていないようですが、本当にそうだったのでしょうか。
 少なくとも、教師に対して、この子どもたちが期待できるという示唆を十分に与えるものでない限り、教師たちは生徒に期待的態度をとるには至らないはずですから、、教師たちが、その実験の意図を理解できる程度には、説明がなされたと考えられるのではないでしょうか。あるいは、自分で独自に実験の意図を関知した教師がいたということも考えられます。
 そして、この実験は非常に有名になったわけですから、マスメディアあるいは評論家等が、教師たちに独自にインタビューして、その紹介記事を書いて行ったということがあるのではないでしょうか。
 そこでは、ローゼンタールたちが意図したことを超えて、教師たちが生徒に接した部分が、独自に報告された可能性は十分にあるのだと思います。
 そもそも、教育界の人たちは、心理学などにはそんなに興味をもたないものですし、知能指数に対しても、そんなに興味をもたないものです。興味をもつのは、知能指数ではなく、「学力」の方です。
 ですから、教師サイドから出た情報が、教師たちの生徒への多様な接しかた、つまり、ある教師は期待する生徒への期待を表明するだけだったが、ある教師は、それ以外の生徒には冷淡に振る舞った、等々、そして、その程度、などが流れ出た可能性はとても高いと思います。
 今回のインターネットによる検索でも、心理系のサイトでは、神田先生のご指摘のようなことが多く書かれ、教育系のサイトでは、私の書いたようなものに近いことが書かれていることが少なくありませんでした。
 このように、ひとつの実験から、ふたつの経路で、多少異なった情報が流れて、世界に流布した、ということがあるのではないか、というのが、私のいまのところの理解です。

 長々とピクマクオン効果に関する実験、そしてメールの紹介をしたが、具体的に教育あるいは人間科学の実験について考えてほしかったからである。
 ピグマリオン効果に関する実験には2種類あることがわかる。「期待をもつ」「なにもない」という実験と、「期待を表明する」「期待していないことを表明する」というものである。この実験はそれほど違わないのか、あるいはかなり違う性質をもつのか。
 まったく別の実験で人間はどこまで残虐になれるのかというものがある。問題意識そのものはなぜナチズムのように人を大量に殺すような「仕事」を人間はすることができたのかを調べるものだったようだ。実験の内容は有名なものであるが、被験者は「命令」によって別室の人物に電気ショックを与える、別室の人物は(実はサクラで悲鳴をあげる訓練を受けている。)悲鳴をあげるのだが、電圧をどんどんあげるように命じられると過半数の被験者が最高の電圧まであげたという実験である。このように命令されれば人間はどんうな残虐なことでもやってのけるのだということが「証明された」とする。
 学生諸君はこうした実験をどのように評価するだろうか。
 少なくとも、私の理解する「教育」あるいは「教育学」ではこのような「残虐性」の実験はまったく意味のない間違った実験である。歴史を見れば人間が残虐になれることは、実験をしなくてもわかる。ヨーロッパの魔女裁判や数々の拷問の形態を思い出すだけでよい。(アイヒマン実験
 ではピグマリオン効果の実験はどうか。問題は後者の「期待していないこと」を明示的に表現するような実験は反教育的であるといえるだろう。期待されていないことによって人間的な発達の歪みが生じたときに、教師はどのような責任をとるのだろうか。
 教育において許される実験は、教師として「このことがよい結果をもたらす」と確信をもつが、まだ実行されていないことを試みるという意味での実験だけだろう。
 それでは教育の実験は科学的な意味をもちえないという批判がある。その答えは「その通りだ」といわざるをえない。つまり、教育の実験は科学的なものではないし、またその必要もないということである。

 教育でも実験はたくさん行なわれているし、また、新しい教え方を試すということも、実験の一種であろう。新しい教育内容を学習指導要領に加える場合、数年間かけて実験校でその教育可能性・妥当性について調べるために、実験的に教え、その効果を確認するのが普通である。この場合多くは、これまで教えることが困難であると考えられている内容と年齢を検証することであり、もし実験的な教授で可能であると判断されたら、教えるべき内容に組み込まれるという結果になる。これはこれとして、「実験」と考えられるが、科学的な意味での実験とは異なると言わざるをえない。ただ、逆に科学的実験である必要もないと考えられている。
 しかし、教育研究において実験よりも多く取られる手法は「観察」である。実際の授業を観察したり、また記録(今はほとんどがビデオ)をとったりして、後で検討する。教師の教え方の妥当性や生徒の反応を見て、よりよい教え方を探るためである。この場合、「統制群」という発想は全く取られない。ただ、そこにいる生徒たちの現状を前提として考えていくわけである。従って、そこで妥当であった方法が、他でも妥当であるかどうかはわからない。

 実験に伴う「追試」という方法を追求している団体もある。現在TOSSという名称で、かつては「教育技術の法則化運動」として知られた団体が、ある教え方を有効だとして「定式化」すると、それを他の教師が別の生徒にやってみるという方法である。学校の場合、同じ教材を使用するためにこうした「実験」が可能であり、そこで再び効果的であったと考えられると、それが「法則的技術」として蓄積される。もちろん、ここでは、厳密に、効果が同じであったかどうかは、検証されないし、また、検証も不可能だろう。
 しかし、それはあくまでも「ひとつの手法」であると考え、多様な手法がありうると考え、自分が実践する対象の生徒に、もっとも好ましいと考える手法を選択して実践するという立場から考えると、厳密な意味での「法則」ではないが、有用性の検証された手法として認定することはできる。おそらく、教育の手法は、そうした意味での普遍性をもつ。
最終更新:2008年08月11日 13:00