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教育を受ける権利」を考察する最初の手がかりとして、永山則夫事件を考察してみよう。
永山則夫は、4件の殺人事件を19歳のときに起こし、長い訴訟を経て死刑が確定し、神戸の少年Aによる殺人事件を契機にして、死刑執行された人物である。
起こした事件について、ホームページに簡潔な説明があるので、それを引用しておく。
横須賀市の在日米軍基地内の住宅からピストルを盗取。1968年10月11日、東京都港区の東京プリンスホテルで、巡回中の警備員(27)を射殺。その3日後に京都・八坂神社境内で、警備員(69)を射殺した。さらに、同月26日には北海道函館市内で、タクシー運転手(31)を射殺して売上金約7000円を奪い、11月5日には名古屋市内で、タクシー運転手(22)を撃ち殺し、売上金7000余円を奪った。翌69年4月7日、東京・千駄ケ谷のビルへ盗みに入ったところを警備員に見つかり、発砲して逃走したが、間もなく逮捕。*1)
http://www.asahi-net.or.jp/\~ef4j-tkgi/prisoner/nagayama\_norio.html
さて、この事件が単なる少年の殺人事件に終わらなかったのは、永山則夫自身の刑務所における学習成果が著しく、永山自身が、自分の教育的貧困が事件の背景としてあったと主張していったことにある。被害者の問題、個人の才能の問題等、永山事件については検討すべき課題が多数あるが、ここでは教育の問題に焦点を当てる。
まず永山の生育歴を見ておこう。東京に集団就職で出てくるまでの歩みである。
1949年(昭和24年)6月27日、永山則夫は、8人兄弟の四男、7番目の子として、北海道網走市呼人(よぶと)番外地で生まれた。父親はバクチに手を出し、持ち金をどんどんつぎ込んでいった。やがて、子供たちに食べさせる明日の米まで持ち出して売るようになった。そのため、母親は子供たちを連れ、家を出て、網走港の近くに移り住んだ。母親はそこで、行商として働くことになる。
高校生だった長男は女友達を妊娠させ、家を出た。その子供を中絶できず、母親が引き取った。一方、長女(当時24歳)は精神に異常をきたして、網走の精神病院に入院した。
母親は「このままでは一家共倒れになるから」と、則夫より12歳上の次女、2つ年下の妹と、長男の生ませた母親のない孫を連れて、実家のある青森県北津軽郡板柳町へ帰ろうと決意。
1954年(昭和29年)の秋、則夫が5歳のとき、母親は次兄と3兄、3姉、それに則夫の4人の子供を網走に残して、実家に帰ることになった。母親を見送るため、ホームにいた則夫は列車が動き出したとき、「かあちゃん、おらも連れていってくれ」と、母親を追いかけるように、泣きながら走っていったという。
その後、姉は新聞配達、兄たちは鉄くず拾い、則夫は港で魚を拾ったり、恵んでもらったりして、子供たちは厳しい冬を過ごした。当時、4人はみな、衰弱しきっていたという。
1955年(昭和30年)の春、見かねた近所の人が福祉事務所に通報したため、則夫ら4人は、青森の母親の元へ引き取られていった。
1956年(昭和31年)4月、町立板柳
小学校に入学。成績はほとんどの科目が「2」と「3」だった。2年生のころから沈みがちになり、学校へは行かず町を流れる岩木川で遊び、自転車を盗むこともあったようだ。
2年生の冬に、母親が「学校へ行きなさい」と叱ると、「北海道にいる姉のところに行く」と言って家出。青函連絡船で函館に着いたところで保護され、母親が則夫を迎えに行っている。
4年生のころから、兄に言われて新聞配達を始めた。当時、新聞少年には町内の映画館で映画を見られるパス券が配られた。家が貧しいため、テレビがなく、則夫にとって、このパス券を使って映画を観るのが唯一の楽しみだった。特に『大脱走』が好きだったという。
1962年(昭和37年)4月、町立板柳中学校に入学。服装が汚く、貧しさからバカにされ、家出のこともバカにされ、友達も作れず、学校は休みがちになり、家に引きこもっていた。家出を繰り返す則夫に対して、兄たちは毎日のようにリンチを加えた。12月、父親が岐阜で亡くなった。母親は父親の遺骨を引き取りに岐阜まで行った。
2年生になって、則夫はほとんど登校しなくなった。3年生の1学期に、担任の教師が家にきて、則夫に注意した。そのとき、則夫は「行きたくないから行かないのだ」とにらみ返している。担任があきれて顔を2、3回殴ると、則夫は翌日、再び家を出た。自転車で山形まで行き、山形から東京行きの汽車に乗った。金が足りなくなって、福島駅で下車したところを、鉄道公安員に捕まり、母親と担任が福島まで引き取りに行っている。
1964年(昭和39年)10月1日、東京ー新大阪間に初めて東海道新幹線が開通。10月10日、東京オリンピック大会が開かれ、日本は高度経済成長の真っ只中にあった。
1965年(昭和40年)3月、則夫は板柳中学校を卒業した。出席日数が足りずに、認定卒業であった。このときの卒業アルバムになぜか、則夫の名前は載っていない。則夫は陸上部に入っていたが、駅伝大会で優勝したときの写真では、則夫は3年生として載っている。*2)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nagayama.htm
永山の国選弁護人を勤めた遠藤誠は、基本的に同じであるが、多少異なった事情を次のように書いていた。
世の中には、ツイていない人がいるものである。何をやってもうまく行かず、一生懸命やっても裏目に出、最後は、最悪のドン底におちこんでしまう人が。
少年永山則夫君も、そんな少年であった。
八六年六月、僕は、所属する第二東京弁護士会の会長小野田六二氏と副会長錦織淳氏(今のさきがけ衆院議員)からたのまれ、いわゆる「連続ピストル射殺犯」永山則夫君(当時37歳)の国選弁護を引き受けた。
彼は、一九四九年六月、北海道の網走で生まれ、五歳のとき、バクチ熱に浮かされた父と、女手一つでは七人の子供を育てきれなくなったため、下の三人の子どもを連れて青森県の実家に帰ってしまった母によって、網走に置き去りにされた。
彼とともに残されたのは、姉明子(十四歳)と兄忠雄(十二歳)と兄保(九歳)の三人である。以来、四人の子どもたちは、極寒の網走で凍死と飢餓線上を彷徨した。これに対し、福祉事務所も、近所の人たちも救いの手をさしのべなかった。七ヶ月後、福祉事務所の手によって、餓死寸前だった彼ら四人は、青森県板柳町の母の実家に送られた。
コジキ小屋のような長屋で、母と兄弟七人のドン底生活が始まった。ボロボロの服を着せられたため、小学校に入ってからも、彼は周りから軽蔑の目で見られ、仲間はずれにされ、
いじめられ、次第に学校に行きづらくなった。
中学校に入ってからは、家計を助けるため新聞配達をはじめた。そのため遅刻、早退と授業中の居眠りがつづき、挙げ句の果てには生活保護を受けていたため、給食費と
教科書代がタダなのを級友たちから「あいつはタダでメシを食っている」と白眼視され、中学にも行きづらくなってしまった。
六十五年三月、形だけ板柳中学を卒業し、十五歳で東京・渋谷の果物店に就職するのであるが、小さいときやけどした左ほほの傷と、戸籍謄本にその出生地として「網走市番外地」と記載されていた所から、またまた差別の目で見られ、またまた差別の目でみられ、以後六十八年九月までの間に、転々と職場を変えざるをえなくなった。また、母や兄、姉たちからも、相手にされなくなってしまった。*3)
http://www2n.biglobe.ne.jp/\~s\_koba/essei/nagayama.htm
さて、長々と永山の生育歴の紹介をしたが、永山が満足な教育を受けられなかっただけではなく、ほとんど「健康で文化的な」生活とはほど遠い子ども時代を送ったことは、誰もが否定できないだろう。およそ健全に育つ条件が全くと言っていいほど欠けているのである。性格的にも歪んだ面が形成された。
そのためもあって、上京した永山は転々と職場を変えることになる。
まず渋谷区の「西村フルーツパーラー」。女子店員には人気があった。だが、無口で、友達付き合いも悪く、引っ込み思案な子だった。掃除をさぼって叱られ、辞めると出ていった。その後密航を企てかが失敗、栃木の兄のところで、整備工として「共立自動車」に勤めた。
窃盗未遂で警察に捕まり、不起訴になったが、ボーナスのことでもめて共立自動車解雇。大阪の米屋に住み込み、母親に仕送りもしているが、網走番外地という戸籍を見られたことがきっかけになり、辞めて東京へ。
その後、喫茶店、ホテルボーイ、沖仲仕、クリーニング店などを転職。
定時制の高校に入学するが、牛乳店のお金を持ち逃げし、その後、アメリカ軍基地に進入して拳銃を奪い、その後半年に渡って犯行を重ねることになった。*4)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nagayama.htm
このように書くと、いかにもいいかげんな人間像が浮かんでくるかも知れないが、当時もそうであったし、また、現在のようにフリーターが多数いる時代には尚更、職を転々とする若者は決して少なくない。窃盗などを何度か犯しているが、食べるにも事欠く状況が原因と考えられ、きちんとした収入のある職を得ているときには、母親に仕送りまでしているのである。
家庭内での親・兄弟による虐待も酷かったと言われている。つまり、ここでは親も国家も、永山の「教育を受ける権利」をまったく保障しなかったのである。学校にまともに行ってないのだから、相応の学力があるはずもなく、また健全な人格形成もなされておらず、そして、戸籍に由来する差別を受ければ、社会の中でまともに生きていくことは、ほとんど不可能であろう。
ところが、永山は逮捕されて拘置される環境の中で、知識欲に目覚め、猛然と勉強を始め、作家としての才能を開花させていくのである。そして、永山の作品はベストセラーのひとつとなり、その印税で被害者への補償をしようとする。被害者4者のうち、2者がそれを受け取り、他の2者は拒否している。
永山が提起した問題は、このように親もまた国家も「教育を受ける権利」を充足しなかったとき、その「責任」はどうなるのかということであろう。
自ら責任を放棄した国家が、なぜ犯罪者に「死刑」を課すことができるのか。永山は、刑務所の中で「自己教育」を行うことで、国家や親から与えられなかった成長を獲得していく。国家はそれを援助する責任があるのではないかと問いかけている。
Q 永山の主張について論ぜよ。
最終更新:2007年09月24日 18:33