第30話「院内寒戦《アツテックブリザード》」

第七学区にある警備員のとある支部。時刻は午後6時。
支部内にある一台のパソコンの前に3人の男女が集まる。
椅子に座ってパソコンを操作する男性は目を引く存在だった。
オールバックにした黒髪、筋肉質のがっしりとした体格の持ち主だ。年齢40代といったところか。休日のお父さんみたいなラフな格好だ。
彼を目立つ存在にするのは頭部に装着したゴーグルによるものだ。目と耳をすっぽり覆う黒光りするゴーグル。ゴーグルの一部が光ったり、点滅したり、時には駆動音が聞こえる。
体格も相まって、その様相は戦闘用サイボーグを思わせる。
彼の背後の左右から橙山憐破多野二海が彼の肩を揉んでマッサージする。

「いや~、本当にありがとうございました。九野獅郎(クノ シシロウ)大先生。埋め合わせは緑川と紫崎にでもツケておいてください」
「お前らに呼び出されなきゃ、俺は今頃、愛する家族たちとレストランに行っているはずだったんだがな」
「本当にすみません。鑑識課の人じゃないとこのソフトは扱えないんですよ…」
「ああ。分かった。分かったからマッサージをやめてくれ。集中できない。今、写真をスキャンしたから、もう少しだ」

九野が操作するパソコンには二海が拾った写真が映し出されていた。幼い日のユマと若かりし頃の昂焚が移された写真だ。それとは別にウィンドウが幾重にも開かれ、複数の作業を同時並行に進めていた。

「この二人の顔の10年後を再現すれば良いんだな」
「それでお願いします。それと振り向いた顔とか、横顔とかも再現してください。言っておきますけど、このことは――――」
「ああ。言わないさ。お前ら三馬鹿にはよく危ない綱渡りに付き合わされているからな」

高速の指でキーボードを弾きながら、九野は“いつものこと”のように語った。

「橙山先輩…」と二海がやや呆れた視線を送り、橙山は彼女から目を反らし、吹けない口笛を吹く。
「ほら。出来上がったぞ」

九野が二人の肩を叩き、パソコン画面に指をさす。
橙山は南光が描いたスケッチを取り出し、パソコン画面の男と見比べる。

「ああ…。ビンゴ」
「女の方もビンゴです。でもこれって、逮捕状出るんですかね?」
「この捜査自体、違法…というか、非正規だからなぁ。私たちで3人とゴリラ1匹、サイボーグ1体でどうにかするしかないよ」
「おい、人を勝手に勘定にいれるな。あとサイボーグって言うな」

そんな談笑をしている中、何の前触れもなく九野のスマホが鳴る。

「あ…やっぱり家族サービスすっぽかしたこと怒っているんだろうなぁ」

そう呟きながらスマホを取り出し、画面を見る。電話の主は九野の知らない番号だ。番号の頭から携帯電話からかけているのは分かる。

「はい。九野獅郎です」
『警備員第五九支部の唐茶話菖蒲といいます。少し時間宜しいでしょうか?』
「ああ。大丈夫だ」

二つ返事で了承してしまった。橙山と二海の件や家族サービスも抱えていながら面倒事を躊躇うことなく、ごく自然に引き受けてしまう。彼の悪癖か、天才故の余裕なのか。それが逆に彼が他者を惹きつける理由でもある。

『軍隊蟻について聞きたいことがありまして、ちょっと話が長くなるので、直接お会いして話したいのですが』
「構わないよ。第五九支部だね?今、そっちに車を――――」
『いえ、大丈夫です』

唐茶話のそのセリフと同時に、ドアがドンと音を立てて開いた。
警備員の制服を身に纏う唐茶話菖蒲の姿がそこにあった。

「そう言ってくれると思って、玄関で待機していました」
「……。手間が省けて、助かるよ」

九野が立ち上がり、支部の奥にあるキッチンでお湯を沸かし始めた。

「憐と二海もいたんだ。どうしたの?」

唐茶話が二人に話しかける。憐とは酒飲み仲間で同級生、二海とは酒飲み仲間の三海経由ですでに知り合っている。

「あ~。ちょっと厄介な事件でね。表沙汰にできない捜査をしているんよ。二海は巻き添え」
「あ、それ私も。酉無から引き継ぎされたんだけど、資料が全然残ってないんだよな」
「へぇ~。ウチも似たようなもんだよ。ATTとかいう特殊部隊に捜査記録全部持っていかれて、捜査権限まで奪われた」
「あ~。それ私のところと同じケースだよ。ウチの酉無も『ATTとかいう組織に持っていかれた』って言ってた」
「そっちも?ってか、どんな事件なんだ?」
「一日のあれだよ。スキルアウト残党と一般学生が複雑骨折で病院に搬送された事件。ニュースでやってなかった?」
「ああ。あれね。何かスゴい事件だったみたいだけど…」
「それはもう…倒された残党ってのはブラックウィザード残党、巻き込まれた一般学生は成瀬台の界刺だからな。しかも容疑者には軍隊蟻が入っている始末だ。その上、唯一意識があった界刺の証言でも能力を特定できなかった」
「その証言って?」
「“触れた物体を捻じ曲げる冷気”だとさ…」
「それだけ?」
「ああ。あとは界刺と樫閑が直前に会っていたという目撃証言と鑑識の調べで軍隊蟻が槍玉に挙げられたってわけだ」

九野がマグカップにコーヒーを入れて、キッチンから戻って来た。
トレイに4人分のカップを乗せ、砂糖やミルク、シロップも用意している。

「話はキッチンで聞かせてもらった。随分と厄介ごとを持ち込んでくれたな」

各々の前にコーヒーを置くと、九野は唐茶話の体面に座った。

「それで、唐茶話は何が聞きたいんだ?」
「忙しそうなので、単刀直入に聞きます。軍隊蟻に留学生…外国人のメンバーはいるのでしょうか?」

唐茶話の質問に九野は少し押し黙った。
彼は軍隊蟻の“前のリーダー”とは個人的な親交があった。今でもその名残で軍隊蟻の活動をマークしている。そのせいか、警備員の間では軍隊蟻担当という扱いを受けることもある。
しかし、そんな彼でも軍隊蟻の全てのメンバーを把握しているわけではない。YesともNoとも言えないもどかしさがあった。

「実は例の事件で搬送されたブラックウィザード残党の一部が意識を取り戻し、読心系能力者の協力を得て、犯人の顔や身体を再現してみたんです」

読心系能力者には相手が気絶、意識不明でも読める能力もあり、それが出来る学生も多い。しかし、捜査とはいえ勝手に他人の心を覗き見ることには倫理やプライバシー侵害などの面で問題がある。
警備員の捜査条項では、当人の許可なくして読心系能力を用いて記憶を覗き見ることは禁じられている(加害者や容疑者、その関係者である場合を除く)。今回はブラックウィザードの方が被害者であるため、プライバシーの保護が適用されていた。被害者でも重要な情報を引き出せる確証がある場合は捜査担当者が書類申請を行えば可能ではあるが、今回は何故か許可が下りなかった。そのため、犯人の顔を出すのに律儀に目覚めるまで待ってしまったのだ。
唐茶話は作成した犯人を再現した画像をプリントしたものをテーブルの上に出した。

「「「あ!?」」」

唐茶話以外の誰もが同じリアクションだった。

「え?何?知り合い?」
「しょうちゃん。そいつ、私らが追っかけている事件の重要参考人だわ」

橙山の言葉に合わせ、二海がパソコンの画面をずらして唐茶話に見せる。

「ああ!そいつだ!そいつ!」
「唐茶話。その話、もう少し聞かせてくれ」

一片たりとも欠けのない真剣な眼差しで九野が唐茶話を見る。

「あ、はい。意識を取り戻した残党の“記憶”によると、この女性の名前はユマ・ヴェンチェス・バルムブロジオ。ある男を探していて、ブラックウィザードの集会場に偶然、入り込んできたそうです。彼女は写真を残党に見せて、男の場所を聞き出そうとしましたが、残党は彼女のことを邪険にあしらったことで怒りを買い、持っている槍から出た大量の冷気でやられたそうです」

唐茶話の話がいまいち理解できず、橙山と二海は首を傾げ、頭の上に疑問符が浮かべていた。

「なるほど。やっぱり、分からん」
「私も分かんないです。九野先生。分かりますか?」
「能力についてなら、俺にも分からん。専攻は電気系統だしな。分かっていることは、女は男を追っていたってことぐらいだ。破多野。お前が彼女を保護した時、学園都市のゲストID持っていたよな?」
「持っていました。企業向けに発行されているゲストIDで、ゼリオン社から派遣された社員ってことなっていました。ゼリオンって何の会社ですか?橙山先輩」
「いや、私も分からん。しょうちゃんは?」
「分かるわけないだろ。初めて聞いた」

リレーのように聞いて回る3人を見て、九野は呆れて溜息を吐く。

「ゼリオンは欧州の化粧品メーカーだ。世界規模に事業を展開している。ここ学園都市の市場にも進出しているぞ。何で女のお前らより俺が化粧品会社に詳しいんだ?」

「「「うっ…!」」」

九野の言葉は、自分の女としての部分の欠落を指摘された脳筋三人衆の心にグサリと刺さった。

「とりあえず、情報を纏めてみよう」

九野は紙とペンを取り出し、それぞれの捜査情報を纏める。そこには九野の推測も盛り込んでいた。

男:名前はアマノタカヤ(漢字不明)。国際テロ組織の幹部。目的は不明。ATTが捜査中。

ユマ:男を探している。ゲストIDを持っているが、おそらく偽装。軍隊蟻のメンバーと行動を共にする(ゲームセンターに居た客の証言と監視カメラで確認)

軍隊蟻:ユマに協力(?)。目的は不明。

少年:石を飛ばす能力者(?)。ユマを殺そうとする。男の仲間か?

「纏めてみたが、やはり全容は分からないな。ユマと少年は今、どこの病院にいるんだ?」
「二人とも第七学区の例の病院です。2人とも命がヤバかったので、最寄りの病院に搬送しました」
「またあの病院か…。やれやれ。随分と厄介な事件に巻き込まれたな。これじゃ、明日の家族サービスもパーだな」
「良いじゃないですか。支部で若い女を3人も侍らせているんですから~」
「3人もいるのに誰一人として女っ気を感じないのはどうしてなんだろうな」
「「「うぅっ!」」」

家族サービスを邪魔された父親の言葉は深々と脳筋三人衆の心に突き刺さった。



* * *




第七学区 いつもの病院
面会時間が終わり、消灯時間まで間もなくとなった午後8時30分。
病院へと搬送され、手術を受けた智暁とユマは警備の関係上、同じ病室に入れられていた。消灯時間手前だが、眠っている2人の部屋は既に消灯され、真っ暗になっていた。
寝静まる2人分の吐息だけが聞こえる真っ暗な病室。自分の呼吸すら聞こえるくらい静かだ。
突然、片方の寝息が止まった。

「んん…」

仰羽智暁が目を覚ました。真っ暗な部屋、ベッドに寝かされる自分。
彼女はすぐに自分が病院にいることに気づいた。

(確か…ゲーセンで…)

智暁はハッとユマのことを思い出し、上体を飛び起こした。慌てて周囲を見渡すと、すぐ隣の窓際のベッドで眠る彼女の姿が見えた。
頭や身体の各所に包帯を巻いているが、普通に寝ており、見た感じは大丈夫そうだ。

Q:目の前に眠っている女性がいます。どうしますか?

A:バレないようにおっぱいを揉みます。

先生(脳内)のコメント:Excellent!!

智暁はゆっくり音を立てないようにベッドから降り、彼女のベッドへと忍び寄る。
貞操の危機が迫っていることなど知らないのだろう。一向に起きる気配などなく、智暁にとっては千載一遇のチャンスだった。
智暁はゆっくりとユマの胸元へと手を伸す。手が近づくにつれ、心臓の鼓動が早く、大きくなる。鼓動は期待値そのものを表していた。

(さ~て、まずは出会ってから一度も触れることの出来なかった豊満な―――――――



ガシッ!



智暁の手ががっしりと掴まれた。一瞬のことで智暁は心臓が止まりかけたが、声をあげることなく何とか平常な心拍を取り戻す。

「なぁ~にやろうとしてんだぁ?この痴女は」

ユマは起きていた。----というより、貞操の危機を感じてたった今起きた。
彼女はここ数年ずっと一人で旅をしていた。自分の身は自分で守るしかない。たとえ、それが寝ている間でも変わらないのだ。伊達に数年も女一人で世界を飛び回っていたわけではない。

「あ、え~っとですね…に、乳がん検査を」
「もう少しマシな言い訳は出来ないのかなぁ~」

ユマが智暁にヘッドロックをかける。ギチギチと頭皮とか肉とか骨とかが圧縮され、軋む音がする。

「ギブギブギブ……あ、窓の外にUFOが…」
「だから、もう少しマシな言い訳を…」

そう言いながらもユマは窓の外に目を向けた。たとえ明らかな嘘であってもつい外に目を向けてしまうのは人の性。
窓の外に向けられたユマの視界に写ったのは闇夜に輝く月だった。
そして、月明かりに照らされたソフトボールぐらいの大きさの黒光りする球体。布に包まれた長い棒状のものをぶら下げており、バランス維持のために2つの球体が並行して飛行していた。

(本当にUFOがありやがった!しかも近い!)

UFOは窓のすぐ外にあり、何かのメッセージなのか、棒でコツンコツンと窓を叩いている。

「な、何だ?」
「入れて欲しいんじゃないですか?」

智暁が窓に近づき、鍵を開けて慎重に開けた。自分が通れるサイズまで開いたことを確認すると2つの球体は縦一列になって病室内に入ってきた。
球体はユマの手元に棒が来るようにゆっくりと降下する。
ユマが棒を受け取ると球体がアームのロックを解除して棒をユマに渡した。
布の一部を剥がす。見えてきたのは溢れ出る冷気と黒曜石の輝き。

「イツラコリウキの氷槍…ってことは、アンタらは…」

《ハイ。私は軍隊蟻の波幅倫理で~す。あと、これはUFOじゃありません。小型の無人偵察機で~す》

球体の表面に光の文字が浮かび上がった。

《私は、樫閑さんからお二人への伝言を預かりました~》

(伝言?あと語尾が伸びてるのが、なんかウザい)

《『本日の午後5時を以て、軍隊蟻はユマ・ヴェンチェス・バルムブロジオとの同盟関係を一方的に破棄する』とのことで~す》

「え?…一方的に破棄ってどういうことですか?」

智暁が球体に掴みかかり、横に振り回す。

《『私たち、軍隊蟻は学園都市上層部への交渉の手口として、貴方が持っていた情報を欲した。しかし、我々は別の手段で交渉の手口を得ることに成功し、貴方から情報を引き出す必要がなくなった』》

「いらなくなったから、ポイ捨てってわけか」

《あ、まだ壊さないでください。まだ続きがあります。『尚、この同盟関係の破棄は双方の合意ではなく、軍隊蟻の一方的なものであるため、違約金として15万円を譲渡する』》

「ああ、この封筒か。分かったよ。同盟の破棄を了承するって伝えておいてくれ」

《わかりました》

「え?ユマさん。何かドライじゃないですか?」

軍隊蟻からの一方的な同盟破棄だけでも驚きものだったが、それをユマがアッサリと了承したのも智暁にとっては驚きの連続だった。

「一方的だが、こうして律儀に契約破棄宣言して、別に契約書作ったわけでもねぇのに違約金まで出すんだから、マシな方だろ」

《それともう一つ、報告がありま~す。むしろ、こっちが本題です》

「本題?」

《『現在、軍隊蟻は学園都市上層部に繋がる組織『暗部組織 テキスト』と結託し、学園都市内部のテロリスト掃討作戦に参加している。向こうは“外部から侵入した能力者”と誤魔化しているが、それが魔術師であることは明白であるが、掃討の対象に貴方も含まれているかどうかは分からない。先日、貴方が起こした事件を捜査していた警備員の支部に統括理事会直属の対テロ戦術部隊が入り込み、貴方の事件に関する捜査資料を徴収したことから、我々と手を組んだ者達は貴方を秘密裏に処理すること、我々が交渉権のために貴方を始末することも視野に入れておいて欲しい』》

ユマは分かっていた。この同盟破棄は利用価値がなくなったからじゃない。これは“保護”と“自己防衛”、そして“警告”だ。
軍隊蟻は彼女との繋がりを消すことで、彼らからユマの所在が特定されないように“保護”した。軍隊蟻が彼女を匿う選択肢がないのは、軍隊蟻自体がテキストの監視下に置かれているからだ。
軍隊蟻と縁を切ったユマはもう仲間でも同盟関係でもなく、繋がりを断ち切った他人となった。もし軍隊蟻がユマと戦うことになってもそれは“仲間殺し”ではない。他人を殺す単なる殺人である-----という軍隊蟻の精神的な“自己防衛”だ。人間の心はそう簡単に割り切れない。いざ戦うとなったら迷うだろう。だから、せめて形式だけでも彼女を他人に、敵にした。
そして、ユマに迫る脅威の“警告”。その脅威こそが、テキストと軍隊蟻だ。
ユマは何も答えなかった。

《尚、このメッセージはあと1分で消えます。ユマさん。ご武運を。昂焚さん見つかると良いですね。あと、私たちには見つからないでください。昂焚さんが見つかったら、すぐに学園都市から出てください》

無人偵察機の表面から浮かび上がっていた光の文字が弱くなっていく。この文字が消えれば、軍隊蟻との繋がりも消滅する。

「私からの伝言だ。

『お互いに利用できるから手を組んでやっただけだ。
たった2.3日で仲間面してんじゃねえ。
私は私の目的ためだけに動く。それを邪魔するなら、全力で潰す』

…以上だ」

《……伝えておきます》

そのメッセージを最後に球体から文字は消えた。
静かに窓から出ていき、11月の月夜の中に消えていった。
2人は名残惜しそうに、それを静かに見届けた。

「さてと…」

ユマは一息つくと、ベッドから身を下ろし、入院服の紐をきつく締めた。小包とイツラコリウキの氷槍も握りしめる。

「ユマさん…どこに?」
「ここから出て行く」
「えっ?」
「『えっ?』じゃねえだろ。私はお尋ね者なんだよ。IDだって偽装がバレてるかもしれない。いつまでもゆっくり寝ているわけにはいかないんだよ。それに、お前まで巻き込まれる義理は無いだろ。お前は寝たふりをしておけ。

『お前は私の正体を知らない。私はお前を脅迫して利用した』

そういうことにすれば、お前はいつもの日常に戻れる」

「でもっ…ま、待ってください。私も…」

智暁もユマに付いて行こうとする。だが、足が前に出なかった。ユマの身を案じる気持ち以上に彼女を取り巻く存在の大きさに智暁は恐怖していた。統括理事会、暗部組織、軍隊蟻、これらが敵になるのだ。元ブラックウィザードとはいえ今の彼女はただの中学生でしかない。

「じゃあ、私と一緒に地獄の底までついてくるか?」

ユマの去り際の言葉だった。
答えさせる気などない。答えなど聞かない。
これはただ、智暁の心を挫くための言葉だから。
ユマはすぐに病室から出て行った。
病室に一人残された智暁は膝から崩れ落ちる。ユマの思惑通り、去り際の言葉で心が挫けてしまった。
涙が流れる。必死に声を抑えるが、口の端々から零れてしまう。
彼女との別れが悲しいからではない。恐怖に屈してしまった自分の弱さに泣いていた。
彼女の弱さを誰も責めはしない。誰にも責められない。
あまりにも強大過ぎる武力と権力に勇気だけで立ち向かうのは“主人公”だけだから。
消灯時間が過ぎ、真っ暗で寝静まる廊下。
ユマは病室の前で待機していた女性の警備員を頭部にかましたハイキックで気絶させた。地下街の事件でユマは被害者の立場であったため、相手の警備員は完全に油断していた。
ユマは気絶した彼女から警備員の制服の上着と携行品一式を拝借した。
本当はズボンも欲しかったが、残念なことに尻のサイズが合わずに断念。拝借した上着も胸のサイズが合わず、前のチャックは開けたままとなった。(同様の理由で防弾ベストも断念)

(銃は学園都市製のオート。装弾数は13発。予備のマガジンは2つ)

ユマは奪った装備や携行品を確認しながら夜の病院を進む。

(また…一人になってしまったな)

学園都市に来てすぐに智暁と出会ったため、この街で孤独を味わうのは初めてだ。
階段を使って下の階へと降りる。ユマは5階の病室に入院していた。
ユマは誰にも気づかれないよう、巡回の医師や看護師の目を盗み、抜き足、差し足、忍び足で慎重に、周囲に警戒しながらゆっくりと病院の中を進む。
誰にも気づかれることなく、2階までたどり着いた。
2階は診察室が集中しており、今はほとんど無人だった。

(ここから廊下を渡れば、裏の搬入口の真上まで行ける)

受付に看護師がいるため、正面からは出られず、階段で1階まで降りてから廊下をわたるコースでは受付に見つかる可能性がある。
案内図を見てルートを確認し、ユマは2階の廊下を歩き始めた。

「こんな夜、女性が一人とは危ないですね」

ユマの進む先の暗闇から聞こえる若い男の声。セリフはユマのことを案じているように受け取れるが、声や鼻につくような話し方から高い自尊心、エリート意識、自分に向けられる蔑みが容易に窺える。ユマが一番嫌いな種類の人間だ。
カツカツと高そうな靴の足音を立てながら、奥の暗闇から声の主が姿を現した。
風紀委員一七六支部の斑狐月だ。体の傷は癒え、自身の周囲に風の壁を作っていた。

「送りましょうか?留置所まで」
「エスコートはいらねぇよ。腕っぷしには自慢があるんでね!」

ユマの一声と共にイツラコリウキの氷槍から大量の冷気が溢れ出る。
冷気が廊下を包み込んだ。棚や椅子、観葉植物が幾何学模様に折れ曲がる。大量の軋む音、冷気が与える折れ曲がる圧力に耐えられず、ほとんどのものは自壊する。



しかし、狐月は例外だった。


彼は自分を台風の目にして、周囲に風を起こしており、冷気をシャットアウトしていた。
ユマの冷気が曲げられるものはあくまで固体であり、ベクトルを曲げることはできない。

「なるほど…これが界刺得世の言っていた“全てを曲げる冷気”…どうやら、私との相性は悪いようですね」

狐月は余裕の笑みを浮かべる。
ユマも平気そうな顔をしていたが、細部に焦りが見えていた。

「チッ…だったら!」

ユマは氷槍の刃先を壁に突き刺した。
突き刺した面から狐月に向けて壁が隆起する。壁の内部、裏側のわずかな隙間を流れる冷気の“曲がる力”に耐えられず、壁は自壊し、一気に解放されたエネルギーでコンクリート片が飛び散る。

「小癪な真似を!」

狐月は台風で飛び散ったコンクリート片を自身の周囲で回転させ、その一部を突風に乗せてユマに射出する。
自分で生み出したコンクリート片がマシンガンのように襲い掛かり、ユマは物陰に隠れながら逃げ惑う。
狐月からの攻撃が止んだ途端にユマは警備員から奪った銃で狐月を撃つ。
しかし、銃弾は狐月に到達することなく明後日の方向に弾かれてしまった。
狐月が自身の周囲に展開した竜巻、それに乗って超高速で壁の破片が周囲を回転し、何物も寄せ付けない壁を形成していた。
すかさず、狐月は破片をマシンガンのように飛ばしてユマを追い詰める。
ユマはいつの間にか階段の近くにある窓際に背を向けた状態で追い詰められていた。

(まずいな…。廊下を抜けようにも正面にはあいつがいる。左は壁。右は昇り階段…いや、駄目だ。昇る速度じゃ逃げ切れない。降り階段だと1歩遅れる)

ユマは周囲に目を配る。

「万策尽きて、逃げる算段ですか」
「ヘッ。バーカ!お前を倒す算段に決まっているだろ?」

勝機が見えたのか、ユマはイツラコリウキの氷槍を地面に突き刺した。
狐月は―――何が始まるのか―――と身構える。

「光栄に思えよ。お前にだけ特別に見せてやる。

私の霊装の本当の姿にして、その真価




――――――煙を吐く鏡(テスカトリポカ)――――――

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最終更新:2014年02月03日 01:04