まだ還れない。
♠ ♥ ♦ ♣
シャッフリンは、一体一体ならば――特に数字の低い連中なら、殺すのはそう難しくない。
というよりも、今のデリュージからすれば、たとえ相手がサーヴァント(英霊)に祀られていようとも下位ナンバー相手に一方的に殺される気はしない。
マスターではサーヴァントに敵わないというのは基本原則だが、同時にサーヴァントは生前の姿の劣化コピーだとも聞いている。デリュージの地力そのものも、当時よりは上昇している。
厄介なのは、その殺せるはずの一体一体が、束になって連携して襲い掛かってくることだ。
例えば、この聖杯戦争にさえ参加していなければ彼女がたどるはずだった未来で、大半の改良型シャッフリンを殺し尽してしまった一件がそのいい例だ。
そのケースでは、デリュージの側も悪魔という物量戦力を持ち合わせていた上に、シャッフリン達がある程度は散開して動いていたために各個撃破することができた。
さらにデリュージ自身にも後戻りはできない事情があったために、自らの身を顧みずに限界を超えた戦いをすることができたという、好状況が揃っていた。
今の彼女は、違う。
今のデリュージは死ねない。無茶ができない。シャッフリンを倒した『その後』があることを意識しなければならない。
聖杯戦争を、勝ち残らなければならない。
そうでなければ、ピュアエレメンツを取り戻せない。
その一念が、デリュージの理性を保たせていた。
だから、アサシンの討伐令に加わるのはもったいない、と指摘された時はあれほどに不快感を示したサーヴァントからの助言を、すすんで恃んだ。
同年代と比較して頭を回しながら気を遣って生きてきたとはいえ、青木奈美は歴戦の英霊たちにも匹敵する策謀家というわけではない。
そして、この聖杯戦争にさえ参加していなければ実行する予定だった『復讐計画』のように、何でも命令をきく悪魔やら、魔法少女を強化する薬品やら、敵を拘束する魔法のアイテムやらといった道具の数々が整っている状態でもない。
アーチャーに魔力供給をしているために、下手に全力を出し尽せない身体でもある。
絶対に殺さなければならない標的だからこそ、慎重に、理性的に、接触しなければならない。
アーチャーと話し合った上で、図書館には先方よりも先に到着していることにした。
急ぎ私服に着替えて、図書館行きのバスに乗った。
制服は私服に着替え、頭には野球帽を深くかぶり、目元には●イソーで購入したほとんどオモチャ同然の大きなサングラスをかける。
極力、短い付き合いで済ませるつもりの連中だけれど、万が一に備えてなるべく身元が割れやすい格好はしたくない。
なぜ野球帽という発想が出たのかというと、一度クエイクが間違えてカバンの中に入れてきたのを思い出したからだ。
その時は女子大生が持ち歩くには珍しいと思っただけだったけれど、簡単な変装をするには役に立つ。
そして、なぜ魔法少女の姿を取らないのかと言えば、おそらくシャッフリン達も『水属性の実験体』のことぐらいは把握しているからだ。
こちらが持つ手札の開示は、タイミングを見て行わなければならない。
たどり着いた図書館は、元より人気の少ない場所にあった。
市内にある小学校や中学校から、どちらからも通えるような位置に作ろうとしたら、どちらからも微妙に通いにくい山あいに作ってしまったような、そんな寂しい場所だ。
平日の――それも郊外にある図書館は、市内の不穏な空気もあって客入りが少ない。
正面入り口には、『臨時休館』の札がかかっていた。
これはアーチャーが掛けたものだろう。
邪魔な客が立ち入らないようにして置く、と言っていた。
そう多くない職員とわずかな客は、アーチャーが腕っぷし――サーヴァント同士の戦いには不向きなだけで、一般人よりは充分以上に強い――によって適当に眠らされて拘束されている手はずだ。
多少やり過ぎている感がしなくもないが、どのみちシャッフリンは――奈美の記憶しているとおりの連中ならば――総軍で図書館におしかけてマスターを護ろうとするぐらいのこともやりかねない。
そうなれば、どのみち図書館にいるNPCは似たような目に遭うだろう。
となれば、そこでシャッフリンたちにひと暴れさせる機会を与えるよりもこちらで手はずを整えて、まっすぐに奈美達の元に歩いてくる状況を作った方がやりやすいというのがアーチャーの言だった。
『デリュージ、分かっていますね?』
『何度も言われなくても分かっています。確実にジョーカーかマスターを仕留められる状況でもない限り、こちらから手を出しません。
連中を全滅させるためなら、穏便な会話ぐらいしてみせます』
広めのテーブル席に、一面ガラス張りの窓をすぐ背にして座る。
その窓の外には、敷地を区切るフェンスのすぐ向こう側に小川が流れていることも確認済みだ。
デリュージの魔法――『水の力を使って敵と戦うよ』は、水底でも地上にいる時と同じような呼吸と、推進力を与えてくれる。
もし撤退しなければならなくなった時に、水中戦ができないサーヴァントを撒くための逃走経路としては充分に機能するものだった。
『ああ、建物の周囲に、幾つかサーヴァントの気配が出現しましたね。
一瞬だけ霊体化を解いて、露骨に“存在を示してみせた”という風です。
“この周囲も兵士で囲んだから、下手なことを考えるな”という威圧でしょう』
『下手なこと?』
『第三者による背後からの奇襲などでしょう』
背後から差し込む日差しが、やわらかな黄昏色から夕焼けの色に変わり始めた頃、アーチャーがそう言った。
予想していたよりは早い到着だ、と身を引き締める。
いつでも動けるように、ではなく己を抑えるために。
そして、
トランプの柄の上衣が目に映った瞬間。
奈美はすんでのところで、我を忘れて吠えそうになる己を自制した。
ぞろぞろと。
奈美がじっと凝視していた通路から、何度も復讐する夢を見た集団がやって来た。
赤いパーカーを着た若い男を警護するように、トランプ衣装の兵士たちが輪を作って移動する。
周囲をハートの上位ナンバー4名が警護し、さらにその外側をスペードの6名が囲む布陣だ。
鎌を持った死神――ジョーカーは、マスターに寄りそうようにしてすぐ隣に。
ジョーカー!
仲間を庇ったクエイクと、命乞いをしたテンペストの首を刎ねたジョーカー!
そんな咆哮は、吐き気を催す直前のうめき声じみた音になって口から漏れた。
手元に置いていたミニタオルを、強く握りしめる。
魔法少女の膂力のせいで、その瞬間に裂けた。
素手だったら絶対に血がにじむほど拳を握っていたはずなので、槍の扱いに支障をきたさないように持ってきたものだった。
ジョーカーを必要以上に見てはいけない。
今はとにかくマスターの方を観察しろと、己に言い聞かせた。
そして、シャッフリンのマスターの開口一番。
「どうもー。シャ……アサシンのマスターやってます。
松野おそ松でっす」
奈美とは違う世界にいるかのように。
ゆるゆるとした声だった。
そして飲みこむのに、時間のかかる名前だった。
偽名?
いや、偽名にしてもあんまりな名前だから、もしかして逆に本名?
「お粗末さん?」
「あ、おそ松の字は、おそが平仮名で松が木の松でっす」
右手を頭の後ろに回して照れたようにぼりぼりと掻きながら、男は奈美達の対面に座った。
シャッフリンたちがその椅子の周りを取り巻くように囲んで奈美とアーチャーに警戒態勢を取り、ハートのエースが男の膝の上にちょこんと乗っかる。
甘えているような仕草だが、いざという時の盾役を兼ねているのだろう。
名前はおかしなものだったけれど、外見はごく平凡な男だった。
どこか目立つ特徴をあげろと言われたら逆に難しく、たとえば幼稚園児に色鉛筆をわたして『男の人を書いてみなさい』と言ったら、この男のような絵になるだろう。そんな青年だ。
「アーチャーのマスターをしています。田中です」
低く、冷たい声で名乗った。
なぜ偽名でまずこの名前が出てきたのか、自分でもよく分からない。
「田中ちゃんかー。下の名前はなんて言うの?」
「田中です。下の名前はありません。察してください」
そこで初めて、交渉相手に必要以上の敵意があると感じたのか『おや?』と首をかしげる。
ここで手札を切る。
シャッフリンに対してではなく、マスターに対して。
「それとも、こう言えばそちらのサーヴァントは理解するかもしれません。
『人造魔法少女』の実験体の1人です」
ジョーカーの冷徹な顔が、瞬間的にこわばった――ように、横目でも分かった。
さっと大鎌を少し揺らすだけで、テーブルの左右にいたスペードの6体が一斉に槍を向ける。
保身のためではなくマスターの為なのであろう、その献身が憎くて仕方ない。
ジョーカーの顔面に、剣山のように氷の刃をぶちこむところを想像する。
ぶちこまれたジョーカーが、そのまま無惨にばったりと倒れるところを想像して抑える。
「え? 何? ジョ――アサシンちゃん達の知り合いなの?」
こともあろうに、ジョーカーを『ちゃん』付けで呼んだ。
それだけで、このマスターは『知らない』のだと理解する。
だから、わざと意地悪く言う。
「あら、そこのサーヴァントは、自分の出自についてさえもマスターに教えていないんですか?」
「マスター、耳を貸してはなりません」
ジョーカーが、攻撃用意、と言いたげに大鎌を構えた。
『これはアーチャーに接触した時点で仕組まれた罠だったのか』と早合点した動きだった。
まさか偶然のつながりだとは信じられないだろう。
「なぜ構えるんですか?
私は攻撃しようとしたわけでも、騙そうとしているわけでもない。
ただ、事実を語るだけです」
「付け加えておきますと、私が貴女の部下たちと接触した時点では、まさか我がマスターのお知り合いだとは思いもしませんでした。信じるかどうかはご自由ですが」
そこから矢継ぎ早に、教えてやった。
自分たちは、そこにいる死神たちの御主人さまの派閥争いの側杖を食らって、誰かが遊びのように考え付いた計画のせいで『人造魔法少女』にされてしまったのだと。
そこにいる死神に、在庫一世処分のごとく皆が殺されたのだと。
何も悪い事などしていなかったのに、命乞いをしても無慈悲に殺されたのだと。
本来は無関係だったのに自分たちと一緒にいて護ろうとしてくれた魔法少女でさえも殺されたのだと。
たとえ相手が子どもでも理解できるような分かりやすい言葉で、明瞭に説明してやった。
おそ松と名乗ったマスターの顔は、惨殺を分かりやすく聞かされるごとに青ざめていった。
ジョーカーの方を見つめ、瞬き以外の動きをせずにじっとしている。
ジョーカーと念話をして、本当のことなのかを確かめているのかもしれない。
さぁ、この不意打ちに何と答える。
こいつは、今この瞬間から『加害者遺族』も同然の立場におかれ、奈美は『被害者、兼、被害者遺族』になった
奈美はその反応を注視した。アーチャーも、より鋭い眼で注視した。
その目は、『貧者の見識:A』であり、『扇動:A』の眼だ。
ひたすら人間を把握する能力に特化したアーチャーは、マスターの一挙一同でどういう人物かを見抜いてしまう。
まるで、学校生活していた頃の青木奈美を、100倍も過敏にしたような性質だ。
念話は終わったのか、おそ松はジョーカーと奈美とを、言葉を考えるように交互に見つめた。
「えっと……それって、この聖杯戦争を始める前の……」
「私の生きていた世界で、本当に起こったことです。戦争でも何でもないのに殺されました」
『殺された』と繰り返す。
謝罪されても、許そうと言う気持ちなんかこれっぽっちも湧かないけれど。
それでも、お前の言葉によって、シャッフリンをどう追い詰めるかの手がかりが得られる。
お前たちはどういう主従なのかを、私たちに教えてくれ。
おそ松はジョーカーを抱っこして、どん、とテーブルの上に乗せた。
深々と、テーブルに手をつき、頭もくっつけるようにして土下座の手つきを取る。
緊張した神妙な声を出し、冷や汗をテーブルにぽたぽた垂らしながら、
「えー、このたびは、じゃなかった、ずっと前に、うちのサーヴァントが大変な不幸を田中さんのご友人に与えてしまいまして、オワビの申し上げようもアリマセン。
すべての原因はこのサーヴァントにありますので、どうか煮るなり焼くなりどうぞどうぞ」
売った。
さすがに予想外だった。
こいつ、憎しみの矛先を恐れて、自分のサーヴァントをあっさり売った。
卓上に乗せられたまま、ジョーカーは硬い声を出した。
「お言葉ですがマスター、この場合は半日以内にはぐれサーヴァントと契約しない限りマスターも脱落いたします」
「うげっそうだった! 俺の夢かなわないじゃん!!
あーもー、ジョーカーちゃん何やっちゃってくれちゃってんの!?」
『これは……見極めるまでも無かったかもしれませんねぇ』
『私にも分かります』
幼児にだって分かるだろう。
こいつ、ただのバカだ。
なんで、こんなバカがここにいる。
憎悪とも少し違うやり場のない苛立ちが湧いてきて、奈美は踵で床をガツガツと蹴った。
シャッフリンだけが、冷静な顔のままで口を開く。
奈美に対して。
「これは、復讐宣言ですか?」
極力、このサーヴァントとは会話をせずに済ませたかった。
しかし、バカなマスターに聞かせるためだと割り切って、奈美は口を開く。
言葉を選びながら、泣きわめき逃げ惑うシャッフリン達を、手当たりしだいに槍で串刺しにしていく妄想をする。
「まさか。ただの方針確認ですよ。
私の聖杯に賭ける願いは、奪われた全ての仲間を生き返らせること。
その為なら何人だって殺すし、人道も知ったこっちゃない
憎い仇と共闘するのも耐えてみせる」
ここだけは、一部嘘だ。
「交渉をするなら、そういう方針だと説明しなければならないでしょう。
松野さんはどうなんですか? まさか、そんな凶悪なアサシンを飼いならしておいて、戦争否定派でもないでしょう」
ジョーカーは疑いを隠し切れないようで、未だにスペードの構えを解かせていない。
それでいい。むしろ、その姿勢こそ好都合だ。
『田中』は復讐に燃えている。いつマスターに襲いかかるか分からない。
『田中がマスターを襲うかもしれない』『田中がマスターに讒言を述べるかもしれない』という警戒をしてくれた方が都合がいい。
「お互いの方針を理解しないと、同盟を組めるか分かりません。お聞きしてもいいですか?」
奈美は、表向き普通に交渉を進める。
シャッフリンについて述べる時も、悪辣な言いようではあるが、事実を述べているだけだ。
おそ松を騙すような言葉は使わない。そこに隙がある。
ジョーカーは、おそらくマスターを矢面に立たせることや、マスターが騙されたり操られることには警戒していても、マスター自身が、自分の意思で、シャッフリンを拒絶するという可能性はほとんど懸念していない。
マスターを戦場に立ち入らせず関わらせない一方で、マスターから命じられたらどんな理不尽でも、それこそ自害せよと言われても従う、そんなスタンスであり続けているならば、それはそうなる。
あるいは生前の生き様がそうだったからか、『マスターが自分達を破滅させるならば、それでも構わない』と達観しているかもしれない。
そして、奈美はシャッフリンのマスターに方針を尋ねる。
色々な会話を引き出し、引き延ばす。
やばい、めっちゃ私利私欲で参加しているなんて言いづらい。
今度は、松野おそ松はそういう顔をした。
いや、実際にはもう少し違うことを思ったのかもしれないけれど、とにかく『こんな重たい話をされた後に、自分の動機を語らなきゃいけないのか』とうろたえている風に目が泳いでいた。
良かった、こういう小物の方がやりやすい。
別にこいつが『大病を患っている恋人を救うために聖杯を求めています』とかだったら殺すのを止めたなんてことは全く無いけれど。
「まぁ……俺も、聖杯が欲しいんだよね。田中ちゃんには本当に悪いけど」
それでも欲望を素直に認めてしまうあたり、小物ではあるが欲に正直ではあるらしい。
「では、共に聖杯を狙うならば、『いつまでも』手を取り合うわけにはいきませんね。
そちらの方で、具体的に『これを倒すまでは協力したい』というアテはありますか?
もっとも、現状で脅威になる主従だと、真っ先に挙がる連中がいますけれど」
言葉はよどみなく口から出る。
確かに普段の生活でも――演技もあったとはいえ――口数は多い方だったけれど、今の自分はそれ以上にペラペラと役者のようによどみなく喋れる。
もしかして、復讐に酔っているのだろうか。
今度は自分が彼等を殺すのだと思うと、とつぜん笑い出したいような衝動にかられたりもする。
「ああ、そうそれ。俺達も『討伐令』の連中を倒したいと思ってるんだ」
「ライダーですか? それともアサシンですか?」
「そりゃヘド……ライダーでしょ。シャッフリンちゃんたちをあんなのに突っ込ませるのは心配だけど、あれ放っといたらみんな無くなっちゃうみたいだし」
不可思議な言葉が飛び出した。
シャッフリンたちが心配。
シャッフリンが憎くてたまらないマスターの前でそう言うのはあまりにデリカシーが無いし、実際聞き捨てならないけれど、
私利私欲のために駒として使っているはずのサーヴァントの身を案じているとしたら、ちぐはぐな印象だ。
ましてや、ついさっき、シャッフリンたちが無慈悲な暗殺者だと知ったばかりだろう。
念話で【ふむ……】と思慮深げな声が聞こえてきたので、やはりアーチャーも同じ点が気になったらしい。
ここは踏み込むしかない。
「しかし、こういう考え方はどうですか?
ヘドラはほぼ全ての主従を敵に回したといっていい。
ならば、私たちが手を出さなくとも、時間の問題で他の主従が討伐してくれるでしょう。
なら、私たちが討伐令に参加する必要はない。
むしろ、確実に聖杯に近づきたいならば、ヘドラ退治に夢中になっているマスターを背後からアサシンで奇襲した方が確実じゃないですか?」
アサシンに楽をさせてやれる提案。
しかし、かつて、奈美自身も『考えたことすら忌まわしい』と拒絶した提案。
それを、
「いいねぇー!」
喜びで飛び跳ねんばかりの、満面の笑顔を見せられた。
「確かにそっちの方が、シャッフリンちゃんに楽させてやれるし、確実に優勝に近づくじゃん!
そっか、そっか! 俺も『アサシン』の時にシャッフリンちゃんにそう言えば良かったんだ。田中ちゃん頭いいねぇ~」
褒められた。
ノリノリに乗ってきた。
膝の上にいたハートエースと「やったね!」とハイタッチしているのを見るに、本気も本気らしい。
こちらをバカにしているわけではないらしい。
その方がどれほどマシだったか。
おかしい。
こいつは、奈美が『被害者遺族です』と主張すれば、(言ったことは最低だったけれど)とたんに冷や汗をかいて頭を下げるような、ごく一般的な俗物のはずだ。
それがどうして、こんな外道そのものの提案には怯えずに乗って来る。
どこかおかしい。食い違っている。
しかし、ひとしきり歓迎した後、おそ松ははたと我に返ったようにテンションを落とした。
「……あ、でもやっぱりいいや。
それで本当にヘドラ退治が失敗しちゃったら困るし。
NPCだからって、か……ヘドラの犠牲者を増やしちゃうのは良くないし」
まただ。
今度は一転して、NPCの身を心配する発言だ。
NPCだからといって、死なせるのは良くないと言った。
あまりにも善良な一般人すぎる。
他のマスターを外道な手段で殺すことは厭わないのに、NPCの犠牲者を実際に見るのは気分が乗らない。その判断基準はどこにある。
「すみません、参考までに聞きたいのですが、おそ松さんは今までにどれぐらいの主従を脱落させたんですか?」
「えーっと、シャッフリンちゃんが言ってたのは、ランサーとアサシンと……全部で何人だっけ?」
おそ松が訊ねて、ジョーカーが答える。
ジョーカーが挙げた主従の組数は、両手の指で余るほど多いと言うわけではなかったけれど、
それでも予選期間の間はNPCをのぞき一組も殺さなかった奈美からすれば、とんでもない成果にだと言っていい数だった。
「そうですか……それは、短期間の間でずいぶんと殺人鬼になりましたね」
それほど大した皮肉を言ったつもりはなかった。
聖杯を狙って戦っている時点で、誰もが他のマスターを殺すのだと覚悟を決めているはずだから。
奈美だって自分が同じことを言われても、大した痛痒は感じなかっただろう。
その、はずだった。
「えー、そういう言い方されるのは傷つくなぁ。
サーヴァントは最初から幽霊みたいなものだって言ってたし、
マスターだって本当に死んじゃうわけじゃないでしょ?」
「――――――えっ」
その一瞬は、素で意味が分からなかった。
隣にいたジョーカーも、はて、と首をかしげた。
『これは、これは……』
アーチャーだけは察したらしく、念話でさもおかしそうな笑いを送ってきた。
こいつは、マスターは死ぬわけじゃないと、そう言った。
どういうことだろう。
まとめてみよう。
松野おそ松は、魔力も感じなければ、『人造魔法少女』の話を聞いてもど素人丸出しの顔をしている、ただの戦わない一般人マスターだ。
聖杯でゲットしたいのは富だか名誉だかしらないが、とにかく欲に目がくらむ俗物だ。
しかし、情が無いわけでは無い。NPCでさえ気に掛けるほどには、良識らしきものがある。
そして何より、救いがたいほどのバカだ。
この聖杯戦争を――現実味の無い、リセットの効くゲームか何かのように思い込むほどの、バカだとしたら。
ああ。
これは。
アーチャーが笑うわけだ。
見つけた。
この主従を、崩壊させる最も大きな、穴。
余りにも分かりやすい、穴。
松野おそ松は、いきなり生まれた沈黙に、なんだなんだという顔をしていた。
あまりにも間抜けな、何も分かっていない顔に向かって説明してやった。
仲間を殺されたことを語った時以上に分かりやすく、説明してやった。
実際、難しい言葉なんか少しも使わずに伝えられる。
この殺し合いは、本物ですと。
負けたマスターは、消えて死にます、と。
お前が可愛がっているそいつらは、お前の為だと言いながらこれまでずっと平気で犠牲者を積みあげてきたのです、と。
シャッフリンたちは、止められない。
マスターにとっては、事実、理解しておいた方がいい情報だから。
むしろ、今まで理解してなかったことの方が、不思議なぐらいだから。
『何かマスターの精神衛生上に良くない事が起こっている』とは察していても、
『あたりまえな聖杯戦争の
ルール』が一般人にとっては残酷なものだと、まずそこを実感できない。
それがマスターを最も追い詰める真実だと、いまいち理解できていない。
簡単な説明を、何度も繰り返して理解させるうちに。
おそ松の顔色が、さらに変わっていった。
蒼白から、白へと。
デリュージは笑った。
心の底から笑った。
笑って、尋ねた。
「あなたのサーヴァント、今まで、一体何人のマスターを殺してきたんでしたっけ?」
あなたの膝の上にもいるそいつらは、別にあなたの味方でもなんでもない、
ただの無慈悲な死神なんですよ、と。
無垢な顔でマスコットか何かのように膝の上に乗っているハートのエースを、眼光で刺し貫きながら。
♠ ♥ ♦ ♣
公園を照らす日差しは、黄昏色から夕焼けの色へと、眩しいものから弱々しいものへと変じていた。
十一月にもなれば、陽が落ちるのも早くなる。
そんな夕陽をスポットライトにして、東恩納鳴がまばゆい白色の宝石を掲げた。
そのまま額に当て、叫ぶ。
「プリンセスモード・オン!」
少女の身体が、まばゆい光に包まれた。
言葉にすると陳腐だが、そうとしか表現しようがなく、そして子どもに夢を与えるには充分過ぎるものだ。
今ここで名乗りを挙げてキメ顔でポーズを取る必要なんか無いだろ、などという無粋なことは誰も言わない。
「か……かっこいい……」
素直に喜んでいる小学五年生だっているのだから。
十代前半ぐらいの――つまり、多くの魔法少女アニメで採用される年齢設定の、可愛らしい魔法少女がそこにいた。
白くみずみずしい肌に、小柄ながらも手足はすらりと伸びている。
背中に背負ったオリーブを思わせる木の葉の輪っかと、腰に携えられたギラギラした刀剣は、まるでどこかの神話から抜け出してきた戦女神のようだ。
「すごい……見た目が大人になってる。髪の色まで変わってる!」
外見なら
一条蛍の方がもっと大人だとおそらく全員が思っただろうが、誰も言わなかった。
鳴はちょっと得意げな顔で、二つ結びの髪をふわりと揺らすように小首をかしげてみせた。
長くのびた髪の毛は淡茶色に変じた中に光沢を散らし、ティアラが夕陽に煌いてまぶしい。
首から下を飾るのは、白く薄い布と葉の飾りを纏ったような露出の高い衣服だった。
特に下半身など、まるで――
「――ふんどし?」
その印象を言葉にしたのは、望月だった。
そう言えばこいつが現役だった時代は、今よりかなりふんどし需要高めだった。
「ち、違うもん! ちょっとデザインがそう見えるかもしれないだけだもん!!」
自分でも薄々そう思っていたのか、プリンセス・テンペストと化した鳴が必死に否定する。
「いや、そんな恥ずかしそうなこと言ったつもりは……そりゃあ女でソレつけてる人は珍しいかもだけど」
「珍しいどころじゃないから! 絶対ないから!」
望月の応答は、どこかがずれていた。というか時代に適合していなかった。
男六人分の生活臭むんむんの家で暮らしていたせいで、何か悪い影響でも与えてしまったのだろうか、と
松野一松はひそかに心配にかられる。
そう言えば、彼女が童貞臭の激しい松野家にわりとすぐに順応してくつろいでいたのも、『船』とはそういうむさ苦しい男所帯の集団生活の場でもあったから、らしい。
「でも、ブレイバーさんのコスチュームも可愛いよね。勇者って言うか、お姫様みたい」
話題をそらしながらも、テンペストこと鳴は元のコスチュームに戻ったブレイバーをきらきらした眼で褒めた。
「えへへ、ありがとう」
淡い緑色のドレスと蔦や花の飾りをあしらった勇者――ブレイバーも、まんざらでもなさそうに照れを見せる。
事の起こりは、話し合いがいよいよ今宵からの行動――ヘドラ討伐計画に移行してからのことだった。
当初は討伐令も傍観するスタンスだった一条蛍たちだが、ヘドラの脅威度を認識し、蛍自身を含む彼女の日常さえも危ういとなれば、討伐令参加予定(当初はアサシンだったが)の鳴やランサーに協力しない理由がない。
しかし、まさか一般小学生でしかない蛍をヘドラの出現地点に連れていけるはずもない。
だから、蛍ちゃんには自宅でじっとしていてもらおうということになり、蛍は役に立てないことにしょげて、ブレイバーや鳴に気にすることではないと慰められた。
鳴が、魔法少女としての活躍を見せられなくて残念だと言ったことで、蛍はちょっとだけ笑顔になり、こう言った。
こんな時に言うことじゃないかもしれないけど……鳴ちゃんの変身した姿を今、見せてもらったらダメかなぁ、と。
魔法少女アニメを愛好する小学生にとって、本物の魔法少女が変身して戦う姿を見られるかもしれない、というのはたいそうな誘惑だった。
テンペストも、『魔法少女としての活躍』を賞賛されることに耐性が無かったのか、すごくにやけた顔で快諾した。
その代わり、ブレイバーの衣装をもう一度見てみたいとちゃっかりねだる。
こうして、コスチュームお披露目会になった。
悠長なイベントかもしれないが、少女たちにとっては決戦前の空気を作るために必要な盛り上がりでもあった。
しかし、1人だけそんな和気藹々とした光景の中で、難しい顔をしている者がいた。
一松ではない。彼は難しくする以前に、状況を横目で見ている。
他でもない東恩納鳴の、サーヴァントだった。
難しい顔のまま、ランサーは切り出した。
「鳴ちゃん。やはり鳴ちゃんも、家に待機しているべきだと思う」
それは、今までのやり取りでも何度か口にしたことだった。
鳴――テンペストも、『またランサーがそれを言った』という顔をする。
「サーヴァント同士の戦いなんだよ。マスターも混じって戦うなんて、危険すぎる」
「だから、私なら魔法少女だからヘドラの毒も効かないし、大丈夫だよ。
もし効くとしても空飛べるんだから避けられるし、地面が溶けても大丈夫だもん」
これも、繰り返し鳴が言ったことだ。
「それでも、やはり危険だ。最初にバーサーカーに襲われた時のことは覚えてるだろう」
「それは、分かるけど……でも、わたしが討伐をやろうって言ったんだよ」
「それは相手がアサシンとそのマスターだった時だ。
それにマスターが戦いに出てこないのは、べつに恥ずかしいことでも何でもない」
「でも、私がいれば、ランサーがピンチの時に令呪とか使ったり、できることがあるかもしれないじゃない。それに……」
分かっていない大人に反論する子どもの顔で、魔法少女は白状をした。
「今度はお手柄を立てた全員に、令呪を配ってくれるんでしょ?
令呪が欲しいわけじゃないけど……ルーラーって人と話せれば、戦わないで聖杯を貰えないかどうか、お願いできるかもしれないじゃない」
その言葉は、鳴の主従以外の全員にとって不可解なものとして聞こえた。
そして、鳴のサーヴァントにとっては、きわめて心苦しい言葉として聞こえた。
実のところ。
ランサー、
櫻井戒と、マスターである東恩納鳴の間には、その実、お互いの理解度に圧倒的な隔たりができている。
鳴は正しい魔法少女として、かっこいいランサーのマスターとして、自分も戦いで役に立ちたいと思っている。
鳴にとってのランサーは、サーヴァントに襲われていたところを救けてくれた、優しくて頼りになるお兄さん(ヒーロー)だ。
だから鳴は、最初に戒から『どうしても聖杯が欲しい』という打ち明けを聞いていても、イコールで無辜のマスターを殺すこともいとわない人物だと、頭の中でつながっていない。
そうでなければ、図書室でも『討伐令に参加して悪いマスターを殺すのは間違っているのだろうか』と悩んだりはしないだろう。ランサーはそもそも他のマスターを殺すつもりだということを、すっかり意識の隅にやっている。
子どもらしく、アニメなどで見た正義のヒーロー像や、人を襲う悪人像と比べてみて、『こんなにかっこよくていい人が、あっさり人を殺そうとするわけがない』と思いたがっている。
初対面の時にバーサーカーをあっさり仕留めるところは目撃したけれど、その行為は『死ぬところだった自分を救ってくれた』という大義名分によって麻痺したものだ。
昼休みに『悪い人をやっつけて令呪が欲しい?』と聞いたときも、ランサーは『争いごとは嫌いだよ』と答えていた。
それに、最初から『できる限りは鳴の意向に沿う』とも言ってくれたので、自分が嫌だと言えばランサーは正義に悖るような殺人はしないだろうと、すっかり信頼している。
しかしランサーは、そんな綺麗なヒーローなどでは有り得ない。
誰よりもランサー自身が、そう自認している。
実のところ、ランサーは妹や大切な人達をキレイなまま守るためならば、どんな外道に手を染める覚悟もある人物だ。
だから、ヘドラの討伐戦にも、なるべくマスターを巻き込みたくはない。
あくまで、マスターの信じる正義を守るために戦いたいという気持ちには偽りない。
だが、万が一にも『創造』の宝具を使う事態になれば、己の穢れをあの純粋な眼に見せつけることになる。
それだけでなくマスターがヘドラの膨大な悪意だとか、令呪目当てにつどう人間の業だとかを目の当たりにして傷ついてしまうことも避けたい。
あのまっすぐな正義が曇るところは見たくない。
何より討伐戦の中で、マスター自身が危害を加えられることは絶対に回避するつもりでいる。
そんなランサーだから、『もしかしたら戦わずに済むかもしれない』と言う希望的観測は、あくまで鳴を安心させるための詭弁でしかない。
だから、鳴から純粋にランサーを想っての気遣いを聞かされて、とっさに言葉がうかばなかった。
それを聞いていた一同の中で、まずシップが不思議そうに尋ねた。
「あれ? おたくらって聖杯戦争やらずに脱出希望じゃなかったっけ?」
ランサーから生還優先で同盟相手を探していると聞けば、普通はそう思う。
「わたしはそうだけど、ランサーはどうしても聖杯が要るんだって。
だから、戦わないで聖杯を手に入れる方法を探してるの」
「え、そんな方法があるんですか?」
蛍がびっくりした顔をする。
「いや……まだ分からないけれど、そういう可能性があるなら賭けてみたいと思っただけさ。
あまり人に言えるようなものじゃないけれど、僕にも一応願いはあるからね」
「戦わずに聖杯を手に入れるって……ランサーさんは何かアテがあるんですか?
も、もしかして、ルーラーさん相手に戦ったりするつもりなんですか?」
ブレイバーも、この話題には食いついた。
彼女自身、今は蛍の保護を優先するスタンスだが、基本的には聖杯戦争そのものに対して否定的な考えだ。
『戦わずに聖杯を獲る』というのが、誰か他の人に迷惑をかけないやり方だったならば、むしろそれを応援したい。
「場合によってはそうなるかもしれない。
まだ何もわかっていないから、希望的観測だけどね」
鳴がそれを聞いて、ここぞとばかりに推した。
「だったら、やっぱり今回の『討伐令』ってチャンスじゃない。
まだ何もわからないんでしょ? このままじゃランサー、他のマスターを殺さなきゃいけなくなっちゃうよ?」
つい勢いで口にしてしまったような後半の部分を聞いて、蛍がさらに驚いた顔をする。
「え!? ランサーさん、方法が見つからなかったら、聖杯戦争やっちゃうんですか!!」
まさか、初めて出会えたブレイバー以外で協力してくれるお兄さんが、一歩間違えれば聖杯のために殺し合いをする予定だというのは衝撃的すぎる。
ランサーはそれに対して曖昧な笑みを浮かべ、やんわりと否定するしかない。
「いや、僕もできればその手段は取りたくないよ。」
「そうだよ。ランサーはいい人だから。人殺しは嫌いだって、言ってくれたもんね?」
「あ、ああ……好きか嫌いかで言えば、そうだね」
「そ、そうですよね……良かったぁ」
「いや、でも『ルーラー』に聞いたってどうにかなる問題なの? これ戦争っしょ?」
疑問を呈したのはシップだった。
サーヴァントの中でもランサーは生前に実戦の経験が数えるほどしかなく、ブレイバーはそもそもただの人間を相手に戦ったことがない。
そういう意味ではこの中だと彼女が最も『戦争』に慣れていた。
「だってあたしたち、聖杯戦争のルールはこうですよって叩き込まれた上で召喚されてんだぞ?
逆に言えば、ルーラー的にも『最期の一人にならない限り、絶対に聖杯はあげません』ってことじゃない?」
「そ、そんなのやってみなかったら分からないもん。ランサーだって、私が望むなら間違ったことはしないって言ってくれたし。そうだよね、ランサー?」
「そうだね……できるだけ、君の意向には沿いたいよ」
気が付けば、ランサーはぎこちない笑顔を浮かべっぱなしになっていた。
その笑顔は、それでもランサーを『良い人』という眼で見ている蛍とテンペストの眼には爽やかな笑顔に見えるものだったが。
「他に方法が見つからなかったら?」
どんよりと陰鬱な一松の声が、横合いからぼそりと言った。
「それは……希望的観測なのは承知している。でも、探してみるつもりだ」
「だぁ、かぁ、らぁ。できなかった時は、どうすんの」
相変わらず、半目のような目つきの悪さと、体育座りのままだ。
しかし、その応答はそれまでとは違っていて、相手に絡みつこうとするようなねちっこさがあった。
まだ小学生の東恩納鳴と、一条蛍。中学生にして勇者をやっていた
犬吠埼樹。享年は高校生だった櫻井戒。
生まれは早くとも、あくまで少女として二度目の生を受けた望月。
この中で松野一松は、ほぼ唯一の大人である。
自立していないし、社会に出られそうにもないし、この中ではいちばん何もしていないし、大人らしいとは言い難い大人だけれど。
それでも二十数年を生きてきて、子どもの頃にみたアニメと現実は全然違うと悟ったり、期待を裏切られたり、騙されたりしてきたことはそれなりにある。
『自分の主観においてのいい人』と『客観的に見ても善良な人』はイコールではないことを知っている。
そんな大人の眼から見れば、櫻井戒の言葉が曖昧に濁されたものだということは一目瞭然だった。
『できれば』とか『かもしれない』とか『そうしたい』の繰り返し。
別にすぐれた観察力を持たなくとも、年長者の眼から見れば、『子どもをがっかりさせないために、曖昧に言葉をにごす大人のそれ』だとすぐに分かる。
「どうしても他の方法が見つからない時は、願いを諦めるのか、それとも殺すのかって聞いてるんだけど」
「それは……」
それでも、普段の一松なら、内心では思ってもそれを言葉に出すような出しゃばりはしないはずだった。
少女たちが真面目に訊ねているのに、いかにも『相手は子どもばかりだからごまかせるだろう』という答え方をしているのが、女を上手くあしらうリア充を見ているみたいでちょっとイライラする。
このまま、流れでこのチームに組み込まれそうになっているのに、肝心な部分がごまかされたまま話が進んでいくのはモヤモヤする。
もっと言えば、ずるい若者が女子小学生たちを煙に巻いているのはどうだろうという、良心じみたものも全く皆無ではない。
そう思ってはいても、さすがにこの状況下で地雷を踏みに行くほど一松も豪胆ではない。
しかし。
「なんで答えらんないの?」
スキル・輝ける背中。
現状、会話をただ隅っこで見ていただけの一松はさほどブレイバーに近づいていなかったけれど、それでもこれ以上なく『諦めた者』だった彼に対して。
その効果は『なんとなく今なら言いたいことも言える』という程度に気を大きくさせていた。
それが、良いことだったかはまったく別として。
「アンタは、どっちの側にいんの?」
それでも、一松だってランサーのことを甘く見ていることには変わりなかった。
でなければ、挑発的な言葉を吐ける度胸まではない。
いつかクリスマスの夜に絡んだカップルのように、自分が介入したことで不穏な空気になったとしても、どうせより固く結束して元のさやに納まるのだろうと、下から目線で見て楽観視していた。
「そ、そんな聞き方することないでしょ。
ランサーが殺す方についたりとかするわけないよ。だって……」
だから、鳴が庇うようにランサーの前に出てそう言った時、一松も、ほらこれでまた仲直りして一致団結の流れになるぞと思ったのだが。
「……そんなこと言ってたら、蛍ちゃんだって殺さなきゃいけないじゃないっ」
そう言った言葉が、ひそかな分岐点になった。
ランサーがその瞬間だけ、とても苦々しい顔をする。
それはランサーにとって、今の鳴にもっとも考えてほしくないことだった。
その事実に気付けば、少女は遠からず、ランサーの汚れた戦いに介入しようとしてしまうから。
58人を殺害したアサシンの討伐――それ自体が正しいのかは分からないが、少なくとも、無辜の人達が殺されるのを止めることは、魔法少女の眼から見ても正義だ。
海から汚染を広げて攻めてくるライダー『ヘドラ』の討伐――町を滅ぼそうとする敵から守ることは、おそらく正義だ。
じゃあ、殺し合うつもりなんか無いのにただ巻き込まれただけの、優しいお姉さんを、聖杯が欲しいから殺すことは?
――どう考えても、幼い魔法少女を関わらせていい正義ではない。
「それは違うよ。僕は蛍ちゃんみたいな人には手を出さない」
まずは欺瞞を重ねてでも鳴を安心させる。
そして、その時だった。とりあえず『様子見』にしていた松野一松というマスターへの対処が、ランサーの中で車両のレール切り替えのようにはっきりと定まった。
お互いに、言い過ぎたことや煮え切らなかったことを謝って、表面上は何事もない仲直りが終わる。
「――音楽家か?」
仲直りが終わるのを見計らって現れたわけでは決してない、脈絡のない問いかけだ。
すっかり朱色に染まった公園で、新たな脅威が、斬りこむような詰問をその場に投げた。
♠ ♥ ♦ ♣
東恩納鳴が、『人造魔法少女』の姿に変身していた頃と、時間は前後する。
「あなたのサーヴァント、今まで、一体何人のマスターを殺してきたんでしたっけ?」
松野おそ松はただの戦わないマスターだと、青木奈美は自分の見立てに確信を持っていた。
うじゃうじゃいる同じ顔の少女達が、幸運の女神でもなんでもない無慈悲な大量殺人鬼だと理解して、
これまでK市で何もせずに何も知らずに平和に生きてこられた恩恵が、甘い汁でもなんでもない、たくさんの屍から流された血だったのだと思い知って、
ヘドロ一色に染められた海も、日々この街で誰かが誰かを殺戮していることも、すべて現実に起こっている、本物のの脅威なのだと理解して、
これまでと同じようにサーヴァントと仲良く優勝を目指そうとする精神力など、とうてい持ち合わせているわけがない。
そして、自分の道を失い、一方的に不信感を持った主従のたどる道など見えている。
早々に脱落するか、あるいはどちらかがどちらかを切り捨てようとして、共倒れになるか。
あとは機会を見てその耳に甘言のひとつも仕込んでやれば、砂の城よりも簡単に瓦解することだろう。
サーヴァントではない奈美の槍でさえも、労せず背中からたやすく刺し貫いて嗤えるほどに。
ゴミの主従にはふさわしい末路だと、そう思っていた。
事実、おそ松の顔からはさっきまでのお気楽な表情が削ぎ取ったように消えている。
両眼をぎょっとするほど見開いて、すぐ隣にいるジョーカーのことを凝視している。
「ジョーカーちゃん…………これ、本物だって言ったっけ?」
まったく抑揚のない声で、そう訊ねる。
「初めて拝謁した時に、『殺し合いです』と申し上げました」
抑揚のない声が、そう答えた。
「……そっか」
おそ松は、そして無言で何度か頷いた。
それは恐ろしい沈黙だった。
しかし、奈美にとっては続きが気になって仕方ないアニメの次回予告のように愉快だった。
奈美は、ただ黙って期待したものの到来を待った。
彼が感情を爆発させて、状況など顧みずに愁嘆をさらし、シャッフリンへと呪詛を吐きだすのを待った。
しかし。
しかし、次に起こったのは、奈美がまったく予想もしない出来事だった。
ぶわっと、おそ松の眼から春の選抜で負けた高校球児みたいな量の涙があふれ出た。
「どうしようジョーカーちゃん! 俺、本当の本当にヤバいところまで来ちゃったよ!!」
椅子からすべり落ちるように飛び出し、ジョーカーにひしっとしがみついてわーっと泣きついた。
それは、さながらガキ大将に苛められて猫型ロボットに泣きつくダメ小学生のようなすがりつきっぷりだった。
――――――は?
その光景は、青木奈美が予想したうえで期待していた愁嘆場かつ修羅場と180度異なるものだった。
「やばい、とは?」
「いつの間にか俺、連続殺人の主犯みたいだし!! ヤバいヘドラ来るし!!
本当にヤバいって分かってたらこんなとこ来なかったーっ!!」
「マスター、落ち着きましょう。まずは語彙を取り戻すことが肝要かと」
ジョーカーが、気安くお身体に接触する無礼を失礼いたします、と断りを入れて、なぐさめるようにおそ松の背中をさする。
待て。
待て、待て待て。
奈美はつい、己のほっぺたをつねる。
痛い。ちゃんと痛い。これは夢まぼろしじゃない。
なぜ、よりによって泣きつく。
そ、い、つ、に、泣きつく。
お前が言う所の、『本当にやばい』の筆頭がそいつだ。
このマスターはついに気が狂って、恐怖のあまりシャッフリンを正しい認識で見られなくなったのか。
奈美はそういう考えに囚われた。
♠ ♥ ♦ ♣
しかし、おそ松はまったくの正気だった。
むしろ、それが彼にとってもっとも自然なリアクションであるぐらいには正気だった。
それは『今までの人生で最大級のやらかしをしてしまった人間のリアクション』ではあったし、
それは『責任が取れないかもしれない大罪が降りかかってきて怯えきっている人間の顔』であったし、
それは『夢の世界のように何でもありなんだと思っていたのが非情な現実だと言われて耐えきれない人間の反応』ではあったけれど、
しかし、それらは全く、シャッフリン達への態度を変えてしまう理由にはならない。
そんなものに影響されて彼自身が変わってしまうようであれば、子どもの頃からずっと『奇跡的に変わらないバカ』などやっていられない。
松野おそ松は子どもである。
自立していないし、社会に出られそうにもないし、まともとは言い難い大人だけれど、もっとずっとそれ以前の問題として子どもである。
『自分の主観においてのいい人』と『客観的に見ても善良な人』はイコールではないことを知っているはずなのに、
『いい奴なのに、どうして拒絶するんだろう』とか意識するまでもなく、一度ふところに入れた人間には変わらないまま接するような子どもだった。
でなければ、昔はしょっちゅういじめていたミソッカスの幼なじみが、『ミスター・フラッグ』という恐ろしい権力者になって目の前に現れても、
『ハタ坊自体は何も変わってない』とあっさり納得して、気さくに金をせびるほど遠慮なしに接することなんかできはしない。
その友人によって尻の穴に凶器サイズの旗を刺されたり、正体不明のお肉料理(いわゆるアミルスタン羊的な)を半ば無理に食べさせられたりしているのに、
依然として友達付き合いを継続して、イヤミから虐められていれば庇ったりするような関係を続けられはしない。
小学六年生のメンタルのまま成長しなかった男、とはよく言われるところだが
それ以下の年齢である一条蛍や東恩納鳴でさえ、この町ではマスターとして『大人の判断』をしようと背伸びしているのだから、
マスターの中では彼が最も幼いとさえ言っていいかもしれない。
そこに闇なんかない。狂ってもいない。
人並みに罪悪感を抱くだけの心はあるし、命の重さだってたぶん理解している。
さらに言えば、彼は戦争のいろはも知らない一般人だ。
いつもドタバタ騒動に巻き込まれて死ぬような眼にあったりしたこともあるけれど、
それらは聖杯戦争だとか、電脳世界を滅ぼそうとするヘドラの災害だとか、シャッフリンが生前に起こしてきた殺戮劇に比べれれば、いわゆる『ギャグ補正』という言葉で何とかなる、『戦い』のうちにすら入らないと言える。
しかし、そのことは別に、おそ松の人格形成がごくまともに行われており、周りもまっとうな人間ばかりだったことを意味しない。
変人か狂人かバカしかいないような環境で育ち、彼自身もそういう『おかしな人間』への耐性だけは異様についた、立派なバカとして成長した。
ただ、どうしようもなく奇跡的なバカだったせいだ。
もしも、彼が見てきたシャッフリンに、欺瞞があったなら別だった。
もしも、シャッフリンがおそ松に対してまったく献身を示すことなく、うやうやしくも健気に仕えることなく、冷淡な関係を築いていたら。
おそ松はシャッフリンの行状を知った瞬間にドン引きし、もはや彼女たちを恐怖の対象としか見ることができなかっただろう。
もしも、シャッフリンが召喚された時におそ松を騙して、あるいは不適切な説明をしたおかげで『これはゲームなんだ』と思い込まされたのだとしたら。
おそ松は『よくも騙したな』と怒り、嘆き、絶望するだけで、シャッフリンに頼るという選択肢など選ばなかっただろう。
もしも、シャッフリンがやる気だけの無能なサーヴァントであり、『これまでは終始有利に立ち回りながらおそ松を安全に生き残らせた』という実績が無かったならば、
おそ松は『なんて犯罪をやらかしてくれたんだ』と八つ当たりをシャッフリンにぶつけ、おそ松自身にも非はあったにも関わらずあっさりと屑のようにシャッフリンを見放して、サーヴァントの乗り換えさえも検討しただろう。
もしも、シャッフリンが平気で人を殺せるような生粋の兵士ではなく、殺人を忌避する少女でありながらおそ松のためにやりたくもない殺人をしたのだとしたら、
さすがの屑(クソニート)でも『こんな小さな女の子に殺人を無理強いしてしまった』というわずかばかりの良心がうずき、これ以上もシャッフリンとまともに接することはできなかっただろう。
しかし、シャッフリンは懸命におそ松の身を慮り、かいがいしく仕えていた。
おそ松が勝手に聖杯戦争のルールを勘違いしていただけだった。
こんな状況下でも、なお真っ先に打開策を相談できる相手として思い浮かぶぐらい、とても有能だった。
いやいやおそ松の命令に従ったわけではなく、おそ松の為なら何でもするという態度を常に示してくれた。
接した時間こそ長くなかったけれど、おそ松はシャッフリンのことが好きか嫌いかと問われたら大好きだった。
まずみんな可愛いし、聖杯を掴むチャンスをくれた金づるだし、普段は別行動してはいても何かにつけおそ松を立ててくれて、意見を尊重してくれるすばらしい従者(サーヴァント)だし。
さすがにおそ松でもロリコン趣味はないのでエロイことしたいという眼で見ることはなかったけれど、
ハートのシャッフリンたちなどは男ばかりの生活の中にいきなりできた引っ込みじあんな妹のように可愛いし、他のシャッフリンたちも喜んで男をダメにするぐらいに献身的だ。
唯一会話ができるジョーカーは感情を露わにすることこそ少ないけれど、常におそ松のためを思って動いてくれているのがよく分かる。短くとも、接していれば分かる。
例えばある時は『もし、街をうろついてる時に落ちてる小銭を拾ったりしたら持ってきてくれる?』などという雑用のような仕事まで快く引き受けてくれたし、
おそ松が退屈していると判断すれば、寂しいときは言ってくださいとばかりにハートのシャッフリンを寄越してくれた。
さっき交渉の場に赴くときも、とにかくおそ松の安全を最優先に考えてくれて、しつこいぐらいに忠告したり、警護をするシャッフリンを厳選したりと、色んなことをしてくれた。
おそ松は親から甘やかされて扶養される生活には慣れていても、誰かから尽くされたり守られてきた経験というものがほとんど無い。
六人兄弟の長男という立場だったからこそ、兄弟で何かをしでかせば真っ先におそ松の名前で呼びつけられるし(実際、彼が主犯だったことも多かったのだが)、
逆に兄弟の中から代表して誰かが何かをやらなければならない時は、他の兄弟も真っ先に『こういう時のための長男だからね』と生贄にする(実際、それだけ日頃の恨みも買っているのだが)、そんな二十数年を生きてきた。
だからこそ、何があってもマスターに尽くし、危険がないように守りますというシャッフリン一同には、ただ可愛い女の子であるという以上に入れこんでしまう。
ちなみに先ほどシャッフリン達を売ろうとしたのも、別に彼女たちに他意があったとか拒絶したとかでは全くない。
自分の保身を最優先した上で、田中の復讐心も少しは晴れるかと思っただけである。
「つまり、主様は本物の殺し合いだと認識していれば、聖杯を求めないご意向でいらっしゃったのですか?」
「うんっ……おれ、連続殺人の首謀者みたいになっちゃったよぉ……」
「それは大変な心得違いをしておりました。いかような責めを受けても足りません」
「いや、罰とかより……何とかする方法を考えてほしい……」
今この時も、お互いの間に認識違いがあったことを知れば、警備の眼を緩めないようにしながらも平身低頭してくれている。
これが彼の弟達だったならば、『元はと言えばお前のせいだろ』と言わんばかりに、どいつも我先にと責任逃れの逃亡をしていたところだ。バナナの皮とかで転んで間抜けに死ねばいいのに。
彼女たちがたくさん人を殺した、それは本当なのだろう。
田中と名乗る少女からの友達を殺されたという弾劾にも、念話で真偽を聴いてみたところ本当にやったことだと答えた。
なぜそんなことをしたのかと更に聴いてみれば、『当時の主様の御意思でしたので』と答えた。
そっかー、そういうものなのかー、と納得した。
きっと殺された側からすれば堪ったものじゃないだろう。実際今の自分がまさに、自分主犯で殺したことになった人達を思うと心がひたすら痛い。
そういうことをする子達だったというのはもちろん怖かったけれど、ご命令ひとつで殺戮する有り方が邪悪だとか、そういう相手だから彼女たちとの関係を考え直そうとか拒絶するよりも、
彼女たちのそういう一面をこれまで知らなかったことや、今それを知ったことの方が、おそ松にとっては大事だった。
けれど。
「何を、仲良く慣れあっているんですかっ…………」
そんな彼のことを、当然、許せない者もいる。
♠ ♥ ♦ ♣
目の前にいる青年の顔に、めいっぱいに氷槍をぶちこむところを想像する。
それでもまだ足りない。
もう駄目だ。殺意の忍耐力が、限界に近いところまで来ている。
シャッフリンのマスターも殺す。
グリムハートのこととは関係ないけれど、彼を殺せばシャッフリンは全て消えるし、何より聖杯を狙う競争相手なのだから――そんな理屈づけは、すっかり彼方まで吹き飛んでいる。
こいつは仲間を殺された奈美の気持ちを考えていないとか、そういう次元の問題でさえない。
この男は、シャッフリンたちのやった所業の全て理解したというのに、そいつらを受け入れて、これからも一蓮托生だと可愛がり仲を深めている。
これが、シャッフリンたちと同罪でなくて何なのか。
その激昂を声に表して、タオルの下にあった変身ジュエルを握りしめた。
殺してやりたい。殺す。絶対に殺す。
『大丈夫ですよ奈美さん。アプローチは予定と変わりますが、策に遺漏はありません』
ほくそ笑むような嘲弄を含ませた念話が、奈美の頭を揺らした。
ほぼ間をおかずに神父もまた立ち上がって、奈美を遮るように語り出した。
「これはこれは、主従仲がよろしくて結構なことです」
何をいけしゃあしゃあとものを言う。
奈美は今までの中でも一番、このサーヴァントに腹を立てた。
「しかし、『何とかする方法』というならば簡単なことだ。
聖杯に賭ける願いを以って、責任を取ればよろしいじゃありませんか」
同じ顔をしたシャッフリンたちと、そのマスターが揃って首をかしげる仕草をした。
しかしアーチャーが説明を続けるうちに、マスターの方が希望で顔を輝かせていく。
アーチャーが説いたことは簡単だ。
聖杯に願いを賭ければ何でも叶う。
ならば、これまでに犠牲になった人達を生き返らせればいい。
それこそ、『田中』が仲間たちを生き返らせようとしているように。
この聖杯戦争で犠牲にしたマスターも、『田中』の仲間たちも、生き返らせて責任を取ればいい。
もともと、弱いシャッフリン並みに単純思考だったマスターだ。
「そっか、その手があったんだ!!」と素直に喜び、そうだそうしようと頷いている。
それが陥穽であることぐらい、中学生の奈美にも分かる。
当然、奈美だってピュアエレメンツを復活させるにせよ、よりによって彼等に生き返らせてもらうなんて御免だった。
そんなことをするぐらいなら、最期の二組になった時点で後ろから槍を刺して殺す。
しかし、弱いシャッフリン並みの思考力でその程度と譬えられるのだから、上位のシャッフリンなら『何かが怪しい』と疑うことくらいは予想できる。
ジョーカーにはおそらく、これがマスターを篭絡するための言葉だと見抜かれているだろう。
先ほどの『現実の戦争だと知っていれば参加するつもりはなかった』という意向を聞いたからには、
先ほどの奈美からの説明がおそ松を傷つけるためのものだったことは理解できるだろうから。
「主様、お待ちを」
しかし、ジョーカーの思惑はそれだけではない。
言葉を発するジョーカーを見た、奈美はそう直感した。
嫌な直感だった。
ジョーカーは、笑みを浮かべていた。
淡々としたその顔に、初めて見る表情が宿っていた。
いやらしい笑みだった。
きっとこいつは、クエイクやインフェルノにトドメを刺した時もこんな風に笑っていたのだろうと、そう思わせる笑みだった。
そしてジョーカーは、おそらく手に入れたばかりだろう鬼札を切った。
「『実験体』と呼ばれていた魔法少女の1人――風属性の少女を、先ほど捕捉しました。
マスターとして、聖杯戦争に参加しています」
そしてさらに、こう付け加えた。
「クラブの偵察が変身するところを見届けましたので、間違いありません」
♠ ♥ ♦ ♣
夕陽を背負い、元山総帥は浮かない顔つきで住宅街を歩いていた。
その原因は二つある。
ひとつは、完成した絵画の置き場所――その候補地の一つである小学校を当たって、また絵を貰ってくれないかどうか相談する予定だったのだが、それが潰れてしまったことだ。
その小学校がテロ襲撃事件のせいで臨時下校を行い、とっくに児童が帰宅するわ職員会議の続きがあるわで、校舎に入れなくなってしまっていた。
ここに至って初めて、元山は聖杯戦争や世の中の動きに無関心だったことを反省した。
もうひとつは、午後になって、バーサーカーが帰還した直後に受け取った伝達『ヘドラ討伐令』に対してどう動くべきか、未だ決めかねていたことにあった。
このK市そのものが消滅するリスクがある。
すべてが醜いヘドロに飲まれてしまう。
それはK市の風景を描いている元山からすれば、存在意義そのものの消滅といってもいい緊急事態だった。
もしも、この街に来たばかりの頃の元山だったならば、まず狼狽し、その後は激昂して彼のサーヴァントに、『海で暴れまわる不快な連中を消して来い』と命令していたことだろう。
しかし、今の元山は、自身のサーヴァント――バーサーカーのことを、ある程度理解してしまっている。その性質を、把握しつつある。
彼女が怒りを露わにするのは、主にこの街で不愉快な雑音をばら巻く連中――より具体的な言い方をすれば、『闘争』をしている時に起こる『音』に対してだった。
彼女が嫌悪して、かつ憎悪しているのは、『音楽家』――と称する嫌な音をもたらす人物、もしくは、そいつに似た連中が引き起こす『殺し合いの音』に対するものなのだろう。
ヘドラによってもたらされた被害とはヘドロ公害であり、つまりは環境破壊だ。
場所によっては野次馬が悲鳴をあげたり船が沈んだりしているらしいが、それだけでは『音』に関係する惨事だとは言い難い。
むしろ、そのヘドラを退治するために集まってくれた連中が起こす『戦い』の音にこそ、彼女は襲いかかってしまうかもしれない。
まだバーサーカーと出会って間もない頃だったら、『令呪』をもちいて強制するという選択肢も元山にはあった。
――海にいるヘドラを操っている者を『音楽家』だと思いこめ。
そんな命令を出せば、彼女はすぐさま湾岸部へと突撃していくことだろう。
『街そのものが融解する恐れがある』という、風景画を描く人間にとってはこの上ない損失の可能性がありながら、元山はバーサーカーを強制的に従わせることを躊躇っている。
それは、元山が芸術家にとっては不要だと思っているもの。捨てた方がいいと思っているもの。
超人であるペルセウス・ゾディアーツにとっても、不要であるはずもの。
人間らしい、情だった。
昼間の戦いで、バーサーカーが負った斬撃の傷は、未だ癒えきっていない。
元山は一般人に比較してもかなりの魔力を持っているとはいえ、治療の術を使える魔術師というわけではない。バーサーカーが負傷すれば、魔力を多めに消費しての自然治癒に任せるしかない。
彼女はこれまで元山の希望を、充分以上に満たしてくれていた。
一方で元山は、届いているのかさえ分からない感謝の言葉を投げるだけで、その傷を癒す魔術の一つも使えない。
そもそも、自分が戦いの激しさを甘く見て、ただ『黙らせろ』とだけ命令して放置したことで、彼女を苦戦させてしまった――そのせいだとも言える負傷をさせたのだ。
幾ら全てを斬り刻むことのできるサーヴァントであっても、話に聞いた融解地獄の中へと飛びこませるのは、あまりに危険なことではないだろうか。
そんな懸念が元山に芽生えるのは、仕方のないことだった。
傍らにいる少女剣士はもはや、このK市でただ1人元山の味方をしてくれる人物、というだけではない。
この街で唯一の、その身を案じる対象となりつつあった。
「……だが、相手が不快な音を撒く連中なら、君も出てきてくれるはずだ」
帰路の途上で、元山は神経質そうな線の細い顔に笑みをにじませた。
一方的に補足できたのは、嬉しい偶然だった。
そこは、小学校のおひざ元のように整備されていた住宅街の区画の真ん中だった。
つまり娯楽施設やファーストフード店のように、大人と小学生の混成集団がゆっくりと立ち話できるような空間が、児童向けひろばぐらいしか無かった――見つけやすい場所で、見られにくくすることが難しい地域だった。
公園の外――道路を挟んだ向かいの歩道からでも、彼等の姿は見えた。
「バーサーカー、今朝の連中だ」
ここで会ったが百年目――と言えるほど因縁が深いわけではないが、次に会ったらただじゃおかないと決めていた男達の一人だ。
もっと広い自然公園で、意味不明かつ集中を阻害すること極まりない歌をうたっていたクズどもの1人。
着替えたのか、黄色いパーカーから紫色のパーカーに服装が変わっている。
しかも、好都合なことにサーヴァントらしき少女を連れている。
奇妙な砲塔のような装備を抱いていることを除けば制服をきた一般人少女のようにも見えるが、ステータスが見えるのだから間違いない。
つまり、あいつはNPCではない――殺しても、ルーラーから制裁を受けない人間だ。
サーヴァントが複数いるのは厄介だが、一方的に補足しているなら、バーサーカーの刀剣による遠距離斬撃であっさりと殺害、すぐさま逃走できると元山は踏んだ。
「バーサーカー、東屋の一番奥にいる男が分かるか。セーラー服のサーヴァントと一緒にいる。……ほら、若草色の服を着た女の子の左奥だ。
魔法少女アニメにでも出てきそうな、髪やら腕輪やらに花飾りをくっつけた目立つ子の、その後ろにいるだろう」
そう告げれば、彼女はすぐさま実体化を果たす。
「若草色の服…………」
だが、元山が指示をした男ではなく、その直前の言葉に反応して。
その上、その表情は今までよりもさらに異質だった。
空虚だった眼が、完全に据わっている。
『若草色の服を着た女の子』を食い入るように見据えている。
しかし瞳はまったく焦点が合っていない。
「魔法少女……花飾り…っ」
「待てバーサーカー、今の会話の流れでなぜそうなるんだ?」
神経質そうな声が制止をかけるのも届かず、
アカネは地をすべるように素早く集団の前へと進み出た。
「――音楽家か?」
三人のサーヴァントも、そのねばっこい視線には即座に警戒態勢を取った。
きちんと己のマスターを庇えるような距離を取り、マスターの1人――プリンセス・テンペストでさえ、一条蛍の前に進み出て庇う仕草を取る。
場の全員から注目を集めて、しかし彼女の視線はブレイバー――犬吠埼樹だけしか目に入っていない。
「音楽家か?」
重ねて、ただ1人に向けてそう問うた。
それが不特定多数に向けられた問いかけならば、誰もが予見できたかもしれない。
そうだ音楽家だと肯定すれば、おそらく良い事は起こるまいと。
ぶしつけな闖入者の質問に、すすんで答える義理など無いと。
しかし、彼女の問いかけは、『あなたは私の探していた音楽家なのですか』と、ただ一人の少女に対して求めるものだった。
だから。
新たなサーヴァントが己に何かを期待しているのだろうと、確かめる判断をしたその少女――ブレイバーは。
人がやりにくいことを勇んでやり、せっぱつまったヒトを放っておけない『勇者』である犬吠埼樹は。
『勇者』をする傍らで、歌手になるオーディションを受けていたほど、歌うことも、音楽を聴くことも大好きだった少女は。
誠実な答えを、選んでしまった。
「質問の意味はよく分かりませんけど……音楽は大好きです!」
曖昧ながらも、肯定した。
「そうカァ」
その瞬間。
彼等は初めて――この聖杯戦争に関わった者たちにとって初めてとなる、彼女の凄絶な笑みを見た。
笑みの傍らには長剣がある。
即座に上から下へと振り下ろされる。
ブレイバーの顔面をすっとなぞるように一閃する。
それは距離をすっとばした斬撃になりその額を両断――しなかった。
「――っ木霊!?」
斬撃が走る瞬間、精霊――木霊が樹の顔を隠すように盾になり、抜き手の視界を遮ったのだ。
斬撃はブレイバーではなく木霊の身体を断ち割るように一閃し、主人の身を守り切った。
精霊は斬られても死なない、その代わりに木霊が直前で展開したシールドが相殺するように断ち斬られ、細かなガラス片として落ちるように崩れ消滅する。
「あ、ありがとう木霊……」
「その眼――バーサーカーだな」
ブレイバーの無事が確認できたその刹那、ランサーもまた戦闘態勢に移行していた。
腕にはすでに漆黒の槍――槍という名を持った大剣があり、その身は既に突進する風と化そうとしている。
バーサーカーはその接近をちらと見て、もう一閃、剣を小さく薙いだ。
「――っ!!」
直感――そして黒円卓でも指折りの剣士に師事して磨かれた『心眼』が、『一刻も早く防げ』という警告をランサーに送った。
大剣――『黒円卓の聖槍(ヴェヴェルスブルグ・ロンギヌ)』を刃ではなく腹の部分でかざし、己とバーサーカーの間を遮る盾として身を低くする。
大剣に一度、斬りつけられたかのような振動が走り抜けたが、傷はつかなかった――おそらく、生身で受けるのはあまりにも危険すぎる攻撃が行われ、そしてそれは神秘性の高い『黒円卓の聖槍』を傷つけるまでには至らなかった。
エヴィヒカイトを極めた超人を『捧げた魂の霊的装甲に守られた存在』とするならば、彼らが扱う聖異物は、いわば『霊的装甲そのもの』だ。
バーサーカーはその一撃が不発に終わったことも顧みず、再びブレイバーと対峙している。
「鎌鼬か――違う、刀を振ってから斬撃が走るまでの間に時間差がほとんどなかった。
まるで空間を無視して攻撃したようだ」
「テンペストちゃん。蛍ちゃんを連れて逃げてもらえるかな!」
ブレイバーはワイヤーを出す腕輪を前方に構えながら、知り合ってまもない魔法少女へと求めた。
バーサーカーの視線がまた己だけに向いているのをいいことに、すっかり腰を抜かしている己のマスターを逃がそうとしての指示だ。
「でも、ランサー達を置いて逃げるのは……」
そしてその懇願は、ランサーも意思を同じくするところだった。
『なにも見捨てて逃げろと言っているわけではない』と説くように、言葉を選んで頼み込む。
「大丈夫、変わった宝具を使うようだが、こちらも1人ではないし勝てない敵じゃないよ。
それより、戦う力の無い蛍ちゃんを守る者が必要だ――僕らが合流するまで、君の家で彼女をかくまってくれ、プリンセス・テンペスト」
「――分かった。任せて!」
テンペストは力強く頷き、一条蛍の手をとって公園から出るように駆けだした。
戒から初めて魔法少女名で呼ばれたという喜びもあったらしく、走りながら蛍へと「大丈夫、私がついてるから」と太鼓判を押している。
この場にはシップと松野一松の主従もいたわけだが、こちらはシップが背中に庇うような形でひっそりじわじわと公園の出口に向かおうとしているので、逆に声をかけづらい。
シップのステータスの低さは誰もが知っているのでランサーたちも加勢しろとは言い切れず、特に指示は出さない扱いになっている。
そんな対峙を、元山は歯噛みしながら見守っていた。
いきなり何も音を出していない緑色の少女を『音楽家』と称して飛び出していった行動にも困惑するところだったけれど、何より焦りを覚えるのは戦況の推移だった。
いくらバーサーカーが強いと言っても、昼間の戦いでは負傷していたこともある。
複数のサーヴァントに囲まれている状況下で、下手に『狙いを逃げようとしているマスターただ1人に絞れ』などと命令して、隙を作らせることはできない。
(いや…………待てよ。連中の大半は、意識がバーサーカーに向いている)
その時、元山に発想の転換が訪れた。
ついさっきまで、元山はバーサーカーの力になれないことに自責していた。
むしろ今こそ、バーサーカーに任せきりにしているだけでなく、己の敵は己の力で排除するよう努力をするべきだ。
この街に住まう前、天ノ川の学園都市でもそうしてきたではないか。
決意するや、すぐに己の武器を取り出した。
赤いボタンをくっつけた、武骨な球体――ゾディアーツスイッチがその手にある。
「我が心を乱すものは、全て排斥する…!」
カチリとスイッチを押しこみ、コズミックエナジーが青紫の光になって己を包んでいくのに身を任せる。
そこに現れたのは、大剣と石化の篭手を装備した人ならぬ者。
身長2メートルを超えるメデューサ殺しの英雄――ペルセウスを象った星座の力を、そのまま宿した怪人だった。
公園の出口まであと数メートルばかりまで距離を縮めたところで、望月は西洋剣を持った異形が攻撃の構えをとっているのを目撃した。
「イッチー、危ない!」
望月が一松をほとんど突き飛ばすように移動させると、そこをかすめるようにペルセウスの攻撃――剣から放たれた青白い稲妻のようなエネルギーが地面を直撃した。
その威力が何のこけおどしでも無いことは、一瞬で消し墨の色に染まった地面が消滅している。
「うっわー。マジでめっちゃ痛そー……」
「え゛ぇぇええええええええ!? 何、こいつ何!?
ステータスも見えないんだけど!! これでサーヴァントじゃないって嘘だろ!?」
それとなく戦線から離脱させてもらい、その後で可能ならシップだけは加勢に戻ろうぜ、という計画だったところを、
ギラギラと青白い身体の異形が立ちふさがったものだから、一松は人が変わったかのような高い声で悲鳴を上げる。
望月がそんな一松をずるずると引きずるように怪人から引き離すけれど、怪人は悠々と歩きながら公園の中へと距離を詰めてくる。
「サーヴァントじゃなくて、使い魔っぽくもないから、マスターだろうね。
たぶんあっちで暴れてる人のマスターだろうけど、あたしらで倒してみる?」
「――無駄だ。見たところその武器は近距離の戦いに向いてないだろう」
人の声とは思えない――奇妙な濁りのまじった声が、牙を剥き出しにした怪物の口から出た。
怪物の剣が軽く触れただけで、公園の入り口――車両侵入禁止用のU字型レールが、ぐしゃっと紙でできているかのように折れ曲がって倒れる。
反対の手で怪物がもう一つのU字型レールに軽く触れると、触れた地点から水が紙にしみこむようにと石化していく。
「石に……!」
「我が集中を乱す者には、沈黙の罰を……!」
「いや、集中を乱したとか知らねーから。絶対に初対面だから!」
シップが後方を顧みれば、戦闘は既にして始まっていた。
ブレイバーの腕輪から放たれる若草色のワイヤーが狂戦士を拘束しようと四方に舞い、狂戦士がその動きを縫って一太刀を浴びせようと刀を裁く。
ランサーは狂戦士の見えない斬撃からブレイバーをかばうことに集中し、こちらに助勢する余裕はなさそうだ。
「あたしが何とかしろってかー? ……はぁ、めんど」
めんどい以前の問題だろうと叱られそうな感想だが、彼女にとってマスターがやられたりして悲しい思いをするのは面倒なことだ。
駆逐艦『望月』としての装備のなかから爆雷(艤装に合わせて手のひら大サイズ)を取り出し、怪人との間合いをはかる。
(これでも怠けていて全く備え無しではなく、松野家のような住宅地での使用に備えてあらかじめ炸薬はかなり減らしている)
「いよっ」
放り投げた。それもペルセウスの怪人に向かって、ではない。
右斜め後方――ちょうど滑り台の降り口のあたりへと、転がるように投げた。
数秒の間をおいて、公園の砂場がどん、と炸裂した。
公園でもっともやわらかく、軽い砂地となっているそこから、大量の土煙が吹き上がった。
ランサーたちの戦場には届かず――しかし怪人の視界を隠すには充分なほどの、薄茶色の土煙と爆発による煙だった。
目くらましを利用し、望月はマスターの手を引いて走る。
「よし、逃げよっか。イッチー」
「なんで敵に向かって投げなかったの?」
「あれ、投げ返されたらやばいんだよね」
土煙に咳きこむ怪人にも、彼等が遠ざかる気配は感じられた。
逃げられる、追うしかないと言う判断と、『バーサーカーをこの場に残していくことになる』という躊躇が、元山の足をしばらく止める。
しかし、先ほどまで彼女の身を案じていた気持ちが、元山に令呪の使用を『もったいない』と思わせなかった。
「バーサーカー、令呪をもって命ずる。その二人を足止めし、己に身の危険を感じたら戻れ」
令呪は即効性のある命令ほど効果が強くなり、具体性を欠いた命令ほど効果が弱くなるという。
『身の危険を感じたら』という限定条件のくっついた命令に完全な効果が見込めるかどうかは定かではないが、逃走目的で霊体化するための魔力ぐらいにはなるだろう。
公園の戦場に背を向けた元山の耳に、少女の叫び声が聞こえてきた。
「どうして、その『音楽家』さんを憎むの!?」
土煙の向こう側からでも凛と響く、バーサーカーに向かっての呼びかけだ。
「音楽は、人を幸せにするものでしょう?」
まったくだ、と元山は思う。
世の中には、人の迷惑になる音をたてる人間が多すぎる。
最終更新:2016年12月15日 21:03