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要約:統治されないアートとゾミアの概念 3

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#Claude⒊5
でYoutube文字起こしを意味を変えずに校正した文章です。

前半

【開催挨拶】
大阪国際芸術祭第2日目、いえ、一般公開は今日が初日になります。この初日の冒頭に、トークイベントを開催させていただきます。

今日は「アジアの統治されないための芸術」というテーマで、大阪関西国際芸術祭とタイランドビエンナーレ・チェンライ2023での実績を踏まえて、山本さんにこれまでの活動やタイランドビエンナーレのお話、そして今回の芸術祭についてもお話しいただけるかと思っております。

早速ですが、山本さんにマイクをお渡ししたいと思います。よろしくお願いいたします。

【山本さん】
ありがとうございます。よろしくお願いします。全世界一括生中継ですよね、今。はい、全世界の皆さん、こんにちは。

えっと、どうしましょうか。まあ、無事始まりましたね。どうですか?
始まりました。ただ、バタバタし過ぎてほとんど展示を見られていない状況で、一番語ることができない人間なんですけども。

それはまずいですね。どうしましょうか。まあ、「ストリート3.0」ということで、これはクナさんが決められたそうですね。クナさんと緑川さんというキュレーターが2人でお話をしながら、「ストリートアート」をテーマにしようということになったんですけども、今までのストリートアートとはまた違う形で、何か決めつけるんじゃなくて、何だろうということを考えていこうということで、今回その先ということで「3.0」になっているということですね。

そういう意味では、今私がやっているアジアの取り組みとかは、何というんでしょう、ストリート、いや、アウトサイドといえばアウトサイド。さっきクナさんが書かれていた文章にもありましたけれども、美術史、いわゆる西洋美術史だと思うんですけれども、あまりこだわらないということは、今日のトピックと繋がるところかなと思っています。

簡単な自己紹介を。知っている方がほとんどだと思うんですけれど、私自身は現在インドに住んでいまして、来年からほとんどインドになると思うんですけれども、カンボジアで法律事務所をやっています。

このような真面目な本を普段は書いているような形で、東南アジアの法律の本とか地域の本とか書いているんですけれども、それと同時にコレクションとか、展覧会を作るプロダクションゾミアとか、あとは今大学院の博士課程で人類学とアートについて研究をしているというところです。

これが法律事務所ですね。私はカンボジアがすごく長くて、カンボジアで22歳の時に起業して、それから何年だ、今13期目、会社が13期目なので、13年ほど現地に住んで仕事をさせていただいているような形になります。

メコン地域というのは非常にいいところで、ちょうど私も昨日帰ってきたばかりなんですけれども、すごく今発展していて、なんだかなと思いながら。それはいいこともあるんですけれども、かなり劇的に変わっていってしまってるなというところです。
で、なぜこう現代美術・アートをやっているかというと、最近南アジアの本を書いたんですよね。あのどこの国の法律も一緒なんですよね。そういう意味では、今回の芸術祭と対立しちゃうかもしれないんですけれども、発展の中でどのような形が望ましいのかということで。

なんだろう、やっぱり世界銀行を中心とする仕組みとかだと、もう「お金貸してあげます」「お金貸してあげます」「それだったら法律を変えてください」と。外資の企業とかが投資しやすいようにしてくださいという形にして、どんどん法律が統一化されていくような形になっていて。なんかそれっていいのかなみたいな。

標準化、近代化が利権化とともに進んでいく中で、表向きはグローバルな秩序とか法制度に我々も従っているんですけれども、なんかそれに従わない人たち、あえて従っていない人たちがいて。なんかその人たちはどういう人たちなのだろうということで非常に興味を持っている。どうやってそういうことができるんだろうということに非常に興味があって。

そんな感じでありまして。そうですね、面白そうだったので、めちゃくちゃ感のある人たちばかりなんですけれども。

このゾミア、ゾミアと活動しているということですね。今やっているのは4つ。財団があって、プロダクションゾミアというのがあって、避難でも展示をしているような形をしていて。

ちょっと今日はアートのコレクションをされる皆さんが来ているということで。別に財団を作りたいわけじゃなかったんですけれども、なんかアジアのアーティストは、もしかしたら日本と違うのかもしれないんですけれども、パブリックコレクションじゃないとやだって割と言われるんですよね。

なんか見せる場がないと作っている意味ないじゃんということで。特にアリン・ルンジンさんとかはタイのアーティストですけど、「俺の作品はプライベートには売らねえ」みたいな感じなところもあったので、それでまあ財団を作っちゃったということと。

そこでパブリックな見せ方が必要だということで財団にして、展覧会を作らなければならないということで、プロダクションゾミアというものが今あるというところもあったりします。

そういう意味では財団の活動自体は、これコレクションしたりとかリサーチしたりとかアーカイブ作ったりとか。これまたミャンマーでやるんですけど、今ミャンマーでリサーチと展覧会を作りたいなということで、今そういう準備をしているような形ですかね。

で、国際展に行って色々レビューを書いたりしているというようなところです。

色々あるんですけれども、私が関心があるのはゾミアという世界に。先ほど問いを発した、何と言いますか、表向きは法律秩序とかに従うように見せながら実は全然法律守っていない人たちがいて、でしかもそれが仕組み化されているというところに非常に興味があるというようなところです。

このゾミアってジェームズ・スコットという人が作った概念。あ、ジェームズ・スコットが作ったんじゃなくて、オランダ人のファン・シャンネルという人がゾミアという言葉を使ったんですけれども、スコットは歴史家・人類学者でこの東南アジアの山地が実はアナキー。アナキーはアナーキー、無政府とか無支配の思想なんですけれども、アナーキズムの思想の中で非常に重要な意味を持っているんじゃないのか。

基本、歴史は国家から語られる、国家的な視点から語られることが多いんですけれども、このゾミア論は国家を超えて東南アジアの山地、高いところにそういう人たちが国家から逃れて。そういう意味では中国がこうモノカルチャー化していくわけですよね。どんどんこう世界を平たくしていくようなところから、山地に彼らが逃げていって、でそこで生まれた思想・哲学とか実践とかってのはめちゃくちゃ面白いんじゃないのかということで、私はすごくゾミアに興味を持っているという感じです。

スコットはゾミアってもう第二次世界大戦以降ないって言っているんですよね。実際私も赤色の村とかに実際住んでみたんですけれども、みんな出稼ぎに行っているので割とこう普通の生活をしているような感じで。これ赤の村なんですけれども、このチェンライというところで今回呼ばれていって来たんですけれども、ここに今年は1ヶ月以上住んでます。家族の村に住んでて。結構こんな景色もありながらも周りは結構モダンな家とかが立っていて。

ゾミアってこの山地のことなんですが、そのスコットが言うような、その国家から完全離脱して生活しているという感じでは多分おそらくないんだろうなということで。スコットは第二次世界大戦以降、ゾミアは存在しないと言っているので、多分そうなんだろうなと。

ただ私の仮説は、今やっていることは実はこのゾミアネス、ゾミア性みたいなものって実はアーティストの中に生きているんじゃないのかなというのが私の仮説なんですよね。そういう意味でアーティストの中にゾミアネスがあるというところです。

でそのゾミアネスって何なのかというと、色々考えているんですけれども、今「3A」って言ってるんですよね。アニミズム、アナキズム、アート。そういう意味では、この3Aで構成されているものを何でしょうね、分割せずに1つとして活用しているような気がしてるんですよね。

そういう意味では、アートとかって結構ヨーロッパ起源の、何て言うだろう、神秘的な作品制作と表象みたいなものとして捉えられることが多いと思うんですけれども、何て言うんだろう、私はもうちょっと人類の普遍的なイメージの共有と政策のためにきっとアートみたいなものが存在してるんだろうなという風な気がしてます。

でなんかその国民国家があって、ゾミアってまさにその背後にあるようなものだと思いますので、なんか今法律の仕事しながら、なんかめちゃくちゃこの小さな世界をめちゃくちゃ高速回転しているような気がするんですよね。なんか缶の中にいるような感じがするので、なんかそれを超えて行きたいなということの中で、このゾミアとアートというのは非常に重要な意味を持ってくるんじゃないのかなって気がしてます。

【司会】
どうですか、ここまで。あの、すごく興味深いですね。そのゾミアというものが今はもう第二次世界大戦以降ないけども、ゾミアネスというものがアーティストの中に宿っており、そこに人たちが作ったものが後であるというものですよね。

【山本】
そうですね。なんかそこに可能性が実際に生きるという観点で重要なんじゃないかなって気がします。全部それがないと全部統治されちゃうと。統治されちゃって缶の中にこう込められちゃう。

統治するためには必ずこう言葉、言語という必要じゃないですか。昨日その記者発表で山際先生が少しそういうことをおっしゃっていて、その言葉とか科学とはまた別の対抗軸みたいな形でアートがあるって言った。まさにそういう統治とかと反対の活動をこのゾミアネスの人たちがやっている。

(続く...)​​​​​​​​​​​​​​​​

記者発表で山際先生が言及していたように、言語や科学とは異なる対抗軸としてアートが存在しています。ゾミアネスの人々がまさにそういう統治に対抗する活動を行っています。ただし、現代において国家に直接対抗することは非常に厳しく、おそらく不可能です。実際にアジアの実践の中でも、国家に直接対抗すると命を落とすこともあるため、アーティストという立場は非常に良いポジションにあると考えられます。

「スティル・アライブ」という言葉は愛知県あたりで聞いたことがありますが、これはアナルコアニミズムに関連しています。私はアニミズムとアナキズムが非常に近い概念だと考えていますが、これは難しい話題なので今日は詳しく説明しません。これは私の研究テーマの1つであり、アナルコアニミズムとアートがゾミアネスを構成する可能性があると考えています。宮城県のリボンアートフェスティバルでは、この考えに基づいて東南アジアと台湾のアーティストと一緒に展覧会を開催しました。

ちなみに、先ほど話題に出た村についてですが、上下水道や電気は完備されているのでしょうか?

「はい、全て整っています。とても快適な生活が送れる環境です。山岳民族の村と言っても、実際には近代的な街のような場所です。」

では、ゾミアの活動について詳しくお聞かせください。

「日本の大阪、特に西成にゾミアはないとスコットは言いましたが、果たして本当にそうなのかということを私はずっと考えています。ゾミアは山地のことを指しますが、スコットは著書の中で、実は山地だけでなく、水のゾミア、つまり海や川を渡ってきた人々の存在も示唆しています。詳細な記述はありませんが、おそらくそれは確かにあるでしょう。むしろ大阪や台湾、フィリピン、インドネシア経由で来た日本人こそが水のゾミアなのかもしれません。そして、大阪はそうしたゾミアの人々が流れ着いた最後の場所だったのではないかという仮説を立て、水のゾミアに関する展覧会を開催しました。主に東南アジア、特にメコン地域のアーティストの水に関する作品を扱いました。」

「この展覧会では本当に頑張りましたね。千場アートサイトプロジェクトの一環として、千場の街をアートで活性化しようという取り組みの中で実現しました。本さんと初めて一緒に仕事をさせていただき、海外のアーティストのコレクションを活用して、かなり本格的な展覧会となりました。」

「そうですね。3年前に森美術館で展示して以来、メコン地域や東南アジアのアートはあまり紹介されてこなかったと思います。個人的には非常に重要な展覧会だったと考えています。」

昨年から今年にかけては、ベトナムのアーティスト、ツワミを招聘しました。これには「半ゾミア」という理論が関係しています。純粋なゾミアは現在では存在しないかもしれませんが、国家とゾミアの間で生きてきた人々がいるのではないかという考えです。特に無門族という部族に興味があり、彼らはベトナム人とかなり混ざっています。ニサン・コレクティブというベトナムのアート・コレクティブの創業者のグエン・ドックや、ここで酔っ払っている津ワミなどが関係しています。無門族は家のことを「ニャサン」と呼びます。

私は現在、ニサン・コレクティブの実践について論文を書いています。ツワミの活動で面白いのは、法律上ベトナムのハーブを日本に持ち込むことは禁止されているにもかかわらず、彼女が米を植え込んで持ち込んだりしていることです。これは法的にはグレーな領域ですが、アートのパフォーマンスとして行われており、非常に興味深い活動です。

ツワミは2022年のドクメンタ15に出展し、「ベトナム移民の庭」という作品を制作しました。これは世界中で同じような形で展開されています。インドシナ戦争やベトナム戦争で世界中に離散したベトナム人が、実は植物も一緒に持ち込んでいるのです。日本人が味噌汁に味噌が必要なように、ベトナム料理にはベトナムのハーブが欠かせません。

展覧会では、ベトナムの植物を集めて展示しています。大阪の貝塚では、非常に大きな農園を発見しました。これは誰かから株をもらって育てたものが大きくなったもので、その植物の根を切り離して展示会場に運ぶのは大変な作業でした。

これがアートなのかという疑問は当然あります。私は完全にアートだと考えており、その観点から論文も書いて受理されました。このような実践を非常に深く研究しています。

カラオケなども行いました。エクセルビルは今回もかなりカオスな状態になっていますが、毎回そうなるんです。ツワミの部屋は農園なのか何なのか分からないような空間があり、隣では鎌倉芸術大学のようなスペースがあって、そこでベトナムの鍋を食べる会も開催しました。

これは一体アートなのかという質問に対して、私は間違いなくアートだと考えています。現代のベトナム難民の存在は、もはや実体があるのかないのか分からないほど透明になっています。彼らが自己を表現しようとすると、暴力に遭う可能性があります。国籍も持たない人々が表現すれば、国家によって抑圧される恐れがあるのです。

そもそも表現すること自体が困難であり、それを基にした展覧会は残酷な面もあります。私の理論では、「露呈すること」自体が重要な時代になってきていると考えています。特に日本では資格芸術論が強いですが、例えばベトナムの食物の存在は誰も表現していません。ツワミの作品なのかどうかも分からないレベルですが、誰かが声にならない声をカラオケを通じて歌ったり、ベトナムの移民たちがそこに来て食事をしたりすること、その存在を露呈させるだけでも、現代芸術の中で非常に重要な意味を持っているのではないでしょうか。

そうですね。ゾミアがいなくなったという話があり、山地のゾミアも消え、仮説としての海のゾミアの人々も今はゾミアとしては生きていないという状況です。しかし、国家から脱却するというところで、アートというレイヤーがあったとすれば、そのレイヤーでは国家も国境も民族も宗教も全て超えていける可能性があります。これはゾミアネスの一つの層として捉えられるのではないでしょうか。

そうですね。ツワミ自身、ベトナム国内では表現活動を禁止されています。アーティストとして登録が必要で、作品も全て登録が必要です。彼女のセミナー資料を見ると、「アートと呼ばないでください、ガーデナーと呼んでください。そうしないと規制されてしまいます」と書かれています。この植物と人間を重ね合わせる手法は極めてアニミズム的であり、国家から離脱していくベトナム難民の人々や植物自体もアナキズム的です。これらを組み合わせた技としてのアート、私が「ゾミア芸術」と呼んでいるもの、つまり統治されないための芸術を、ツワミは今ここで実践しているのだと思います。

ツワミには難波にも来てもらいました。その後、梅星屋さんで興味深い発見がありました。和歌山県の小さな町に、誰も知らないうちに100人ほどのベトナム人が住んでいたのです。ベトナム人を見つけると、ツワミはすぐにインタビューを始め、「ベトナムの植物があるはずだ」と探し始めます。案の定、誰も気づいていない場所でベトナムの植物が育てられていました。

彼らの様子を見ていると、鍋を作っている時が一番真剣です。みんなで食べて、それで終わり、という形です。これは世界中で行われていますが、非常に重要な活動だと思います。政治や法律は強制的な解決を図ろうとします。結局、難民問題は排除するか受け入れるかの二択になってしまいます。しかしツワミは何も主張していません。ただ食事をし、植物を育てているだけです。それはゆっくりとした、水のような機能を持っています。水のようにじわじわと浸透していく、そこに法律が及ばない領域があるのです。

私はこの点に非常に興味を持っています。法律とはまさに言語による統治の手段です。全てを言語で切り取り、善悪を判断します。先ほどおっしゃっていたように、アジアの人々は表現の自由もマーケットも持っていません。そのため、一気に西洋美術のマーケットやその文脈、評価の対象に持ち込んで、そこで評判と外貨を獲得し、それを自国に持ち帰って活動資金にしているという構造があります。これを超えるためには、ゾミアネスというレイヤーが必要なのではないでしょうか。

そうですね。もちろんマーケットも重要で、彼らは国際展に招かれ、展覧会に出て、マーケットで評価されてお金を引っ張ってきて生きています。これはとても重要なことですが、最近のカンボジアではみんな、コピー商品と言うと怒られるかもしれませんが、西洋のマーケットに合うような作品を作りがちです。上の世代がそこで教育を受けて成功してしまったため、下の世代がどんどんそれを踏襲していってしまい、カンボジアの芸術がちょっとつまらなくなりつつあると感じています。フォーマットが一緒になってきているのです。

そういう意味で、グローバルアートが今どういう意味を持っているのかということについて、私が一番共感するのはピーター・バーベルという人の言葉です。昨年、彼は韓国で展覧会を開いていたので、それを見に行きました。彼の主張には2つの重要な点があります。1つは、グローバルな文化経済によって生じる世界各国の歴史、民族や文化特性の変容を、まさに拡大鏡のように見るということです。これは現代の芸術の特徴で、実際に国際展に行くとそう感じます。

しかしもう1つ重要なことがあります。それは、グローバルな文化や経済との相関関係によって、自身の意味が書き換えられていく機能です。いわゆるグローバルな芸術が持っているこの2つの側面が合流して、また変化して影響し合っている、その痕跡を動的に示すものなのです。

少し難しい話になりますが、これは神話のようなものだと私は考えています。レヴィ=ストロースが言うように、神話というのは言語や文化を超えて、数々の素材を相互にコミュニケートさせながらバリエーションを生み出すものです。いわゆる批評的な芸術というのが、今では皆さんグローバルアートのように神様めいた権威的な表現として捉えられがちです。もちろんそれは上層部とつながっているのだと思います。

しかし、そうではなく、今私たちが避難所でやっていること、おそらく大阪でやっていることも、このローカルな芸術を別の観点から書き換えていく、社会文化を芸術を通じて書き換えていくということが、今実はグローバルアートの中で最も重要な機能なのではないでしょうか。

ピーター・バーベルが最後に書いているのは(ちょっと英語になりますが)、今はもうヘゲモニーを作る時代ではないということです。これは2011年に書かれた文章で、ポストエスニックとかそういう言葉が出ています。ポスト民族、ポストローカルの時代を我々は生きていて、それをどうやってトランスローカル化していくのかということが、今グローバルアートの中ではとても重要な部分だと思われます。

したがって、我々もゾミアをどう書き換えていくのか、都市芸術というものをどうやって勝手に作ってアップデートしていくのかということが重要なのではないかと考えています。

ありがとうございます。「トランス」という言葉は最近、自分の中でも気になっている言葉ではありますが、このような活動をしていて、そのトランスカルチャーのようなものを非常に感じますか?また、大阪でこれをやってみてどう思いますか?

めちゃくちゃ面白いですね。というのも、今回の展示で言うと、このジェミニが「暴力と記憶、または表裏」というテーマでキュレーションをさせていただいて、今、西成で展示をさせていただいているんですけれども、ジェミニーはすごく面白くて、言葉は少ないですが言葉が非常に重たいんです。「西成は我々の未来だ」「西成に未来を感じた」と、韓国人の私からすると、西成に未来を感じて。でも、それはいつも彼の言葉は二面性を帯びているんですよね。その未来はネガティブでもありポジティブでもあるんです。

なので、逆に彼らのジェミニーが見る未来の中で、大阪というのはもちろん未来なんですけれども、高齢化社会がやってきて、ここにベトナム人社会が介入してきて、知らない間にマジョリティがベトナム人になっていたり、中国人になっていたりしている未来を、「これは韓国と同じ未来だな」と言っているんだと思います。それはネガティブなのかポジティブなのか、私には分かりませんが、おそらく両方の意味で、ジェミニーは言っているんじゃないかと思いました。

なるほどね。未来っていうとどうしてもポジティブなものを連想しがちですけども、別にそういう意味でもないわけですよね。

そうですよね。もしかすると万博が今忘れていることですね。万博、忘れ去っていますよね。そういう点を過去どう見ているのかなというところなので、そういう意味では今やっていることは重要だなと私も思って、手前味噌ですけど思っています。今回の展示もその過去とか忘れられたものをどう炙り出していこうかというような展示です。

スコットはゾミアを「影の帝国」と呼んでいますが、その表に対する裏側をどのようにゆっくりとつまびらかにしていくのかというのは、今回の一つの大きなテーマになっているということです。

ジェミニーさんは、今回、日本大日本防石株式会社というのが、つまり西成という場所にあって、これを2万円くらいで購入したようですが、どこにも売っていないものだと思います。その廃墟産業の遺物を拾い上げて、「西成ファクトリーラン」という作品を今回制作したんですよね。

まだ見ていないですね。

めちゃくちゃ面白いですよ。中国・韓国の亡くなった産業、三井物産とか、金鳳さんとかが、アジア中で製紙業、工場をやっていて、作っては無くなり、作っては無くなりを繰り広げていて、彼はそれをずっとフィールドワークしながら、今回西成の工場が無くなった工場があって、周りはほとんど上下水道とかになっているんですけれども、フィールドワークしながらその辺を走り、ランニングをしながら撮影をして作品を作っているんですよね。未来に向かって走りましょうと。このメイビーとかというのは、なかなかやっぱり皮肉っていますよね。非常に面白いなと。ぜひ見ていただきたいなと。でいろんな作品をこうコラージュ、過去の...

[前半終了]​​​​​​​​​​​​​​​​


後半

はい、全文を長いセクションで区切って書き直します:

西成の工場跡地でフィールドワークを続けながら、上下水道施設に変わった周辺地域をランニングしながら撮影して作品を制作しています。「未来に向かって走りましょう」というメッセージには皮肉が込められており、過去のアーカイブとAI技術を組み合わせて写真を生み出しています。上空からの写真はハルカスからドローンで撮影したもので、東向きで川が側にあり、右側にハルカスが見えます。

作品は時間をかけてゆっくり見ることをお勧めします。インスタレーションは非常に美しく、特徴的な緑色の使用には深い意味があります。緑色は一般的にポジティブなイメージで捉えられますが、工場で使用される化学薬品も緑色であることを示唆しており、その二面性を表現しています。街灯や周囲、彼の髪の毛も服も緑色で、ある意味で危険な存在かもしれません。機械から見た日本は過去であり、韓国人アーティストから見た西成は未来だという興味深い視点を提示しています。

常木さんも参加していますが、アーティストたちが作品を過度に客観視されることは暴力的な面があります。作品が特定の解釈に当てはめられてしまうような状況があり、それは問題含みです。一方で、キさんは現場で手を動かしながらDIY的にその場所で制作を行っています。畳も自分で作り、ポール(シャフト)も自分で曲げ、テコの原理を使って相当暴力的に加工しています。コンクリート作品やトイレットペーパーのような質感の作品も自身で制作しており、そこには違和感や浮遊感が生まれています。畳も浮いているように見え、硬いものが突然植物のように見えたり、砂袋も自作したりしています。

通常であれば既製品を購買してしまうところを、あえて自作することで独特の違和感が生まれています。これはゾミアの世界で見られる、少数民族の女性たちが絶え間なく編み物をしている状況に似ています。そこには特別な意味や目的はなく、ただ作り続けているだけなのですが、それによって硬いものを柔らかくしていくような技術が生まれているように感じます。まさにゾミア的な発想であり、法律のように硬直化したものを、アートを通じて柔らかく解体していく可能性を示唆しています。

タイランド・ビエンナーレでは、ヤンマーのアーティスト・マウンデが「板の象徴」という作品を制作しました。軽量なドアを街中で移動させながらモニュメントを作るパフォーマンスを行い、それを9分程度の映像作品にまとめています。万博をどのように捉えるべきかを考えさせる作品となっています。また、萌えさんという女性アーティストは1分41秒の短い映像作品を制作し、日本の高度経長期の映像をコラージュしています。NHKなどの国家的な映像素材を使用し、それらをひっくり返したり、忘れ去られたものを表現したりしています。シンプルながら非常に優れた作品です。

これらの作品は、歴史や記憶の問題を提起しています。消されてしまっていい記憶とはなんでしょうか。ゾミアの世界では、モニュメントを作ったり言葉を残したりした人々の歴史しか残りませんが、実際にはもっと大きな世界が存在しています。私が「ゾミア世界」と呼ぶその空間は、国民国家が作る歴史よりもはるかに大きいものです。それを消してしまっていいのでしょうか。むしろ、国民国家やグローバル社会の出現によって、人間の世界は本当に良くなったのでしょうか。ジェームズ・スコットはゾミアのような世界を「人類の黄金時代」と呼んでいます。実際、その時代の方が長く続いていたのです。

日本は世界で最も安全で清潔な国の一つですが、それは同時にゾミア的なものが最も失われた国でもあるかもしれません。そういう意味で、西成という場所は重要な意味を持っています。商業施設でイベントを行う際には膨大な規制があり、それらをクリアしなければなりませんが、それは一種の分断を生んでいます。予定調和的な状況になってしまうのです。一方、西成はカオス的で何でもありの場所です。

タイランド・ビエンナーレでは、植物の持ち込みが禁止されていましたが、実際には持ち込んでしまい、そこで米を育て始めました。スタッフの人たちが自然と育て始めるという状況が生まれています。タイランド・ビエンナーレの話も、大阪での企画と期間が重なってしまい、西成でもっと展開したかったのですが、時間的な制約がありました。

タイランド・ビエンナーレは12月9日からオープンし、我々はゾミアパビリオンを担当しています。かなりの予算が使われており、タイの首相も来場し、花火も打ち上げられるような大規模なイベントとなっています。一般公開では3万人ほどが訪れ、フェスティバルのような雰囲気になっています。4人のキュレーターが参加し、その中にはアートパワー100で3位に入ったリリットも含まれています。アピポタやチージウェイ、ヤンヘギ、エルネスト・ネロなど、著名なアーティストが参加しています。

展覧会場はチェンセンという場所で、隣接地域には大規模なカジノが建設されています。地政学的に重要なゴールデントライアングルという場所を中心に展覧会が行われており、予算は10億円近くになると思われます。我々は、先ほどのフィールドワークの写真を含む「ゾミア・イン・ザ・クラウド」という展覧会を開催しています。ラオス側の山々には濃い雲がかかっており、かつてゾミアの人々がその雲の中に隠れていた場所だったことを想起させます。雲海と山々のつながりが印象的です。

チェンセンに建設されたカジノは「ゴールデントライアングルSZ」と呼ばれ、政府と投資家が協力して作った自由空間です。人身売買や麻薬取引など、様々な問題が指摘されています。アレサンドロ・リッパはこれを「ゾミア2.0」と呼んでいますが、確かに自由でアナーキーな空間ではありますが、本来のゾミアとは異なるのではないでしょうか。私は大阪のカジノ開発に反対しているわけではありませんが、ゾミア的なものがカジノと同一視されることには違和感があります。

我々の展覧会では、リリットが2003年にベニス・ビエンナーレで行った「ユートピア・ステーション」というプロジェクトを参考にしています。モリネビットやハンス・ブリストと共に、アーティストたちにポスターを制作させ、ビエンナーレ会場内外に展示するというものでした。我々もそれを参考に、25人のアーティストに作品をクラウド上で共有してもらい、250のNGOに展覧会開催を呼びかけました。その結果、13のNGOが協力してくれることになりました。




僕は大阪のカジノについて全然反対ではないのですが、いわゆるゾミアと呼ばれるものとカジノは少し違うなと感じていて、それを批判する論文を書いています。その論文に基づいて今回「Zomia in the Cloud」というプロジェクトを実施しているような形です。

このプロジェクトの背景として、リクリット・ティラバーニャが2003年にベニスビエンナーレで「ユートピアステーション」というプロジェクトを実施していました。これはモリーヌ・ブーヴィとハンス・ウルリッヒ・オブリスト、そしてリクリットの3人という超ビッグネームで行われたもので、リクリットの友人のアーティストたちにポスターをたくさん作らせて、ベニスビエンナーレの会場中に張りまくったんです。これによって、ビエンナーレの中なのか外なのかわからない状態で、そこに何かユートピア的なものがあるんじゃないかということを試みたわけです。

私たちはそれを参考にして、「Zomia in the Cloud」というプロジェクトで25人のアーティストに協力してもらい、作品をクラウド上に共有してもらいました。そして250のNGOに連絡を取って、「タイランドビエンナーレと関係があるような、でも関係ない展覧会を作りませんか」という提案をしたところ、13のNGOが「しょうがないな、やってやろう」ということで協力してくれました。

特に印象的だったのが、ある山岳民族の子どもたちを支援するNGOです。彼らの8割くらいが少数民族の子どたちで、商売を持っている子たちなんです。ただし、国籍を持っていないので政府からの支援は受けられませんし、もちろん車もない。障害を持っている子もいるので展覧会に来ることもできません。これについて私は、アートこそが最も困っている人たちに寄り添わないと、アートをやっている意味がないと思うんです。

展覧会場では、プロフェッショナルなキュレーターが展示を作っているのですが、今回は作品25点を共有する際に一切インストラクションを与えず、「自分で作品を見て、自分たちでキュレーションしてください」と伝えました。すると彼らは勝手に看板を作ってきて、今回のタイトルが「オープンワールド」だったので、これを誰も否定できないんです。これを取り上げてしまったら「本当にオープンワールドなんですか?」という話になってしまいますから。彼らは勝手にコピーして、勝手に素晴らしいインスタレーションを作りました。山岳民族の人々は竹をよく使うので、竹を使って作品を展示したのですが、プロフェッショナルではないにもかかわらず、そういう意味では非常に興味深いものでした。

現在のアートやキュレーションは、専門家やお金持ち、PhDを持っている人でないとできないような状態になっていると思いますが、それってつまらないじゃないですか。例えば、NGOのスタッフがこんな感じで75インチのモニターを買ってきて、「展覧会と言えるかわからないけど」とスクリーニングを始めてしまったんです。展示されているのは、先ほどの25人のアーティストによる写真や映像作品です。それをダウンロードして、勝手にキュレーションして、様々な場所に展示しています。

もちろん著作権の問題は山積みです。アーティストとも話をしました。「なんで俺の作品にインストラクションができないんだ」という声もありましたが、「あなたは誰のために作品を作っているんですか」と問いかけたら、「しょうがないな」という感じで共有を許可してくれました。かなり著作権的にやばいと思いますが、データさえちゃんとしていれば13のNGOは了承してくれています。リスクはないわけではありませんが、こういった作品の共有は、アジアだからこそできたんじゃないでしょうか。ギャラリーを通すと大変なので、「リサさんにすみません、言わないでください」とか言いながら、まあバレてると思いますが、そんな感じで作品を提供しています。

この影は自分のポートレートとして撮影されたものだと思われ、非常に美しい作品となっています。これはシエというアーティストの作品ですが、説明は省略させていただきます。非常に興味深い現状を表現してくれています。アウミッテというアーティストについても触れたいと思います。彼は今年も大阪に関わってくれたアーティストで、ラジュにて3民の人々のデータをUSアーカイブ、おそらくロンドン博物館から取得し、それらをコラージュして作品を制作しました。彼は植物を持ち込んできてしまい、止められたにもかかわらず実行しました。展示空間の下には船があるのですが、そこにミャンマーから米を持ち込んできて、うまく通過できたと話していました。また別の人も米を持ち込んできていて、「お前も米を持ち込んできたのか」というような状況になっています。タの族の人々が持っている米と混ぜ合わせながら、そのボートで米を育てているのです。現在では、その米が育ってきて、大きく生え始めているような状態になっています。

これは大阪での展示の様子ですが、今年も実施させていただきました。国家の裏側や、これまで表に現れてこなかった人々、例えば私の地元の山での産地に関連して、登場することのなかった人々をどのように捉えるかという視点で制作されています。先ほど木さんがお話しした「柔らかいものを変えてしまう技術」について、3民の人々はこのような形で常に縫い物をしています。この看ち蟹たってというアーティストは、毎日日本製のワイヤーを編み続けています。彼女の作品は、鉄を手作業で柔らかいものへと変容させるという特徴を持っています。非常に美しい作品であり、先ほどの作品とも自然に繋がっているように感じられます。ここにはゾミアネスが表現され、通常では表現されない技術が発言しているのではないかと考えています。

また、赤アーティストについても触れたいと思います。ちょうど先週の土曜日にトークを行ったブス野城というアーティストがいます。彼女は日系の所属アーティストで、今回新作を制作しました。彼女の特徴は、赤の神話を非言語的な芸術によって書き換えるような作品を制作することです。今回は族の世界ではタブーとされる棺を、彼女独自のイメージを含めて制作しました。赤の伝統として、牛やバッファローを殺す際には、その目に米をつけるという習慣があり、そのような要素も取り入れながら神話的な想像を展開しています。

時間の制約がありますが、ゾミア芸術とは何かについてまとめさせていただきます。まず第一に、先ほど触れた人間支援を超えたアニミズム的な知恵が挙げられます。ベトナム人だと思っていた人がベトナムの植物になってしまったような、存在の交換や変容、あるいは自分だと思っていた山であったという形で顔を変えたり、硬いものを柔らかくしてしまうような技術、つまり人間という物質を柔らかく変容させていく可能性、また法律などの固定的なものを、先ほどのワイヤーのように、木さんのような形で曲げたり柔らかくしていくという技術が、ゾミア芸術の一つの側面として存在するのではないかと考えています。

もう一つ重要な要素として、相互扶助が挙げられます。これは私が考えるゾミア2.0という概念に関連していますが、国籍を持たない人々や政府からの支援を受けられない人々が互いに助け合うという実践です。西成地区に行くと、このような相互扶助の形態を強く感じることができます。上田さんが指摘されているように、高齢者の方々が減少していっている状況がありますが、この仕組みを西成の高齢者の方々だけでなく、ベトナムからの移民の方々や中国からの移民の方々、その他様々な困難を抱える人々を含めて、どのように維持し発展させていくのかが課題となっています。これは連帯の術として捉えることができます。

さらに、最初に言及した書き換え、ピーターバベルの書き換えとして、神話をどのように作り変えていくのかという点も重要です。岡本太郎の言葉を借りれば、単一の神話だけでは面白みに欠けます。異なるアイデンティティを維持するための手段として、万博だけではない、国家的なものだけではない、アイデンティティを維持するための術を開発し発展させていく必要があります。これらの総合的な技術を、私は「統治されないための芸術」、すなわち「ゾミア芸術」と呼んでいます。これは私の個人的な見解ですが、私の研究のテーマとして追求していきたいと考えています。

最後に、今後の大阪での展開についてお話しさせていただきたいと思います。ゾミアという概念は、もちろんアーティストの方々の中に存在していますし、日本も元々は水のゾミアとしての性質を持ち、ゾミアネスを持っていた人々の集まりだったと考えています。それが現在では一つの確実的なものになってきていると思われますが、表向きは万博や大阪関西国際芸術祭という枠組みを維持しながらも、予定調和的ではない「やばいもの」を実現していきたいと考えています。

これに対して、今後「やばいもの」を期待したいという発言があり、本日のトークイベントは終了となりました。


要約
YouTubeの文字起こしの全文を、できるだけ自然な文章として再構成いたします。
前半

申し上げられた文章を校正させていただきます。内容を変えずに、より分かりやすく整理しました:

大阪国際芸術祭の一般公開初日に、「アジアの統治されないための芸術」というテーマでトークイベントを開催しました。このイベントでは、大阪関西国際芸術祭とタイランドビエンナーレ・チェンライ2023での実績を踏まえ、山本さんにこれまでの活動やタイランドビエンナーレ、そして今回の芸術祭についてお話しいただきました。

山本さんの自己紹介:
  • 現在はインドに在住し、来年からほぼインドで活動予定
  • カンボジアで法律事務所を運営(22歳で起業し、13年目)
  • 東南アジアの法律や地域に関する本を執筆
  • コレクション活動や展覧会の企画(プロダクションゾミア)
  • 大学院で人類学とアートについて研究中

メコン地域について:
  • 発展が著しく、劇的な変化を遂げている
  • 世界銀行を中心とする仕組みにより、法律の統一化が進んでいる
  • 表向きはグローバルな秩序に従いながら、実際には従わない人々の存在に興味を持っている

ゾミアの概念:
  • ジェームズ・スコットによって提唱された概念
  • 当初は山地民の生活様式を指していたが、現代では新しい解釈が可能
  • アーティストの中に「ゾミアネス(ゾミア性)」が生きているという仮説
  • アニミズム、アナキズム、アートの3Aで構成される

展覧会活動:
  • 大阪での水のゾミア展
  • ベトナムアーティスト・ツワミーとの協働
  • 移民と植物をテーマにした作品展開
  • 文化的アイデンティティと芸術表現の関係性を探求

以上が主な内容となります。具体的な事例や展示の詳細も含まれており、アジアの現代アートにおける新しい視点を提示しています。​​​​​​​​​​​​​​​​

主に「ゾミア」「アート」「アジア」についての議論の内容ですね。

山際先生は記者発表で、科学とは異なる対抗軸としてアートの存在を指摘されました。この文脈で、国家に直接対抗することは現在では難しく、危険を伴います。そのため、アーティストという立場は非常に良いポジションにあると考えられます。

「アナルコアニミズム」という概念について、これはアニミズムとアナキズムが近い関係にあるという考えに基づいています。このアナルコアニミズムとアートが「ゾミアネス」(国家の統治から逃れる性質)を構成する重要な要素ではないかと考えられています。

ベトナムのアーティスト、ツワミの活動が具体例として挙げられています。彼女は「ベトナム移民の庭」というプロジェクトを世界中で展開しており、ベトナム戦争で世界中に離散したベトナム人と、彼らが持ち込んだ植物の関係性に注目しています。

この活動は単なる展示ではなく、存在を「露呈させる」という重要な意味を持っています。特に日本では資格芸術論が強い中で、表現できない声やベトナム移民の存在を、カラオケや食事を通じて示すという方法をとっています。

グローバルアートについては、単に各国の文化特性の変容を示すだけでなく、文化や経済との関係性によって意味が書き換えられていく機能も持っています。これは神話のように、言語や文化を超えてコミュニケーションを生み出す役割を果たしています。

最後に、「トランスローカル」という概念が重要視されており、ローカルな芸術をどのように書き換え、アップデートしていくかが現代のグローバルアートにおける重要な課題とされています。​​​​​​​​​​​​​​​​

後半
藪本氏は冒頭で、大阪のカジノ開発に対して必ずしも反対ではないものの、それが「ゾミア」と呼ばれる概念とは異なると感じていると説明を始めました。この見解に基づいて批判的な論文を執筆し、その研究から「Zomia in the Cloud」というプロジェクトが生まれたといいます。このプロジェクトは、2003年にリクリット・ティラバーニャがベニスビエンナーレで実施した「ユートピアステーション」からインスピレーションを得ています。ユートピアステーションでは、モリーヌ・ブーヴィ、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト、リクリットという3人の著名なアート界の人物が、様々なアーティストにポスター制作を依頼し、それらをビエンナーレ会場の内外に展示しました。これを参考に、「Zomia in the Cloud」では25人のアーティストに協力を依頼し、作品をクラウド上で共有する形式を採用。さらに、250のNGOに連絡を取り、タイランドビエンナーレと関連しながらも独立した展覧会の開催を提案したところ、13のNGOが協力を承諾したとのことです。

特に注目すべき参加者として、山岳民族の子どもたちを支援するNGOがあります。その対象となる子どもたちの約8割が少数民族出身で、多くが商売を営んでいますが、国籍を持たないため政府からの支援を受けられず、移動手段も限られており、障害を持つ子どもたちは展覧会に来ることさえ困難な状況にあります。藪本氏は、まさにこのような最も困難な状況にある人々にこそアートは寄り添うべきだと強調しています。

展覧会の特徴的な点として、プロフェッショナルなキュレーターによる厳格な展示指示を行わず、25の作品を共有し、NGOのスタッフたちに自由なキュレーションを任せたことが挙げられます。彼らは独自の解釈で展示を構成し、例えば山岳民族の人々が得意とする竹を使用したインスタレーションなど、独創的な展示方法を考案しました。藪本氏は、現代のアートやキュレーションが専門家やPhD保持者のみに限定されている状況を批判的に捉え、より開かれた形での芸術表現の可能性を提示しています。

実際に、NGOスタッフたちは75インチのモニターを購入し、独自の判断で映像作品のスクリーニングを行うなど、積極的に展示方法を工夫しました。共有された作品には写真や映像作品が含まれており、それらを自由にダウンロードして展示に活用しています。確かに著作権の問題は存在するものの、アーティストたちは「誰のために作品を作っているのか」という根本的な問いかけに応じて、作品の使用を許可しているとのことです。

藪本氏は、このプロジェクトがアジアという文脈だからこそ可能な取り組みであり、従来のギャラリーを通さない直接的な芸術表現の形を模索していると説明します。さらに、このプロジェクトをある種の「ユートピアステーション」として位置づけており、リクリット・ティラバーニャとの対話からもその示唆を得ています。興味深いことに、リクリットは「関係性の美学」には興味がないと述べており、むしろ純粋な関係性そのものに関心があると語っているといいます。これは、理論や概念化によって関係性を切り取ることを避けたいという姿勢の表れと解釈できます。

展覧会の具体的な展示として、新白クライハウスのプロジェクトルームが会場となり、そこで写真や活動内容が共有されています。展示作品の例として、前田公平の作品が紹介されました。これは難民をテーマにした作品で、チェンライの屋根裏に展示され、水のゾミアという観点から、海と山が呼吸しながら合流していくイメージを表現しています。また、ミャンマーのアーティスト、リタのセルフポートレート作品も展示されており、これは顔が植物と一体化したような表現で、自己のアイデンティティの影を探求する作品として解釈されています。

この部分は講演の終盤で、藪本氏がゾミア芸術についての具体例と総括を行っている箇所です:
影の自分のポートレートとして非常に美しい作品を撮影しているシエというアーティストの作品について言及しています。また、アウミッテという今年も大阪に関わったアーティストの作品も紹介されています。彼はラジュで3民の人々のデータをUSアーカイブやロンドン博物館から取得し、それをコラージュして制作しています。

作品の中では、ミャンマーから持ち込まれた米が展示の一部となっており、船の下で育てられています。タの族の人々が持っている米と混ぜ合わせながら、ボートで米を育てており、実際に生育して大きくなってきているとのことです。

大阪での展示では、国家の裏側や、これまで表に現れてこなかった人々の存在を捉える試みがなされました。藪本氏の地元の山での産地に関連して、登場しなかった人々をどのように捉えるかという視点も提示されています。

3民の人々の技術について、木氏が言及した「柔らかいものを変えてしまう技術」という観点から、ある女性アーティストの作品が紹介されています。彼女は日本製のワイヤーを毎日編み続けており、鉄を手で柔らかいものに変容させる美しい作品を制作しています。

また、赤アーティストのブス野城という日本人アーティストも紹介されました。彼女は赤の神話を非言語的な芸術によって書き換えるような作品を制作しており、族の世界でタブーとされる棺を、彼女独自のイメージを含めて制作しています。赤の伝統として、牛やバッファローを殺す際に目に米をつけるという習慣なども作品に取り入れられています。

藪本氏はゾミア芸術について以下のようにまとめています:

人間支援を超えたアニミズム的な知恵:ベトナム人が植物になるという概念や、硬いものを柔らかくする技術など。
総合扶助:ゾミア2.0として、国籍を持たない人々や政府の支援を受けられない人々の相互扶助。西成地区でも見られる現象で、高齢者だけでなくベトナムや中国からの移民なども含めた支援の仕組みの維持発展が課題となっています。
神話の書き換え:単一の神話ではなく、異なるアイデンティティを維持するための術の開発と発展。

これらの総合的な技術を「統治されないための芸術」すなわち「ゾミア芸術」と藪本氏は呼んでいます。
最後に、今後の大阪での展開について、日本も元々水のゾミアとしての性質を持っていたと指摘し、万博や大阪関西国際芸術祭といった表向きの枠組みを維持しながらも、予定調和ではない「やばいもの」を実現していきたいという展望が語られました。

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