エドモンド・プリヴァト(1889年8月17日-1962年8月28日)は、フランス語圏のスイスのエスペラント派でした。歴史家、大学教授、作家、ジャーナリスト、平和活動家である彼は、ジュネーブ大学を卒業し、世界平和財団の講師を務めました。[1]彼の集合作品は、エスペラント運動に関するオリジナルのドラマ、詩、物語、教科書、本で構成されています。
エスペラント活動
子供の頃にすでにエスペラントを学んだプリヴァトと仲間のヘクター・ホドラーは、1903年にジャーナルJuna Esperantisto(The Young Esperantist)を設立しました。1905年はまだ思春期でしたが、フランスのブローニュ・シュル・メールで開催された第1回エスペラント世界会議に参加するために600キロメートルを歩き、そこで成熟した雄弁で話しました。[2]
子供の頃にすでにエスペラントを学んだプリヴァトと仲間のヘクター・ホドラーは、1903年にジャーナルJuna Esperantisto(The Young Esperantist)を設立しました。1905年はまだ思春期でしたが、フランスのブローニュ・シュル・メールで開催された第1回エスペラント世界会議に参加するために600キロメートルを歩き、そこで成熟した雄弁で話しました。[2]
1907年の国際社会主義会議で、プリヴァはブリュッセルの国際社会主義局によるエスペラントの使用を提唱した。[3]Privatは1912年から世界エスペラント協会(エスペラント語で「UEA: Universala Esperanto-Asocio」)の委員会メンバーを務めました。1920年から1934年まで、彼はエスペラントの同名の公式雑誌の編集長を務めました。1924年から1938年まで、彼はUEAの会長を務めました[4]同時に国際中央委員会の委員長。彼はスキャンダルの後、辞任した。Privatは、UEAの内外で国際エスペラント組織を前進させました。
彼の作品「エスペラント語の歴史」(2巻)とザメンホフの生涯は、彼をエスペラントの最も重要な歴史家の一人にしました。エスペラントの最初の歴史家であり、ザメンホフの最初の伝記作家として、彼はスイスの学界内での彼のコネクションを使用してエスペラントをさらに進めました。彼は言語学研究Esprimo de sentoj en Esperanto(エスペラントでの感情の表現)を執筆し、叙情的なGinevraと詩のアンソロジーTra l'silento(沈黙を通して)の著者です。[5]また、彼はエスペラント、カルロ、コースリーダーを教える本を書きました。
1923年から1926年の間、プリヴァトは国際連盟のイランの副代表でした。[6]彼は国際連盟、国際労働機関(ILO)、万国電信連合でエスペラントを発表しました。彼は優秀な主催者であり、ジュネーブでエスペラントの指導に関する多くの国際会議を主催しました(1922年)。彼は1936年にクエーカー教徒になった。彼は、1945年頃に出版された彼の最高の本「Sagesse de l'Orient au dela des Religions」に見られるように、宗教の統一に広い心を持つ非常に精神的な人でした。そこでは、さまざまな宗教と精神的な運動を巡るツアーに私たちを連れて行き、ガンジーへの感謝で終わります。
選択された作品
一目でわかるエスペラント(1908)
五十のレッスンのエスペラント(1908)
カルロ(読書本、1909年)
ヨーロッパの中心(パンフレット、1909年)
生きている人々の生きた言語 (1910)
エスペラント文学について(1912)
最後のキス (1912)
沈黙を通して(原詩)、1912年)
ジネヴラ(詩のオリジナルドラマ伝説、1913年)
コースリーダー(1913)
エスペラント語の歴史(2巻、1912年、1927年)
ザメンホフの生涯(1920)
エスペラント語における感覚の表現(1931)言語学研究
人民間の行動(哲学、1934年)国際問題の心理学的研究
オー・インデ・アヴェック・ガンジー1934
宰相長:聖トーマス・モア。(1935)
預言者への海賊のアングレー(1939年)
宗教の東洋の賢者(スピリチュアリティ、1945年)
連邦経験(1958年)
若者の集合作品(1960年)(沈黙を通してを含む)
先駆者の冒険(1963)深刻な出会いや出来事についての面白い物語
ガンジーの生涯(1967)
二つのスピーチ
一目でわかるエスペラント(1908)
五十のレッスンのエスペラント(1908)
カルロ(読書本、1909年)
ヨーロッパの中心(パンフレット、1909年)
生きている人々の生きた言語 (1910)
エスペラント文学について(1912)
最後のキス (1912)
沈黙を通して(原詩)、1912年)
ジネヴラ(詩のオリジナルドラマ伝説、1913年)
コースリーダー(1913)
エスペラント語の歴史(2巻、1912年、1927年)
ザメンホフの生涯(1920)
エスペラント語における感覚の表現(1931)言語学研究
人民間の行動(哲学、1934年)国際問題の心理学的研究
オー・インデ・アヴェック・ガンジー1934
宰相長:聖トーマス・モア。(1935)
預言者への海賊のアングレー(1939年)
宗教の東洋の賢者(スピリチュアリティ、1945年)
連邦経験(1958年)
若者の集合作品(1960年)(沈黙を通してを含む)
先駆者の冒険(1963)深刻な出会いや出来事についての面白い物語
ガンジーの生涯(1967)
二つのスピーチ
柳田國男 Wikipedia https://w.wiki/CoK8
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の官僚、民俗学者。
柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の官僚、民俗学者。
1897年(明治30年)、第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業。東京帝国大学法科大学入学。
1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治科卒業(法学士)。卒業論文は三倉の研究、これにより民衆史を知る契機となる。農商務省農務局農政課に勤務。以後、全国の農山村を歩く。早稲田大学で「農政学」を講義する。
1901年(明治34年)5月、柳田家の養嗣子として入籍する。養父直平(1849-1932)(旧・飯田藩士)は大審院判事を務め、義理の叔父たる安東貞美(直平の同母弟)は、陸軍軍人で台湾総督などを務めた[注釈 3]。
1902年(明治35年)2月12日、法制局参事官に任官[8]。
1904年(明治37年)4月、柳田直平の四女・孝(17歳)と結婚。
1907年(明治40年)2月、島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める。
1908年(明治41年)1月、兼任宮内書記官。この頃、自宅で「郷土研究会」を始める。
1908年(明治41年)5月24日から8月22日にかけて九州を旅行する[9]。
1908年(明治41年)7月13日から18日にかけて、宮崎県北西部の東臼杵郡椎葉村を当時の村長、中瀬淳(すなお)と巡回探訪[10]。
1908年(明治41年)10月 、宮崎県北西部の東臼杵郡椎葉村に住む中瀬淳(「後狩詞記(のちのかりことばのき)」の共著者)へ書簡を送る[11] 。
1909年(明治42年)3月15日、「後狩詞記」を50冊自費出版する[12]。
1909年(明治42年)、東北を旅行し、初めて岩手県南部の遠野を訪れた。
1910年(明治43年)6月、兼任内閣書記官記録課長。「郷土研究会」を発展させて、新渡戸稲造を世話人、柳田が幹事役で「郷土会」を開始[13]。
1911年(明治44年)3月、南方熊楠との文通[14] 始まる。
1913年(大正2年)3月、高木敏雄と共に雑誌『郷土研究』を創刊[15](2巻2号から柳田が独力で編集。1917年3月まで)。
1914年(大正3年)4月、貴族院書記官長。
1915年(大正4年)11月、京都御所における大正天皇の即位礼および大嘗祭に奉仕、提言を残す(当時は未公開)、この年に折口信夫と出会う。
1919年(大正8年)12月、以前より確執のあった貴族院議長・徳川家達(徳川宗家)との不和衝突が深刻化し、書記官長を辞任。代わりに宮内省図書頭のポストを打診されるが、当時その職にあった森鴎外(帝室博物館長と兼任)の立場を配慮し辞退。官界を去り立身出世から外れた[注釈 4]。新渡戸稲造が国際連盟事務次長として訪欧したため、「郷土会」の活動休止[13]。
1920年(大正9年)8月、東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆した。全国各地を調査旅行。
1921年(大正10年)、渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。
{1922年(大正11年)、新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリヴァ(Edmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習。
1923年(大正12年)、国際連盟委任統治委員を突如辞任して帰国(これを契機に新渡戸との交流が途絶える[16])。フィンランド公使グスターフ・ラムステッドと交流。
1924年(大正13年)4月、慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義。
1926年(大正15年)7月 - 財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任。(日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro) 1926年版参照)。}
1927年(昭和2年)、東京市牛込区から、新興住宅地の東京府北多摩郡砧村(現・世田谷区成城)に転居。新居を「喜談書屋」と命名。
1930年(昭和5年)、宮本常一との文通始まる。
1934年(昭和9年)に宮本と直接面会し、これを期に宮本は民俗学の道へ進んでいくことになる[17]。1月、柳田らによる木曜会第1回会合(郷土生活研究所とも。8月から3年間山村生活調査をおこない、1937年6月『山村生活の研究』)[18][19]。
1939年(昭和14年)、民間学術団体の国民学術協会設立会員となる。
1940年(昭和15年)、朝日文化賞受賞。
1942年(昭和17年)、日本文学報国会理事。
1946年(昭和21年)7月、枢密顧問官就任。新憲法制定審議に立ち会う。
1947年(昭和22年)3月、自宅書斎隣に民俗学研究所を設立(晩年に解散)。5月、日本国憲法施行に伴う枢密院廃止により枢密顧問官失職。同年帝国芸術院会員(同年末日本芸術院に改称)に選任。
1949年(昭和24年)3月、日本学士院会員に選任。同年4月、民間伝承の会を日本民俗学会に発展解消させ、初代会長に就任。
1951年(昭和26年)、國學院大學に招かれ、教授に就き神道に関する講座を担当[20]。同年11月、文化勲章受章。
1955年(昭和30年)1月、宮中・歌会始に川合玉堂と共に召人となる。
1962年(昭和37年)8月8日、午後1時頃、成城の自宅にて心臓衰弱のため死去。享年88(87歳没)。没日付で叙正三位勲一等。当時首相だった池田勇人が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が追贈された。葬儀は12日に東京・青山葬儀所にて日本民俗学会葬として営まれる。各界から300人が参列。戒名は永隆院殿顕誉常正明国大居士[1]。墓所は神奈川県川崎市多摩区の春秋苑。
1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治科卒業(法学士)。卒業論文は三倉の研究、これにより民衆史を知る契機となる。農商務省農務局農政課に勤務。以後、全国の農山村を歩く。早稲田大学で「農政学」を講義する。
1901年(明治34年)5月、柳田家の養嗣子として入籍する。養父直平(1849-1932)(旧・飯田藩士)は大審院判事を務め、義理の叔父たる安東貞美(直平の同母弟)は、陸軍軍人で台湾総督などを務めた[注釈 3]。
1902年(明治35年)2月12日、法制局参事官に任官[8]。
1904年(明治37年)4月、柳田直平の四女・孝(17歳)と結婚。
1907年(明治40年)2月、島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める。
1908年(明治41年)1月、兼任宮内書記官。この頃、自宅で「郷土研究会」を始める。
1908年(明治41年)5月24日から8月22日にかけて九州を旅行する[9]。
1908年(明治41年)7月13日から18日にかけて、宮崎県北西部の東臼杵郡椎葉村を当時の村長、中瀬淳(すなお)と巡回探訪[10]。
1908年(明治41年)10月 、宮崎県北西部の東臼杵郡椎葉村に住む中瀬淳(「後狩詞記(のちのかりことばのき)」の共著者)へ書簡を送る[11] 。
1909年(明治42年)3月15日、「後狩詞記」を50冊自費出版する[12]。
1909年(明治42年)、東北を旅行し、初めて岩手県南部の遠野を訪れた。
1910年(明治43年)6月、兼任内閣書記官記録課長。「郷土研究会」を発展させて、新渡戸稲造を世話人、柳田が幹事役で「郷土会」を開始[13]。
1911年(明治44年)3月、南方熊楠との文通[14] 始まる。
1913年(大正2年)3月、高木敏雄と共に雑誌『郷土研究』を創刊[15](2巻2号から柳田が独力で編集。1917年3月まで)。
1914年(大正3年)4月、貴族院書記官長。
1915年(大正4年)11月、京都御所における大正天皇の即位礼および大嘗祭に奉仕、提言を残す(当時は未公開)、この年に折口信夫と出会う。
1919年(大正8年)12月、以前より確執のあった貴族院議長・徳川家達(徳川宗家)との不和衝突が深刻化し、書記官長を辞任。代わりに宮内省図書頭のポストを打診されるが、当時その職にあった森鴎外(帝室博物館長と兼任)の立場を配慮し辞退。官界を去り立身出世から外れた[注釈 4]。新渡戸稲造が国際連盟事務次長として訪欧したため、「郷土会」の活動休止[13]。
1920年(大正9年)8月、東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆した。全国各地を調査旅行。
1921年(大正10年)、渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。
{1922年(大正11年)、新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリヴァ(Edmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習。
1923年(大正12年)、国際連盟委任統治委員を突如辞任して帰国(これを契機に新渡戸との交流が途絶える[16])。フィンランド公使グスターフ・ラムステッドと交流。
1924年(大正13年)4月、慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義。
1926年(大正15年)7月 - 財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任。(日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro) 1926年版参照)。}
1927年(昭和2年)、東京市牛込区から、新興住宅地の東京府北多摩郡砧村(現・世田谷区成城)に転居。新居を「喜談書屋」と命名。
1930年(昭和5年)、宮本常一との文通始まる。
1934年(昭和9年)に宮本と直接面会し、これを期に宮本は民俗学の道へ進んでいくことになる[17]。1月、柳田らによる木曜会第1回会合(郷土生活研究所とも。8月から3年間山村生活調査をおこない、1937年6月『山村生活の研究』)[18][19]。
1939年(昭和14年)、民間学術団体の国民学術協会設立会員となる。
1940年(昭和15年)、朝日文化賞受賞。
1942年(昭和17年)、日本文学報国会理事。
1946年(昭和21年)7月、枢密顧問官就任。新憲法制定審議に立ち会う。
1947年(昭和22年)3月、自宅書斎隣に民俗学研究所を設立(晩年に解散)。5月、日本国憲法施行に伴う枢密院廃止により枢密顧問官失職。同年帝国芸術院会員(同年末日本芸術院に改称)に選任。
1949年(昭和24年)3月、日本学士院会員に選任。同年4月、民間伝承の会を日本民俗学会に発展解消させ、初代会長に就任。
1951年(昭和26年)、國學院大學に招かれ、教授に就き神道に関する講座を担当[20]。同年11月、文化勲章受章。
1955年(昭和30年)1月、宮中・歌会始に川合玉堂と共に召人となる。
1962年(昭和37年)8月8日、午後1時頃、成城の自宅にて心臓衰弱のため死去。享年88(87歳没)。没日付で叙正三位勲一等。当時首相だった池田勇人が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が追贈された。葬儀は12日に東京・青山葬儀所にて日本民俗学会葬として営まれる。各界から300人が参列。戒名は永隆院殿顕誉常正明国大居士[1]。墓所は神奈川県川崎市多摩区の春秋苑。
新渡戸稲造wikipedia https://w.wiki/rbR
新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、旧字体:新渡戶 稻造󠄁、文久2年8月3日〈1862年9月1日〉- 昭和8年〈1933年〉10月15日)は、日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。札幌農学校在学中に出会ったキリスト教から多大な影響を受ける。
国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読まれている。日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(後の東京文化短期大学、現在の新渡戸文化短期大学)初代校長
「郷土会」の発足
1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーとして柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。
1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーとして柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。
国際連盟事務次長
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた[注 2]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた[注 2]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかしフランスの反対に遭って実現しなかった。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。
Bushido: The Soul of Japan (1900)
1862年(文久2年) 盛岡藩で当時、奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名稲之助。
1871年(明治4年) 兄の道郎とともに上京。叔父の太田時敏の養子となる。
1873年(明治6年) 東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。
1877年(明治10年) 札幌農学校に第二期生として入学。卒業後、東京大学選科入学。同時に成立学舎にも通う。
1882年(明治15年) 農商務省御用掛となる。11月、札幌農学校予科教授。
1884年(明治17年) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
1886年(明治19年) クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。
1887年(明治20年) 独ボン大学で農政、農業経済学を研究。
1889年(明治22年) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。長兄七郎没、新渡戸姓に復帰。
1891年(明治24年) 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。帰国し、札幌農学校教授となる。
1894年(明治27年) 札幌に遠友夜学校を設立。
1897年(明治30年) 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。
1899年(明治32年) 日本初の農学博士を佐藤昌介ら7名と共に授与される[15]。
1900年(明治33年) 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。
1901年(明治34年) 台湾総督府民政部殖産局長心得就任。糖業改良意見書を提出。
1903年(明治36年) 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
1906年(明治39年) 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農科大学教授兼任。
1909年(明治42年) 実業之日本編集顧問となる。
1916年(大正5年) 東京植民貿易語学校校長に就任。
1917年(大正6年) 拓殖大学学監に就任
1918年(大正7年) 東京女子大学初代学長に就任。
1920年(大正9年) 国際連盟事務次長に就任。
1921年(大正10年) チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。
1925年(大正14年) 帝国学士院会員に任命される。
1926年(大正15年) 国際連盟事務次長を退任。12月7日、貴族院勅選議員に任命[16](-1933年10月16日[17])。
1928年(昭和3年) 東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。
1928年(昭和3年) 早稲田大学で連続講演を行う(「内観外望」(1933年)、「西洋の事情と思想」(1934年)に講演内容収録)。
1929年(昭和4年) 太平洋調査会理事長に就任。拓殖大学名誉教授に就任。
1931年(昭和6年) 第4回太平洋会議に出席(上海)。
1932年(昭和7年) 松山事件。
1933年(昭和8年) カナダ・バンフにて開催の 第5回太平洋会議に出席。ビクトリア市にて客死。
1862年(文久2年) 盛岡藩で当時、奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名稲之助。
1871年(明治4年) 兄の道郎とともに上京。叔父の太田時敏の養子となる。
1873年(明治6年) 東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。
1877年(明治10年) 札幌農学校に第二期生として入学。卒業後、東京大学選科入学。同時に成立学舎にも通う。
1882年(明治15年) 農商務省御用掛となる。11月、札幌農学校予科教授。
1884年(明治17年) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
1886年(明治19年) クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。
1887年(明治20年) 独ボン大学で農政、農業経済学を研究。
1889年(明治22年) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。長兄七郎没、新渡戸姓に復帰。
1891年(明治24年) 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。帰国し、札幌農学校教授となる。
1894年(明治27年) 札幌に遠友夜学校を設立。
1897年(明治30年) 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。
1899年(明治32年) 日本初の農学博士を佐藤昌介ら7名と共に授与される[15]。
1900年(明治33年) 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。
1901年(明治34年) 台湾総督府民政部殖産局長心得就任。糖業改良意見書を提出。
1903年(明治36年) 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
1906年(明治39年) 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農科大学教授兼任。
1909年(明治42年) 実業之日本編集顧問となる。
1916年(大正5年) 東京植民貿易語学校校長に就任。
1917年(大正6年) 拓殖大学学監に就任
1918年(大正7年) 東京女子大学初代学長に就任。
1920年(大正9年) 国際連盟事務次長に就任。
1921年(大正10年) チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。
1925年(大正14年) 帝国学士院会員に任命される。
1926年(大正15年) 国際連盟事務次長を退任。12月7日、貴族院勅選議員に任命[16](-1933年10月16日[17])。
1928年(昭和3年) 東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。
1928年(昭和3年) 早稲田大学で連続講演を行う(「内観外望」(1933年)、「西洋の事情と思想」(1934年)に講演内容収録)。
1929年(昭和4年) 太平洋調査会理事長に就任。拓殖大学名誉教授に就任。
1931年(昭和6年) 第4回太平洋会議に出席(上海)。
1932年(昭和7年) 松山事件。
1933年(昭和8年) カナダ・バンフにて開催の 第5回太平洋会議に出席。ビクトリア市にて客死。
① 三田智大氏1893~1958 静岡県生まれ。北海道大学卒 札幌師範・函館館師・十勝農業・青森県立農業・徳山県立農業などの教諭 ’19年長谷川二葉亭の「世界語」を入手してE学習、同年北大E研究会を創立。卒業論文にE、中国語の訳文を添付、北海道で最初にE運動を始めた人である。
②高瀬正栄氏1886~1968高知県生まれ。札幌師範卒。北海道庁立公女・藤女子高校の教員。 ’20年札幌で三田智大氏と共にを講習指導、札幌E研究会設立、札幌で開催された第24回日本大会会頭、’36年から数年札幌E会会長、戦後も北海道E連盟並びに、札幌のエス運動動の草分けをなさった一人である。
③田上正敏氏1900年頃の生まれ。死亡年月日不明。北大地質学部の教授。初期のエスペラントの恩人である。
④ 山本佐三氏1898~1959 滋賀県生まれ。金沢大附属薬専、札幌商業学校教諭、’27年E学習、滋賀県E会創立、’30年シベリア鉄道経由でヨーロッパ旅行、E国際教育大会・第10回SAT 大会・第72回世界大会に参加、SAT 大会では議長団に。
⑤浪越春夫氏1911~1985札幌生まれ。簡単に紹介してあったが第2部で更に詳述する。
★渥美楠雄氏1905年頃の生まれ。1976年死去。北海道帝国大学農学部卒。1935年に「農薬と圏芸」にミチューリンと文通しようとしたことを書く。岐阜大学名誉教授。
⑥ 虎渡乙松氏1892~1926秋田県生まれ。東京医大眼科選科。’12年函館で虎渡眼科病院を経営。16年秋田でE学習、JAへ。’20年函館エス会会長。 ’25年第7回世界大会参加、高桑正吾氏と共に函館の運動の中心人物であった。
⑦ 中村久雄氏1917~健在 北海道帝国大学農学部農芸化学科中退。’29年山部大本別院祭式講師、エスペラント普及会講師として全道を巡教す。’32年第1回北海道エスペラント大会を開催した功績は大きい。現在岡山県笠岡市。
⑧ 堤圭介氏生年不詳。山部のDenaska Esperantisto 小樽のAntaûten会を組織する。
⑨ ヨセーフ・マヨール氏 生年不詳在。ソルボンヌ大学出身。大本教本部の宣伝師として日本にきた。世界的に有名なエスペランチスト。
⑩ 井上照月氏 生年不詳 マヨール氏と一緒に北海道にきた。現住所松江市、現在名酒井蓋(?)。
(11) 福田仁一氏1912~1957年 小樽生まれ。書画骨董商の息子、当時北海道のエス運動の中心的人物、’36年札幌で開催した第24回日本大会の名議長、’36年日本大会に当連盟で提案した「Neologismo反対決議案」の主旨説明者、 ’42年渡満に際し300余冊の蔵書を本連盟に寄贈。
(12) Agnes. B. Alexander 1875~1971 ハワイの富豪の娘。1914~1938年2回日本に滞在、バハイ教布教に活動、’14年エス語学習バハイ教は大本と提携していた。それでマヨール氏と共に山部の大会に出席したのである。
https://en.wikipedia.org/wiki/Agnes_Baldwin_Alexander
https://eo.wikipedia.org/wiki/Agnes_Baldwin_Alexander
https://eo.wikipedia.org/wiki/Agnes_Baldwin_Alexander
(13) 渡部隆志氏 1898年会津若松市生まれ。'16年札幌一中(現南校)卒、陸軍士官学校に合格せるも病のため入学せず。’ 17年札幌農大土木工学科入学。卒業後北海道庁土木部、苫小牧工業学校に勤務、'31~32年アメリカワシントン州立大学に入学、’29弁学会会員となり独学でEを学ぶ。苫小牧工業学校では毎年講習会を開きHEL設立に努力、’31~32年にはシアトルを中心にEの講師をする。シアトル・エス会終身会員、エス語教員免許を受ける。現住所は勇払郡厚真郡鯉沼130である。
(14) 原田三馬氏 1910~1952年徳島生まれ。法大中退。北海道銀行動務、'30年代帯広エス会の中心人物、'35~’37年東京支店勤務時代JE】I評議員、会計事務を担当、戦後釧路エス会を設立。
(15)当麻憲三氏1909年生まれ。現在札幌市月家に健在である。鉄塔書院発行の「プロレタリア・エスペラント講座」で勉強す。’34年札幌でプロレタリア・エスペラント大会あり、磯崎巌(?)氏も出席した。それ以来特高と悪兵隊に身辺報告をうける。当時札幌苗穂工場に勤務、終戦後国鉄労働組合の書記長をしていた。
現在「治安維待法犠牲者国家賠償同盟北海道支部」の中心的人物。
現在「治安維待法犠牲者国家賠償同盟北海道支部」の中心的人物。
(16) 佐藤徳治氏 1920年前後の生まれ。札幌で’36年前後木村氏との協力で、その奮闘ぶりは目を見張るものがあった。戦後は共産党のシンパとなった。その当時は北海道新聞(今の北海タイムス)におられ組合の番記長をしていた。だいぶ後大会に出席したことがある。その後どうしたか分消想を調べたがわからなかった。
小林 多喜二 https://w.wiki/4mYx
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] - 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な小説家、共産主義者、社会主義者、政治運動家。日本プロレタリア作家同盟書記長。日本共産党党員。
4歳のとき、一家で北海道の小樽に移住、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学ぶ。小樽で銀行に勤めてから、葉山嘉樹、ゴーリキーなどの作品を通じてプロレタリア作家の自覚を持ち、小樽の労働運動にも関わり始めた。
1928年、共産党関係者大検挙(三・一五事件)の小樽を題材にした『一九二八年三月十五日』をプロレタリア文学の機関誌「戦旗」に載せ、翌年には『蟹工船』を発表して評価を得た。また、大農場の小作人と小樽の労働者の共同闘争を描いた『不在地主』(1929年)が原因で銀行を解雇された。その後は投獄と保釈をくりかえし、1931年、非合法の共産党に正式に入党。しかし1933年、警察に逮捕・虐殺された。
生涯
多喜二は、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市川口)[1]に小作農家の[注釈 2] 次男として生まれた。当時北海道・小樽で苦難の末に事業に成功した伯父が自分の失敗によって傾いた実家の始末を負わせていた弟夫婦(多喜二の両親)への恩返しとして「小樽の学校に通わせたい」と言う提案により長男を移住させていたが間もなく病死した。多喜二が4歳の時に伯父の計らいによって一家全員で小樽・若竹町の伯父の別宅に移住する。
多喜二は、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市川口)[1]に小作農家の[注釈 2] 次男として生まれた。当時北海道・小樽で苦難の末に事業に成功した伯父が自分の失敗によって傾いた実家の始末を負わせていた弟夫婦(多喜二の両親)への恩返しとして「小樽の学校に通わせたい」と言う提案により長男を移住させていたが間もなく病死した。多喜二が4歳の時に伯父の計らいによって一家全員で小樽・若竹町の伯父の別宅に移住する。
生活は豊かではなかったが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、絵画[注釈 3] や文芸誌への投稿[注釈 4] や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。
この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。実家からほどない小樽築港には幾つもタコ部屋が設けられ、労働者の酷使される姿は幼少期より多喜二の身近に在った[2]。
1924年に小樽高商を卒業し[1][3]、北海道拓殖銀行(拓銀)に入行して同行小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキ[注釈 5]に出会う。タキは父親が残した多額の借金により13歳の頃より酌婦として飲み屋に売られていた。多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取った。多喜二の家族も暖かく迎えたが、タキは身分の差に悩み7ヵ月後に家出をする[6]。1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となったともいわれる。
1929年、拓銀に在職しながら、郷利基のペンネームで『海上生活者新聞』の文芸欄を担当する記者になる。1929年1月5日発行の第一号には「船員は何を読まなければならないか」を二号には「葉山嘉樹海に生くる人々の紹介」三号には『寄らば切るぞ!』を掲載した。[7][8]海上生活者新聞はこの三号をもって廃刊。
1929年5月に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集め、同年7月には土方与志らの新築地劇団(築地小劇場より分裂)によって『北緯五十度以北』という題で帝国劇場にて上演された[9]。同時に特別高等警察から要注意人物としてマークされ始めた。
『蟹工船』『一九二八年三月一五日』及び『不在地主』(1929年に『中央公論』に掲載)などを発表したことにより、1929年11月16日付で拓銀から解雇(諭旨解職)された[10][注釈 6] 。翌年の1930年春に東京へ転居[1]。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。1930年5月中旬、『戦旗』誌を発売禁止から防衛するため江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪を巡回講演。23日に大阪で日本共産党へ資金援助の嫌疑で逮捕され、6月7日、一旦釈放された。
しかし、24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月に『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受けた。8月、治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。1931年1月22日、保釈出獄。その後神奈川県・七沢温泉に篭る。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良の志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。
小林多喜二奪還事件
1931年9月6日群馬県佐波郡伊勢崎町(現伊勢崎市)で行われた文芸講演会に全日本無産者芸術連盟(ナップ)が講師を派遣し、小林多喜二・村山知義・中野重治が行ったが、官憲は事前に検束してしまった。民衆が伊勢崎警察署を包囲し、抗議、占拠、乱闘のすえ、両者の交渉がもたれ、検束者全員の釈放が実現し、しかも抗議団に逮捕者はなかった。治安維持法下であり得ない事件として注目を浴びている。
1931年9月6日群馬県佐波郡伊勢崎町(現伊勢崎市)で行われた文芸講演会に全日本無産者芸術連盟(ナップ)が講師を派遣し、小林多喜二・村山知義・中野重治が行ったが、官憲は事前に検束してしまった。民衆が伊勢崎警察署を包囲し、抗議、占拠、乱闘のすえ、両者の交渉がもたれ、検束者全員の釈放が実現し、しかも抗議団に逮捕者はなかった。治安維持法下であり得ない事件として注目を浴びている。
最期
1933年2月20日、多喜二は日本共産青年同盟中央委員会に潜入していた特別高等警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕された。
1933年2月20日、多喜二は日本共産青年同盟中央委員会に潜入していた特別高等警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕された。
同日、中央区築地の同じ場所に所在する築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を手塚英孝が『小林多喜二』で紹介している。それによると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)の指揮の下に多喜二を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかった[11]とある。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に多喜二の死亡が確認・記録された。
警察発表にもとづく当時の新聞報道
2月20日正午頃別の共産党員1名と赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中だった多喜二は、築地署小林特高課員に追跡され約20分にわたって逃げ回り、溜池の電車通りで格闘の上取押さえられそのまま築地署に連行された[12]。最初は小林多喜二であることを頑強に否認していたが、同署水谷特高主任が取調べた結果自白した[12]。築地署長は、「短時間の調べでは自供しないと判断して外部からの材料を集めてから取調べようと一旦5時半留置場に入れたが間もなく苦悶を始め7時半にはほとんど重体になったので前田病院に入院させる処置を取り、築地署としては何の手落ちもなかった」との説明を行っている[13]。
2月20日正午頃別の共産党員1名と赤坂福吉町の芸妓屋街で街頭連絡中だった多喜二は、築地署小林特高課員に追跡され約20分にわたって逃げ回り、溜池の電車通りで格闘の上取押さえられそのまま築地署に連行された[12]。最初は小林多喜二であることを頑強に否認していたが、同署水谷特高主任が取調べた結果自白した[12]。築地署長は、「短時間の調べでは自供しないと判断して外部からの材料を集めてから取調べようと一旦5時半留置場に入れたが間もなく苦悶を始め7時半にはほとんど重体になったので前田病院に入院させる処置を取り、築地署としては何の手落ちもなかった」との説明を行っている[13]。
多喜二死亡時の警視庁特高部長は安倍源基で、その部下であった中川、特高課長の毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部山県為三の3人が直接手を下したとも言われている。しかし、毛利、山県が取調に立ちあったという文献はない。
警察当局は翌21日に「心臓麻痺による死」と発表したが、翌日遺族に返された多喜二の遺体は全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。この詳細について、小林の活動仲間で「全日本無産者芸術連盟」の機関紙「戦旗」の編集にも携わった詩人の壷井繁治は、戦後、東京12チャンネル(現:テレビ東京)の番組のインタビューで語っている。
Wikipedia https://w.wiki/3Dy6
大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。
大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。
何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立、マルクス主義、アジア主義など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。
開始時期
1905年(明治38年)のポーツマス条約反対運動からとする説[1]
1912年(大正元年)の第一次護憲運動からとする説
1918年(大正7年)の第一次世界大戦終結からとする説
終了時期
1923年(大正12年)の関東大震災までとする説[2]
1925年(大正14年)の治安維持法の制定までとする説
1931年(昭和6年)の満州事変までとする説[3]
1905年(明治38年)のポーツマス条約反対運動からとする説[1]
1912年(大正元年)の第一次護憲運動からとする説
1918年(大正7年)の第一次世界大戦終結からとする説
終了時期
1923年(大正12年)の関東大震災までとする説[2]
1925年(大正14年)の治安維持法の制定までとする説
1931年(昭和6年)の満州事変までとする説[3]
背景
1905年(明治38年)、日露戦争はポーツマス条約により賠償金無しの終戦となったため、戦費獲得のための増税に苦しんでいた都市雑業層(当時の選挙制度では納税額が少ないために選挙権が無かった層)がこれに反発、日比谷焼き討ち事件を起こした。この動きは新聞記者や弁護士を通じて広まり、社会運動が広まる時代背景ができ上がっていった[3]。
1905年(明治38年)、日露戦争はポーツマス条約により賠償金無しの終戦となったため、戦費獲得のための増税に苦しんでいた都市雑業層(当時の選挙制度では納税額が少ないために選挙権が無かった層)がこれに反発、日比谷焼き討ち事件を起こした。この動きは新聞記者や弁護士を通じて広まり、社会運動が広まる時代背景ができ上がっていった[3]。
同じく1905年には東京で孫文率いる中国同盟会が結成されている。1911年(明治44年)に清朝の四川省で発生した鉄道国有化の反対運動をきっかけとして辛亥革命が勃発し、中国革命同盟会が中核となった革命軍は、翌1912年(民国元年、大正元年)に清朝を倒して中華民国を樹立した。この中国情勢の混乱を勢力圏拡大の好機と判断した陸軍大臣の上原勇作は、第2次西園寺内閣に対し朝鮮半島に2個師団を新設するよう提言した。しかし西園寺は日露戦争を要因とした財政難や国際関係の問題などを理由に拒否した為、上原は軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を内閣総辞職へ追い込み、陸軍主導の内閣を成立させようと画策した。
こうした背景の中、長州藩閥出身で陸軍の影響力が強い第3次桂内閣が組閣されたが、薩長藩閥政治への不満が高まっており、この桂内閣に対し国民世論の批判が高まった。また衆議院でも衆議院議員の尾崎行雄や犬養毅らが藩閥政治であるとして桂内閣を批判し、1912年(大正元年)、「閥族打破・憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動が展開され、桂内閣は組閣してからわずか53日で内閣総辞職に追い込まれた(大正政変)。続いて設立された立憲政友会を与党とする第1次山本内閣は軍部大臣現役武官制の廃止など陸海軍の内閣への発言力を弱める改革に着手したが、海軍高官の贈賄事件(シーメンス事件)の影響により再び国民の批判を招き、1914年(大正3年)に内閣総辞職を余儀なくされた。
大正デモクラシーの流れ
民本主義と天皇機関説
1913年(大正2年)、石田友治らによって言論雑誌『第三帝国』が刊行され、また第一次世界大戦下の1916年(大正5年)には東京帝国大学の吉野作造により民本主義による政治が提唱された事(「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」、『中央公論』1916年1月号等)を背景に、次第に普選運動が活発になっていった。また1912年(明治45年)3月美濃部達吉は『憲法講話』を著し天皇機関説を提唱した。それは天皇主権説に反対し、議会が独自の機能を持つことを理論的に基礎づけ[4]、国家が統治権の主体であるべきと主張し政党内閣制を支持した。この説に対して上杉慎吉は天皇主権説の立場から批判を行ったが、天皇機関説は議会政治を実現する上での憲法解釈上の大きな根拠として度々取り上げられるようになった。
民本主義と天皇機関説
1913年(大正2年)、石田友治らによって言論雑誌『第三帝国』が刊行され、また第一次世界大戦下の1916年(大正5年)には東京帝国大学の吉野作造により民本主義による政治が提唱された事(「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」、『中央公論』1916年1月号等)を背景に、次第に普選運動が活発になっていった。また1912年(明治45年)3月美濃部達吉は『憲法講話』を著し天皇機関説を提唱した。それは天皇主権説に反対し、議会が独自の機能を持つことを理論的に基礎づけ[4]、国家が統治権の主体であるべきと主張し政党内閣制を支持した。この説に対して上杉慎吉は天皇主権説の立場から批判を行ったが、天皇機関説は議会政治を実現する上での憲法解釈上の大きな根拠として度々取り上げられるようになった。
また吉野・美濃部の両人に加え、中央大学出身の長谷川如是閑や早稲田大学出身の大山郁夫といったジャーナリストや学者の発言も在り方に大きな影響を与えた。
米騒動
1917年(大正6年)のロシア革命に端を発して、同盟国のイギリスやアメリカの要請を受けて寺内内閣により第一次世界大戦終結直前の1918年(大正7年)7月12日にシベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による米の買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰した。
1917年(大正6年)のロシア革命に端を発して、同盟国のイギリスやアメリカの要請を受けて寺内内閣により第一次世界大戦終結直前の1918年(大正7年)7月12日にシベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による米の買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰した。
そのような中、富山県で発生した米問屋と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり(米騒動)米問屋の打ち壊しや焼き討ちなどが2ヶ月間に渡り頻発した。
日本初の本格的政党内閣
戦争による格差の拡大により、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は9月21日、寺内内閣の総辞職をもって一応の収まりを見せ、ついに「平民宰相」と呼ばれた原敬による原内閣が、日本で初めての本格的な政党内閣として9月27日に組織されるに至った。
戦争による格差の拡大により、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は9月21日、寺内内閣の総辞職をもって一応の収まりを見せ、ついに「平民宰相」と呼ばれた原敬による原内閣が、日本で初めての本格的な政党内閣として9月27日に組織されるに至った。
第二次護憲運動
1923年(大正12年)12月27日に発生した、難波大助による摂政裕仁親王狙撃事件(虎ノ門事件)により、当時の第2次山本内閣(山本権兵衛首相)は総辞職に追い込まれ、枢密院議長であった清浦奎吾が後任の首相に就任した。しかし、清浦内閣はほぼ全ての閣僚が貴族院議員から選出された超然内閣であり、国民の間で再び憲政擁護を求める第二次護憲運動が起こった。
1923年(大正12年)12月27日に発生した、難波大助による摂政裕仁親王狙撃事件(虎ノ門事件)により、当時の第2次山本内閣(山本権兵衛首相)は総辞職に追い込まれ、枢密院議長であった清浦奎吾が後任の首相に就任した。しかし、清浦内閣はほぼ全ての閣僚が貴族院議員から選出された超然内閣であり、国民の間で再び憲政擁護を求める第二次護憲運動が起こった。
その結果立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派からなる加藤高明内閣が成立し普通選挙法が制定され、財産(納税額)によって制限される制限選挙から、満25歳以上全ての男子に選挙権が与えられることとなり、アジアで初の男子普通選挙が実現した。
一方、ロシア革命によって世界初の共産主義国家であるソビエト連邦が誕生、1922年(大正11年)には日本共産党が結党されるなど国民の一部に共産主義思想が広まり、共産主義革命(赤化)や、天皇制及び国家神道の動揺を懸念した政府は、治安維持法を制定し、共産主義的な運動に対しては規制がかけられる形となった。
女性の権利の獲得
明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権をはじめとした女性の権利を求める気運が女性の中から高まっていった。1919年(大正8年)11月に平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが設立した新婦人協会やガントレット恒子、久布白落実らが1921年(大正10年)に設立した日本婦人参政権協会(後に日本基督教婦人参政権協会)が女性運動を展開した。
明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権をはじめとした女性の権利を求める気運が女性の中から高まっていった。1919年(大正8年)11月に平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが設立した新婦人協会やガントレット恒子、久布白落実らが1921年(大正10年)に設立した日本婦人参政権協会(後に日本基督教婦人参政権協会)が女性運動を展開した。
大正デモクラシー中は女性参政権が実現することはなかったが、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正が1922年(大正11年)に行われたり、1933年(昭和8年)には女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。
また1931年(昭和5年)には婦人参政権を条件付で認める法案がついに衆議院を通過するが、貴族院の反対で廃案に追い込まれた。結局、日本における女性参政権の実現は太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20年)になった。翌年の1946年(昭和21年)(第22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生する。
日本併合下の朝鮮・台湾での動き
1919年(大正8年)には朝鮮で三・一運動が発生した。その後も朝鮮人の権利を求める運動は続いたが、日本側の民本主義者とは温度差があった[3]。
1919年(大正8年)には朝鮮で三・一運動が発生した。その後も朝鮮人の権利を求める運動は続いたが、日本側の民本主義者とは温度差があった[3]。
1920年代初めから1930年代半ばにかけて、台湾の住民による台湾議会設置運動が行われた。
昭和へ
1931年(昭和6年)の満州事変の時期になると大正デモクラシーのエネルギーは排外主義・戦争支持へと流れていった[3]。そこには満州事変に熱狂する大衆の「発見」という現象があった[5]。
1931年(昭和6年)の満州事変の時期になると大正デモクラシーのエネルギーは排外主義・戦争支持へと流れていった[3]。そこには満州事変に熱狂する大衆の「発見」という現象があった[5]。