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2005年11月

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ja2047_memorial

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2005年11月




Re: 誰かおしえて 2005/11/22 6:35 [ No.34914 / 39216 ]

投稿者 :
ja2047



>20年前に「南京事件」(中公新書)を書いた秦郁彦氏は、その後、
自説を(否定派寄りへ)修正したと聞きましたが、どのように修正
したのか

秦氏が「虐殺などなかった」と言い出したという話は聞いたことがありません。
「南京事件」(中公新書)では

「南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。」

と書いた秦氏が、その後中国の言動に対して、より批判的になっているということは言えるかもしれませんが。

事件の規模自体について言えば、「南京事件」(中公新書 1985)での

「筆者としては、スマイス調査(修正)による一般人の死者二・三万、捕らわれてから殺害された兵士三・○万を基数としたい。しかし不法殺害としての割引は、一般人に対してのみ適用(二分の一から三分の二)すべきだと考える。つまり三・○万+一・二万(八千)=三・八~四・二万という数字なら、中国側も理解するのではないか、と思うのである。」

が、
「現代史の光と影」(グラフ社 1997年)では

「三十万を二十万に置きかえても、不自然さはあまり変わらない。兵士の「不法殺害」五万に対し、やはり二倍に当る民間人十万人が殺されたことになるからだ。
 犠牲者数を四~六万とすれば、この種の矛盾は起きず、むりのない説明が可能である。情報源は明確でないが、中国共産軍の機関誌だった「抗敵報」(付表No.1)も、安全区国際委員会のベーツ博士も、ほぼ同じ数字を計上しているし、すでに述べたように委員会のラーベもヒトラーにあてた報告書で、やや多い五万~六万(民間人)と推定している。」

となっていますので、犠牲者数について下方修正したということではないと思います。

 

返信


これは メッセージ 34912 tamamaittouheiさんに対する返信です





↓ 見てきたようなウソの典型 2005/11/25 2:33 [ No.34943 / 39216]

投稿者 :
ja2047



>城内の市民は全員が安全区に避難しており、危険な場所には誰も居なかったよ。

では、夏淑琴事件を始め、安全区外での被害報告が多数あるのはどういう訳かな?
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano111.html

返信


これは メッセージ 34942 deliciousicecoffeeさんに対する返信です





でりちゃんの想像力に乾杯 2005/11/26 6:47 [ No.34966 / 39216 ]

投稿者 :
ja2047



>夏淑琴事件なんて出鱈目だらけだ。

ほうほう (^^

>8歳の子供が、犯行日時は12月13日9~10時と認識したのはおかしいし、ましてや14日も経ってそのような日時を記憶していたなんてまず有り得ない。

八歳というのは小学二年生だよ。
普通に考えて日本の子供なら時計もカレンダーも読めるだろう。
当時の中国の庶民の家庭に時計はなかったのだと思うから、
これは、どんな日のどんな時間に何が起こったのかを覚えていたと
言うだけのことだ。
なにも 何月何日の何時何分何秒 と言ったわけではない。
前夜まで続いた激しい砲声がぴたりと止んだ静かな朝に、一家惨殺の
悲劇が起こったのだ。
そのことを覚えていて何の不思議もない。


>夏淑琴一家は盗賊一家だったと考えられる。
被害者が賊と会話していたのだから、夏淑琴事件というのは、支那人盗賊集団によって襲撃・惨殺された事件だったのだ。

すげえ、 でりちゃんの想像力には限りがないね。

そのロジックで行くと、犯人が日本軍だと考えていたジョン・マギーは
夏淑琴一家は日本軍だったと考えていたことになるな。
幸いマギーはでりちゃんほど豊かな想像力の持ち主ではなかったようで
冷静なレポートを残しているのだが。

どちらにしても、安全区外に民間人がいたという事実はでりちゃんも認めたということでいいね?

 

返信


これは メッセージ 34948 deliciousicecoffeeさんに対する返信です





でりちゃん資料は公平に見よう 2005/11/26 6:47 [ No.34967 / 39216]

投稿者 :
ja2047



>そもそも、日本軍による占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺なんてあった筈がない。

だから、これが妄想、資料的には事実の裏付けがない。


>今回は、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜には、南京に残った約20万人の市民ほぼ全員が安全区に避難していて無事だったことについて検証する。

その検証が、事実に基づいて論理的に行われることを期待したいものだ。


>12月8日
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に終結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
1937/12/8NYタイムズ(ダーディン)(アメリカ資料編P390)

そのダーディンが12月19日のNYタイムズ記事で
「一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われる。」
と書いていることを無視してはいけない d(^^


>12月11日
 今日の午後、パナイ号が移動する前に我々は、警察官が川岸で渡江して避難する準備をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。
(アメリカ資料編P101~102)

警官がいないだろうから市民がいないだろうというのは無茶苦茶な理屈だ。
これは報告者がそんなことを言ってるのではなくて勝手な推論じゃないか。
実際には安全区に何百人も警官が残っていたし、実はこの次の日も、パナイ号の
周りにはまだ難民がウロウロしていた様子がちゃんと映像で残されている。
http://otd11.jbbs.livedoor.jp/1102321/bbs_plain
映像記録を無視して、原報告者の言ってないことを勝手に主張してはいけない d(^^


>12月12日
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)

ミニー・ヴォートリンは12月17日の日記に次のように書いている、安全区外が無人だったなら、
なんであとからあとから安全区に押し寄せてくる人がいるのかな?
「終日押し寄せる大勢の避難民の面倒はとても見きれない。たとえ収容スペースはあっても、うまくやっていけるだけの体力がない。金陵大学側と話をつけて、大学の寄宿舎のうちの一つを開放してもらうことにした。終夜勤務の外国人当直者一名を配置してくれることになっている。」

史料のつまみ食いはいけない d(^^


>12月13日
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
 こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2~3人いるだけになりました。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」

この文章はさらに
「中国側によればまだ中国人が大ぜい安全区の外に隠れているという話でしたが、これは確かめることができませんでした。」
と続くのだけど、
それをカットして自分の都合のいいところだけ引用してはいけない d(^^
 

返信


これは メッセージ 34962 deliciousicecoffeeさんに対する返信です





人口は「増えた」のか? 2005/11/26 6:48 [ No.34968 / 39216 ]

投稿者 :
ja2047



でりちゃんが「人口が増えているではないか説」を持ち出したとき
「またか」 と思った人も多いのではないかと思います。
いろいろな人が何度もきちんとした説明を書いているのですが、
いまだに↓こういう主張をする人が跡を絶ちません。

・南京の人口は陥落後1ヶ月で20万から25万に増えた。
・ひどい虐殺が行われていたのなら、これはあり得ない。
・彼らは日本軍の保護を求めて帰ってきたというのが事実だ。


言うまでもないことですが、このお話が成立する前提には
1) ラーベ達は実際に人口が増えたと言っている。
2) ラーベ達は難民救済のため、人口を正確に把握していた。
3) 安全区以外の城内は無人であった。
4) 虐殺は、ほとんどが南京城内で行われた。
5) 大規模な城内への流入が可能であった。
 という背景が必要です。


実際には、これらの主張はすべて、資料のごく一部を恣意的に解釈したもので、全く根拠がありません。
以下、一つずつ確認していきましょう。

1) ラーベは人口が増えたと言っているのか?
ジョン=ラーベの日記 38年 1月17日
「昨日の午後、ローゼンと一緒にかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。
日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。(中略)
難民の数は今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。
かれらは、どこに行ったらいいのかわからない。」
(南京の真実 講談社文庫 P216)

ラーベ日記によれば、
「日本軍の保護を求めて城外から帰ってきた」のではなく、 
南京城内の安全区以外のところに隠れていた人たちが、
「日本軍による破壊から逃れて逃げ込んできた」のです。


2) ラーベは人口を正確に把握していたのか?
上記1月17日の日記に25万人の数字が出てくる3日前、1月14日付の手紙に
ラーベは次のように書いています。
W・マイアー社長の1月3日の手紙への1月14日付の返事
「・・今まで、給食所や食糧の配給所などを設置して、安全区にひしめいている20万の市民を
どうにか養ってこられました。・・・」
(南京の真実 講談社文庫 P208)
これが、1月17日の日記では、下記のように25万になっているわけです。
「今や二十五万人と見積もられている。増えた五万人は廃墟になったところに住んでいた人たちだ。」

ラーベが常に人口を正確に把握していたのなら、3日で5万の人が増えたことになります。
後述するように日本軍が城門の通行を制限している中で、このようなことはあり得ません。

だいいち、次に示すように、ラーベは「予想が間違っていた」と明確に書いています。
「ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと二十五万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。」
(ヒトラーへの上申書 ジョン=ラーベ 1938年6月8日 「南京の真実」 講談社文庫 P342)

ラーベは人口を正確に把握していたわけではない。 自分でも見込みが間違っていたと書いています。

 

返信


これは メッセージ 34967 ja2047 さんに対する返信です





人口は「増えた」のか? 続き 2005/11/26 7:03 [ No.34969 / 39216]

投稿者 :
ja2047



3) 安全区以外は無人だったのか?
安全区外に多数の人が残っていたという多くの記録があります。
「日本軍の砲弾が新街路近くの一角に落ち、一〇〇人以上の死傷者を出した。
一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われる。
その死傷者数は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。安全区の非戦闘員の食料は、
中国軍の瓦解により供給が完全に絶たれた。」
(ニューヨークタイムズ記事 1937年12月19日 ダーディン)
「こうして、安全区を別とすれば、南京市は人気がなくなり、われわれ委員会メンバー、
わずかのアメリカ人記者、取り残されたヨーロッパ人が2,3人いるだけになりました。
中国側によればまだ中国人が大ぜい安全区の外に隠れているという話でしたが、これは確かめることができませんでした。」
(ヒトラーへの上申書 ジョン=ラーベ 1938年6月8日 「南京の真実」 講談社文庫 P344)
「市街では住民を見なかったが、大隊本部の宿舎付近の民家の奥には、各家に一~二名の住民が残っており、
残した家財を見張っていたようである。本部の兵が食糧徴発に行って、”奥の方に人が居た”と言っていた。」
(佐藤増次 歩兵第九連隊第一大隊本部先任書記「証言による南京戦史(8)」『偕行』1984年11月号 P7)
「残留住民は家の奥の方にはいたようであるが、街路両側の民家は戸を締めており静かであった。
本道上には障碍物はなかったが、中央ロータリーのところにトーチカ式の銃座があった。」
(城島赳夫 戦車第一中隊長 「南京戦史」P192)

安全区外にはまだ人がおり、それが安全区に避難してきたのです。


4) 虐殺はほとんど城内で行われたのか?
紅卍字会の埋葬記録、4万1千のうち、城内で収容した死体は全体の4.2%
その数に疑問を挟む人の多い崇善堂の11万体に対しても城内の死体は6.7%です。

圧倒的に城外の死体数が多く、中国側の主張でさえ、「城内で大虐殺」とは言っていません。


5) 城内への人口流入は可能だったのか?
日本側の記録では、城門の通行は厳しく制限されています。
「又、城内外の通行は食糧問題解決、城内清掃を俟って一般に許可する予定なるか、
目下は城内外にある家族との関係其他を考慮し、城外近傍の者にのみ其の自由を若干
認めあり」
(『華中宣撫工作資料』南京班第一回報告(一月二十一日提出)
「難民の城門の通行に関しては厳重に之を制限しありしも
情勢の推移に鑑み漸次之を緩和し二月二十五日以降無制限通行を許可したり 」
(『華中宣撫工作資料』南京班第二回報告 二月中状況)

城門を日本軍が封鎖しているので、大規模な人口流入はあり得ません。

 
以上、城外から避難民が帰ってきたので人口が増えた、という説が成り立たないことは、理解いただけると思います。


 

返信


これは メッセージ 34968 ja2047 さんに対する返信です





Re: 南京虐殺は嘘0 真人間の証言7、8 2005/11/29 20:57 [No.35044 / 39216 ]

投稿者 :
ja2047



>空腹な捕虜に牛蒡を食べさせたら戦後「木の根っこを食べさせられた!」とかいわれ極刑、病気の捕虜にお灸での治療をしたら「火あぶりにされた」といわれて逮捕…なんかざらですからね。本当に罪があろうとなかろうと連合軍に目を付けられればそれくらいでなっちゃうと思いますよ。

国際法における捕虜の扱いというのは「自軍の将兵と同等の待遇」というのが原則ですからね。
食いもんが悪いというのは当然言いがかりですし、「怒鳴られた」だの「殴られた」だの
「こき使われた」だのというのは、公平に見ればちっとも「国際法違反」ではないんですよ。
日本軍の自軍将兵に対するスタンダード通りの扱いは国際法違反ではないと思いますね (^^;


ただ、南京攻略戦では万単位の捕虜の殺害が日本側記録にも残っていますので、
責任者の処罰が話題になるのはやむを得ないでしょう。
松井大将は何も「殺せ」と言ったわけではないですが、防げなかったのは事実ではあります。

返信


これは メッセージ 35042 rugaruga12 さんに対する返信です






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