人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものである。
しかし、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強くその運命と戦えば、
いつかは必ず勝利するものである。
ならば私は?
因幡てゐという、ただのしがない妖獣一匹が運命などという不明瞭な柵をどこまで受け止められる?
少なくともこのバトルロワイヤルに、そんな綺麗事は通用しない。
ジョセフを信じたところで、ジョセフが信じた私を信じたところで、ここでモノを言うのは結局のところ『暴力』だ。
目の前の大妖を屠ることなんて、私一匹には不可能。そんなことはとうにわかりきっていた。
香霖堂で起こったこの悪夢の遊戯……脳裏に刻まれたこの一分一秒が、私に何をもたらしてくれるというのか。
あぁ……私は一体どうしてこんな場所にいるんだ。ここは何処なんだ。
シュトロハイムも、霖之助も、とうとうジョセフまでもやられた。
私は一体どこへ向かって歩けばいい? 妖怪として永く生きた身で、こんな局面に立ち会ったことなんて無い。
脆くも釣り合っていた足場がガラガラと崩れ始め、底の見えない奈落へと落ちていくようだった。
深い迷宮へと堕ちゆき、そして最後に待ち受けるものは『死』。生物が最も忌避する地点だ。
助けてよ……誰か、私を助けて………………
「―――助けて欲しいか?」
私の意識をハッと現実に引き戻したのは、よりにもよってコイツの一声。
迷宮を彷徨う化け物、
八雲藍ののどやかな声だった。
「最初に言っただろう。お前が負けても殺すことはしないと。
ほんの少し私に『協力』してほしいだけだ。何を怯える必要がある?」
既にして感情を失ったような顔の橙が、カードを再び一枚一枚配る。
『第二回戦』の準備だ。正真正銘、私と藍の一騎打ち。最後の勝負。
初戦で負けたのがジョセフである以上、藍が私たちを『全滅』させるにはあと一戦行う必要がある。そのための最終段階。
私は俯いた顔でチラリと隣を覗いた。首輪が発動してしまったジョセフがピクリとも動くことなく床に倒れている。
ここで私が藍に勝たないと皆殺しにされる。藍は私を殺しはしないと言ったが、ありえない。きっとボロ雑巾のように使い果たされた末に惨たらしく殺されるだろう。
それでも私は藍の言葉に縋り付かずにはいられなかった。
「……た、助けてくれるの? 本当に? 私だけは殺さないっての……?」
「あぁ助ける、約束しよう。お前が協力してくれるのならばこんなゲームなど行う必要はないし……どうだ? そろそろ互いに疲れたろう」
まるで悪魔の囁きだ。嘘吐きの私にはすぐ分かる。コイツは約束を守る気などさらさら無いってことが。
でも橙と同じに、私の心だってとっくに擦り減っていた。こんな世迷言に耳を貸したくなるくらいには、ボロボロに。
そんな上も下も分からない奈落に堕ちゆく私にも、微かな理性くらいは残っている。
まだ私は負けたわけじゃない。ここで藍に言い伏せられ、自ら白旗を上げる馬鹿な真似をする前に。
思考しなきゃいけない。考えるべきことはまだ残っているんだ。
あれだけジョセフに懐いていた橙が、とうとうジョセフのリモコンを押したという事実。疑問の余地は完全に無くなった。
橙はやはり藍によって半ば強制的に操られている。その能力によって、橙は藍に抵抗できないでいる。
しかし推測したとおり、藍の能力も完璧じゃなかった。現にこうして藍は、私と第二回戦など行う準備を進めているじゃないか。
能力が完璧ならゲームなど行うまでもなく、暴力によって強引に私を屈服させればいい話。
それなのに自らの身を勝負結果に委ね、あくまでルールの中で私を打ち負かそうとしてくる。何故か?
言うまでもなく藍自身の首にも『首輪』は巻き付いているからだ。取り決めたルールを違えば、橙は主人のリモコンすらも押すはずだ。
つまり、もしも私が勝負の中で藍に勝てたなら……
(皆を救える……もう、そう思うしかない)
確証なんか無かった。でも、もう残された道はそれしかない。
誰も好き好んで困難や無謀に飛び込んでるわけじゃない。だがそこから逃げ続けたら人はどうなってしまう?
人生でいずれ来るかもしれない本当の困難に立ち向かえず、負けてしまうんじゃないの?
ほんのりと、ジョセフのいけ好かないニヤケ面を想起する。勇気はほんのちょっぴり、確かに貰った。
私はこの瞬間から逃げずに立ち向かってみせる。
人間は何万年も、明日生きるために今日を生きてきた。
妖怪として生き続けた私は、それをずっと見守ってきたんだ。
そろそろ私も逃げるのをやめなければいけない。脅威に立ち向かう時が来てしまった。
『明日』を得るために。
『今日』を生きるために。
化け物を討ち倒すのはいつの世も『人間』。
世にありふれた数ある物語……謳われ古されども、決して廃れることの無い定番の英雄譚。
この物語は、そんなひとりの人間が化け物に立ち向かう物語であり。
しかしいつの世も物語という物は人の手で綺麗に書き直された、都合の良い『偽り』の英雄譚でしかない。
「―――私よ」
「……ん?」
「私を助けてくれるのは……貴方なんかじゃない。私なんだ。
私は……私自身の力でみんなを助けてみせる。貴方のような“独りぼっち”なんかには、絶対負けない」
逃げるのも、命乞いも、もうやめよう。
この女に―――勝とう。
私なら勝てるって言ってくれた、貴方を信じるよ――――――ね? ……ジョジョ。
「……底辺妖怪風情が。その言葉、今に後悔させてやるぞ」
独りぼっちなんて言われて逆上したのか。九尾の纏う殺気が格段に鋭さを増した。
いいよ、上等。
負けりゃあ皆殺し。勝てば……人を舐め尽したその態度、土下座させて許しを請わせてやる。
私とジョジョに。霖之助とシュトロハイムに。そして当然、橙にもだ……!
◆ 香霖堂戦闘潮流最終遊戯最終戦 ◆
因幡てゐ 対 八雲藍
――最終遊戯開始――
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
八雲紫の眷属、八雲藍。かつて都を恐怖に陥れたらしい、九尾の大妖怪。
そんな大物相手と、私みたいな弱小妖怪の、一対一の真剣勝負。全身全霊で臨む、最後の大勝負。
思えば今までの私はどこか中途半端な気持ちもあったかもしれない。
この勝負を最初に提案したのは私自身。にもかかわらず私は、心の底ではジョジョを頼っていた。頼り切っていた。
地に足の着いてないフワフワした心持ちで挑んだ第一戦は、ジョジョの敗北という形でケリがついてしまった。
覚悟してきたつもりでも、その実私はこの藍相手にまともに向き合っていなかったんだ。
きっと、だから負けた。礎となったのはジョジョ。私ではなく、彼だった。
でも今度こそは違う。頼っていたジョジョに、頼られてしまった。霖之助だけじゃなく、ジョジョにまで背負わされた。
勝ちたい。絶対に、負けたくない。
破裂しかねない心臓の鼓動を抑え、一旦頭の中を強引に片付け整理し直す。
今回のジジ抜き、まずさっきと決定的に違うのは一対一。すなわち『人数』だ。
全52枚の札からジジという1枚の災厄のみが除かれ、26枚と25枚に分けられたセットが両者に配られる。
結論から述べるなら、初期の時点でどっちにジジが混ざっているか……それは簡単に『判別可能』だ。
ズバリ、『ペアを捨て終え、最初の手札が多い方がジジ持ち』だ。この論理は絶対のはず。
単純なことだが、二人でババ抜きジジ抜きをやれば、自分の揃えるべきペアの片割れは全て相手が同じ枚数持っていることになる。
そして必ず1枚だけ余るジジ。これを持った奴が手札に+1されるわけだから、相手が自分より1枚多ければ相手が、自分が1枚多ければ自分がジジ持ち。
今……自分に配られた全手札をざっと数えてみたら『26枚』あった。つまり向こうが『25枚』のセット。
この時点ではまだ分からない。これからペアを全て捨て、どちらの手札が1枚多いかでジジ持ちが決まる。
バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ
(ジジ来るな、ジジ来るな、ジジ来るな、ジジ来るな、ジジ来るな、ジジ来るな、ジジ来るな、ジジ来るな、ジジ来るな……!)
バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ
念仏のように祈りを捧げ、太鼓のように心臓が響き、滝のような汗を流し、私は神にも縋る気持ちでペアを捨てていく。
たった二人でやるジジ抜きだ。この段階でほとんどの手札が捨てられる。
(…………残った手札は『2』『4』『5』『9』『10』『Q』の6枚……、そして……!)
藍の手札枚数を確認する……んだけど、怖い。心臓が口から飛び出てきそうだ。
相手が『5枚』ならジジ持ちは私。『7枚』なら藍がジジ持ち。
その中のどれかに1枚だけあるジジ。それ以外は、引けば100%でペアになる。
ようはジジさえ引かなければストレートで勝てるというのが一対一ジジ抜きの理論だ。当たり前だけど。
そして私は、このゲームが始まる遥か前から『備え』は既に完了させている。
(やれることは既にやった……! 後は『アイツ』次第……! だからお願い! 私にここ一番のツキが欲しい!)
まず乗り越える関門。それは単純明快の『運』。ツキがあるかどうかだ。
私の『仕込んだ策』は、大前提として自分にジジが配られていないことが第一条件。
勝負が始まる前のこの段階で自分にジジが配られていれば、策はいきなり破綻。藍相手に何も出来ずストレート負けの可能性すらある。
だからここ! 勝負はいきなり大詰めなんだ! 頼むぞ私の幸運! ジジなんて死神は私には合わないでしょう……!
「では……私から引かせてもらうか。てゐ、手札を出せ」
偉そうに命令する藍の声で吹っ切れた。憎き敵の手札を確認すると……!
(……ごー、……ろく、……なな! 『7枚』! ジジ持ちは藍の方だ!)
最初に自分にジジが配られるという、最も恐れていたパターンは回避できた。己の幸運ながら惚れ惚れするね。
後は……『アイツ』だ。アイツがきちんとやってくれるかどうか。ここからが勝負……!
「……『9』のペアだ。さあ、次はお前が引く番だぞ」
最初の藍のターンは劇的な何かなど起こらず、普通に取られて普通に揃われ終了した。
これで私は残り『5枚』、藍は『6枚』。私がジジ持ちの藍に攻撃するターンだ。
「どうした? どんなに考えても現時点でジジがどれかなど分かりはしない。どれを引いても確率は同じさ」
藍が手札をずらりと威嚇するかのように見せ付ける。
そう、確かにコイツの言う通りだ。どちらがジジ持ちかは分かっても、どのカードがジジかまでは分かりっこない。
ジジ以外を引けば必ず揃うというのが二人ジジ抜きの必然。なら逆に言えば『引いて揃わなければその札がジジ』で確定するということ。
私の手持ちにジジは無いはずだから、藍が持ってる。6分の1で私はジジを引くかもってことだ。
―――普通に引けば、だけど。
そんな博奕、私はごめんだ。通常ならともかく、コイツ相手だと心理戦に引き込まれる。
だから『策』を仕込んだ。今はただ、祈るしか出来ない。
瞼を閉じて、暗闇の世界に身を投じて、私は待つ。藍の言葉なんかに惑わされるな。
己のツキを信じて、『アイツ』のことを信じて、私はひたすら待つ。じっと、動かずに。
「……おい。いつまでそうしている? さっさと引けと…………」
「―――うるさい。引くタイミングなんて、私の勝手でしょ。……こっちは後が無いんだから、少し黙ってて」
九尾の舌打ちを耳に入れ、私はもう一度押し黙った。
信じろ……! どっちにしろ、この敵は私“ひとり”じゃ絶対に勝てっこない。
だから、今は信じて待とう……!
バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ
バクンッ バクンッ バクンッ バクンッ
バクンッ バクンッ
雨の音と、心臓の音だけが脳の中を反芻する。
治まれ、私の心臓……! 頼むから、今だけはちょっと静かにしてなさいよ……!
バクンッ……
バク…
( トン… トン… )
――――――ッ!
き、『来た』ッ!
確かに今! 二回鳴った! や、やった!
その音を聞くや否や、渾身の勢いで私は藍の手札、その一番右を奪い取ってやった。迷いなく、噛み付くように。
「―――クラブの10。藍、私が引いたのは、『10』だ!」
「…………」
藍の顔から余裕が消失した。訝しむように私の顔を凝視する。
ヤツの疑問なんか無視しながら私は揃えた10のペアを捨てた。これで残りは4枚。
願った甲斐があった。備えた甲斐があった。初めに植えた『種』はここに来てとうとう芽吹いたんだ。
これなら……もう負けない!
「さ。引きなよ藍。そう気構えないで、楽にいこうじゃない」
「…………キサマ」
何をした?とでも言いたげな顔だねぇ。
でもね藍。アンタだって橙を利用してイカサマしてたんだ。だったら私だって使える物は老婆だって使ってやるさ。
イカサマってのは私やジョセフみたいな詐欺師の専売特許。イカサマだってバレなきゃイカサマにはならないんだよ。
兎だって七日なぶれば噛み付くんだ……!
―――噛み付いてやるッ!
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
不穏。
この状況に藍は、そんな不確かな疑念を体感しつつも表面では取り繕っていた。
胸中ではてゐに対する疑いを高速で分解、解明するように思考を続けながら。
先の修羅場とは一線を画すかのような現在は、不自然なほどに平静。その安穏さこそが不穏だと藍は察知したのだ。
(さて……理論上、今の私の手札にはジジがあるはず。それはどれだ?)
先の三人ジジ抜きではそれぞれに1枚ずつ『J』が配られるという偶然により、いち早くジジの数字を解き明かせた。
今回の二人対戦は違う。どうあっても最初に配られる段階でジジを含める全ての数字にペアが発生する。例外は無い。
即ち、現時点でジジがどれかは藍ですら知り得ない。しかし目の前の兎に、迷いは見られなかった。
その機敏な動作が、藍に警戒を与える。てゐが『何か』をやっているのだと。
己の手札にジジがあるのなら、藍がてゐの手札のどれを引いてもペアは出来る。そういう意味では確かに気構える必要はない。
よって藍は素直にゲームを進めた。所詮はこの遊戯、引くことのみを終始続けるルール。実に単純である。
引いて、揃えて。引かれて、揃われて。
そんな行為を何巡かやり終え、いつしか両者の手札は瞬く間に捨てられていった。
―――そして現在、藍の手札は『2枚』まで減り、てゐの手札は『1枚』となっていた。
てゐの引くターン。ここでてゐが藍の2枚の中からジジを引くことなく終われば、てゐの勝利だ。
不可解なのはここまでてゐが引いたカードが全てペアで捨てられたこと。つまりジジを一度たりとも引かなかったのだ。
確率的にはなんらおかしいことではない。ましてや相手は幸運の白兎なのだ。
だが藍はこの事実を『運』のみで切り捨てられるほど馬鹿ではない。
結論は、こうだ。
『てゐはどういう方法かでジジを見抜き、手札を見透かすかのようにそれを回避している』
奇しくも藍がジョセフ相手に行っていたようなイカサマの内容だ。
だが藍とて死角からの『覗き見』など真っ先に警戒しているし、八方に対し警戒網を張っている。
それでもてゐはジジを引かなかった。土壇場で悪徳兎の本領が発揮されたというわけだ。
「これで最後だ、藍。手札を出しなよ。……この勝負、私のストレート勝ちだ」
明らかな挑発。下克上を為し得ようと、調子に乗った弱者の戯言。
九本もの尾がざわりと総立つも、あくまで冷静に努める。
事態は単純だ。手札の『4』と『J』……2枚の内1枚がジジ。
このゲームは道中がどうであれ、最終的には必ず2枚と1枚の勝負になる。
単なる2分の1の戦い。50%を引くか引かないか。または引かせるか引かせられないかが境界線の遊戯だ。
しかしこのゲーム、ただの確率勝負には収まらない。
てゐが一体『何を』やっているか、藍にとって最も重要なのはその一点。
「―――少し空気が悪くなってきたな。窓でも開けるか」
取り留めのない藍の言葉。すっと椅子を立ち、窓に向けて足を動かそうとする。
どうということもないその内容に、動揺を示したのはてゐだった。
「え……!? ま、窓開けちゃうの!?」
「そうだが……不満でも?」
「い、いいよいいよ空気なんかどうでも! それより早く手札出しなさいよっ!」
「お前は良くても私が居心地悪いんでね」
「だ……ダメダメ! 席を立つフリしてなんか仕掛けようたってそうはいかないよ!」
「……だったら橙。お前が窓を開けてくれないか?」
窓を開ける。
たったそれだけの行為にてゐは大げさに拒否反応を示した。
その反応を見て藍は―――ほんの一瞬、笑む。
「え……で、でも藍さま……」
「橙。……“窓を開ける”だけだ。早くしろ」
主人の威圧に抗えるはずもない橙は、そのまま命令を実行した。
小さな足でパタパタと、香霖堂の窓まで近づいて行き。
小さな腕でよいしょと、取っ手に手を掛け鍵を外して。
ガタンと、開かれる。外の世界から、冷たい空気が店内へ流れ始める。
「雨が……強くなってきたな。さて、お前の番だったか。引くがいい、ペアを引ければお前の勝ちだ」
ずいと差し出された藍の手札を、てゐは直視出来ずに俯いていた。カタカタと身体の震えが、臆病兎の全身を襲いだした。
てゐは……藍の手札を引けずにただ、怯える。
―――ザアザアと降り頻る雨の音が、耳に障って鬱陶しい。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
『
森近霖之助』
【数十分前】D-4 香霖堂
『貴方の言いたいこと、今はわからないけど……でもこっそり聞いて。
『トン一回で左。トン二回で右』……だ。“その時”になったら死ぬ気で指動かせ。貴方の指示通り動くから。
私の言いたいこと、わかるよね?』
“あの時”……この僕、森近霖之助が朦朧する意識の中、因幡てゐから受けた指示。
『何のことだ』とは聞けなかった。もはや今の僕には口を開く力すら残されていないのだから。
この首輪の神経毒とやら、身体の自由こそ奪われるが意識までは奪わないらしい。矢毒の一種だろうか。
だがそれが僥倖でもある。おかげで“彼ら”のプレイングを何とか観戦することは可能だった。
遊戯種目は『ジジ抜き』。カードゲームの一種だ。
橙の配り終えた札がジョセフ・てゐ・藍のそれぞれに行き渡ったのを見て、僕は初めててゐの話した意図を理解出来た。
(なる、ほど……『そういうこと』かい、てゐ……!)
突然だけどここで僕が持つ能力を説明しよう。
『道具の名前と用途が判る程度の能力』。詳細は、名前の通りだと思ってくれ。
物を見ただけで名前と用途が頭の中に情報として入り込んでくる。もっとも使用方法までは分からないので何とも使い勝手は良くないのだが。
ここまで言えばわかるかな。僕は『見ただけでカードの名称が分かる』んだ。当然、裏表関係なく目視することのみで能力は発動する。
カードの裏からでもその数字や絵柄が分かってしまうんだ。ことカード勝負に関しては、ハッキリ言って僕は抜群に強い。
テーブルに座る三人それぞれの手札を見比べれば、どれが『ジジ』なのかもすぐに分かる。ジジは3枚しか場に無いからね。
『トン一回で左。トン二回で右』というてゐの言葉はつまり、『ジジがどれかを音で知らせろ』という意味だった。
当然、この場の全員に聴かれるような大きな音を出すわけにはいかない。八雲藍は恐ろしく狡猾だ。
従って僕は、兎であり聴力に秀でたてゐだけに聴こえる程度の『小さな音』を出し、彼女が引くカードを誘導しようと考えた。
床を指でトンと『一回』叩けば左。『二回』叩けば右のカードを取れ、という指示になる。
困ったのは第一戦。この勝負の殆どの時間、ジョセフがジジを持ち続けていたのだ。
ジジ回避の信号はジョセフには聴こえないし、聴かせたところで意味も無い。
もはや僕が出来ることなど永遠に来ないのかと悔しがったが、ゲームは第二回戦……てゐVS藍の運びとなった。
一対一なら僕とてゐの共同策が通じる。最悪なのは最初の段階でてゐにジジが配られ、藍がそれを永遠に引かないパターンであったが杞憂だった。
(てゐの手札は……『2』『4』『5』『9』『10』『Q』! 対して藍は『2』『4』『5』『9』『10』『J』『Q』!
ジジは……藍が持つ『クラブのJ』だ! や、やった……!)
今日ほど自分の微妙な能力に感謝した日はない。
僕はてゐの引く順になると死ぬ気で指を動かした。痺れる身体に強引に鞭打った、その成果が達成された。
( トン… トン… )
指は何とか動いた。この音は果たしててゐに届いたろうか。
藍の6枚となった手札、僕とてゐから見てその左から三番目にジジであるJが潜んでいる。
トン二回で『右』だ。一番右を取れ、てゐ!
「―――クラブの10。藍、私が引いたのは、『10』だ!」
と……届いた! いいぞ、てゐ! これを続けていけば勝てる! てゐはもうジジを引くことは一生ない!
これなら……もう負けない!
そして次。藍が引く番。彼女はどれを引いたって同じだ。100%ペアが揃う。
藍は『スペードのQ』を揃え、残り4枚。てゐは3枚。
( トン… )
次はてゐの番。『トン一回』、今度は一番左だ。『ダイヤの5』!
指示通り5を揃えたてゐは残り2枚! 藍は3枚!
そして再び藍の番。彼女はてゐの『ハートの2』を引き、残りは2枚!
てゐは残り『1枚』! これで次の手巡、藍の『4』『J』の2枚から4を引かせれば……
僕たちの勝利だ!
「―――少し空気が悪くなってきたな。窓でも開けるか」
…………なに? なんだって?
突如藍が放った言葉に、僕の背筋は冷たくなった。
窓を開ける……? 窓……なぜ?
外…………は、
(ぐっ―――――!?)
し、まった……! まさか、藍は!
く、そ……! もう少し……あとちょっとなのに! くそ……っ
てゐ………!
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
ザァー ザァー
ザァー
ザァー ザァー
ザァー ザァー
ザァー ザァー
ザァー ザァー
ザァー ザァー
ザァー ザァー
や ら れ た っ …… !
幻想の都に流れる雨の音をこれほど憎らしく思ったこともない。
藍の一計により、てゐの耳を通り抜ける音は外で降り続ける雨音と、氷のような悪魔の嘲笑の二つに絞られた。
(クッソ!? 藍め、私たちの『策』に気付いたな……ッ!)
思った以上に激しさを増してきた外の雨が、てゐの聴覚を狂わせる。
昆虫の羽音のようなノイズにより、霖之助の起こす合図を完全に見失ったのだ。どれだけ集中して耳を働かせても、もう聴こえない。
ダメだ。ここまで来て八雲藍の持つ暴力的なまでの賢に策を潰された。殴ったら倍にして殴り返してくる、執念ともいえる頭脳だった。
考えてみれば自分にすら考案できた策。霖之助の能力を知っている藍相手に看破されない道理は無かったのだ。
狐の聴力というのは人間など比にならない位ズバ抜けている。二万サイクル以上の高い音も聴き分けられる、とかなんとか。
最初から最後まで筒抜けだった。霖之助の送った合図は、藍にも届いてしまった。
(くそっ! くそっくそっくそぉ! 何で……なんだよ、コイツはぁ! 何の為に今まで……霖之助と協力してまで……!)
嘘は、吐き慣れたものだった。
他人を騙すことなど、日常の性だった。
騙し通せる自信があったという妄想は、全て驕りだった。
八雲藍に騙しは通用しない。思い知らされた事実は、冷たい雨となって心に澱んだ。
「さ。引くがいいさてゐ。確率は単なる2分の1だ。お前ほどの幸運者なら朝飯前の数字だろう?
そう気構えないで、楽にいこうじゃない」
2分の1……? ふざけるな、これはもはや確率の戦いなんかじゃない。
精神同士の相撲。先に敵を叩きつけ、土俵外に押し出した者が勝つ“論理”の戦いだ。
何とかして勝利への『糸』を掴まないと、堕ちる先は地獄の釜底。
たかが50%。だがこのターン、どこかで利を得なければ当てられる自信なんか全く無い!
(頼む霖之助! 頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼むから! 何とかして私にまで『音』を届かせて!)
形振り構わず全神経を己の耳に集中。霖之助が放つ合図を聴き逃すまいと目を閉じて、パターン化した雨音の波長を脳から除外。
今や彼無しで藍の持つジジを回避する手段が思い浮かばない。てゐにはこの策しかなかった。
後方を見て彼の合図を直接視認するなど論外。そんなあからさまな行為を藍は許したりしない。
逆に言えば、今は隙があるということだ。藍にはてゐのイカサマの見当は付いているが、証拠が無い。このイカサマの立証方法など、てゐか霖之助の自己申告以外に無いのだ。
だから藍は窓を開けるという、不充分な策潰しに打って出た。それこそが唯一の隙だった。
(治まれ私の心臓! 今だけは……『音』に集中させてよ!)
ザァー ザァー
ザァー
ザァー ザァー
ザァー ザァー
ザァー ト―… ン ザァー
ザァー ト―… ン ザァー
ザァー ザァー
ザァー ザァー
(――――――ッ!!)
今、確かに……!
トン、トンと……『二回』! 雨に混じって……聴こえた!
「右だ藍ンンーーーーーーーーッ!!! 私は『右』を選ぶッ!!」
光明。
雨空から覗いた、一瞬の僅かな隙間からもたらされた光。
てゐの粘りが、希望の光に届いた。
「――――――『J』だ藍!! やった!! この勝負、私の」
………………………………は?
待て。……『J』。ジャック。くらぶの、じゃっく。ジジ。
私が持つ最後の1枚は『4』だ。だったら引いたこのカードの数字は4じゃなけりゃおかしくない?
ペア、じゃない。揃って、ない、んだけど。
え……? 霖之助の、指示は、『トン二回』……
確かに私…………聴いて……………………
なんで。
( トン… トン… )
聴こえる筈のない、再びの合図。その音の出所が、判明した。
目の前で、笑いを堪えるかのように、口を結んだ、
八雲藍が、面白そうに、
テーブルを、
指で――――――
「ぷ……くくっ……くすくす……! あは、あはははははっ!! あーーっはっはっはっはっはっ!!!」
あぁ、こんな悪魔にも心から湧き立つ笑顔ってのはあるんだな。
心底愉悦を浮かべる彼女とは対照的に、私の顔は多分、今日一番の絶望に歪んでいる。
「あはははははは! はぁー、はぁー……! いや、失敬失敬! 『コレ』は私が考え事する時のクセなの。
つい今、そのクセが思わず出てしまったんだ。お前の選択を邪魔するつもりは無かったのよ? くっくっく……!」
コレ、などと言いながら人指し指を卓上に“トントン”と叩く彼女の姿は、本当に朗らかに破顔している。
こうして見てみればその姿、極上に咲き乱れる菊の花。美女の笑みというものはこうも破壊力を伴う魅惑を写した絵になるのか。
何気に素の口調までチラリと覗いている。油断、というよりも、舐められているのだろう、私は。
そんなどうでもいいことが過ぎるくらいには、私の脳内は一転、静まり返ってしまった。
「しかしまあ、河童の川流れというか、天狗の飛び損ないというか、お前のような幸運兎もしくじるという事か。
まさかたった2分の1ぽっちの確率も掴み損なうとは。もっとも、私にとっては絶好のチャンスと相成ったわけだが」
雨空から覗いた光明は、九本の尾によって遮られた。
霖之助の合図の内容を察した藍はただ、『偽の合図』を送り出しただけだった。
『トン一回で左、トン二回で右を取れ』という裏の信号をすぐさま理解したのち、ジジが『J』なのだということも把握したのだ。
この合図を理解してみれば、私は明らかに『J』を避けていたのだから。それを利用してわざとジジを引かせたということか。
目を閉じて、必死に耳を立てている滑稽な私は、そんな単純な妨害にも気付かず、まんまと偽の誘導に引っ掛かってしまったワケだ。
普段通りの状態ならまだしも、荒れに荒れた私の心模様には、あまりにも簡単に通じてしまった子供騙し。
藍はそこまでを計算して挑発してきたのだ。言い訳しようも無い、体たらく。
―――これで、私がジジ持ち。そのうえで、この女に攻撃権を持たせてしまった。
(あ、はは……っ 致命傷かな、こりゃ…………)
自嘲の笑みすら漏れる。
藍の攻撃とて単純な2分の1を攻めるに過ぎないが、このターン、もはや運のみに縋るのでは負けの道しか見えない。
相手がその崇高な頭脳で行ったように、『勝ち』への方程式を解きださないとすぐに負ける。
方程式? 私が、この脅威の知恵者と、方程式で戦う? 無理だ。
きっとコイツはただの運だけで勝負はしない。何かしら『策』を仕掛けて、私のカードを取ってくるに決まっている。
引き摺り出される。心理戦などというドロ試合に。奴の独壇場に。
『J』か『4』か。4を取られたら敗北確定。絶対に、何としたって、コイツにJを取らせないと駄目。
皮肉な話だ。不幸の数字の代名詞である『4』を死守しなければだなんて。私には最も似合わない数字だってのに。
「さあて」
考えろ考えろ考えろ考えろ。
「今度は」
どうする。コイツにJを取らせる方法。どうする考えろ。
「私のターンだ」
今この瞬間に考えないと負ける! 殺される! 考えろ! 考えるんだ!!
「手札を出せ」
防御策! コイツの極悪な攻撃から身を守る防御方法を!!
「因幡てゐ」
どうする!? イカサマ!? 降参!? 逃亡!? 交渉!? 諦める!? 正々堂々!? 考えろ! どうする!!
「ま……待ってよっ! ちょ、ちょっと、待って……!」
「“引くタイミングくらい自分で決めさせろ”……お前がさっき私に言った言葉だぞ?」
「わかっ……わかってるよ! でも、少し…………そ、そうだ! シャッフル! カードの位置を……シャッフルくらいさせてよ!」
「たかが2枚の手札だ。時間を掛けるものでもないだろう」
「いいだろ別に! こっちゃ命懸けてンのよッ! 念入りに……念入りにシャッフルさせ、させて……っ」
半ばヤケクソ。渋る藍を強引に説き、私は手札を持つ手を慌ててテーブルの下に隠し入れた。
絶対に、何があっても、万が一でも、藍相手に手札を探られる可能性は残したくない。
たった2枚だけども、とにかく滅茶苦茶にJと4を織り交ぜる。目を瞑って、完全にランダムに!
前方の藍が呆れたように、かつ見下すように息を吐いた音が聞こえたけど、知ったこっちゃない。
(どうしよ……もう、泣きたくなってきちゃった……! どうすればいい……教えてよ、ジョジョ……)
やっぱり自分なんかには。
反射されるのはこんな後悔の言葉のみ。
こんな情けない様相を呈していて、ツキの女神が振り向いてくれるわけがない。
痛い。痛いよ……! 心臓が張り裂けそうで……!
『―――勝てるさ。お前なら必ず藍に勝てる。……だから俺を信じろ。お前を信じる俺を、信じるんだ』
アイツは一体、何の根拠であんな希望を持たせるようなこと言ったんだろう。
ねえジョジョ。教えてよ。嘘吐き兎の私なんかの、どこを信じようとしたの?
『……悪ィな。最後までお前と一緒に戦ってやりたかったが、どうやらそれもムリらしい。
だがお前の行為、気持ちは絶対ムダにはさせねえ。心細くなったら俺のことを思い出しな。手を貸してやるぜ』
思い出してるよ。思い出してるって。
でもアンタ、負けたじゃん。私を残して、藍に敗北しちゃったじゃん。
手を貸すって……? 貸せるモンなら貸してみなよ、バーカ。
『俺のことは『ジョジョ』って呼べよ。“ジョ”セフ・“ジョ”ースターだから『ジョジョ』。J、O、J、Oでジョジョだ。くだらねーだろ?』
発端はそこだった。
今思うに、違和感の種はその時点で既に植えられていた。
『いいかてゐ。J、O、J、Oでジョジョだ。『次』からそう呼べよ!』
……………………ジョ、ジョ。
J、O、J、Oで、ジョジョ…………?
彼が最後に残した言葉が、凄絶に渦巻く私の思考を止めた。
同時に、札をシャッフルする手も、ピタリと。
『―――そうだ、てゐ。……お前だろ? 俺のポケットに『あれ』を入れといてくれたのは』
『あれ』って。
私が見つけた……『三つ葉のクローバー』……
そもそも。
何でアイツはあの時、そんなことを口走った?
私に勇気でも与えるため……? それもあるかもしれない。
でも、その言葉の裏に隠された『真実』を私に伝えるため、だとしたら。
『―――そうだ、てゐ。……お前だろ? 俺のポケットに『あれ』を入れといてくれたのは』
『いいかてゐ。J、O、J、Oでジョジョだ。『次』からそう呼べよ!』
藍には決して知られないよう、それでいてわざわざ私に確認してまで伝えたかった『何か』。
――――――メッセージ?
「……おい、まだか? あまりコソコソするようじゃ、強引に―――」
催促する藍のイラついた言葉にも耳を傾けず、私は恐ろしいくらいに冷静を保っていた。
覚束なかったさっきまでとは裏腹の、理性的ともいえる感情が私の全てを支配していた。
目の焦点だけは手元の札に合わせながら、4とJの札をぼうっと眺めながら。
スペードの『4』と、クラブの『J』を、ジッと見つめながら―――
(―――J、O、J、O……)
(―――三つ葉の、クローバー……)
…………………………………………あれ?
――――――疑問の種は芽吹き、その瞬間、完全に開花した。
「…………藍。この『ジジ抜き』って勝負はさ」
手元に視線を落としたまま、てゐの口から静かな声が藍へと語られた。
打って変わった雰囲気に、藍は少しだけ、警戒心を高める。
「結局のところ最後に、相手へ“死神”って名のジジを……『ジョーカー』を渡す勝負なんだよね」
藍の目線からはてゐの表情は隠れており、その意図は読み取れない。
「……今更、だな。だがそういうことだ。そしてその『ジョーカー』は今、お前が持っているというワケだ」
「…………藍。貴方が一戦目の時、ジョジョの手札を橙に覗かせ、彼女のサインを受け取り、ジョーカーを避けていたのは分かっている」
「知らんな。何を根拠に宣う? 私はそんなことを認めないし、何なら橙に問いただしてみるか? 無駄骨だろうがな」
「いや、橙に問いただすのは……『私』じゃない」
「…………なんだって?」
「『貴方』が『橙』に訊いてみなよ。……私が持つ『ジョーカー』の位置を」
ここで藍は初めて口を閉ざし、それ以上に橙は目を見開いた。
てゐは今、何を言ったのか?
言いたいことの意図が掴めず、聞き返そうとした藍の言葉はまたもてゐによって遮られる。
「こっちに来なよ橙。私の後ろでも横でもいい。貴方だけに見せてあげる。私の手札を」
「なに!?」
「えっ……!」
同時に重なった驚愕の声は、藍と橙の二重奏。
ここに来ててゐは、藍が予想だにしなかった行動に出た。
「ほら、私の手札だよ。橙だけに見せたげる。これって別にルール違反じゃないわよね?」
ヒラヒラと、2枚のカードを迷いなく顔の前で振るてゐの不可解な行動に。
いよいよ藍は真顔になって、相手のふてぶてしげな表情を射さした。
言う通り、橙はこの勝負における中立。そんな彼女に手札を公開する行為は、なんら違反ではない。
だからこそ藍は分からない。橙をイカサマに利用していると言ったのはてゐ自身なのだ。
そんな橙に、どうして手札を教えるような真似をする? しかもてゐの手札が4とJなのは既に分かりきっていることなのだ。
「ほらほらどうしたの? 私がいいって言ってるんだから素直に見りゃいいんだよ。こっち来てさ」
「え……あ、うん」
なし崩し的に橙も言われた通り、てゐの横についてその手札を凝視し始めた。
全く行動の意味が分からないが、これはチャンスでもある。
藍はてゐが見抜いた通り、橙をイカサマに利用していた。式神を操る能力によって、相手のジジを覗く行為を強要させていたのだ。
この第二回戦、てゐは橙を警戒していた節があったので、いざという時どうやって橙に手札を覗かせるか、実を言うと悩んでいたというのが本音だ。
心理戦というドロ試合まで引き摺り出すのも良かったが、どうせなら可能性の高い方を選びたい。
だからこのてゐの申し出は藍からすればラッキー、の筈だというのに。
(何を考えているんだ、この妖怪兎めは……)
このワケの分からない行為、まるでジョセフのハッタリを見ているようで気に喰わない。
「見た? 手札、見たよね? ……じゃあ橙。私が特別に『ひとつだけ』認めてあげるよ」
右手に1枚。左手にも1枚。
それぞれを体の前に掲げ、しかし藍だけには見えない角度で。
次の瞬間、てゐは宣言した。
「私の右手と左手……どっちの手に『ジョーカー』を持っているか。貴方のご主人サマに教えてあげなよ」
ガタン!
藍が思わず椅子を立ち上がった音だった。
「ふ……ふざけるなッ! 何だそれは!?」
「言葉のまんまだよ。貴方の可愛い式から『答え』を訊くことを許すって言ってんの」
「そんなことは分かっているよ! 私が言っているのは、その行為にお前へ何のメリットがあるという事だ!」
「座りなよ、藍。私がカードを見せるのは橙だけだ。お前にじゃない」
「…………っ!」
なんだこれは? なんなんだこれは?
追い詰められて頭でもおかしくなったとしか思えない。てゐの宣言はそんなトチ狂った内容である。
そこで藍、ハッとした。
(い、いけないいけない。思わずコイツのペースに乗せられる所だった……! 考えてみればコイツの狙いなんて単純だ)
ズバリ、現在の藍のような混乱状態に陥れることがてゐの狙いだ。
的外れなことを言ってのけ、さもこちらの策を逸らすことこそがてゐの出来る唯一の反抗。
ひとたび疑心暗鬼に陥った式神は、途端に衰退する。藍の、というより式神という概念の弱点はそこなのだ。
かつてマミゾウの言葉によって、心に小さなバグを生み出してしまった時と同じ。てゐはそれと同じ事をやろうとしているに過ぎない。
もう二度と同じ轍は踏まない。藍は己の心を矯正する。己の立つべき地点は見誤らない。
かくして藍は脅威の思考スピードで、冷静さを取り戻すことに成功した。
「橙、せっかくてゐがこう言っているんだ。その言葉に甘えておけ」
「ら、ん……さま……」
「ただし……当然だが『嘘』は吐くなよ? 『真実』のみを吐くんだ。わかったな?」
後押しするかのような藍の絶対命令。
気圧させるほどの雰囲気が、橙という式神へ『令呪』となって降りかかった。
主の命令に式神は本来背けないが、藍の式神を扱う能力は完璧ではない。
その欠点を藍は『恐怖』という感情で、橙の心に無理矢理埋め込んでいるだけだ。
『完璧』ではないが『万全』といえる程度の命令遂行能力が今の橙にはある。勿論、未熟な彼女にも行える範囲の命令に限るが。
(能力にほんの1%ほどの不安要素はあるが、こと『嘘を吐かない』という範疇であれば橙は完全に信頼できる)
橙の天真爛漫な性格は、他人を騙すことに向いていない。ましてやその相手が、愛する主人ならば尚更。
それならばと。藍は乱れた服を整わせ、厳粛に、高々と己の小さな式へ、もう一度『命令』を施した。
「私に教えてくれないか、橙? てゐの持つ『ジョーカー』は、右手と左手…………どちらにある?」
「てゐの……持つ、ジョーカーは……………………」
「――――――『左手』です。……藍さま」
勝った。
指示通りの命令をこなした橙の顔を見て、藍はそう確信した。
伊達に式として共に在るわけではない。橙が嘘を吐いているかいないかくらい、顔を見ればすぐに分かる。
てゐは失敗した。よりによって藍の動揺を誘うなどという不確かな可能性に賭け、軽率な行為に出た。
とはいえ藍も一瞬は焦ってしまった身。その焦りが、藍に踏み止まるべき世界をもう一度再認識させてくれたのだ。
ありがとう、弱き妖怪兎よ。
ありがとう、此の世の歯車よ。
お前のおかげで私はまた一歩、紫様を生かせる境地へと踏み込むことが出来た。
橙の指示通り、てゐの左のカードがジョーカーならば、己の選択するべきカードは右手。
ゆったりと右手のカードを取った八雲藍は、最後に感謝した。
戦った相手の血肉が己の糧になってくれることを。愛する主人の糧になるであろうことを。
(御馳走様、だ。……因幡てゐ!)
最後に感謝して、藍はそのカードを裏返し―――『視た』。
―――これはいつの世も語られる勝者の弁。
機会(チャンス)……
それを掴む者と掴めぬ者との違いは、“備えていたか、否か”
機会を生かす手段を備えた者が勝つ。
機会とはそれを生かせる者の頭上にのみ乱舞する。
勝者が掴み、敗者は掴めぬ。
これはただひとつの、そんな運命の物語。
荒れ狂う戦闘潮流。この大渦に『備えて』いたのは―――
「おめでとう藍。アンタは見事『死神』を己の手中に取り戻したってワケだ」
たった今カードを奪われたその右手を敵に差し向け、悪戯兎は吐いた。
橙の言った言葉が嘘でないならば、藍が右手から引き抜いたカードは『4』であるはず。
藍が選択したカードが『4』ならば、てゐの左手に残ったカードはジジである『J』であるはず。
一連の流れに不自然が無いのならば、この最終遊戯の勝利者は『八雲藍』であるはず。
ならばどういうことだろうか。
勝利のカードを手にしたはずの藍の表情が、魂でも抜けたかのように蒼白である理由とは。
「――――――あ、れ?」
間抜けな声が出たもんだと、藍は自分でも思う。
だが今はそんなことどうだっていい。
4を取ったはずの自分の手の中に、どうして、一体どういう理屈で、
――――――ジジである『J』が再び戻ってきているのか。
(…………え? なん、で、Jが……? …………あれ? 私が引いたのは『4』、のはずなのに)
何故。どうして。ありえない。
濁流のように落ち注ぐ疑問符が、八雲藍というコンピューターをストップさせた。
この手に握ったのは勝利の証のはずなのに。
勝ったのは私であるはずなのに。
Jでなく4を引き抜いたはずなのに。
4じゃない。4じゃ。4が。4。 4 。 4 。 よん 。 し 。
死
「―――ッ!! う、うそ!!!」
「嘘じゃない。見りゃわかんでしょ。……アンタが引いたのは『ジョーカー』。空振り三振大ハズレだ。いやむしろ大当たりかな?」
蒼白な顔から一転、気迫を取り戻して詰め寄ったのは藍の珍しい焦燥。思い描いた予想とは真逆の絵が、この場を支配した。
確かに聞いたはずだ。絶対の主従である橙の口から「ジョーカーはてゐの左手にある」と。
ならば右手にあるカードこそが藍の求める唯一無二の4であるはず。なのに、実際は右手にジョーカーが隠れていた。
どういうことだこれは。なんなんだこれは。
まさか謀られた? 誰に。てゐか。
いや、
「ちぇ、橙お前まさか……ッ!!」
「違う。橙は嘘なんか吐いてない」
疑いかけた藍の一声を、てゐはすぐさま拒否。だったら、
「お前かてゐィッ!!」
「それも違う。私は嘘吐きだけど、今回に限っては嘘は言ってない」
激昂する藍とは裏腹に、てゐは淡々と、つらつらと並べ立てる。
バン!とカードを握った両手で、机を叩いた。その姿に、かつての落ち着きを携えた彼女の面影なんか失せていた。
「うそ! うそだッ!! じゃあ……じゃあ誰なのよッ!? 誰がこんな、こんなふざけた―――!」
「藍。貴方、マジに気付かないの? さっきまでの冷静な貴方なら、そろそろ自分のミスに気付くと思ったんだけど」
「な、ん……だとォ…………!?」
興奮のあまり物事の裏を見抜く力が完全に消失した。
そんな滑稽ともいえる藍の慌てふためく姿を見ててゐは、「やっぱりね」と小さく零すのみ。
自分の予定調和が続く内なら八雲藍とはまさしく手の付けられない化け物。
だが一度皮を剥がせば、ちょっぴり物知りで小奇麗なだけの脆い妖狐でしかない。
最凶だけども無敵ではない。てゐの予想したとおり、やっぱり藍の弱点は崩した殻の内身にある。
しかし、まだ勝利ではない。攻撃権を奪取しただけだ。
だから。
ガン、ガン、ガン、と。
てゐは金槌で何度も何度も打つ。八雲藍という女の心理、真理を打ち崩す為に、相手の心を何度でも。
「分かんないならもっかい言ってあげよっかァ~ん? さっき私が橙に言った台詞。
『私の右手と左手……どっちの手に『ジョーカー』を持っているか。貴方のご主人サマに教えてあげなよ』……だったっけ」
あっけらかんと、種明かし。歪む藍の顔色を伺いながら。
「あぁそれと、『ジジ抜きってのは相手へ“死神”って名のジジを……『ジョーカー』を渡す勝負なんだ』とも言ったっけな~。
まだ分からない? 私がこの時、頑なに『ジョーカー』って言葉を使ってた理由」
てゐが何を言わんとしているのか。崩れ始める藍には未だ、理解が及ばない。
「……ホンッとに分かんない? 貴方自身が犯した決定的なミス。貴方、橙に最後『何て』命令した?」
藍が放った、橙への命令。
(なんだっけ。確か……いや、落ち着け私。こんな兎風情にペースを握られるな。いや、覚えている。覚えてるわ)
ひとつひとつ、バラけた記憶のピースを嵌め直していく。そうだ、確か―――
『私に教えてくれないか、橙? てゐの持つ『ジョーカー』は、右手と左手…………どちらにある?』
こうだ。橙に放った言葉は、こんな文句であったはずだ。
そこで藍……ふと、ある『違和感』が過ぎる。
「…………まさか、お前」
「はい遅い。そうだよ、私がジョーカージョーカー連呼してたのは、貴方から言質を引き出したかったから。
『ジョーカーは、右手と左手どちらにある?』……貴方自身の口から、まさしくこの言葉を聞きたかった。
言葉遊びにも、とんちにもならない、くだらない誘導テクニックよ」
違和感とは『ジョーカー』という単語。ここでいうジョーカーとは、当然“死神”の意。引いてはならぬ負のカードのこと
―――ではない。
藍は思い込まされていた。てゐの言う『ジョーカー』とは普通に考えて『ジジ』……『J』のことであると。
だから橙が言ったように『てゐの持つジョーカーは――――――“左手”です。……藍さま』という言葉は言い換えるなら、
『てゐは左手に“J”を持っています』という意味だと……思い込まされていたのだとしたら。
この言葉の、本当の『意味』とは―――
「お、お前ェ!! その『左手』を見せなさいッ!! 残ったカードのことよッ!!」
まさか。まさかまさか。まさかまさかまさか。
信じたくもない『予感』が藍の頭を埋め尽くしていく。
テーブルに激しく手をつき、てゐの了承も得ずにその左手――藍が“選択しなかった方”のカードを叩き落とした。
予想が当たっていればこのカード、4の数字、ではなく、
「――――――じょ……『JOKER』、だと…………」
てゐの持つ最後の1枚は、本来『4』でなければおかしい。
なのに、それなのに、その手から零れ落ちたカードの数字は……いや絵柄は。
「あは、バレちった? ようやくやらせていただきましたァン!……てね」
ジョーカー。
引いてはいけないジジ、という意味でなく、トランプというゲームにおいての“本来の死神”を冠するカード。
JOKER
ジジ抜きという遊戯には使われることがない、正真正銘の悪魔のカードが、せせら笑って藍を見上げていた。
「な……によ、これ……! 何よこのカードッ! 4は!? お前が元々持っていたはずの4のカードは何処行ったッ!!」
手札を勝手に処理して、入れ替えたのねッ!? ル……ルール違―――!」
「違反じゃない!!」
突然の大声に、藍はビクリと身体を震わす。
一瞬の沈黙が空気を支配し、てゐは落ちた『JOKER』を拾い上げながらゆっくりと、言葉を紡ぎだした。
「……藍、貴方優秀だよ。ほんと、流石あの八雲紫の式神だけある。
でも……だからこそ驕った。たかが人間と妖怪兎相手に、この九尾が負けるわけがない、てね。
そう思った瞬間、貴方の瞳の中に私たちの姿なんてもはや見えちゃいなかった。見ていたのは私たちの遥か後ろ、地平の彼方。
このバトルロワイヤル全体ばかりを貴方は捉えていたんだ。この殺し合い全体をどう勝ち抜くか……それしか考えていなかったんでしょ」
JOKERを弄くりながらてゐは語る。藍へと真っ直ぐに向けた瞳で、叩く。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
兎に角、叩き続ける。藍の心を言葉の金槌で叩き、剥がれたメッキを引き摺り出す。
「なにを……言う……! お前は、お前のやった行為は、イカサマだ……! そんな言葉で言い逃れようたって―――」
「イカサマ? アンタがそれを言うなんてお笑いだ。これはイカサマなんかじゃあない。
アンタは結局、何も見えていなかったんだよ。本当の所ではアンタが戦っていたのは私たちでなく幻影。
届きもしない主人への幻想の忠義に手を伸ばし、私たちを見ようともしなかった。驕りが招いた強者の悪癖だ」
「私、『たち』、だって……?」
「そうだよ。アンタは負けたのよ…………『ジョジョ』に! ジョセフ・ジョースターにね!」
ジョセフ。ジョセフ・ジョースター。
その男は、先ほど藍に破れ去った男の名。そんな負け犬の名が何故ここに。
「イカサマ……? 手札を処理……? こっそり入れ替えた……?
違うよ。アンタが勝手にジジを選び、アンタが勝手に自爆しただけじゃないか。私は手札を入れ替えてなんかいない」
これがその、証拠。
てゐは短く言って『お披露目』する。相棒の詐欺師が仕込んだ、全ての種が今明かされる。
パリ……
小さく……注意深く意識しなければ聴こえないほどに小さく、『その音』は鳴った。
どこかで聴いた音。電気の流れるような、生命の磁気に溢れた奔流音。
ジョセフの『波紋』。
それが解き放たれた音が―――てゐの持っていたJOKER……そのカードから流れ、散った。
「き、キサマ……JOKERの札の、表面紙を、4の上から貼り付けて……!」
藍がようやっと答えにありつけると同時、てゐは為て遣ったりとほくそ笑んだ。
てゐの弄っていたJOKERカードの表面がテープのようにピリピリと引き剥がされ、その下から現れたのは『4』のカード。
「じゃん! ……どう? 私は『4』のカードに『JOKER』の表面紙だけくっ付けていたってわけ。ジョジョのくっつく波紋でね。
私が持っていたのは4だし、カードの入れ替えも処理も行ってない。イカサマなんかじゃあない」
「と、トリックカード……! そんなもの、いつの間に……!」
藍はとうとう理解に到達した。てゐの……そしてジョセフの仕掛けた策の全貌はこうだ。
俗に言う『ジジ抜き』というゲームにおいて、『JOKER』のカードは本来使われない。この1枚は始めに抜いておくのが常識である。
しかしゲーム前にJOKERを抜いた後、ジョセフはわざわざ橙からそのカードを預かっている。
本人はその時点でここまでを想定してはいなかったのだろう。単に『何かに使えるかも』という万が一の備えだったに過ぎない。
その『備え』が最後の最後で活きた。ジョセフは藍に敗北を悟った時、全ての策をてゐに託して散ったのだ。
あの時……藍がジョセフの9、J、Kの3枚から9を抜いたことで彼の敗北は決定した。
残ったJとK。この2枚の他にジョセフは懐に隠していたJOKERを誰にも気付かれないよう、こっそり取り出した。
JOKERをただJの裏面に貼り付けたのでは、厚みによって藍にばれる可能性がある。だからこそジョセフは『ひと工夫』を施した。
トランプカードとは基本的に、透けないよう表面・芯・裏面の三層構造で製造されている。
そのJOKERの表面と裏面をジョセフはゲーム中、バレないようにゆっくり慎重に、時間を掛けながら綺麗に剥がしていたのだ。
そしてカードの最も厚い部分である芯を取り除き、再び表面と裏面をくっつく波紋で丁寧に吸着させた物が『薄いJOKER』カード。
更にそれを手元にあったジジ……『J』カードの裏面に、これまた波紋で吸着させ完成させたのが『裏面にJOKERを仕込ませたJ』カードだった。
マジシャンが『ダブルバック』『ダブルフェイス』といった、カードの紙面を剥がして作成するトリックカードをジョセフは真似たのだ。
ここまでが仕込みの段階。ジョセフは準備段階を完了させたに過ぎない。
ジョセフが作った『仕込みJ』カードは、傍から見れば完全に普通のJカードにしか見えない。
藍の目すら欺いたこのカードを、しかしジョセフが使うことはなかった。彼は『相棒』に全てを託して散ったのだ。
根拠も確信も無い。このカードがてゐの手に渡るのかも、てゐがこのトリックカードの存在に気付いてくれるのかも全部『賭け』だった。
何もかも穴だらけの道。ただ一筋の光明を得るため、勝つためへの、渾身のトリック。
てゐは第二回戦最後の一騎打ち、最終防御ターンの崖際に追い込まれ、相棒の『意志』を読み取ることが出来た。
彼女の手に残った最後の2枚の内に、そのトリックカードが残っていたのは他ならぬ『奇跡』なのだろう。
一回戦と二回戦。二つの戦い、その両方とも同じ『クラブのJ』がジジに選ばれていたのも奇跡。
ジョセフとてゐ。最強の幸運コンビが起こした奇跡。
チャンスは、繋がった。
最終ターン、てゐに残った2枚のカード。『4』と『J』。
このJがジョセフの作った仕込みカードであることに気付いたてゐは、藍に気付かれないよう、すぐさま二層のカードを引き剥がした。
Jの裏面から現れたのは『薄いJOKER』。ここからのてゐの『仕込み』は早かった。
このJOKERからジョセフの意志である波紋の手応えを感じたてゐは、それをもう一方の『4』の表面に貼り付ける。
ほんの少し生きていた波紋が再びその威力を発揮し、4の表面にピタリと吸着して出来上がった『新たなトリックカード』。
藍が欲していた4のカードはこの瞬間、仮初めの死を呼ぶ『JOKER』へと変化したのだ。
『さあて、今度は私のターンだ。手札を出せ、因幡てゐ』
てゐVS藍。
藍がてゐのカードを引く悪夢のターン。藍はこんな台詞をてゐに投げかけ、その凶手を伸ばす。
直後にてゐが机下で作成し直したトリックカード……
それは―――『4』と『J』だったものが、見た目上では『JOKER』と『J』へ。
そしててゐは何食わぬ顔で、こんな『魔法の言葉』を掛けたのだ。
―――『こっちに来なよ橙。私の後ろでも横でもいい。貴方だけに見せてあげる。私の手札を』
―――『見た? 手札、見たよね? ……じゃあ橙。私が特別に“ひとつだけ”認めてあげるよ』
―――『私の右手と左手……どっちの手に“ジョーカー”を持っているか。貴方のご主人サマに教えてあげなよ』
その言葉の対象は八雲藍―――ではなく、橙。
成功の保証なんか無いギリギリの綱渡り。でも、自分に出来る限りの全ては行った。
後はそれこそ『運』。ツキこそが、勝負の命運を分ける。
てゐが長寿で培ってきた巧みな話術は、ついに藍から『その言葉』を引き出せることが出来た。
―――『私に教えてくれないか、橙? てゐの持つ“ジョーカー”は、右手と左手…………どちらにある?』
かくして橙は、主人の命令に『嘘偽り無く』答えた。
己の見たままを。
てゐの持つカード―――左手に……4の上から被せた『JOKER』を。
右手に……“本物の死神”であるジジの『J』を、見た。
―――『てゐの……持つ、ジョーカーは……………………』
―――『――――――“左手”です。……藍さま』
かくして藍は、式の『嘘偽り無い』答えを、素直に信じて取った。
式が答えた『左手』を避けて、『右手』のカードを取った。
橙が答えた“ジョーカー”とは、ジジの意味ではなく“JOKER”の意。橙は嘘など何も言ってなんかいない。
藍が勝手にジョーカーの意味を履き違えただけ。
否。ジョセフとてゐのダブルプレーにより、履き違えさせられただけ。
つまり。
つまり、つまり―――!
「お前が! 今、取ったのは! 正真正銘、本物の『死神』だってことだよ!! 八雲藍ッ!」
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
八雲藍の内奥に踏み込み、鉄で覆ったメッキを剥がし、喰う為に、てゐは敵の精神を攻撃し続けた。
「―――う、そよ……私が、この九尾である八雲藍、が……お前のような小娘に…………」
パキ……ッ
そんな音が響いて、決定的なダメージが藍のメッキを崩して貫いた。
「小娘ェ~~~? 笑止千万! アンタの方が私よりずぅ~~っと小娘でしょーがよッ!! 年長者は敬いなさい!」
「う……うるさいうるさいッ! 大体おかしいじゃないか! 私ですら気付かなかったトリックカードに、アンタ何でジョセフの言葉も無しに気付いたのよッ!?」
これこそがジョセフの懸念した事項であった。
折角行った工作も、てゐに知られないままで終わっては水の泡。元も子もないのだ。
しかし目の前で睨む藍の監視もある。怪しい行為や伝達などすぐに指摘されるに決まっていた。
だからジョセフは己の相棒へ、暗号として『メッセージ』を伝えたのだ。
『―――そうだ、てゐ。……お前だろ? 俺のポケットに『あれ』を入れといてくれたのは』
『いいかてゐ。J、O、J、Oでジョジョだ。『次』からそう呼べよ!』
最後の場面、ジョセフがてゐに伝えた言葉の真の意味。
花咲いた違和感の種は、てゐにある『二つの単語』を注視させることを可能とした。
―――『JOJO』と『三つ葉のクローバー』。
不自然はそれらの言葉にあった。
ジョセフが伝えようとしたこれらの単語は、てゐの持っていた『とあるカード』と一致する。
J、O、J、O……ジョジョのイニシャルでもある『J』。
三つ葉のクローバー……これはトランプの絵柄のひとつ『クラブ』の別名。その由来もクローバーから取ったものだ。
全く、なんて馬鹿げた偶然の一致だと、ジョセフは己の信じられない幸運に笑ったことだろう。
てゐが何気なくくれた“クローバー”が、“J”OJOにここ一番の閃きを与えたというのだ。
『クラブのJ』……ジョセフとてゐがそれぞれ、その最終局面で握っていた“ジジ”のカードであった。
「じゃ、じゃあお前はジョセフのメッセージに隠れた『クローバー』と『J』の単語から……ヤツが『クラブのJ』に何か仕掛けたと……そう推測できたというのか……!」
「そうだ。ギリギリだったけど、ね。ジョジョが会話中『クローバー』と言わず『あれ』としか言わなかったのも、貴方に察知されるのを避けたから。
『あれ』と言って通じるのは私と橙だけ。貴方にはどう足掻いたって知りようがない情報だった」
これが、ジョセフとてゐの仕掛けた策、その全容。
渦巻く戦闘潮流を、本質的にはたったひとりで戦ってきた藍には、とても想像できない作戦だった。
「ちぇ、橙!! お前何故、私にJOKERの存在を教えなかった!?
お前にはてゐの手札にあるハズがないJOKERが見えていた! それを何故、主人の私に言わなかったんだッ!!」
「みっともないよ、藍。言ったじゃんか、橙は『見たまま』を答えただけって。橙は私と違って嘘なんか吐かない」
「詭弁でしょうそんなの!! それじゃまるで、私の不利になることを知ってながら敢えて―――!」
ここまでを言って藍は言葉を失った。もしかして橙は……
「……橙、お前、もしかし、て」
「………………藍さま。私は、橙は…………ただ、藍さまが元の優しい藍さまに戻って欲しかった、だけです……」
橙のただひとつの想いは、式としてどこまでも純粋な願い。
皮肉にもその想いは、歪に曲がった形で藍の心へと届いてしまう。
言葉や想いはどうあれ、藍は自らの式神である橙に裏切られたようなものなのだから。
いや、違う。
「―――いい加減に、気付いてあげなよ、藍。橙が貴方を裏切ったんじゃない。……貴方が橙を、裏切ったのさ」
歴然とした事実を、述べて。
藍から橙への、聞くに堪えない、見るにも堪えない暴行や指図の数々。
如何な尊敬、畏怖する八雲紫の為だとしても、藍のそれはもはや式神と使役者の関係という領域を完全に逸脱していた。
恐怖。その感情を利用し、橙を無理矢理にも抑え込み、意の向くままの人形とし、ゲームにも利用した。
恐怖。しかしその感情こそが最終的に悪手と化し、橙は主人に対して反抗の心が芽生えてしまった。
八雲藍は己の生み出した恐怖に自ら敗北したのだ。
「ぁ……ぁあ……! い、や……違う……わたしは、紫、さまを……ただ、ただ……っ」
「藍さま……」
「ちぇ、ん……!」
「―――もう、やめよう? こんなことして、紫さまは喜んだり、しないよ……!」
パリン。
橙のその一言をトドメとして、藍の、決して崩れてはならない最後の矜持が、砕けて落ちた。
―――『お主、本当に式としての命令で動いておるのか?儂にはそうは見えん』
―――『お主は式としてではなく、八雲藍という個として動いておる』
同時に脳裏で蘇ってしまった、蘇ってはいけない、あの『狸』の言葉が頭をもたげる。
森で出会ったキョンシーのおかげで一度は修復出来たヒビから、再びバグが漏れ出してきた。
一度壊れてしまえば、人の器など脆いもの。その溝は決して埋めることなど出来ない。
「……………………まだ、負けてなんか、ナイ」
「……なに?」
それでも藍は。
「ワタシは、まだ……負けてない。カードを……引きなさい。イナバ、テイ……!」
「……藍、負けを認めなよ。悪いようにはしない。……お前の負けだ、この勝負」
それでも藍は、忠義に殉ずる。
『護りたい奴がいるから』……そう言い遺して、あのキョンシーは死に逝った。
―――我、主を想ってこその我故に。
藍は心に残ったこの言葉を、信じるしかなかった。妄信するしかなかった。
「は、早くカードを、引けッ! 引きなさい、因幡てゐッ!! 負けてない!! 私はまだ、負けてないッ!!!」
そこに居たのはもう、見るべきモノを見失い、己の役割までも失った、哀しき妄信者の滑稽な姿だけだった。
早く楽にしてあげたいと、てゐはその時、心から同情した。
彼女の冷たく傷んだ心を癒せるのはもう、八雲紫でも不可能なのかもしれない。
そんな、諦めの感情すら浮かべながら。
「―――藍」
何度目になるだろうか。この女の名前を呼ぶのは。
憐れみのような感傷がてゐに芽生え始めた。戦いには不要の異物である、それこそ『バグ』とも言い換えられる気持ちだ。
正直、今の藍に負ける気は全くしない。彼女は完全に地べたをグズグズ這う爬虫類と退化している。
少なくとも、最後の一瞬までは藍の戦法に悪手緩手は無かったというのに。強大な狩人だった藍も、今や幼子の悪あがき。
「引け! 引け!! 引け!!! まだ勝負は終わってないッ!!」
策を弄する考えにすら及んでいない。
藍はこの瞬間、自ら土俵を降りたのだ。己のフィールドである心理戦という庭を放棄し、純粋な運勝負という泥濘に身を投じてしまったのだ。
よりにもよってあの幸運の白兎、因幡てゐ相手に。
とうとう置いてしまった。血生臭きテーブルの上に、己が心の臓を、軽率に賭けてしまった。
「……受けてたつよ、この勝負。でも貴方、気付いてる?」
「な、何が―――!」
運の領域において、てゐは勝利を約束された存在。
たかだか50%の確率だが、てゐは『敢えて』この時……
『運』などではなく、『心理戦』という相手のフィールドで戦おうと思った。
「―――さっき貴方がカードを握ったまま思わず机を叩いてしまった時……付いちゃったんだよね。ジジである『J』のカードに、目立つくらいの“傷とシワ”がさ」
これで終わらせよう。楽にさせてあげよう。
自らを心理戦という土俵に上げて、そこから転げ落ちた対戦相手をそっと見下ろすと。
本当に、本当に憐れな大妖怪が、土を這っていた。
もうコイツの思考なんて、手に取るように分かる。
「藍。貴方の次の台詞は―――『馬鹿な、そんなわけがない』……だ」
「ば、馬鹿な! そんなわけが、な―――ハッ!?」
「引っ掛かったね。“嘘”だよ……!」
てゐのハッタリにつられ、藍は自分の持つジジのカードを思わず“視た”。
それが全てを終わらせる合図となり、決着の鐘は鳴った。
藍が視線を投げたモノとは逆のカードをひらりと取って、終わり。
「あっ! キ、キサマ……嘘をッ!」
「悪いね。私、嘘吐きだからさ。……でも、今度こそ私の勝ちだ。
引いたカードは……見るまでもないけどダイヤの4。私が持つスペードの4とペア。揃っておしまい。ジジが残った貴方の負けだ」
凍りついた藍の手から、『J』のカードがはらりと滑って落ちた。
終わったのだ。これで、全てが。
弾幕ごっこ以外では恐らく初めて体験するてゐの最初の下克上は……想像していた以上に何の感慨も爽快も得られない光景で終了した。
◆ 香霖堂戦闘潮流最終遊戯最終戦 ◆
因幡てゐ 対 八雲藍
――――――勝者、因幡てゐ。
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最終更新:2016年03月16日 18:25