人生はサイコロゲームのようだ。
伸るか反るか、一擲乾坤を賭す分岐点というものは必ず存在する。
振られた賽に身を委ね、天命を全うするのもまた人の世の常。
人生はトランプゲームのようだ。
配られた手は決定論を意味し、どう切るかは自らの判断による。
正しく判断した者が、より長く充実した人生を味わうことが出来るだろう。
ここに二つの人と妖が在る。
彼らは『自由』であった。何物にも縛られることを嫌う人種であった。
異なる世界の、決して交わりあう筈のなかった二人の『運命』という一本道が、因果により今、交叉する。
巨なる困難を乗り越えるため。己の向かうべき道を歩んでいくため。
遥か昔より廃れ、酒の席で語り古されたような『人妖譚』の新たな幕が開かれたのだ。
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◆ 香霖堂戦闘潮流最終遊戯 ◆
遊戯名『ジジ抜き』
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【ルール】
○トランプ52枚の中から1枚をランダムに取り出し、そのカードは最後まで確認しないでゲームを行う。
○相手の手札から1枚ずつ取っていき、数字のペアが揃えば場に捨てる。
○手札が全て無くなればアガリ。最後に『ジジ』を持っていた者の敗北となり、首輪が発動する。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
「藍さま、ジョセフお兄さん、てゐ、藍さま、ジョセフお兄さん、てゐ、藍さま…………」
一枚一枚を拙い所作で均等にディールしていく橙。
震えているのが見て取れる。緊張しているのだ。ゲームに直接関わらないとはいえ、ディーラーという形でカードに触れることに。
そも、トランプという名の西洋かるたは幻想郷においてそこまで普及しておらず、住民達の専らの賭博遊戯は先に行った賽子遊戯が多い。
見慣れぬ札を緊張気味に配っていく橙とは裏腹に、ジョセフは当然として藍やてゐも特に新鮮気な様子なく手の中にカードを収めていく。
そこは流石に長寿の妖怪。ゴーイングアウトゲームだろうが何だろうがかかって来いとばかりに腰を据えた様子だ。
(さて……と。何とか勝負のテーブルにまでは駆け込めたけど……不気味だなぁ、八雲藍)
てゐが藍に抱く感情は、奇しくも霖之助がチンチロ勝負において藍に抱いたそれと同じもの。
藍という壊れてしまった式神の行動全てが、一律して『不気味』。掴めないのだ。
長く歩んできた人生のおかげで培われた交渉力、それが功を成して藍討伐のチャンスを得た。ここまでは良い。
問題はそのゲーム内容……ババ抜きならぬ『ジジ抜き』だ。
所謂「運ゲー」、テクニックの介在する要素のないゲームの代表がこの種目である。
チンチロリンなどよりも更に運の要素が強いこのゲームを、藍は自ら提案したのだ。
こともあろうに、因幡てゐという幻想郷随一のラッキーガールを前にして。
(ありえないでしょ……この手のゲームで普通に戦って私に勝てるヤツがこの世界に何人居る?)
10万分の1の確率すら、道端の花でも摘むかのように容易く懐に誘き寄せることを得意とする彼女である。
まず負けようがない。張り合えそうな奴など精々があの博麗の巫女くらいではなかろうか。
このゲームに論理的な勝ち方の議論は皆無だ。ババ抜きジジ抜きの勝敗を決するのは運のみであり、むしろそれこそがこのゲームの存在意義なのだから。
――というのが、世間一般的なババ抜きの理解だが。
まず考えられる仮説は、てゐの『幸運』というステータスそのものが主催によって弄られているという可能性。
いわゆる制限というものだが、今のところ幸運の調子は普段どおり……と言いたいが、実はよくわからない。
ゲームに乗った八雲藍と正面からぶつかっているという時点でまず、お世辞にも幸運の結果であるとは言えない。
確かに回避は出来た。この事態は回避することが容易かった状況である。
わざわざ店内に乱入して藍のターゲットに加わらずとも、ジョセフたちを見捨てさえすればごく簡単に逃げることが出来たはずだった。
それを何の気の迷いなのか、こうして命懸けの運試しに興じる羽目になっている。馬鹿みたいだ。
……少し話が逸れてしまった。つまりはこの現状、決して不幸の連鎖から始まったてゐの転落する運命ではない。
自ら選んだ道だ。戦うという扉に、手をかけたのは自分自身。
そこに不運だの不幸だのなんていう言い訳は口にしたくない。今の彼女はいつも通り、普段のラッキーガールとして振舞えている――
(……そう思うことにしよう。藍が私の幸運に制限が掛けられているかなんてわかりっこないんだ)
今は考えても答えが出せない問題。ならば藍の行動の理由、その二つ目の仮説は。
(お得意の……心理戦か?)
藍がこのゲームでてゐに勝てる要素があるとするなら、小手先で追い詰めようという心理戦。
「ジョーカーだけ少し上にずらして取りやすくする」「敢えてジョーカーじゃない方のカードにばかり視線を送る」等の小技。
ババ抜きとはそういった、ちょっとした戦法も効果がないわけでもない。
相手の心理を読み、場の展開を掌握して勝ちあがる藍のスタイルは先ほどのチンチロで嫌というほど見せ付けられた。
運試しでしかないババ抜きというゲームを、心理戦に持っていき相手を扱き下ろす。そんなやり方もあるにはある。
だが言うまでもなくこれはババ抜きとは少し違う『ジジ抜き』。そもそもジョーカーとなるカードが不明瞭の状態で進めるゲームなのだ。
誰の、何のカードがジョーカーなのかが最初から分からない。心理戦もクソもないルールである。
このジジ抜き、勝利のポイントはまずどのカードが『ジョーカー』なのかを早めに見抜くことが鍵か?
仮にそれがわかったとして、そこから先はババ抜きの体を出ない、それこそ運否天賦。
藍の頭脳が活かされる競技とはとても言えないのがこのジジ抜きだ。
(……クソ! 考えたってわからない。とにかく、私は藍に思考を読まれないようにしないと……)
結局は八雲藍への対抗策など思いつく筈もなく、今は手元のカードに全てを委ねるしかない。
別段ポーカーフェイスに自信があるというわけでもないが、なるべく顔に出さずに勝負に挑まなければならないというのがこの手のゲームの常であり、てゐも横に座る相棒の表情をチラと覗く。
「お~~!? 結構ペアが揃ってるジャンこれ~~! 幸先いいぜー!」
ポーカーフェイスの真逆を地で行くジョセフの歓喜した顔が、余計にてゐの不安を加速させる。
この男、
チルノや神父を退けた時は凄かったが……どうにも信用できない。
今後アテにして大丈夫なのか? てゐは溜息を漏らすのをグッと我慢して、配られたカードを整理する。
「く、配り終わりました藍さま……えっと、ここから数字が揃った札を捨てていくんでしたっけ……?」
「そうだ。ペアの札は橙、お前に全て渡していく。つまり『場に捨てたカードの確認』を後から行うのは不可能とする」
几帳面にカードを整えていきながら、藍はルールを追加説明する。
ババ抜きならともかく、ジジ抜きで場のカードを後で確認できないというのは少々厳しい。ジジのカードが何であるか、見極めるのが難しくなるからだ。
「では……始めようか。今この場にある札の数は、トランプ53枚からジョーカーとジジを抜いた『51枚』。それを均等に分けたはずだ」
つまりはひとり頭『17枚』の初期手札が配られているということになる。
ここから各自、まずはペアのカードを場に全て捨てていく作業に入る。
「私は…………『A』『8』『9』『10』『Q』の五組がペア……まあ、こんなもんなのかな」
計10枚の札がてゐの手から卓の真ん中へ捨てられる。残りは7枚。
「俺も五組ペアが揃ったぜ。『A』『3』『6』『10』『K』だ」
ニヤケ面の相棒もてゐと同じく5組のペアを宣言。これで互いに7枚の手札となる。
そして最後、藍。その要となる初期手札は。
「……私も五組。『2』『3』『4』『5』『7』のペアだ。つまりは全員が『7枚』の手札でスタートすることになるな」
何事もなく10枚の札が場に捨てられる。
捨てられた札は全員合わせて30枚。これはこの先ゲームで使われない札になる。
「橙、捨てられた札はお前が仕舞っておけ。次からはペアになった札はそのまま橙に渡す。いいね」
集められたカードをトントンと束にし、藍はそれを手際よく橙に手渡した。
ここからはてゐも頭を働かせる。既にゲームは始まっているのだ。
(今……場に『A』と『3』と『10』のペアがそれぞれ二組ずつ捨てられた。つまりこの数字たちは『ジジ』じゃない……)
トランプに4枚ずつある数字……そのうちA、3、10が4枚とも今取り除かれた。
トランプの数字はジョーカー除き十三組。残るジジ候補はそれらから今捨てられた三組を引き、『十組』。この中のどれかにジジが混じっている。
てゐの手元に残ったカードは2、4、5、7、8、9、Jの7枚。流石にこの時点ではどれがジジなのか、まるで見当がつかない。
「このゲームを三人でやれば、最初は大体四~五組ペアが出来るものだ。ま、ここまでは普通さ。
さてこのジジ抜き、お前ら二人は仲間同士だという体だが、一応は多人数対戦形式の形はとってもらいたい。
したがって『仲間同士の手札を教え合うのは禁止』だ。流石に私が不利すぎるのでな。言うまでもない事だが」
九本の尾をフワリと揺らして藍は言う。彼女の言う内容も予期できたことだが、さてそれではどうするか。
てゐにはテレパス能力の持ち合わせは当然無く、またジョセフと阿吽の呼吸で通じ合えるほど交流期間は深くない。
サインやアイコンタクトを取るのは不可能ではないが、ジジがどれか分からない以上無意味。それにどんな小さなサインだって藍には見抜かれそうで恐ろしい。
したがって全員全く同じ条件でゲームに臨むことになる。仲間同士、助け合いはできないということだ。
参った。このゲームもまた、二対一というこちら側のメリットを殺されている。
完全に運否天賦に委ねた決戦。誰が堕ちるのか、予想できない。
―――いや、本当にそうなのか?
(あの八雲藍が完全運ゲーの勝負なんて挑むワケない……それはありえないんだって!)
ここでまた最初の疑問に逆戻りの堂々巡り。それをいくら考えたところで現時点では未知の領域でしかない。
未知こそ恐怖。てゐは藍の未知なる思考、そこに恐怖を抱いている。誰しも何を考えているかわからない奴というのは恐ろしいものだ。
それは藍だけでなく、ジョセフ相手にも当てはまってしまうのがてゐにとっては不運というべきか。
「ゲームを始めよう。まず最初に誰から札を引くかだが……」
「あ、じゃあこーいうのはどーお? これこそ俺が考えたイカサマの余地なしの公平な決め方なんだけど、まず全員一斉に手を場に出す。
その手の形によって優劣を決めるんだが、まず指を全部開いた形が……」
「ジャンケンだな。説明は結構。それが妥当だし、いいだろう」
何故か楽しそうに提案するジョセフの口を閉ざすように遮り、そのままなし崩し的にジャンケンの運びとなってしまった。
この三人でジャンケンポンの掛け声を出し合う光景はなんともシュールな気もしたが、特にもつれることなく結果は決まった。
てゐ→藍→ジョセフ→てゐ……引く順番はてゐからとなる。
「てゐ、お前からだ。遠慮なく……フフ。引けばいい」
藍からの、何気ない言葉。
そう、何気ない……どうということもない一言。
(私が、藍の……カード、を…………)
ゲーム開始。
その最初の駆け出しを担ったてゐに、圧し掛かる巨大なプレッシャー。
引くだけ。そう、ただカードを『引くだけ』の行為に、てゐは躊躇した。
否。
躊躇させられた。せざるを得なかった。
(八雲藍……コイツ、コイツは……!)
圧倒的な妖気。襲い掛かる身の竦むような物理的プレッシャー。
目の前に居る藍が。
カードを見せ付けるように並べて待ち構える九尾の女が。
鋭利な牙を剥かせ、大口を開けている。
ひ弱な兎を丸呑みにでもしようかというような、狩りの構えで。
―――そんな錯覚。
先ほどとは一線を画する様子が、藍の全身から漏れ出した。
鬼気が。殺気が。妖気が。凶気が。狂気が。
圧迫感が。威圧感が。閉塞感が。緊張感が。抑圧感が。
凄味が。風格が。悪寒が。気迫が。恐怖が。
てゐの八方……全身の毛穴という毛穴から、纏わり憑いて侵入してくるのだ。
かつての命名決闘法においては微塵にも見て取れなかった、本物の『殺意』。
強者が弱者を喰らう妖怪たちの不文律、その弱肉強食世界にすらこのような禍々しい意思など存在しない。
『生きる』ために『殺す』のでなく、『殺す』ために『殺す』。受身の生存本能にはない、そんな暴力的な理不尽。
単に妖怪としてのキャリアならてゐの方が上……そんな年功など喰い散らすかのように藍は、絶対的ともいえる圧威を湛えていた。
(―――ぁ、)
ほんの一瞬。
ゲームが開始し、数秒にも満たぬ時の中で。
(―――わたし、)
因幡てゐは即座に理解させられる。
(―――喰われる)
勇気も、意地も、幸運も、絶対的な『暴力』の前では皆平等に、無価値。
(―――この狐に、喰われて、死ぬ)
圧倒的なオーラがてゐに完璧な絶望を植え、その心をへし折ろうかという瀬戸際。
「てゐ」
九尾の胃袋に飲み込まれる寸前に、その男の腕は差し出された。
「オメー、ここに何しに来たんだ? この女の栄養になる為に来たのか? ちげーだろ」
男の差し向けた腕はどんな勇者などよりも頼りに映って。
男の語ってくれた言葉はどんな導師などよりも気高く聴こえて。
「勝ちに来たんだろ。この調子乗ったクソ女を、ブッ飛ばしに来たんだろ」
いつの間にか、全身を伝っていた汗が止まっていた。
体の震えは、もはや恐怖からではない。
心の。
魂の。
精神の奥に灯った、小さな小さな光。
永く生きている内にいつしか忘れてしまった、或いはもとより持っていなかったのかもしれない。
今は曖昧で、ぼやけているけども。
心に灯り始めた『ナニカ』が、震えているのだ。
「“一緒に”よォー、この雌狐の化けの皮剥いでやろーぜ。俺とお前の即興『詐欺コンビ』でな!」
ジョセフのニヤケ面を見ていると、凍えそうな寒さも和らいでくる。
藍などよりも数段厚そうな化けの皮を纏った男が何を言うと、冗談すら浮かんでくる。
少しだけ、橙がジョセフに懐く理由がわかった気がする。
コイツなら例えどんな困難や無理難題をも、何とかしてくれるのかもしれない。
―――コイツと一緒なら、たとえ藍にも……主催者にすら立ち向かえる。
そう思わせる何かがコイツにはある。頼ってしまいたくなる男なのだ、ジョセフという奴は。
「……ふん! な~にが『詐欺コンビ』だ。あたしゃ『うさぎ』だ、ウ・“サギ”~~~っ」
パシン、と。
気恥ずかしさからか、私はジョセフの差し出した手を強めに叩いて返答した。
思えば、ここまで全部霖之助の言葉通りになっていってる気がする。
アイツの言葉をキッカケとして私はジョセフたちを追っかけてきたんだし、
アイツの姿をキッカケとして私は藍に勝負を仕掛けたんだし、
今またこうして、アイツの言うような即興で作ったに過ぎないコンビで戦おうとしている。
全く、勝ちだよ勝ち。
私にやる気を出させようっていう、勝手極まりない賭け。
このギャンブルは、アンタの勝ちさ。霖之助。
でもここからは……私が賭けるギャンブルだ。
「引いたぞ、藍。……『ハートの4』、まず一組ペアだ!」
勢いよく、目の前でお高くとまった九尾からカードをひったくってやった。
私の『ダイヤの4』と揃え、まず最初に一組。
藍は面白くもなさそうに一言だけ、私を睨みながら吐いた。
「その表情、気に喰わないな。……気に喰わない」
この勝負、絶対勝つ!
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ババ抜きとは、只管に『選択』の遊戯である。
複数のカードの中から、たったの1枚を抜き取るだけ。そこに計策や戦略が絡む要素はほぼ皆無。
しかし心理戦に持ち込めば多少は勝率も上がる可能性は出てくる。
相手の表情・機微を読み取る能力。こちらの表情を擬態させ、相手にジョーカーを取らせる能力。
敵も己も常に確率の領域で札を取り合う盤上で僅かなり勝率を上げるとするなら、そういった小手先の技術が必要にも成り得る。
とはいえこれは最終的には、ジョーカーを押し付けあう競技には間違いない。
だがジョーカーは、ゲームによりその役割を変化させる。
そのジョーカーが己にとっての女神となるか、自らを追い詰める死神となるか。
決めるのは自分自身だ。女神を振り向かせ、死神を押し付ける力持つ者だけがこの競技を支配できる権限を持つ。
少し変わって、ならば今回の『ジジ抜き』はどうか。
既知の通り、ジョーカーとなる『死神』は鎌隠し、有象に紛れてしまうという布陣。
姿形は見えど触れ得ぬ蜃気楼。そんな彼らの尻尾だけは、しかし掴むことはそう難解ではない。
最初から解答は出ていた。後は彼らがどう『利用』するか?
擬態したのは死神か、それとも女神か。
気まぐれな神サマが誰に振り向くか。
この時点では、決定されていないのだ。
―――これはいつの世も語られる勝者の弁。
機会(チャンス)……
それを掴む者と掴めぬ者との違いは、“備えていたか、否か”
機会を生かす手段を備えた者が勝つ。
機会とはそれを生かせる者の頭上にのみ乱舞する。
勝者が掴み、敗者は掴めぬ。
これはただひとつの、そんな運命の物語。
敢えてここで、ひとつの事実を顕示するのなら。
八雲藍という絶大な妖怪は確かに『備えて』おり、
一方で因幡てゐもまた、いずれ来るであろう好機に『備えて』いた。
勝利への手段を、『最初』から。
ならばこの物語の主人公ジョセフ・ジョースターは――――――
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
「藍ねえちゃ~~ん? 『こっちこっち』……アンタのお望みのジョーカーはコレ。このカードよ~ン」
実に。
実に人をおちょくる態度で、この男は笑うのだ。
7枚の手札の内、ひとつを分かりやすくズラしてトントンと指で差しながら。
ジョセフVS藍。
そんな体面で表示できるほど、この取り合いは飾れる見世物ではない。
行為は実にシンプルな所作ひとつ。単純明快極まり、故に数秒にも満たない戦いであるはずなのだ。
藍がジョセフのカードを抜き取るだけ。それだけだ。
本来なら単なる確率論に収まるだけの僅かな対峙。どれを取っても確率の上では同じだ。『揃う』か『揃わないか』だけ。
両者互いに相手の手札が見えない以上、思惑抜きのツキ勝負に持っていくのがこの勝負の醍醐味。
その本来の運否天賦を放棄し、ジョセフはなおもハッタリと心理戦に持っていった。八雲藍を相手にして。
「ジョセフ。これがババ抜きならば少しはお前の努力も実ろう。しかしこれはジジ抜き。
言うまでもなく“どれがジョーカーなのかはこの時点では分からない”のだ。無論、貴様にとっても」
藍の放った言葉は至極当然の理屈で、このジョセフの戯言に何の威力があるというのか。
普通に考えて、ジョーカーがその片鱗を剥き出し始めるのは『ゲーム終盤』であるはず。
この最初の一巡目でハッタリをかます。それは明らかにタイミングを見誤っている。
思えばチンチロ勝負でもこの男は最初手にして、いきなりイカサマを発動するようなトリックスター。
意味が無いことに、意味を持たせようとしているのか。
例えば。
ジョセフは“既に”どれがジョーカーなのかを見抜いている。
その方法手段は計れないが、そうであるなら彼が心理戦を仕掛けたことにも意味が浮き出てくる。
要はジョセフの言葉を信じて推定ジョーカーを引き抜いてしまうか。それとも耳に蓋し、単純な確率に身を投じるか。
藍は“余計な情報を相手に与えず”、
ジョセフは“余計な情報を相手に与える”。
二人の知略スタイルは実に対称的であった。
鵺のような男が喋る世迷言。信じる道理は勿論無い。
故に藍はジョセフの言葉を思考から早々にシャットダウンした。
「……お前の寝言など所詮は捕らぬ狸の皮算用。何を目論んでいようと、そんな奇手は全て無意味だ。もっとも私は狸でなく狐だが、な」
一直線。
ジョセフのハッタリは正しく暖簾に腕押しとなり、藍は迷うことなく目掛けたカードを1枚、風のような俊敏さを纏いながら奪った。
ジョセフから見て右より二番目、『ハートのJ』を。
この時、確かにジョセフの表情は曇り、藍は笑む――ように、見えた。
だがそれは互いの僅かな思惟すら感じさせぬ、感情の微動。
ジョセフの動揺に藍が笑みを零したのか。
それとも藍の笑みにジョセフは動揺したのか。
事実は分からない。同じ様でいて、全く異なるその意味。
『藍がここでハートのJを引いた』というその事実は後に、大きな意味を伴わせてジョセフを思考の渦に巻き込むのだ。
だからこそして、今この時二人の表情に差異が出た。
「……っ」
「ふふ。『ハートのJ』と『ダイヤのJ』……ペアだ。まあ、確率としてはごく当たり前の結果だが」
そう、当たり前の確率。
藍の6枚手札からジョセフの7枚手札の内1枚を抜き取った場合に起こり得る、簡単な計算結果。
今回のジジ抜きに関しては建前上『三人戦』。全員が同数の手札でスタートした時のカードの移り変わりは大方決定されている。
トランプとはジョーカーを除き、同数のカードが必ず『4枚ずつ』、計52枚組まれた群集である。
これを踏まえ、最初に三人全員にカードが配られた時点で、その割り振りは“必ず”ペアが作られる組み合わせになってしまうのだ。
例えば『4枚』あるAを三人に配れば、どう配ったって誰かが必ずペアを作り、場に2枚または4枚とも捨てられる。
この事からわかる重要事項とは、『最初のカード分配の時点で全ての数字に一組以上のペアが発生する』という一点だ。
三人以下のプレイヤーでゲームを行う場合に限り――『ひとつの例外』を除いて――この法則は必ず現れる。
つまりこのゲームは、始めたなら同数字のカードは場の手札全て合わせて『2枚』存在するか、『0枚』かのどちらかになるのだ。
自分がAを1枚所持しているのならば、残り1枚のAは相手二人の『どちらかが』所持している。
藍から見れば、それはジョセフかてゐの二択。その両者の手札が同数に近しい数なら、引くカードがペアとなる確率は常に2分の1に近い。
これは藍だけに当て嵌まる法則では勿論なく、三人全員に当て嵌まる。
全員が、約2分の1の確率をせめぎ奪う。
要するに今回のゲームとは、そういった単純な五分五分を制すか制されるかの競技。
藍が発言した通り、『ごく当たり前の確率』の結果。
Jのペアを藍が揃えたといって、何も驚く要素など無いのだ。
―――しかし、
―――本当に、
―――そうなのか?
(八雲藍……コイツ、『偶然』か? ……今、Jを揃えたのは)
ジョセフは何の不思議も有りはしないその確率に、違和感を感じた。
何故なら、今……彼女が揃えた『J』は、
――――――『ジジ』だからだ。
卓の中心に捨てられたひと組を、橙は物言わず回収して藍の手巡はこうして何事もなく終了した。
当たり前の、何の不思議も無いはずの、結果。
眉を動かすのはジョセフ、ただひとり。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
「ほいよ、次は俺が引く番だぜてゐちゃん」
努めてジョセフは軽い調子で喋る。
―――内面の『疑惑』を、決して顔には出さぬように。
―――その反応を、決して藍には悟られぬように。
「あいよー。まあ、気楽に引いてよ。何分以内に引けなんてルールは無いんだからさ」
ジョセフの掛けてくれた言葉により、少なくとも見た目上はすっかりいつものてゐの調子だ。意地悪い笑みすら見せながら、手札をヒラヒラとジョセフに向ける。
彼女の言うように此度の勝負、カードを引く制限時間などは設定されていない。少しはじっくり思考が出来るのだ。
そう、ジョセフはここでも思考する。
先程起こった、何ということの無い藍の手巡。その舞台裏について。
物珍しいてゐの兎耳を凝視しながらジョセフは思考の海にダイブし、いずれその瞼もゆっくり閉じられる。
藍がさっき引いた『J』は……………………『ジジ』だ。
これはジョセフも既に確信している。
まず間違いなく、このゲームで言うところのジジとはJ――ジャックなのだ。
ジョセフにはそれが『初めから』わかっていた。わかっていたからこそ、藍にいきなりジジを引かれ、ペアで揃ったことに僅かながら動揺したのだ。
いや、正確には藍の引いたJはジジ“ではなかった”。
藍が場に3枚ある内の2枚のJを揃えて捨てたことにより、残る1枚のJが初めてジジと化す。
―――他ならぬ相棒てゐの所持しているであろう『最後のJ』が今、死神へと成ってしまった。
今この場で起こったことは、そういうことだ。
閉じた瞼の裏。暗黒の闇でジョセフは整理し、ひとつひとつを慎重に考えていく。
まず『何故Jがジジなのか?』……これを最初からもう一度。
先述した今回のルールにおける重要事項、『最初のカード分配の時点で全ての数字にペアが発生する』……これは正確ではなかった。
三人以下のプレイヤーでゲームを行う場合に限り――『ひとつの例外』を除いて――この法則は必ず現れる。
その『例外』……法則という名の神の手から唯一外れる、たったひとつの状況が実は存在するのだ。
それが『ジジ』。ゲーム開始前、1枚だけ抜かれた負のカードのみが、この法則から零れ落ちてしまう。
本来ならばジジ抜きというゲームは、終盤まで展開してやっとジジの片鱗が見えてくるというもの。
だが最初のカード分配の時点でジジが何かを見抜ける方法というものがある。
ジジ以外の全ての数字は、最初必ず一組ないし二組のペアが完成し、場に早々捨てられる。これは必然ブレることのない事実。確定事項だ。
それは三人という集の中で4枚の札を分け配るからに他ならず、しかしジジだけは違う。例外とはこれなのだ。
ジジは勝負前1枚抜かれている故にジジであり、そしてそれ故に他のカードと違ってジジだけは『3枚』しか存在しない。
最初に三人それぞれ手札を配られた際、偶然にもジジの3枚がジョセフ、てゐ、藍の三人に1枚ずつ渡っていってしまった場合。
――――――このパターンのみ、ペアが作られない数字の存在を許してしまう。
ジョセフは今一度、必死に脳内の海馬組織をほじくり起こす。
決して記憶力が抜きん出ているわけでもなく、むしろ余計な記憶はさっさと忘れて日々を楽しむ彼だったが、それでもと懸命に記憶を思い返してみた。
それは勝負前、まだ順番決めのジャンケンも行っていなかった時のある行程。
―――『私は…………『A』『8』『9』『10』『Q』の五組がペア……まあ、こんなもんなのかな』
―――『俺も五組ペアが揃ったぜ。『A』『3』『6』『10』『K』だ』
―――『……私も五組。『2』『3』『4』『5』『7』のペアだ。つまりは全員が『7枚』の手札でスタートすることになるな』
これだ。このやり取り。
ババ抜きジジ抜きをやるならばどんな者だって最初に行う手順。
初めにペアのカードを捨てるという絶対ルールに、答えはあったのだ。
捨てられたカードを後から確認は出来ないという取り決め故に、頼りに出来るのは己の記憶のみであったが。
確か―――てゐが最初に捨てた数字のペアは『A』『8』『9』『10』『Q』。
自分は『A』『3』『6』『10』『K』。
そして藍は『2』『3』『4』『5』『7』。
重複を無視してわかりやすく並び替えると、『A』『2』『3』『4』『5』『6』『7』『8』『9』『10』『Q』『K』となる。
(何ベン思い出してみても、やっぱそうだ……! 全数字の中で『J』だけがここでペアとして捨てられてねえ!)
三人に同じ4枚のカードを配った場合、どう配役しても全ての数字にペアが発生する法則。
だが『例外』……3枚しかないジジのみに発生し得るパターン。
この3枚が三人全員に1枚ずつ行き渡ってしまった場合、この組み合わせのみが最初にペアは発生『しない』のだ。
誰かひとりに2枚以上のJが行ってしまった場合だと当然Jのペアは発生し、どれが『ジジ』なのかを判別することは途端に困難となる。
導き出される解答を簡潔に纏めるなら、最初にペアが“出来なかった数字”こそが『ジジ』で確定するということだ。
偶然だ。恐らく偶然、ジジであるJがバラバラに配られてしまった。
これは僥倖なのか。果たしてジョセフはそのおかげで、すぐにもジジのカードを判別できた。
そして、ここまではただの『事実』。偶然が味方し、早々に辿ることが出来た『論理』だ。
そして、ここからはひとつの『仮定』。可能性などという、綱として握るにはか細い『直感』だ。
論理……というのなら、ジョセフなどを遥か凌駕する存在が目の前に居るではないか。
八雲藍。この女が、ジョセフでも気付けたこのロジックを果たして見落とすだろうか?
答えは否。見落とすわけがない。
つまり藍はとうに気付いているはずだ。ジジのカードが『J』だと。
その彼女がつい今しがた、ジョセフの持つジジのJを一発で引き当て、自身の持っていたJと揃え合わせて捨てた。
このことにより、残りのジジ……今はてゐが所持しているはずの最後のJが真の意味でジョーカーと成り、死神と化したのだ。
場に3枚存在するJの内、2枚をペアにして捨てれば残りの1枚は必然、引いてはならないジョーカーと成ってしまう。
もしも藍がJをジジだと知っていたなら、自分が持つそれをすぐにも処理しておきたい所だろう。
何故ならそれはいつ己の喉を切り裂く死神に成り得ぬかも分からない、爆弾のようなものだからだ。いつまでも持ってはおきたくない。
女神を振り向かせ、死神を押し付ける力持つ者だけがこの競技を支配できる権限を持つ。
であるならば、考えようによっては、藍はてゐに死神を『意図的に』押し付けたのではないか?
藍はジョセフの持つJを引くことで相殺、消滅させ、自動的にてゐのJを化けさせた。
このゲーム、負けない方法があるのなら究極的には、ジジを引かなければいずれは勝てる。悪くても二番手だ。
あくまでも『仮定』……根拠ナシの想像に過ぎないが、しかし…………
――――――藍は何らかの方法でジョセフの手札を知り、そして初手からJを狙って引いたとしたら。
(また…………負けちまうぞ、この勝負……!)
藍が先ほどハートのJを引いた時、ほんの微かにジョセフを嘲笑ったかのように見えた表情の意味とは。
杞憂だと見過ごすには、あまりにも致命傷に成りかねない。早急に対策を練らねば、先のチンチロ勝負の焼き直しだ。
ジョセフはゆっくりと瞼を開き、目の前でカードを構える相棒を見つめる。
いいから早く引いてよ、と。彼女の焦れったそうな表情が言外にそう伝えてくる。
その手札に死神が混ざっているとも、気付かずに。
彼女は気付いているのか……? この事実に。もしも気付いていなければ、いち早く気付かせなければならない。
てゐの持つ6枚の手札にJが混ざっていることは明白。ならばこの勝負で藍を負かす方法はひとつしかありえない。
―――ジョセフがてゐのJを引き、それをもう一度藍に引かせることだ。
このゲームは誰かがアガらない限り、てゐが藍の、藍がジョセフの、ジョセフがてゐのカードを引く順番のままで変わることはない。
カードを引く順番廻りを考えると、てゐのJを藍に届かせるには一度ジョセフを介すルートしかないのだ。
(いや……出来るか? そんなこと…………コイツ相手に!)
藍が“もしも”ジョセフの手札を知っていたとして、そのせいで先ほどJを引かれたとしたなら。
ならばどうする? 仮にてゐのJを引けたとして、それをどうやって再び藍に引かせればいい?
さっき藍がJを引いたのは偶然か? それならばいい。
だがそうでないのなら、これは『先手』だ。ジョセフは藍に先手を許してしまったのだ。
もしもジョセフが藍より先にてゐの持つJを引いていれば、それで2枚のJは消化。藍が持つ残りのJが自動的にジョーカーと化していた。
その工程を藍の先手で潰された。早くも一巡目のこの段階で。
「……ジョセフ? どうしちゃったのさ、小難しい顔して」
キョトンと首を傾げたてゐが言う。
いつの間にかジョセフの顔はポーカーフェイスとは程遠い表情に移り変わっており、てゐも違和感を感じてきたらしい。
「どうしたジョセフ。確かに札を引くまでの制限時間は設けていなかったが、あまり長引くようだと向こうの二人が死んでしまうぞ?」
壁際に寝かせたシュトロハイムと霖之助を指差し、事も無さそうに藍が催促を促す。
彼らを襲った神経毒がその命を奪うまで後どれほどか。あまりうかうかしていれば二人が死んでしまう。
てゐは恐らく、ジョセフが内に秘める苦悩に気付いていない。
ジョセフが何を欲しているか。伝えようとしているか。
魔王を討ち倒さんと奮闘する最後の希望、生き残った二人の勇者は今やジョセフ・ジョースターと因幡てゐのみだ。
だが悲しいかな、両者の間に絆などそうは育っていない。
ほんの数時間前に出会った人間と妖怪。行きがかりで共闘を開始した、なあなあの関係という域は出ていない。
例えこの勝負の結果によって二人の間に信頼が芽生えてきたとしても、今はその『過程』に過ぎない。
この段階でてゐがジョセフの心中を察するというには、些か経験値が足りていなかった。
(ジョ……ジョセフ? 何か様子がおかしいな……、欲しいカードでもあるっていうの?)
中々カードを引いてこないジョセフに、てゐにも何となくその意図は掴めてきた。
が、それまで。彼が何のカードを狙っているのか。てゐには一体全体さっぱりわからない。
ジョセフもジョセフで、まさか『Jのカードはどれだ』と聞くわけにもいかない。そんな行為を藍が見過ごすわけがないのだ。
「ええい儘よ! やるしかねえ!」
いずれ限界は来たのか。
ジョセフは己の勘を頼りにカードを引いた。狙いは一番右のカード。確率でいえば6分の1。
「…………………『5』のペア、だ。チクショウ」
ペアは取れたが、本命のJに命中せず。
ジョセフ・ジョースター……6択、撃沈。
(何とか……せめて何とかてゐに伝えねえと! ジョーカーはオメーの『J』だってことを……!)
運命のジジ抜き、これにて一巡目の終了。
【各手札数】
ジョセフ:5枚
因幡てゐ:5枚(ジジ持ち)
八雲藍:5枚
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
八雲藍という妖怪は、あの
八雲紫直々の式神であり、九尾としての名に恥じないとてつもない力を備えている。
頭脳も超人的なそれであり、彼女の計算能力は三途の川の川幅を求める方程式の開発・証明を成し遂げるほどだ。
そういった経歴からか、彼女に付いてまわるイメージは常に『パーフェクト』。完璧の二文字らしい。
が、実のところはそうというわけでもなく。
予定調和だと思っているうちは強いが、予期しない出来事といったハプニングには対策が遅れる。
その思考は受動的であり、主である紫の命令には絶対遵守だが、自発的な行動は本来あまりやらず、創造性には乏しい。
決して弱点の無い女というわけではないのだ。
ジョセフ・ジョースターと相見えて戦ってきたチンチロ勝負、そしてこのジジ抜き勝負。
ここまでの展開は全て彼女の予定調和。掌の上で転がしてきたに過ぎない。
―――しかし、これまでに一箇所だけ。彼女にとっては完全に埒外のハプニングが起こったはずである。
因幡てゐはさっきから、『あの事』が頭の片隅に澱んでいた。喉奥に突っかかって取れない小骨のような気持ち悪さが離れなかった。
「さ、次は私が引く番だよ。札を出して、藍」
平静に、いつもの調子で声を出す。
藍は何も発さず5枚の手札をずらりとおっ広げて、私の選択をジッと待っている。
私の視線は札……ではなく、その向こうの藍の顔。何を考えてるかわからない女の、内奥に潜む心を見ていた。
もっとも私はサトリ妖怪なんかじゃあない。こいつの考えてることがわかるならこんなゲームに苦戦なんかしないでしょ。
私がさっきから気にかかってるのは、『あの時』叫んだこいつの台詞だ。
あの時―――私がこの香霖堂に入った直後のひと騒動。
『橙ッ!! ジョセフのリモコンを押せぇぇぇッッ!!!!』
『―――っ! ぁ、で、でも……藍様、わたしは……』
『め――――――くッ! 小兎ごときがァァ!!』
……め――――――?
『め』って何だ? 藍は一体何を言いかけたんだ?
め………………め? ……メロン? メガネ?? なんだ???
いや、わかっているのはあの時、コイツにとって予想もしなかったことが起こったということだ。
私という乱入者が現れたことで、藍はほんの一瞬だけ化けの皮が剥がれた。だからミス、らしきものを犯しちゃったんだ。
その油断が思いもしない形で口をついて出た。『喋ってはいけない何かを喋りかけてしまった』……たぶん、そうだ。
藍は恐らく、意外と脆い。決して無敵なんかじゃない。
今の彼女を見てればそれくらいわかる。コイツの現状は、冷静なようでいて完全に暴走状態だ。
もとよりこんな真似をする賢将ではない。何か『キッカケ』があって、壊れてしまったんだろう。
そのキッカケについてはこの際どうでもいい。問題はコイツが何をしているか。何を目論んでいるか。
そのヒントは、既に受け取っていた。
実は私の頭をさっきから悩ませていたのはもうひとつある。ある男が私に向けた行為だ。
―――
森近霖之助。やる気なさそうな、陳家な商い人。
さっき霖之助を隅に運んだ時、アイツは確かに『橙』を見ていた。
麻痺して言葉も喋れないアイツなりの、私に対する何らかの必死な『サイン』だったんだろう。
アイツは私に『何を』伝えたかったのか。それから私は今までずっと見ていた。橙と―――藍の視線を。
藍の方はさり気なく……本当にさり気ない視線だったけど―――しばしば橙と視線を交わしていたように思える。
一方の橙はわかりやすかった。何度も何度も藍を見ては頭を俯かせる。ずっとこの繰り返しだ。
藍と橙は、主と式神の関係だ。互いに気にするのは当然なのかもしれない。
主と式神の、関係。
主と、式神の、関係。
(………………いや、待ってよ……確か、八雲藍の能力、って………………)
――――――『式神を操る能力』
(――――――うッ!!)
身体中に電流でも走ったみたいに、私は硬直した。
幻想郷の住人にもそれぞれ個性とも言うべき『能力』、みたいなものはある。
私は『人間に幸運を与える程度の能力』であり、八雲藍は確か『式神を操る程度の能力』とかだったはず……!
その能力内容は読んで字の如く、なのだろう。藍にとっての式神とは言うまでもなく橙だ。
(いや……でも、ありえるじゃんか……! それって……)
例えば……もしも藍が橙という式神に命令を施し、自在に操っているとしたなら。
言葉という弾圧で捻じ伏せ命令するのではなく、橙も抵抗できないような強い妖力で無理やり使役出来るとしたなら。
思い返せば、今までの出来事全てに筋が通る。通ってしまう。
味方であるはずの橙がシュトロハイムや霖之助の首輪をあっさり発動させたのも。
藍が己の生殺与奪を握る首輪のリモコンを橙に持たせているのも。
全て、橙を傀儡人形にして操っているからで辻褄が合うじゃないか!
(そういえば、あの時だって……!)
それはジジ抜き勝負を始める時。カードを配る前の何気ないやり取りだ。
『てゐ……ジョセフお兄さん……! わたし―――!』
『何度も言わせるな橙。今のお前は中立の立場だぞ。
お前は黙って『やるべきことをやればいい』。いいな?』
あの時の橙の台詞……何か私たちに『伝えたい真実』があって、口を開いたんじゃないのか!?
すぐ後に藍が台詞を遮ったのも橙への牽制の為。『やるべきことをやればいい』という言葉は、『黙って命令に従え』とも取れる……!
(―――命令…………めいれい!?)
脳から溢れ出す察知は止め処ない。
てゐは直感的に閃いた。藍が放った件の台詞だ。
『橙ッ!! ジョセフのリモコンを押せぇぇぇッッ!!!!』
『―――っ! ぁ、で、でも……藍様、わたしは……』
『め――――――くッ! 小兎ごときがァァ!!』
め―――…………あの時に藍が言いかけた台詞の片鱗の正体は。
(“め”いれい……『命令』ッ! 藍はもしかしてあの時、橙に『命令だッ!』みたいなことを言おうとしたんじゃないのか!?)
藍と橙の主従関係を考えれば『命令だ』とは能力抜きにしてもそれほど不自然な台詞でもない……。
だが藍はそれでも途中であわてて言い止めた。私たちに不正を『察知』される可能性を恐れたから!
特に私だ。私や霖之助は藍の能力を大体把握しているし、外の世界にはあまり馴染みのない『式神』という概念も理解してる。
逆にジョセフやシュトロハイムが藍と橙の関係を完全に理解しつくすのは難しい。外の人間に妖怪だの式神だの、ピンとは来ないと思う。
だからだ。だから『藍の行い』の可能性に真っ先に気付いたのはジョセフやシュトロハイムではなく、まず霖之助だった。
アイツは一番最初に気付いてしまったんだ。藍が橙を傀儡にしている可能性に!
気付いてしまえば何の事はなく、これは随分単純な仕掛けだ。灯台下暗しというヤツか、今までその可能性に気付かなかったのが不思議なくらい。
思い返せば香霖堂に到着した後から橙の行動は一転、一貫して不自然だった。
その違和感に霖之助が不審を覚え、そして私にサインで伝えた。これはアイツの功績だ。
(でも……何故藍は橙にさっさと命令しないんだ? ……『私たちのリモコンをすぐに押せ』って!)
それが出来ればわざわざこんな遊戯などする必要はないじゃないか。
じゃあ逆に考えれば……『それが出来なかった理由』でもあるっての?
(いや……待て待て! 何か聞いたことあるぞ……! 藍って確か……!)
八雲藍という妖怪は決してパーフェクトではない。
式神である橙を自在に操るのも実は結構苦戦しているらしい、との噂すら耳にする。
橙が言うことを聞かない場合はマタタビを使って無理矢理命令しているという間の抜けた話もあるほどだ。
(つまり……藍の『式神を操る能力』は完璧じゃないんだ……!)
もし完璧だったならば今頃私たちは皆仲良く床にひっくり返ってるはず。
そうなっていないということは、藍の強制的な命令に橙も抵抗している……そうは考えられないだろうか。
非道なる命令に橙は必死に抵抗し、リモコンなど押すまいと言葉無き反乱を続けている。
実際、最初に藍は橙に命令したじゃないか。『ジョセフのリモコンを押せ!』って。それでも橙は押せずにいた。
だから藍も今のように、ゲームという結果を通じて橙にリモコンを押させようとしているんじゃないか?
ゲームの『勝敗』という公平な結果さえ得れば、恐らく藍の命令も絶対的な令呪という形で橙に襲い掛かる。現にシュトロハイムも霖之助も勝負に負け、橙にリモコンを押されている。
藍は『恐怖』という感情を橙に与え、本来完璧じゃない能力を凡そ完璧にまで強引に吊り上げ、橙を屈服させている。
でも思った以上に橙の抵抗が強かった。ジョセフたちを守りたい一心で、橙は主人に抵抗していたんだ。
―――コイツだってずっと独りで、戦っていたんだ……!
(なによ……結局、最後まで臆病者だったのは私だけってことじゃん)
ジョセフも、霖之助も、シュトロハイムも、そして橙も。
皆みーんな、戦っていた。誰かのために、何かのために、ずっと。
私が、私だけが、見ているだけだった。檻の中に閉じ篭るだけの傍観者に徹しようと。
でも。
それは今まで、だ。
今からは……これからは―――
「違うッ! 私だって戦う! 戦って! 勝って! お前に謝らせてやるぞ八雲藍ッ! 今までの行い全部ッ!!」
心に蟠る思いも感情も、その全てを目の前の女に叩きつける勢いで私は立ち上がった。札を奪い取ってやった。
―――勝つしかない。藍に勝つには、もうこの遊戯を制するしかないんだ。
―――勝てば橙はコイツのリモコンを必ず押すはず。勝利の結果さえあれば、藍の首輪はきっと発動する。それで全部終わりだ。
「見ろ藍。……『スペードの7』を引いてやったぞ。これで7のペアだ」
ホントは恐ろしくて仕方ないこの大妖怪相手にこれほど啖呵を切れたことを自分で褒めてやりたい。
なんにせよペアを揃えたことで私の手札は残り4枚。『2』『8』『9』『J』となった。
この中のどれかに『ジジ』が混ざっているんだろうか? そっちの考察も始めないとそろそろヤバイかもしれない。
「随分と威勢の良いドローだな。どれだけ吼えようとも私の手札はお前には見えない。結局この戦いは『運』ひとつで決まる」
そんなわけがないでしょう八雲藍。
運のみで勝負が決まる種目を、私相手に選ぶはずが無いんだ。そもそも最初からそこが奇妙だったんだよ。
お前は橙を使って必ず何かを――― イ カ サ マ を 行 う は ず だ 。
藍が橙に対して能力を行使しているという証拠は無い。そのことを突っついても藍は知らぬ存ぜぬを貫くに決まってる。
橙を問い詰めても……たぶん無駄だ。橙は藍を相当恐れている。きっと口は割らない。
この説はあくまでも『仮定』……根拠ナシの想像に過ぎないけど、しかし…………
――――――藍は橙を利用してイカサマを行うはず。そいつを何とかして防がないと……!
(また…………負けちゃうよ、この勝負……!)
もしくは既に藍は何かしてるかもしれない。
例えば橙の立ってる位置だ。橙はあそこの位置からならジョセフの手札が『見えている』。
ジョセフがジジを持っていたとして、そのジョセフの札を引くのは順番上、藍だけになる。
―――橙がジョセフの持つジジがどれかを、何らかの『サイン』で藍に送っていたとしたら?
それさえわかれば、藍は一生ジジを引くことはない。少なくとも負けは無くなる。
それに藍の式神への命令は言葉を必要としない。視線を交わすとか、頭に触れるとかだけで命令を下す事も出来る。
立ち位置上、橙からは私の手札は見えない。私の札を見られる心配はとりあえず無いけど……
とにかくこの勝負の肝は『ジジ』がどれなのかを早く見抜くことだ。
でも、今の段階じゃあまだわかんない。藍なら見抜いてるかもしれないけど、私にはまだ……!
(何とか……せめて何とかジョセフに伝えないと! 藍が橙を利用してイカサマしてる可能性があるってことを……!)
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
―――雨が強くなってきた。
屋根に当たる雨音が段々と増し、時折風音が窓を叩く。
雨は人の気分を憂鬱へと変えてしまう。バトルロワイヤルが始まってもうすぐ十二時間。その環境も天候と共に次第に大きく変貌していく。
歪なる魔境へと変わってしまった幻想郷。今、何処で誰が、誰と運命を共にしているのだろう。
自分の知っている誰かが戦っているのだろうか。自分と親しい誰かが危機に陥っているのだろうか。
ジョセフもてゐも、今それを考えている余裕など無かった。
あるのは目の前の九尾をどう攻略すべきか。そのことばかりが頭をもたげ、一歩一歩追い詰められていく。
現在。
現在の各プレイヤー三人の手札の推移は―――
ジョセフ:3枚
因幡てゐ:3枚
八雲藍:1枚
ババ抜きに基づくこのゲームは本来、思った以上に展開の早い競技だ。
思考は要らない。己の直感を信じて、相手の手札からただ1枚引き抜くだけのゲーム。
しかし事実、時計の針は留まることなく刻一刻と歩を進めていた。少しずつ『
第二回放送』の時間が迫る。
ジョセフもてゐも、このゲームに『思考』という要素を持ち込んだが故だ。相手の手札を、たっぷりと時間を使って引き抜いてきている。
その『思考』に割いている二人のウェイトは主にこうだ。
―――ジョセフは『藍のイカサマ、その方法。及びジジが“J”だとてゐへ伝える方法』
―――てゐは『ジジが何なのか。及び藍のイカサマをジョセフに伝える方法』
奇しくも二人は二人して、己の抱える難題の答えを相方が持っていることに気付いていない。
現在、藍がジョセフの手札を引くターンとなっている。藍の手持ちは『クラブの2』のみで、残りはそれ1枚。
ここでジョセフの3枚の手持ちから『当たり』を引けば、藍がアガり。それだけは何としても阻止しなければならない。
それもあるが、ジョセフはこのゲームでいうところの『ジジ』……Jを既にてゐから引いていた。
後はこれを藍に引かせればとりあえずは彼女がジジ持ちとなり、有利にゲームを進めることができる。出来るのだが……。
「藍ねえちゃーん? フッフッフ……! 今回、このジョジョが出血大サービスしてやるぜ。
ジジはねェ~……なんと、俺から見て真ん中か右のどちらかにあるぜ! さあ、少なくとも左にはねぇ。取るなら左を取―――」
「左だな」
ニヤけたジョセフの挑発が言い終わるのを待たずして、藍は引っ手繰るようにして左のカードを取った。迷い無しの一撃だ。
「……『9』か。残念、ペアは揃わなかったようだ」
残念というわりには彼女の顔は至極、勝ち誇ったように頬を吊り上げている。
ジョセフは痛感する。やはりこの女にハッタリはまるで通用しない。それは今回に限っての事では無いのだ。
(ク……ッ! こいつ……『やっぱり』ッ! さっきから全くジジを引かねえ! もう俺の手札を見ているとしか思えねえぞ!?)
藍は既に何度も何度もジョセフの手札を引いている。その度に毎回、神業の如くジジを避けているのだ。
ジョセフもただ引かれるだけではない。相手の視線を読み、巧妙にハッタリや駆け引きを仕掛けてきた。
それでも。それでも藍は、決してジジを引かない。
確信した。
八雲藍はやはりイカサマをやっている。
しかしどうやって? 見たところ、ガンカード(目印をつけたカード)とかではない。
このトランプは因幡てゐに支給されたカードだ。藍に細工する余地は無かったし、ジョセフもてゐもそれを一番警戒している。
「チ……! ほら、次は俺が引く番だぜてゐ。カードを出しな」
次第にイラつき始めるジョセフ。藍はあと1枚揃えることでアガリ確定だ。いよいよ後はなくなってきた。
「……あんまりイラつかないでよ。ツキが逃げてっちゃうでしょ」
焦燥が伝導するように、てゐの顔にも焦りが見えてきた。
てゐの3枚の内からペアを引き抜ければ、ジョセフもここでアガリが確定する。しかし―――
「ああクソッ! なんで来ねえんだよッ!?」
ジョセフ、またも揃わず。
そもそもジョセフは自身の蓄える2枚の内、片方のJがジジであることをわかっている。
もう片方は『K』。つまりはキングを引き抜いてペアに揃えることで、残った最後のジジを藍が引き抜き自動的にアガリとなるのだが……
この時点でキングがてゐと藍の持つ手札の合計5枚の中にひとつしかない事が判明される。
従ってジョセフがアガれる確率はジジを所持している限り、5分の1。ジジを持っているというだけでこのゲーム、不利は倍になる。
そのジジさえ処理したいものの、要である藍が一向にジジを引かないのだ。元々短気なジョセフがイラつくには充分な要素があまり余っていた。
「ジョセフ……」
てゐも他人事ではない。明らかに自分達は藍にペースで押されている。
運否天賦が全ての勝負にペースも何もない。それはわかっているのだが、藍がジジを引くという結果が最早まるで想像できないのだ。
(でも……でもなんか、少しわかってきたぞ……!)
悪態をつくジョセフを横目に、てゐには段々と確信が持ててきた。
―――八雲藍が行っている『イカサマ』の方法について。
藍は橙の主であり、やろうと思えば橙に対してある程度の命令は施せる。それも直接の言葉を必要とせずに。
そこに橙自身の意思など関係は無く、しかしそれでも橙は懸命に抵抗している。藍の命令は完全ではない。
……というのがてゐの仮説だ。ならばそれほど複雑な命令など、未熟な橙を介しては不可能だろう。
極々シンプル。藍が行っているイカサマは、そうとわかって見れば実に古典的なものだった。
(たぶん、間違いない……! 橙がジョセフの手札を覗き、藍へとサインで送っている……!)
藍がジョセフの手札を引く時だけ、橙の二又の尾がほんの僅かピクリと動いていた。
注意深くてゐが覗いてみれば、橙の『右の尻尾』が動いた時は藍が右の手札を取り、橙の『左の尻尾』が動いた時は藍が左の手札を取っている。
恐らく、ジョセフの持っているであろうジジを避けるような指示を、藍は橙のサインから受け取っているのだ。
頭脳はそれほどでもない橙だが、彼女はジジのカードが何なのか知っている。ゲーム開始前に彼女自身が抜き取ったのだから、ジジのサインを送る事も可能だろう。
ジョセフはその様子に気付いていない。橙を信頼している。橙の裏切りなど、まったく想定していないからだ。
正確には裏切りなどではなく、橙は強制されている。反抗できない命令に強引に捻じ伏せられ、協力させられている。
(許せないよ……八雲藍め!)
以前までの藍にはまず有り得ない所業。可愛がっていた式神を駒のように、奴隷のように扱うその行為。
本当に『何だってやる』のだ、今の彼女は。他の全てを冷徹に蹴落とし、最後には己の身をも振り落として目的を完遂させる。
ならばどうする、因幡てゐ。
全てを捨てた鬼神に勝つには、こちらも全てを捨てるしかないのか。
心も、誇りも、環境も、何もかもをも捨てて、それで最後に何が残る。それで勝利の美酒に酔えるのか。
勝って、その次は? その次も、次も、次も、戦うたびに何かひとつずつ捨てていくというのか。
丸裸の自分が果たして何を得られる?
今の自分には―――果たして何がある?
カードは。技は。策は。手札に残っているものは何だ?
考えろ考えろ考えろ考えろ考えて考えてコイツを出し抜け。
どうすればいい。今、手を打っておかないと全てが終わる気がする。
何だっていい思い出せ。八雲藍に無くて、自分にある物はなんだ。
手札―――
ジョセフ―――
ジョーカー―――
シュトロハイム―――
ハートの2―――
橙―――
八雲紫―――
首輪―――
霖之助―――
ドラゴンズ・ドリーム―――
チンチロリン―――
人間に幸運を与える程度の能力―――
ジジ抜き―――
クラブのK―――
式神を操る程度の能力―――
波紋の技術―――
三つ葉のクローバー―――
……………………
…………
……
「―――てゐ。何を呆けている、お前が引く番だ。引け」
ぐ……!? こいつ、八雲藍……っ 思考の邪魔を……!
グイと突き出された2枚のカード。さっさと引けと言わんばかりに私の目前に晒される、運命の札。
いくら考えたって活路なんて閃かなかった。所詮カードなんてのは、最後には引くか引けずか。それだけだ。
橙の方を視野の隅に入れながら、私はそっと右のカードを引いた。少なくとも橙の目線からは私のカードは見えないはず。
「引いたのはクラブの2、ね。ペアだ………………え?」
観念して引き当てたのは2だ。私の持つ2枚の内、片方が見事に揃った。
ってあれ? つまりこれって…………え?
残った1枚が次のジョセフに引かれるから…………アガり確定じゃん。このまま行けば一番乗りで。
「ほう……流石は幸運の白兎といったところか。難なくアガりとはな」
藍が皮肉のように囀るその言葉も、私の左耳から右耳へと突き抜けていく。
勝っちゃった……てこと? 私が? この猛者二人相手に?
イマイチ実感が湧かない。それもそうでしょ。私は……私たちはまだ『何もしていない』。
この雌狐に「参った」の言葉を引き出せていない。それどころか、コイツは、藍は―――
「さあ! ここが土壇場だぞジョセフ。私とて後が無くなってきたからな、札を出せ」
―――さも『予定調和』だと言わんばかりにほくそ笑んでいる。
そうだ……私は何を呆けていたんだ。
私も残り1枚だけど、今私が引いたことで藍だって残り『1枚』。下手すりゃこのターンで……!
ジョセフが負ける……!
【各手札数】
ジョセフ:3枚(ジジ持ち)
因幡てゐ:1枚
八雲藍:1枚
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
ババ抜き……もといジジ抜きとは。
過程がどうであろうが、最終的には『引いて』アガるか『引かれて』アガるかの二通りである。
今回のような『藍:1枚』と『ジョセフ:3枚』という図式に限って言えば、有利なのは実は『ジョセフ』の方だ。
一見手札の多いジョセフが不利にも見えるが、ジジを持っていることを度外視すれば、手札が多い=アガれる選択肢のパターンが増えることと同義。
(私の最後の手札は『ダイヤの9』。これを今この場で揃えればてゐよりも先にアガりとなる)
事態を決する重要場面でも藍は淡々と思考を深めていく。
ジョセフ3枚。てゐ1枚。この中のどれかにもう片方の『9』が存在する。藍がアガれる確率は単純に言えば4分の1ということになる。
一方ジョセフはこのターン藍が外せば残り2枚となる。その場合てゐの持つカードを引き、残った2枚の内どちらかの数字が揃ったならアガれる。
1枚の手札から揃えるより、2枚の手札から揃えた方が選択肢は倍なのだ。『1枚と2枚』での勝負では、2枚持った方が強い。
決して……決してこの駆け引き、藍が有利とは言えない。
―――彼女が、なんの『イカサマ』も行っていなければ、の話だが。
「――――――ジョセフ。『もしも』のことを考えてさ、カードはテーブルに伏せておきなよ」
二人の対決に入った横槍の正体。
因幡てゐが手札を弄りながらさり気なく刺してきた、相棒への助言だった。
「てゐ? ………………ま、用心の為ってとこかね。オーケーオーケー」
それは果たしてジョセフへの会心のフォローへと化けたのか。
ジョセフは特に異もなく、言われたように手札の三枚をテーブルに裏向きで伏せた。
これならば例えば、誰かが死角から手札を『覗き見る』ような行いは出来ない。
こうなったら藍は運任せで―――
「『運任せで引くしかなくなる』……とでも思っているのか? なあ、因幡の兎よ」
バクン、と。
心を読まれたてゐの心臓が一際鳴り響いた。
「そう思っているのならあまりに浅はかだな。例えば私がジョセフの手札を何らかの方法で見ている、とでも?」
節々から妖の息吹を吐き出しながら。
この状況でも藍は笑った。てゐの機転など読んでいたかのような佇まいで。
そして、彼女はゆったりと手を動かし始めるのだ。
決められた演劇の役に沿うかのように、優雅に、しかし機械的に。
腕の中に秘められた生命線。
その最後の札の、数字を。
「私の札は『ダイヤの9』。お前も持っているんだろう? この片割れの数字を」
公開した。敵は、己の懐に隠すべきである武器を、敢えて。
「――――――ッ」
予想だにしなかった藍の行動に、ジョセフは絶句。
そんなことをして藍に何のメリットが―――
「―――『何のメリットがあるんだ』……そう思っているな」
ギリリと歯を噛み締める。
これだ。八雲藍の、この全てを見透かしたような瞳が恐ろしいのだ。
「……いーや。俺が今思っているのは、とうとう頭おかしくなっちまったのかテメー、ってことだけだぜ」
「おかしくなどない、私は初めから正常さ」
「自分の手札見せてケタケタ笑ってる女が正常? こっちが笑いたくなるくれー……」
「お前の持つ札は『9』『J』『K』の3枚。そしててゐが持つ札は『K』だ」
高らかと、何でもない事のように宣言された藍の言葉。
今、この場の全ての人物が持つ全てのカード、その数字。
ピタリと的中させられた。
(なん……だよ、このオンナはァ……!)
ジョセフは背筋が凍る思いに身を轢かれ。
(え…………う、そでしょ? まさか、当たってんの……?)
てゐは並々ならぬ予感に戦慄を覚え。
「もう一度言うぞ。私の札は『ダイヤの9』。お前が持っている3枚の中にあるはずだ……『ハートの9』が」
そして藍だけがこのテーブルの全カードを、網羅している。掌握し尽くしている。
これは何も、森羅万象を超えた大妖怪の神力というわけではなく、ましてやイカサマなどでもない。
極めて単純な論理で構築された初歩的なロジック。ただのそれだけだ。
藍が残り1枚。てゐも1枚。ジョセフ3枚。
計5枚あるこの場で、残りのカードは誰が何を持っているのか。『計算可能』なのだ。
ここまでペアで揃って捨てられてきた全カードの数字、藍はそれを余すことなく記憶してきた。
その結果、まだ場に残っているカードは『9』が2枚。『K』が2枚。そしてジジであることがわかっている『J』が1枚。
これさえ熟知していれば後の組み合わせは自ずと浮き出てくる。
『9』『9』『J』『K』『K』……これが場に残ったカードだ。
まず藍は自身のカードが『9』であることは当然知っている。となればジョセフとてゐの持つ残りカードは『9』『J』『K』『K』。
ひとりでKを2枚所持することは有り得ない。従ってジョセフとてゐがそれぞれKを1枚ずつ持っていることになるのだ。
となればてゐの持つ最後の1枚がKだと確定。そうなればジョセフの持つ3枚が残りの『9』『J』『K』だとすぐに分かる。
藍:『9』
ジョセフ:『9』『J』『K』
てゐ:『K』
各々が持つカードの数字はこれだ。
僅か一瞬の計算で容易く導き出した藍の解答。もはや4分の1ではなく、3分の1という確率でジョセフは敗北を喫する。
だがあくまで『3分の1』。これこそ運否天賦の勝負だ。
仮に藍がここでジジの『J』など引こうものなら、ジョセフは残り『9』『K』。次にてゐが持つ最後の『K』を引いて揃え、残った『9』を藍に引かせて終了。ジョセフとてゐの同時勝利となる。
どちらが勝ってどちらが負けるか。結局のところは神頼み。
だからこそ藍は己の手札を公開した。
「動揺したなジョセフ。私の持つ『9』の札の片割れを自分が所持していることに気付き、ほんの僅かな焦りが漏れたぞ?」
―――『単純な確率勝負』から『複雑な心理戦』へと持っていくために。
「ジャンケンと同じだよ。『自分はグーを出す』と予め宣言することで、それはただの三すくみなどではなく駆け引きの心理勝負と化す」
のらりくらりと宣う藍の視線がジョセフと交叉し、心中を読み合った。
運の勝負ではない。これは敵の懐を探り刺す、人と妖の心理戦。
これまで藍との全ての心理戦に敗北してきたジョセフ。今ここで勝たねば今度こそ―――次は無い。
「さて……『右』か『左』かそれとも『真ん中』か。……私の求める9の数字はどれなんだ? 例えば……『右』か?」
八雲藍、捲くし立てる言葉によってジョセフの表情、機微、脈を余すことなく見つめる。
「さあ~ね~~。試しに選んでみ・れ・ば・ァ~?」
ジョセフ、動じない。
若干引き攣ってはいるが、浮かべた表情は恐怖ではなく笑顔。それも底抜けにふてぶてしい嫌味な笑み。
「じゃあ……こっちの『左』か?」
ガン、ガン、ガン、と。
藍は金槌で何度も何度も打つ。ジョセフという男の心理、真理を打ち崩す為に、相手の心を何度でも。
「そっちは……勘弁してくれねぇかなァ~~。9だったような気もすんだよね~」
打たれても打たれても、ジョセフは耐えるしかない。
執拗に続く女の探りに、決して動揺してはならない。
「真ん中はどうだ? これこそが9なのではないか? ん? ジョセフ・ジョースター」
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
叩いて、打って、突いて、崩して、透かして、見つめて、探って、読んで、笑って、脅して、揺さぶって、考えて、感じる。
ジョセフ・ジョースターの内奥に踏み込み、心を覗いて、喰う為に、藍は金色の瞳を冷たく輝かせる。
「…………」
ジョセフが口を閉ざし、僅か動揺した。
それでも藍は不用意に攻め込まない。じっくり舐め啜るように敵の思惟を見つめて咀嚼する。
今のジョセフの動揺は『真』か『嘘』か。敢えて見せた隙だとしたら、ここで噛み付くと返しの刃に喉元を刺される。
この男、決して駆け引きは弱くない。どころか、そういった口三味線を巧みに利用する戦法においては、藍からすれば大いに危険な人物だ。
ここで外せば今度は相手に反撃の機会を渡すことになる。この危険な男にチャンスは渡せない。
「―――お前は」
雨音以外、不気味に静まり返った室内。
言葉を発したのは藍。
「案外と言うべきか、几帳面な男だな。ジョセフよ」
ふぅと小さく息を吐き、首を傾けながら藍は目の前の男を覗き、言う。
「私はゲームの初めから、お前から取っていった札の数字の位置も記憶していたのだが……お前にはひとつ、『クセ』みたいなものがあるな」
ペロリと舌なめずりを行う藍の姿は、獲物を発見した大蛇のそれ。
狩りだ。いよいよ藍は、ジョセフを丸呑みせんと体勢を前屈みに傾けた。
ジョセフは逃げられない。
否。逃げては敗北する。
狐の皮を被った大蛇相手に立ち向かってこそ、相手の牙を折るチャンスでもある。
「クセ、だって? ハハッ クセが無い人間なんていねえよ。…………続けな、八雲藍」
「この手の遊戯を行う者にはよくあるんだ。例えば、手札の数字を小さいものから順に『並べたがる』クセを持つ者が、な。そういう連中は得てして己の持つクセに気付いてもいない。
私はな、ジョセフ。ずっとお前の持つクセを探ってきたんだ。お前が私に対してやってきたことと同じように」
滑らかに。それは美しいとすら言えるように。
藍が卓に伏せたジョセフのカードにスゥ…と腕を伸ばしてきた。
「先に相手のクセを読んだのは私だったようだな。
ジョセフ・ジョースター……お前はカードの数字が小さい順に左から無意識に並べるクセを持っている。
つまりこの9、J、Kの3枚の中で私が欲する9の札は…………『左』だ。私から見れば右の位置、これこそが『9』だろう?」
「――――――ッ」
何度も見てやっとほんの僅か、薄らと感じたジョセフの動き。違和感。
その微動なる心の動揺を藍はここに来て――――――察知した。
何度も何度も叩き続けた藍だったからこそ垣間見て取れた、ジョセフの心臓。その鼓動を。
「……俺のクセを読んだっていうんならよォー、藍。…………“取ってみろよ”、そのカードを」
ジョセフは最後まで敵から目を逸らさない。
タフな台詞と共に吐き出した刺すような視線は、果たしてハッタリか、それとも―――!
(ジョセフ……勝て……勝ってよ……! アンタが負けちゃあ、もう……!)
その様子を見守るてゐも、はち切れんばかりの心臓の躍動に身が締め付けられる思いだった。
胸の前で手を組み、彼女はただただ祈るしか出来ない。
(ジョセフお兄さん……お願い……勝って、藍さまを……!)
それは中立の立場で見届ける橙も同じ。
今この瞬間に限っては、ジョセフ・ジョースター対八雲藍。この真剣勝負に水を差せる者は神ですら許されない。
そして今。
藍の手から運命のカードが開かれた。
誰もがその札に注目せざるを得ない時間。
果て無き泥を突き進むこの心理戦。
勝ったのは――――――
「………………ッ!」
人は記憶と感情が詰まった肉人形。
どんな人間だって、生まれ持った記憶や感情を完全にひた隠しにすることなど不可能である。
ジョセフの身を叩き、打ち、探り、焦がしてきた八雲藍。
彼女は没頭したのだ。ジョセフという肉の人形を血眼になって覗き込むことに。
人は記憶と感情が詰まった肉人形。
ならば妖怪はどうなのだろう。
八雲藍という一個人は、どうなのか。
今の藍は。存在意義を失ってしまった藍は。バグを生み、暴走する藍は。殺戮の海にひたすら沈むことしか出来ない藍は。
―――見えない。まるで見えなかった。
ジョセフは、藍という肉の人形を血眼になって覗き込んでも、彼女の纏い隠す感情の底はまるで見えなかったのだ。
一方的に心を読まれるような不毛な心理戦。今の藍はもはや大妖怪という威厳など捨て置いている。
てゐが評した通り……まさしく化け物と呼ぶに些かの差異も無く。
化け物を討ち倒すのはいつの世も『人間』。
世にありふれた数ある物語……謳われ古されども、決して廃れることの無い定番の英雄譚。
この物語は、そんなひとりの人間が化け物に立ち向かう物語であり。
しかしいつの世も物語という物は人の手で綺麗に書き直された、都合の良い『偽り』の英雄譚でしかない。
この物語の主人公は、ジョセフ・ジョースター。
世に言う、正義が悪を滅ぼす物語。残念ながら彼の物語は、そういった清らかなものではなく。
彼が打ち砕く化け物とは。
八雲藍とは―――
「――――――見事だ。ジョセフ・ジョースター」
止まっていた時間が、藍の言葉をトリガーとして再び刻み出す。
「まんまと……やられ“かけた”よ。実に危なかった。いや、見事としか言えない」
藍が右手で添えたカードは…………伏せられたまま。
代わりに左手で公開されたカード―――
――――――『9』の数字が刻まれたカードが、表向きにされていた。
「テ、メ…………ッ!」
今度こそジョセフは驚愕を露わにした。
藍は……宣言した左のカードを選ばなかった。土壇場で『右』のカードを選び直し、開いたのだ。
彼女から見れば左手にあるカード……『9』の数字を。
(ク……クソッ! こいつ……コイツ! 引っ掛からなかった! 俺が匂わせた『偽』のクセに引っ掛からなかったッ!!)
全ては最初から仕組んでいたことだった。
ジョセフは藍に『偽のクセ』を掴ませる為に、敢えて数字の小さい順に手札を並べて持ち続けていた。
今回の為に。この大勝負の為に。藍がジョセフのクセを掴むと読み、しくじらせる為に。
ゲームの初めからずっと偽のクセを演じ、最後の勝負で藍をハメる為に仕組んできたことが。
―――積み上げた騙しの砦は砂上の楼閣となり、積み木が如く崩された。
「つくづく大した詐欺師だお前は。実際、私も途中まで完全に騙されていたよ。お前の演じた偽のテクニックに。
札を取る時のお前の表情や僅かな所作、震え……あれも完璧なウソ、ハッタリだった。危うく死神を掴まされる所だったな」
ジョセフの演技は完璧だった。
偽のクセを本物だと思い込ませる事も、藍の探りに偽の感情を刷り込ませた事も、完璧だったはずなのに。
この敵は、それでも。
それでも、ジョセフの上を行った。
敢えて。敢えてジョセフが犯したミスを挙げるのならば。
彼は藍と心理戦など行うべきではなかったのかもしれない。
素直に己のカードをシャッフルして伏せていれば、この強敵と同じ土壌で戦う必要も無かったのかもしれない。
心理戦でなく単純な運勝負で待ち構えていれば、結果はまた違ったかもしれない。
していれば。かもしれない。そんなたらればで語ったところで何の意味があるというのか。
無残で尖り尽くした結果は変動しない。
このテーブルに在るのは、ジョセフ・ジョースターが八雲藍を討ち損じたという敗北の結果だけだ。
【各手札数】
ジョセフ:2枚(敗北確定)
因幡てゐ:1枚(2位アガり確定)
八雲藍:1位アガり
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
最終局面は意外とあっけないものだった。
藍がイチ抜けしたことで、ジョセフはてゐの最後の一枚を取る以外の選択肢は無い。
相棒の持つKを抜き、自身のKが揃うと同時にジジ――『J』が残り、必然的にてゐは2番でアガり。
このジジ抜き決戦―――敗者(Dead Parrot)はジョセフ・ジョースターで終結を迎えた。
雨の音が妙に耳に障る。
因幡てゐはそんな外界から目も耳も塞ぐように、そして口すらも塞がれて銅像となっていた。
何を語ればいいのか。何を目指せばいいのか。何に耳を傾ければいいのか。
もはや汗すらも伝って来ない。身体の震えもピタリと止まっている。
てゐは自分でも奇妙とまで思えるほどに、この現実を受け入れていた。
負けた。己の唯一と言っていい戦力のジョセフが今ここに、敗北を喫したのだ。
勝ったのは藍と……てゐ。敗北者はジョセフただひとり。
『最後にジジが残った者の負け』というルールに則るのなら、このゲームの敗者はジョセフの他ない。
曲げることも出来ぬ、あまりにも正当快活な結果。故にてゐもジョセフも結果を受け入れるしかなかった。
「――――――すまねえ」
どれほどの時間が凍り付いていただろうか。案外に、数十秒程度だったかもしれない。
ジョセフは心の底から悔しそうに、言葉を吐き出した。てゐに対する、謝罪の言葉を。
それは、どういう意味で?
てゐは吐きかけたその言葉を飲み込み、スっと心の奥に仕舞い込んだ。
これから起こる事柄を思うと、今更彼に対し何か返してやろうとはとても思えなかった。
せめてもの情としててゐは、ゆっくりと顔を上げ相棒の面構えを仰ぐ。
ひどい顔だ。素直にそんな感想が浮かんだ。
悔しさとか、歯痒さとか、怒りとか、情けなさとか、悲しさとか、そんな多々なる感情が濃縮されたような、ひどい顔。
男が一騎打ちにて負けたのだ。どんな勇猛果敢な蛮勇であっても拳震わし、項垂れるだろう。
敗者は咽び、勝者は綻ぶ。
闘った者が辿れる権利。殺しの盤に関係なく、いつの世も争いの終わりにはその両面が覗く。
女神の前髪を掴んだ者と、掴み損なった者。
貪欲に掴んだのは藍で、ジョセフが掴んでしまったのは死神の襟首というだけの話。
後は……『終わり』を迎えるだけ。死神の鎌が、振られるのを待つだけ。
「橙。そこの負け犬に、報いだ。―――お前がリモコンを押せ」
「…………っ」
下された薄氷の命令に、橙は是も非もなく従うしか出来ない。
シュトロハイム。霖之助。そして次は、此の地で最も彼女に慈愛を注いだ人間、ジョセフ。
その男が今まさに、橙自らの手で以て、刑が執行されようとした。
頬には涙の乾いた痕。心が憔悴しきった彼女にはもう、哀しみの雫すら伝うこともなかった。
「―――そうだ、てゐ。……お前だろ? 俺のポケットに『あれ』を入れといてくれたのは」
いつの間にかジョセフのひどい顔は僅かに晴れ、てゐを直視しながらほんの少しはにかみながら言ってきた。
『あれ』とは一体何のことだろう。てゐが重たく沈む思考を手探ると、その記憶はすぐに掘り返すことが出来た。
「…………あぁ、私が道端で見つけた『あれ』? ……気付いてくれたんだ」
「さっきケツポケットまさぐった時に、偶然な」
数時間前の人里での出来事。
てゐが橙を連れて外に赴き偶然発見した『三つ葉のクローバー』を、ジョセフのポケットにこっそり入れておいたのだ、そういえば。
三つ葉のクローバーは四つ葉ほど有名ではないにせよ、『幸運の象徴』として立派に運気を秘めている代物。
てゐからすれば四つ葉よりも断然珍しいとのことで、何となしにこっそりとジョセフの体に仕込んでおいた。勿論、彼の運勢を少しでも高めるためという気休め程度の行為だ。
「俺の為にやってくれたんだろ? まあ負けはしたけどよ、ちょっぴり勇気も出たぜ。サンキュな」
「……そ」
今となっては何の意味も無い。てゐが施した『人間を幸運にする程度の能力』も『幸運のクローバー』も、全ては気泡に帰した。
だから彼女はジョセフのこの感謝の言葉に、およそ素通りで返事した。てゐのやった行為など、何の役にも立たなかった。
「でも私は、結局何も出来なかったよ。ジョセフを助けようとここまで来たってのにさ―――」
「『ジョセフ』じゃあねえ。『ジョジョ』だぜ」
「……は?」
「俺のことは『ジョジョ』って呼べよ。“ジョ”セフ・“ジョ”ースターだから『ジョジョ』。J、O、J、Oでジョジョだ。くだらねーだろ?」
少年のようなあどけなさで笑うような彼に、いつしか消沈の色は殆ど消えていた。
本当に、くだらない。
こんな時に、今から皆殺されるかもしれないって時に、どうしてそんな顔で笑えるのか。
それが発端。
てゐの彼に対する、違和感の種が植えられた。
「てゐ。お前、スゲーよ。カードゲームとはいえ曲がりなりにも俺に勝った女だぜ。
チビのわりには勇気があるぜオメー。本当に俺の『相棒』にしてやってもいいかなーと思えるくれーだ」
それは果たして褒めているのか?
自分はちっとも凄くなんかないし、ジョセフに勝ったなんてとても言えない。チビという一言も余計だ。
ましてや相棒だなどと。あまりにも不釣合いで、おこがましい。
それもこれも全て霖之助のヤツがその気にさせるようなことを言ったからだ。忌々しい。
「……悪ィな。最後までお前と一緒に戦ってやりたかったが、どうやらそれもムリらしい。
だがお前の行為、気持ちは絶対ムダにはさせねえ。心細くなったら俺のことを思い出しな。手を貸してやるぜ」
…………コイツはさっきから何を語っているんだ?
ジョセフの本心が見えない。今は人のことより自分の心配をするべきなのに。
「いいかてゐ。J、O、J、Oでジョジョだ。『次』からそう呼べよ!」
次……?
次などあるのか。これから起こる惨劇に、『次』など。
それだとまるで…………まるで私が藍に―――
「―――勝てるさ。お前なら必ず藍に勝てる。……だから俺を信じろ。お前を信じる俺を、信じるんだ」
そこから私の目に焼きついた映像は、きっと生涯忘れないと思う。
不敵に、大胆に笑いおおせたジョセフは、次の瞬間あまりにも簡単に地に崩れていった。
フィルムのひとコマひとコマのようなスローモーションさで。
私たちの『希望の光』は、九尾の胃に呑み込まれて消え失せてしまった。
ジョセフ・ジョースター
因幡てゐ 対 八雲藍
――――――敗北者、ジョセフ・ジョースター。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
最終更新:2016年10月11日 18:43