第074話 二人はまだお互いを知らない ◆LNV.YOON.c
あるべき足場が不意に消え、泉は危うく転倒するところだった。
あまりの混乱に階段があることを忘れてしまっていた。全身から汗が噴き出し、心臓が思わず耳を塞ぎたくなるほどに高鳴った。
けれど、そのまま呼吸を整えることも考えず一段、一段、階段に足を踏み下ろしていく。
踏み外さないよう慎重に、そう心掛けようとすればするほど泉の焦りは強まるばかりだ。
一度だけ苛立ちを叩きつけるように、階段を強く踏みつけた。
そんなことで階段が縮まるはずもなく、踵を少し痛めただけで何の意味もない行為だった。
階段は整備されておらず所々が欠けていて、ただでさえ小さい幅を更に狭めていた。風雨の為か、人の為か。……人とすれば誰が何のために登ったのか。
今の泉には想像もつかない。自分は何のためにこんなところに来たのか。それを思うだけで後悔が沸き起こった。
落ちる感覚もないまま、泉は下方へと落ちるように降りていく。
気付けばそれ以上、降りる階段はない。道路に足がつく。その瞬間、泉は思い出したかのように駆け出した。
どこでもいい。どこか安心できる場所。そんなところが本当にあるのかわからない。けど、少なくともここは安心できる場所ではなかった。
「センパイ、どこ? どこにいるのセンパイ!? あたしはここにいるよ!」
走りながら泉は叫んだ。
一貴のいる場所。きっと、そこなら安心できる。泉はそう思った。でも、この島のどこに一貴がいるのか。
一貴ならどこに向かうだろう? 泉には何も思い浮かばない。
自分ならどこに向かうだろう? 泉にはそれすら思い浮かばない。
……本当にそうだろうか。だってさっきからずっと一貴が傍にいてくれたらと思っていたはずなのに。向かう所なんて決まっていた。一貴のいる所。じゃあ、一貴の向かいそうな所はどこだろう? 決まっている。
……伊織さんのいる所。
アスファルトの固い感触。こんな風に道路の上を走ることなんてあっただろうか。どこかであったはず。そんな取り留めのない思考が走ることから泉を遠ざけていく。いや、本当はそのおかげでまだ動くことが出来ていたのかもしれない。
呼吸はきれぎれ、脇腹には痛み。悲鳴などとうに忘れていた。ディバックは動く度に身体にぶつかってきて、押さえないと安定して走れず、ずっと強く握り締めているから手には腕には型がついていた。
……気付けばいつの間にか、泉は立ち止まっている。
喉が痛むように渇きを訴えていた。ディバックから水を取り出す。ペットボトルを傾け、喉に流し込む。身体の芯まで冷える心地がした。
汗が制服と肌の間を張り付くように染み込んでいて不快だった。タオル、それに着替えが欲しい。シャワーも。
でも、そんなのどこにもない。どこかにあるんだろうか。いつもはそんなこと考える必要もなかった。
「……何でこんなことに」
いつしか泉の口から呟きとともに嗚咽が漏れ始める。
俯いていると地面が見える。足は限界で、思わず泉は道路に座り込んだ。夜道には人のための明かりもなく道は闇で先が途切れていて、泉はどうしてこんな道を進んで来れたのか自分が不思議でならなかった。
何が出て来てもおかしくないように何が消えてもおかしくない、いつ尽きるとも知れない道の只中で、不意に泉は背後から何かが追い掛けてくる姿を想像する。足音はない。
けれど、気になったらどうしても確かめずにはいられなかった。
気のせい。ちょっと振り向けばわかること。……そう思って振り向こうとした瞬間、背後から激しい音が轟く。
『フォオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!』
単なる風の音。
決して変態が奇声をあげている、なんてことではない。泉は必死にそう自分に言い聞かせたが、スタンガンに手を伸ばすことは止められない。
……スカートのポケット。
泉の手からペットボトルがこぼれ落ちた。転がりながら僅かに残っていた水を地面に撒き散らしていく。暗い夜道に暗い染みが出来た。こぼれた水が伝わったかのように、ぞっとする冷たさが泉の全身を這う。慌ててディバックのジッパーを開いた。掻き混ぜるように中を確かめていく。地図と名簿と何枚かの紙がと皺を作った。パンが潰れた。叩き落とすようにしてディバックを引っ繰り返す。ディバックを放り投げて、道路に散らばったものをしばらく眺めていると、泉の手は今度は自分の髪を掻き乱すために動き始めた。
……もちろん、そんなところからスタンガンが見付かるはずもなかった。
それから少しして泉は我に返るとあたりに思わず、撒き散らしてしまった荷物に気付いて少しずつディバックに戻していった。結局、変態なんていなかった。
最後に空になってしまったペットボトルを手に取る。
顔が固まったまま何故か笑顔を形作る。でも、笑い声は少しも漏れなかった。
空になってしまったペットボトルをその場に投げ捨てると、これで荷物が少し減ったな、と今まで以上に重く感じるディバックを抱えながら、……泉はそんな気休めを考えてみた。
結局、泉は迷ったあげく道を引き返すことにした。
あの変態が何を考えているのか分かったものではないが、本当に眠っているのなら食料と水を奪った時と同じように、気付かれないうちにスタンガンを取り戻すことが出来る。
今、もし誰かに襲われでもしたら逃げるより他ない。疲労を考えると逃げることすらままならないかもしれない。武器が必要だった。……誰も守ってくれる人がいないのだから。
無事に取り戻したら誰にも見付からないように隠れている方がいいのかもしれない。そうすれば危険を冒す必要もないし誰に守ってもらう必要もない。ただ、それは孤独に耐えることさえ出来ればの話。
こんな状況で、こんな状況だからこそ、人に怯えて隠れていると心が壊れそうだった。
(それでも……頑張って生き延びていれば、……きっと、センパイが見つけてくれる)
泉にとっては一貴の存在だけが救いだった。運命の人、そんな言葉に縋りたくなる。泉は何かの運命を信じるように、一貴を信じていた。……好きな人だから。
出会ったばかりなのに一生懸命、海に落とした指環を探してくれて、少しだけ自暴自棄になっていた自分のことを真剣に考えてくれて。ひょっとして下心があるのかと疑ってみたけれど、本人は動揺しつつも自分の好きな相手のことをずっと考えていて……一途な人で、そういう人が自分のことを本当に好きになってくれたらいいな。
……そう思った。
……一貴と伊織がお互いに想い合っていることを知っていても。
『泉ちゃん、ごめん。……伊織ちゃんのために死んでくれないかな?』
……不意にそんな言葉を頭の中で誰かが囁いた。生き残るのはたった一人。
「そんなことない。……そんなはずないもの。センパイがそんなこと考えるはずないよ」
変態のことをなるべく考えないように努力していたら、嫌な想像ばかりしてしまう。
俯いて地面ばかりを見ていると暗い気分になってくる。スタンガンはまだ見付からない。
あと10歩だけ歩けば見つかる。あと10歩。10歩。……10歩。
そんな風に考えて歩いていると気付けば無学寺を少しだけ通り過ぎていた。慌てて戻る。
階段に足を落とすとき、少しだけ震えた。変態がスタンガンを持って待ち構えている姿を想像すると引き返そうか泉は再び迷い出してしまった。
……それでも、ここで引き返してしまっては今までの行為が全て無駄に終わってしまう。懸命に足を伸ばし、泉は自分の身体を上へと運んでいった。
「……あった」
スタンガンは拍子抜けするほどあっさりと階段の中程のあたりで見付かる。泉はほっと息をついた。軽い脱力感さえあった。これでようやくここから離れられる。
離れる前に泉はほんの一瞬、階上を見上げた。泉自身はそのつもりだったが、自分で思う以上に眺めている時間は長かった。……結局、誰の姿も現れることもなく、その後は振り返りもせずに泉は階段を降りていった。
始めは違和感だった。慌てて逃げ出したため、それほど周囲を観察していたわけではない。けれど階段の終着点に何かが立っていれば気付かないはずもない。
……誰かがいる。
泉はそのことに気付くと同時、僅かに後退りした。踵に石段が当たる。振り向くと後ろには壁のように階段がそびえ立っている。その先には変態の眠る寺があるだけ。
……逃げ場がない。
最悪の展開に衝撃を受け、泉は思わずバランスを崩すと階段に腰を下ろしてしまう。
慌てて立ち上がろうとするが腰が抜けてしまったのか、脚をバタつかせるばかり。
それを見てか、まるで石像のような人影が石段を登って、こちらに向かい始める。
巨岩の岩窟に埋め込まれたような黒。それは男が人ならぬ存在であることを泉に教えるかのようだ。絶望が恐怖が泉を包み込む。
「ぁ、ぁ……ぁ」
あまりの恐怖に耐えきれず泉は眼を瞑った。叫びにもならない嗚咽が漏れ出る。しがみつくようにスタンガンを握り締める。突き出し、振り回す!
硬い何かに手が当たった。かと思うと、岩にでも閉じ込められたかのように手が動かなくなってしまう。何が起こったのか。暗闇の中にいる泉には分からない。
一瞬、痛みが走った。痺れだけが手に残る。
「……ひっ」
突然、掴んでいたはずのスタンガンの感触が感じらなくなり、指先が地面に落ちた。必死で手を動かし、動くことから千切れ落ちたりしたのではないことを理解する。
慌てて石段を叩くようにスタンガンを探す。スタンガンの落ちた音がない。その意味だけは考えたくなかった。焦燥感だけが高まり続ける。
しかし泉の気持ちとは裏腹にそれから何も起きずに、時間だけが過ぎていった。
……
…………
………………とうとう我慢できなくなり、泉はそろそろと目を見開く。
……あった。
階段の五段ぐらい下から、大男が見下ろしていた。まるで柱が突然生えたようだった。
男の手にはスタンガンが握られている。それを見て泉は自分のこれから先の運命を呪った。
唯一の武器を奪われ、抵抗する手段が何もない。いっそのこと狂ってしまえばいいのかもしれない。そうすればこれ以上辛い思いをしなくても済む。何故か、そんなことを冷静に考えてしまった。……狂い始めているのだろうか。
「……あの、どうかしたんですか?」
泉はその言葉を聞いて、自分が本当におかしくなってしまったことを悟った。こんな大男から、まるで少女のような細い声が聞こえてくるなんてことがあるはずもない。
その大男の横からおさげ髪の少女がひょっこりと顔を出したことに、泉が気付くにはそれからかなりの時間が必要だった。
「……ファルコン、……さん、ですか?」
桜乃の存在に気付いたことで、一応の落ち着きを取り戻すことの出来た泉であった。
けれどスタンガンは相手に奪われたままだ。相手に見掛けほど凶暴な素振りは今のところ見えないが、不安は消えない。
(……どうしたらいいんだろう)
取り返したいと思う。しかし、そのことにも今どれだけ意味があるのか泉は疑問に思ってしまった。
あっさり奪われてしまったことと、一度もスタンガンを試した経験のない泉はスタンガンがどれだけ強力な武器かどうかの判断がつかない。これが、拳銃かナイフのように分かりやすい殺傷能力を備えた凶器であれば、泉も奪われたことに一層、恐怖を感じただろうが。
泉にとってどちらかといえばスタンガンは武器というよりもお守りのような存在だった。持っていれば襲われても何とかなる。少なくとも襲われていない今、スタンガンは役目を果たしてくれている。
武器を奪われて、逆らってもどうしようもない相手なら、ひとまず良い関係を築くことに専念するべきだ。
桜乃の存在が緩衝材となり、上手くすれば半ば諦めていた一貴を探す味方を得ることが出来るかもしれない、と泉は考えることが出来た。
色々問題はあるが。
例えば、初対面の人間に『俺のことはファルコンと呼べ』などと言ってくる輩がもし仮に存在するとして、その人物にどういった反応を返せばいいのか、とか。
ついでに男は推定年齢30~50の身長二メートルを超える大男で髭面にハゲのサングラスの筋骨隆々のいかつい人相をしたといったオプションが洩れなくついてくる。
……どうしろと。泉は頭を抱えたくなった。
ひょっとしてギャグで言っているのか、と泉は考えた。だがもし真剣だった場合、笑えば命の保証があるとも思えない。とりあえず、どちらが正解でも問題のないよう当たり障りのない態度を見せておくのがベストと泉は判断する。
「……ファルコンって隼のことですよね」
それだけ言うのが精一杯だったが、何となくファルコンは嬉しそうな顔をしているようだ。泉は選択を間違えなかったことにほっとする。
桜乃と名乗る少女もファルコンと呼んでるのだから、途方もなく強引に相手を良いように解釈すれば親しみを持ってもらおうとあえてそうしているのかもしれない。
(これがセンパイなら、きっとすぐに笑えたんだろうな……)
一貴のことを考え、泉はぎこちないが少しだけ微笑みをファルコンに向けることが出来た。
「寺谷さんは、鼻がすごく……大きくて丸い眼鏡を掛けていて。……ちょっとHだけど割といい人。
伊織さんは、多分CMとかで見掛けたことあると思うんですけど。ふわりん……ってこういう感じにペットボトルを持った、見たことないかな? 新人アイドルの
葦月伊織さん。
……一貴センパイは、……」
自己紹介のあと一同は一旦階段から降りることになった。泉と桜乃はお互いの知り合いを紹介し合う。他の参加者にも知り合いがいたことを知って泉は驚く。そういえば、体育館でも安西や近藤という男に向かって……。
「ところで、お前は無学寺に行っていたな。そこで何か見たか?」
「……え? 何って……何が」
泉の思考が激しく揺れ動く。ファルコンとの遭遇でそれどころではなかったのですっかり忘れていたが、泉は変態から逃げていたことを思い出す。
「変態! 変態! 変態がいたの!」
その言葉を受けてファルコンは呟く。
「……まさか、リョウか?」
その言葉に凍り付く泉。ひび割れの音までした。
ファルコンがそう思ったのは、この状況に巻き込まれて変態と呼ばれるような行為をする余裕のある人間はリョウぐらいのものだろうと考えたからだった。
……この言葉を聞いた時の泉の動揺の程を察してもらえるかはわからないが。泉が最初に考えたのは、この男も変態……ということだったことは言うまでも無い。
泉の後退る音を聞いたファルコンが問い掛ける。
「おい、どうした?」
「……イヤイヤイヤ!!! 来ないでもうイヤァ!!」
よくよく考えるとこの男が女物の下着をどうこうする変質者であっても、守ってもらえるならこの際、深く考えないというのも手ではある。
変態よりも人殺しをまずは恐れるべきだ。だが、変態で人殺しだったら最悪である。
桜乃を連れていたのだってひょっとすると……。
「センパイ! センパイ助け……もがー!!」
「何を勘違いしてるか知らんが、おれを変態扱いするな」
泉が逃げるよりも早くファルコンは泉の襟首を掴んで捕まえていた。それだけ言い終えると泉をすぐに解放する。咳き込みつつも泉は逃げようと走り続けたが、途中で我に帰った。
「……本当でしょうね?」
「大体、もし本当にあいつならお前みたいなガキは襲わん。何かされでもしたのか?」
……確かに、単に相手は寝ていただけである。突然、女性物の下着が出て来てパニックに陥ってしまったが、別段、危害を加えられた覚えはない。
「……確かに、何もされなかったけど」
「なら、騒ぐな。……ったく」
ということは、てっきり女の下着を収集しては頭から被って悦に入っているような危ない趣味を持った人間かと思ったが、女装趣味があるだけの男なのだろうか。それなら普通の男よりも危険は少ないと考えることも出来る。
……根本的な誤解は直らないままだが、泉は少しだけ混乱を抑えることが出来た。
「……でも、……そのリョウさんって人と、どういうお知り合いなんですか?」
「同業者だ。まぁ、実力はオレの方が上だがな」
……どういう仕事なのかは深く考えないことにしよう。そう思った泉はそれ以上、考えることを放棄した。
かくして事態は沈静化し、一応の落ち着きを取り戻したかに見えた。
しかし、ここで泉は自分がこの男の知り合いから食料と水を盗んでいたことに思い至る。
相手の分まで手は付けていないのだから、謝って返してしまえばお仕舞いかもしれないが、盗みを働いたことが知られると心証が悪くなってしまう。
出来ればそれは避けたい。だが、特に名案も浮かばない。なかったことには出来ないまでも少しだけ先延ばしにしたい心理が働く。
隙を見てこっそり返してしまおうか。泉はそっとディバックを開いて、中を確かめてみる。
……そこには透明な袋の中で断面図のように潰れてひしゃげた白い腸のような中身を露わにしているパンがあった。折れた鉛筆が破れた地図の間を通っていた。コンパスは蓋が取れていて、針が捻れて天を指していた。ペットボトルを触るとざらりとした砂が手につく。
時計は6時を指していた。
「…………」
放送が始まった。
あたりに静寂が訪れたとき、何かが終わってしまったことしか泉には分からなかった。
「うそ、……菊丸先輩」
桜乃の漠然とした呟きが再び静寂を乱す。それが我に返る切っ掛けだった。
「伊織さん、寺谷さん……何でよ。何でこんな」
紹介したばかりの二人が呼ばれ、泉は動揺を抑えきれない。二人が死ぬことなど考えてもいなかった。自分のことだけで精一杯だったから。
悪い想像。泉の全身を寒気が襲った。慌てて二人に一貴の名前が呼ばれていなかったかを尋ねる。一貴の名前を聞き逃しているはずなんてないと思う。
でも、どうしても確かめずにはいられなかった。だって、二人の名前が呼ばれた。同じように一貴の名前が呼ばれない保証などない。
「ねえ、さっきセンパイの名前なかったよね! 一貴センパイの名前!! お願いだから、なかったって言って!! なかったって!!」
すぐにでも答えが欲しくて近くにいた桜乃の肩をつかみ激しく揺らす。
「どうして死んだなんてわかるの? 誰が決めたのよ。そんなこと! 教えてよ。ねえ、ねえ? 聞いてるの!!」
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
訳が分からない。何故、謝るのか。自分はただ教えて欲しいだけだというのに。泉の心に疑念が沸き起こる。よく見れば制服や手、全身が土で汚れていた。特に手。
何をすれば、これほどまで汚れるのだろう。土遊び? そんなはずは……ない。泉は肩から手を放して、土で汚れた桜乃の手を掴み上げようとして……ファルコンにその手を掴まれた。
「……落ち着け。まだ呼ばれてはいない」
ファルコンの声を聞いてようやく泉は止まった。固い地面に膝をつく。サングラスをしているからファルコンの表情は読み難く、本当か嘘か真実はわからない。
それでも、嘘でも信じたい気持ちがあった泉はそれ以上聞くのは止めた。恐ろしい答えがいつ返ってくるともわからないのだから。本当はそんなこと聞きたくもなかったのだ。
考えてみれば自分も、二人の名前を聞き逃さなかっただけで精一杯だった。彼女もテニス部の先輩が呼ばれてそれどころではなかったはず。同じ事を問われて答えられるかどうか。
「……ごめんね。桜乃ちゃん。……あたしちょっとどうかしてたみたい。ごめん。……あ、あの、でも、本当に……呼ばれた人は、……その、死んでしまったと思いますか? どうしてわかるんですか? ……そんなこと」
それを聞いて、ファルコンはしばし考えた後、地面に腰を下ろして適当な紙を取り出すと文字を書き連ね始めた。
『これからあることをお前達に調べてもらう。決して声には出すな』
それを見せて、返答がなかったことからファルコンは納得したと見て書き続ける。首輪を軽く指差してから紙を再び見せた。
『レンズか何か目立つものはあるか? YESなら一回、NOなら二回叩け』
泉と桜乃は二人、ファルコンの首輪を覗き合う。レンズらしきものは見当たらなかった。
泉は二回、ファルコンの肩を軽く叩く。
『この首輪には盗聴器が仕掛けられている可能性がある。呼吸音か脈拍か何かで生存者か否かを見分けているのかもしれん』
「……そんな」
泉と桜乃は思わず声を出してしまい、慌てて口に手をやる。ファルコンは咎めなかった。
『そのことは連中には知られないようにしろ。おれは眼が悪い。何か伝えたいことがあるなら腕にでも直接、指で文字を書け』
……けれど、泉も桜乃も何も思い付く事が出来ず、ファルコンの書いた『盗聴器』という文字を見詰め続けるばかりだった。
ファルコンは念のために二人に禁止エリアの位置を改めて伝えておくと、無学寺に続いていく階段に向かった。
泉にスタンガンを手渡す。
「……おれはこれから無学寺を見てくる。お前達は森にでも隠れて大人しく待っていろ。 戻れば声をかける。……スタンガンは泉、お前が持っていろ」
「……あ、はい」
元々、それは自分に支給されていたものなのだから、持っていろも何もないではないかと泉は一瞬思ったが、信用して返してくれたのは嬉しかったので文句は言わないことにした。
それに桜乃が何か言いたいようだ。俯いた顔に瞳が揺れていて、それでも必死で言葉を伝えようとしている姿を見て、邪魔をしては悪いと思った。
「あ、あの……私も、……その……」
けれど、全てを聞くまでもないように振り向きもせずファルコンは答える。
「おれ一人で向かった方が早く済む」
それだけ告げるとファルコンは無学寺に続く長い階段を登って行った。
* * * * * * * * * * *
「オイ、起きやがれ!」
背中を蹴りつけ、海坊主は乱暴に
流川楓に目覚めを告げた。
……寝息を聞いた時点で海坊主はこの男が
冴羽リョウでないことは分かっていた。
自分が少し落胆していることに気付き、舌打ちする。心の底では再会を期待してしまっていたようだ。可能性は低いだろうと思っていたというのに。
女を守るような仕事は全てリョウに押し付けてやって、自分は首輪を片付けて連中を冥土に叩き込むことに専念したいというのに何をやってるんだ、あいつは。と心の中で毒づく。
冴子の死がリョウと香に与える心配だった。本当に冴子がいたのか、同姓同名の可能性もある中で確信はまだ持てない。リョウならあの説明の間でも参加者全員の顔の把握ぐらいはしていただろうが、光の見えない自分には無理な話だ。
ただ、この状況で偶然にも同姓同名の人物が何人もいたとは思えない。そのような偶然は有り得ないことだ。
あの強かな女がそう易々と死ぬとは思えない。だが、どんな人間だろうと死ぬ時は死ぬ。裏の世界で生きなくともその程度のことは理解できるはずだ。
あれでもリョウはプロのスイーパーとして経験を積んできた。親しい人間を亡くしたことも何度かある。……その辛い現実を越えて生き延びてこれただけの実力は持っている。
香は強い女だ。そのことは疑う余地もない。しかし殺し合いに勝ち抜いてまで生き残れるような人間でもない。……自分たちのような。
香は冴子とリョウを巡って張り合うことも多かった。それでもなんだかんだと言って仲はよかったのだろう。冴子の死が香に悪い影響を及ぼしていなければいいのだが。
……そして、もし香を失えばリョウとてどうなるかは分からない。愛する者を失うということは耐え難いことだ。数々の悲しみに耐えてきたリョウとて勝てるものか分からない。自分が美樹や真希を失うことを考えてみればそのことは簡単に理解できた。
……もし、冴子が本当に死んだとするならば、一般人に紛れてプロの人間も混じっている可能性がある。少しばかり警戒を強めておく必要があるだろう。
だから、桜乃たちとは一時的に別れることにした。階段の上から何かを落とされた場合、二人の人間を庇いながら避けるのは難しいだろう。隠れている方が危険は少ない。
泉の変態という言葉の中身が気にかかった。少なくとも、あの動揺から嘘を言っていた様子はない。だが、その割に落ち着きを取り戻すのが早かったのもおかしなところだ。
泉に直接問い詰めた方がよかったのかもしれないが、先程の様子からあまり刺激を与えるのもなるべく避けておくべきだと判断した。桜乃に無闇に心配をかけるのも良くないことだ。
……それに気になることもある。
この男から、事情を聞くことが出来ればそれでいいだろう。しかしこの状況でこんなにも深く眠れるとは相当図太い人間だな。海坊主は素直に感心する。
むくり。
いっそのこと、この寺にあった鐘でも間近で叩いてやろうか、ついでに盗聴器の向こうにいる相手に対する嫌がらせにもなる。そんな下らないことを考えていた矢先、起き上がる気配があった。即座に海坊主は問い掛ける。
「さて……貴様はここで何をしていた?」
「……何人たりともオレの眠りを妨げるやつは許さん」
だが、心地よい眠りの世界を無理やりに中断させられた流川は当然の如く機嫌が悪かった。質問に答える道理もなく。
……躊躇なく眼の前の大男の腹に向かって蹴りを放つ。
もちろん海坊主がその程度のことで動揺するはずもなく、蹴りは片手で受け止められる。
流川は表情をさほど変化させなかったが、少しだけ驚きを持って海坊主の顔を見返した。
海坊主は相手を威嚇するような満面の笑みを見せる。
「フン、なら眠っておけ」
……勝負は一方的だった。受け止められた足から体勢を崩されることで、海坊主の一撃を避け切ることもできず、あっさり一撃を受けて激しく床に倒れると、流川は再び眠りの世界へと誘われた。
……そういえば、話を聞くはずでは? 決して、そのことを忘れていたわけではないが、力加減を忘れてしまっていた。慌てて起こそうとするのだが流川の意識は戻らない。
「……起きろ! おい! いつまで眠っているつもりだ!」
自分でやっておいて無茶な話だ。流川は当然、起きない。起きられない。頭部から流れた血が床を赤く染めていたりまでする。まるで殺人現場だ。
……さすがにこうなっては仕方がないので、海坊主は流川を起こすことを諦めた。
ひとまず、その場に散らばっていたものを置いてあったディバックに掻き集める。だが、食料と水、そして武器のようなものは流川の身体を探ってみても何も見当たらなかった。
このことから泉のディバックから漏れていた僅かだが多い水の音の正体は、この男から奪ったものと確信する。……なら、泉はもうひとつ武器を隠し持っていることになる。
その可能性は考えなかったわけではない。余分な水を持っていた時点で当然、その危険性は理解していた。そう簡単に信頼を寄せられるわけもなく当たり前の態度だといえる。
階段での様子を見ると、とても他の武器を持っていたようには見えなかったが、あの慌てぶりでは単に忘れてしまっていただけなのかもしれない。
まぁ、この無防備だった男を殺していない以上、即座にどうこうするわけでもないはずだ。
……だが、やはり疑問は消えない。
眠っている男から物を盗んだ。それならば隠し通そうとすればいい。自分の言動から露見する危険があるのに、無意味にこの男を変態と呼ぶ必要もない。起こそうとして襲われたにしても、変態という発想には向かわないはず。怯えていた態度も演技だとも思えない。
何かがあることには間違いない。……何かが。
疑惑の主である流川はまだ起きない。
これ以上無駄な時間を過ごすわけにもいかないと、海坊主は流川を肩に抱ぐとディバックを持ち、桜乃と泉の元へと戻ることにする。
こうなった以上は直接、泉に話を聞くしかない。この男と泉をどうするかはそれからだ。
長身の男を一人抱えておきながら平然とした様子で海坊主は長い階段を降りきった。二人に呼びかけようとしたその時、ふと、周囲に誰の気配も感じられないことに気付く。
「……おい、戻ったぞ!」
海坊主はしばらく二人を呼んでみたもののやはり反応は何もない。
いったい二人に何が起こったのか?
……謎は深まるばかりだった。
ちなみにいちごパンツは泉が放り捨てたときに偶然、ディバックの中に舞い戻っていた。
海坊主はディバックを持ち上げたとき、あまりの軽さに中身は空だと思い込んでしまって、不幸にもいちごパンツの存在に気付くことが出来なかったのである。
* * * * * * * * * * *
ここで時間は少し遡る。ファルコンが階段に消えたすぐ後のことである。
泉は自分の罪が白昼の元に晒されることが、ほぼ決定的となり半ば観念することにした。
既に殺人が起こっているのだ。盗みを働いたことがバレるぐらい大したことでもないかもしれない。今は複雑なことはあまり考えたくなかった。これから先のことで精一杯だ。
「行っちゃったね。……しょうがないよ、桜乃ちゃん。ひとまず隠れよう。誰かに見付かったら怖いし……」
しかし、桜乃がその場を動く素振りはない。おどおどした様子で泉に声をかけてくる。
「あ、あの……泉さん。私……あの実は行きたいところがあるんです」
「あたしと一緒じゃ嫌だった? やっぱりファルコンさんと一緒に行きたかったの?」
「いえ、そうじゃなくて……その、埋めてある銃が誰かに見付かってないか心配で」
「銃を隠してたの? 何で……」
……その言葉で泉は桜乃の手や服が土まみれになっていた理由に気付いた。
「私には使えないぐらい重かったんです。だから、誰にも使えないように……でも、もし誰かが私の隠しているところを見ていたらって思うと心配になってきて……」
「……それでもし、リョーマくんや誰かが傷付いてたら。菊丸先輩が殺されいてたら、私……どうしたらいいか分からなくて」
痛いぐらいに張り裂けそうな胸を押さえながら、それでも、桜乃はちっぽけだけど確かな決意を胸に抱いていた。桜乃は泉に告げる。
「……だから私、一人で先に進んでおこうと思います。私と一緒だとファルコンさん達は遅れてしまいそうだし、同じ進行方向だから、後ですぐにまた会えると思いますから。
泉さんはファルコンさんを待っておいてあげて下さい。ファルコンさん目が、ちょっと悪いそうですし……心配ですから」
「……でも、ってことは桜乃ちゃんは武器を持ってないわけで、身を守るもの何もないのに……危ないじゃない。どんなやつと出くわすかわからないでしょ?」
「でも、これ以上私が迷惑をかけるわけにもいかないし。……私、自分に出来ることが何かないか考えてみたんです。……一生懸命考えたんですけど……やっぱり何もないんです。
……ファルコンさんのことを信じること。神様にお願いすること。それだけで……。
だから、思ったんです。私が出来ることがないなら、少しでもファルコンさんの負担を減らさなきゃ駄目だって。……何にも出来ないなら、それだけでも出来なきゃ駄目だって……」
泉はそれをただ聞いていた。自分のたったひとつの武器であるスタンガンを見詰めながら、ぽつりと呟く。
「……ねえ、ちょっと紙と鉛筆貸してくれない? ……ありがと」
「あの……何を書くんですか?」
鉛筆の揺れを見守りながら桜乃は素直に疑問を口にする。泉は書き終わると桜乃の眼の前で紙を泳がせた。
『ファルコンさんたちへ
あたしたちは先に隠し場所へ向かっています。早く追いついてください。
……ついでにごめんなさい。
IとSより』
「え、で、でも……」
「よし! これで大丈夫。これならすぐに分かるでしょ」
適当な石ころを紙の上に載せて道路の真ん中に置く。
「あたしも一緒に行ってあげる。最初はスタンガンを渡そうかなって思ったけど。どうも心配なのよね。あ、別に信じてないってわけじゃないよ。信じてるからこそ一緒に行ってあげたいって思ったんだしね」
正直、怖い気持ちはある。
けれど、眼の前の自分よりも年下の少女が勇気を振り絞っているのを見て、何も出来ないままだというのは嫌だった。泉とて好きな人のために何かをしてあげたいと思う気持ちは持っている。
でも、出来ることなんて何もない。それどころかずっと助けて欲しいとだけ思っていた。……一貴も苦しんでいるかもしれないというのに。
……実際これからしようとすることを考えてみると怖くてしょうがない。ほんの少し、先を歩くだけのことがこれほども勇気のいることだとは思わなかった。既に13人もの人が殺されていて、その中には身近な人もいた。……殺した人は凶器を持ちながら次の獲物を探しているのかもしれない。いや、探している。間違いなく。
……それでも、この子はそれを成し遂げようとしている。
結局のところ、あたしたちみたいな人間に出来ることは何かを信じるか信じないかぐらいのことなのだろうと泉は思った。
……なら、信じよう。
「……ねえ、桜乃ちゃんさ、いる? ……好きな人」
「……え、え、あの?」
「ふぅん、その反応から見るといるってことか。……ずばり、リョーマくんって子でしょ?」
「ふぇ、あ、そ、その、リョーマくんは憧れの人で、す、好きとかそういうんじゃ……」
「……ま、それならそれでいいけど。でも、ちゃんと素直に伝えないと、気持ちは伝わらないよ。それじゃあリョーマくんだって、自分がどう思われてるかわからないじゃない。
自分が誰かから好意を持たれてて嫌な気分になる人なんていないでしょ。もっと積極的になっていいと思う。自分が相手から貰えた気持ちは相手にいっぱい返した方がいいよ」
「……でもきっと、リョーマくんは私の言葉なんて必要としていないと思うんです。自分が凄いことちゃんと分かってて、それが出来る人で、だから私……」
「……そっか、でもさ。いくら自分が凄いことわかってても、肝心なことはまだ分かってないと思うな。うん、分かってない。分かってたら放っておくわけないものね。こんな可愛い子のこと。桜乃ちゃんだって、そうだよ。ひょっとしてわからないじゃない? ねえ?」
「……え、え? い、泉さん?」
「……伊織さん、……素直な人じゃなかったな」
「……」
立って歩けばどこまでも遠く広い青空が視界に映る。眠らないまま夜は明けていて、道が遠くまでよく見えた。
何かで濡れた頬を撫でるように風が通り過ぎ、二人の制服を音もなく揺らす。
そして、二人は無謀にも共に歩み続けた。失われた銃を求めて。
【E-08/車道/一日目・午前7時ごろ】
【女子17番
竜崎桜乃@テニスの王子様】
状態:健康
装備:なし
道具:支給品一式
思考:
1.泉さんと一緒に先を行く
2.リョーマが無事であればいい
3.後でファルコンさんたちと合流する
【女子02番
磯崎泉@I''s (アイズ)】
状態:健康
装備:100万Vスタンガン
道具:支給品一式 (食料と水、二人分。水一本消費) コンパス故障。地図破損。鉛筆は芯が折れている。
思考:
1.桜乃ちゃんと一緒に先を行く
2.一貴と合流する
3.後でファルコンさんたちと合流する
4.奪った食料と水は一応返すつもり。でも、どうしよう
【備考】
1.桜乃と泉は海坊主が盲目なことに気がついていません(少し目が悪い程度だと思っています)。
2.泉は流川楓を冴羽リョウという名の女装癖がある男で、ファルコンもその仲間と思い込んでいます。
3.桜乃と泉は盗聴器の存在に気付きました。
【Fー08/無学寺近くの車道/1日目・午前7時ごろ】
【男子02番
伊集院隼人@CITY HUNTER】
状態:健康
装備:なし
道具:支給品ニ式(食料と水は一人分) 扇子の骨@ヒカルの碁 いちごパンツ@いちご100%
思考:
1.桜乃と泉を探す
2.この男をどうしたものか……?
3.首輪を外す道具を探すため、鎌石村に向かう
4.主催者達への怒り
【男子42番 流川楓@SLAM DUNK】
状態:気絶 頭部から出血
装備:なし
道具:なし
思考:
1.???
※Fー08の無学寺近くの車道にファルコン宛の手紙が残されています。
最終更新:2008年04月02日 17:52