第007話 リング ◆7euNFXayzo
――波の音が聞こえる。
三井寿が目を覚ましたとき、最初に思ったことがそれだった。覚醒したての思考回路へ、次々と情報が飛び込んでくる。
目を開いたにも関わらず、視界は薄暗がりに覆われている。頬に触れる何かは冷たく、平坦ではない。砂のような――外、だろうか。
「……んだ、これ……」
多少なりとも眠りが深かったのだろうか、指一本動かすのにもそれなりの苦労を強いられる。
ようやく身体全体が自由になって立ち上がることが出来た頃には、視力の方も回復し始めていた。
掠れた景色には一面、無骨な岩山が広がっていた。高低差はそれ程でもなく、山の上という訳ではないらしい。
暗闇のせいで遠くまで見渡すことは叶わないが、高所特有の息苦しさも感じない事から、多分そうだろう。
――波の音が聞こえる。
「……?」
そうだった。何よりもまず、山の中で波打つ音など聞こえる筈がない。山を流れる小川のせせらぎなど微々たるものだし、
滝の水が流れ落ちる音だとするには逆にそれは迫力に欠けていた。
ならば、波の音と岩肌を繋ぎ止める状況と言えば――
一つの予感が頭を過ぎり、まだ確認していなかった背後の風景を確かめようとしたその時――足元が、がらりと崩れた。
「――は?」
踵に触れる地面が消失して、後方へとバランスを崩しかけた体を、振り子の要領で前へと動かした上半身の勢いだけで巻き戻す。
ついでに一歩、足を進めておくことも忘れない。
岩と岩がぶつかり合って跳ねる音がして、その音はすぐに波に飲まれ、消えた。
――予感的中だ。
三井が立っていたのは断崖絶壁の、それも本当に端の部分だったのだ。
目を覚ますのがもう少し遅かったら、三井は現状を一切把握出来ないまま、突き出た岩々にその身を打たれ、海の藻屑となっていただろう。
こんな場所に寝かしつけておくなど、主催者の連中は何て趣味の悪い――
――主催者。
その記憶が、決定打となった。堰を切ったように、記憶が蘇る。
見知らぬ人間が大勢集められた体育館、戸惑った顔の知己の少女、照らされた頭上のライト、武装した兵士、
いつもと変わらないのんびりとした調子で現れた白髪の老人、その背後からやってきた髭面の中年、
――「君達には殺し合いをしてもらいます」 ――
「……マジって、ことかよ」
はっきりとした現実を認めた途端、心臓が暴れるように激しく鳴り出した。
この異常な状況は、嘘偽りではない。自分達は、殺し合いをさせられるのだ、間違いなく――
思わずよろめいた足が、柔らかな何かを蹴った。
ゆっくりと下げた視線の先にあるのは、横倒しになっている物体。
――デイパック。
『デイパックの中には数食分の食料・水、それに参加者の名簿・筆記用具・地図・コンパスが入っており、
他にランダムで得物となるものも入っている』
獲物となるものも――
獲物。この場合に獲物という言葉が指すものと言えば、一つしかない。
殺し合うということは、人の命を奪うということだ。命を奪うために、必要になるものとは何か。
――"武器"だ。
三井はデイパックの前に屈み込むと、倒れていたデイパックの底を地面へと置き直し、ジッパーを開いた。
当然だが、こんな殺し合いに乗る気など更々ない。しかし、同じように武器を渡された人間が存在しているだろうということを考えると、
自衛のためにもそれは必要不可欠となる。不良をやっていた割には情けない話だが、自分は腕力の方には然程自信がないので。
だが、金属同士の擦れ合う音が耳へと届いて、明らかになったその中身は、おおよそ"武器"とは程遠い代物だった。
三井が取り上げたものは、手にしたばかりにも関わらず、余りにも馴染みすぎるオレンジ色の球体。
言うまでもなくそれは、バスケをする者にとって相棒にも等しい親近感を持った、バスケットボール以外の何物でもなかった。
「……くそったれ」
大した冗談だ、そう思った。生き残ればまたバスケが出来るとでも言いたいのだろうか? 皮肉としても質が悪過ぎる。
まず、生き残るための唯一の"武器"というのがバスケットボールでは話にならない。顔面にでも投げつけてやるか? 馬鹿な。
武器というのは普通、拳銃だの刃物だの、最低でも"そういう用途"を持っているもののことを言うのだろう。
ボールを投げて人が殺せるのなら、ボールなど必要はない。
それだけの腕力を持っているなら、普通に殴りかかる。でなければ、石でも使った方がずっと合理的だ。
何よりボールは、バスケをするための物だ。
バスケをするための――
「……」
――バスケ、か。
自嘲気味な笑いが漏れるのを、抑えられなかった。
生きるか死ぬかの瀬戸際で考えることが、バスケットボール。暢気にも程があるのではないか。
しかし、暢気にでもならなければどうにもならない事も確かだった。
はっきり言って、これで自分が生き残れる可能性は0だ。多少の自棄は許して欲しい、そう思う。
――そうだな。とことん暢気に行くって言うんなら――
「――してみるか、バスケ」
実際に声に出してみると、何故か身体が軽くなった気がした。
屈んでいた身体を上げて、天を仰いだ。その手には、当たり前のように収まっている、バスケットボール。
視線の先にある青白い円をゴールに見立てて、三井はシュートの体制に入った。
膝を軽く落とし、ボールを眼前へと掲げる。左手は添え、右手は月の――ゴールの正面。
静寂の中で瞳を閉じてみると、慣れ親しんだ光景が、今も変わらず目の前に広がっているような感覚に陥る。
熱気に包まれた体育館。敵味方入り乱れて駆け回るコートの中には、無数の騒々しい足音が広がっている。
三井のいる場所は、他の連中が凌ぎを削り合っているゴール下から、少し離れたラインの外。
それでも対戦相手は、三井に対して必死に食い下がってくる。
――どんな奴も、オレの恐ろしさを知ってるからな。
自然と笑みが毀れる。ボールが渡ってしまえば、後はこちらの思うがままだ。
どれだけ執拗なディフェンスを受けても、自分は常にその上からシュートを放ち、ネットを揺らしてきた。今度も同じことだ。
観客席から、力強い声で自分の渾名を呼ぶ声がする。
視線を向ける余裕まではないが、今日も変わらずこっ恥ずかしいあの応援旗を振り乱しているのだろう。律儀な奴。
――ま、軽く決めてやるからよ。
ボールが手から離れる寸前、視界の端に違和感があった。
ゴール下での激しいポジション争い――おいおい、そんなマジにならなくたってオレは外さねえよ、桜木は特にはりきり過ぎだ――の中。
一人外れて、立ち尽くしている背中があった。
赤いユニフォームに刻まれた、背番号は、4。
――は?
何やってんだお前、試合中にボーッと突っ立ってやる気あんのかよ? 桜木が同じことやりゃあ速攻バカタレがっつって殴る癖によ。
おい、しっかりしろよ。オレ今からシュート撃つぞ。リバウンド入れよ、いつもみてえに他の奴らと身体張り合ってよ、どしっと構えてろよ、なあ――
長身の背中が、こちらを向いた。
その顔面は、彼が着ているユニフォームと同様赤く染まりきっていて、もはや顔面と呼べる形を止めておらず、
それを意識が認識した途端、彼の身体はユニフォームに覆われていない肌色の部分も含めて、何もかも"赤"に侵されていき、
上半身が、下半身が、腕が足が首が何もかもがブチ切れてバラバラになって床へと落ちていって――
「――赤――」
一直線にゴールを向いていたはずの手首が、その時、ブレた。
弧を描いて宙へと羽ばたいたボールは、僅かに軌道を変えて、リングに何の抵抗もなく弾かれた。
その音は、呆然とした三井の耳へと空しく響いて、本当にとても、救いようのない、音が――
「……うああああああああああああああっ!!」
跳ね返ったボールの行方を知ることもなく、その景色は、途切れた。
「――」
目を開いたとき、三井の掌には何の感触もなかった。
フォロースルー――シュートを放った直後の体勢のまま固まっていた腕を下ろして、ぼんやりと、荒れ果てた地面を見渡す。
ボールは視線の遥か先、一際天へと突き出している岩肌の前で転がっていた。
尖った地面を何度か跳ねたせいだろうか、ボールの表面は薄く削れている部分が見受けられて、打ち捨てられたような姿になっていた。
実際、三井が拾おうとしない限り、このボールは捨てられたようなものだ。
ここはバスケットのコートではない。殺し合いをする場所なのだ。持ち主のいなくなったボールを躍起になって追いかける者など、誰もいない。
そして、それを認めようとしなかった一人のバスケットマンは、もう二度と、リバウンドもダンクもブロックも出来ない身体にされてしまった――
「……」
気が付いたら、足を前へと動かしていた。
必要のない、傷付いたボールを手にするために、三井は一歩ずつ、それに近付いていく。
そして、拾い上げた。
滑らかな球体は完全ではなくなってしまったけれど、やはりそれは、いつも三井の手の中に存在したバスケットボールそのものだった。
――やっぱ、忘れらんねえよな、こればっかりは。
置いていたデイパックの下へと戻って、ボールを仕舞い直す。
何かの役に立つことなど、期待はしていない。実際、このゲームが続いている間に、このボールをもう一度取り出すことなどないだろうと思う。
それでも三井は、手放すことが出来なかった。
赤木は死んだ。湘北のレギュラー5人がコートに揃うことは、永久にない。桜木たちとも、出会えないかもしれない。
だから今は、このボールだけが、自分とあの日々を繋ぐ唯一の存在だ。
仲間がいて、競い合う相手がいて、熱意があって、声援があって、コートがあって、リングがあって、ネットがあった。
もう一度、あの音が聞きたかった。腕を振り上げる力を、底を尽いた気力でさえも奮い立たせる、放ったシュートが鳴らす響きを。
このボールは、言わば、そこへと帰るための切符代わりだ。
ジッパーを閉じ、デイパックをひょいと右肩に担ぎ上げると、三井は歩き出した。
まずは、アイツらとハルコちゃんを探そう。
宮城は、まあ大丈夫だろ、キレるのは早えが、こういう状況でイカれるようなタマじゃねえ。飛び蹴り得意だし。チビのくせに。関係ねえけど。
流川。想像つかねえ。夢だと思って二度寝でもしてんじゃねえのか? 本気でありえるから怖えな、アイツの場合は。
桜木。……なんか、嫌な予感がするな。あのバカを放っといたら、ゲームに乗った連中でも無闇やたらに突っ込みかねねえ。
アイツがケンカ強えのは充分に分かってるが、それでも相手が銃とか持ってたら話は別だ。
腕っぷしだけでどうにかなるほど、このゲームは甘くねえ。
もっとヤバいのは、ハルコちゃんだ。
赤木のやつが死んだのを、本当に間近で見ちまった。おまけに今度は、目が覚めたら真っ暗ん中に一人ぼっちだ。
名簿の中にある名前は、知らねえ奴のがほとんどだった。
もしその中に乗り気のやつが混ざってて、ハルコちゃんがそいつと出会っちまったら――
頭の中で浮かび上がった最悪の事態を、三井は首を振って掻き消した。
――兄妹揃って、そんな悲惨な終わり方にしてたまるかよ。
――オレが、やらなきゃ。
頼れる相手は何処にもいない。尊敬の念を抱いていた恩師は、今や自分達を死へと追いやる悪意の塊と化した。
引き摺られる訳には、いかない。
――諦めたら、そこで試合終了ですよ、か。本当その通りですよ、安西先生。
言葉の主が狂気に取り込まれた今も、その言葉だけは三井の中で揺れ動くことはなかった。
かつて、三井を立ち上がらせた言葉。
今も、三井を立ち上がらせる言葉。
――だからオレは、生きることを諦めねえ。オレであることを、3Pシューター・三井寿であることを諦めねえ。
人生最後のシュートがリングに弾かれて終わりなんざ、認めてたまるかよ。
乾ききった岩場を行き、足元に最低限の気を払いつつ、鈍い輝きを放つ満月に視線を送る。
――今度は、外さねえぞ。
月を眺めているうちに感傷的な気分になってきて、三井は声には出さず、願った。いつかと似たような言葉を、別の相手へと向けて。
――神様……ってやつが仮にいるとしてだ。
ホトケ様でも、この際構いやしねえ。俺なんかの言うことなんか、知ったこっちゃないかもしれねえけどよ。
有り得ない話を、一つ聞いてくれ。もしもこの世に、奇跡でも救いの手でも何でもいい。こんな俺を哀れに思って、何かしてくれるんなら――
いつか何処かで、また、皆一緒に。
――バスケが、したいです。
【A-2/崖周辺/一日目・午前2時前後】
【男子37番 三井寿@SLAM DUNK】
[状態]:健康
[装備]:バスケットボール@SLAM DUNK
[道具]:支給品一式
[思考]:1、湘北メンバーと晴子を探す
2、生き残って、バスケのある日常へと帰る
最終更新:2008年02月13日 13:20