by4代目153
「ツェー」
あたしがそう言った瞬間、くぐもった教室の空気が、
一人で座っている私の席の方に、急にグッと圧縮されたような気がして、
顔が少し紅潮したのが自分でも分かった。
「・・・、はい、正解です、柊さん。正解はツェー、つまりCですね。」
若干の間の後の教授の声で、教室は元の空気圧を、あたしは安堵を取り戻した。
こんな妙な発声を無理強いさせるのはドイツ語の授業。まったく面倒ったらありゃしない。
英語とカブるし、そもそも何で名詞が三種類もあるのよ。
だいたい教授も、高校の授業じゃないんだからわざわざ指名して答えを言わせるなよ。
あ~あ、取るんじゃなかった。
―それにしてもだ。さっきのあたしはちょっと奇怪だった。
だって「ツェー」よ。「ツェー」。
大学に入って、滅多に人と話をしなくなったあたしが、この日、久しぶりに発した言葉。それが「ツェー」。
あのこなただっていつもわけのわからないマニアックで変な言語を操っていたけど、
それでもそれはいわゆる「人語」だった。
コンビニでの、「肉まん下さい」でもなく、人にぶつかって、「すいません」でもない、
たった一言、「ツェー」とだけ鳴いたあたしは、人語を失くしたケダモノのように思えて、何だかゾッとした。
キーンコーンカーンコーン。
そんなことを考えているうちにチャイムが鳴った。
昼休みだ。
今日はもう授業が無いから、いつもならコンビニかどこかで買った物をアパートに帰ってから食べるんだけれど、
あたしはさっきのことで何だか強迫観念のようなものに取りつかれていて、
今日は久しぶりに食堂で食べよう、という気になった。
もちろん、一緒に食べる人の見当などつかなかった。
しかし、そうでもしなければ、あたしはもう人間でいられないんじゃないか、なんて思えたから。
食堂に向かうと、すでに長蛇の列が出来ている。
昼時の、しかも狭い食堂は毎日毎日こんな風に学生達でごった返す。
一緒に食べる人の有無より先に、あたしはこの馬鹿みたいな人混みが嫌いで食堂に行かなくなったのだ。
安いとはいえ、お世辞にも美味しいとは言えない品ばかりの食堂に、
「友人と話しながら物を食べる」という最高の調味料を持ってやってきた大量の学生達、
私と同じようでどこかが違う学生達がワクワクしながら並ぶ、その構図も何だか嫌で。
「はぁ・・・」
軽く溜め息をつき、それでも列の流れに沿って動きながら、あたしは財布の中身を確認しようと、鞄からそれを取り出した。
千円札が数枚。よし、お金が無くて立ち去らなくてはならないなどという本末転倒なことにはならないだろう。
そう思った時、背中に何かを感じた。驚いて身体を竦ませながら後ろを振り返ると、とても小柄な女の子が立っていた。
「あのぅ・・・。」
背丈があまりに似ていたので、一瞬こなたかと思ってあたしは惚けた。
「あ、あのぅ?」
「はっ!」
よく見ると、髪の色も違うし、顔つきも全然違う。こなたよりもっとやんわりしている。
「あの、これ、落ちましたよ?」
と、差し出してきた手には、あたしのハンカチ。あ、さっき財布を出した時に落としちゃったのか。おずおずと手をのばして、受け取る。
「あ、あぅ・・・」
何だか言葉を出すのが怖い。
「ん?」
彼女は不思議そうにこっちを見ている。言わなきゃ、言わなきゃ。人語の中でもっとも美しい、感謝の言葉を。
「あっ、ありがとうっ!!!」
その時だけ一瞬、あの教室の静寂が、この馬鹿みたいな人混みに帰ってきた。
そして、それはまた一瞬で過ぎ去った。
多くの人があたしを見て、ざわ・・・ざわ・・・と、隣と耳打ちをし始めた。
やってしまった。あの時みたいにまた顔が紅潮していくのが分かった。
肝心の彼女はキョトンとしている。えぇい、こうなったらもうヤケだ。
彼女もどうやら一人でいるようだし、人語奪回の記念だ、彼女と一緒に昼食を取ろう。
さっきの勢いで、いけ、あたし!
「あ、あのっ―」
「お~い、風ちゃぁ~ん!イヤッホオオオォォ!!!岡崎最高~!!!」
「あ、岡崎さん、遅いですよ。」
あたしは逃げた。
気づいたらコンビニの袋をぶら下げて、あたしは帰り道をゆっくり歩いていた。
今日は何だか寒い。
マフラーを巻き直して、ふと横を見ると、身体の大きな黒猫が、ゴミを入れるポリバケツの上に寝そべっていた。
あたしと目が合うなり、そいつは「ニャア」と鳴いた。
「違うわよ、ツェーよ。ツェー。」
猫はさっきの彼女のようなキョトンとした顔をして、こちらをしばらく眺めた後、けだるそうに身体を起こして去って行った。
頭の上で、カラスが「カァ」と一声鳴いた。
「ツェー」と言って泣くのは、きっと世界中の生き物で、私だけなんだろう。
完
最終更新:2007年12月02日 17:35