「クーゲルシュライバー・・・です。」
「はい、正解です前原さん。クーゲルシュライバー、日本語でボールペンですね。
―ドイツ語ってカッコいいですよねぇ! みなさんもそう思いませんかぁ?
クーゲルシュライバァー、セット、オーン! カチッ!!」
そう言いながら教授はボールペンにキャップを被せ、「なんちゃって。」と醜く口を歪めた。
キャハハ、という笑い声が、教室の前列だけにこだました。
―馬鹿らしい。そんな余計な口を利く暇があるならば、もう時間も時間だし、早めに授業を切り上げれば良いのに。
きっとみんな、そっちの方が嬉しいはずだ。
昼休み前のこの授業なら誰だって。そう、誰だって―。
キーンコーンカーンコーン。
あの時みたいにチャイムが鳴った。さて、今日は久しぶりにマックにでも行こうかな。コンビニ弁当にも飽きちゃったし。
いつも通り、そう、いつも通りの月曜日。もうあんな真似はしない。あたしはこれで良いんだ。
こんな妙な決意表明だけは毎回大層御立派で、あたしは自分を笑った。
教科書の類を鞄に入れ込んで、立ち上がろうとすると、久しぶりの感触が背中を襲った。
ガタッ!
「あっ・・・。」
あたしがあの時みたいに大げさに竦んだせいで、当の背中を突いた本人の方が驚いてしまったようだ。
「あ、柊さん・・・だよね?」
長くて綺麗な髪を大きなリボンで後ろに束ね、余った髪が垂れたウサ耳のようになっている、優しそうで、かわいらしい女の子―。
窓から射し込む、冬の柔らかい日差しが彼女を照らして、
暖房でくぐもった空気がそこだけ浄化されているような感覚。
「覚えて・・・ないかな? わたしだよ。まゆみ。」
淡いピンクのコートにすこし長めのスカート、こげ茶色のロングブーツ。
それらが彼女をとても穏やかに、大人っぽくして包んでいる。
「この授業一緒だったなんて、全然気づかなかった。笑っちゃうよね。」
そう言って、彼女は笑った。
あたしはもう、目を細めざるを得なかった。
そう、それを真正面から見るのが、あまりにも久し振りだったから。
そう、それが人間のし得る中で最も美しい表情だと、あたしに再確認させたから。
そう、彼女のそれが、とてもとても美しかったから。
「良かったら一緒にお昼どう?」
「あれってホンット臭いわよね~。」
「だよね~。どうにかならないのかなぁ?」
「頭からファブリーズでも浴びれば良いんじゃない?」
「あはは、それ良いかも~。」
キャンパスの中庭を通って、あの食堂へと向かいながら、あたし達は他愛もない世間話に講じていた。
「あたし達」だって。フフッ。この間とはまた随分と大きな違いだ。
そう、この間と違って、今回は何の躊躇もせずに声を出すことが出来た。
相手から求められる分には大丈夫ということなのだろう、きっと。そう考えるとさらに気分が弾んだ。
足もとの乾いた芝生が彼女のブーツに踏みつけられて、サクサクッ、と高い音を立てた。
「そういえば、柊ちゃんは何かサークルに入ってるの?」
ドキッとした。
「え? う、ううん、何にも入ってないわよ。あなたは?」
「わたしはね、Shining☆starっていうインカレサークルに入ってるの。」
「またあからさまな名前のリア充サークルね・・・。」
と危うく声に出して言いそうになった。
いかんいかん、そんな言葉はおくびにも出すわけにいかない。
さっきまで潤滑油を差したように回っていた口をキュッと結んでから、
「へ、へぇ、そうなんだ。」
「うん! クラブを貸し切ってパーティーしたり、夏はみんなでバーベキューしたりして、すっごく楽しいよ。
大きなサークルだから、他の大学の子達とかも大勢いて、仲良くなれるし。」
「ふ、ふぅん・・・。」
自然に歩くスピードが速まっていくのがわかる。
「わたしもね、大学って友達出来にくいって聞いてたから、すごく不安だったの。
でもね、このサークルに入ったら、すっごく友達増えたんだ。
柊ちゃんも、サークル、何にも入ってないんだったらどう? きっと楽しいよ!」
屈託の全く無い表情で、饒舌に話す彼女の言葉は、
今のあたしには―きっとそうではないにしても―熱心な宗教家の詭弁のように聞こえて戸惑った。
いつからそんな風になってしまったのだろう。
「えっと、あ、あたしは、そういうのは、ちょっと苦手で・・・。」
「どうして? 寂しくないの?」
寂しくない? 寂しくないわけないわよ。
でも、それでも、あたしは「寂しさ」を持ち寄ったり、
「寂しさ」を武器にしたりして、他人と接するべきじゃないと思うの。
それはきっと、足の引っ張り合いだったり、利己主義的な行動だわ。
結局相手も、自分も、どっちも傷つけてしまうと思うの。
すごく不毛だし、すごく悲しいわ。だから・・・、だから・・・!
ふと気付くと、彼女は口を小さく開けたまま、こちらを不思議そうに見つめている。
自身の口元に妙な戦慄きも感じて、あたしはようやく我に返った。
「あっ! あ、ご、ごめん、あたし、変なこと・・・。本当にごめんなさい。」
「あ、あはは、わたしこそ、何だかごめんね、無理矢理誘っちゃったみたいで。」
そして、彼女は
「それにしても柊ちゃんって、昔の女の人みたいな話し方するんだね。」
と笑った。
そうだ、彼女は笑ってくれているだけで良い。それだけで救われる。
むしろそれ以上はいらない。何の根拠もなく、そう感じた。
それと同時に、いくら潤滑油を差したとはいえ、メンテナンス直後の口をこれ以上大胆に振るうのは、自重せねばと戒めた。
ほんの少しでも油断すれば、沈黙に陥ってしまうだろうこの空気にどうにか抗おうと、
彼女は先と変らず積極的に話題を振ってきた。
そのおかげで、あたし達は何とか会話らしい会話を引き連れて、食堂前の人混みに漂着できた。
それにしても、まさかこの喧騒に再び戻ってこようとは。
さっきまでのあたしでは考えられなかっただろう。
「この時間帯って、いつもすっごい混んでるよね。」
「あ、う、うん、そうね。」
「いつも」を知らないあたしは彼女の問いに口を濁さざるを得なかった。
「ふぅ・・・。」
と、深く息を吐いて、辺りを見回す。
あの時も同じように眼前に広がっていた、学生達の群れ。
でも、あれ? 何だかおかしい。
あの時とは違う。隣の人と笑いあって、彼ら、一様に良い顔をしている。
あの時の、群衆からの疎外感と、それから来る嫉妬は消え失せていて、代わりに安堵すら感じる。
その理由は何だろうと考えると、あたしの真横で携帯をいじっている彼女にすぐさま行き当たるのだった。
あたしの隣に、こうして彼女がいる。
そこから来る熱。
千の言葉を用いても得ることが出来ないその熱が、
あたしの左側の部分にかろうじて残っていた感情を揺さぶるのだった。
そこから派生した感情が、彼女への感謝の念を生みだそうとした、まさにその時だった。
「あっ、まゆみ!」
あたし達の横を通りかかった女の子二人組が、彼女を見つけて叫んだ。
視界に飛び込んできた映像のおかげで、その叫びはあたしを素通りして何処かへ消えていった。
二人組の片方の女、忘れはしない、あたしが食堂でラノベを読んでいたのに因縁をつけてきた、あの女だ。
その瞬間、目が合いそうになって、あたしはすぐさま視線を横へとずらした。
「こんなところに並んでるの? みんなもう中で待ってるよ。」
と、二人組の一人が言う。例の女は黙っていた。
彼女はこちらを一瞥し、二人組を見つめた後、再びこちらを振り向いて、
「ちょっと待っててね。」
と、列を抜けて行った。ここから少し離れた所で話をするようだ。
何だか長くなりそうだ。彼女が少し離れただけで、途端に落着きが失くなるのが自覚できた。
手持無沙汰に、携帯電話を取り出そうとすると、意外にももう話を終えたのか、彼女達はこちらに戻ってきた。
彼女は開口一番、こう言った。
「柊ちゃん、ごめんね。あたし、行かなきゃ。ホントにごめんっ!」
確かにそう言って、彼女と二人組の一人は小走りに食堂の方へ去って行った。
例の女だけ、あたしを無表情でしばらく見つめた後、プイと視線を外して彼女達の行ったほうへ歩いて行った。
しばらく、あたしはそこに突っ立っていたと思うが、
この寒いのに額から流れてくる汗を感じて、慌てて人混みから離れた。
離れてしまうと、あの人混みは、すぐに大都会のビルの間を這う群衆に成り下がってしまうのだった。
それと同時に、先の状況から生み出される多種多様な感情が、
あたしの中で混ざり合って、思いきりぐらんぐらんとあたしを揺さぶるのだった。
混乱と焦燥の中で、一つだけ分かる確かなこと。
あたしはまた、ヒトリボッチになった。
「あ~、もう、超お腹へったしっ♪」
そう、頭はひたすら、無理矢理、悲しくなるほどハッピーに。
「うはwwwwwwwwwwwwww」
そう、ニコ動で意味もなく草を生やすような。
ふっとパソコンの画面が暗転すると、自分の無表情が映り込む。
何も考えないようにするために、何か必死に考える。
そんなふうに、曖昧な心と身体とマックのテイクアウトの袋を引きずって、
あたしは自分のアパート近くの公園の、いつものベンチに身を置いた。
「宣言通り!」という昔の某筋肉番組のフレーズと、チーズバーガーとを反芻しながら、あたしは辺りを見回した。
先ほどの喧噪とはかけ離れたこの場所。鳥の鳴く声がよく聞こえる。
四方が木々で囲まれてはいるが、どの木も葉は全て落ちてしまっていた。
「ここは、あたしだけの、オアシス♪」
また、頭の中で強がってみる。口の中の水分が無くなってパサパサする。同時にチーズの嫌な臭いが広まった。
「自然の中で食べるものは何でも美味しい」というのは、こいつらには通用しないのだと感じた。
一緒に買ってきたコーヒーを慌てて流し込む。・・・、渋いだけのシャビシャビコーヒー。
ここまで来ると、何だか笑えてきた。
それはそれで良いのだ。
そんなことを考えて、ふと思い当たり、鞄の中を掻き回す。
確かそのまま入れてあったはず。お、あったあった。一本引き抜いて、口に咥える。
ライターで火を点けて、吸い込む。そして、吐く。
「ふぅ・・・。」
ちょっとばかり禁煙していたつもりだったが、やはり無理だったようだ。
「やっぱりマイセンは良いわね。」
そう一人ごちて、もう一度煙を吐き出す。
タバコは嫌いじゃない。だって、可愛いじゃないか。
「肺気腫になる可能性が云々」というような自分を陥れる文句を体中にベタベタと貼り付けて、そしてまさしくその通りを人にもたらす。
言うならば悪人面した悪人。親しみのもてるアニメの悪役キャラのような。
本当に怖いのは、善人面した悪人だ。
そこまで考えると、先の映像がフラッシュバックされて嫌な気分になった。
今のあたしの思考は、結局どの道を辿っても、最終的にそこに還元されてしまうようだった。
同じことを、昔つかさに言われたことがあった。
「お姉ちゃんってどうして昔の女の人みたいな喋り方をするの?」
その時のあたしにとってその問いは難しくて、上手く答えることができなかった。
今でも正直よくわからない。
自分の口調なんて、意識する方が稀だろうと、少なくともあたし自身はそう思っている。
強いて言うならば、「そう喋り始めたから」というのが、一番正解に近い理由だろう。
そう喋り始めてしまったのが、今でも続いている。ただそれだけのことだ。ちっとも変なことじゃない。
タバコの煙を深く吸い込んで、吐いた。
口から勢いよく出た煙は、少し空気中で遊ぶと、すぐに消えていってしまった。
それが何だか無性に悔しくて、あたしは立て続けに煙を吸い込んで、吐いてを繰り返した。
どうしてそんなにもすぐに移ろうのだろう。他のみんなも、彼女も。
ヒトリボッチになると、彼女に大声でぶつけたようなことや、こんな不毛なことばかり考えたりするのだ。
こんなセンチメンタルは、「彼女は青かった」と、嘲笑の対象にしかならないことを、あたしは「厨二病」という言葉を通して知っていた。
それが歯がゆくて、苦しかった。おセンチにどっぷり浸かることも出来ない。かと言って、開き直ることなどなお出来ない。
あたしはタバコをとっかえひっかえ吸うことでしか、それを紛らわせなかった。
頭の上で二羽の鳥が追いかけっこをしていたのが、遠目に少し、滲んで見えた。
と、思うと、何だか急に頭が重くなり、同時に胸のいらつきと強い吐き気を感じた。
立ち上がろうにも、足に力が入らない。苦しくて、この寒いのに、あの時みたいに汗が出てくる。
「ヤニクラ―?」 どこかで聞いた四文字が頭に浮かんだが、
もうその時には、あたしは座っていたベンチに寝転んで、身動きが取れなくなっていた。
身体がどんどん重くなって、ベンチを押しつぶしでもしないのかと思った。
そんなこと、ホントに起こったら、あいつに大笑いされるだろう。
「ダイエットしなきゃね、かがみん―。」あいつが笑っている。「かがみん、かがみん―。」
ふと気付くと、辺りは濃い紫色の光に包まれていた。夕日にしては妙な色だ。毒々しい、極彩色である。
ベンチから身体を起こしてみる。
先の重みやだるさはなくなっていて、もう何の不自由もなく動けそうだった。
しかし、周囲を木々に囲まれているこの公園の外は真っ暗で、建物や、道さえ見えない。
葉の無い木の枝の隙間から、その真っ暗闇が今にも公園の中に入り込んでくるように見えた。
頭の上で、鳥が「ツェー、ツェー」と鳴いている。
遠くの方で、奇妙な姿形をした犬が、こちらに向かって何か吠えている。と言うより、喋っている。
何を言ってるのか全く理解できないが、罵倒しているだろうことは理解できていらついた。
言うだけ言って満足したのか、彼は鼻を鳴らして何処かへと去って行った。
さて、どうしようかと思案していると、何か妙な音が聞こえてきた。
それは一定のリズムを保ちながら、音量を増している。いや、こちらにその音が近づいてきている。
注意して聴くと、それがオルガンで奏でられているワルツだと分かった。
ズンタッターズンタッターズンタッターズンタッター・・・。
オルガンがどんどんこちらに近づいてくる。と、奏者のピンク色の髪が視認出来た。
「みゆき!」
思わず声を上げる。
みゆきはずっと視線を鍵盤へ向けながら、しかしその表情は柔和、微笑を浮かべて演奏していた。
その様子を見るだけで、何だか安心を得られた。
「かがみさんは真面目で、誠実な方です。その一方で、頑固でもあります。」
ワルツのリズムは全く変わることなく、みゆきはそう言った。
「よく休んだら、きっとよくなるでしょう。」
そう言って、みゆきはオルガンごと外の闇へ消えていった。
寂しい。何度目のヒトリボッチか知れない。
誰かを探して、公園の中を歩き回る。
でも、誰もいない。
公園の出口の前に立った。
外の闇がまるで触手か何かのように、中へ中へと蠢いている様が、近くに立つとよく分かった。
おずおずと、手を伸ばしてみる。
「お姉ちゃん!」
「ひっ!」
後ろから急に声を掛けられたので、悲鳴に似た声を上げてしまった。
「つかさ、良かった、来てくれたのね。」
安堵が全身から湧き上がってくるようだった。
「ねぇ、お姉ちゃん。」
「ん?」
つかさはずっと下を向いている。
「どうしてお姉ちゃんは昔の女の人みたいな喋り方をするの?」
「えっ?」
「ねぇ、どうして?」
「そんなのわからないわよ。」
「ねぇ、どうしてって。」
「だからわからないって。どうしたの? そんなに。」
「ねぇ! どうしてってば!」
「だからわからないってさっきから言ってるでしょ!」
「ねぇ、どうして?」
「しつこいわね、だから―。」
「どうしてお姉ちゃんはそんなに嘘をつくの?」
「えっ?」
「どうしてお姉ちゃんはそんなに不器用なの?」
「つかさ・・・。」
「どうしてお姉ちゃんはそんな風になってしまったの?」
「もうやめてよ・・・。」
「どうしてお姉ちゃんは―。」
「もうやめてってば!!!」
そう叫んで振り返り、一目散に走って逃げた。
どうしてそんなこと言うの? どうして? こっちが聞きたいよ。そんなこと。こっちが聞きたい。
公園の芝生はいつの間にか広くなっていて、どこまでも続いていた。
それでも、地平線の上方にはさっきの闇がさっきのように広がっている。
つかさは追ってこなかった。
再び、ヒトリボッチになった。
何度なったって、これにだけは、慣れることが、出来ないんだ。
再び、誰かを探す。
探して、歩く。
足が酷く重い。さっき全力疾走したせいだろうか。
棒のようになった足を引きずって、しばらく歩くと、広大な芝生のある一点だけ、
背景の極彩色でなく、青く澄んでいる場所があるのを見つけた。
もはや確信というべきだろう憶測が、頭を貫いた。慌てて駆け寄ってみる。
非常に長い青い髪が、背中を隠してしまっていて、その背中を丸めて、座っている。
ペラッと本をめくる音が聞こえた。
胸の奥から、末端へ。細胞の狂喜が全身にみなぎる。
「こなた。」
「ん?」
特徴的な、甘ったるい声が聞こえた。涙が滲んで視界がぼやけてきた。
「こなたあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
小さな背中を、思いっきり抱きしめた。
「ん、久しぶりだね、かがみん。」
ペラッ。再び本をめくる音。
こなたはこちらを振り返ることもなく、黙々と本を読み続けているようだった。
でも、ちっとも寂しくなかった。
長い髪から漂う芳香と、そして何よりもあの熱が、確かに伝わってくるから。
「ねぇ、かがみん。」
「ん? どうしたの? こなた。」
「この間、道を歩いていたら、脇に道祖神様が祭られていたのだよ。」
「うん。」
「その道祖神様の横にさ、花が供えられていたわけだよ。」
「うん。」
「その花がさ、何とよく見たら造花だったのさ。」
「うん。」
「それで凄く嫌な気持ちになって、全部引っこ抜いてきちゃったよ。」
「そうね、こなたは正しい。」
ペラッ。再び本をめくる音。
その音を聞いたら、今度は何だか怖くなって、さらにギュッとこなたを抱きしめた。
「かがみん、苦しいよ。」こなたが小さく呟いた。
「ごめんなさい。」両手を緩める。
ペラッ。再び本をめくる音。
訪れる沈黙。心に不安が侵入してくる。それは嫌だ。安心で満たして欲しい。
安心で満たされた泉の中に、ずっとずっと、浸っていたい。
「それは無理な注文というものだよ、かがみん。」
「えっ?」
パタン。本を閉じる音が、それまでの音と比べて一際大きく聞こえた。
全身から血の気が引いた。
「嫌だ! 行かないで! ずっとここにいて! ずっとここにいるから!」
再びこなたを強く強く抱きしめた。
「も一度言うよ。それは無理な注文なのだよ。」
「どうして? どうして無理なの?」
「どうして? って、嫌だなぁ、かがみん。自分が一番わかってるじゃないか。」
「そんなこと・・・。」
「大丈夫、一番初めに出来たじゃないの。」
「えっ?」
「それを、そのまますれば良いだけのことだよ。」
こなたが何を言ってるのか、よくわからない。
「じゃ、またね、かがみん。」
「ちょ、こなた―。」
その瞬間、周囲の闇から触手がどっと侵入してきて、四肢を捕まれ、こなたから引き離された。
必死の抵抗も虚しく、こなたとの距離はどんどん離れる。
「こなたぁっ!」
そう叫ぶと、こなたはこちらを振り向いて、笑ってくれた。
人間のし得る中で、最も美しい表情。
こなたのそれを見てしまったら、もう諦めざるを得なくなって、抵抗を止めた。
公園の木も、芝生も、すべて闇に包まれてしまい、身体が闇の中へ、どんどん沈んでいく―。
沈んでいく頭の中で考える、みんなのこと。
彼女と関係が持ちタかった。でも、あたしと彼女ハ関係ない。
世界ヲあっという間に駆け巡ッテ、何も持たずに帰ってクル妄想。
変わってしまッタ中ノ人。
あの人とも、関係を持ちたカった。性なんかに順ズルことのない関係を。
蘇る衝動ニ怯えて、毛布に包まル。
でも、あノ人はあたしに興味ガないようだった。
都会の雑踏に射す日差シ。井戸端会議で実感すル、人間ノ本質。会話とカイワ。
あの子から関係を持ちカケられたが、あたしはソれを拒んだ。
不誠実は許さない、ユルセナイノニ。
あの子はどうナったか、ソレは知らない。関係ナイのダカラ。
躁鬱ノ酷い暴力性。
思イ出す。
味のシないジンジャーエールと、トテも美味しかったアの時のハンバーガー。
本当にソウだったノか? ソシテ起こッタ、稀有ナ現象。
求めあってイタはずのあたシ達。
「あの時」という言葉ノどうしヨウもない美しサ。
珠玉ノそれダッタのに、あんナに脆ク崩れテしマった。
また痛イのハ嫌ダ。
モう、諦メる?
いや、それでも、あたしは―。
繋がりたい。
額に何か触れるのが分かった。香水の良い香りと、懐かしいけど嫌な匂いが鼻を刺す。
これはタバコの匂いだ。
「ん・・・あれ?」
「うぉっ!」
目を薄く開けると、誰かがあたしを覗き込んでいる。
「急に喋んなよ、ビックリするなぁ。」
あ、あたし寝ちゃってたのか。随分と変な夢を観たものだ。
「お~い、起きてるか~。」
それに促され、かちかちに固まった身体をほぐしながら起こし、目を擦りながら声の主の方向へ向ける。
身体はまたすぐに固まった。例の因縁をつけてきた女が、正面に立っていた。
「何でまたこんなところで寝てたの?」
大量の煙を口から吐き出しながら、そいつは言った。
あたしはうつむきながら、膝に手を乗せじっとしてるしかなかった。
まさに借りてきた猫である。ポリバケツの上から。
「何か言わないと、わかんないんだけど。」
その言葉にイラッときて、あたしは口を開けた。
「だから! タバコ吸ってたら、その、急に頭が痛くなって・・・。」
「ぶはは! それヤニクラじゃん! ダッセー!」
その声を聞いて、あたしはそいつを睨めつけようとしたが、視界にそいつの左手に握られたハンカチが入って、それは躊躇われた。
「まぁ、ちょっと前まではアタシもよくなったけどね。ていうか、あんたタバコ吸うんだ?」
「うん、まぁ・・・。」
「何吸ってんの?」
「え? よ、よくわかんないけど、マイ・・・セン?」
「あぁ、マイセンか。アタシはキャスター一筋なのさっ。
名前がカッコいいよね、キャスター、『ぶん投げるヤツ』ってね。アタシはこいつにぶん投げられるのさ。」
「それ、何か違うと思う・・・。」
「良いのっ!」
ははっ、と、自然に笑いがこぼれたが、すぐに口をつぐんだ。
「この公園、今時珍しく禁煙じゃないし、灰皿も置いてあるし、よく来るんだな。」
よく来るなら、あたしと会っていてもおかしくなかったのに。
「で、今日はここに来たら、あんたがヤニクラで汗ダラダラかきながらベンチで寝てた、と。」
ニヤリと笑いながら、そいつは言う。
「ちょっと、そんな言い方無いじゃない!」
「はは、ゴメンゴメン、そんなに怒んなよ。」そう言いながら、そいつは近くの灰皿にタバコを捨てた。
もう日が暮れそうだ。暮れなずむ西日があたし達にへばり付く。
それはあの極彩色よりは、もう少し澄んだ赤紫だった。
そいつはあたしに背を向けて、もう一本タバコを取り出して、火を点けた。
一回吸って、煙を吐き出す。
「今日の昼のことだけどさ。」
覚悟はしていたが、やはり来たかと思うと、緩みかけていた身体が再び硬直した。
今日はこうなることが多いような気がする。
「まゆみの為に言っとくけどさ、あれはアタシ達の入ってるサークルの緊急の話し合いが入ったから、ってことだから、誤解しないであげて。
でもまぁ、あの対応は無かったと思うけどね。根は良い子だけど、ちょっと抜けてるというか、そこらへん無神経だからさ。
今度会ったら言っとくよ。まぁ、あの時どうしようか迷って、すぐフォローしてやれなかったアタシもアタシだけど。
だからちゃんと言っとく。あの子からも、アタシからも、ごめん。」
一通り言い終わったのか、彼女はタバコをまた口元に持って行って、吸って、吐いた。
煙が夕日に染められたと思ったら、まるでそれに同化するように、ゆっくりゆっくり消えていった。
思い出した。言いたいことがあったんだ。アイツは言ってくれた。「最初にしたことをそのまますればいい」って。
そうだ、あの時、あたしは―。
「ねぇ。」
そう言うと、彼女はタバコを咥えたまま、こちらを振り返った。
「あたしの名前は、柊かがみ。あなたの名前は?」
完
最終更新:2008年03月16日 19:30