岩崎みなみの家では犬を飼っている。むくむくした毛並みが可愛い大型犬だ。
今、その犬の前に、田村ひよりが立っていた。長い黒髪を風になびかせ、引き締まった面持ちをしている。
「いざ……!」
ひよりが一歩、足を踏み出した。犬はつぶらな瞳を向けてじっとしている。
さらに一歩。岩崎家の庭の草木が風に揺れ、ざわめく。
さらにもう一歩――
「う゛~~……」
「うわあっ、まだ一メートル以内にも入ってないのに!?」
ひよりが一定の間合いに達した途端、犬は口から白い牙を覗かせ、低い唸り声を上げ始めた。それでも何とかひよりはその場に踏みとどまり、距離を詰めようとするが、
「ワウワウワウワウッ!!」
「ひぃ~っ! 何で私だけそんな吼えるんスか――!?」
涙目になりながら撤退するひよりだった。
今、その犬の前に、田村ひよりが立っていた。長い黒髪を風になびかせ、引き締まった面持ちをしている。
「いざ……!」
ひよりが一歩、足を踏み出した。犬はつぶらな瞳を向けてじっとしている。
さらに一歩。岩崎家の庭の草木が風に揺れ、ざわめく。
さらにもう一歩――
「う゛~~……」
「うわあっ、まだ一メートル以内にも入ってないのに!?」
ひよりが一定の間合いに達した途端、犬は口から白い牙を覗かせ、低い唸り声を上げ始めた。それでも何とかひよりはその場に踏みとどまり、距離を詰めようとするが、
「ワウワウワウワウッ!!」
「ひぃ~っ! 何で私だけそんな吼えるんスか――!?」
涙目になりながら撤退するひよりだった。
「結局また吼えられちゃったね……」
「うん……」
みなみの部屋でゆたかと一緒に三人でお茶菓子を頂きながら、ひよりは深々とため息をついた。
初めてこの家に来た時から、ひよりはあの犬に嫌われているのか、近付くだけで唸られるわ吼えられるわで、散々な扱いなのだ。
特別気性の荒い犬でもないのに何故ひよりだけ吼えられるのか? 何度試しても同じ結果だ。
「田村さん、ひょっとして犬が嫌うような香水とか……」
「いや、そういうのは付けてないし……インクとか修正液の匂いはあるだろうけど」
そういうのが原因でもないらしい。
「思い返してみれば、私って動物に好かれるタイプではなかったような気がする……『動物のお医者さん』とか好きなんだけどなぁ」
いやそれは関係ない、とすかさず突っ込める人材がこのトリオにはいない。今後の課題だ。
「あの子は基本的に人懐っこい方だから……根気よく付き合っていればきっと大丈夫」
「そうだといいけどなぁ……」
みなみがフォローするも、ひよりの反応は鈍い。
「田村さん、犬は好きなんだよね?」
「うん好き」
(犬耳キャラも好きだし、犬と戯れる美少女ってのはさらに好きだけどね……)
心の中で呟き、ちょうど目の前にいる二人で妄想する。
ふさふさの犬耳と尻尾を付けたゆたかとみなみ。原っぱで仲睦まじくじゃれ合ううち、いつしか二人は草深い中で手と手を取り――
「うおおお、自重しろ私ー!」
「ど、どうしたの田村さん?」
「あ……いや、何でもないっスよ。ははは……」
明らかに挙動不審なのだが普通に心配してくれるあたり、ゆたかは本当に良い子だ。
犬耳娘の百合ネタは後でメモるとして、当面の問題はあの犬だ。
「よしっ、もう一回挑戦してみよう」
「あ、それならあの子もおやつの時間だから……」
「おやつ! そうかその手があったか」
食料による武装を施し、ひよりは再びあの犬に挑む。
結果から言うと、おやつで釣ろうという作戦は失敗した。
「う゛~~……ワウワウワウッ!」
「ひぃ~!」
差し出したビーフジャーキーは一秒で強奪され、その後はお約束のように吼えられまくるひよりだった。
「ううう……どうしてそこまで嫌われるんスか……」
目の幅涙を流すひよりを尻目に、犬は奪ったビーフジャーキーを悠々と囓っている。
「田村さん、そんなに気を落とさないで……」
「くっ……もう一度やってみる」
ひよりはまだまだ懲りずに再挑戦する。
(お姉ちゃんもだけど、オタクの人って物事にのめり込みやすいんだなぁ……)
そんなことを胸中で呟くゆたかをよそに、ひよりはおやつを楽しむ犬の隙を窺っている。
「……今だっ!」
「あっ……」
ゆたかとみなみが止める間もなく、ひよりは無防備に犬へ目掛けて突っ込む。いわゆるカミカゼやバンザイアタックと呼ばれる行為だ。
「ワウッ!」
即座に反応した犬は、一声吼えるや短い助走から、ひよりのお腹目掛けて頭突きを放った。勢いはそれほどなかったが、カウンターでダメージは大きい。ひよりは仰向けに倒れた。
「わが生涯に一片の悔いなし……」
巨星落つ。
「田村さーん!?」
「だ、大丈夫……まだ諦めない……ここで退いたらオタクが廃る!」
変なスイッチでも入ったか、立ち上がったひよりは目をぎらつかせ、もう一度犬と向かい合う。
「ちょっと待って……」
その前に立って制止したのはみなみだ。
みなみは黙って屈むと、犬と真っ直ぐ目を合わせた。
「あんなことをしたらダメ」
さっきの頭突きのことだ。みなみは静かな語調に飼い主としての威厳を込めて言い付ける。犬も怒られているのがちゃんと分かっているのか、お座りの姿勢で大人しくしている。
「へー、みなみちゃん凄いなぁ」
「……あんなに大人しくて賢い犬なのに、何で私だけ……」
何だか無性に悲しくなってくるひよりだった。
「……こんなこと言うと失礼かもしれないけど、もっと純粋に接するといいかもしれない」
落ち込むひよりに、みなみがそんなことを言い出した。
「純粋?」
「そう。あまり余計なことを考えずに、素直な気持ちで。動物は人の心に敏感だから……」
「……はっ!?」
その時、ひよりの脳裏に稲妻が走った。
(そうか……私は萌えやら百合やら薔薇やら、そっち方面の煩悩を抱えすぎていたから……私のそんな穢れた心を、この犬は見抜いていたんだ……!)
「純粋な気持ちで……余計なことは考えずに……」
煩悩は消すのだ。女子大生家庭教師に来て欲しいがために煩悩を捨て去り、ついには解脱へ至ったあの父子のように……!
ひよりは深呼吸を一つし、改めて犬の前に立った。余計なことは考えずに、犬の目を真っ直ぐに見ながら、一歩ずつ近付いていく。犬はひよりを見つめ返しながら、じっとお座りしている。
ひよりは少しずつ、着実に距離を詰めていく。犬は吼えないし、唸りもしない。
とうとう手を伸ばせば届く所まで来た。
「い……いける、かな?」
「田村さん、頑張って!」
ゆたかの声援を背に、ひよりは恐る恐る手を差し出す。
ひよりの指先が犬の頭に触れる。犬は嫌がらない。思い切って手のひらで頭を撫でる。やはり犬は嫌がらない。それどころか尻尾を振っている。
「……やった……やったよー!!」
柔らかい毛並みを目一杯堪能しながら、喜びに打ち震えるひより。犬を撫でる、ただそれだけのことなのだが、ここまでの苦労が苦労なだけに感動もひとしおだ。
「おめでとー、田村さん!」
「おめでとう」
友人二人もその辺の機微は理解していた。
「ありがとう二人とも……くぅっ……まるで苦境に打ち勝ち原稿を仕上げた時のような清々しい達成感……」
(そうだ! この感動を創作に活かさない手は無い。次の新刊は『犬』! 『犬』をテーマにしよう! 犬耳娘の百合ん百合んな展開を――)
「う゛~~……」
ひよりに撫でられていた犬が、白い牙を剥いて唸り始めた。
「うわあしまった! 煩悩退散煩悩退散~!」
「ワウワウワウッ!」
「ひぃ~ん、そりゃないっスよ~!」
吼え立てられ、泣く泣く逃げ出すひより。煩悩を捨てきるにはまだまだ修行が足りないようだった。
「うん……」
みなみの部屋でゆたかと一緒に三人でお茶菓子を頂きながら、ひよりは深々とため息をついた。
初めてこの家に来た時から、ひよりはあの犬に嫌われているのか、近付くだけで唸られるわ吼えられるわで、散々な扱いなのだ。
特別気性の荒い犬でもないのに何故ひよりだけ吼えられるのか? 何度試しても同じ結果だ。
「田村さん、ひょっとして犬が嫌うような香水とか……」
「いや、そういうのは付けてないし……インクとか修正液の匂いはあるだろうけど」
そういうのが原因でもないらしい。
「思い返してみれば、私って動物に好かれるタイプではなかったような気がする……『動物のお医者さん』とか好きなんだけどなぁ」
いやそれは関係ない、とすかさず突っ込める人材がこのトリオにはいない。今後の課題だ。
「あの子は基本的に人懐っこい方だから……根気よく付き合っていればきっと大丈夫」
「そうだといいけどなぁ……」
みなみがフォローするも、ひよりの反応は鈍い。
「田村さん、犬は好きなんだよね?」
「うん好き」
(犬耳キャラも好きだし、犬と戯れる美少女ってのはさらに好きだけどね……)
心の中で呟き、ちょうど目の前にいる二人で妄想する。
ふさふさの犬耳と尻尾を付けたゆたかとみなみ。原っぱで仲睦まじくじゃれ合ううち、いつしか二人は草深い中で手と手を取り――
「うおおお、自重しろ私ー!」
「ど、どうしたの田村さん?」
「あ……いや、何でもないっスよ。ははは……」
明らかに挙動不審なのだが普通に心配してくれるあたり、ゆたかは本当に良い子だ。
犬耳娘の百合ネタは後でメモるとして、当面の問題はあの犬だ。
「よしっ、もう一回挑戦してみよう」
「あ、それならあの子もおやつの時間だから……」
「おやつ! そうかその手があったか」
食料による武装を施し、ひよりは再びあの犬に挑む。
結果から言うと、おやつで釣ろうという作戦は失敗した。
「う゛~~……ワウワウワウッ!」
「ひぃ~!」
差し出したビーフジャーキーは一秒で強奪され、その後はお約束のように吼えられまくるひよりだった。
「ううう……どうしてそこまで嫌われるんスか……」
目の幅涙を流すひよりを尻目に、犬は奪ったビーフジャーキーを悠々と囓っている。
「田村さん、そんなに気を落とさないで……」
「くっ……もう一度やってみる」
ひよりはまだまだ懲りずに再挑戦する。
(お姉ちゃんもだけど、オタクの人って物事にのめり込みやすいんだなぁ……)
そんなことを胸中で呟くゆたかをよそに、ひよりはおやつを楽しむ犬の隙を窺っている。
「……今だっ!」
「あっ……」
ゆたかとみなみが止める間もなく、ひよりは無防備に犬へ目掛けて突っ込む。いわゆるカミカゼやバンザイアタックと呼ばれる行為だ。
「ワウッ!」
即座に反応した犬は、一声吼えるや短い助走から、ひよりのお腹目掛けて頭突きを放った。勢いはそれほどなかったが、カウンターでダメージは大きい。ひよりは仰向けに倒れた。
「わが生涯に一片の悔いなし……」
巨星落つ。
「田村さーん!?」
「だ、大丈夫……まだ諦めない……ここで退いたらオタクが廃る!」
変なスイッチでも入ったか、立ち上がったひよりは目をぎらつかせ、もう一度犬と向かい合う。
「ちょっと待って……」
その前に立って制止したのはみなみだ。
みなみは黙って屈むと、犬と真っ直ぐ目を合わせた。
「あんなことをしたらダメ」
さっきの頭突きのことだ。みなみは静かな語調に飼い主としての威厳を込めて言い付ける。犬も怒られているのがちゃんと分かっているのか、お座りの姿勢で大人しくしている。
「へー、みなみちゃん凄いなぁ」
「……あんなに大人しくて賢い犬なのに、何で私だけ……」
何だか無性に悲しくなってくるひよりだった。
「……こんなこと言うと失礼かもしれないけど、もっと純粋に接するといいかもしれない」
落ち込むひよりに、みなみがそんなことを言い出した。
「純粋?」
「そう。あまり余計なことを考えずに、素直な気持ちで。動物は人の心に敏感だから……」
「……はっ!?」
その時、ひよりの脳裏に稲妻が走った。
(そうか……私は萌えやら百合やら薔薇やら、そっち方面の煩悩を抱えすぎていたから……私のそんな穢れた心を、この犬は見抜いていたんだ……!)
「純粋な気持ちで……余計なことは考えずに……」
煩悩は消すのだ。女子大生家庭教師に来て欲しいがために煩悩を捨て去り、ついには解脱へ至ったあの父子のように……!
ひよりは深呼吸を一つし、改めて犬の前に立った。余計なことは考えずに、犬の目を真っ直ぐに見ながら、一歩ずつ近付いていく。犬はひよりを見つめ返しながら、じっとお座りしている。
ひよりは少しずつ、着実に距離を詰めていく。犬は吼えないし、唸りもしない。
とうとう手を伸ばせば届く所まで来た。
「い……いける、かな?」
「田村さん、頑張って!」
ゆたかの声援を背に、ひよりは恐る恐る手を差し出す。
ひよりの指先が犬の頭に触れる。犬は嫌がらない。思い切って手のひらで頭を撫でる。やはり犬は嫌がらない。それどころか尻尾を振っている。
「……やった……やったよー!!」
柔らかい毛並みを目一杯堪能しながら、喜びに打ち震えるひより。犬を撫でる、ただそれだけのことなのだが、ここまでの苦労が苦労なだけに感動もひとしおだ。
「おめでとー、田村さん!」
「おめでとう」
友人二人もその辺の機微は理解していた。
「ありがとう二人とも……くぅっ……まるで苦境に打ち勝ち原稿を仕上げた時のような清々しい達成感……」
(そうだ! この感動を創作に活かさない手は無い。次の新刊は『犬』! 『犬』をテーマにしよう! 犬耳娘の百合ん百合んな展開を――)
「う゛~~……」
ひよりに撫でられていた犬が、白い牙を剥いて唸り始めた。
「うわあしまった! 煩悩退散煩悩退散~!」
「ワウワウワウッ!」
「ひぃ~ん、そりゃないっスよ~!」
吼え立てられ、泣く泣く逃げ出すひより。煩悩を捨てきるにはまだまだ修行が足りないようだった。
おわり
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- 犬に対するに正面からでなく側面から接近すべし。
それでだめならお尻を向けてみるべし。 -- 名無しさん (2011-04-11 18:16:31) - まだ煩悩があるんだ!
煩悩を捨て去れ
-- 名無しさん (2009-02-13 21:40:45) - あの父子って「ギャグマンガ日和」? -- 名無しさん (2009-02-12 20:14:46)
- ひよりんwww -- 名無しさん (2009-02-12 13:17:52)