丁宮は、後漢後期の人物。霊帝の末年に
三公に昇った。
交州刺史に任官した際の縁から、
士壱を
辟召して
洛陽に召した。
また、
董卓が用意した少帝
劉弁の廃位を宣言する策に対して、真っ先に賛同の声を挙げた
尚書が同名の「丁宮」であるが、同一人であるかは不明。
情報
事跡
交州刺史に任じられ、召還を受けて洛陽へ帰還する際、蒼梧郡の督郵の士壱に生真面目な送別を受けた。丁宮は感じ入り、
「もし、
刺史が、三事にて罪を待つ(分不相応にも三公の地位を占める)ことになれば、きっと(君を)
辟すことにしよう」
霊帝末の中平四年(187年)に司空、翌五年(188年)に司徒となった。司徒の在職時に、約束を守って士壱を辟召した。
中平六年(189年)四月に霊帝が崩御し、事変が相続く中の七月に丁宮も司徒を罷めた。
九月、
董卓が劉弁を廃立して劉協(献帝)を立て、
何太后から政権を剥奪する策を発した。
尚書が読み上げたこの策(政令)に群臣が静まり返る中、同じく尚書の「丁宮」なる人物が賛意を表明し、
「「天は漢室に禍し、喪乱は弘(ひろ)く多くなっております。昔、祭仲(春秋鄭の相)は忽(厲公)を廃して突(昭公)を立て、春秋はそれを大いに
権(非常の策)としております。今、大臣は宜しく
社稷の計の為に量り、誠に天と人との合となりました。万歳を称すことを請うものです」
とした。この尚書丁宮が、三公まで昇った丁宮と同一人かはわからない。
士壱は、丁宮が司徒を罷めた頃に洛陽に到着したが、後任の
黄琬に甚だ礼遇された。
年表
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最終更新:2016年01月12日 23:12