侯成は、後漢後期の人物。呂布の騎将。下邳城が包囲されると僚将の魏続宋憲と共に陳宮を捕らえて降伏した。
 この行動には、以前酒席を開こうとして、呂布から叛乱の謀議の疑いを向けられたいきさつがあったという。
 降伏後の消息は不明。


情報

侯成
(不詳)
本貫地 (不詳)


事跡

 呂布の騎将として、下邳城の防衛戦に参加した。
 その少し前、自分のを遣わして馬十五匹を放牧させていた。ところが客は悉く馬を駆って逃走し、城へ向かい、劉備に帰順しようとした。侯成は自ら騎を将いてこれを追い、馬を取り戻して帰還した。諸将は礼(贈物)して祝賀し、侯成も酒を五、六醸造し、十数頭の猪を猟して酒席を開こうとした。その前に猪の半数を酒を五斗持って呂布を訪れ、跪いて、
「先ごろ、将軍の恩を蒙り、失う所の馬を逐い得ました。諸将が来たりて相賀するとのことで、自らも少しばかりの酒を醸して、猪を猟し得ました。敢えて未だ飲食せず、先に奉上して微意(ささやかな心ざし)とするものです」
 しかし呂布は大いに怒って曰く、
「布(わたし)が酒を禁じているのに、卿は酒を釀し、諸将と共に飲食して兄弟を作るのか。共に布を謀殺するつもりか?」*1
 侯成は大いに懼れて辞去し、醸造した酒を棄て、諸将の礼を反した。
 このことから侯成に疑心が生まれ、曹操が下邳を包囲すると、陳宮を捕えて指揮下の兵を率いて降伏することとなった。


年表




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最終更新:2016年01月15日 21:00

*1 酒席は謀議と結盟の舞台とも成りえるので呂布はこれを疑ったのである。「三人以上が故無くして群れて酒を飲む」ことを禁じる条文が漢律に存在したほどだった。また、後漢末の乱世では、慢性的に不足する糧食を確保するため、群雄逹はたびたび酒の醸造を禁じる布令を出した。