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子曰く。陳・蔡に於いて我に従いし者、皆門に及ばざる也。徳行は顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語は宰我、子貢。政事は冉有、季路。文学は子游、子夏。(『論語』先進)

 四科(もしくは四行)とは、故は、孔子が特に秀でた弟子達について述べた際の四つの徳目こと。徳行、言語、政事、文学の四科という。
 転じて代には、朝廷に仕える官吏の任用・選抜基準として取り上げられた。具体的な四科の内容は制度や詔勅によって異なるが、適材を得て適所に配置するという共通の思想が見られる。
 また察挙常科(毎年定数が選抜される科)として、光禄勲によって郎官から毎年の成績優秀者が選ばれる「光禄四行」が存在した。『百官志』には、各卿寺下の官吏に数名の「四科」の定員がある。


目次




歴史


 故は、『論語』先進の一節。漢代には官吏選挙の条件や校試の内容としてたびたび取り上げられる思想となった。
「光禄四行」は 元帝永光元年二月の詔勅によって始まるという*1。以後、後漢にも引き継がれ、も採用した記述が残る。
 一般的な官吏登用としては、

中正官九品官人法の導入のためか、では衰退した。




 後漢では、太常光禄勲衛尉太僕廷尉大鴻臚宗正大司農少府九卿に加えて執金吾の下に「四科」なる吏員が存在する。百石吏や二百石吏とは記載を別にしており、他の官吏とは異なる昇進課程を有したことが窺える。



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関連項目・人物



詳説

 漢代に「四科」なる基準が取り上げられた所以は、『論語』先進篇の一説による。
 元帝永光元年には、
二月、丞相、御史に詔し、質樸・敦厚・遜讓・有行なる者を挙げ、光禄が歳ごとにこの科を以って郎、従官を第せよ。
 とした。これが光禄四科の始まりと顔師古は言う。
 中興後には光武帝が特に詔して、

漢官儀曰:
「建初八年十二月己未,詔書して四科の士を辟す。
 一曰く、徳行高妙、志節清白。
 二曰く、経明行修、博士に任ずるに能う。
 三曰く、明曉法律、疑を決すを以って足り、を案じ、問を覆すに能う。文は御史に任ず。
 四曰く、剛毅多略、事に遭い惑わず。明は姦を照らすに足り、勇は決断に足る。才は三輔に任ず。
 みな、孝悌・清公の行を在ぜよ。
 今より以後、辟召、及び刺史・二千石の察挙、茂才、尤異、孝廉吏は四科を審らかにし、務めて実覈を尽くせ。県邑に於いて英俊、賢行、廉絜、平端を選択して務めて職を以って試を授けよ。その人に非ずして、計に臨んで署に過ぎ、官事を便習せず、書疏は端正でなく、詔書に如かぬものが有れば、有司は罪名を奏し、并せて挙者を正せ。

 これは辟召察挙という漢が有為の人材を朝廷に召す二本の柱とした制度に於いて、今後は徳行、経学法律、多略という四分野を明らかにしてその人を挙げよ、という詔勅である。もしその被選者の能力に偽りがあれば、選挙者をも罰するという選挙不実の制度も明記されている。


 また、順帝の頃に左雄孝廉制度を改革し、儒学を事とする「諸生」と、法律・文書の管理を事とする「文吏」の二種を用いて試を課すようにとしたが、その後に尚書令となった黄瓊が上奏して、

……しばらくして、尚書令に遷った。瓊(黄瓊)は以前左雄が孝廉の選を上した所の士を取るの義に於いて、專ら儒学・文吏を用いてなお遺す所有りとした。乃ち、孝悌及び能従政者を増し四科と為すことを奏し,事は施行された。また、雄の前は挙吏を公府に於いて先に試して議し、また端門に於いてこれを覆した。後に尚書の張盛がこの科を除くことを奏した。瓊はまた上言し、「覆試の作はまさに,澄を以って清濁を洗い,虛濫を覆實するものであります。改革はよろしくありません。」帝は乃ち止めた。(黄瓊伝)

 と、察挙の一科である孝廉の中にさらに四種の試を設ける上奏をして裁可されている。この四科は光武帝詔勅の四科と対応するものである。また、詔勅は「四科の士」には前提として皆「孝悌清公」の行いが在るべきとしている。「清公」は後漢書注などでは「廉公」と作り、「孝悌廉公」を縮めた謂いが「孝廉」である。
 後漢王朝は孝子や廉吏を重んじたが、それは単に人品が孝・廉であれば良いというのではなくて、官吏となる全ての者の人品を孝・廉が覆うことを求めた上で、政事を執る各種の能力・学識があるかを試し、振り分けたのである。

 このような四科によって人を得る思想は、異論や官吏社会の根本的な腐敗とせめぎ合いながら、後漢後期まで続いた。
 献帝を奉戴し中原を回復した曹操は、動乱収まらぬ時代の権宜の策として唯才を布告し、同時に旧来の察挙制を排除して重要な人事権を自身の一手に収めた。
 は、漢の官吏の腐敗を反省し九品官人法を定めたが、杜恕は「その人を尽くさず用いれば、才と雖もまた無益。存する所が務める所に非ず、務める所が世の要に非ず」として、当時の風潮を批判する中で四科による選抜を引き合いに出している。

……今、考功を奏する者は周漢の法為を陳し、京房の本旨を綴って、考課の要を明らかにするものと謂うべきです。(しかし)揖讓の風を崇ぶを以って濟濟の治を興すに於いては、臣のおもいますに、未だ善を尽くさぬものです。
其れ、使して州郡が士を考すと欲すれば、必ず四科に由るものです。みな事効が有りて然る後に察挙し、公府に試辟して民に親しむ長吏と為し、転じて功次を以って郡守に補すものであり、或いは秩を就増し、爵を賜います。これが最も考課の急務であります。……(杜畿伝 子恕)
 ……と、杜恕は、漢制の四科による察挙と、官についてからの勤務評定である孝課を重んじることを説いた。しかし、結局、「後に考課はついに行われず。」と、漢の人事制度は失われていく。魏晋の交替と中原の喪失、貴族階級の固定化が進んだ東晋代には、孫盛が「喪乱より以後,風教は陵夷し、秀孝の策試は四科の実に乏しい。前に麏が興るは、或いはこの故か乎?」(『晋書』五行中)と嘆くのである。



光禄四行




結。

 杜恕の主張した、「その人の能力を尽くさない部署に用いれば才能と言えども無益。その能力の在る所が務める所ではなく、務める所が世情の要にないからである」とは、当時の九品官人法の弊害を踏まえたものであろうか。
 漢は孝廉を始めとして孝子と儒学の素養を最も重んじて人材を求め、その弊害が後漢斜陽の一因となったとされるが、それでも一方で、多様な選挙・策試の制度で幅広い人材を得て、これを適所に振り分けようと試みた。
 漢の失政を反省して定められた九品官人法を中核とする魏晋の人材登用は、しかしこれもまた、その制度特有の弊害を生んで長い混迷の一因となった。漢代の官吏に求められた基本素養「四科」の盛衰からも、この時代の成り行きの一端を知ることができる。




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最終更新:2014年12月28日 22:51

*1 『漢書』元帝紀永光元年 師古注