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都は、なお総なり。南北の道を総護するを言う。(顔師古)


 西域都護とは、代の西域に置かれた職官。通常の郡国の外にある西方諸国を総督し、朝廷に代ってその朝貢を受けた。
 それ単独で就任する職ではなく、騎都尉または諫大夫加官される地位であり、朝廷から派遣される使者としての体裁が取られた。
 西方諸国や匈奴との力関係、朝廷の内国事情により置廃が繰り返された。三国時代には置かれた記録は無く、代には前涼の王が兼ねたようである。


目次



歴史

 武帝時、西域の三十六カ国を内属させる。朝廷は使者校尉を置いて諸国を領護させた。
 宣帝地節二年、初めて西域都護を置き、烏壘を治す。以後、騎都尉諫大夫を使して都護と為し、西域を護す。
 の始建国五年、恩信の失が積もり、西域諸国が背いて都護但欽を殺す。以後西域への影響力を失う。
 明帝永平十七年、中興して初めて西域都護を置く。
 翌十八年、焉耆、龜茲が西域都護の陳睦を攻め(ほろぼ)す。
 和帝永元三年、復た西域都護騎都尉戊己校尉の官を置く。
 安帝永初元年、西域都護を罷める。
 献帝中平六年、扶風都尉を省き、漢安都護を置いて西方を総統させる。
 蜀漢は置かず。


 一人、加官故に秩禄無し。
 騎都尉諫大夫を使して西域を総護させる。



職掌

 西域す。


属吏

 一人。

司馬

 二人。

 二人。

千人

 二人。


西域長史

(後漢)


属官

西域副校尉

 一人? 秩比二千石。



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関連項目・人物



詳説





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最終更新:2015年01月29日 23:24