越騎校尉は、前漢武帝期以降に置かれた朝廷職官胡越騎を司った。いわゆる武帝八校尉北軍五校尉の一。
 後漢に到ると光武帝が一時青巾左校尉を置くが、まもなく越騎校尉と改称され、北軍に組み込まれた。
 後漢以降は宮中に宿直する宿衛兵を掌り、精鋭騎兵を擁するためか、諸校尉の中でも征伐に従う例が多い。任官者も、外戚宦官の有力者から儒士まで幅広く、それぞれに務めを果たした。
 宣帝紀等では、胡越騎胡騎校尉などとも称す。



目次



歴史

 武帝が置く。
 光武帝建武九年、青巾左校尉を置く。
 同十五年、改めて越騎校尉とする。
 以後、漢魏晋ともに置き続ける。



(前漢)
 一人、秩二千石。


(後漢)
 一人、秩比二千石。


(魏・西晋)
 一人。
 秩比二千石、四品官か。(宋志より)



職掌

(前漢)
 越騎を掌る。


(後漢)
 宿衛兵を掌る。


(魏・西晋)
 営兵を領す。


属吏

(後漢)
  • 司馬
 一人、秩千石。

  • 員吏
 百二十七人

  • 領士
 七百人。


(魏・西晋)



  • 営兵



所属項目(タグ)


関連項目・人物



詳説

 前漢に於いては、胡越騎が個別に出征する例が複数あるにも関わらず、越騎校尉が出征した記録はないようである。一方で「三輔胡越騎」が個別に動員されたり、騎都尉に領されたりしていることを踏まえると、直接の指揮官よりも監督官の性質が強いものだったかもしれない。
 後漢に於いては宿衛兵を掌り、しかも精鋭の騎兵を領したことからか、外戚*1や、宦官の与党*2、皇帝や皇太子に経学を授けるなどした儒士*3など多様な人材が就任し、史書の記述の多い官となった。また、洛陽内の政変に関わったり*4、その席が争奪の対象になる*5など、規定の領士数を越えて重要な地位を得ていたことが窺える。




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最終更新:2015年02月11日 23:46

*1 鄧康、馬光、梁冀、竇武。また馮柱は公主を娶った

*2 曹破

*3 鄭衆、桓郁、楊賜、樓望、劉千秋

*4 梁忠、种輯、馮詩

*5 蓋勳