とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

Part06

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 それから数日のちの木曜日。常盤台中学の授業も終わって、美琴と白井が寮へ向かう帰り道。2人は話しをしながら、学舎の園のゲートを出た。

「お姉さまは……今日はこれからいかがしますの?」

 白井は美琴に向かっておずおずと尋ねた。
 なんとなくうきうきしている美琴の様子に、白井は念のため確認なのだと思いながら。

「今日は当麻が帰ってくるから、これから買い物をして、晩御飯を作りに行かないとね。出張で疲れてるだろうからゆっくり休んで欲しいし。でも泊まりはしないから安心して」
「やはり上条さんのイギリス出張は今日まででしたのね。しかしそれではまるで出張帰りの夫を迎える妻ですわ。お姉さまったら通い妻みたいで本当に妬けますの」

 白井がジト目を美琴へ送っている。美琴が上条の部屋へ通うようになったことに、彼女もすっかり慣れてしまっているとはいえ、その心境はまだまだ複雑なのだ。

「えへへ。この間インデックスにも同じこと言われちゃってさ。もう……私まだ、結婚してないっつうのに」
「人目も気にせずこう堂々と惚気るようでは、見せ付けられるインデックスさんにもご同情申し上げますの」
「まぁ、私だってね、当麻と結婚するのはやぶさかじゃないっていうか、当麻とならしてもいいっていうか、むしろ当麻としかしたくないっていうか……」

 以前と違って、ツンが無くなって人前でもデレを隠さなくなった美琴に、白井ははぁ、とため息をついた。

(まあ、お姉さまの幸せそうなお顔を見られるのでしたら、仕方ありませんのね……)

 あの初々しかったお姉さまは、いったいどこへ消えてしまいましたの、と言いたげに。

(それに上条さんもお姉さまと一緒のときは本当に幸せそうでいらっしゃいますし……)

 そんな白井の気持ちを知ってか知らずか、美琴がにっこりと微笑みながら白井に言う。

「――だから黒子もさ、そろそろ新しい恋を見つければいいと思うんだけどね?」

 その言葉に白井の心臓がドキリとした。心中を見透かされている気もしているが、敢えてそれには触れないでおくのが、乙女の意地。

「そうもいきませんの。わたくしは……まだまだお姉さま一筋ですのよ?」
「そうかなあ? そろそろあきらめて欲しいんだけどね。私のことも……」

 美琴が飲み込んだ最後の言葉が、なにを言わんとしていたのか、白井にはわかっていた。
 あのピクニックの日に、ボートの上で感じた胸の痛みとその答えを、結局彼女は今も捨てきれないでいるのだ。
 それでも表情に出さぬように、そして淑女の嗜みを忘れぬように白井は、美琴に反撃する。

「お姉さま。わたくし、こう見えても諦めの悪い女ですの。ゆめゆめご油断召されることのございませんように」
「ご忠告、どうもありがとう。黒子……」

――PRRRR PRRRR♪

 傍目には雑談にも見える複雑な女の戦いは、美琴の携帯へかかってきた突然の電話で終わりを告げた。
 それは普段はあまりかかってこない番号での着信。上条がインデックスに持たせていた携帯電話の番号だった。
 イギリスから帰ってくる彼が、寮に着いたことを知らせる電話かもしれないと思いながらも、それが上条本人からではないことで、美琴の内心を不安がよぎっていく。

「もしもし。インデックス?どうし……」

 電話をとった美琴の耳に入ってきたのは、インデックスの悲鳴のような声だった。

「みことっ! 助けてっ!!」

 最初、上条の留守を狙って何者かが彼女を襲撃したのかと美琴は思った。
 電話から響いてくる声の大きさと叫ぶような様子に、横にいた白井までもが事態の何事かにピクリと体を震わせる。

「どうしたのッ! インデックスッ!!」
「――とうまが倒れたんだよっ!! 早く来てっ!! とうまが、とうまがっ!!」

 取り乱したようなインデックスの声に、一瞬、彼女の危機では無かったことに安心したが、むしろ上条が倒れたというより重大な事態が、美琴に大きな衝撃を与えていた。

「黒子ッ!!」
「お姉さまっ!!」

 とっさに美琴が白井に向かって叫んだときには、白井はすでに美琴の肩をつかんでテレポートを開始していた。


 美琴と白井が上条の部屋に着いたのは、わずか数十秒後だった。
 部屋の廊下に上条が旅装のままうつぶせに倒れ、はあはあと息を荒くしている。口から何か吐いたようで、黄色っぽい液状の吐しゃ物が床にこぼれていた。
 その横で呆然としてどうしていいのかわからないといった表情のインデックスが携帯電話を握ったまま蹲っていた。
 その光景を目にして、美琴は消えつつあった不安が目の前に厳然として現れたことにパニックを起こしかけた。

「――当麻!当麻っ!!」

 美琴が倒れている上条に駆け寄って、体に縋り付く。
 ゆさゆさと彼を揺さぶると、その体を起こそうと腕に力をいれた。ゆっくりと起こされる体の変化に、上条が気がついたようにうっすらと目を開けた。

「――みこ……と?」

 微かに唸るような上条の言葉。まだ意識があるようで、ゆっくりと手を彼女の方へ差し伸べようとした。
 その様子に美琴はより一層焦りを感じて、その手をとろうとするが、彼の体を支えるのに精一杯なのと、恐怖と緊張でなのか体が震えて思うように手が動かせない。

「当麻! 当麻っ!! しっかりしてっ!!」
「あ……あ……み……こ……」

 美琴がやっとの思いで上条の手をつかんだとたん、彼の手から力が抜けてするりと彼女の手から滑り落ちる。
 上条が意識を失ったのだ。
 その様子に、美琴の頭脳がパニックを起こし半狂乱になってすがりつく。

「いやぁぁぁあああっ!! 当麻!! 当麻ぁっ!!」
「とうま! とうまっ!! いやだよう!! とうまぁっ」

 いつのまにかインデックスも美琴といっしょに、上条の体にすがりついていた。
 2人とも何をすればよいのか考えることも出来ず、ただ上条を揺さぶり、すがりつくばかりだった。
 そのとき、

「――お姉さまッ!!」

 その場に叱咤の声が響く。鋭い声に、上条を取り巻いていた狂乱の渦が一瞬にして静かになった。

「お姉さまっ!! 上条さんの恋人たる貴女がそんなことでどうしますのっ!!」

 白井の一喝に美琴の頭脳がいつもの平静さを取り戻した。

「く、黒子……」
「今、救急車を呼びましたの。状況からして事件性は無いようですので、風紀委員の出番は無さそうですが、それでも救急措置は必要だと思いますの」
「――うん。ごめん。取り乱しちゃったね。ありがとう、黒子……」

 美琴はそう言うと、そっと上条の体を横向けにして床に下ろし、あらん限りの救急措置を始めていた。
 すでに彼女の表情は、愛する者を絶対に救うのだという決意に満ちて、神々しいまでに真剣で美しい顔に変わっている。
 かつて見たこともないような美琴の表情に、白井は――ほっとため息を吐いた。非常時ほど冷静になるというテレポーターの真骨頂を発揮したのだった。

(それにしても、お姉さまがあんなにも取り乱されるなんて……)

 それだけで美琴がいかに上条を想っているか、白井にはそれがうらやましく思えて仕方がなかった。恋しい相手を前にして、自分も同じように感情を露わにしてみたくもあった。
 しかし空間移動能力者の性質として、いつ何時たりとも冷静な自分を保つよう訓練されてきた白井には、それをしようとは思わない。LEVEL4テレポーターの誇りにかけて、そんなことはしたくないというプライドが彼女の枷となる。

(もはや、お姉さまと上条さんの間には、何人といえども入り込む余地なんてございませんのね。――ならばこの白井黒子、これからはお姉さまだけでなく、上条さんにも文字通り「黒子」として……)

 白井の胸に走る僅かな痛み。その痛みを大きくしないために。そしてこの感情をこれ以上扱わないために、彼女は今、「想い」を捨てると決めた。
 それが上条に対してなのか美琴に対してなのかは、自分の胸に残る傷跡と照らし合わせてみれば明らかなのだろう。

(私はここで止まるわけにいきませんの。でなければ到底このお2人に並び立つことなぞ出来やしませんから)

 白井黒子は常に上を目指している。それは能力のLEVELアップを、ということだけではない。
 自分の憧れたる2人を支えるために、いつか彼らと並び立つことが出来るように、彼女は更に上を目指す。

「インデックスさん。もう大丈夫ですから、お姉さまにお任せしましょう」
「くろこ……」

 白井はそっとインデックスの体を支えるように抱きかかえて、美琴が行っている措置の邪魔にならないように部屋の外へ連れ出した。
 もうこれ以上、美琴と上条の姿を見なくても済むように。

「くろこぉー、とうまは、死んじゃったり……しないよねー?」

 インデックスが白井の腕の中で泣きじゃくっている。
 2人が来て、張り詰めていた緊張の糸が切れたからだろうか。そんな彼女を白井は、安心させるように抱き締めていた。

「大丈夫ですの、インデックスさん。見たところ、上条さんもさっきまで意識はあったようですし、大きな異変があるようには思えませんの。だから安心してくださいな」
「――うん。くーろーこぉー、怖かったんだよぉー」

 白井の励ましに安心するかのように抱きついてくるインデックスのことを、ふと彼女は可愛いと思ってしまった。
 インデックスの髪から、ふわりと漂う微かに甘い香り。シャンプーの香りとは違う、彼女自身が発する香りだろうか。
 風に煽られるインデックスの透きとおるような細い銀色の髪が、白井の目の前できらきらと柔らかな蜘蛛の糸のように輝いている。
 白のフードから覗く、腰まで伸びたインデックスの銀髪が軽く白井の頬を撫ぜた。
 顔を見れば、全てを見透かすような大きい翡翠色の瞳から流れる銀色の滴が、白磁のような肌を零れていく様に、白井は心臓を鷲づかみにされたような感覚を覚える。
 保護欲を刺激される儚さを持つ、西洋人形のような容姿をした美しい少女。
 考えてみれば、これまでインデックスという少女を真っ直ぐに見た記憶がないことに白井は気がつく。
 そのシスターはいつも上条と一緒のことが多いため、白井との接点は少ないうえに、そもそもインデックスは学園都市の学生ではない。
 以前に書庫で彼女の情報を垣間見たこともあったが、名前とID、生年月日のほかには何の情報もそこには無かった憶えがある。
 いつから上条と一緒にいて、なぜ彼と一緒なのか、そもそも何者なのか、これまではほとんど気にも留めなかった。
 しかしこの瞬間に、白井はインデックスというこの少女が、するりと自分の心の中に入り込んでいることに気がついた。

(――なんですの? まさか……!? いえ私はお姉さま一筋なはずですのよ)

 別にときめきとかそういう気持ちではない。いつのまにか胸の痛みが消えて、温かく何かに包まれているような感じだけがしていた。
 なぜそう感じたのか白井は不思議ではあったが、そのことを考えるには今は不適当に思われた。
 それは救急車のサイレンがちょうど寮の前に止まったことに気がついたから。
 すぐに救急隊員の声と、担架のがちゃがちゃという音が聞こえてきた。
 白井は通報者にして風紀委員という自分の責務を果たすべく、そっとインデックスの体から離れる。
 なんとなく後ろ髪を惹かれるように感じたのは、気のせいなんだろうと彼女は思うことにした。


 上条が救急車で第7学区にある馴染みの病院へ運ばれて、救急治療室に入って行ったとき、応対した看護士に彼の容態を説明したのは美琴だった。発見時の彼の容態と自分が行った処置を説明し、念のため持ってきた彼の吐瀉物を渡した。
 これで彼女の役割が終わった。あとは同じく付き添ってきた白井、インデックスと一緒に廊下のベンチに腰を下ろして待つことだけだ。
 ほっとして美琴の身体から力が抜けた瞬間に、彼女の体を震えが襲ってきた。全身がぶるぶると震え、歯もがちがちと鳴っている。
 目の前で力なく落ちる上条の手を思い出して彼女はぎゅっと目を瞑った。
 彼を失う恐怖に苛まれ、ロシアで見た絶望を思い出して叫びだしそうになったとき、両側からきゅっと優しく抱きかかえられる。

「みこと、とうまなら大丈夫なんだよ」
「お姉さま、もう大丈夫ですの」

 インデックスと白井が美琴を両側から支えるように肩を抱いていた。その温もりが美琴の悪夢を消し去っていく。
 そのとたん、彼女の両目からぽろぽろと涙がこぼれてきた。ずっと耐えてきた感情がこみ上げてきて美琴は顔を覆って泣き出していた。

「――ふええぇぇー、怖かったわよう……ぐすっ……当麻が……ひくっ……無事で……えぐっ……よかったぁー」
「みこと、ほんとにありがとうなんだよ」
「お姉さま……」

 白井もインデックスも手を握ったり、背中をさすったりして美琴を慰める。そんな2人の優しさのおかげで、彼女の不安もじきに払拭されていた。


 美琴の気持ちがすっかり落ち着いた頃、3人は看護士に呼ばれて、顔馴染みになっている医者の元へ向かった。
 手元に届いているレントゲン写真やCT画像に目をやっていた彼が、診察室に入ってきた3人に気付くと、ぐるりと椅子を廻すように、彼女らの方へ向く。
 仏頂面でも無表情でもない、いつもの落ち着いた柔らかな表情で、医者は馴染みの客に応じていた。

「しばらく彼の顔を見なかったから油断をしていたけれど、今日はいつもの怪我ではなかったんだね。――ああ、君たち。ここへ掛けたまえ」

 椅子を勧めながらも、飄々とした雰囲気を漂わせる冥土帰し。

「先生。それで当麻の容態はどうなんですか?」

 医者を取り囲むように座った3人の中で、真っ先に美琴が上条の様子を聞いた。
 白井もインデックスも心配そうな顔で彼の顔を見つめている。

「ふむ。彼は……」

 そのカエル顔がわずかに曇ったように見えて、美琴は一瞬ドキリとし、背筋をつうっと冷や汗が流れたような感じがした。
 白井もインデックスも息を呑んで、彼の言葉の続きを待っている。

「疲労と食あたり、かな。それに貧血が重なったのかねぇ。もしかしたら風邪の引き始めでもあったかな。いずれにせよ大きな問題は見られないね」
「「「――はひ!?」」」

 3人は思わず間抜けな声で聞き返していた。

「吐いたのは胃液だけのようだね。超音速旅客機に乗ってきたそうだから、おそらくは飛行機酔いだろうね。ちょっと血圧が低かったようだけど、今はすっかり平常だね」

 何かもっと深刻なことを言われるかと心配していたのが、まるでからかわれているように感じられた。

「点滴だけしておくから、終わったら帰っても構わないよ。ゆっくり休んで、疲労が回復すれば元通りだから心配要らないね」
「「「――……」」」

 3人とも目が点になるような気持ちだった。
 あれほど慌てて、大騒ぎをして、怯えて、落ち込んで、泣いて、そして奮い立った出来事が、実は何のことはない、ちょっとした体調不良が重なっただけのことらしい。
 それでも「不幸な」彼にしてみれば、外から戻ったときに、病院のお世話になるのはお約束、なのだろう。

「ああ。彼は今、隣の治療室で点滴を受けているから。多少ふらつきは残るから、2、3日は休むことだね。一応、疲労回復剤と食あたりの薬を処方しておくよ」
「――先生。ありがとうございました……」

 別の意味でがっくりと肩を落として、3人はは医者の元から退出する。
 それでも上条の病いが重篤でなかったことに安堵し、気持ちと足取りは来たときよりもずっと軽くなっていた。
 彼女たちが治療室へ入って行ったとき、上条は寝台の上で点滴を受けていた。
 チューブの付いていない右手を弱弱しく――よう、と上げて、3人の方へ顔を向ける。それに気付いた彼女たちが早足で上条の傍へ寄ってきた。

「当麻、大丈夫?」
「とうま、調子はどうなのかな?」
「上条さん、ご気分はいかがですの?」

 3人の問いかけに、すまなそうな顔をする上条。運び込まれたときよりは彼の顔色も格段に良くなっていた。

「――あ、ああ。3人ともすまなかった。いろいろ世話かけちまったな。――まだちょっとめまいはするけども……」

 そう言って彼は身体を起こそうとするが、まだふらついてしまうのかその動きが途中で止まる。

「あ、だめよ。まだ寝てなきゃ」

 美琴が慌てて彼を支えると、その身体をもう一度寝台に寝かせた。

「この調子だと、帰りはタクシーを使うとしましても……」

 白井がどうしたものか、と言いたげにインデックスと顔を見合わせた。
 その言葉に上条は、美琴の方を向いて少し弱弱しく笑顔を見せた。

「ああ。もう少し休んだら大丈夫だろうし、ちょっと肩を貸してくれればいいよ」
「でもさっきだって起きられなかったでしょ?」
「いや、あれは立ちくらみみたいなものだから、心配要らないぞ。先生だって大丈夫だって言ってるんだし」

 心配そうな顔の彼女たちに、上条は温かな声で語りかける。
 バーにぶら下がった透明な樹脂の袋から、1本の透明なチューブがのびて彼の左腕に繋がっていた。輸液がポタリポタリ、ゆっくりとチャンバーに落ちていく様子が、彼の心臓の鼓動のように思えて、美琴はそこに確かな生命を感じ取っていた。

「――うん、わかった。当麻は一度言い出したら聞かないからね。その代わり、私、直るまで看病するから」
「美琴、お前学校が……」

 美琴の言葉に、上条がちょっと待てと言いかけたのを、白井が遮るように口を開く。

「――お姉さま、今夜からの外泊届と明日の欠席届は私の方で手続きしておきますので、どうぞ心置きなく上条さんに付き添ってあげてくださいな」
「ありがとうね、黒子」
「――私ひとりじゃ、とうまの看病は難しいかも。やっぱりみことでなくちゃ」
「任せておいて、インデックス」

 まるで談合をするかのように怪しい微笑を交わす3人に、上条は参ったという顔で、ため息を吐いた。

「ああ、わかったよ。美琴、インデックス。世話かけるけど、頼むわ。それと白井、ありがとうな」
「どういたしまして、上条さん」
「任せとくんだよ、とうま」

 してやったりの顔をする3人に、上条も明るい表情で笑いかける。
 緊迫しているはずの治療室に、いつの間にか柔らかな空気が流れていた。
 すでに点滴の残りもかなり減っていて、あと少しで終わりのようだ。
 これから部屋へ帰れば、やっといつもの平穏が取り戻せると美琴は思った。だから彼女には、ずっとこれまで言いそびれていた言葉を、今この場で彼に言ってしまえば、この瞬間から平和な日常が再び始まるように感じられた。

「――おかえりなさい。当麻」

 その言葉と共に、近付いてきた美琴の唇が上条の唇へ優しく触れる。
 彼は彼女の目尻に溜まっていた滴を、そっと右手の指で拭ってやりながら返事をする。

「――ただいま。美琴」

 インデックスと白井が2人を温かく見ていた。美琴の言葉につられるように、2人も上条に言葉をかけた。

「おかえり、とうま」
「おかえりなさい、上条さん」

 その言葉に迎えられるように、上条も笑顔で答えた。

「――ただいま。インデックス、白井……」

 気がつけば、インデックスと白井の目尻にも、光るものが浮かんでいた。

「ところで当麻。いったい向こうで何があったの? こんなにぼろぼろになるなんて」

 美琴が腑に落ちないといった顔で上条に聞いた。最初の説明では、なんら危険性のない安全な仕事だということだったから。

「ああ、実はな、向こうじゃ非常時の人員ということだったんだが、ずっと作業室みたいなところに缶詰め状態にされてたんだよ。あっちの作業員は交代制だったのに、俺1人だけ寝ずの番だったんだ。それに食事は出たけど、どれもいまいち口に合わなくてな」

 彼はそう言うと、ふっと遠くを見るような目つきをした。
 彼女らもイギリス料理のことは知っているので、何も言わなかった。そもそもインデックスさえなにも言わないという時点で、その内容は推してはかるべしなんだろう。

「差し入れのフィッシュ&チップスは食えたけど、後で気持ち悪くなったな。それにうなぎのゼリー寄せとか、ハギスなんてゲテモノも食わされたりしたんだぜ」

 上条がそれを思い出して、おぞましさでぶるりと震えたように見えた。もう二度とごめんだと言うような顔をしている。

「だから寝不足と空腹と食あたりでふらふらの所へ来て、帰りの超音速旅客機に止めを刺されたってことらしいんだ」

 上条に依頼された仕事というのが、イギリス国内で見つかった古い霊装に掛かった呪いを解除する作業への協力だったのだが、これが手順はともかく、時間だけやたら掛かるという非常に面倒くさい仕事だった。しかもその呪いが暴走すると、1都市がまるまる壊滅しかねないというトンデモなものだったために、わざわざ『幻想殺し』を呼び寄せて行う必要があったらしい。
 限られた時間内での作業だったため、24時間ぶっ通しで行われたのだが、非常時対策たる『幻想殺し』は1人でずっと不眠不休の待機状態が続いていたのだった。


 まもなく上条の点滴も終わり、出された薬を受け取って帰る時間がやってくる。
 白井は病院から直接寮へ戻ると言い、上条と美琴、それにインデックスを乗せたタクシーは、病院の前で彼女に見送られることになった。
 美琴はその時、白井の僅かな変化に気付いたが、あえてそれを口にはしなかった。
 ただ別れ際に、

「黒子。来週のお休みの日に、久しぶりに初春さんと佐天さんも誘って遊びに行こっか?」
「お姉さま、私は構いませんけれど、上条さんのことはよろしいんですの?」
「ん? 友達付き合いも大切だからね。そういつもいつも当麻と一緒ってワケにもいかないわよ。ね?」

 そう言って美琴は隣の上条を見た。彼は別に気にする風でもなく、ただ――友達付き合いは大切だからな、とだけ言う。

「なら……インデックスさんもご一緒にいかがですの?」

 なんとなく白井は、インデックスを誘いたい気持ちになっていた。さっきインデックスに抱いた気持ちを、もう一度確かめてみたいとも思っていた。
 そんな彼女の顔を、インデックスが何もかも見透かすような瞳で見つめていたかと思うと、おずおずと口を開く。
 そこにちらりとシスターとしての表情が垣間見えたことには、誰も気がつかなかったが。

「――とうまがよければ私も行ってみたいかも」
「ああ、行ってこいよ。たまには俺も1人でのんびりするからさ」

 まるで休日をごろごろと1人で過ごす、どこぞの父親のようなことを言う上条。
 妻と娘(?)はそんな夫を放っておいて、勝手にお出かけの算段をしているのだった。

「決まりね。じゃ、また後で打ち合わせしましょ?」

 そう言って、美琴は白井に笑顔を見せた。同じように白井も美琴に笑顔を返す。

――何も言わなくても、お互いの気持ちがわかるだけの付き合いはしているのだ、と言わんばかりに。

 やがて走り去るタクシーのテールランプをじっと眺めていた白井の瞳から、ぽろりと雫がこぼれた。


 インデックスと美琴の2人に両側から支えられるようにしてタクシーを降りた上条が、部屋のベッドに身体を横たえた時、日はすっかり暮れていた。

「いろいろあったけど、やっと帰ってきたって感じだな」

 寝間着に着替えた上条が、ベッドの中からほっとしたように呟いた。

「ほんと、お疲れさまだったわね。当麻、気分はどう?」
「ああ、かなり楽になったけど、まだちょっと胃の調子が、な」

 美琴の問いに、上条がお腹に手を当てながら答えた。

「食欲はある? 何か消化によさそうなもの……、お粥でも作ろっか?」

 そう言って立ち上がると、キッチンへ行こうとした美琴の手を誰かがつかんだ。ぎゅっと力が入って、強く引き止めるように彼女の手がベッドの方へ引っ張られる。
 美琴が振り向くとそこには、

――行っちゃやだ。

 上条の目が訴えていた。唇が微かに動いたように見えただけで言葉として聞こえてはいないのに、美琴には彼の声で確かにそう聞こえた。
 顔は恥ずかしいのか、頬が赤くなっていたけれど、彼の目が今まで見たこともないような不安を訴えていた。

「――美琴……」

 ぽつんと呟くように、彼の小さく甘えるような声。
 そんな上条の目と声に、美琴は切ない思いで胸を締め付けられた。あの彼が、あの上条が、自分を求めている。
 彼女は上条が寝ているベッドに腰を下ろすと、彼の頭を自分の胸に押し付けるようにして抱き締めた。

「大丈夫。私は、どこにも行かないから」

 上条のつんつんした髪も、普段ほどの勢いが無い。彼はじっと抱き締められたまま身じろぎもせず、顔を胸に埋めたままでいる。
 やがておずおずと上条の腕が、美琴の背中へとまわされた。

「なあに? 何か怖かった? 不安だった?」

 彼女が優しく声を掛けると、彼が腕の中で頭を縦に振った。

「――怖かった。自分がどうなってしまうのかわからなくて、不安だった。もしお前とインデックスに会えなくなったらどうしようと思っちまって……」
「――っ!」
「空港でずっと、めまいが止まらなくて、身体が動かなくて、何度も吐いたけど何も出なくて。飛行機酔いはわかってたけど、でももしかしてヤバイ病気だったらどうしようって思ったら……」

 彼はいつも、怪我でしか病院のお世話になったことしかなかった。

「とにかく部屋まではと思って、なんとかタクシーでここまで帰ってきたけど……」

 だが上条当麻は記憶喪失だ。だからどんな症状が、どんな病気なのかを彼はよく知らない。

「インデックスの顔を見たら力が抜けて、美琴の声を聞いたらほっとして……気ぃ失ったんだ」

 知識ではわかっていても、経験の記憶を失った彼にとっては、初体験の症状が何の病気なのかはわからない。

「お前たちを守るって決めたのに、もしかしたら守れなくなったらどうしようって不安になって……」

 珍しく、上条が美琴の胸で涙を溢していた。すんすんと鼻を鳴らす彼を見て、彼女は愛しさで胸が一杯になる。

「やっとつかんだ幸せが、壊れてしまうんじゃないかって思っちまったんだよぉー……」

 彼のすすり泣くような声を聞き、美琴は彼を抱きしめる腕に力を入れていた。
 美琴は、自分の背中に廻した手に力を入れて、離れまい、離すまいとしている上条のことが可愛く思えて仕方がない。
 抱きしめている上条の、ツンツンした髪を子供をあやすように撫ぜながら、彼女はいつしか優しく微笑んでいた。その目には僅かに涙も浮かんでいる。

「すまん。ほんとこんな情けない姿見せちまってごめんな」
「ううん、情けなくなんてない。むしろ、こんな当麻の姿を見れて、嬉しいわよ」

 ずっと美琴の胸に顔を埋めたままの上条に見られないよう、美琴はそっと自分の目に溜まった涙をぬぐう。
 そんな2人の様子を、傍らで黙って見守っていたインデックスも優しく温かな表情をしている。

「こんなにも当麻のことが可愛くて、愛しく思えたなんて初めてかもね。だから弱音を吐いてくれて、ありがとう。当麻」

 美琴が静かに言葉を繋ぐ。

「私とインデックスのところへ帰ってきてくれてありがとうね。本当に嬉しい。だから……」

 上条の肩がぴくりと震えた。

「――当麻が守れなくなっても、私とインデックスとでアンタの願いを守るから……」

 上条がおずおずと美琴の胸から顔を上げる。

「――私とインデックスとで、当麻の幸せを守るから……」

 彼女を見上げている彼の目は涙で濡れていた。

「当麻は何も無理をする必要なんてないの。ありのままの当麻でいてくれれば良いのよ」

 美琴には、その滴が、どんな宝石よりも綺麗だと思えた。

「もしも当麻の幸せが壊されるって言うのなら……」

 彼の目から、つうーっと頬を伝う涙。

「――私とインデックスとで、そんな幻想はぶち壊してあげるから」

 美琴のたおやかな指先が、その滴を軽くぬぐうだけで、丸い水玉だったものは幻想のようにその姿を消した。

「――そうでしょ? インデックス」

 美琴がインデックスの方へ目を向けた。そう言われたインデックスが、にっこりと笑う。

「とうまはいつもいつも不幸だーなんて言ってるけど、私とみことはいつだってとうまの幸せを願ってるの」

 上条もインデックスの顔を見つめていた。

「――この願いはいつだって私とみことの心にあるから、必ず聞き届けられるんだよ……」

 インデックスが、ごくりと固唾を呑んだ。そして彼女が直後に発した言葉が上条に襲い掛かる。

「――ね、とうまお兄ちゃん?」

 インデックスが潤み目上目遣いで放った一撃は、『竜王の殺息(ドラゴンブレス)』のごとくに上条を打ち抜いた。

「ぐぁぁはぁぁぁあああ!!」
「――ちょ、ちょっとっ!? とっ、とと当麻っ! 大丈夫っ? イ、イインデックスッ!! アンタ、なに言ってんのよぉぉぉおおお!!!」

 顔を真っ赤にして目を回し、美琴の膝の上に倒れ伏した上条を、美琴が慌てたように揺さぶっている。
 インデックスのお兄ちゃん攻撃は、さしもの『幻想殺し』でも全く防げなかったようだ。

「ふんっ! みことにばっかりおいしいとこ、あげないんだからねっ!!」

 そう言ってインデックスはぺろりと舌を出し、あははと笑いながら玄関へ向かって逃げだした。ドアを開けて、くるりと2人のほうへ向きなおると、

「とうまのこと、こもえに伝えてくるんだよ! ついでにごはんも食べてくるかもっ! みこと!! とうまのこと、後はよろしくねっ!!!」

 すぐにパタンとドアが閉じられる。彼女が出て行った後には静寂だけが残された。

「もうっ! インデックスったらっ!!」

 美琴は終始笑顔のままだった。
 聞こえているのかいないのかはわからないが、目を回している上条の頭をやさしく撫でながら、彼女は独り言のように囁いた。

「――当麻がいつだって私とインデックスのことを大切に思ってくれてることは、ちゃんとわかってる。だからもっと不安や弱音を、私たちに聞かせてくれたら嬉しいんだけどね……」

 そうして美琴は、彼の頭を撫でながら静かに子守唄を口ずさむ。
 彼女の腰に廻されている上条の腕から、だんだんと力が抜けていくようだ。
 やがて美琴の膝の上に伏したままの上条は、すぅすぅと安らかな寝息を立て始めていた。


  ~~ THE END ~~


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