とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

20-285

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とあるバレンタインデーの物語 ~ The_tales_of_a_certain_St Valentine's_Day. 後編




 年齢も性別も学校も違うふたりの交流は、やがて終わりの時を迎える。それは各々の寮へ向かう分かれ道までやって来ていたから。

「俺はこっちだから」
「あたしはこっちなんで。――そうそう、御坂さん、明日のバレンタインデー、張り切ってましたから、楽しみにしててくださいよ」
「あー、そっか。明日なんだっけ。教えてくれてありがとな。それじゃ!」
「はい、また今度!」

 佐天はそう言って、上条と別れていく。その後に、彼女は携帯を取り出しながら呟いた。

「御坂さんに、上条さんが風邪引いて休んでること、教えてあげなくちゃ」

(誰にも言わないって言いましたけど、やっぱり御坂さんにだけは言っちゃいます。ごめんなさい、上条さん)

 美琴に言えば、間違いなく彼女は上条の看病に行くだろう。
 いっそその時に、キスしちゃえとでも煽ってやろうかと思い、

「さっきのこと全部教えちゃおっと……」

 なにやら企むような、黒い表情をする佐天。

「御坂さん、上条さんとキスしたら、どんな風になっちゃうのかな。――今度は、初春も呼ばなきゃね」

             ◇     ◇     ◇

 一方、上条は通りを向こうへと遠ざかっていく、佐天の後姿を見送りながら、呟いていた。

「ありがとうな、佐天さん。――俺は美琴を不幸にせずに済んだみたいだよ」

 それはまるで、ほっと安堵のため息を吐くかのよう。
 上条が抱えていた悩みとは、あの時、佐天が思っていた通りのことだった。
 自分の不幸が、美琴まで巻き込んでしまうのではと、彼は自信を失いかけて、疑心暗鬼に陥りかけていたのだ。
 そんな彼の間違った思いを、彼女は見事に覆してくれたのだから。

『――上条さんはそこにいるだけで、ちゃんと御坂さんを幸せにしてるんです』

 佐天にそう言われて、彼はようやく目が覚めた気がしている。
 美琴を泣かせてでも別れようかなんて、一時は本気で悩み、眠れぬ夜を過ごしたこともあった。
 インデックスに不審がられて、誤魔化したことさえもある。
 誰にも相談できず、ひとり苦しんでいた上条の『バカげた幻想』を、ひとりの無能力者の少女がいとも簡単にぶち殺してくれたのだ。

「俺は一緒にいるだけで、美琴を幸せに出来てたんだ。――本当に……よかった」

 風邪で体調は最悪だったが、気持ちはなにやらすっきりとしている。
 まるで今まで胸を塞いでいた重荷が取れたかのよう。

「だったら今度こそ、俺は、美琴に向き合わねえとな。――でないと本当にアイツを不幸にしてしまう」

 優しい笑みを向けて来る恋人の顔を思い出しながら、彼は家路を辿る。
 やがて再び襲ってきた、ぞくぞくするような寒気に身震いしながら、彼は足を速めた。

「だけど今日は一日寝て、明日には学校へ行かないとマズイな……」

 相変わらず出席日数が危ないから、病気だからといってうかつに休むことも出来ない。
 だがもしインフルエンザなら、そういうわけにいかない。それは周りの人にも迷惑がかかるから。

「――しかしインフルエンザじゃなかったのは助かったぜ」

 大切な人に風邪をうつしてはいけないから、もちろん美琴にも内緒にするつもりだ。
 なにかあったら言えといわれているが、一晩だけなら世話をかけるほどでもないだろうと彼は思っていた。
 今だって、彼女は明日の準備に忙しいと聞いたから尚更だ。
 それと小萌先生までもが風邪で寝込んでしまっているため、インデックスの世話は一方通行に頼んできた。
 打ち止めや番外個体がいれば、彼女とて退屈することはないだろう。

「うー。本格的に寒気がしてきた。とにかく薬を飲んで寝よう」

 ようやく部屋にたどり着いたときには、体調は悪化の一途を辿っていた。とにかく寒い。正確かどうかもわからないが、体温計には三十八度なんて表示されている。
 ぐらぐらと目眩を感じ、彼は慌てて薬を飲んで寝着に着替えると、そのままベッドに潜り込んだ。




 どのくらい寝たのだろう。上条が目を覚ましたとき、自分の頭に、冷たいものが載っていることに気が付いた。

(あれ? 俺、いつの間に頭冷やして……あれ?)

 額に載せられていた冷えたタオルをとって、ベッドから身体を起こしてみれば、台所でなにやら人の気配がする。

(誰か来てるのか? まさか――美琴か? でもアイツ、確か明日の準備で忙しいはずじゃ?)

 病院からの帰りに佐天から、明日のバレンタインに向けて、美琴が張り切っていると聞かされたから、今日は来ないものだと思っていた。
 だがそんな予想を裏切るかのように、

「――あ? 起きた? 具合はどう? 当麻」

 彼の前に現れた、エプロン装備の家庭的超電磁砲。恋人だった。

「あ? ああ、美琴か。ていうかお前、今日は何でここに?」
「当麻が風邪で寝込んでるっていうのに、私が来ないわけにいかないじゃない。当麻のことは、佐天さんに教えてもらったわよ」
「え? ああ佐天さんにか。――でもまあ、よく寝たんで、さっきよりはかなり楽になったな」

 彼女に口止めしておくべきだったか、と上条は思ったが、今となってはもう遅い。
 それに美琴の様子からして、自分のために食事の仕度をしてくれていたのだろう。
 なにより彼女が目の前にこうしていてくれたことは、正直嬉しかった。理性では風邪をうつしたくないと思ってはいても、だ。

「病院で会ったんだってね。――それよりインデックスはどうしたの? あの子に風邪をうつすわけにいかないでしょ?」
「ああ。だからインデックスは一方通行に預けてきた。小萌先生もダウンしてるって言うから」
「それでなのね。さっき土御門のお兄さんが来て、当麻のクラス、今日から三日間、学級閉鎖だって言ってたわ」

 美琴が、はい、と連絡事項が書かれたプリントを手渡してくれた。
 どうやら上条が寝ている間に、土御門元春がやって来て、いろいろ学校関係の連絡を持って来てくれたらしい。
 おまけに学級閉鎖ということは、

「休んでも、病欠にはならないって訳か。助かった!」

 と思いきや、受け取ったプリントの間からはらり、と落ちた手書きのメモが一枚。
 見れば、――覚悟しとくんやで、と青い字で書かれていた。
 どうやら恋人が看病に来てくれているのがバレたらしい。

「ううう、学校始まったときが怖い……不幸だ」

 がっくりと肩を落とした上条。ようやく彼女が出来たというのに、今度はリア充だからという理由で何かにつけて風当たりが強い。
 そんな彼の様子も気にも留めず、美琴が彼の首筋に手を入れてきた。

「んっ……なっ!?」
「あら。まだちょっと熱いわね」

 思わぬ美琴の行動に、上条の心臓がドキドキと高鳴っている。
 だからなのか、首筋に当てられた美琴の手が、ひんやりとして心地よかった。
 まだまだ熱が下がりきらないのか、それとも今のことで、却って熱が上がってしまったのか。

「おなか空いてるでしょ? 食欲はある? 薬飲むんだったら、なにか食べなきゃね」
「あ、ああ。そういや今日はまともに食ってねえや」
「そんなことで、風邪が治るわけ無いじゃないのよ。――ちょっと、起きてみて? つらくない? 大丈夫?」

 美琴が彼の身体を起こそうと、背中に手を伸ばしている。
 上条の背中に回された彼女の手は、華奢なようにも思えたが、彼には同時に力強くも感じられた。
 年下の女の子のはずなのに、なんだか年上のお姉さんのようにも見えてしまったのはなぜだろう。
 彼女の顔を見れば、いつもの優しい笑みがそこにあって……。
 いつの間にかじっと、彼女の顔に見惚れている自分に気が付いた。昼間、彼女の友人とした会話が思い出されて仕方がない。

(――俺なんかにはもったいないくらい、可愛くて魅力的な女の子だよ)

「私の顔、どうかした? なにか付いてるの?」
「んあ? あ、なんでもない。……大丈夫、だ」

 つい見惚れてました、などと言えるわけも無く、彼は熱で火照った顔をさらに赤くしてしまう。
 同時に男の本能が、身体の奥底からじわり、と溢れてくるような気がしたから、慌てて視線を逸らしていた。
 そんな彼に美琴は、――変な当麻? と呟いただけだった。




 ベッドから起きあがると、幸いにも目眩や頭痛も感じられない。ただ寝汗をかなりかいたため、シャツがじっとりと湿って気分が悪い。

「――汗もかなりかいてるわね。今、熱いタオル持ってくるから、着替えなさい。その間に晩ご飯の用意をするから」
「お、おう……」

 甲斐甲斐しく世話を焼く恋人に、感謝の念を持ったままでいると、晩御飯という言葉につられたか、お腹の中から、ぐぅ♪と音がした。
 どのくらい寝たのかと窓を見れば、外はもうすっかり暗くなっている。時計に目をやれば、すでに完全下校時刻を過ぎていた。
 美琴から渡された、お湯で絞ったタオルで身体を拭き、新しいシャツに着替えたらさっぱりとして気持ちいい。
 やがて目の前の炬燵の上に、――ドン、と鍋が置かれた。

「今夜は特製うどん鍋にしてみたの。これ食べれば、身体の中から温まるわよ」

 たっぷりのうどんと消化のよい根野菜にキャベツ、刻んだお揚げと鶏肉、さらには落とし卵。だしを効かせた醤油味の汁に、おろししょうがをたくさん入れて。
 美琴が中くらいの器によそい、はい、と上条の前に差し出した。ここでは大きい器がインデックス、中くらいなのは上条、やや小振りなのが美琴の器だ。
 たっぷりと盛り付けられた器から香る出汁の匂いが、彼の空っぽの胃袋を刺激する。
 いただきます、と箸をつけてうどんを啜りこめば、口の中に広がる野菜の甘みと旨み。鼻へと抜ける出汁の香りも、まろやかに広がる。
 刻んだ揚げから出た風味としょうがのアクセントが汁の味と相まって、やさしくお腹の中へと収まっていくようだ。
 同時に身体の芯から、ほかほかと温みが感じられる。

「美味い。――ほんとに美味いよ」
「そう? よかったあ……」

 彼の目の前で、美琴がやや小振りの器に、うどんをよそっている。鍋から立ち上る湯気の向こうに、恋人の幸せそうな顔が揺らいで見えた。
 箸を動かす自分を見ながら、満足そうに笑っている。その表情を見ただけで、上条はなんだか急に、胸が詰まるような思いを感じていた。
 彼女が魅せるこの幸せを、自分は危うく失わせてしまうところだったのだ。こうして一緒に居るだけで、幸せだと言ってくれていたというのに。
 よく見れば、確かにそう感じられる美琴の笑顔は、何物にも変えがたい気がして、彼の胸中に忸怩たる思いが広がった。
 改めて、自分は恋人に正面から向き合っていなかったことを自覚させられた。
 だが、これからは彼女を不幸にさせないためにも、きちんと向かい合うと決めたのだ。誰よりも愛しい恋人が幸せなら、自分だって幸せなのだから。
 そう思ったとたん、じわり、と上条の視界が滲んだ。いつのまにか箸を動かすのも止めて、じっと美琴の顔を見つめていた。

(――幸せ、だな)

 何のためらいもなく、素直にそう思っていた。
 自分には幸福なんてありえないのだと思っていたが、いつのまにかこの少女は、そんな幻想さえも殺してくれていたらしい。




「どうかしたの? 調子悪いの?」

 心配そうに美琴が上条を見つめている。
 思わず彼は口にしていた。

「――ちゃんと見てなかったって思ってさ」
「えっ?」
「美琴が幸せだったら、俺も幸せなんだなって」
「え? は? ――ふぇぇっ!?」

 上条からの言葉に、美琴の顔がたちまち真っ赤になる。
 慌てたように、手に持った器を台の上に置くと、彼女は両の手で口元を覆い、うるうると瞳を潤ませた。

「や、やだ……。そんなこと、急に、言われたら……」
「え、あ? いや俺、まずいこと言っちゃったか?」
「ううん、違う、の。――その、私も……当麻が幸せだったら……幸せだなって思ってたから」

 美琴の鳶色をした瞳から、ぽろりと落ちた涙が一粒。上条は彼女がこぼした滴を、きれいだと思った。
 なんとなく手を伸ばすことさえ憚られるように感じて、じっと彼女の瞳をみつめることしか出来なかった。
 この瞬間だけは、お互いの気持ちが通じ合えたような気がしている。
 自分のこの想いも、美琴の想いも繋がったように感じて、彼は湧き上がるような喜びをかみしめていた。

   ◇  ◇  ◇

 付き合いだしてから、すっかり雰囲気が変わってしまった美琴だが、今では以前よりずっと、愛しく思っている。
 初めて出会った夏前のことは、自分の記憶には全く残っていないが、夏休みの終盤に差し掛かった頃、自販機の前で出会った時は、活発で勝気な少女だった。
 そんな彼女とわいわい騒ぎながら歩く帰り道は、とても楽しくて、心地よかった。自分の欲しかった、日常の風景がそこにはあったから。
 彼女と並んで歩きたいと望む気持ちは、記憶を失う前から、いつの間にか自分の心に刷り込まれてしまっていたのだろう。
 あの時、美琴を絶望から救うことが出来たのは、無意識のうちにも、彼女を失いたくなかったからだと、今ははっきりとわかる。
 アステカの魔術師とあの約束が出来たのも、美琴と一緒にいられる世界が、自分の求める世界だったからか。
 自分のためだと言いながら、上条はまさしく、自分の求める夢のために、求める世界のために、守りたい人のために戦ってきたのだ。
 そんな彼と一緒に戦うのだといい、手をとってくれた彼女の手のぬくもりを、今だって忘れることは無い。
 まごう事無きしくじりをした彼に、自分も一緒にその重荷を背負うと言ってくれた美琴の言葉を忘れてはいない。
 それでも巻き込むわけにいかないと思ったのは、何が何でも彼女を失いたくなかったから。
 いつ頃からなのだろう。御坂美琴が上条にとって大切な、そして特別な存在になったのは。
 彼女がいるから、自分は戦える。インデックスを守っていける。どんなに不幸であろうとも、この世界を愛していられる。
 これからも手を携えていける大切な恋人と共に、守りたい世界が、人たちが、夢が、失いたくないものがあるから、自分は何度でも立ち上がれるのだ。

「私、一緒にいられるだけで幸せだって思ってたのに……」

 そんな想いを抱く恋人から、こんな言葉を聞かされたりしたら、俺は……

「当麻がそう言ってくれただけで……本当の幸せってこういうことなんだなって思っちゃった」
「――――ッ!!」

(マズイ。ヒジョーにマズイ)
(なんていうか、不幸っつーか、ついてねーよな。俺、本当についてねーよ)
(今すぐ美琴をぎゅっと抱きしめて、キスしてえって思っちまった)

 そんな彼の内心の葛藤なんて、彼女は当然、知るはずもなく、

「だから私、嬉しくて……当麻を好きになってよかったって。これからもずっと、当麻のこと、愛していられたらなって」

 美琴が上条を上目遣いに、じっと見つめて来る。嬉し涙で潤んだ彼女の鳶色の瞳が、部屋の明かりに照らされてきらきらと輝いていた。

(そ、そんな瞳を向けられたら、理性なんてぶっ飛んじまうってえええ!!!)

 美琴に風邪をうつすわけにいかないと、彼は血反吐を吐く思いで、そんな欲望に耐えぬいた。
 もしも彼女が、上条に抱きつきでもしたら、彼の理性が持ちこたえることはなかっただろう。
 風邪の回復期ゆえなのか、本能に基づく欲求(リビドー)が、頭をもたげることが無かったのも幸いした。

(うおおおっ! 風邪さえ引いてなければッ! ああっ、もう、不幸だあああーーー!!!)

 なんとか理性を働かせて、危うく踏みとどまることが出来たようだ。



 食事も済んで、台所からはかちゃかちゃと後片付けの音が聞こえてくる。
 さっきのことは、とにかく冷めないうちに食おうぜ、の一言でなんとか事なきを得た。
 それに彼女も遅くなり過ぎないうちに、帰さなければいけないのだ。
 こうして恋人に看病してもらうなんて、彼には望外の幸せだった。彼女に風邪をうつしてしまう心配をしていても、内心の喜びはまた別なのだから。
 ふう、とため息ともつかぬ思いを吐き出して、上条は風邪薬を飲み、ベッドに半身を潜り込ませる。
 やがて片づけを終えた美琴が、彼の傍に寄ってきた。

「明日の朝と、昼のご飯も用意しておいたから、温めて食べてね。学校終わったら、また来るから」
「ああ、すまないな。――本当に……助かった……よ」

 そう礼を言ってみたものの、美琴に帰って欲しくない、と感じてしまった。
 頭ではわかっているが、いざ彼女が帰るとなったらなんだか寂しく思えたのは、きっとこれは風邪で心細くなっている所為なのだと。
 決して恋人と少しでも長く一緒にいたいから、ではないはずだ、と思い込もうとする。
 しかし、

「何よ、そんな寂しそうな顔しちゃってさ……」
「え?」

 はっきりと顔に出ていたらしい。

「――私だって本当は、もっと一緒にいたいなって思ってるんだから」
「は? あ……、お、おう!?」

 言い当てられた恥ずかしさと、一緒にいたいと言われた嬉しさに、上条の顔も赤く染まっていた。
 それでも、そして、だからこそ、なけなしの理性と勇気を振り絞り、

「だったら、明日、また来てくれよな」
「…………うん」

 名残惜しそうな顔をする恋人に、無理やり作った笑顔で告げる。
 そうして更にもうひとつ、明日の楽しみを作るために、

「――チョコ、用意してくれてるんだろ? 楽しみにしてるからさ」

 そう上条が言ったとき、美琴は――あ、そっか、と初めて何かに気がついたようなことを言った。
 部屋の隅に置かれた紙袋へ手を伸ばした彼女が、そこから取り出したもの。

「んん?」
「はい、どうぞ」

 何事かと、ベッドの上に身体を起こした上条の隣に、腰掛けた美琴が差し出したのは、きれいなリボンが掛けられたハート模様の赤い包み。
 それはまさしく、美琴お手製のバレンタインチョコだった。

「一日早いけど、やっぱり当麻には、他の誰よりも真っ先に渡したかったし、他の誰よりも先に、受け取って欲しかったから」
「――美琴……」

 あまりの嬉しさに、ついうるうると目を潤ませた上条。
 彼の記憶に残る初めてのバレンタインチョコは、恋人からの大本命チョコだ。
 いや、記憶に残っていない分も含めても、こういう経験は、おそらく人生初めてじゃないかとも上条は思う。

「それとも当日のが、よかった、かな?」
「いや、俺の人生初めてのチョコだぜ? 美琴から一番に欲しかった、っていうか、美琴からだけもらえたら、後は何もいらねえよ」
「嬉しいな。そう言ってもらえたら……」

 だが彼女にはわかっている。
 やたらとモテるこの鈍感彼氏は、自分がチョコをもらえることなんて、全く想像していない。
 義理チョコはともかく、本命チョコを贈られた時、彼はいったいどうするのか。
 もちろん受け入れることは無いだろうが、きっぱりと断わるのか、それとも鈍感ゆえにスルーするのだろうか。
 ちょっと見てみたい気もするが、只でさえ優しい性格の上条なのだ。いたずらに悩ませるようなこともさせたくは無い。
 だから明日、学校が休みなのは、チョコをもらえない彼にとっては不幸であるが、実は案外幸せなのかもしれないと思う。

(本当は、明日、当麻と会えない女の子たちの方が不幸なのかもね)

 だが翌日、大量のチョコが英国を始め世界各地から届いたり、上条の部屋へ次々とチョコを渡しに来た女の子たちのおかげで、一騒動あったのはまた別のお話。




「――なあ、開けてもいいか? っていうか、開けるからな」

 待ちきれないかのように、上条がラッピングのリボンに手をかけた。端を軽く引っ張っただけで、それはするりと解けて落ちる。

「初めて作ったから、口に合うかどうかわからないけど……」

 じっと彼の手元に視線を落としたまま、自信無さげに言う美琴。
 そんな彼女の不安さえ、一蹴するかのように、

「美琴が俺のために作ってくれたんだ。美味いに決まってるさ」
「――もう……バカ」

 恥ずかしげもなく言い切った彼の言葉に、美琴は初々しい照れた表情を浮かべた。
 そんな彼女に遠慮もなく、上条はがさがさと包装をはずすと、中の箱のふたを取る。
 現れたのは、ホワイトチョコで『LOVE』と書かれた手のひらサイズのハート形チョコが一個に、白いトリュフチョコと茶色いトリュフチョコが併せて四個。
 脇に添えられているのは一枚のメッセージカード。それには『 I LOVE YOU  MIKOTO 』とだけ書いてあった。

「すげえ。これ全部、美琴が作ったのか?」
「ハート形のは私だけど、トリュフはみんなと一緒に作ったの」

 ハート型チョコの、艶々しい焦茶色の深い色合いは、丁寧なテンパリングをしたことを物語っていて、口にする前から、その滑らかな口溶けが想像できそうだ。
 二種類のトリュフチョコの表面には、それぞれ網目のような模様が描かれていて、見た目にも店で売っているのと変わりが無いようにも見える。

「トリュフは友チョコや義理チョコ用にたくさん作るから、まわりの部分は既製品なの。でもハート形のは全部手作りだから」

 自分のために、と一生懸命作ってくれた美琴の気持ちが嬉しかった。
 そんな彼女が愛しくて。抱きとめたくて。温もりを感じたくなって。思わず彼女に手を伸ばし、その身体を引き寄せる。
 しっかりと美琴を腕の中に抱きしめた。

「え、えっ? あっ……」
「嬉しい。本当に、嬉しいぞ……」

 これまで何度も抱きしめてきた美琴の身体だが、さらりとした髪から、いつもの良い匂いと共に、今日はカカオの甘い香りもする。
 頬に感じる彼女の体温が、急に高くなったように感じられた。

「――すまん。風邪、うつすとか考えられなくなっちまった……」

 いきなり抱きしめられて驚いた美琴だったが、耳元で囁いた彼の言葉に何も言わず、そっと彼の背中に手を回した。
 ふわりと何かが彼女の鼻腔をくすぐったような気がしたのは、彼の匂い、なのだろうか。
 思わず上条の耳元で呟いていた。

「やっぱりこれじゃ、今夜は付きっ切りで看病しないとダメかな」

 さらりとそんなことを言い放った美琴に、彼は思わずその身を離して言った。

「――おいこら不良彼女! お泊りなんてダメですッ! いくらなんでも上条さんの理性が持ちませんッ!」
「なっ、なによ、ヘタレ彼氏っ! 男の甲斐性見せなさいよ! この意気地なしっ! ――えっ……あっ!? ち、ちがっ!?」

 思わず上条に言い返してしまった言葉に気がついて、真っ赤な顔になる美琴。
 ――お前は病気中の彼氏に、何を期待してるんだ、と叫びそうになったのをぐっとこらえる。
 そういやさっき、据え膳は食ったよな、とわけのわからないことを考えているのは、たぶん動揺しているからだろう。
 さすがにこの流れはまずいと思い、上条は矛先を変えようと、

「いや、お、俺は風邪をうつしちゃいけないと思ってだな……」
「か、風邪なんてへっちゃらよ。当麻の風邪なんて、私の愛情で治してあげるんだから」
「でもさ、やっぱり、その……」

 言いよどむ上条に、美琴が言い放った。




「――どうせ当麻のことだから、私を不幸に巻き込んじゃいけないとか、考えてたんでしょ!」
「んなっ!?」
「キスが出来なかったのも、それが怖かったから、とか?」
「美琴……お前、なぜそれを……」

 今日までずっと悩んでいたことを、突然ズバリ、と言い当てられ、上条の胸に困惑が広がった。
 だがそんなの簡単なことよ、と言わんばかりに、美琴がじっと彼の目を見つめてくる。
 真剣な眼差しの彼女に、上条は動転しそうな気持ちを鎮めると、居住まいを正すように身じろぎした。

「当麻の考えてることなんて、私にもなんとなくだけどわかるわよ」
「そう……なのか?」
「だって……当麻のことが……好きなんだから。大好きなんだから」

 真面目な顔でまっすぐ見つめられて、面と向かってこうもはっきり言われたら、彼も同じように真剣になる。
 昼間のこともあって、今度こそ、美琴と正面から向き合うのだと決めたのだから。

「――お前……」
「最初に言ったでしょ? 当麻の不幸なんて、この私が全部まとめてふっ飛ばしてあげるって」
「そうだな」
「当麻が一緒にいてくれさえすれば、私はそれだけで幸せなのよ」
「そうだったな」
「さっき、言ってくれたよね。私が幸せなら、当麻も幸せなんだって」
「確かに言ったな」
「だったらさ、ふたりで一緒に幸せになろうよ」
「美琴……」

 さすがにここまで言われてしまえば、覚悟を決めるしかないな、と上条は思う。
 彼女の言うふたりで一緒に幸せになろうという彼女の言葉は、何を意味するのか。
 美琴の幸せは自分の幸せ。同じように、自分の幸せは美琴の幸せ。

(なんだ。簡単なことじゃねーか)

 自分が幸せだと思うことをすれば、それが美琴の幸せなのだ。
 美琴が幸せだと思うことをすれば、それは自分の幸せなのだ。

(美琴が俺にして欲しいことを、してやればいいんじゃねーか)

 ならば、覚悟を決めろよ、上条当麻。
 大切な恋人を、守ると誓ったからには、その通りにすれば良い。
 だが今日は、理性の留まるところまでだぞ、と強く心に決める。この先だって、まだまだ長いのだから。

「――チョコ、もらうぞ」

 そう言うと上条は、白いトリュフを一個、かりっ、と半分かじったかと思うと、突然美琴の唇に襲いかかった。




「え、あ? ちょっ、――んむ…………っぅぅ……」
「んんっ……むぅ……」

 抗う間もなく、とろり、と咥内へ流れ込んでくる甘いチョコの味とカカオの風味。
 ガナッシュに混ぜた、オレンジピールのグランマルニエ漬けの香りと相まって、その味と唇の感触で、美琴の頭の中がじんじんと痺れたようになる。
 甘く激しいファーストキスに、身体も心も、何もかもが全て蕩けそうだった。
 淫らな唾液とチョコの交換が続いているうちに、美琴の身体からだんだんと力が抜けていく。

「んくっ……ちゅ……」
「ちゅぅ……んっ……」

 息をすることさえ忘れたかのように、吐息も何もかも、すべて飲み込んで。
 甘い水音だけが、部屋の中に響く。喘ぎとも呼吸ともつかない熱い吐息が漏れる。

「んぁっ……ちゅぱ……ちゅ……んはぁ……」
「んくっ……ちゅっ……んふぅ……ちゅう……」

 嵐のような口付けを交わしたふたりが、やがてゆっくりと離れる。唇と唇の間に、つうーっと銀色の橋が渡された。
 相手の吐息が熱く感じられるほどの近い距離が、ふたりの想いをますます昂ぶらせるかのよう。
 口内に残るガナッシュの味と香り。それは甘さ控えめだったはずなのに、なぜだか胸焼けを起こすかと思うほど、甘く感じられた。
 全身から力が抜けたように、美琴がくたりと上条にしなだれかかる。首元に熱く、吐息がかかって、上条の背筋をぞくぞくと痺れさせた。

「――あぁ、だめぇ……」

 美琴が溢す甘い呟きが、上条の胸をドキリと震わせる。
 とろんと見つめてくる彼女の瞳が、彼を淫蕩の彼方へと招き寄せるかのよう。

「――もう……幸せすぎて、死んじゃいそう……」
「み、みこっ……んむっ!?」

 上条が名前を呼ぼうと、顔を下げたとき、美琴が唇を寄せてきた。
 彼を求め、むさぼるような熱い口付けを、今度は彼女から。

「ん……んむぅ……」
「んむっ……ん……」

 ゆっくりと動きながら、唇の感触を存分に味わいつつ、ふたりは愛と唾液の交換を続ける。
 今度のキスは、さっきのそれより少しだけ、甘さ控えめだった。

「……ふぅ……ん、はぁ」
「……はぁ……う、ふぅ」

 ずっと息を詰めていたために、唇を離した瞬間、ふたりは顔を見合わせて深く息を喘がせる。
 幸せそうな表情の美琴が、軽く笑みを浮かべて言った。

「――鼻、邪魔にならなかったわね」
「ちょっ!? おまっ!?」
「うふっ。佐天さんに聞いちゃったぁ」 

 いたずらっぽい笑みを浮かべる恋人からは、もはや逃れられないような気がしている。
 少女だったものが、いつのまにか自分の手で、女へと変えてしまったように思われた。
 ――責任取りなさいよ、と彼女の瞳に訴えられているようにも思えたが、それはスルーの方針で。

「ねえ。もっと、練習するぅ」
「風邪、うつるぞ」
「今更よね。――だったらいっそ、当麻に看病してもらおっかな?」
「美琴たんのわがままばかり、聞けません」
「むう……当麻のいじわる」
「わ、わかったって! それじゃあと一回だけな。さよならのキスだから、帰らない人にはしてやれねーぞ?」
「わかったわよ、もう。――ねえ、さよならのキス……してぇ」

 ちょっとすねたような表情で甘えてくる美琴が、可愛くて仕方がない。それにあと一回だけなら、自分の理性も保てそうだ。
 ただ彼女が帰った後、すぐには眠れそうにはないなと思いながら、上条は美琴の唇に、今度は軽く口付けた。


 ~~ THE END ~~




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