とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

711

最終更新:

NwQ12Pw0Fw

- view
だれでも歓迎! 編集

真夜中のプール



「うだー、暑いぞ……」
「それもそうね……私達何やってんのかしら」
 暦の上ではもう秋だが、学園都市に実質的な秋が訪れるのはもう少しかかると頭上の飛行船がその脇腹に無機質なメッセージを表示すると、『頑張りましょう大覇星祭。準備は怠りなく。風紀委員』の文字に切り替わる。
 大地の向こうへ沈みつつジリジリと肌を焦がしそうな温度を地上に残す西日と、照らされたアスファルトから放射される熱が否応なく少年と少女を焼いていく。
「つかよー、お前の雷撃の槍だのビリビリってジュール熱とやらで余計暑くなるじゃんか。使うなよあんなもん」
 暑さにまいった体とお決まりの学生鞄を右に左にふらふらさせて、少年は目の前を歩く少女に向かってぼやく。
「うっさいわね! アンタがあそこで倒れないのがいけないんでしょ!」
 ノースリーブのサマーセーター、半袖のブラウス、グレーの短いプリーツスカートにその気品をぶち壊す短パンを装備した見た目は麗しい(はずの)少女が、その麗しさを全力で台無しにしかねないほどげんなりとした表情を浮かべ、湿度の高い空気に肺を溶かされたようによろよろと歩く。
「上条さんにんなもん食らって野垂れ死ねとは、常盤台のお嬢様は日々学舎の園でどんな教育を受けているんだろうな、ああん?」
「アンタがその右手で無駄な耐久力を誇ってんのが悪いんじゃないのよ」
「うるせえよ! テメェがいらねえケンカを売ってこなけりゃ良いだけだろが! お釣りもらっても買いたくねえな!」
 何だとコラやかましいわねビリビリ!! と二人は牙を向きあって額と額がぶつかりそうな距離で怒鳴りあう。
 少年の名は上条当麻。
 少女の名は御坂美琴。
 学園都市の一角で学年も通う学校も違う二人が偶然出会ってそこから美しいラブストーリーにでも発展するのかと思いきや、片方は超電磁砲を振りかざして必死の形相で追い回し、もう一人は右腕であらゆる攻撃を跳ね飛ばすという決着の付かないケンカを繰り返してもう何日か。
 つか、暑いんだから人の姿を見るなり追っかけてくんのはやめてくれよと上条は切に願う。
 今日も美琴の電撃から始まって終わりの見えない争いを繰り返していた二人は、街にまるごと覆いかぶさったうだるような熱気に閉口し、一時的な休戦状態を迎えていた。
「それにしても暑ちぃ……」
「もうこんな時期だし猛暑ってわけじゃないんだけどね。地下街と違うからそりゃやっぱ暑いわね」
 美琴はうんざりした様子で薄っぺらな学生鞄を担ぎ直し、傍らに立つ発電用の風車を見上げる。風車の羽根はそよ風に誘われてゆっくりと回るが、その景色が体の熱を奪ってくれることはない。ここが地下街なら微妙に計算された冷房で全身を覆うこの汗もゆっくりと引いていくが、二人がそれぞれの暮らす寮へ向けて歩くただの舗装路ではそんな効果は期待できない。
「なあ御坂、お前の能力でなんかこう、涼しくなったりする技ってねーの? お前って電撃使いだろ? 水も操れるって聞いたような気がすんだけどよ」
「ああ、それはね。空気中の水分が一定の状態の時だけ空飛べるってだけで、水をどうこうできるわけじゃないの」
 レベル5と言ったってそこまで私の能力は都合よくないわよ、と美琴がお嬢様っぽく額の汗を白いハンカチで拭いながら苦笑する。
「うだー、そっか。俺ちっと夢見てたかもしんねえ。『御坂なら、それでも御坂なら何とかしてくれる』とか」
「それ先週の少年マンガでしょ? 確かラグビーの奴。アンタもあれ読んでんだ?」
「あの雑誌は読み残すとこねえだろ。俺は全部読んでんぞ」
 そのまま二人でマンガ談義に突入し、あの作品のラストは気に入らねえとかやっぱ純愛は大事よねなどと会話していたが、それでも暑いものは暑い。世界は凪の時間に入ったらしく、内陸部の学園都市で僅かに吹いていた風さえも感じられなくなった。
「くっそー、それにしても暑いぜ。御坂、お前暑くねえの?」
「私だって暑いわよ」
「こんなに蒸し暑いとジュース飲むとかじゃとても足りねえし、今からどっか入って涼むってのもムカつくな。あーちくしょう、何か良い方法ねえかな」
 おとなしく自分の部屋に帰って扇風機に顔を当ててあーとか言って声を震わせるのを楽しみながら涼むという手段を取るのが何となく悔しい上条は、学生鞄から下敷きを取り出し未練がましく汗だくの顔を仰ぐ。
「……ある、かも」
 くそー暑ちぃ暑ちぃ暑ちぃと連呼する上条を見て、美琴が何かを思いついたように口を開いた。
「本当か御坂? どんな方法だ?」
 とたんに目を輝かせて期待の眼差しを向ける上条に、美琴はいたずらっぽく笑って
「ちょっと試してみたいことがあんのよ。アンタの学校って、こっから近かったわよね? プールにまだ水入ってる?」
 連日の残暑の影響により、上条の通うとある高校は全学年を通じ当初のカリキュラム予定を超えて体育では水泳の授業が行われていた。ただし女子と男子、どちらか片方しかプールを使用できないので上条を筆頭とする男子生徒は一様に『差別反対! 女子と一緒でいいから、いや女子と一緒に水泳の授業をお願いします!』コールを、俺達は学校指定でいいから女の子の水着姿が見たいんだという熱い要望を添えて体育教諭の黄泉川と災呉の元に日々送り届けては抹殺されている。
「プール? 昨日も水泳だったしそりゃ水なら入ってっけど。まさか学校のプールに忍び込んで入りましょうとかそういうチープなネタか?」
「ノンノン、そんなんじゃなくてもっとかわいいもんよ。アンタの学校へは行った事ないからちょろっと案内してくれる?」
 何か楽しげに企みを巡らせる美琴を、上条は『?』マークとともに先導し、二人はとある高校に到着した。太陽は完全に沈み、こもるような熱が東の空に浮かんだ月と共に上条と美琴を迎え入れる。

 グラウンドや校舎同士を繋ぐ通路は防犯のため水銀灯を複数束ねた照明があちらこちらで灯されているが、真っ暗になった校内で基本的に人影は見えない。いるとすれば校内を時々見回る用務員か学内七不思議の選から漏れて行き場を失った幽霊くらいのものだ。
 ルーズな水泳部員が閉め忘れたらしく鍵のかかってない用具室のドアを開け、そこから上条と美琴は抜き足差し足でコンクリート打ちの二五メートルプールに忍び込む。大量の水を蓄えたプールは二人の影をゆらゆらと映し、手招くように水面が揺れる。
「んー、少し風が出てきたか。これくらいなら逆に丁度いいかな。アンタ、プールの向こう側……風下の方に立ってくれる?」
「良いけど……本当に何すんだ?」
「まーまー。やってみてのお楽しみ」
 上条は暑いのに走んのかよと不承不承二五メートルのプールサイドをぐるりと回って美琴の対面付近に位置取った。
「この辺で良いかー?」
 上条は手を振って美琴に確認すると、反対側から「オッケー」という声が聞こえる。
「何すんだろな……」
 美琴はポケットから、手になじんだゲームセンターのコインを取り出した。枚数は八。月の光と水銀灯の明かりをその身に浴びて美琴の手の中で銀色に光るコインの姿を確認し、上条の顔が引きつっていく。
 もしかして。
 美琴は残り七枚のコインを握り締め、ニヤリと笑うと一枚目のコインを親指の上に乗せ、両足を肩幅に開いて上条に向かって正面に右腕を伸ばした。超電磁砲発射直前の、上条には見慣れたおなじみの戦闘態勢だ。
「ちょっと待て、御坂? あのそれってまさか、ようは俺の肝が冷えて涼しいねとかそんなオチだったりするの……か……?」
「それはどうかしら。さて本題。私、能力測定の時には必ずプールを使うのよ。既存の施設じゃ威力を殺し切れなくて、膨大な水を緩衝材に使わないと足りないって奴? それでも全力では撃てなくってさ。アンタのその右手が常盤台にあったら私も思い切って能力使えっから、数値ももっと跳ね上がんだけどねー?」
 ひょっとしたらレベル6を狙えるかも? と二五メートル先から聞こえる美琴の楽しげな言葉を耳にして、
「……それこそ冗談はよしてくれよ」
 上条の顔から血の気がどんどん引いていく。
 美琴の能力にまつわる話を聞くのはそれはそれで涼しいが、お化けも妖怪も出ない納涼怪奇談話は勘弁して欲しい。なにしろ話の最終型は斬殺滅殺爆殺だ。的にかけられているのが自分としては、今すぐ両手で耳を塞ぎたいと上条は思う。
「じゃあそういうわけで」
「だからって今ここで俺を相手に能力測定かよ!? 涼む前に俺の魂が昇天しちまうだろうが! 馬鹿止めろごめんなさい俺が悪かった許してください神様仏様御坂様!!」
 抗議の声が途中から謝罪に変わり最後にプールサイドで学園都市一美しい土下座が決まる。
「……行くわよ」
 ピン、と常盤台中学のお嬢様は親指でメダルゲームのコインを真上に弾き飛ばす。コインはヒュンヒュンと回転し、頂点で静止すると地球の重力に引かれて元の場所へと落下を開始する。
「馬鹿! 本気で止めろって!」
 回り続けるコインが狙いを定めた美琴の親指の上に載るその直前で

 美琴は正面に突き出した腕を肩からゆっくりと下げ、コインを弾くために用意された指先をプールの水面に向けた。

「……何?」
 上条の驚きの声も計算の内なのか美琴はウインクするように片目をつぶり、照準をプールの比較的手前に合わせる。宙を舞いながら落下して美琴の親指の上に戻ってきたコインは次の刹那、水面に向かってオレンジ色の軌跡と共に

 ドゴンッ!!

 音速以上に加速されたコインが予想もできない威力で水面を叩き、水を穿つ。一枚目のコインと同じ破壊音が等間隔で続けて七回繰り返され、同じ軌道でコインはプールに叩き込まれた。美琴が右手の中に握ったコインがすべてなくなる頃には、超電磁砲で水面を叩いた衝撃によって空中に打ち上げられた大量の水しぶきが細分化し、天から霧雨のように降り注ぐ。
「おお……スプリンクラーっつーか、これってようするに大気中の水分の量を増やして」
「そ、お手軽な噴水みたいなもんよ。威力を殺した超電磁砲で水しぶきを上げて広範囲にばらまけば、ちったあ周囲の気温も下がるってもんでしょ」
 水を撹拌して霧化し散布する方法は他にもあるが、果てしなく面倒臭いので超電磁砲の連続射撃を使って現象を引き起こしてみた、というわけだ。
「はー……俺、超電磁砲の平和的な使い方を生まれて初めて見た気がするぞ」
「元々あれは実際にある兵器の理論を転用したものだから、平和的とかなんとか言われてもね……」
 美琴はポリポリと頭をかきながら、それでもほめられたらしいことが嬉しくて頬をかすかに赤らめる。
「しかし何と言うか、贅沢っつーかもったいない使い方だな」
「そこはほら、次の身体検査の時にアンタがうちの学校に来て私の相手をしてくれれば」
「涼しいのはありがたいがこれが地獄への片道切符の前払い代金とかさらっと宣言すんじゃねえよ!」
 上条は美琴に苦情を言いつつプールサイドを走る。

「あ、まだこれで終わりじゃないのよ。涼しくなる方法」
「お? まだあんのか?」
 超電磁砲の大道芸的使用には若干寿命が縮んだが、あの方法であの威力ならそれなりに心も和むし効果も期待できる。上条は何何、何やんの? と興味と期待で瞳をさらに輝かせて美琴を見ると
「そぅれ」
と掛け声は可愛らしく、上条の背中に入れられたケリは勇ましく。
「ぬぉわぁっ!?」

 ザッバァァァン!

 上がった悲鳴は情けなく、人間一人分の質量と等しい水柱が物体落下の運動エネルギーによって水面に登り、早い話が上条は美琴のキック一発で水中に勢い良く蹴り落とされた。
「涼しくなったー?」
 むぐがはごほげはっ! と不意打ちによってプールの水を大量に飲んだ上条は
「ちょっとでもお前の優しさに期待した俺が馬鹿だった……」
 一日の三分のーが不幸に見舞われた顔に滴を張り付かせ、水面から首を伸ばして美琴を睨む。
「あははははっ、ご愁傷様。ついでにプールの底にコインの欠片が沈んでたら拾っといてくれる?」
 小さく舌を出して美琴が上条に勝利のポーズを取って見せる。
「……まあでも、お前の協力には感謝するよ。ラストが不幸だったけどお前は宣言通り涼しくしてくれたしな」
 プールサイドに取り付けられた手すりにつかまり、階段をトントンと登って濡れた体をプールから引き上げると、上条は美琴のところに戻って『ありがとよ』と殊勝にお礼の言葉を伝えた。
 このパターンなら上条は逆上してまた鬼ごっこが始まると思っていた美琴は拍子抜けし
「あ、うん。えっと、……突き飛ばしちゃってごめん」
 しおらしくお詫びなどを告げたところで上条は美琴の背後からチョークスリーパーをお見舞いした。
「え? ちょっと何? 冷たいっ! 馬鹿っ、制服が濡れるから離しなさいよっ!」
「……つかまえたぜ御坂。テメェ、今日という今日こそは許さん!」
 上条はさらに美琴の手首を後ろからがっちり掴むと、やめろコラ離してとジタバタもがく美琴をプールのそばまで引きずって
「くたばれ御坂! お前も道連れだ!」

 ザッバァァァァァァン!!

 さきほど自分が作ったものよりもひときわ大きな水しぶきを上げて、少年は少女と共にプールに飛び込んだ。二人の体が水中に沈んだところで上条は美琴の手を離し、泳いで美琴から距離を取る。
 二人はほぼ同時に水面から顔を出して
「ちょ、アンタなんてことすんのよ! ずぶ濡れじゃない!」
「テメェが俺を蹴飛ばして先に始めたことだろが! 御坂、ここならお前の得意の電撃も砂鉄も使えないぞ。お前の手は全部封じた、この状態でも俺に勝てるかな?」
「つまりそれってアンタの右手も出番なしってことじゃないの! この学園都市第三位をその程度で封じ込めたつもり? 甘く見るんじゃないわよっ!」
 両者ともに第二ラウンド開始のゴングを要求し、プールを舞台に壮大なケンカという名のじゃれ合いが始まった。
 上条が美琴のサマーセーターを引っ張って正面に倒すと、美琴が上条の背後をとって膝カックンの要領で上条を水中に沈める。てこの原理を使って重心をずらし、お互いの体を水中深く沈めようともがき、取っ組み合い、組み付いてギブアップを狙う。
 水が生み出す浮力のおかげで体重差は影響なし、水の抵抗でリーチ差も腕力も関係ない。水深一.二メートルのプールは二人の行動さえ奪う。美琴は身長一六一センチ、対する上条は一六八センチ。二人は共に水面から顔を出しつつ、呼吸を整えて対峙する。
 上条は泳ぐように水をかいて美琴のそばまで寄ると『おうりゃ!』と掛け声一閃、水中に潜って美琴の腰に腕を巻きつけ再び水中に引きずり込み、そこからもがくように浮かび上がった美琴が水の抵抗で威力が減衰されるのも構わず回し蹴りで応戦する。
「もう、濡れた服ってのは重いし邪魔だわ」
 美琴はむんずとサマーセーターの裾をつかみ一気に体から引き抜くと、格闘家が上着を放るがごとく後方へ投げ捨てる。ジャブン、と水を吸って重くなった物体が波間に沈んでいく。
 空へ昇る月を背負い、稀代の悪党のように邪悪な笑みを浮かべた美琴が水面から両腕を引き抜き大きく振り上げて構える。おそらくはなりふり構わず電撃を使うつもりなのだろう。発電系能力者である美琴には水の伝導による電気の影響を全く受けない。逆に上条は右手の幻想殺しだけでは全方向から向かってくる攻撃を受け止めきれないので、ちょっとした水死体になって波間にちゃぷちゃぷ浮かぶ確率は高い。そんな事になったら最悪この学校のプールがダメージを受けて半年使えなくなるかもしれないが、今の美琴にそんな話は知った事ではない。
「み、御坂……馬鹿、やめろって!」
「あん? 何言ってんのよ。体もあったまってきたことだしぼちぼち本気を……」
 草野球のピッチャーのように左手を右肩に当てて右腕をグルングルンと回す美琴に
「そうじゃなくて! 違う違う!」
「は? 違うって何よ?」
 上条は右手で自分の視界を覆い、美琴の胸元を左手で指差した。
「ブラウス!」
 グラウンドを照らす照明と蒼い月を背中に受けて逆光になった美琴に、濡れたブラウスの下からその身を覆う白いポリエステルの布地とは明らかに違うラインが体に張り付いて浮かび上がる。上条は掌を最大限に開いて自分の目線を隠すが、指の隙間からチラチラと興味本位で美琴の体表に浮かび上がる何かをつい見てしまう。
 上条の言葉を理解できない美琴は最初に『?』マークを頭の上に浮かべ、次に頭を下に向けてずぶ濡れの状態でサマーセーターを脱いだらどうなるかを自分の体で吟味し、最後に上条の指の間から見える視線がどこに向かっているのかを正確に把握して
「ば……馬鹿っ! こっち見んなっ、見るんじゃないわよっ!!」
 美琴の頬に浮かんでいた悪魔(ディアブロ)の笑みがジグゾーパズルのピースのようにぐしゃぐしゃに砕け、初々しい少女の戸惑いと焦りと恥らいに形を変えた。

 水面から顔を出すためにピョンピョンと水中でジャンプを繰り返していた美琴が、ザブン! と頭までプールに浸かり、それから体を隠すように水面から頭を出して目だけで上条を睨む。
 そのまま上条から距離を取るように後退りを始め、背中を向ける。
 月が水面に投げかける光は乱反射し、少女を照らす。
 上条は視線を落とし、極力美琴の方を見ないようにうつむくと、水に映って蒼く輝きを増す月がゆらゆらとたゆたい、上条の目の中で次々と形を変える。
 月が照らす水面に美琴の姿が映り、揺れては姿を変える。
「こっち見ないで……」
 震える声に重なるように、肩まで揃えた茶色の髪から滴が一つ二つとこぼれ落ち、水面に波紋を作っては消えていく。
 声にに引き寄せられるように上条は一歩、二歩と水中を歩き、手を伸ばせば美琴の腕を掴める距離で立ち止まる。
「見るなって言ってんだからこっちに来んな! アンタそこまでして人……の……?」
 互いの立つ距離を確認しようとプールの中で爪先立ちになった美琴が振り向き、上条に向き直る。
 水に浮かんだ美琴の姿は、何よりも美しく見えた。
 さっきまで取っ組み合いをしていた相手ではなく、そこにいるのは御坂美琴という名の、自分の知らない誰か。
 上条は説明できない気持ちのまま両手を伸ばし、美琴を水の中から掬い上げるように抱きすくめる。
「え? ちょっとどうしたのよ。馬鹿、離しなさいよ! いきなり人に抱きついてアンタね……」
 上条の腕の中でジタバタと美琴は戒めを解こうともがく。
「……御坂。じっとしててくれ」
 雰囲気に流される、と言えばよいのだろうか。
 上条は黙って美琴を両腕でかき抱いていた。
 離したくない。彼女に触れていたい。
 頭の中にあるのはただそれだけ。
 不埒な行動に移るわけでもなく、濡れた頬を重ね合わせ、美琴を抱きしめる上条の無言の気迫に押されたように、美琴は何かを含んだため息を一つついて
「……今だけ許してあげる。でも、今だけだかんね」
 美琴は優しく微笑むと、唯一自由な右腕を上条の頭に伸ばし、引っ掛けるようにぐるりと回して抱きしめる。
「……その代わり、……離すんじゃないわよ。底に足がつかなくて、手を離されたら私溺れちゃうから。しっかり抱きしめててよね、私がどこにも行かないように」
 頑張れば足が付く夜のプールの中で、美琴は溺れまいと必死に上条にしがみつく。
 二人ともそうしていることが当たり前のように身動きもせず、月明かりの下で互いの体が離れぬようにしっかりと抱き合っていた。

 一体何があったのだろう。
 御坂美琴は客観的に見てあの性格さえなければ容姿は平均点以上をくれてやっても良いと思う。その美琴とプールで取っ組み合いの末に一時間近くも黙って抱き合っていたという不可解な事態にツンツン頭からポタポタと滴とこぼしながら上条は部屋のドアを開けた。行き先がプールと言うことであらかじめポケットから携帯電話は避難させておいたが、あるべきところにあるべきものがなかったせいでインデックスに連絡するのを忘れていた。
 何となくばつが悪い。
 インデックスに今日のことを話そうかどうしようか、上条は迷った。
 インデックスがご飯が遅れたこと&理解不能の理由でお怒りのあまり獰猛に輝く歯並びによる攻撃を丸ごとプレゼントしてくれるのは間違いないが、何となく今日美琴との間で起こった出来事をインデックスに話すのはためらわれた。こういうのを何と言えば良いんだろう。親しい相手に、別の女の子とデートしていたことを隠すような変な気分だ。
 ―――別の女の子って何だよ。
 上条は、インデックスも美琴も異性と意識してはいけない対象だと考えている。そりゃ時々ちらっと見えたりする太ももや鎖骨でドキッとしたりすることはあるし、見てはいけないと思いつつ濡れたブラウスの下から透けて見えた美琴の下着についつい目線が行ってしまうのは血気盛んな高校生としては仕方のないところだと上条は自己弁護を繰り返す。
 勝ち気な性格からは想像もつかないほど、腕の中の美琴は華奢だった。自分に比べて触れたら折れそうな背中とかすれた吐息を思い出し、全身が悪寒のように震えるのを感じて、上条は大きく頭を横に振った。
 あの時美琴を抱きしめていたのはなぜだろう。
 異性として意識していたのかもしれない。この手を離してはいけないという警鐘に導かれていたような気もする。
 きっとあれは何かの気の迷いだ。一晩眠りについて目が覚めたら、今日のことは綺麗さっぱり忘れるだろう。美琴も今夜のことは忘れて、明日になればまた威勢よく学生鞄で上条の背中をひっぱたいてくるに違いない。
 上条はドアノブを握る。
 今は目の前の恐怖を回避する方が先だ。
 結論から言うと、上条は血の惨劇を回避した。
 ドアを開けたら予想通りインデックスが怒ってて、
 部屋の奥からひとっ飛びで噛み付くべくジャンプしたが上条の八〇センチ手前で着地して、
 ポタポタと滴を垂らす上条の姿に悲鳴を上げて。
 とうまどうしたのずぶずぶのびしょ濡れだよまさか魔術師の襲撃でも受けたのそんなことはひとまず置いといてタオルだよタオルと血相を変えて叫ぶインデックスが部屋中を走り回りタオルケットから台拭きまでおよそ上条が必要としているものとは程遠い布製品を片っ端から集めて持ってきてくれたので、上条はさんきゅーと言って靴と靴下を脱いでから足を雑巾で拭き、風呂場に飛び込んで濡れた衣類をかたっぱしから脱ぐとシーツで体を包んでインデックスの前で見苦しくないようにこそこそと隠して着替えを揃え、悪いけど五分だけ時間をくれとインデックスに断ってシャワーを浴びるとバスタオルでぺったんこになったツンツン頭をがっしゃがっしゃと乾かしながらフライパンをつかんで手早くやきそばを作った。
 インデックスの優しさに感謝して、上条は自分の分からもやしと豚肉をインデックスの皿へと移し、お待たせインデックスと銀髪碧眼の少女に給仕する。
 インデックスは自分の皿と上条の皿の上を見比べて
「とうま、とうまの分のお肉が少ないような気がするんだけど……いいの?」
「遠慮すんなよインデックス。遅くなっちゃったしさ、お詫びってことで許せ。棚にあったお菓子は待ってる間に食べただろ?」
 何となくばつが悪くて、今日のことをインデックスに聞かれる前に食欲を満たすことですべてを有耶無耶にしようと上条は考えた。
「うん。とうま、あのね。遅くなる時は一言連絡欲しいかも。清貧に身を捧げたシスターさんとしては、規則正しい一日の生活を送るのは重要なことだからね」
 清貧に身を捧げた存在がどうして買い置きのオヤツを二時間経たずにすべて食べ尽くしてしまうんでしょうかというツッコミは脇に置き、もうそろそろイギリス清教にインデックスの食費だけでも請求書を回すべきなんじゃと思いながら上条は具のないやきそばをもそもそと食べる。
 不意に、右腕の中に残る誰かの感触を思い出して、上条は大きく首を横に振った。
 具のないやきそばを噛みしめて、思う。
 さっさと食べてさっさと寝てしまおう。
 あれは夢だ。眠れば朝の光に溶けて消えてしまう―――夢だ。

「……あ」
「……あ」
 一番会ってはいけない人に、放課後の通学路で出会ってしまった。
 上条はその場で回れ右を実行し、襟首を美琴に掴まれた。
「本当にもう許してください……」
「何がよ?」
「俺は何も見てないし何も覚えていませんから……」
「だから何がよ!?」
 美琴は逃げようとする上条の襟首を掴んだまま噛みつくように吼える。
「人の顔見た瞬間逃げんじゃないわよアンタ! 今日という今日こそ決着つけてやっからそこに直れ!」
 美琴の叫びを聞いて、上条は安堵した。
 美琴の中であの夜の出来事はなかった事になっているのだろう。
 よかった、と上条は心の底から安堵のため息をついて

「……昨日のことは忘れんのよ?」

 少女の願うような小さな呟きが聞こえた。
 え? と上条が振り向くと
「さーって、今日こそきっちりばっさり息の根止めてやっから覚悟しなさいよっ!」
 そこにいたのは上条に向かって凶暴な笑みを浮かべるいつもの美琴だった。
「こう言うのを一言で表すと…………不幸だ」
「言いたい台詞はそれだけかーっ!」
 上条が逃げ、美琴が追い駆けるいつもの風景が学園都市の片隅で繰り返される。

 上条当麻の幻の夏は、まだ終わらない。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

目安箱バナー