『猟犬』犬飼 堂辺留(どーべる)
『ミズ・マンティス』鎌田 キリコ。
派手にキルスコアを伸ばしていた二人の殺人鬼を打ち破り、鮮烈なデビューを果たした新星がいた。

『アンピュテート・マニア』白石 喝人(かつと)

【転校生になる権利】と賞金5億をめぐる殺人鬼ランキング戦の開幕にあたり、【NOVA】会員の多くが彼の動向に注目した。
しかし、その期待はあっけなく裏切られることとなる。
開幕一日目となるその日が、彼にとって特別な日であったからだ。


「それでね、今月は10人。いや、11人だったかな? あの見えない腕のお姉さんの切り口はかなりいい線だったと思うんだよね」

弾む声色で語りかけながら、スポンジで柔肌をなぞるように墓石の側面を擦っていく。
月に一度、最愛のお姉ちゃんの墓参りの日は一度として欠かしたことはない。
何よりも優先される大切な語らいの時間だった。

来月には盆を控えている。
このところ続く雨天もあり、わざわざこの日に墓場を訪れる人は他にいなかった。
【NOVA】による配信もたっぷり1時間以上も喝人が一人、花や供え物を替えたり、墓石を磨く映像が続くばかり。
ユーザーの多くの興味も他の戦場に移っていったことだろう。


――ほんの10分ほど前までは。


「この花、本当にもらっちゃってよかったの?」
「構わないよ。毎月この日はどうしても、ここに足が向いてしまうだけなんだ」

喝人の背後には一人の男が立ち、彼と墓石とに傘をさしていた。
丈の長い黒衣にくちばしの突き出たペストマスク。

『切り取りシャルル』肉丘(ししおか) (つむぐ)
ここ半年で数々の猟奇殺人を犯した凶悪犯であり、【NOVA】ランキングにも名を連ねる殺人鬼の一人に相違ない。

しかし鉢合わせてから今まで、二人の間の空気が張り詰めることはなかった。
お互いが、殺人より大切なことのために訪れたことを察していたからだ。

可苗衣(かなえ)は―― 娘は死んでいないんだ。だから、僕がここに来る理由はないんだよ。納得できているはずなんだけどね」

本来であれば、お姉ちゃんとの語らいを邪魔する存在を喝人は許さない。
けれど今回は、自分たちの語らいの途切れる合間で交わす彼との短い会話も、不思議と不快には思わなかった。

「キミは…… 20年も月命日を欠かさないほど、今もお姉さんを愛しているのに。ちゃんと、受け入れているんだな」
「仕方ないよね。僕だってお姉ちゃんにまた会いたいけど…… 死はお姉ちゃんの完成だったから」

墓石を撫でる度、喝人の脳裏にはお姉ちゃんとの記憶が鮮明に浮かんでいた。
学校へ向かう時に繋いでくれた、手の温もりが。
リビングで並んでテレビを見ていた時、ふわりと香った髪の匂いが。

そして―― 透き通るような白い柔肌に、鮮烈な赤の血化粧を纏った裸身が。
細い首の、滑らかで艶やかな切断面が。


「――ふッ…… う……!!」


線香をあげ、語らいを終えて。
喝人はぞくぞくと背筋を震わせ、ゆっくり長く絶頂する。





「――お待たせ」

すっきりとした表情で振り返り、中腰になっていた脚を伸ばす。

「もういいのかい?」
「あんたが来る前からシてたからね。もう十分」

二人は並んで歩き、墓前から通路へ出る。

「ほんの一部だったかもしれないが、同席させてもらえてよかったよ。僕の方も少し整理ができたように思う」
「こっちもおかげで傘ささずに集中できたからさ。気にしなくていいよ、ありがとう」

言葉を交わして、二歩、三歩。
まだ雨の降りしきる中、喝人は濡れるのも構わず傘から出て離れていく。
シャルルもそれを見送って傘を閉じ、背の低い石壁に立てかけて手放す。

どちらともなく、ごく自然に二人は向き直っていた。
【NOVA】ランキングの思惑など知ったことではないが。
一線を越えてしまった殺人鬼同士であるからには。
その胸の内を交換してしまったなら、なおさら。

お互いに、墓地(ここ)から出られるのは一人だけだと知っていた。




―――――――――――――――――――――――――――――
一日目

ステージ:18.墓地

『アンピュテート・マニア』 VS 『切り取りシャルル』
―――――――――――――――――――――――――――――




瞬間、雨粒の間を一対の銀糸が走った。

交錯し、すぐに飛び退いて片膝をついたのは『切り取りシャルル』。
厚みのある濡れた黒衣の生地を切り裂き、カッターナイフの刃が左腕の肌にまで届いていた。
ぷつぷつと傷口から泡立つように出血が始まると、その浅い切り込みが侵蝕するように広がっていく。

最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』。
出血を伴う外傷の深さを調節する魔人能力。

対して『アンピュテート・マニア』―― 喝人はわずかな筋繊維と皮膚でかろうじて繋がったままの、メスに切り込まれた左腕の断面に釘付けになっていた。
その切り口は磨かれた鏡面のように滑らかで。
筋肉、骨、神経に血管、あるいは細胞の一つ一つに至るまで。
まったく潰されず確認できるほどに、美しい断面だった。
喝人が20年追い求めてきた、理想の切り口とも遜色ないほどに。

なのに。ああ、なのに!!

「なんで…… どうして血が出ないのさ!?」

嘆きとも憤りともとれる、攻撃的な感情の乗った声色だった。
喝人の理想とする切り口には、そこから吹き出る鮮血が絶対に必要だった。
血管の断面につるりと押し固められ切り口を濡らしてくれないそれが、寸止めを食らっているようで喝人には我慢ならなかったのだ。

「…………」

向けられた感情には付き合わず、シャルルは自身の左腕へメスを向ける。

『ライフライブ・パッチワーク』。

能力によって増強された切れ味により、喝人につけられた傷を挟み込むように二度、刃先が走る。
そうして足元にスライスハムのように薄い肉片を落としたのみで、左腕の断面は元から傷などなかったかのように接合した。
最低限の肉体の消費による傷の摘出、上書き。

「へえ、すごい! そんなことできるんだ。本当、切り口だけなら最高だなあ」

ぶらんぶらんと左腕をぶら下げたまま、喝人はころりと感情を塗り替える。
少なくとも姉の死から20年以上経過している壮年だというのに、興味の移り変わりの早さは少年のままだ。

「それはどうも……」

ペストマスクの奥で、シャルルの口元が引き締まる。

――浅かった。

『ライフライブ・パッチワーク』による切り口は痛みも出血も伴わない。
そして断面を押し当てれば、もともと継ぎ目などなかったかのように繋ぎ合わされる。
攻撃として用いる場合、完全に切断しきらなければすぐに元通りにされてしまい、有効打にならないのだ。

最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』によって傷口を侵蝕できる喝人の攻撃は、皮膚を浅く切りつけるだけでよい。
そのため踏み込みが浅く、シャルルの切り込みは切断にまで至らなかったのだろう。

そして元通りになったように見えるシャルルの左腕だが、喝人につけられた傷を肉ごと摘出したそれは、元の切り口同士の接合ではない。
よって完全に定着させるには12時間かかる。
定着していない切り口は、強く引っ張られると開いてしまう。

難敵だ。正面から迎え撃つわけにはいかない。
開けた通路から墓石の並ぶ狭い道へと身を移すべく、シャルルは身を起こす。





「――あまり動かないでくれるかね、患者諸君」





囁かれた声と、カツンと甲高く石畳みを叩く靴音。
シャルルのペストマスクが振り向くのと、黒のロングコートがすれ違うのは同時だった。
瞬間、シャルルは踏み込んだ先の床が抜けてしまったようにバランスを崩す。

すれ違いざま、膝裏を撫で付けられた。
それだけで、腱や筋繊維がズタズタにかき乱されていた。
体重が支えられず、シャルルはその場に尻もちをついて通り過ぎていく背中を視線で追う。

「ちょっと何さ? 順番は守りなよ!」

優雅に散歩でもするように近寄ってきた黒コートの青年へ、喝人は迷いなくカッターナイフを振り抜く。
狙い通り首元へ赤い線が走った。
最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』発動。



残念(ざぁんねん)。こんなかすり傷では私は止められない」
「え……?」

傷口が広がらない。
違和感が喝人の後退を一瞬遅らせ、黒コートの迷いのない手が届いた。

「――――あ゛ッ!?」

瞬間、喝人の左腕から沸騰するような熱と激痛が走った。
痛みもなく滑らかな断面だった左腕の切り口がボコボコと泡立ち、ぶら下がっている腕とは別に、肉と骨が隆起していく。

雨粒に濡れた金色の眼鏡の奥で、まるで敵意のない穏やかな瞳が喝人を見据えていた。
男の両手のグローブには中指、薬指、小指にそれぞれ剃刀のような刃が装着されていたが、その刃は喝人を傷つけてはいなかった。
片手は自分の首についた傷へ、もう片方の手は喝人がカッターナイフを突き出した手首を。
指ぬきグローブから露出した親指と人差し指とで、器用に握っているのだ。

「『痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)』。私の能力はね、今感じている、あるいは感じるはず(・・・・・)の痛みを、癒しに変えるものだ」
「あ゛あ゛あ゛が……ッ!!」

喝人の切断されかかった腕とは別に、新しい腕がみるみる形成されていく。
剥き出しの骨が、神経が、血管が、筋繊維が伸びて。
『ライフライブ・パッチワーク』で感じるはずのなかった、しかし実際に腕を失っていれば感じるはずだった痛みと引き換えに!!

「申し遅れたね…… 私の名はドクター・アペイロン。君たちを殺し(たすけ)に来た」




―――――――――――――――――――――――――――――
        caution!! caution!! caution!!
―――――――――――――――――――――――――――――
一日目

ステージ:18.墓地

『アンピュテート・マニア』 VS 『切り取りシャルル』 VS 『人医師』
―――――――――――――――――――――――――――――




同刻。主不在のアペイロンクリニック。
どうしようもなく血の匂いの染みついたカウンセリング室内で、黒コートを羽織った二人の男女がモニターに向かっていた。

「予定通り、ドクター・アペイロンが会敵した。俺らも一旦は様子見だな」
「ご武運を祈るって感じですか。別に応援しませんけど」

女が端末の操作を一段落させ、顔を上げる。
本来、アペイロンクリニックにはドクター・アペイロン本人以外の職員はいない。
診療所の主を倣ったコートこそ身に着けてはいるものの、二人は彼の身内とは言い難かった。

「祈らんでもどうせ勝つさ。立場と情報量が違う」

男は壁際の一角、荒れた室内に反して几帳面に整理された棚を見遣る。
『羅刹女』『博しき狂愛』『Dr.Carnage』『石榴女』……
【NOVA】ランキングに名を連ねる殺人鬼たちの通り名がラベリングされたそれは、ドクター・アペイロンの作成したカルテだった。
内、つい先ほどまで確認されていた『アンピュテート・マニア』『切り取りシャルル』のファイルは机の上に開かれたままになっている。

「傷口の深さを操作する能力に、切り取った人体を自由にくっつける能力ですっけ。まあわかりやすい方ですし、肩慣らしってわけですかねえ」
「馬鹿言え。やりやすいかは問題にしてねえよ、あの化物は。今、一番治療が必要なのがあいつらだとさ」

モニターの中では腕を掴まれていた『アンピュテート・マニア』白石 喝人が、さらに傷を作りながらもドクター・アペイロンの腕を振り切り、墓石の隙間へ逃げ込む様子が映し出されていた。
『切り取りシャルル』肉倉 紡も脚を引きずり、這いながら逆側の一角へ身を隠しに行く。
ドクター・アペイロンは二人を急いで追うことはせず、コートのポケットから携帯端末を取り出した。

「……オイ、仕事だぞ」
「はいはいっと。結構人使い荒いんですねえ、あの人」

池袋の至るところに設置された多角カメラ、あるいは魔人能力により保護されたドローン。
長距離スコープを覗くスナイパーよろしく、遠方から望遠カメラを構える撮影班。
それらの映像を集約し、場面によって適切なアングルを選出したうえで配信は行われる。
殺人鬼らに利用されないためと並び、【NOVA】の配信映像がリアルタイムではない理由の一つである。

しかし二人の監視するモニターは配信サービスを介したものではない。
【NOVA】カメラの撮影するリアルタイム映像。生データ。
それらが二人によって分析され、ドクター・アペイロンの持つ端末からの要請に応じ、情報が流されているのだ。

それはすなわち。

「とんだ出来レースだぜ。上にも気に入られるし、池袋(ホーム)が戦場に選ばれるわけだよな」

殺人鬼にして、【NOVA】VIP会員の一人。ドクター・アペイロン。
男は画面越しに映る同僚の姿を眺め、目を細めた。




―――――――――――――――――――――――――――――




「ふーーっ……」

墓石を背に、喝人は歪な骨肉の塊を生やされた左腕の根元へ刃先を押し当てる。
口にはハンカチを噛み、声を殺して。
カッターナイフは落としてしまったため、使用するのはベルトのバックルの仕込み刃。

「ぎッ…………!!」

剥き出しの肉と神経の束へ、真一文字の線を。
最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』発動。
傷口を進行させ、骨肉の塊を切り離す。
そしてぶら下がっていたままだったシャルルに切られた方の腕を切断面に押し当て、今度は傷を塞いでいく。

繋がった。元通り動く。
『ライフライブ・パッチワーク』による切断面が片方は生きていたことが幸いしていた。
両方の断面が乱されていたなら、傷を塞いでも元通りに動かすことはできなかっただろう。

痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)』。
ドクター・アペイロンと名乗った男の、痛みを癒しに変える能力。
最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』による傷口を進行させる作用は、その癒しによって相殺されてしまったのだろう。

理想の切り口を追い求めて20年。
喝人の殺人術は能力による切断に集約されていた。
それが封じられるとなると、あまりに相性が悪い。



「――――人は病である」



カツン。カツン。
墓石の間を靴音高く。ドクター・アペイロンは隠れた二人を警戒するでもなく、朗々と語り始めた。

「人を殺す性向というものは、重傷化した人間病の症状である。君たち殺人鬼は、救われなければならないのだよ」

二指は剥き出しに、三指は刃の伸びる両手を掲げる。
血濡れた片方の刃は、既に雨粒に流されて再び銀の輝きを取り戻している。

「中でも君たちは――」

演説の最中、斜め後方からメキメキと音をたて、巨木が倒れてきた。
しかしアペイロンは振り返りもせず、踊るようなステップで二歩、三歩。
歩みを進めるだけで幹や枝葉の降ってくる範囲を回避する。

「今回池袋に集まったどの殺人鬼よりも病状が深刻で――」

続いて退いた先の大きな墓石が斜めにずれ、地滑りのように雪崩れてくる。
アペイロンはそれも飛び退いて回避。
しかし今度はその墓石の陰から黒衣の人影が飛び出し、アペイロンを追って刃を振るう。

「症状説明の最中だ。君も元医者なら、真剣に耳を傾けたまえよ」
「……!!」

メスに手術用ハサミ、剃刀など、数種を接合し(いびつ)に刃渡りを伸ばしたそれはアペイロンを切り裂くことはなく。
石畳に切り込んで半ばまで刃を埋めてしまった。
その右手首をアペイロンの人差し指と親指が掴んでいる。

ペストマスクを捨て、犬の鼻にヘビの鱗を移植したシャルルの異形が苦痛に歪む。
ところどころ肉の欠けた左腕が、『痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)』の能力によって感じるべき痛みとともに泡立っていた。

「左腕を使って膝の腱と筋肉を再建したのかね。素晴らしい腕だ…… だからこそ惜しいよ『切り取りシャルル』。いや、肉倉 紡君」
「キミは…… どこまで……!!」

シャルルの腕を引き、アペイロンは再び歩みを進め始める。

「患者の情報は重要だ。よく知っているとも。君が外科医だったことも、殺人鬼としてのキャリアが半年に満たないことも。そんな長い刃物を振り回すのに慣れていないだろう、君は」

カツン。カツン。
まるで絞首台へ罪人を連行する執行官のように。
接合の十分でなかったシャルルの左腕がボトリの石畳の上に転がり、その断面からまた、喝人と同じく骨肉の塊がメキメキと生え育っていく。



――――逃げよう。
墓石の陰に息を潜め、喝人は中腰にじりじりと後退を始めた。
今までも標的を選ばなかったわけではない。
相性の悪い相手から撤退することは恥ではない。
多少なり心を通わせ、理想に近い切り口を持っていたシャルルは自分の手で両断してやりたかったが、背に腹は代えられなかった。



「ええと、どこまで話したかね。そうだそうだ、君たちがいかに重病人であるかという話だったな」

シャルルを引き連れたアペイロンは、一つの墓の前で歩みを止めた。
その位置を墓石越しに確認し、喝人の後退は止まる。

「君たちが一層深刻なのは。殺人症状に身を落としながら、死人に執着している点だ。人であることに執着している点だ。死は人からの解放だよ、まったく嘆かわしい」

がしゃん。
アペイロンの足が、お姉ちゃんの墓前に供えた花を払った。
赤い彼岸花と、白い菊の花弁が散り、雨粒に押し潰されてべしゃりべしゃりと落ちていく。

瞬間、喝人の全身の血液が沸騰した。



―――――――――――――――――――――――――――――



「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん……」

何度果てただろうか。
既に下半身の感覚が痛みを通り越し、擦り切れた陰茎の流す白濁した涙に血液が混ざり始めていた。

美しく艶やかだった切り口はだんだんと赤黒く乾いて。
透き通るように白かった肌も少しずつ黒ずんできていた。

なのに、それでも、お姉ちゃんに触れることはできなかった。
お姉ちゃんを本当に美しくしたこの切り口は、自分のつけたものではないから。
お姉ちゃんの本当に本当に一番美しかった瞬間は、何者かに奪われてしまったから。
僕はお姉ちゃんの一番になれなかった。
残り香にすがっているだけにすぎなかった。

「お姉ちゃんお姉ちゃん……僕……!!」

力を失った下半身を再び屹立させたのは、ふつふつと沸き上がる怒りだった。

許せない。
きっとこれ以上の切り口を生み出せない。
お姉ちゃんを一番美しくできない自分が許せない。

このまま、お姉ちゃんを奪われたままではいられない。
これ以上の、世界で一番の切り口を、僕の手で。
そうすれば、またお姉ちゃんの一番は僕になる――


いつしか擦り切れた陰茎の傷は消えていた。
魔人能力の目覚めだった。



―――――――――――――――――――――――――――――



雨粒の隙間を縫う電光のように跳び出した喝人の仕込み刃を、アペイロンは手を突き出して受けとめた。
そして手のひらを貫通させたまま、五指で喝人の拳を握り込む。
三指の刃が肉を切り込み、剥き出しの二指がその傷を塞ぐ。

「『アンピュテート・マニア』白石 喝人君! 君がいくら切断技術を磨いたところで、姉の死はやり直せない! 君がそこに追いつくことはないのだよ!!」

暴露療法。
刃を肉体に刺し続け、傷の根治を妨げながら癒し続けることで、癒しの方向を患者の内面へ。
心の傷を引き出し、抉り、曝け出せさせる。
ドクター・アペイロンの治療(カウンセリング)の真骨頂。

『人医者』たるアペイロンは患者の『人』を構成する最も重要な部分を探り当て。
それを完膚なきまでに破壊し、再構築し。人であることから解放する。

完璧に、完全に。術中に嵌めた。そのはずだった。


「お姉ちゃん…… お姉ちゃん……! お姉ちゃん!!!」


喝人は自己の根底、首のないお姉ちゃんの像をかき乱されながら、しかし足を進めた。
アペイロンの手のひらに突き刺さった仕込み刃がさらに埋まり込み、その切っ先の向く方向へ、亀裂が深まっていく。


「これは――――!?」


暴露療法の最終段階に入った患者が、それでも同時に能力を行使したケースは前例がなかった。
今、アペイロンは自身の体に手を触れていない。
最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』による傷の侵蝕に対抗することができない。
アペイロンの手が、シャルルの手首から離れる。

瞬間、機を伺っていたシャルルは右手で再びメスを取り出し――
しかし、握り込めずその場に取り落とす。
離れ際、アペイロンの三指の刃がシャルルの右手首の腱を抜け目なくかき乱していた。

次いで、『最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』に対抗すべく、アペイロンの右手は自分の体を――
通り越し、喝人の喉笛を抉った。



「あ゛っ――――」



喝人の拳を握り込んでいた二指が離れる。
痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)』解除。
喉の傷は癒されず、酸素と血液の供給を断たれる。

一拍遅れ、喝人は『最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』を発動。
しかし呼吸が戻ることはなかった。

アペイロンの右手に肉片が握り込まれている。
三指の刃はただ切り裂くのではなく、喝人の喉を抉り出していたのだった。
最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』は傷を塞ぐことはできるが、足りない肉体を再生することはできない。
溺れる。


「君を殺せ(すくえ)たことに変わりはないが…… これでは不十分だな。また後で治療の続きをしてあげよう」


三指の刃で手が繋がったままの喝人が藁を掴むように、体にすがりついてくるのをアペイロンは受け入れた。
今度こそ右手を自分の顔に触れ、抜け目なく喝人の能力発動に備えて。
血の気を失い始めた喝人と目が合う。


「――――うぅるるるッ!!!」


喝人がしがみついてきた本当の意図と後方からの獣じみた唸り声に気付き、アペイロンが振り向くと。
再生中の肉が剥き出しの左腕と、口にメスを咥え。
狂乱するシャルルの姿が飛び込んできた。


『ライフライブ・パッチワーク』発動!!
あまりに不慣れで、シャルル本人にも制御できていない刃の軌道が走る。



    それは喝人とアペイロンの片脚を。

                            それはアペイロンのコートのポケットを。

それは喝人の左腕を。

                それはシャルル自身の右手首を。

                                   それはアペイロンの脇腹を。

           それは喝人の首を。


切り飛ばした! 切り落とした! 切り裂いた! 切断した! 両断した! ぶった切った!



そこまでで、痛みと握力の限界から左手からメスがすっぽ抜ける。
致命傷とは程遠く、あくまで落ち着いた視線で観察を続けるアペイロンを一瞥し。
シャルルは喝人の首を抱えて逃げ出した。





―――――――――――――――――――――――――――――




「ドクター・アペイロン! ドクター・アペイロン! 聞こえてますか!?」
「通信も駄目だな。端末がやられたらしい」

アペイロンクリニック内。
必死でリカバリーを試みる女をよそに、男は短く息をついた。

「そう焦るな。俺たちの『目』が潰されたわけじゃない」
「それは、そうですけど……!!」

モニター内ではアペイロンが首なしになった喝人の体を引き剥がし、切り落とされた片脚を繋ぎ直している。

「俺たちはあくまで【NOVA】として動いてんだ。殺人鬼『人医師』に肩入れする理由はねえ。見ての通り、すぐに体勢も立て直してんだ。万に一つもないだろうが」

男は席を立ち、机の上に開きっぱなしになっていた『アンピュテート・マニア』『切り取りシャルル』のファイルを閉じる。

「もしドクター・アペイロンが負けたなら。ここに痕跡は残せねえ。そっちの準備もやっとかなきゃならねえぞ」
「わかってますって! そうすると量も多いなあ…… はあ」

女もまた席を立ち、盛大にため息をついた。



―――――――――――――――――――――――――――――



「なんで、助けてくれたの?」

シャルルの膝の上で、喝人が口を開く。
『ライフライブ・パッチワーク』の能力によって喉より上の部分で切断された喝人の首は、一時的に呼吸と血流を取り戻していた。

「助けられてはいないよ。呼吸のできなくなった喉と繋がったままのキミの体は、きっとあのまま死んでしまっただろう」

右手でメスを握ろうとして、また取り落とす。
腱をずたずたに引き裂かれた右手に握力が戻らない。
肉の剥き出しの左腕と、刻まれた右手首とで出血がひどい。早急に患部を切り落とさなければならなかった。
痛みと失血とで、短く浅い呼吸混じりにシャルルは続ける。

「僕の能力で切り離したパーツが生きていられるのは12時間。キミもそれだけ時間が経てば、死んでしまうよ」
「それでも今、僕は生きてる」

墓掃除の最中に交わした会話のように。
二人の声の他は雨音だけが響いていた。


「……可苗衣(かなえ)に―― 娘に執着することは病気だと。彼は言ったよね。そうかもしれないと、私も思う。精神科は専門じゃないが」

雨粒が頬を伝う。
それは失血したシャルルの体温を容赦なく奪いながら、しかし沸き立つような熱を持って、膝上の喝人の頬を打った。

「それでも、それを言っていいのは僕だけだろう。あんなふうに知った口で、診断などという体で土足で踏み込まれて。耐えられない。このままにしておけるものか……!!」

右肘の間にメスを挟み込み、左腕を押し当てる。
『ライフライブ・パッチワーク』発動。
切り口を歪ませながら、なんとか左腕を切り落とした。

「キミも、同じじゃないかと思ってね。そう思うと、残していけなかった」

今度は右肘に挟んだメスを左脇に渡そうとする。
が、上手くいかずまた取り落としてしまう。
右手首の出血を早急に止めなければならない。


「――ありがとう。僕も、同じ気持ちだったよ」


再度、地面に落ちたメスを足で拾おうとして、シャルルは右手首の出血が止まっていることに気付いた。
膝の上で、喝人が燃えるような熱のこもった目で見上げていた。

最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』。
出血を伴う外傷の深さを調節する魔人能力。


「僕に考えがあるんだ」





―――――――――――――――――――――――――――――





「まったく、手のかかる患者だよ」

ナビゲートを失ってなお、ドクター・アペイロンは走ることなく脱走した患者を見つけ出した。

暴露療法の最中の患者は、自身の抱える秘密に踏み込まれた時点でアペイロンに執着を抱く。
この場から完全に逃げおおせることとはできないと、アペイロンは知っていた。

逃げだした患者、『切り取りシャルル』は。
せっかく治療中だった左腕を再び失い、右腕は黒衣の内側へ引っ込めていた。
隠れることなく石畳に直立し相対したところを見ると、その右腕に何かしらの逆転手を備えているに違いなかった。

「キミに一つ。私からも元医者として。知見を伝えよう」

シャルルは直立不動のまま、アペイロンを見据えて口を開いた。

「人格の全ては、脳に集約されている。キミが大層に暴いている深層心理など、脳の発する電気信号の一部に過ぎないよ」
「随分と涙ぐましく絞り出した殺し文句だ。よほど頑張って自分を奮い立たせたのだろうね」

アペイロンの余裕は揺るぎない。

右腕を拘束していた間。
既にシャルルの心の内にも触れていたアペイロンは、彼が心の機微を無視できるような割り切った人間ではないことを知っていた。
だからこそ、その言葉がただ自分を挑発するだけの滅裂な主張だと断じた。
だからこそ、殊更に余裕を崩さず、ゆっくりと歩み寄った。

だからこそ、反応が遅れた。


「任せた――――!!」


声とともにシャルルの体が横倒しになり、そのピンと伸びて開脚した両足が交互に石畳を蹴って側転する。
雨粒を切り裂いて、銀糸一閃。
靴の爪先に接合したメスの刃が、アペイロンの左腕を肩口から切り裂いた。

「これは…… いや、しかし!!」

予想外の動きに面食らいつつも、切り離された左腕が落ちる前に、アペイロンは右手で肩を押さえた。
『ライフライブ・パッチワーク』の能力は割れている。
切断されようともすぐに断面同士を接合すれば元通り。有効なダメージにはなりえない。

アペイロンは後退しつつ数秒、断面同士を押さえつけてから手を離す。
そして元通り繋がった左腕を突き出そうとして、その腕が前に滑り落ちていくのを見た。
繋がっていない。
転がっていく腕の切り口からは血液が尾を引くように吹き出している。


「『最も愛すべき欠損(アポテムノフィリア)』―― 引っ掛かったね!!」


黒衣がひるがえり、内側に隠されていたシャルルの右腕があらわになる。
その手首の先で、喝人の首が不敵に笑っていた。
アペイロンは瞬時に理解する。

「体を共有して…… 主導権を渡したのか!?」

20年。
どのような体勢からでも傷を負わせられるよう、全身に仕込んだ刃を振るう訓練を重ねてきた『アンピュテート・マニア』白石 喝人の切断術。
不慣れな頭の位置とシャルルの体では理想とは程遠く、本来狙った首からは狙いが逸れてしまったが、何も問題はない。

体勢を戻したシャルルの足は迷いなく石畳を蹴り、右腕を突き出して後退するアペイロンに追いすがる。
そして右腕の先の喝人が、その喉笛に噛みついた。

「…………ッ!!!」

めりめりと喉に歯を立てられながら、それでもアペイロンは冷静だった。
『ライフライブ・パッチワーク』によって接合した喝人の首は、強く引っ張れば取り外せる。

アペイロンは残った右手の三指の刃を喝人の頬に突き立て、シャルルの胸板を蹴って手首から引き剥がした。
そしてシャルルの足の刃の範囲内に入らないよう距離を取りながら、喝人の首を切り刻み――





「――――あ?」





瞬間、アペイロンは思考が急速に鈍化したのを自覚した。
明らかに間合いの外から、シャルルが腕を振り抜いているのが辛うじて見えた。

喝人の首を失った右手首の先には、さらにもう一本腕が接合されていて。
あれは――――



「私の…… うで……」
「ご明察だよ。欠けた自我で、本当にキミは凄まじい殺人鬼だったな」



『ライフライブ・パッチワーク』。
自身の左腕に装着された三枚刃で頭部を袈裟切りにされ、脳を4枚切りスライスされながら。
ドクター・アペイロンはその機能を停止した。





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「こんな感じで…… 構わないかな」
「うん、上出来だよ。ありがとう」

雨に濡れた石畳の上に構わず腰を下ろしたシャルルと、膝の上に乗った喝人の首。
二人は揃って喝人の最愛のお姉ちゃんの墓前にいた。

散らされた花の代わりに飾られているのは、二人がドクター・アペイロンに中途半端に生やされた腕。
白い骨が茎と雌しべとなり、その周りを放射状に開いた肉が赤い花びらのように囲んでいる。

そして二人と墓石との間には、首と両腕のない喝人の体が横たわっていた。
シャルルの言葉通り体は既に死んでいたが、『ライフライブ・パッチワーク』によって切断された首の断面だけは、変わらず滑らかな切り口を保っている。

「12時間だったよね。あの綺麗な断面から血が吹き出るの。それこそ理想の切り口だよ」

屈託なく笑う喝人の首の上で、シャルルは小さく頷きながら傘の柄を握り直す。



「……僕の腕でよかったの?」

喝人が上目遣いに、シャルルの表情を伺う。
シャルルの両腕は今、喝人のものに挿げ替えられていた。

「20年、僕も頑張ってきたからわかるよ。腕は交換したくなかったんでしょ。医者だったから」

シャルルは再度、自身のものとなった両手を眺める。

生命とは肉体の全てのパーツ、細胞全てに宿っているものだ。
外科医として、愛する娘の体を完璧に組み上げるために。
皮膚がモザイク色になるほどに細かく組み替え続けた両脚と比べ、両手には本当に最低限の補修しか施してこなかった。
自分の両手の細胞に、医者としての経験が詰まっているように思えてならなかったから。
今回も、使える部分は元の自分の腕を再利用することはできた。
できたのだけれど。


「いいんだよ。キミの腕を連れて行きたくなった。キミの腕なら、間違いないと信じられる」
「……へへ、そっか」


お互いに殺人を何とも思わなくなってしまった狂人ではあるけれど。
それでも同じく、愛する人のために磨き続けた腕だ。
同じく、愛する人のため怒りを燃やすことができた腕だ。

かさついたヘビの鱗で歪んだシャルルの口元が、娘以外の前で初めて緩み始めていた。


「時間あるからさ、ちゃんと教えてよ。可苗衣(かなえ)ちゃんだっけ? あんたの子どものこと」
「ああ、いいよ。可苗衣は12歳、いやもう13歳になったんだったかな」




12時間後。
雨の冷たさが少しだけ和らいだ、白んだ空の下で。
少年、白石 喝人が最も愛した、滑らかな肉の切り口が鮮やかな血化粧に染まる瞬間まで。
二人の語らいが止むことはなかった――――。




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一日目

ステージ:18.墓地

勝者:『切り取りシャルル』
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「まさか本当に返り討ちにあっちまうとはなあ…… オイ急げよ!」
「わかってますって! そっちもファイル持ってくださいよ! ああ、応援呼んどくんだった……!!」

アペイロンクリニックにて墓地の動向を監視していた男女は、ドクター・アペイロンの機能停止の瞬間から撤収を始めていた。
【NOVA】の各種カメラからリアルタイム映像を傍受していたモニタを残さず叩き割り、回線を切断し。
アペイロンの作成した殺人鬼カルテの分厚いファイルを回収し、手分けして抱える。
さらに詳細な証拠隠滅には、【NOVA】の専門エージェントが後で派遣される手はずだった。

「よぉーし、これで全部だな。二人とも手ぇ塞がっちまうんだ。先に戸開けて――」



ごとん。



玄関から、何か大きな物音がした。



「……聞こえました? 今」
「声出すな。俺が様子見てくる」

机の上にファイルの束を置き、男は物音を立てないよう慎重に。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を数ミリ開いて。
その隙間から部屋の外を覗いた。










「人は病である」










覗いた先に、同じように外から室内を覗いていた瞳孔の開いた瞳と目が合い。
男はひゅっと息を飲んだ。
開いていく扉の先で、雷光に照らされたその立ち姿に。
女は抱えていたファイルをどさどさと取り落とした。





「人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である人は病である」





人格は、その全てが脳に集約されている。

脳を袈裟がけに切り離され、その断面に端末が接合されたドクター・アペイロンは、破れた喉からびしゃびしゃと血液混じりの雨水を漏らしながら。
かすれた声で繰り返し、残された右腕の三枚刃を振り上げた。



「ああああああああああああああ!!!!!」
「きゃあああああああああああああ!!!!!」



アペイロンクリニックを中心とした血の惨劇が明けるまで、残り12時間――――。
最終更新:2024年06月02日 21:13