『NOVA』限定公開の第一夜が明けた。
新聞には、殺人鬼たちの築いた死屍累々がセンセーショナルなニュースになって踊る。

『神社惨劇 放火現場から発見された惨殺死体』
『ビル街謎のSOS?殺害した人物の情報を読む殺人鬼とは』
『廃工場にて少女斬首死体発見される』
『阿鼻叫喚!夕刻サンシャインシティに現れた怪人』
『水族館怪事件 脳裏に響く謎の声?遺体二名発見そしてなぜかトラック』
『悲劇 ショッピングモール爆発事故 原因はガス漏れか』
『謎の10万人集団失踪事件 大混乱続く』

「何たる…何たる病状の悪化だ…!」
ぐしゃりと新聞を握りつぶし、わなわなと拳を震わせる男はドクター・アぺイロン。
『人医師』の異名をもつ殺人鬼である。

人類は病んでいる。それが彼の持論だ。
迷信、狂乱、自縛、不明、絶望―そして人間。それが人類を侵す病。治療せねばならない。
そう、人間であるという病を、人間病を治療せねばならない。
彼の持つ新聞の紙面に踊る惨たらしい事件の数々は、今まさに、ここ池袋で人間病が猖獗を極めている証だった。
『NOVA』限定公開により活性化した殺人鬼たちの活動は、パンデミックそのものだった。

治療せねばならぬ。
「治さねばならぬ…今すぐに!早急に!」
人間病は死に至る病だ。それも患者のみならず周囲の人をも死に至らしめる、恐ろしい病だ。既に凄まじい被害が、人間病のパンデミックによって引き起こされている。
人医師は黒いコートを羽織ると、病院を飛び出した。
行き先はもちろん、人間病の最重症患者の下である。
打ち捨てられた新聞には、こんな見出しが躍っている―

『高校、白昼の惨劇 群衆狂乱大乱闘勃発さらに大爆発』
『状況混乱 被害状況不明』『近隣住民生存は絶望的か』
『ガス漏れでは説明のつかない超大規模爆発』『付近で検出された未知の強毒性ウイルス』

極めて重篤な人間病患者がそこにいたはずだ。人医師はそれを最優先に治療するべく行動を開始した。



父母は自分を愛していた。
家と、食事と、寝床と、子守唄をくれた。
■■■殺した。

伯父と叔母は自分を愛さなかった。
親殺しの子だと、暴言と暴力を浴びせて来た。
■■■殺した。

孤児院の職員は自分に怯えを向けていた。
殺されたくないと、こびへつらうような目を自分に向けた。
■■■殺した。

義父という名目だった男は、自分に性欲を向けて来た。
まだ十歳にもなっていない自分に好色な目を向けるびっくりするようなペド野郎だった。
■■■殺した。

ヤクザのなんか偉い人は、自分を高く評価した。
天性の才覚だとか、最強の殺し屋に育て上げてやるだとか言っていた。
■■■殺した。

なんか他所の国から来たマフィアの人は、自分を道具扱いした。
檻に入れて、貴様みたいな狂人は言われたとおりに殺せばいいんだ、とか言った。
■■■殺した。

今のスポンサーは、自分を面白がっている。
電話口の向こうから冷やかして、毎月金を送って来る。
殺してないし、顔も見たことがない。



靴底が、胸の中心に叩き込まれる。
皮膚を何の抵抗も無く破り、胸骨が真っ二つに叩き割られ、左右十二本の肋骨が残らず破断し、大胸筋を障子紙のように引き千切り、心臓と肺が圧力に耐え兼ね諸共に破裂、内臓の弾力と下半身の筋肉による回避運動によって僅かに脊椎から逸れた圧力が左の肺と肋骨をまとめて抉り飛ばし、蹴られた青年の体を錐揉み回転を伴って吹き飛ばし、空中に血と肉の欠片で放物線を描き、アスファルトの路上に叩きつけた。

「ゴハッ…!」

致命傷を負った青年は、急速に血の気が失われつつある手を抉られた胸に当てた。
痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】。
青年の…『人医師』ドクター・アぺイロンの致命傷が急速に回復し、瞬く間に健康体となる。

「ゴホッ、ゴホ…なんとも、凄まじい力だな…」
「ん、生きてる?」

致命傷を負わせたはずの相手が起き上がったのを見た『羅刹女(ラークシャシー)』三豆かろんは珍獣でも見ているような目をした。

突然の流血に、周囲は騒然となった。
ここは池袋乙女ロード。篠突く雨が降りしきる中、真昼の開戦である。
目が合った瞬間、相手が誰か認識するよりも先んじた攻撃。『羅刹女(ラークシャシー)』の殺人に対する躊躇の無さは池袋に集った殺人鬼の中でも突出している。間宮祥三が死んだ今、手の早さでは単独トップの殺人鬼だ。
それは、人医師にとっては最優先の治療対象として認識されるものである。

青年は決然と立ち上がり、決意を湛えた濃緑色の瞳を患者に向けた。
「初めまして。私はドクター・アぺイロン。『人医師』とも呼ばれている。今日は君の病気を治しに来たのだよ。三豆かろん君」
「ビョーキ…?何言ってるの?」
「いかにも。君は病気なのだ」
「……………??」

珍獣を通り越して宇宙人を見るような目の『羅刹女(ラークシャシー)』の腕が一振りされると、荒縄がうなりを上げて『人医師』の脚に喰らい付かんと襲い掛かる。
「―ッ!」
『人医師』は『羅刹女(ラークシャシー)』が腕一本で振るった攻撃を、全力の跳躍で回避しなければならなかった。それがこの戦闘における有利不利を物語っていた。

両者ともに、白兵戦を主軸とした戦闘スタイルの殺人鬼である。しかし純粋な白兵戦闘能力は異常なフィジカルを持つ『羅刹女(ラークシャシー)』に軍配が上がる。『人医師』の人体理解に基づく戦闘技術も侮りがたいが、人外じみた剛力の『羅刹女(ラークシャシー)』と正面から打ち合うにはやや荷が重い。
それ以上に致命的なのは、魔人能力の相性である。『人医師』の【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】は痛覚を伝達する脊髄や痛みを認識する脳が破壊されない限り極めて高い回復能力を発揮するが、『羅刹女(ラークシャシー)』の【冥河渡し】は決まれば一瞬で死体も残らずこの世から完全消滅する即死能力だ。無論、回復の余地はない。
故にこそ『人医師』はここから一撃も受けるわけにはいかなかった。先の一撃は回復能力が知られていなかったから生き延びたが、次に攻撃を受けたならば回復の間に追撃は必至。引きずり込まれて即死か、はたまた脳が原形をとどめなくなるまで挽肉か。

『人医師』は身を低くして、雨の中をジグザグのステップを踏んで駆け回った。ギャギャギャギャギャ!と轟音を上げて『羅刹女(ラークシャシー)』の振り回す縄が『人医師』を捉えようとその背を追ってのたうち回る。
両者の武器は、その間合いにおいて『羅刹女(ラークシャシー)』の縄が『人医師』の刃渡り6㎝のそれを圧倒している。その点を常識的に考えれは、距離を詰めるべきは『人医師』だ。しかし彼はそうしなかった。人外の腕力を有する『羅刹女(ラークシャシー)』と取っ組み合いをする気など、毛頭なかった。
そして彼の武器は、両の手に備えた刃だけではない。

「君の経歴を調べさせてもらった!」

彼はカウンセラーだ。人間の肉体を解剖するそれ以上に、精神の解体を得手とする。
掠っただけでも人体を容易く破壊する暴力の嵐を間一髪で潜り抜けながら、心肺への負担をも厭わず『人医師』は声を上げる。

「君が初めて殺人を犯したのは3歳!両親を…魔人能力覚醒と同時の…ぐっ!事故に…事故だ!」

縄が掠め血が噴き出すが、それでも『人医師』は言葉を止めない。

「その…後!親族の家…!孤児院…養父…ぐあっ!暴力団…!大陸系のマフィア…!現在の『NOVA』のVIPの一人に至るまで…君の保護者は移り変わり…扱いも様々…ぐっ!その悉くを君は殺害した!だがっ…!」

自身に【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】を施しながら、『人医師』は言葉を止めない。それこそが彼にとって戦いそのものなのだ。

「両親を殺害してからの君を形容する言葉は、たった一つだ…!」

ズバァン!という破裂音と共に、鮮血が飛び散った。
刃の付いた指ぬきグローブが嵌まった右腕が、超高速の縄に打たれズタズタに千切れ吹き飛ぶ。
『人医師』はその一撃を躱せなかったのではない。あえてそれを受けた。
患者の治療のためならば、躊躇無くそれを選択できる医者だった。ほんの一瞬、暴虐が僅かに緩む。その一瞬に濃緑の瞳が、『羅刹女(ラークシャシー)』を射抜いた。
そこに湛えられているのは、ただ一つの決意。

君を治療する。
決意と共に、人医師はその一言を告げた。

「君は、只の被虐待児(・・・・)だ!」

ほんの一瞬、いや、一瞬に満たない刹那。
そこにいたのは、羅刹ではなかった。
ただの、与えられるべきものを受け取れなかった少女に見えた。

「おおおおおおおおッ!!!!」

その機を逃さず、『人医師』は吶喊した。その言葉が羅刹の暴虐を緩めたのはほんの一瞬に満たない刹那の間だけだ。それでも、その一瞬未満の機に彼は賭けた。すぐさま暴虐が再び立ち現われ、破壊の海嘯と化してうねり猛る。
『人医師』は濁流に飛び込むメロスのように、寸毫の躊躇も無く破滅的なうねりに挑みかかった!

「置かれた劣悪な環境に対する、当然の抵抗!だが君は偶然にも魔人だった!それによる成功体験が、君を歪めてしまったのだ!」

『人医師』の全身が引き裂かれ、鮮血と肉片が飛び散り、そして即座に修復される。生きながら電動ヤスリにかけられるに等しい苦痛の中で、それでも『人医師』は歩みと言葉を緩めない。

「慢性的な安全欲求の不満!幼少期の安全基地の構築失敗!極めて不足した教育!君を取り巻いていた全てが重篤な人間病の温床だ!!」

『人医師』の叫びには、強い、強い決意が漲っている。
必ず、治療してみせる!!!

「その額の角!自身を周囲の人間と異なる存在として定義し、怪物を装う!それもまた、人間病の症状だ!それも発達の過程で魔人能力と複合し、身体的形質に現れるまで重篤化している!一刻も早い治療が…治療がッ!必要だ!!!」

遂に『人医師』は振り回される縄の暴風圏を潜り抜け、『羅刹女(ラークシャシー)』に―否、只の三豆かろんに肉薄した。
刃の付いた左の貫手は、神速だった。地上の誰よりも豊富な執刀経験を有するドクター・アぺイロンにのみ可能な、最短最速の一突き。胸鎖乳突筋と胸骨甲状筋の間をすり抜け、速やかに頸部の致命部位に刃を侵入させると同時に指を接触させ【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】を発動させることで患者が暴れる間もなく『治療』を完了せしめる、殺しと癒しの相反する二つを一つに合わせ、至高の領域に練り上げた一撃。
―だったのだが。

羅刹女(ラークシャシー)』は、今や池袋で最も手の早い殺人鬼である。
『人医師』の手が届く寸前、その前腕は掴まれていた。全く純粋な身体スペックの差と、本能にすら近しい殺人感覚がそれを成した。
ばぎばぎ、と純然たる握力だけで『人医師』の左腕の尺骨と橈骨が破壊された。

「なっ…何たる不覚!」

初めて『人医師』が狼狽した言葉を吐いた。握りつぶされた前腕は【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】をもってしてもこのままでは治療できない。『羅刹女(ラークシャシー)』の指が完全にめり込み、圧搾され続けているからだ。
左腕を切除して逃れようにも、右手の刃は先刻腕ごともぎ取られてしまった。腕は再生しても、武器までは再生できない。

がちり、と『羅刹女(ラークシャシー)』のもう一方の手が『人医師』の顔面を鷲掴みにした。そしてそのまま握り始める。頭蓋骨ごと脳を直接握りつぶす腹積もりだ。

「やめっ…」

みし、みし、めぎ、ばぎり。

「私は…君を…治し…!」

決意も空しく。
ぐじゃり。
脳漿を撒き散らした『人医師』は僅かに痙攣して、そして動かなくなった。
羅刹女(ラークシャシー)』は動かなくなった青年を、ぽい、と投げ捨てて踵を返した。





「僕の死を糧にして、次を救え。 医者とは次のより多くのために、次の100年の命と健康のために、傍の死さえ飲み込み果てる、人でなしであるべきなのだから」





『人医師』は起き上がった。
状況を認識するよりも早く、その身体は奔る。
羅刹女(ラークシャシー)』がそれに気づいたときには、既に肉薄している。

「お前、は…!」
「私はドクター(・・・・)!ドクター・アぺイロン!!!」

――どうして私は、総ての死者と病人を救う、デウス・エクス・マキナではないのだろうな。
――知っているかい。その絶望を限りなく本気で抱いたことのある者を、ドクターと呼ぶんだ。

墓地での戦いの後、己の無力を思い知った『人医師』は更なる力を求めた。
その道標となったのは、『切り取りシャルル』ことドクター・肉丘紡である。彼は魔人能力【ライフライブ・パッチワーク】により、自身の肉体を改造することで力を増していた。当然【ライフライブ・パッチワーク】を持たないドクター・アぺイロンにはそれをそのまま真似することはできない。【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】を以てすればあるいは移植手術に伴う拒絶反応を押さえつけ彼と似たような肉体改造を行うことももしかすると不可能ではないかもしれないが、そのようなことをしている時間は無かった。今まさに池袋では人間病が猖獗を極め、速やかな治療が必要だったからである。

そこでドクター・アぺイロンが行ったのは、自分の肉体の一部を自分の肉体の異なる場所に移植する手術である。
それも、脳移植(・・・・)だ。
自身の脳の一部を死なない程度に切り取り、肉体の異なる場所に埋め込む。削られた脳は【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】で再生する。それを施すこと、全身13箇所。当然自分自身で執刀し、【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】を用いる必要がある以上麻酔はなし(・・・・・)だ。彼はこの一手でも誤れば自身が死ぬ凄絶な手術を一晩で成した。

かくして彼の全身に増設された予備脳髄(・・・・)は思考や思索といった高度な精神活動や肉体の操作はできないが、二つだけ機能を持っている。
一つは、苦痛の検知。
もう一つは、苦痛の検知に伴っての【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】の自動発動。
ぶっつけ本番だったが、それはこの土壇場で正常に動作した。

今の『人医師』は、頭部の脳髄や中枢神経を破壊し、意識を喪失せしめたとしても全身13箇所の予備脳髄を同時に完全破壊しない限り自己再生が途切れることは無い。

人でなしに相応しい、異形の力。それを求めた理由は明快。

次のより多くのために。
次の100年の命と健康のために。
救うために。
救うために!!
より多くの命を救うために!!!

「私はドクター・アぺイロン!!!」

羅刹女(ラークシャシー)』の腕が『人医師』の胸郭に突き刺さり、肉片を撒き散らして背部から突き出た。その手に握られていた心臓が潰されて、真っ赤な飛沫が至近距離で向かい合う二人を染め上げる。
そして『人医師』は心臓を奪われてなお、微塵も怯まなかった。

「君の病気を、治しに来たのだ!!!」

刃の付いた左の貫手は、神速だった。地上の誰よりも豊富な執刀経験を有するドクター・アぺイロンにのみ可能な、最短最速の一突き。胸鎖乳突筋と胸骨甲状筋の間をすり抜け、速やかに頸部の致命部位に刃を侵入させると同時に指を接触させ【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】を発動させることで患者が暴れる間もなく『治療』を完了せしめる、殺しと癒しの相反する二つを一つに合わせ、至高の領域に練り上げた一撃。

そして、彼は患者の治療に、寸毫の躊躇もない!
この瞬間、池袋で最も手の早い殺人鬼の座は入れ替わり―

羅刹女(ラークシャシー)』の反応よりも早く、『治療』は完了した。



父母は自分を愛していた。
家と、食事と、寝床と、子守唄をくれた。
■■■殺した。

伯父と叔母は自分を愛さなかった。
親殺しの子だと、暴言と暴力を浴びせて来た。
■■■殺した。

孤児院の職員は自分に怯えを向けていた。
殺されたくないと、こびへつらうような目を自分に向けた。
■■■殺した。

義父という名目だった男は、自分に性欲を向けて来た。
まだ十歳にもなっていない自分に好色な目を向けるびっくりするようなペド野郎だった。
■■■殺した。

ヤクザのなんか偉い人は、自分を高く評価した。
天性の才覚だとか、最強の殺し屋に育て上げてやるだとか言っていた。
■■■殺した。

なんか他所の国から来たマフィアの人は、自分を道具扱いした。
檻に入れて、貴様みたいな狂人は言われたとおりに殺せばいいんだ、とか言った。
■■■殺した。

今のスポンサーは、自分を面白がっている。
電話口の向こうから冷やかして、毎月金を送って来る。
殺してないし、顔も見たことがない。



死に、生き返る。
死に、生き返る。
死に、生き返る―
死の瞬間を幾度も幾度も繰り返し味わい続けることが、『人医師』の暴露治療だ。
これにより病巣たる人間性は破壊され患者は人でなしとなり、死に飽いた精神には健康的な生への意欲が生じる。副次的効能として、【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】の作用によって肉体的な疾病や精神の外傷も癒される。『人医師』はそう信じていたし、この『治療』を受けた患者たちの人間性がことごとく破壊され、殺人や自死を拒むようになったたことは事実だ。

ズ、と、少女の白い喉から刃が引き抜かれた。
『人医師』は、腕の中で脱力している患者の白い肌に付いた血の跡を白いハンカチで丁寧に拭った。
「……………ん」
少女はぱち、ぱち、と数度瞬きし、目を覚ました。
きょろ、きょろ、と不思議そうに周囲を見渡すその表情からは、先刻までの冷たさや険しさはすっかりなくなっていた。純朴、とすら形容できた。
「目覚めたかい?」
「ドクター?」
「そうだ、ドクター・アぺイロンだ。体に違和感はないか?なにか調子の悪いところがあれば教えてくれたまえ」
ドクター・アぺイロンは心臓を再生したばかりとは思えない落ち着いた様子で、患者に語り掛けた。本当は達成感に今すぐにでも狂喜乱舞したかったが、患者の前では落ち着いた頼れる医師としての姿を保ち続けると決めていた。
「うん、とても、調子がいい。すっきりした」
「そうか。それは重畳。このような場所で立ち話もなんだ、ひとまず雨宿りを―

鉄拳が、顔面に叩き込まれた。
金縁の眼鏡を粉々に叩き割り、濃緑色の左眼が眼孔諸共潰れ、鼻骨、頬骨、上顎骨、涙骨、前頭骨を致命的なまでに砕き、前頭葉を圧壊、そのまま大脳辺縁系、大脳基底核を破壊、そのまま衝撃が脳髄を暴れ狂い、間脳、小脳、脳幹までも瞬時に機能を停止。意識を喪失した体が放物線を足掻いて吹き飛び、無人の店舗の扉を軽々とぶち破って周囲に無軌道な破壊を撒き散らし、建物の柱にぶち当たって止まった。

『人医師』は意識を取り戻した。今の彼は脳が粉々になったくらいで動けなくなったりしない。しかし、起き上がることはできなかった。精神的なショックが彼を床に縛り付けている。

「な…何が、何が、何が起こった…?」

『治療』は滞りなく完了したはずだ。患者の人間病及びその原因となった幼少期からの虐待による心的外傷後ストレス障害は癒されたはずだ。現に患者からは明らかに緊張状態が緩和されている様子が見て取れた。
はずなのだが。

「なぜ、私は攻撃されている…?」

理解できない。

混乱の中にある聴覚に、とつ、とつ、と軽い足音が入って来た。
その主は、無論。
羅刹女(ラークシャシー)』三豆かろん。その手の先にあった縄がごく滑らかな動きで放たれ、『人医師』の脚に巻き付いた。

「まっ…待て!待てっ!落ち着きたまえ!」
「私、とっても落ち着いていますよ。ドクター」

かろんの表情は、とても柔らかい。リラックスしている。憑き物が落ちたような、純真な表情だ。
無口で不愛想な『羅刹女(ラークシャシー)』とは、とても同一人物には見えない。

「ドクターが、私の病気を治してくれたんですよね?」

純真な表情のまま、少女は先ほどまで扉があった場所にコインを落とし。
同時に『人医師』の脚に繋がった縄を凄まじい馬鹿力で引っ張り始めた。

「まっ、待てっ!待ってくれっ!」

『人医師』は先程自分が衝突した建物の柱にしがみついて、死の河へと引きずられようとする体を必死に繋ぎ止めた。その脳内では、混乱が渦巻き続けている。
なぜ?
なぜ?
なぜだ?

「な、なぜ…なぜ私を殺そうとする!人間病は治ったはずだ!」

ドクター・アぺイロンの叫ぶような問いかけに対し、三豆かろんは―

「?」

きょとん、と。
悪意も害意も無い、とてもとても純粋な疑問の表情を浮かべた。
彼女はそれに込められた新庄を言葉に出したわけではないが、あえて意訳するならばこのようになる―
理由が無くても、人は殺すものじゃないの?

めぎめぎめぎめぎ。

「う、ぐっ、がああああああ!」

無言のうちに強まり続ける張力に、『人医師』は苦悶の声を上げた。
肉体が引き千切られても再生できる『人医師』だが、【冥河渡し】は再生のしようがない。絶対に手を放してはならなかった。むろん、反撃の術は持っていない。
彼にできることは、ただ一つ―

「わ、私は…私は医者なんだ!ドクター肉丘から託されたんだ!より多くの命を…次の100年の命と健康を!救う使命があるんだっ!」

言葉を紡ぐことだけだ。

「人類は、病んで、いるんだっ!治療が必要なんだ!迷信を!狂乱を!自縛を!不明を!絶望を!人間…人間をっ!治療しなければならないんだっ!今すぐにっ!!今もっ!地球の80億の人類が!200を超える国と地域が!『転校生』の存在が示唆する異なる世界が!今も人間という病に苦しんでいるんだっ!私は…私がッ!治療ッ!治療だッ!治療をッ!治療しなければならないんだぁああッ!!!だからッ!私はッ!私は!ここで!こんなところで!立ち止まるわけには!いかない!一つでも…一つでも!一つでも多くの命を救いッ!!一人でも多くの人の健康を守るためにッ!!私はァ!死ねないッ!死ぬものかッ!!ここで!死ぬわけには!いかないんだぁあああッッッ!!!!」

血を吐くような、いや、現に血を吐きながらの絶叫。
『人医師』の全身は張力に耐え兼ね、あちこちから血を噴き出していたが、それでも現世にしがみつく腕は全く緩みはしなかった。

すべては、病んだ人々を救うために。
そのたった一つの意思が、彼を現世に繋ぎ止めていた。

そして、唐突に。
張力が緩んだ。

「あ、あ、お…?」

体を引き裂こうとする力から唐突に解放された『人医師』は、状況を呑みこめずに困惑した。

(たすかった、のか?)

凄まじい力を受けながらの強引な再生で変形した『人医師』の腕が、つい、と持ち上げられた。

「ドクター」
純朴な少女が、『人医師』の手を握っていた。その顔に浮かぶ感情は―
純粋な、感心。
「世界中の人を救うなんて、すごいんですね」
そう言いながら、少女はドクター・アぺイロンの右腕を肩から引き千切った。

「ぐあああああああ!!!!」

叫ぶ『人医師』に構わず、少女は腕の付いていた肩の断面にそこらの尖ったアスファルトやコンクリートやら木材やらの欠片を滅茶苦茶にねじ込み始めた。正常な形での再生を防ぐための措置だ。
縄を引くのをやめたのは、腕をとってからの方が引っ張るのが楽だからというだけに過ぎない。

少女のごく気負いのない様子を見て、『人医師』は己の失態を悟った。
彼女が被虐待児であるというのは、正しい。
それによる心的外傷が人格形成の過程で影響を及ぼしたのも、事実。
それに対する治療は、間違っていない。

だが、それはそれとして(・・・・・・・・)、殺人を行うことは彼女にとってごく自然なことなのだ。



父母は自分を愛していた。
家と、食事と、寝床と、子守唄をくれた。
それはそれとして(・・・・・・・・)、殺した。

伯父と叔母は自分を愛さなかった。
親殺しの子だと、暴言と暴力を浴びせて来た。
それはそれとして(・・・・・・・・)、殺した。

孤児院の職員は自分に怯えを向けていた。
殺されたくないと、こびへつらうような目を自分に向けた。
それはそれとして(・・・・・・・・)、殺した。

義父という名目だった男は、自分に性欲を向けて来た。
まだ十歳にもなっていない自分に好色な目を向けるびっくりするようなペド野郎だった。
それはそれとして(・・・・・・・・)、殺した。

ヤクザのなんか偉い人は、自分を高く評価した。
天性の才覚だとか、最強の殺し屋に育て上げてやるだとか言っていた。
それはそれとして(・・・・・・・・)、殺した。

なんか他所の国から来たマフィアの人は、自分を道具扱いした。
檻に入れて、貴様みたいな狂人は言われたとおりに殺せばいいんだ、とか言った。
それはそれとして(・・・・・・・・)、殺した。

今のスポンサーは、自分を面白がっている。
電話口の向こうから冷やかして、毎月金を送って来る。
殺してないし、顔も見たことがない。

ドクターは、自分の病気を治してくれた。
体が軽いし、心が晴れ晴れとしている。彼は全世界の人々を救う志を持った、立派な人だ。
それはそれとして(・・・・・・・・)、殺す。



「これでよし、と」
雑多な瓦礫をぐちゃくちゃに突き刺され、異常再生で変形した肉塊がもり上がる腕の断面を見た『羅刹女(ラークシャシー)』は、幼子じみた素直な笑みを浮かべた。
もはや縄を引く必要もない。ドクター・アぺイロンの脚をじかに掴むと、再度出現させた冥河に向けてずるずると引きずっていく。

「あ、ああああああああああああ!!!!!」

ドクター・アぺイロンは、自分の行き先に『死』を見た。
『人医師』は、死と命の定義を揺らす殺人鬼であった。だが、そこにあったのは揺るがしようのない『死』。

そして、何の気負いも無く『死』に踏み入る少女。

彼女は、『人医師』の暴露治療を受けるまでも無く、死のなんたるかなど飽きるほどに体感していた。
他人を引きずり込むよりも先に、自分が真っ先にいつもそこへ踏み込むのだ。
死に飽きたから殺せない、などあり得ない。
むしろ、死に続け、殺し続ける方が自然なのだ。

その在り方は、最初から人間ではない。

羅刹(バケモノ)があああああ!!」

ドクター・アぺイロンはそう叫びながら、足が川を渡り。腰が渡り、胴が渡り、首まで渡り―

「ガッ!!」
顔の中ほどで、止まった。

「あれ?」

ドクター・アぺイロンは、冥河に被って存在している、扉の残骸に噛みついていた。体のどこか一部分でも冥河を渡り切っていなければ、現世にしがみつくことができる。
何たる生への、使命への執着。
彼は誰の命も諦めないように、自身の命も諦めようとしなかった。
それが、どんなに無駄なことでも。

「粘るなあ、もう」

常人ならば一瞬で全身が引き千切れる張力が、『人医師』の全身を襲う。
「がっ、が、がああああああああああ!」
もはや言葉を紡ぐこともできない男の全身の組織が引き裂け、そのそばから再生し、また引き千切られる。関節は引き延ばされ、肉は千切れ、薄くなった皮膚から内臓が透け、裂傷は死に至る傷となり、男は死に、そして生き返る。
死に、生き返る。
死に、生き返る。
死に、生き返る。
死に、生き返る―

それは皮肉にも、『人医師』自身が患者に幾度となく施してきた『治療』と酷似していた。

異なる点は、相手の人間性が破壊されても『羅刹女(ラークシャシー)』は全くそれをやめるつもりがないということ。
そして、今の『人医師』は意識が無くなろうが、脳髄が変形しようが、全身の予備脳髄により決して【痛し癒し愛し(ヌルム・レメディウム)】を途切れさせないということだ。

故に、それはとても長い時間続いた。
結果から言うと、『人医師』ドクター・アぺイロンは死んだ。
凄まじい張力を受けながらの再生を続けた結果、彼はついに自称する通りの「人でなし」になっていた。

―肉体の形が。


『NOVA』限定公開二日目。
乙女ロードでの戦い。
『人医師』
―死亡。

羅刹女(ラークシャシー)
―生存。


ピポパ、と手元のスマホを操作して、三豆かろんは電話をかけた。
「もしも~し」
『ハロ~!そっちからかけて来るなんて珍しいねぇ~!明日は雪かナ?』
「ちょっと面白いものがあったので」
『えーっとどれどれ…?ぶっふぉ!なんじゃその爆笑オブジェクト!』
「元『人医師』です。いります?」
『こっちに渡してどうするんだヨ!Gを持ってくる猫か君は!勝手にせい!』
「はーい」
『それはそうと、サ。なんかいいことあった?機嫌いいね?キャラ変わった?』
「すっきりすることがありましたので」

にこにことした三豆かろんを見て、さっきまでの不愛想な『羅刹女(ラークシャシー)』と同一人物だと思う人間は、あまりいないだろう。『人医師』の『治療』は、そういう点では十分に効果を発揮していたと言える。

『ウム!調子がいいなら僥倖僥倖!これからも張り切ってぶっ殺しまくってくれよナ!』
「は~い。あ、」
だん、がん、ぐしゃ。
『今の音なに?』
「なんかこっち来てたんで殺しときました」
『早速絶好調だネ!いいぞ~!』

あまりにもあっけなく殺されたのは、ドクター・アぺイロンを心配して様子を見に来た肉丘可苗衣だった。愛によって生まれた子の、愛の無い死だった。

軽やかに死を撒き散らした少女は鼻唄混じりに、雨の乙女ロードを歩いていく。
とても健康的だった。
最終更新:2024年06月16日 21:19