0.研修医(メディカル・インターン) 1,344/1,344
深夜の病院。
リノリウムの床で、赤い華が咲いていた。
少なくとも、自分には、そう見えた。
美しい。
その赤に、目を奪われた。
鼓動が高鳴る。体温が上がる。思考がその色に埋め尽くされる。
――『恋』だ。
ああ、それを見たい。
もっと見たい。
その服の中。皮膚の内。脂肪の裏。骨の奥。
その赤の、沁み出る源。
内臓。
「先生は奥手だね。でも、いいよ。
その表情だけで、オレは満足だ。
それじゃああとは、お好きにどうぞ」
誰かの声が聞こえた気がする。
だが、視線は、意識は、目の前の患者に釘付けで、自分には、それが何者だったのか確認する余裕もなかった。
腹から血に濡れたメスの切っ先をいくつも生やした患者。
その切っ先に触れれば。動かせば。
何よりも美しい、鮮烈な赤が。その奥に、愛しい内臓が。
脈動しているその艶を、目の当たりにできるのだ。
初めての殺人。
2020年5月12日。
医療界が新型コロナウィルス感染症対策に奔走していた中で、そのニュースは平時よりも小さく報じられた。業界に対する疲弊に拍車をかけるような世論を喚起しないよう、どこかから圧力がかかったのかもしれない。
それが、『Dr.Carnage』の生まれた日。
それが、『凶行裁血』に目覚めた日。
それが、研修医、水崎 紅人の死んだ日だった。
2020/05/12_11:15_都内某所
都内の大学病院で殺人事件が発生。
防犯カメラに、メスを大量に飲み込む被害者の姿だけが映っていたことから、
操作能力を持つ魔人の仕業と断定。
研修医1名が行方をくらましたことから、重要参考人として捜索中。
1.調整者(バランサー) 1,016.5/1,344
水崎医院併設の居住区画。寝室。
定刻通り、『Dr.Carnage』、水崎 紅人はベッドから体を起こした。
昨日、ショッピングモールでの戦闘の後遺症による痛みはずいぶんと和らいでいる。
昨晩、飲酒によって血流を増加させたことで、『凶行裁血』による、身体操作による治癒力強化がうまく働いたのだろう。
脈拍がわずかに速いのは、異常ではない。
あの夜の夢を見た翌朝は、いつもこうだ。
紅の改造白衣を羽織り、研究室へと足を踏み入れる。
まず目に入るのは、ガラスケースの中で弱く脈動する、心臓だった。
恩師、山中 伸彦の遺産。
死してなお稼働する、回復魔人能力者の遺物。
美しい。愛おしい。
いますぐにでも切り開き、その隅々までを眺め触れて味わい嗅ぎ音を聴いて自らの一部として取り込んでしまいたい。
それは衝動。
殺人鬼、『博しき狂愛』に植え付けられた、『内臓への恋情』。
身を任せればすぐにでも己を破滅させるその熱情――脳内物質の過剰分泌を、紅人は、『凶行裁血』によって抑制、操作して理性的に行動する。
『博しき狂愛』は死んだ。
しかし、彼が紅人に植え付けた衝動は、未だ健在だった。
魔人能力研究における大きなテーマに「死後の魔人能力の残留」がある。
理論上、魔人能力は、魔人当人の認識により世界の法則を歪曲するものである。
観測によって世界を確定させる現象と言い換えてもいい。
故に、魔人当人が死ねば、魔人能力を継続させる観測者の不在により、世界法則の歪曲は正される。それが、基本的な考え方だ。
事実、多くの魔人能力は、使用者の死亡によって効果が消える。
しかし、全てがそうではない。
たとえば、ドクター山中が遺した心臓。
観測者である魔人の脳が焼却され、心臓のみになっても他者の治癒能力を有している。
『博しき狂愛』の魔人能力『禁断症情』。
この呪いもまた、そういう類のようだった。
精神操作系の魔人能力は、効果を受けた期間が長いほど、使用者の死亡後も継続するという説もある。
能力を受けた側が世界を認識する前提として、『操作された己の精神』を基準にしてしまうため、使用者の死後も、魔人能力を維持する観測者が消滅しないという仮説だ。
いずれにせよ、水崎 紅人は、変わらなかった。
その精神性も。
やるべきことも。
やりたいと思うことも。
「おはようございます、先生!」
黒いフードの女が、安っぽい紙袋を手に、研究机に座っていた。
「いやー、殺人鬼のやつら、派手にやりすぎでしょ。
今、池袋はがらっがらですよ。東池袋の方はまた違うかもですけどね。
残ってるのは殺人鬼と真面目な警察、自衛隊、あとは命知らずのマスコミに、行き場のない捨て鉢の地元住民って感じ。おかげで、行きつけのパンケーキ買い損ねちゃいました」
「『我々』なら、スカイツリーが倒れようとなかったことにできるのでは?」
「そりゃあもみ消しは完璧ですけどね? でも、人の漠然とした『恐怖』までは消せない。
自然災害の前に鳥の群れが飛び立つみたいなもんです。こういうとき、人って動物なんだなって思いますよ。あ、先生も食べますよね? 血作るには食事、鉄分ですもんね!」
紅人の返事も待たず、女は次々とテイクアウト用のプラスチック容器を並べる。
ビーフシチューにレバニラ、豚肉とひじきの煮物、朝食にはかなり重いメニューだ。
だが、女の言うとおり、紅人の能力の起点は血液である。
医学的見地からも、必要な栄養素を取っておくことは意味がある。
まだ湯気が立っている料理に手を合わせると、紅人は差し出されたわりばしを割った。
黒フードの女は、『NOVA』の殺人中継一日目の結果を簡潔に報告した。
生存者は9人。
柘榴女。
ミッシングギガント。
オムニボア。
悪の怪人・キリキリ切腹丸。
人医師。
スパイダーマン。
羅刹女。
鬼ころし。
そして、Dr.Carnage。
早回しで中継映像を流し、それぞれの能力と戦い方、殺し方を確認する。
音声つきの情報は、『NOVA』のVIPにも提供されない、運営側のみが得られる貴重な情報だ。
魔人は個が強い。世界を歪めるほどに。
それゆえに、その言動は、能力や精神性を知る上で重要な手がかりとなる。
「次は、彼を殺りましょう」
全ての戦場の経緯を把握した上で、紅人は、ディスプレイに映る一人の殺人鬼を指した。
目撃者の少女を殺さず、雨の東池袋に消えた隻腕の殺人鬼、オムニボア。
「あー、いいですね。いい感じに手傷も負ってますし、なにより、一日目でパンク・キャノンがいい仕事してくれましたね!
あの暴露が本当なら、バトルには関係ない感知系魔人能力者。箸休めにはぴったりそうです。しいて言えば、一方的な虐殺だと、配信が盛り上がらないことくらいですかね?」
紅人といるとき、黒フードが殺人鬼について言及する物言いは辛辣だ。
それは、二人が『共犯』だからでもある。
殺人中継サイト『NOVA』。
いわゆる裏サイトで、莫大な費用とコネクションを条件に、悪趣味なショーを観ることができるVIP御用達の道楽である。
その観客であり運営でもあるVIPのほとんどは、表の娯楽に飽いた異常者たちだ。
黒フードの女は、その中にあって、さらなる異常者である。
だからこそ、紅人は、『調整者』などという面倒な役割を請け負ったのだ。
「東池袋分庁舎以降のオムニボアの動向は?」
「サンシャイン中央通りの闇医者で応急処置を受けたみたいです。
そこからは地下に潜って行方知れず。用心深いですねー。
この立ち居振る舞いからも、戦闘に関しては実質無能力っていうパンク・キャノンのタレコミは信憑性がありそう?」
黒フードの言葉を聞きながら、紅人は改めて、東池袋分庁舎での殺人風景を再生した。
対象とほぼ会話を交わさない姿。
淡々とした動き。
ズームをせずとも想像がつく、静かな目。
『君の物語は、これから面白くなる。だから、まだ、殺さないよ』
『――うん。いい物語だった』
その言動。
闇医者として、水崎 紅人は多くの裏社会の人間を診てきた。
その経験が告げている。
この男は、自分と同類である。
後天的に『博しき狂愛』に歪められた後の、『Dr.Carnage』と。
であれば、水崎 紅人が殺すべき、殺人鬼だ。
「ねー、先生、どうです?」
「もちろん、勝算はありますよ。貴女方のサポートがあるのですから」
「んもう、そりゃ当然でしょうー。そうじゃなくて、お料理の方。
そのビーフシチュー、新しいお店、開拓してみたんです。おいしかったなら、今度は自分用に買おうかなって」
「人を毒見に使わないでいただきたいですね。まあ、おいしかったですよ。
素朴で、外食向けには味が薄い気がしましたが、医者としてはこちらの方が好ましい」
「 ……えふふ、なるほど。そうですか。そうでしたか」
「今変な間を空けませんでしたか?」
「まあ、そんなこと、どーでもいいじゃないですかー。
そんじゃ、今日も頑張ってくださいなー」
言うまでもない。
『Dr.Carnage』は、殺すモノだ。
内臓の拍動のみを愛する、人類種の敵だ。
そのように、ベクトルを歪められた生命だ。
たとえ脳を能力で制御しようとも。
定期的に人を殺さずにはいられないものだ。
だから、今日も、殺人鬼を殺しに行こう。
殺すべき命と、殺すべきでない命。
その、選別を、始めよう。
2.殺人鬼(キラー) 956.5/1,344
『NOVA』指定の匿名掲示板での応答を経て。
劇場での邂逅を提示したのは、紅人。
そして、東京芸術劇場を指定してきたのは、オムニボアだった。
場所のカテゴリを片方が示し、具体的な場所を相手が決める。
そうすることで、対戦者指定側による準備のアドバンテージと、対戦場所指定側による準備のアドバンテージを等しくする。
端的な駆け引きで、紅人はオムニボアが「対話可能な存在である」「狂気でなく合理で殺人をする」と分析した。
東京芸術劇場。
1990年竣工。
学芸大学付属豊島小学校の跡地である池袋西口公園の再整備で生まれた総合芸術文化施設である。
まず目を引くのは、その形状と外観だ。
正面入り口である北東部から見ると、横倒しのガラス張りで透明な四角錐が手前に向かってせり出して、先端がこちらに突き刺さりそうな錯覚を覚えてしまう。
周囲が四角のビルで構成される中で、ぽっかりと開けた公園の中にあるこの形状は、明確に異端だ。
一般的な建物は壁の中に小さく開いた窓から、ほんの少し中が垣間見える程度だが、この建物は違う。北壁面、東壁面、天井がガラス張りで、中がすっかり丸見えなのだ。
その開放感も、建物の異質さを一層のものとしている。
降り注ぐ雨が、ガラス張り天井の斜面を伝っていく。
外から見る限り、劇場内に動く影はない。
本来であれば、4つの展示イベント、2つの演劇公演と、1つのコンサートが行われる予定だったこの場所も、全てが中止になったようだ。
水崎医院からここまでの道中も、人通りはまばらだった。
『NOVA』による情報統制は優秀だが、それでもこの流れは止まらないだろう。
殺人鬼『Dr.Carnage』としては、無関係な人間が多い方が有利だ。
能力によって身代わりの対象となる相手、血液爆弾の数は多いに越したことはない。
ある程度、戦い方を変える必要がある。
その意味でも、特殊な能力を持たない相手との一対一の戦いは、よい試金石と言える。
入口は開放されていた。
『NOVA』の手回しか、それとも、オムニボアの手によるものか。
紅人が池袋内での劇場での邂逅を提案して、オムニボアから東京芸術劇場が提示され、紅人がここに辿り着くまで、およそ一時間。
その間に、オムニボアはどの程度の仕込みを済ませることができたのか。
一歩踏み出す。
ここからは、敵地である。
紅人はゆっくりと劇場の内装を見渡した。
開放的な空間だった。
ガラス天井によって十分に採光された、五階まで吹き抜けの屋内広場。
高さはおよそ30m、広さは縦横20mずつといったところだろうか。
天井を縦横に走る鉄骨の影が床に落ち、幾何学的な文様を描き出している。
このアトリウムはまるで、ガラスで作られた、光の箱といった風情の空間だ。
ぽっかりと開けた壁面には蛇が巻きつくようにエレベーターが据え付けられ、縦方向に重ねて作られた複数の劇場スペースを繋いでいた。
ここで警戒すべきは屋内での狙撃だ。
昨日の戦いでオムニボアはガスを使ったようだが、広い空間では非効率。
意識的に『凶行裁血』を事前準備しておく。
体内に潜り込み、血に接触した射撃武器が、同じ軌道を遡って反撃を行うように。
リアルタイムで操作対象の軌道を指定する場合、その動きは紅人自身が認識できる速度を越えられないが、事前に規定していた動きであればその制約に縛られない。
一歩、また一歩とアトリウムの中央へと進む。
攻撃はない。
なぜ?
自分から戦場を指定しておいて、先回りからの先制攻撃というアドバンテージを捨てる?
視界の隅で、赤い光が明滅した。
爆弾?
いや、違う。簡易なポータブルの電光掲示板だった。
こちらの警戒を察してか、十分に迂回しても移動を妨げない場所に置いてある。
矢印が、エスカレーターを指している。
上へ、ということらしい。
その先にあるのはコンサートホールだ。
動いていないエスカレーターを登る。
足場が限られた場所での銃撃を警戒したが、それもなかった。
あっさりと、ホールへと辿り着いた。
扉は開いている。
ホールの客席の中央には、たった一人、男が座っていた。
オムニボア。
昨日とは違い、ガスマスクはつけていない。
紅人は、前日の戦いで手に入れた特殊金属『カルガネ』を起動する。
持ち主の意思に反応してあらゆる形状に変形する金属。
殺人鬼『外宙躯助』の武装を、紅人は『凶行裁血』によって己の支配下に置いていた。
使用者の認識による制約によるものか(魔人能力やそれに準じて生み出された超常物質は、使用者の知識や常識が制約となることが多い)、質量や体積を無視した変形という特性は失われているが、それでも強力な武器であることには変わりない。体積は変わらずとも、細くすれば遠距離まで伸ばせるし、薄くすれば広い範囲をカバーできるのだから。
足元を伝うようにして、5m先の地面を探るように先端を伸ばし、罠を探る。
何もない。
何もないままに、紅人は、オムニボアの席のすぐ近くまで、辿り着いてしまった。
「どうも」
「はじめまして。じゃあ、流すね」
オムニボアが手元のスイッチを押す。
すると、スピーカーから大音量で、オーケストラの楽曲が流れ出した。
知っている。
ワーグナーのオペラ楽曲だ。
『せっかくですし、演劇鑑賞でも致しましょうか。
終わらぬ破滅のオペラでも、ね。
……しかし、一緒に鑑賞する相手がいないことには面白みがありませんね。』
紅人は、オムニボアを呼び出す際の匿名掲示板への書き込みを思い出す。
もしかして、本気で、その言葉を額面どおりに解釈して、この男は劇場を指定したのか。
「お互い忙しい身だろうし。
一時間だけでも。いいかな? 生演奏じゃなくて申し訳ないけれど」
包帯を当てた――おそらくその奥には、一端数の能力による火傷があるのだろう――オムニボアの横顔、その笑顔からは、いかなる意図も感じ取れなかった。
「ニュルンベルクのマイスタージンガーより第一幕への前奏曲。
悲劇ではなく、喜劇のテーマ。私への皮肉というところですか?」
警戒を崩さず。
それでも、紅人は、オムニボアの一列後ろ、彼を視界に捉えられる位置に腰かけた。
「ごめん。そういうつもりではなかったんだ。
ただ、マイスタージンガーは、主役から見れば喜劇だけど、敵役にとっては、破滅のオペラだ。解釈違いかな?」
時間稼ぎか。
だが、それであれば好都合である。
「観察者によって、事態の性質は変わる。
あなたが言うと、興味深い話ですね」
不定形記憶合金『カルガネ』起動。
同時に、髪で隠している骨伝導スピーカーを、『外』へと繋ぐ。
相手は、黒フードの女。
彼女は、東京芸術劇場の設計図面を手元に置いている。
確認すべきはスプリンクラーの位置。
相手がこちらの情報をどの程度保有しているかは不明だが、スプリンクラーの消化水槽に溶血剤を混入させておくことくらいは想定すべきだ。
ショッピングモールの二の舞を避けるためにも、この楽曲が終わるまでに、噴射口を潰しておく必要がある。
圧倒的な音圧の中、足元から伸びた金属の蛇が建物中を這いまわり、危険の芽を潰していく。
「観察者……そのつもりだったんだけれどね。
今のぼくは、その席から引きずり落されてしまったみたいだ。
あなたが、一番、ぼくに近い立場かもしれない」
「というと?」
「人の間にはいられない。
そのあり方が人を害するから。
人の外にもいられない。
人というものは愛しているから」
声を潜めて、オムニボアは語る。
音楽を邪魔しないようにか、あるいは、『NOVA』運営が秘密裡に行っている録音を意識してなのか。
「私が人を愛している? 『Dr.Carnage』が?」
まるで殺人鬼の口から出るとは思えない、能天気な発言だった。
この男は、ムギスケの最終配信を見ていないのか?
昨日のショッピングモールでの戦いの情報を何も得ていないのか?
「違うかな?」
「解釈違いですね」
鮮やかに。
えげつなく。
対象の心を逆撫でし、踏みにじる最低最悪の殺人鬼。
人の内臓にしか興味のない異常者。
それが、『Dr.Carnage』だ。
二人はそれから、一時間ほど、共にオペラ楽曲を聴いた。
華やかな演奏が終わりを告げる。
黒フードの女のナビゲートで、主だったスプリンクラーは潰した。
オムニボアは立ち上がると、脇の巨大なスポーツバックを肩かけ、一歩距離を取る。
紅人もまた、『カルガネ』を手元に引き戻す。
殺人鬼同士の殺し合いが、始まる。
3.虐殺者(カーネイジ) 866.5/1,344
黒フードの女は、劇場内に転移させたドローン越しに、二人の開戦を確認していた。
水崎 紅人、『Dr.Carnage』の能力は非常に汎用性が高い。
己の血が触れたものを操作する『凶行裁血』の応用力は、生き残った殺人鬼たちの中でも随一と言っていいだろう。
事前に血液を付着させておくことによる物体操作。
操作した物体が相手に触れれば、再付着した血から相手を直接操作して終わり。
仮にそれらを全て回避して、紅人に一撃を与えたとしても、武器であれば血が付着することで操作権を奪われ、素手であれば直接肉体のコントロールを強奪される。
この圧倒的な応用力のある能力を前にして、水崎 紅人の脳か心臓を一撃で潰すこと。
それが、対『Dr.Carnage』に対する唯一の勝ち筋なのである。
おまけに、今の彼には、ショッピングモールで入手した不定形記憶合金、『カルガネ』がある。
紅人の『凶行裁血』と『カルガネ』の相性は極めて良好だ。
仮に『パンク・キャノン』の放送したオムニボアの能力が間違い、あるいはオムニボアに操作されて行われたブラフだったとしても、生半可な能力で、一対一で『Dr.Carnage』に勝利できる殺人鬼はいない。
それが、黒フードの女の見立てだった。
■ FUEL 866.5/1,344 ■
先に動いたのは、紅人だった。
手にしたメスを立て続けに四本投げる。
身をかわしたオムニボアをメスが行き過ぎてから、一本のメスが、空中で軌道を変えた。
『凶行裁血』による念動操作。
しかし、オムニボアは自分の後ろへと通過したメスから視線を外していなかった。
軌道変更のため速度を落としたメスへ、彼はスポーツバッグから取り出した銃を撃った。
これが仮に、ただの銃弾であれば、メスに着弾したとしても状況は好転しなかったろう。
メスから弾丸へと血が移った時点でコントロールを奪われて勝負ありだ。
しかし、散弾状に発射――噴霧されたのは液体だった。
血を洗い流すにはあまりにも少量。
だが、その霧の中で、メスは紅人のコントロールを失い、地面に落ちた。
液体で血の付着を解除したのではない。
液体に含まれた何かによって、血を変質させたのだ。
塩化アンモニウムによって赤血球の溶血を誘発したか。
あるいは、シンプルに強酸性、強アルカリ性の薬品によるものか。
いずれにせよ、『凶行裁血』の発動条件は、『血を付着させること』である。
そして、医師である水崎 紅人にとって血とは、素人の言うところの体内から漏れだした赤い液体全般ではなく、血としての成分全てを満たした『全血』に他ならない。
付着した血液の成分が変化すれば、発動条件は解除される。
対応としては悪くない。
両手にその水鉄砲を持って対応されたら、少しばかり厄介であったろう。
そう。
ここで、一日目の戦闘――『パンク・キャノン』が報いた一矢が意味を持つ。
片手による放射状の噴霧での防御。
それでは、『凶行裁血』への対策としては、カバー範囲が狭すぎる。
「!」
メスを迎撃したオムニボアの背に、脇腹に、腰に、注射器が刺さっていた。
メスを投擲するより前、オペラを聴いている最中に、劇場の各地に散らして配置した注射器だった。
プランジャーが押し込まれ、シリンジから中身である紅人の血が射出される。
血管を巡って心臓へと流れ込み、全身の支配権が紅人へと奪われる決殺の一滴。
「ほう」
しかし、決着は未だつかず。
オムニボアは刺さった注射針を叩き落とすと、壁を背に水鉄砲を構えなおした。
何が起きたのか。
それを、紅人は改めて分析する。
たしかに注射器は突き立てられ、針から血は注入された。
その血を媒介して、血が触れたモノの性質を、『凶行裁血』は解析する。
起きたことは単純。
針はオムニボアの皮膚にまで届かず、彼が着こんだ防具によって阻まれたのである。
だが、それだけであれば、血の付着した防具は『凶行裁血』の支配下に置かれ、オムニボアは自由な行動が取れなくなっていたはず。
しかし、そうはならなかった。なぜか。
注射針から外に放たれた瞬間、血液が変質し、『凶行裁血』の媒介としての性質を失ったからだ。
そう。オムニボアはコートの下、『二重に防具を装着していた』。
内側に刃を止めるための防具。
そして、その外側に、血液を変質させるための薬液の詰まった、水風船のような特殊なベストを。
血液が付着したのと合わせて、特殊ベストから沁みだした薬液が内側の防具を洗い流すように。
薬液は、水鉄砲に仕込まれたものと同様のものだろう。
「考えてはいるようですね」
互いに距離を取り、皮膚の露出している部位を狙ってメスと注射器で攻める紅人。
壁面を背後にして死角を減らしつつ、改造水鉄砲で対応するオムニボア。
拮抗しているように見えるが、オムニボアには攻め手がない。
彼は隻腕だ。
残された右手に防御用の水鉄砲を構えている以上、紅人を脅かす方法は限られる。
しかも、水鉄砲である以上残弾は無限ではない。
であれば、相手の狙いは――
オムニボアが動く。壁を常に脇に置きながら。
紅人が事前に敷設した血だまりを器用に避ける。
それを追う紅人の足首に、痛みが走った。
『凶行裁血』発動。
痛覚緩和。
対象分析。
ベアトラップ。
トラバサミとも言う、狩猟罠のひとつだ。
体組成を操作、出血を止める。
なるほど、こうして少しずつこちらのダメージを蓄積させるつもりか。
気の長い話だ。
もしも仮に昨日の『Dr.Carnage』相手ならば、有効な戦術だったのかもしれない。
だが、今は違う。
「――『カルガネ』」
紅人の手から、金属が液体のように広がり、彼の体表面を覆っていく。
それは、銀色の全身鎧だ。
鎧から、槍のように一本の金属が伸び、オムニボアを襲う。
オムニボアは左腕でそれを庇った。
刺突、命中。
薬液ベスト及び防具貫通を確認。内部構造に血液注入。
オムニボアは即座に右手にナイフを持ち替えて、左腕の先を切り落とした。
からん、と。鍵爪付きの義手が落ちる。
まったく、しぶとい相手だ。
今のが生身であれば、トドメであったのだが。
『外宙躯助』から奪った不定形金属『カルガネ』は、本来であれば3日目以降、『柘榴女』や『鬼ころし』といった武闘派に温存しておきたい切り札ではあった。
しかしオムニボアは、想定以上にこちらの手札を理解し、対策を用意している。
このまま時間を稼がれて、体力と血液とを消耗するのはよくない。
戦いは今日限りではない。
水崎 紅人は、『Dr.Carnage』は、『NOVA』の調整者として、最終日まで戦い抜かないといけないのだ。そのように、彼は、彼女と約束したのだから。
オムニボアが水鉄砲の薬液を紅人めがけて噴霧する。
しかし――鎧には、一切の変化がない。
「残念」
仮に、昨日のショッピングモールで紅人の身代わりである死体人形が『カルガネ』を使ったときであれば、薬液の噴霧も意味があっただろう。
あの時は、『カルガネ』の表面に血液を塗布する形で操作したからだ。
紅人の『凶行裁血』は、付着した血液量に応じて精緻なコントロールが可能となる。
分身に注ぎこんだ程度の血液量では、そんな大雑把な操作が限界だったのだ。
だから、スプリンクラーで無効化されるというお粗末な結果となった。
しかし、紅人本人がある程度以上の血液を消費して使用するならば、より繊細で、より効率的な応用が可能である。
即ち、『カルガネ』の内部に毛細血管のような微細な空間を張り巡らせ、疑似的な血管網を構築すること。
これにより、能力の起点であり弱点でもある血液を、外部の干渉から守る。
血液が外気に触れないことにより、血の乾燥を防いで効果時間も延長可能。
変形させた金属の先端部を対象に突き刺し、そこから中身の血を注入することで、注射針と同様の一撃必殺も可能。
武器として使うときには薄くしなやかな表面で動かす。
防具として使うときには厚く強い装甲で血管を隠す。
人体という効率的な構造物を模した、医師らしい結論であった。
自在に変形する最強の盾にして、一度相手の皮膚に突き立てれば一撃で絶命させられる必殺の矛。
『カルガネ』は『凶行裁血』のもと、ここに最悪の兵器として完成した。
オムニボアの判断は速かった。
即座に武器を捨て、コンサートホールから飛び出す。
紅人はまっすぐにそれを追う。
仕掛けられたくくり罠を、トラバサミを、マキビシを、
全て、無敵の液体金属鎧が踏み砕いていく。
「一日目の結果の差ですね。
貴方は腕を失い、私は、新たな武器を得た」
まだ、何を隠し持っているかわからない。
間合いを取り、鎧から鞭のように金属刃をうねらせて紅人はオムニボアの反応を伺う。
追い、逃げ、牽制し、回避し、さらに逃げる。
慎重で一方的な追走劇の果て、紅人がオムニボアを追い込んだ先は、地上五階のエントランスだった。
オムニボアが背にした手すりの背後には、一階まで吹き抜けの、ぽっかりと開いた屋内広場が広がっている。
一歩下がれば30m直下に落下する。
前に出れば『カルガネ』に串刺しにされる。
うまく横に逃げてエスカレーターから下に降りようとしても、エスカレーターには、血だまりを何か所か付設してある。それを踏めば終わりだ。
肩にかけたスポーツバッグを盾にするにしても、一分も時間は稼げないだろう。
オムニボアが勝利するには、『カルガネ』の攻撃をかいくぐりつつ、全周囲の防御をやぶり、紅人の心臓か脳を破壊する必要がある。
片腕を失い、戦闘中に行使できる魔人能力がない彼に、それが為しえるのか。
天井。北方。東方。
背後三方を覆うガラスの天井から差し込む逆光で、オムニボアの細かな表情は伺えない。
「『Dr.Carnage』」
「なんですか?」
「ここからの景色が、ぼくは好きなんだ。
屋内にいながらにして、ビルの屋上から渋谷の街を見ているみたいでね」
オムニボアは背後のアトリウム、それを覆うガラス壁を指した。
紅人は敵の動作を警戒しながら、外の景色を一瞥する。
広がる西口公園。
その先には、池袋西口のビル街。
こんな状況でも、道に、ビルの中に、動く人間がいた。
人の営みがあった。
オムニボアは続けた。
「ここからの視点は、ぼくらのあり方だ。
人がいる。人が笑っている。認識はできる。
けれど、ここからはその声も、熱も、感情も、触れられない。
知覚はできるけれど、ぼくらは、そこには混じれない。
ぼくらは人だが、人間になり損ねた。
ぼくらは人だが、人外にもなれない」
「……懺悔ですか? あるいは感傷?」
「言ってくれただろう? 腹を割って話をしようって。
ぼくは、そう生まれついた。君は、そう歪められた。
似ていて、決定的に違う。
おまけに、君はまだ、人間をあきらめていない。
だから、ぼくは、君を尊敬している」
殺し合いの相手に対して、奇妙なほど好意的な言動。
オムニボアの肩に下げられたスポーツバッグにはまだ武器が詰まっているようだが、少なくとも今、彼の手は空だ。
命乞い?
それにしては、物言いに違和感がある。
「心当たりはありませんが、誉め言葉だと受け取りましょう。
……それでも、ここから先の結果は変わりませんが」
「うん。そうだね。それでこそ、君だ」
たしかに、紅人もまた、オムニボアと自分の間に共通点を感じてはいた。
人間の物理的な内面、内臓を偏愛し他人の命を蹂躙する殺人鬼と。
人間の精神的な内面、物語に偏執し他人の命を軽視する殺人鬼と。
だが、だからこそ両者の間に繋がりは生まれえない。
何かと相容れないという共通点で、人は絆を結べないのだ。
だから、オムニボアが『Dr.Carnage』に何を思おうと、全て無意味だ。
これ以上会話をする意味もない。そう、紅人は結論づけた。
オムニボアはもう十分に戦った。
見栄えのする戦い――『NOVA』に対する義理は果たしたと言えるだろう。
「……そろそろ」
「ああ、準備が、できた」
紅人の言葉を、オムニボアが奪い取る。
彼は張り付けたような笑みのまま、
――指を、弾いた。
その動作に、紅人は、昨日までこの街を騒がせていた『現象』を連想する。
『パンク・キャノン』。
池袋の街各所に仕掛けられ、非魔人が指を弾くのに対応し、発動する爆弾。
魔人と非魔人のパワーバランスを覆すジョーカー。
絶対の異能と、無力なものとの天秤を揺らす、叛逆の狼煙。
爆音。爆炎。爆風。
背後から襲う衝撃に、紅人は自分を取り囲むよう球形に『カルガネ』を展開した。
鎧の形状では爆炎熱伝導で皮膚が炙られる危険性がある。
連鎖的な爆破が起きたのか、音と振動は未だ球形の絶対防御の外で響いている。
何が起きているのか。
一家の仕掛けた『パンク・キャノン』は、もう発動しないのではなかったか。
そもそも、魔人であるオムニボアがそれを発動することはできないはずで――
いや。『NOVA』運営の情報によれば、オムニボアは、『パンク・キャノン』の信奉組織、非魔人集団『パンク・ピストルズ』の一員を装って活動していたはずだ。
そこで怪しまれず活動するためには、魔人でありながら『パンク・キャノン』を使える素振りを見せなければならなかったはず。
そのために、この男はすでに、池袋の各所に爆弾を仕掛けていたのだ。
これが、オムニボアの切り札だったのだろう。
だが、火力が足りない。
この程度では、『カルガネ』の防御は防げない。
どの方向から炸裂するかわからない爆発は厄介だが、全周囲に金属を展開すればカバーできる。その上で、ウニのように棘を全方位に繰り出せば――
ぱしゅ
と。
唐突に、紅人を覆っていた『カルガネ』の球体が、シャボン玉のように弾けた。
開けた視界の前にあったのは。
転がる麻酔針。
銃を構えるオムニボア。
ガラスが粉々に砕け散って鉄骨だけになった、東京芸術劇場の天井と壁。
「……な」
そして、劇場の外から、己の心臓を穿たんと飛来する、銃弾の軌跡だった。
■ FUEL 816.1/1,344 ■
二時間前、警視庁特殊部隊所属の男に、個人端末で非通知の連絡があった。
始めは、性質の悪い冗談かと思った。
だが、連絡の相手は、男が僚友にしか打ち明けていないことを知っていた。
自分が、対魔人犯罪者鎮圧作戦の中で生死を彷徨いかけたこと。
それを救ったのが、『ドクター』山中の最新の研究であること。
池袋西口公園における連続殺人犯、霧永 道雄の一件を含め、自分が何度か『ドクター』の指示で魔人を撃っていること。
謎の相手は、さらに続けた。
ショッピングモールの『ガス漏れ事故』。
その真相が、殺人鬼同士の争いであること。
それに巻き込まれて『ドクター』山中は死亡したこと。
一時間後、西口公園の東京芸術劇場で、殺人鬼同士の殺し合いがあること。
劇場のガラス壁・ガラス天井が爆破されたら、劇場内の殺人鬼の心臓を、狙撃してほしいこと。
にわかには信じがたかった。
そもそも男は組織の人間だ。
大恩ある山中氏の仇とはいえ、不正確な情報で動くわけにはいかない。
しかし。
謎の情報が伝えられたのは、自分だけではなかった。
組織の中で、山中氏に秘密裡に協力していた隊員が、同様の連絡を受けていた。
幸運だったのは……あるいは不運だったのは、その指揮判断を行う上官が、軒並み『行方不明』になっていたこと。
池袋は現状、山中氏と民自党のとりなしで魔人犯罪者に対する現場判断での発砲が特例的に許可されている。山中氏と民自党幹部の大量失踪でその指示は取り消されるかもしれないが、少なくとも今、そうした周知はなされていない。
それを判断する人間ごといなくなって、まだ半日も経過していないからだ。
故に、現状で判断ができる立場にあるのは、男だった。
ならば、自分が一人で責任を背負う。
そう告げて、彼は銃を取り、西池袋、新東第一ビルに赴いた。
劇場からの距離は、およそ130m。
狙撃距離としては短いが、ガラス張りの天井がネックとなる。
やがて、ガラス天井越しに、二人の男の姿が確認できた。
自分は、片方の男の周囲に、液体金属が展開されるのをスコープ越しに見た。
昨日の記憶が蘇る。
山中氏に随伴した僚友たちが、通信途絶の直前に遺した言葉。
『水みたいに形を変える金属の刃』
『人間も魔人もおかまいなし』
『殺される』
『山中さんを頼む』
あいつか。
あいつが、僚友たちを殺したのか。
あいつが、山中氏を殺したのか。
山中氏は死亡した。
しかし、今でも、彼の理念は我々に引き継がれている。
人に仇なす魔人を、殺せ。
これは、治安維持を旨とする公僕としてではない。
単に敬愛する男を失った、私人の私怨である。
劇場で爆発が起きる。
ガラスの天井が砕け散る。
と、同時に、球形に殺人鬼を覆っていた金属球が、突如消滅した。
トリガーを引く。
次の瞬間。
男は対象の左胸が爆ぜるのと、己の右肩がはじけ飛ぶのを、同時に認識した。
■ FUEL 593.6/1,344 ■
紅人は、自らの失策を悔いた。
背後の爆破は囮。
球形に薄く『カルガネ』を展開させるためのもの。
一点あたりの強度が下がったことで、麻酔銃で溶血薬液を注入された。
鎧状態であれば、あるいは麻酔針が『カルガネ』内の疑似毛細血管まで届くことを防げたかもしれないのに。
その上で、オムニボアはガラス天井・ガラス壁を爆破し、外に待機させていた何者かに、こちらを『狙撃』させた。
オペラ楽曲に付き合わされた一時間は、この狙撃手の準備のためか。
この手口。
山中 伸彦――『ドクター』のものだ。
ならば、狙撃手は、彼の配下か。
銃弾軌跡の反射で無力化して二射目はないようだが。
一日目の結果の差。
失ったものが多いのは、オムニボアの方だと紅人は考えていた。
しかし、そうではなかった。
オムニボアは腕を失った。
しかし、彼が殺したのは、池袋中を混乱に陥れた爆弾魔だった。
『Dr.Carnage』は、新たな武器を得た。
しかし、彼が殺したのは、非魔人からの信頼厚い『ドクター』と、官公庁の中枢にまで食い込んだ10万人の組織だった。
社会的な敵愾心。
一日目の戦いを経て、『Dr.Carnage』が背負っていた、見えないペナルティ。
それが今、牙を剥いたのだ。
破壊された天井。
剥き出しになった屋内に、雨が降り注ぐ。
穿たれた紅人の胸から血が流れ、雨に溶けていく。
狙撃の瞬間、『カルガネ』はフック付きロープによってオムニボアに奪われた。
それを使った即座の追撃はない。
『凶行裁血』のような抜け道がない限り、本来は、エイリアンを信じる一部の人間にしか使えない武具なのだろう。
しかし、追撃がないというのは、「追撃の必要がない」と相手が判断したということでもある。
そう。
『いやあ、だって衝動的に皆の内臓をブチ撒けたら、警察に捕まるか
下手すればその場で射殺でおしまいでしょう?』
いつか、紅人は『博しき狂愛』にそう語った。
『Dr.Carnage』は、心臓を撃たれれば、脳を撃ち抜かれれば、死ぬのだ。
それを防ぐために、身代わりを使い、『カルガネ』で身を守り、立ち回りで殺人鬼同士を潰し合わせて暗躍したのだ。
胸から血が溢れだす。
気道に、食道に流れ込んだ血が臓器の正常な機能を阻害する。
心臓を穿たれ、大量に血を失った。
痛みによるショックを能力で遮断し、身体組織を操作して止血をしても、流れ出た血をなかったことにはできない。
紅人の『凶行裁血』は、血を操る力ではない。血のついたものを操作する力。
だから、流血そのもの、失血そのものを止めることはできないのだ。
止血のため肉体を操作する。
それでも、大口径の銃弾に穿たれた肉を即座に再生することは叶わない。
血は流れる。流れ落ちる。
血を使いすぎた。
紅人は、己にかけられた『内臓偏愛』の精神操作を抑制するために、平時から能力の――体内血液量の大部分を行使している。
そのコントロールが、封印が、失血によって、解かれていく。
どくり。どくり。どくり。
損傷した心臓が跳ねる。
そのたびに、命が削れていく。
いつかの記憶。
リノリウムの床で、赤い華が咲いていた。
少なくとも、自分には、そう見えた。
美しい。
その赤に、目を奪われた。
鼓動が高鳴る。体温が上がる。思考がその色に埋め尽くされる。
――『恋』だ。
ああ、それを見たい。
もっと見たい。
その服の中。皮膚の内。脂肪の裏。骨の奥。
その赤の、沁み出る源。
内臓。
あのときは、目の前の患者だった。
しかし、今は、自分の中に、それがある。
それを、明確に、思い知らされている。
衝動に支配される。
内臓が見たい。
違う。今はそんなことをしている場合ではないのだ。
けれど。だって。こんなにも、魅力的なモノが。
一番近くで、輝いているのに。
流れていく。
流れ出ていく。
止血にも限度がある。
魔人能力は認識による世界の歪曲だ。
そして、水崎 紅人は医者である。
医者であるから。
肉体の限界を知っている。
銃弾が心臓に届いた場合、脈拍ありの状態で手術を開始したとして生存率は約7%。
そんな、絶対の冷徹な事実が認識の前提として、叩き込まれている。
だから、流れ出る血を止めきれない。
何より、最適解を思考する理性は、血の縛りから解き放たれた『博しき狂愛』の『呪い』によって、蝕まれている――
■ FUEL 76.3/1,344 ■
内臓を。
愛しいものを。
それが、水崎 紅人の思考を埋め尽くしていた。
もう、自分は助からない。
血がはじけ飛んで床に沁みる。
致命傷だ。
命が流れてこぼれおちていく。
ならば、我慢しても仕方がない。意味がない。
全ての欲望を、解放しなければ、もったいない。
魔人能力『凶行裁血』。
この異能は触れた血が多いほど、強く効果を発揮する。
およそ5ccの雫を踏んだだけで、靴と地面を接着できる。
10ccで自在に投擲したものの軌道を操作できる。
20ccを注入しただけで緩慢な全身動作を強制できる。
60ccで、会話が可能なほど精緻な肉体操作を可能とする。
200ccもあれば、異界法則に基づく液体金属の操作も容易だ。
そして今。
この建物には。
水崎 紅人がかつて流したことのない量の血液が、沁みこんでいる――
建物が鳴動する。
東京芸術劇場。
延べ床面積51,394.80m²、高さ50mの構造物が、ただひとつの衝動の元に、変容していく。
それによりさらに血は建物全体へと行きわたる。
魔人能力の浸食は拡大していく。
すなわち、『内臓偏愛』の具象化。
コンクリートと鉄骨とガラスの破片と。
水崎 紅人を核として、無数の建材で構成されうねるそれは、長さ数10mの内臓のようにも、多頭の蛇のようにも見えた。
これが暴れだせば、池袋駅前は、数分で地獄絵図と化すだろう。
まさしく、『Carnage』の体現である。
『Carnage』は薄れゆく意識の中で、衝動を受け入れる。
このまま自分は死ぬだろう。
あと数分か。数十秒か。
それまでに、全ての力を振り絞って、一つでも多くの内臓を。
血が失われた。理性が失われた。
なんで今まで我慢をしてきたのか。
変形していく。変容していく。
東京芸術劇場という1つの建築物を、ひとつの命を支えていた血液が、内臓を喰らう化生『Carnage』へと変える。
その目の前で。
オムニボアは、まっすぐに、こちらを見据えていた。
なぜ逃げないのか。
あと数十秒で、『Carnage』は死ぬ。
オムニボアは殺人鬼だ。正義の味方ではない。
どれだけ、最後の暴走で他人が死のうが知ったことではないはずだ。
そもそも、今の池袋駅周辺は、ほとんど人がいないのではなかったか。
なのに。
このままで野垂れ死ぬ災害を目の前にして、一番安全な勝利法を選択しないのか。
そんな疑問は、内臓への偏愛衝動に消える。
いい。ちょうどいい。どうでもいい。
ひとつ多く、いとしいものが愛でられるだけ。
「水崎 紅人。君はなぜ、『Dr』と名乗り続けたのか」
だが。
そんな一言が、『Carnage』の意識を、わずかに冷ました。
『Dr』。 自分にはすべきことがあった。
『ドクター』。 自分には尊敬する人がいた。
『先生』。 自分には果たすべき約束があった。
けど、それは何だったか?
誰との約束であったのか?
思出せない。
■■■■の■。
こんな自分を、それでも「先生」と呼び続けてくれた人。
ああ、こんなことならば。
朝、あのはにかんだ表情のまま、彼女の腹を、引き裂いて――
「そこから先は、君の物語に似合わない」
『Carnage』の前に、一人の男が立ちはだかる。
水崎 紅人。
研修医。
人の命を救いたいと志し、勉学を重ねた、愚直な男。
幻覚だ。
そんなはずがない。
だが、今の『Carnage』にとって。
内臓を求めて人を喰らう災害に立ちはだかるモノにつけるべき概念は、名前は、水崎 紅人でしかありえなかった。
水崎 紅人は、獣のように地を蹴った。
振り下ろされ、うねる『Carnage』の腕をかいくぐり、すりぬけ、止まらない。
その姿を、ぼんやりと『Carnage』は美しいと思った。
人間には時間という制約がある。
たとえば武。
たとえば舞。
たとえば技。
たとえば術。
時間をかけて思考され、蓄積された動きは美しい。
であれば、目の前の存在は、どれだけの時間『危険を避ける』ということに意識を割いてきたのか。この若さで、どれだけの思考を蓄積してきたのか。
『Carnage』の巨体を駆けあがり、水崎 紅人は核へと辿り着く。
「おやすみ、『Dr.Carnage』」
そして、躊躇なくナイフが振り下ろされた。
4.医者(ドクター) -5,376/1,344
2020/05/12_11:15_都内某所
都内の大学病院で殺人事件が発生。
防犯カメラに、メスを大量に飲み込む被害者の姿だけが映っていたことから、
操作能力を持つ魔人の仕業と断定。
研修医1名が行方をくらましたことから、重要参考人として捜索中。
深夜の病院。
リノリウムの床で、赤い華が咲いていた。
少なくとも、自分には、そう見えた。
美しい。
その赤に、目を奪われた。
鼓動が高鳴る。体温が上がる。思考がその色に埋め尽くされる。
――『恋』だ。
ああ、それを見たい。
もっと見たい。
その服の中。皮膚の内。脂肪の裏。骨の奥。
その赤の、沁み出る源。
内臓。
「先生は奥手だね。でも、いいよ。
その表情だけで、オレは満足だ。
それじゃああとは、お好きにどうぞ」
誰かの声が聞こえた気がする。
だが、視線は、意識は、目の前の患者に釘付けで、自分には、それが何者だったのか確認する余裕もなかった。
腹から血に濡れたメスの切っ先をいくつも生やした患者。
少年――『博なる狂愛』によって、メスへの恋を植え付けられた犠牲者。
その切っ先に触れれば。動かせば。
何よりも美しい、鮮烈な赤が。その奥に、愛しい内臓が。
脈動しているその艶を、目の当たりにできるのだ。
だが。
塗りつぶされそうな意識の中で、何かが声を上げた。
それは、青年の体の奥。骨の髄から響いてきた。
骨髄。
血を生み出す造血細胞の在処。
そして。水崎 紅人が、生きるために他者から与えられたものだった。
水崎 紅人は少年期に再生不良性貧血を発症、骨髄移植で生き延びた。
ドナーの倫理規定により、相手は不明。
だから、誰とも知れない誰かに救われた紅人は、誰とも知れないものを救うために、生き延びた命を使いたいと思った。
骨髄移植を受けた者の平均寿命は、一般よりも短い。
若年期の移植であればおよそ通常よりも16年ほど短いとされている。
医師を志した。
研修医になった。
そして今、そのオリジンと正反対の、『誰とも知れないものを殺す』衝動に、水崎 紅人は襲われている。
内臓を愛でるために引き裂いてしまえ。
違う。
もう手遅れだ。楽にしてやるためにも、メスを少しずらしてやれば
違う。
自分の命は。そんなもののために、与えられたわけじゃない。
そんなことを。自分の命が――血が許すはずがない。
自分は、血に活かされている。血に動かされている。血に、「操られている」。
だから、耐えられる。
だから、操れる。
魔人能力、覚醒。
そして、研修医、水崎 紅人は、患者にトドメを刺すことはなかった。
その内臓を弄ぶことはなかった。
取るべき処置をせずにその場を立ち去ったことで、結果的な間接的殺人の咎は負ったが。
彼は、確かに、越えてはならぬ一線を、踏みとどまったのだった。
そして、研修医は、闇の世界へと身を隠した。
内臓を偏愛する衝動は止められない。
だって、この魂はそういうものに作り変えられてしまった。
定期的に人を殺さなければならないバケモノに、生態が変わってしまった。
受け取った奇跡を返そうと献身する、研修医、水崎 紅人というあり方は死んだ。
だったら、せめて。
殺す相手は、選別する。
より多くの無辜の民を殺す殺人鬼を殺そう。
自分を殺そうとする敵を殺そう。
そして。その殺人の合間に。
より多くの人に施術をしよう。
多くを救う医師になろう。
多くを殺す殺人鬼になろう。
それが、『凶行裁血』の、はじまりだった。
■ FUEL -/1,344 ■
「……なるほど。『物語』にこだわるわけですね。
貴方にとって、他者の人生とは、『演劇』に他ならないのだから」
魔人能力『ソーマの幻灯』。
殺害対象の走馬燈を覗き見る、オムニボアの異能。
能力の創り出した心象風景ともいえるその空間で、水崎 紅人は自らを殺した相手と対峙していた。
「そうかもしれないね。
だからぼくは、人であっても人間ではないのだろう。
人外にもなりきれない、人間にもなれない、半端ものだ」
「で、その貴方から見て、『Dr.Carnage』は、どんな役者でしたか?
悲劇役者? 喜劇役者? どちらとも言えない大根役者?」
「名役者だったと思うよ。
君は最後まで、彼女に望まれた役を堂々と演じぬいた。
『ムギスケ』最終配信のアレだけはちょっとわざとらしかったけれど。
『ほんの1リットルほど、事前に保管していた私の血液を輸血して差し上げたんです』
……ってやつ」
なるほど、血の備蓄に関するブラフは、バレていたらしい。
紅人は少しだけ恥じるように頭をかいた。
魔人能力『凶行裁血』は協力だが、血を媒介とするという制約がある。
人体における健康体時の血液量は体重の8%。
紅人の場合には、およそ6,720ccである。
そして、その20%を失うと、失血性ショックの危険性がある。
即ち、1,344ccまでが、『凶行裁血』でぎりぎり体外に射出可能な血液の総量だ。
一日の血液生成量はおよそ52cc。
そして、血液が成分をそのままに保管できるのは4日間。
体外に余分にストックできるのは208ccまで。
だから、1リットル……1,000ccの輸血など、現実的ではないのだ。
そもそもの話として、それだけ出血したら命に関わる。
「ですが、私が、能力で骨髄の造血能力を操作して、一日の血液生成量を増やせた可能性は? それなら、1リットルの輸血だってできたはずだ。あるいは、成分血液や冷凍血液でも『凶行裁血』が使用できた可能性だってある。あと、輸血による補給もできたかもしれない」
「それができるなら、ショッピングモールでの戦いは、外からでもわかるほど、さらに凄惨で、速やかに決着していたはずだ。それに、経歴からして、君の能力覚醒が、成人してからだとは予想できていた。そういう能力は、無茶が効きにくいものだ。
もし、一日目に君と戦っていたら、君の勝ちだったろうね。もちろん、『博しき狂愛』と『ドクター』が今回の騒ぎに参加していた以上、君がそれをスルーしてぼくを相手にする可能性はなかったろうけれど」
こちらの懐事情まで、オムニボアは予測していたらしい。
一日目の戦いで、紅人はストック込みでおよそ590ccの血液を使用している。
特に、会話可能な身代わりの作成と、レストランの客を連鎖爆発するゾンビにするために、少し血を使いすぎた。多数の厄介な敵に慎重を期しすぎた。あるいは、自分の運命を捻じ曲げた存在を前に、少し感情的になりすぎたのかもしれない。
590cc=208cc(ストック分)+382cc(体内から抽出した分)
一晩で52cc回復したと仮定しても、二日目スタート時点で、紅人は体内の余剰血液のうち、1/4を失っていたのだ。
さらに言えば、紅人は、『調整役』として、この戦いを最後まで戦い抜く必要があった。
だから、血を温存する必要があった。
それで負けたのだから、元も子もないが。
「水崎 紅人は、外付けの狂気を背負わされながら、それでも救える人間を救おうとした。
『NOVA』参加の理由も、至って理性的だ。殺人鬼を殺す。
一回戦は、魔道に落ちた恩師と、自らを狂わせた相手、そして、参加者の中で最も多くを巻き込んで破滅しかねない群体を始末した。
毒をもって毒を制するという意味で、君の振る舞いは、極めて真っ当だ。
『Carnage』ではあったが、間違いなく『Dr』でもあった。
理性と善性の物語だったのだと、ぼくは思うよ」
勝手な言い分を、紅人は鼻で笑った。
「解釈違いですね」
「うん」
だが、いつだって、何が正しかったのか、正史を綴るのは、生き残った側だ。
それがどれだけ野暮で、無粋で、当人の意図からかけ離れたものだったとしても。
「ならば、私からも、オムニボアという『物語』への解釈を」
「どうぞ」
「一日目。『パンク・キャノン』は、あのままであれば、一斉起爆によって、池袋の広範囲を崩壊させかねなかった。
二日目。『Dr.Carnage』は、死の直前に、周囲を全て薙ぎ払う災害になりかけた。
もしそうなっていたら、殺人鬼と呼ばれるレベルではない。
その範囲はもはや、災害だ。人としてではなく、現象として記録されていたでしょう。
けれど、そのどちらもが、その直前に、オムニボアに殺された。
人の『物語』に落とし込まれた。
言い換えれば。貴方は、『物語』のために、命を賭けた」
「ふむ」
「それが、貴方の『弱点』だ。
正義の英雄が義に殉じて死ぬように。
オムニボアという存在は、『物語』の美しさに殉じて、遠からず死ぬでしょう」
これは呪い。
魔人能力でも何でもない、だが、水崎 紅人が最後に遺せる、最後の一撃。
少し驚いたように目を見開き、そして、オムニボアは笑った。
張り付いたそれではなく。とても自然に、無邪気な、子どものような笑顔だった。
「うん。それは、いい物語かもしれないな」
5.想い人(ラブドワン) -/1,344
水崎医院、研究室。
黒フードの女は、たった今脈動を止めた『魔人の心臓』を前に、嗚咽していた。
『恩師の研究、ねえ……ホントは心臓眺めてたいだけでしょ?』
『 …………いえいえ、そんなことはありませんとも』
昨日、この場所でかわした言葉。
あの沈黙の意味を、女は理解していた。
それで敢えて、茶化したのだった。
あのとき、彼の沈黙が示したものは即ち、絶望。
術者を殺しても、自分にかけられた『呪い』が覚めていないことに気付いて、彼は、普段の軽妙な語りを維持できないほどに、心を乱したのだ。
医師として人の命を救わんとしていた青年、水崎 紅人は、『博しき狂愛』によって殺人の業を背負わされた。理性は人の命を救うべしとしているのに。本能が人の臓腑を愛でること、殺人を求める。
それでも、彼は多くの命を闇医師として救ってきた。
殺人衝動を、殺してもまし、と判断できる対象に限定して。
無論、それは一方的な判断で、彼は客観的に見れば殺人鬼だ。
だが、彼女は、その闇医師に命を救われた患者の一人として。
彼の心を支えたいと願った。
能力を駆使し、『NOVA』のVIPにまで登りつめたのは、彼に協力するためだ。
『博しき狂愛』を殺すことができれば、彼にかけられた『呪い』が解けるかもしれない。
そうでなくとも、彼が勝ち抜き、大金を手にすれば、魔人能力を解除する能力者を見つけられるかもしれない。あるいは、転校生として並行世界を渡ることで、解放の手段が見つかるかもしれない。
けれど、その可能性は、全て潰えた。
今の彼女の立場として、オムニボアに直接手を下すことはできない。
できるのは、彼の左腕を癒す可能性のあるこの心臓を、無力化することくらいだ。
涙を拭う。
感傷はここまで。
まだ、やるべきことはある。
彼の意志を継ぐことは、まだできる。
命の選択。血の選別。
即ち、殺人鬼を殺す舞台の運営だ。
四年前の再現。
殺人鬼をもって殺人鬼を制する、蠱毒の再演。
「さよなら、先生」
黒フードの女は本拠地へと転移した。
自宅では、作りすぎたビーフシチューが彼女を待っている。