~~~

そこは、小さな劇場だった。
街の片隅にありそうな、時代に取り残されたような空間。
数十名も入ればいっぱいになる座席には、二人しか座っていない。

一人は、紅く染めた白衣を纏った、長身の医師。
その右目には片眼鏡をかけ、静かな微笑みを浮かべて正面の銀幕を見つめている。
一人は、左腕が欠けた眼鏡の青年。
醜く傷付いた顔の左側を撫でながら、同じく銀幕を見つめる。

からからと、映写機の回る音がする。
数瞬の後、銀幕に映し出されたのは幼い少年――医師の幼少期の姿だった。

裕福とは行かずとも幸福な家庭に生まれ、両親の愛情を受けて真っ直ぐに育った少年。
そんな彼の人生は――11才のときに、大きく変わった。

家族旅行先での、不幸な事故。

潰れた車の下で動かない両親。
自分の体からあふれ出る、紅い血。
命が失われる感覚が、手に取るようにわかる。

その時、少年は魔人となった。
血液を操り、車を浮かせて両親を引きずり出し、皆の出血を懸命に止めた。

……だが、家族は助からなかった。遅かった。
自分一人だけ生き残った少年は、自分を責めた。
もう少しだけ力をうまく使えていれば、救えたかもしれない。
もっと自分に知識と技術があれば、蘇生できたかもしれない。

少年が、医師を志すまでにそう時間はかからなかった。
両親の遺した遺産と、手にした能力による脳機能の増強。
何より、強い動機。そして努力を惜しまぬ精神。

彼の頑張りは実を結び、高名な教授のもとで医師としての第一歩を踏み出した――

しかし、とある少年との出会いが、彼の人生を大きく歪めた。
少年のかけた(まじな)いであり、(のろ)い。

人の内臓が見たい。

偏執的な感情が渦巻くのを、彼は必死に抑えつけた。
能力で脳を自ら弄り、制御し、抗った。
幼いころの憧れと理想で、荒れ狂う異常な欲望に立ち向かった。

その結果、彼は――
何が大切だったのか、わからなくなった。
なぜ医師を志したか、わからなくなった。
どうすればいいのか、わからなくなった。

そして、彼は静かに病院を去った。
もう自分に、真っ当に人を救うことはできないことを、冷静な脳が悟ったからだ。
自分の感情がわからなくなってしまった彼の拠り所は、狂った理性しかなかった。

裏の世界に足を踏み入れた青年が、殺人鬼になるまでにそう時間はかからなかった。
哀れな被害者(かんじゃ)の内臓を眺め、撫で、愛でた。
その一方で、医師であることを捨てきれなかった。
傷付いた患者(ひがいしゃ)の身体を切り、癒し、治した。
彼が自らの能力に『凶行裁血(トリアージ・ブラッド)』の名を冠したのは、このころだった。

青年は、自分の本当の心がどこにあるのかわからないままに、虐殺と救済を続けながら彷徨った。
不意に現れては、その場の死と生をないまぜにする姿から、彼はいつしかこう呼ばれた。

Dr.Carnage(虐殺医師)』と。

――そんな中。気まぐれに救った人物に気に入られ、彼は池袋の廃墟街に己の城を得た。
その代償として、彼は『NOVA』と呼ばれる裏サイトの『調整者』となった。
刺激的なコンテンツの提供、敵対勢力の殲滅、顧客の往診。
彼にとっては、内臓を眺める機会さえあればそれで良くなっていた。

そして、彼は狂気の宴に参戦した。
餌におびき寄せられた参加者の中で、特に『NOVA』にとって危険とみなされた者を
密かに狩るための番人として。

殺された者に伝播し延々増殖する『アンバード』。
認知されただけで恋に狂わされる『博しき狂愛』。
表の顔によって権力を動員できる『ドクター』。
宇宙人の存在を周囲に押し付ける『外宙躯助』。

彼らを前に、青年は『NOVA』の期待通りの働きを見せた。
ショッピングモールを廃墟に変えながら、生還した。

そして――今日。
他者の記憶を読む『オムニボア』を標的として、殺し合いに挑んだ彼は――

『オムニボア』に首を絞められ、あっけなく死んだ。

大志を失った闇医師にふさわしい、お似合いの末路だった――



エンドロールが流れ始めた銀幕を前に、医師は微笑みを崩さなかった。
対照的に、隣の青年は身体を興奮気味にゆすり――懐から、光る刃物を取り出した。

「……けるな」

青年が、隣の客にナイフを突き立てる。
心臓に、眼窩に、手足に、全身に、何度も何度も。

「ふざけるなッ!!! 君はッ、なんて―― なんてことをしてくれたんだっ!!!」

左腕の欠けた青年――樫尾猿馬は。
紅衣をさらに赤黒く染めた客――水崎紅人を見下ろしながら、激昂した。

紅人は薄笑いを浮かべたまま、何も答えない。

他人の走馬灯を『物語』として上映する魔人能力『ソーマの幻灯』。
この空間は樫尾猿馬――『オムニボア』にしか知覚できぬ、ひそやかな心の劇場である。
客席に座るのは、被害者の生命の残滓でしかないものだ。
だからたとえ相手が猿馬をどれほど傷つけようとも、苛もうとも、殺そうとも――現実は何も変わらない。

だが、今回は。
『物語』を堪能したはずの猿馬が激昂し、紅人の幻影を無惨に霧散させた。
もちろん、その行いもまた現実に何も影響しない――
水崎紅人が扼殺されたという、揺るぎない事実は変わらない。

ではなぜ、オムニボアはDr.Carnageを再度殺すような真似をしたのか。

~~~

時計の針は、少し前に巻き戻る。



池袋の片隅――
再開発と時代の進歩に置いて行かれた一角に鎮座する、レトロな空気を纏った小さな劇場。
そこは池袋中で多発した事件の喧噪からも切り離されたかのように、静寂に包まれていた。
客席には両手で数えられるほどの人影しかない。

いよいよ上映が始まろうかというそのとき、劇場の扉が勢いよく開けられ――
小さなボンベ缶が、劇場の中に転がった。
ボンベは中の気体を勢いよく噴出しながら銀幕の手前まで転がっていく。
直後、咳とくしゃみと激痛に悶える観客の悲痛な声が響いた。

ボンベの中身は催涙ガス――暴徒鎮圧用の、非殺傷性兵器である。
殺人鬼が使う武器としては頼りなく見えるが、狙いは殺すことではない。

無反応の者をあぶり出すため(・・・・・・・・・・・・・)、である。

客のうち二人が座席を立ち、くるりと振り返る。
二人とも長身で、外套と思しき紅い服をまとった青年である。

二人は示し合わせたように、扉を開いた張本人の元へと駆け出す。
だが、ガスマスクを装着した乱入者は落ち着いた様子で、さらに何かを投げつける。

ぱりん、と薄いガラスが割れる音と同時に業火が二人を包む。
モロトフ・カクテル――火炎瓶が直撃した。

劇場の入口付近が炎と煙に包まれ、その直撃を浴びた二人の青年と思しき人影が動かなくなる。
スプリンクラーが作動し、劇場内を外と同じ土砂降りに変えたが――焼けた人体が再び動くことはなかった。
タンパク質の熱変性により、血液操作をもってしても関節が動かせなくなったからだ。

ひゅん、と最前列の客席から紅いメスが飛来する。
乱入者は左腕で(・・・)メスをはたき落とす――
金属同士が激突する高音とともにメスが弾かれ、近くでうずくまっていた老人の後頭部を貫いた。

乱入者――『オムニボア』が、メスの飛来元へと迫る。
同じ方向から紅い液体の入った注射器が襲い来るが、オムニボアは荒々しく左腕を叩きつける。
注射器は床にぶつかって割れ、中の液体がスプリンクラーからまき散らされた水に混じって流れた。

間髪入れず、さらにメスが飛来する。
オムニボアは足元でのたうつ婦人の襟首を右腕で引っ張り、生きた盾にする。
メスはそのまま盾に突き刺さり、推進力を失って止まる。
びくりびくりと痙攣する盾をそのまま敵の方へ――客席の最前列目掛けて投げ飛ばす。

数十キロの肉の塊をぶつけられ、前に立っていた紅衣の男が倒れる。
男が身体を起こそうとしたところに、獣じみた瞬発力で迫ったオムニボアが
左腕――昨日の戦いで失った部位に、突貫で取り付けた義手――を最大速度で叩きつける。
ぐしゃり、と男の頭が過熟した柿のように潰れる。
直後、オムニボアは訝し気な表情を浮かべて、入口側へと振り返る。

客席の中央、咳き込んでうずくまっていた男――
今となっては客席唯一の生存者となった人物が、身体を起こした。
その表情は、ガスマスク(・・・・・)に覆われて伺えない。

「……ああ、そういえば貴方は殺した相手の記憶を読み取るのでしたね。
 そちらの方には事前に予防接種(・・・・)を施しておいて、私の代役を務めてもらっていました」

催涙ガスがスプリンクラーの水に洗われ、効果を失ったのを見計らい、紅衣の青年がマスクを外す。
水崎紅人――『Dr.Carnage』は、新たな来客者に向けて大仰しくお辞儀をしてみせた。

「その様子ですと、私の招待状(・・・)は受け取っていただけたようですね……いかがでしたか?」

樫尾猿馬――『オムニボア』は、青年の問いに、ガスマスクの下で笑みを零しながら答えた。

「――うん、なかなかいい物語(・・・・)だったよ」

~~~

時はさらに少しだけ巻き戻る。

「……というわけで、貴方にお願いをしたいのはただ一つ。
 『オムニボア』に伝言をお願いしたいのですよ。
 この先の小劇場で待っている、と」

紅人は目の前の『殺人鬼』に向けて、淡々と告げる。
話しかけられた男の手首には注射痕――既に『予防接種』が済んでいる。
紅人の血液が、体内から男の動きを封じていた。

『NOVA』が昨日より開催した、殺人鬼の宴。
名だたる殺人鬼が殺し合う、血で血を洗う狂宴。
最も多く、最も強く、最も酷く殺した者に褒賞が与えられる――
『殺人鬼ランキング』に載っていない者たちも、この機に乗じて活動している。

そんな、ランキングの端にさえ乗らない端役の男は――後悔していた。
初戦で負傷、疲弊した相手狙いの漁夫の利作戦はあえなく失敗し、怪しげな注射を打たれて
もはや目の前の男に逆らうことすらままならない。

『Dr.Carnage』――血液を媒介に万物を支配する、紅き医師。
『ランカー』との格の差を思い知り、もはや男の心は折れかかっていた。

「……ああ、怯えなくても構いませんよ。言ったでしょう、伝言を頼む、と。
 それさえ終われば貴方は退院(ようずみ)ですから、ご安心を」

紅人は殺気を感じさせない、穏やかな口調で患者に告げた。

「伝言が終われば、それこそ貴方の好きなようになさってください――
 『オムニボア』も、ランカーの一角ですから……貴方の野心を満たすには十二分かと」

金縛りにあったように棒立ちの男に背を向け、紅人は惨劇の上演準備をするべく
劇場へと足早に去っていった。
紅人の姿が見えなくなると同時に、身体に自由が戻った――どころか、活力が湧き上がるような感覚を得た。
折れかけた心に、再び野心の炎を燃やし――男は『オムニボア』を探しに向かった。

……実際は、去り際に紅人が脳内麻薬の分泌量を制御して精神を高揚させたに過ぎないことを、男は最期まで気づくことはかった。
そんな哀れなエキストラの『物語』を読み終えたオムニボアは、期待に胸を躍らせて
招待状を受け取ったのだった。

~~~

そして、二人の『ランカー』は、死の匂いが漂い始めた小劇場で出会った。
樫尾猿馬(オムニボア)水崎紅人(Dr.Carnage)が相対すると同時に――上映開始のブザーが鳴る。
二人の人でなしの競演にして狂宴が始まる合図――

そんな緊迫を破るように、銀幕に、映像が映し出され――音声が館内に響く。

『“水崎紅人の生涯”
 今回は、殺人鬼『Dr.Carnage』こと、水崎紅人の生涯を紹介します』

抑揚があまりなく、どこか間の抜けた、女性のような機械音声。
世間一般には『ゆっくりボイス』という名称で知られる声が流れる。

「……?」

オムニボアは訝しんだ――だが、銀幕に見入っている場合ではない。
目の前の紅き医師が投擲したメスを、鋼の左手で払い落とす。

『水崎紅人、彼が医師を志したのは11才のことでした。
 家族旅行の事故。幸か不幸か、生き残ったのは紅人だけでした』

銀幕には、無料素材と思しき画像の切り張りと、セリフと同じ字幕が映し出されている。
オムニボアは、一瞬銀幕に目をやり――青ざめた。

「おや、上映が始まったようですね」

紅人は手近な席に腰かけると、オムニボアを無視して鑑賞を開始した――
殺し合いの最中とは思えない、相手を挑発するかのような行動に
オムニボアは、しかし……紅人には向かわず、映写室の方へと駆け出す。

座席の間を駆け抜けようとしたとき、右足に激痛が走り、前に転ぶ。
咄嗟に右腕でつんのめる身体を支える――

宇宙金属・カルガネ製のワイヤートラップが、オムニボアの右足に深い裂傷を刻んでいた。
すねと足首の境目が深く傷付き、血が水溜りに溶けていく。

「上映中に、劇場を走り回ってはいけません――最低限のマナーですよ。
 ……まあ、それを言うなら、上映中にしゃべるのも良くないですね」

『努力を重ね、医師として歩み始めた紅人。
 しかし、ある日、彼は奇妙な衝動に気づきました。 ……内臓が見たい』

無機質な音声が語り続ける。

オムニボアは態勢を整え直し、左腕を上方に向ける。
その内部に仕込まれた単発式グレネードを発射し、映写室を狙う――!

「……上映中はモノを投げないことです」

刹那、オムニボアの足元のワイヤーがしゅるりと動き――
グレネード弾の行く手を巨大な金属壁が遮る。

着弾したグレネードは小さな爆風を生むが、金属壁は壊れない。
炸裂を凌いだ金属壁は縮こまって、極細のワイヤーで繋がった水崎の手元に戻っていく。
紅人はカルガネをメスの形に戻すと懐にしまいこみ、事もなげに映像を見続ける。

『紅人は大学病院を出奔し、裏の世界――
 人を勝手に治しても殺しても平気な世界に飛び込みました』

オムニボアが、紅人のほうへと向き直る。
目の前の殺人鬼を排除しない限り、上映中止は叶わぬと悟った。

ここが劇場である以上、何かが上映されていることは本来ならば何の問題もない――
殺人鬼同士の殺し合いに影響を与えるはずがない、背景の情報に過ぎないはずだった。

だが、オムニボアにとってはそうではない。

客席のど真ん中で堂々と座る『Dr.Carnage』が、映写室をジャックしてまで流すチープな映像。
己の名と生涯を簡潔に並べ立てた、自己紹介というのもおこがましい出来の作品。

――水崎紅人の人生を題材にした『ファスト映画』である。

「…………!」

オムニボアが苦々しい表情をガスマスクの下に隠しながら、紅人に向かって踏み切る。
足の怪我を感じさせるどころか、手負いの獣じみた獰猛さで一気に間合いを詰め――
重量のある左腕で、前の客席の男同様に頭を狙う大ぶりのフックを放つ。

「座席を蹴らない、殴らない――まったくマナーがなっていませんね」

紅人が席から転がるように離れると同時に、客席が殴られひしゃげる。
紅人はカルガネを変形させ、大型のメスへと変えて隙をさらしたオムニボアの下腹部目掛けて振るう。
オムニボアが咄嗟に左腕を戻し受けるが、その瞬間カルガネが処刑槌じみたハンマー型に変形し
即席の腕を粉々に粉砕した。
その間も、三流以下の映画は流れ続ける。

『たくさんの患者を治し、被害者を殺した紅人は、NOVAと呼ばれる裏サイトの
 番人として雇われ、さらに多くの内臓に触れあいました』

だが、そのダメージを意に介さず、オムニボアは自前の右腕を伸ばし、紅人に肉薄する。
――野獣の膂力の腕が、紅人の首を捉えた。

「ぐ……っ!」

頸動脈の位置を的確に押さえ、気管を潰す。
馬鹿力で首を抑えられた為に、重量を増したカルガネを支えきれず取り落とす。
そのまま勢いに任せて頸椎を砕こうと、オムニボアが右腕に力を込めた瞬間――
映画がクライマックスを迎えた。

『こうして、水崎紅人は――
 オムニボアに、首の骨を折られて死んでしまいました。 おわり』

首の骨が折れる効果音が、スピーカーから響くと同時に――
オムニボアは、腕に込める力をわずかに緩めた。
その隙をついて紅人が、途絶えかかる意識を振り絞ってオムニボアを引き剥がそうとする。
前で死んでいる頭の潰れた死体が、むくりと起き上がりオムニボアの方へと駆けつける――

だが、それよりも先に。
かくりと紅人の身体から力が抜け――
オムニボアに向かっていた死体が、突然ドサリと倒れ込んで動かなくなった。

水崎紅人の心臓が、止まった。
『ソーマの幻灯』が、水崎紅人(Dr.Carnage)の人生を『物語』へと編纂する――

「……」

オムニボアの目には、失望と怒りがこびりついていた。
これから見る『物語』は――あらすじをもう見せられている(・・・・・・・・・)
オムニボアにとって、被害者の走馬灯は一度しか見ることができない(・・・・・・・・・・・・・)貴重な『物語』である。
その初めての興奮が――奪われた。台無しにされた。

オムニボアは、同じ物語を再度見ることに何の価値も見出していない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

それでも、動き出した以上は、映写機は止まらない。
『ソーマの幻灯』は、オムニボアを幻想の空間へと誘った――

~~~

そして、時は冒頭に戻る。

からからと、映写機の回る音がする。
数瞬の後、銀幕に映し出されたのは幼い少年――医師の幼少期の姿だった。

~~~

『ソーマの幻灯』が映し出す走馬灯の上映会は、現実時間に何の変化も与えない。
現実世界の何かが変化することも、決してない。

水崎紅人の『物語』が終わった後――
オムニボアは、掴んでいた紅人の身体を雑に取り落とした。

怒りや無念、という段階を過ぎ去り――オムニボアは絶望していた。
これだけの『物語』であれば、もっともっと語るべき感想はあったはずだ。
だが、青年は呆然としたまま、しばらく動けなかった。

ネタバレを食らった青年ができた抵抗は、エンディングの改変程度だった。
首の骨を折って、楽に死なせるのではなく。
気道と頸動脈を締め落として、少しでも長く苦しめて殺す。
……だからどうした、程度の違いでしかないとはわかっていても。
紅人の仕組んだ筋書きをなぞることだけは、どうしても我慢ならなかった。
人の人生を『物語』として眺める雑食(オムニボア)たる男の、ささやかな拘りだった。

粗末な駄作の上映も終わりを迎え、エンドロールが流れる中……
静けさを取り戻した劇場を、出口に向かって力なく歩く。

決まり文句を言うことなく、オムニボアは劇場の扉を開いた。

樫尾猿馬(オムニボア)は、この日初めて――『いい物語』を見ることができなかった。











+ 「おや、NG集も見ずに帰るんですか?」

「おや、NG集も見ずに帰るんですか?」



オムニボアは驚愕した。
声のほうへと、思わず振り返る。

『ソーマの幻灯』が発動したということは、相手は死んだはずだ。
覗いた記憶はまぎれもなく、水崎紅人本人のもの。身代わりではない。

ならば、なぜ。
縊り殺したはずの水崎紅人(Dr.Carnage)が、立ち上がっているのか。

「……貴方の能力が、殺した相手の記憶を読み取る能力だとわかっていましたからね。
 お望み通り、一度死んで差し上げたんですよ――
 貴方が首を絞めたと同時に、自ら心臓を止めて(・・・・・・・・)

「……!」

オムニボアが戦慄する。

オムニボアが紅人の首を絞め上げ、その結果心臓が止まった。そう思った。
オムニボアが紅人を『殺した』と認識したから、(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)走馬灯は上映された。
その後で、紅人は自らの『凶行裁血(トリアージ・ブラッド)』で再度心臓を動かしたのだろう。
ならばこの復活劇もありえない話ではない……だが。

「――バカな。 そんなの分の悪い賭けじゃあないか……!
 僕が首を絞めるなんて、わかるはずがない」

「いえ、見当はつきますよ。
 貴方が私を殺すなら、絞殺……あるいは扼殺を選ぶ、とね」

冷静さを失いつつあるオムニボアに対し、黄泉帰りの医師が淡々と告げる。

「貴方の昨日の殺しぶりを見るに、貴方は私の情報を十全に得てくるだろうと考えました。
 だから、私を迂闊に出血させるような殺し方は絶対にしない。
 この時点で斬殺も刺殺も銃殺も、慎重になるなら撲殺も避けるでしょう」

前日のショッピングモールではアンバードによる撲殺狙いの戦術が取られたが――
当たり所次第では外傷がつき、出血する可能性を考えれば百点満点とは言い難かった。
ただし、アンバードの場合は数の暴力という要素もあり、凶器に血液が付着した程度では
状況をひっくり返し切るのは困難だったということもあって、有効な戦略たりえた。
だが、一対一の戦いでは凶器の制御を失うのは致命的な隙になる。
そのことはオムニボアも把握していたからこそ、使い切りの武器を中心とした戦術を組み立てていた。

「私に外傷を与えない前提なら、毒殺が次に浮かびます……が、その場合も
 殺傷性ガスのような無差別に複数人を巻き込む兵器は使わない、と踏んでいました」

紅人の続く言葉に、オムニバスの額に冷や汗がにじむ。

「貴方の能力ですが、おそらく『一人ずつ』殺さないと、読み取る記憶が混線する(・・・・・・・・・・・)んじゃあないですか?
 貴方の殺しの記録を漁りましたが、少なくとも爆殺や毒殺などで複数名を同時に殺す場面は
 一つもありませんでした。もちろん、披露していないだけかもしれませんが……
 雑食(オムニボア)と謳われた貴方の殺しに、複数同時の殺戮が一度もないのは、あまりにも偏り過ぎている。
 偏食(ピッキーイーター)もいいところだ」

「ぐ……っ!」

オムニボアが言葉に詰まる。
己の二つ名を否定されるような皮肉もそうだが、紅人は己の能力の欠点まで言い当てている。
昨日の騒動で(にのまえ)母偶数(まざーぐーす)によって明かされて、わずか数時間のうちに
能力をここまで暴ききられるなど、流石に想定外である。

「複数名を巻き込めない以上、建物ごと爆破だとか、崩落させて全滅というのも却下でしょう。
 あとは先程、身代わりにやってみせたような焼殺――しかし、これも『血液』という
 緊急の消火手段を持つ相手には選びづらいでしょうし、そもそも火事になれば
 先の通り同時殺戮になってしまう。そうなれば残る手段は絞殺、扼殺くらいしかありません。
 賭けに出たとすれば、首をそのまま力任せに折って殺す可能性があったくらいですかね」

「……あ、っ……!」

オムニボアがさらに狼狽する。
そうだ、首をへし折ることはたやすくできたはずだ。実際にそのチャンスはあった――
水崎紅人が無防備にも首を晒し、それをがしりと掴んだのだから。
そして実際にそうしようとした、にもかかわらず。
そうしなかった理由は、ただ一つ――

「だから、あの映像……ネタバレ……」

「……ええ。首をへし折られて死ぬ、というオチまで同じ『物語』を
 貴方は絶対に忌避するだろうと考えたので、ね」

上映されていたファスト映画の狙いは、二つ(・・)あった。
一つは、オムニボアの目的を台無しにするため。
もう一つは、殺害方法を誘導して生還するため。

「貴方が真に雑食(オムニボア)であれば、殺せていたんですよ。
 貴方にとって殺しは手段でしかなかったのですから、選ぶべきではなかった」

紅人の言葉に、オムニボア――樫尾猿馬は膝をつき、崩れ落ちた。

「う、う――  ……う、ふふ」

暫しの嗚咽の後、猿馬は――おかしそうに、清々しそうに笑った。
その豹変ぶりを、紅人は表情を変えずに見つめる。

「…… ありがとう。君には心から感謝しよう」

猿馬の瞳は、爛々と輝いている――いくばくかの狂気を秘めて。

「僕は『物語』を読むために殺してきた――だからわからなかったんだ。『殺意』というものが。
 でもやっと理解できた。 ……今、こんなにも君を殺したいと思ってる」

猿馬は立ち上がると、右腕に力を込める。
痛々しい傷跡の残る顔を引きつらせるように歪めて、笑う。

「もう君の『物語』は観終わった――だからここからは」

唯一の目的をめちゃくちゃにした相手への憎悪を、まるごと殺意に変えて
全身を手負いの獣の如くに躍動させ、紅人に迫る。

「僕が! 僕の意思で! 君を殺すッ! 殺してやる、Dr.Carnage!!」

それは、樫尾猿馬が本当の意味で『殺人鬼』になった瞬間だった。



――惜しむらくは。それが、遅すぎたということだ。

「……え?」

猿馬の足の筋肉が、突然痙攣を始め――思い切り前へとつんのめり、倒れる。

「……『殺意』を自覚できたのは、何よりです。
 ですが、僭越ながら申し上げるなら…… いちいち宣言するようではまだまだです」

紅人がしゃがみこみ、倒れ込んだ猿馬に目線を合わせる。
猿馬は起き上がり、飛びかかろうとするが――身体が言うことを聞かない。
猿馬が身体をひねり、足元を見ると――

――血と水が混じった液体が、猿馬の足首の傷に逆流していた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

「え?」

凶行裁血(トリアージ・ブラッド)』。
紅人の血液が付着、混入したものは全て紅人の意のままに操られる――

「私の血液が混じった以上、スプリンクラーの水も対象です。
 当然その水自体も血液が混じっていますから、貴方の血管に侵入すれば……
 ああ、説明の必要はないですよね? さっき私の記憶を読んだのですから」

「ま、待て! そもそもおかしいだろ、こんな薄まった、微量の血液で――」

「“樽いっぱいのワインにスプーン一杯の汚水を注げば、それは樽いっぱいの汚水になる”――
 なら、私の血液が少しでも混入したなら、それはすなわち私の血液も同然でしょう?(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 少なくとも、私はそう認識しています(・・・・・・・・・)

「……認識……ッ!」

魔人能力の基本は『認識』すること――その『認識』を押し付けること。
奇しくも昨日、猿馬は六人の姉妹(パンク・キャノン)の『物語』から、それを学んでいたはずだった。

「き、昨日の戦いでは、スプリンクラーで――」

「ああ、アレですか? ……配信されるとわかっている殺し合いで、初戦から切札全部を切る殺人鬼はいませんよ。
 それにあのときは『ストックホルム』が警備室に迫ってましたから、やむなく操作を中断したまでです」

紅人は猿馬の質疑に一つ一つ、犯人を追い詰める探偵のように、丁寧に応答していく。

「……そもそも、私のお喋りを黙って聞いていた時点で『殺人鬼』としては甘すぎますよ。
 貴方が本当に『殺意』を理解したのなら、遅くとも私が起き上がった時点で殺すべきです。
 それか、トドメを執拗なほどに刺す、とかね」

「ぐ、ぐ――」

紅人の言葉に、猿馬は悔しそうに唇を噛む。言い返せない。
猿馬にとって、殺人は物語を読むための手段であり、他人は物語を抱えた宝箱でしかない。
……だから、考えもしなかった。死体を念入りに殺す(・・・・・・・・・)ということを。

「――さて、魔人能力について理解を深めたところで問題です。
 今から貴方が、自身の胸をメスで切り裂いた場合――
 それは『自殺(・・)』ということになるのでしょうか?」

紅人は懐から真紅のメスを一本取り出して、猿馬の右手に握り込ませた。
猿馬の顔が青ざめ、引きつる。

――水崎紅人(Dr.Carnage)は、樫尾猿馬(オムニボア)を自らの手で殺させるつもりだと気付いたからだ。

「詭弁だ……! お前が殺すんじゃないか、『Dr.Carnage』!
 これは自殺なんかじゃあ――」

「そう『認識』して、私にむざむざ殺される哀れな獣で終わるのですか?
 それとも、『殺人鬼』オムニボアとして死んで己の『物語』を締め括るのか。

 ……すべては貴方の『認識』次第ですよ、雑食(オムニボア)さん?」

「……!!」

紅人が猿馬に微笑みを向けた瞬間、猿馬の右腕が胸元に向かい――

~~~

そして、映写機は回り出した。

~~~

男は、心というものがわからなかった。
幼いころから、周りとうまく関われず、トラブルばかりだった。
男は心がわかるようになりたいと願いながらも、それでもうまく他者と関われなかった。

両親は男の将来を憂い、さまざまな手を尽くしたが、いずれも男には響かなかった。
何人目かのカウンセラーの勧めで、映画を見ることになった。
共感性を養うとかどうとか言っていたが、興味はなかった。

結果として、彼は映画に魅了された。
多くの人間の生き様が影響しあい織りなされる『物語』に強く惹かれた。
人の心が生む様々な善と悪に、興味をそそられた。

それでも、人の心はよくわからなかった。

そしてもう一つ、困ったことがあった。
一度見た物語に、彼は魅力を感じなかった。
最初に見た時に気に入ったはずの作品を、もう一度見返すと――
とたんに、つまらなく色褪せて見えた。
細かい所の粗を目が追いかける。既にわかっている展開に飽きてしまう。

男は、次から次へと新たな物語を求めた。
もっと個性的で、新鮮な物語が見たい。
作り手の生命が、心が感じられるような、最上の物語を――!

その想いが、彼を魔人へと押し上げた。
それに気付いたのは、たまたま飛んできた羽虫をはたき殺したときだった。
――『ソーマの幻灯』と呼ばれるようになるその能力は、彼に新たな興奮を与えてくれた。
陳腐な動物ドキュメンタリーでは味わえない、生き物の誕生から死までの生々しさ。

男は、この時初めて、心の底から感動できたような気がした。

より濃密な物語を見るために、
より良質な物語を見るために、
より新鮮な物語を見るために――

やがて対象は虫からウサギになり、ウサギから野犬に、野犬から猪に――
人間に辿り着くまでに、時間はそうかからなかった。

最初に見た『人間の物語』は、男の両親だった。
父親が自分を疎み始めていたことも、母親が最後まで男の将来を憂いていたことも
みんな物語が教えてくれた。

それでも、心はわからなかった。
わからないなりに、模倣することはできた。
物語を何本も、何十本も観ていくうちに――それらしい言動と知識だけは身についていった。

繰り返すうちに、男は他人を人間として見なくなった。
彼にとって人間は消費財であり、消耗品であり、消え物だった。
見ればなくなる、殺せばなくなる、けれども巷に溢れて尽きることはない宝物――

やがて、男は他者からこう呼ばれ始めた。
雑食(オムニボア)』――殺しに美学を持たない、華のない殺人鬼。

男は、侮蔑を込めたその呼び名を、喜んで受け入れた。
他人に自分が認知されたことで、人と関われたような気がしたからだ。
だから男は、オムニボアの名を掲げてさらに『物語』(オムニバス)を見続けた。

男は気づけなかった。
どんなに『物語』を見ても、それを自分の中に蓄積し、咀嚼できなければ……
本当の意味で己を豊かにしてくれることはないのだ、と。

怒りの物語。孤独の物語。喜びの物語。愛の物語。
どんな物語を見ても、それは一過性でしかなかった。

未知の物語であることにしか価値を見出さなかったが故に。
男は、あれほど知りたがっていた『心』からどんどん離れていった。
名もなき羽虫の生涯に感じたものが『心』などではないと気付けなかった。
どこまでもそれらしく、しかし本物ではない『心』を抱えたまま――

こうして、人を『物語』として消費し続けた愚かな男――樫尾猿馬は。
己の人生を豊かにすることなく、死んだ。




エンドロールまで見終えた猿馬は、静かに目を閉じた。
自分以外誰もいない、自分だけの聖なる領域で――

感想を語り合う者は誰もいない。
故に、彼は無言で己の物語を味わい――

「――うん、いい物語だった」

誰にも聞こえない声で、そう呟いた。

~~~

「……え?」

猿馬が目を開けると、そこはまだ劇場の中だった。
違うことといえば、周囲に薄いテントらしきものが張られていることと、
自分で切開したはずの胸が丁寧に縫われていたことだ。

「ああ、目が覚めましたか?」

傍らで、水崎紅人が手術着に装いを変えて微笑んでいた。
周りを見回すと、血の付いたガーゼやら手術道具が転がっている――
どうやら、心停止に至った自分を、手術して蘇生させたと見て間違いない。

だが、猿馬にはわからない。なぜ生き返らせた?
そんな困惑をよそに、紅人は機嫌のよさそうな声で話しかける。

「ご自分の『物語』を確認できたようですね。何よりです。
 ……ところで話は変わりますが『記憶転移』という言葉をご存じでしょうか?」

記憶転移? 聞きなれない言葉に、猿馬は首をかしげる。

「心臓移植を受けた人物の趣味や嗜好が、心臓の持ち主に影響されるという説ですが……
 大量輸血を行った場合にも、稀に起こるとされています。
 まあ、医学的根拠はいまだありませんが……」

……何かがまずい。猿馬の本能が警告を鳴らす。これ以上こいつの話を聞くな。
紅人の言わんとすることを理解せぬよう、猿馬は術後間もない身体に鞭打って
上体を起こし切り、身体を捻って手にしていたメスを紅人へ――

「……人が話しているときに、刃物なんて振り回さないでくださいよ」

向けられたメスは、再び猿馬の胸に吸い込まれるように突き刺さった。

~~~

男は、心がわからなかった。
幼いころから、周りとうまく関われず、トラブルばかりだった。
男は心がわかるようになりたいと願いながらも、それでもうまく他者と関われなかった。

もう見た。

結果として、彼は映画に魅了された。
多くの人間の生き様が影響しあい織りなされる『物語』に強く惹かれた。
人の心が生む様々な善と悪に、興味をそそられた。

それでも、人の心はよくわからなかった。

……もう見た。つまらない。飽きた。

人の内臓が見たい。

やがて対象は虫からウサギになり、ウサギから野犬に、野犬から猪に――
人間に辿り着くまでに、時間はそうかからなかった。

哀れな被害者(かんじゃ)の内臓を眺め、撫で、愛でた。
その一方で、医師であることを捨てきれなかった。
傷付いた患者(ひがいしゃ)の身体を切り、癒し、治した。

男は気づけなかった。
どんなに『物語』を見ても、それを自分の中に蓄積できなければ
本当の意味で、己を豊かにしてくれることはないのだ、と。

……もう見た、はずだ。何かが、おかしい。

こうして、人を『物語』として消費し続けた愚かな男――樫尾猿馬は。
己の人生を豊かにすることなく、死んだ。

~~~

「……!? ハァーッ…… 」

猿馬の意識が覚醒する。
自分の物語が再度上映された……否、一部がなぜか不鮮明になっている。
まるで何かに上書きされたように(・・・・・・・・・・・・)――

「どこまで話しましたかね……そうそう、血液です。
 先程申しましたように、私の血が一滴でも混じればそれは全て私の血液です」

紅人の口調は、徐々に喜色を帯びてきたように聞こえる。
猿馬は混濁した意識を揺り起こしながら、必死に抵抗をしようとする。
やめろ。それ以上無駄口を叩くな。聞かせるな。

「だから今、貴方の体の中の血液は全て(・・)私の血液ということになりますね。
 手術中に輸血した分も私の血液ですので……ああご安心を、血液型の不一致は気にしないでください。
 血液型くらい操作できますから(・・・・・・・・・・・・・・)、拒絶反応は出ませんよ」

やめろ、もういい、喋らないでくれ。
お前の話を『認識』したら、マズいことが起こることだけはわかる――!

「さて、あなたが今見た記憶(ものがたり)――
 もしかして私の記憶(・・・・)が混ざっていませんでしたか?」

ぞくり。
猿馬の血の気が引く――

そして、三度目のリバイバル上映が始まった。

~~~

男は、心がわからなかった。
幼いころから、周りとうまく関われず、トラブルばかりだった。
男は心がわかるようになりたいと願いながらも、それでもうまく他者と関われなかった。

もう見た。

……だが、家族は助からなかった。遅かった。
自分一人だけ生き残った少年は、自分を責めた。
もう少しだけ力をうまく使えていれば、救えたかもしれない。
もっと自分に知識と技術があれば、蘇生できたかもしれない。

もうその『物語』は観終わったんだ。

空しい筋書きだ、と私は思った。
これは、空回りの物語だ。
人間でないものが人間になろうとして、なりそこねた話だ。

自分が人間たりえないと理解したのなら、動物として命を繋ぐだけならば。
人里から離れて狩猟なり採取なりをすればよかったのだ。

ハンマーで砕き、粉末にする。
それに、わたしたちは、自分たちの指の骨を混ぜた。
アイと一緒になるために、アイを世界に刻むために、それが一番自然だと思ったのだ。

わたしって誰だ? この『物語』は、ちがう、なぜだ

男は、侮蔑を込めたその呼び名を、喜んで受け入れた。
他人に自分が認知されたことで、人と関われたような気がしたからだ。
だから男は、オムニボアの名を掲げてさらに『物語』(オムニバス)を見続けた。

そうか。そうだ。走馬灯だ。

今まで見た物語が、走馬灯として(・・・・・・・・・・・・・・・)――

のし上がれると夢を見た。
ランキング最下位なら殺せると思った。間違いだった。
俺の身体が倒れるのを俺が見てて、ああ首を斬られたってわかっちまった。

初任給で、湯呑を買った。
オヤジみたいな、渋くて武骨で、飾り気のない湯呑だ。
この間、長年使ってた湯呑を割ってしまって大分へこんでたからなあ。
代わりにならないかもしれないけど、せめてもの親孝行だ。

それでも、心はわからなかった。
わからないなりに、模倣することはできた。

孫の顔を見ようと、病院までの道を急いだ。
近道に、人気のない路地に入ると、そこには妙な男がいた。
お母さんにお花をあげるのアイツに今日告白するんだ母が死んで悲しくなった俺はロックバンドを組んで10年寿司がおいしい雨模様の中私も憂鬱ういーんがしゃんと息子がロボットで相棒を自らの手で殺すしかなかったんだいつか優勝するんだと誓ってネタを部長に殴られて耳からコーヒーの本場で修行をした大きくなったら先生のお嫁さんにワンワンワン
娘が結婚相手を連れてきてコピーお願いしますニャー円のお預かりになりますありがとうございまし

~~~

「……ア」

自傷を繰り返し、死に臨んでは、治される。
その度に、自分の『物語』を――否、水崎紅人の『物語』を?
いや、この『物語』は――誰のものだ?

わからない。わからない。わからない。

「やめ、 く れ    こ ろし  ……」

これは物語?それとも現実?
わからない。わからない。わからない。

「嫌ですねえ、医師に向かって『殺して』だなんて。
 第一、私は殺していませんよ。貴方が、貴方自身を、殺しているんです。
 それを、私はただ救っているだけです。医師として、ね」

「…… ……」

オムニボアは、ようやく――
目の前の男が『Dr.Carnage(虐殺医師)』たる所以を知った。思い知った。

そして、樫尾猿馬は。
『オムニボア』であることを、やめた。

「……手は尽くしたんですけどね。残念です」

患者の死を悼むようでいて、心のこもらないセリフを呟いて――
『Dr.Carnage』は簡易手術室の片づけを黙々と始めた。

~~~

数時間後、水崎医院。
『NOVA』のVIPの少女が、黒いフードの下から白い目で紅人を見ている。

「……私が何を言いたいか、わかりますか?」

「わかるわけないじゃあないですか、私は預言者でもサイコメトラーでもメンタリストでもないんですから」

「思い切りオムニボアの心を壊しにいっておいてどの口が抜かすんですか。
 ……そうじゃなくて!
 私たちがオムニボアの抹殺を依頼した理由(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)を忘れたんですか、ってことですよ!!」

ばんばん、と事務机を叩いて不満を示す少女に対して、
紅人はダメージの治療を行う手を休めることなく淡々と答える。

「覚えてますよ、そりゃあ。
 他人の記憶を読む魔人なんて生かしておいたら、NOVAの深部まで知られる(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)――
 社会的立場のある方々にとってマズいことこの上ないですが……それ以上に」

紅人は痛めた首に湿布を張りながら、少女の不服申し立てに答え続ける。

安全圏から殺し合いを眺めている筈の自分たちが危険に晒される(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)――
 オムニボアの動機を考えたら、雲の上の世界の人間たるVIPの方々の記憶は垂涎の的でしょう。
 万に一つ優勝でもされたら賞金と副賞の授与で、どうしても接触が必要になるでしょうから
 そこで襲われない保証は何もない――どころか向こうから細い糸を手繰ってくる危険すらある」

「そこまでわかっているくせに、どうして命を賭けるようなマネしたんですか!
 そのまま先生が死んだら、真っ先にこっちに火の粉が飛び火するんですよ!」

「だから殺して差し上げたじゃあないですか、きっちりと。
 第一、もし最初から何もさせずに殺そうとすれば――オムニボアは察知していたでしょう。
 魔人能力が目的であって、手段でない殺人鬼がここまで生き残っているということは
 それだけ生存能力に、殺戮能力に長けている、ということですから」

紅人が傍らのガラス瓶を開け、中の液体をシリンジで少し吸い出し、肌に塗る。
昨日の成果物たる魔人の心臓を漬けた培養液――
本来の所持者(山中伸彦)の研究成果には遠く及ばないものの、それでも皮膚の擦過傷が少しずつ消えていく程度の効果はあるようだった。

「……理屈ではそうかもしれませんがね。
 というか、オムニボアの能力って『他人の記憶を読む』ことくらいしか
 わかってなかったのに、なんでこんなモン準備できたんですか」

少女が、『NOVA』で配信された戦闘の音声付きアーカイブ(・・・・・・・・・)を見せつける。
通常であれば残るはずが、残すはずがない映像。
それを閲覧できること自体、彼女がNOVAの中枢にいる証左である。
スマホを支える手の人差し指は、銀幕に映る水崎紅人監督作品に向けられていた。

「『他人の記憶を読む能力』を持つ魔人が殺人鬼となったのなら、目的は記憶の閲覧……
 というよりは鑑賞でしょう。どういう形態で観ていたかはわかりませんでしたが、
 殺しのペースを考えれば再読・蓄積が困難であることは想像がつきます。
 では、彼を揺さぶるためにはどうするか? ――先にこちらが開示してしまえばいいというわけです。
 映像と音声を同時に流せる動画なら、受動視聴(ながらみ)させられると思ったのですよ。
 殺し合いの最中に、目と耳を塞げる殺人鬼はいないでしょうから」

「それで自分の過去をわざわざ晒したんですか? 配信されるのわかってて??
 ……やっぱり貴方、大概イカれてますねえ」

「彼は目的のために手段を選ばないからこそ、強く恐ろしい殺人鬼たりえたのですよ。
 だから、目的を崩す必要があった。そのために私も手段を選ばなかった、ただそれだけです。
 ……それこそ、貴方がたが私に求める『役割』のはずですが?」

自己手当を終えた紅人が、服を着直して少女に向き合う。

「皮肉が日に日にうまくなってますね、皮肉だけに」

「言語野の活動は活発そうで何よりです。……お小言は以上ですか?」

「……ええ、このへんにしておきますよ。
 それじゃ、お疲れ様でした! ……今度はもう少し自愛した試合運びをお願いしますよ」

「善処しますよ。 ……ああ、ところで最後に一つだけ質問です。
 おすすめの映画を一つ、教えてください」

「? ……何ですか唐突に。
 えー、一番最近見た映画でいいですか?『ヘンダーランドの大冒険』です」

「……個人的には『ブタのヒヅメ大作戦』の方が好きなんですがね」

「人に聞いておいてその反応はないでしょ。ていうか見てたんですか」

「ええ。私にも少年時代はありましたから。
 それに――いい映画は、何度見ても良いものでしょう?」

「そうですか……んじゃまた明日」

フードに隠れた頬を膨らせつつ、少女は消えた。

「……まあ、今回は――
 同族嫌悪もあったのかもしれませんが、ね」

聞く者がいなくなった診察室で、紅人は独り言ちた。

他人を『物語』としてしか認識しなかったオムニボア。
他人の心を踏み躙るように虐殺を重ねるDr.Carnage。

お互いに他者を顧みない。
お互いに心がわからない。
向こうがどう思ったのかは終ぞ知る術はないが……少なくとも、紅人は写し鏡の中の鏡像としてオムニボアを捉えた。
だからこそ、お互いに相手の醜悪さに過剰に反応してしまったのではないか。

「……結局、私は。
 『心』というものを、ちゃんと知りたいだけなのかもしれませんね」

少女が聞けば鼻で笑いそうな自己診断を終え――
紅人は今日の夕餉を机に広げながら、傍らのタブレットで少女に薦められた映画を流し始めた。


~~~

【虐殺(ぎゃくさつ)】
 むごたらしい手段で殺すこと。


最終更新:2024年06月16日 21:22