インドより伝わる訶梨帝母の話を知っているだろうか。
訶梨帝母は数多くの子を持ち、滋養のために人間の子を喰らう女であった。
これを見かねた釈迦は、訶梨帝母の末子を鉢に隠した。
訶梨帝母は必死に末子を探すも見つけられず、悲嘆の声を上げたという。
釈迦は子を失う親の悲しみを説き、人を喰らわず生きるよう諭した。
かくして訶梨帝母は三宝に帰依し、子供と安産を司る守り神となった。
釈迦が人肉の代わりに食べるべしと差し出したその果実の名は――
池袋、夜の立体駐車場。
付近の店は営業を終え、帰路に着く客すらもういない。
梅雨寒の薄暗闇、非常口に緑色の光が灯るのみ。
その静寂を破るように、キンと金属音が鳴った。
音の出処にカメラを向ければ、わずかに弾ける火花に照らされて、2つの人影が映し出される。
「ああ、これも私が強く麗しく魅力的なせいなのかしら。少しばかり気が逸っていませんこと?大胆なアプローチは嫌いではありませんけれど。せっかくの甘美な飴玉ですもの、噛み砕かずに舐め回したいものですわ」
呑宮流抜剣術”合”にて、見えざる何かと鍔迫り合うはこの女。
呑宮流第25代後継者、呑宮ホッピー。
傘に仕込んだ模造剣は《酔剣》により真剣と化す、今宵の酔いは如何ほどか。
「イヒィ!これを一目で受け止めるなんて!思った通り、”強い魂”だ!マー君へ捧げるに値する魂だ!」
《目むしり仔撃ち》で視覚を封じた警棒を振るい、頭蓋を狙うはこの女。
殺人鬼ランキング堂々1位、柘榴女。
集めたる魂は無辜の死を6つ重ねて96個、悲願なるまであと4つ。
「腕の動きに風切り音、おまけに強烈なその殺意。気付かない方がおかしいのではないかしら?ええ、そしてあなたの言う通り、私は強く麗しい女ですわ。とっても大きな瞳をしていますもの、私の素晴らしさから目を背けることなど出来ませんわよね――」
そう嘯くホッピーだが、握る剣はじりじりと警棒に押され始めている。
技巧の面ではホッピーに軍配が上がるとしても、体躯と膂力の差は如何ともしがたい。
このまま事が進めば、均衡が崩れるのは時間の問題である。
「呑宮流防御術、”流”――」
不意にホッピーは脱力する。
”流”とはその名の通り、敵の攻撃を流す技。
剣の刃に沿って警棒は地面へと流れ着き、柘榴女はつんのめる。
「からの”雷”!」
柘榴女の体勢が崩れるや否や、ホッピーは呑宮流剣術”雷”を放つ。
”雷”とは、稲妻のごとき速さで斬り込む技。
柘榴女の首筋目がけて、迅雷の刃が奔る。
ガキンと激しい音が鳴り響き、ホッピーの剣は弾かれた。
柘榴女が身に纏うは昨夜と同じ、魔人警察が用いる特殊アーマー、その2着目。
《目むしり仔撃ち》が活きるのは攻めのみにあらず、守りにおいても十全に機能する。
「シィィヤァ!」
素早く体勢を立て直した柘榴女は、機を逃さず蹴りを加える。
編み上げブーツの硬い靴底が、ホッピーの柔肌を抉らんと襲い掛かった。
だが、ホッピーも座して死を待つような女ではない。
自ら後方へと飛び退き、迫り来る蹴りの威力を殺す。
両者の間に距離が生まれ、殺意に満ちた視線が交差する。
「ウェフフ!本当に”強い魂”だ!昨日のやつと同じくらい強くて美しい!あぁ、マー君!もうちょっとだからねぇ!お母さん頑張るから、もうちょっとだけ待っててねぇぇ!」
柘榴女は剥き出しの歯茎ごと口元を歪ませ、禍々しい笑みを浮かべた。
瞼のない右眼がぎょろりと動き、今宵の獲物を見定める。
「あなたも昨日は楽しい夜をお過ごしになったのかしら?ああ、でもこの世に私より強く麗しい者などいませんわ。ですから、今日の方がもっと楽しい夜になりましてよ!それにしてもマー君とはどなたのこと?せっかく殺し合うのですもの、あなたのことをもっと知らせてくださいませ――」
絶好の遊び相手を見つけた、と言わんばかりにホッピーもまた笑みを浮かべる。
人形のごとき翠色の瞳を見れば、歓喜と殺意で彩られていることは明らかだ。
「マー君はねぇ、可愛い可愛い私の息子!悪いやつに殺されちゃったけどぉ、キヒヒ、強い魂、美しい魂を100個捧げれば私の元に帰ってくるクルクルゥ!とっても優しい教祖様が教えてくれたのぉ!だからぁ、貴方を殺して”強く美しい魂”を捧げるのさぁ!」
魂を捧げ、息子を現世に蘇らせる。
柘榴女が持つただ1つの行動原理。
かつてカルト宗教の教祖によって植え付けられた妄執は、真理となって柘榴女を支配している。
「ああ、なんとも悲しい過去をお持ちでしたのね。感受性豊かで情け深い私の心に、とても響くお話ですわ。子を想う親の心、なんて美しいお話なのでしょう!ええ、ええ、あなたが息子さんと再会できるように、私も手を貸しましょう――」
ホッピーは芝居がかった口調で、柘榴女に助力を申し出た。
無論、己の魂をただ差し出すなどという真似はしない。
差し出されたのが歪んだ願いなら、贈り返すのも歪んだ慈愛。
「私の絶技で、息子さんと同じところへ送って差し上げますわ!」
ホッピーは、鮫のように笑った。
「おーほっほっほっほっ!このつるぎはせいけんらいとぶりんがー!やみをはらい、ひかりをもたらすでんせつのけんですわ!」
幼い頃から、ホッピーはごっこ遊びの好きな子供であった。
あるときは、光の剣で邪悪な魔王を打ち倒す勇者。
あるときは、魔法の杖で巨大なドラゴンを退治する魔術師。
あるときは、レーザー銃で宇宙より飛来したエイリアンを討伐するスーパーヒーロー。
物語上の役割を替えながら、さまざまな世界を自由に渡り歩く。
誰もが楽しい遊びをいつまでも続けていくのだ、と信じていた。
だが年を重ねるにつれ、周囲の友人たちはごっこ遊びを卒業していく。
「もう子供じゃないんだから」
「そろそろ現実を見ないとね」
そんな声を聞くたびに、ホッピーは思ったものだ。
なぜそんなにつまらない世界を信じ込めるのだろうか、と。
自分は強く麗しく、そんな自分が輝く世界は美しい。
素晴らしい世界の見方をどうして捨てようとするのか、と。
《酔剣》――自分に酔えば酔うほど使う武器の性能が向上する能力。
これはつまるところ、無邪気な子供が、自分で拾った木の棒を伝説の剣にする能力だ。
自分が素晴らしい主人公だと酔いしれるならば、その手には辿るべき運命にふさわしい武器が握られている。
いつまでも、いつまでもごっこ遊びを続けるための能力。
だから、ホッピーはいつでも遊び相手を求めている。
全力で武器を振るっても容易には崩れ落ちぬ相手を。
つまらない世界に我を通す矜持を持った相手を。
殺す価値のある美しい物語に浸る相手を。
柘榴女。
遊び相手として、こいつはこの上ない上物だ。
薄暗闇の中で対峙する両者。
先に動いたのは柘榴女であった。
柘榴女がまず見せたのは、中空にある何かを掴む素振り。
昨夜の神社における戦いを目撃した者であれば、柘榴女の掴んだものが何であるかはすぐ推察できるだろう。
そう、ボーラである。
二つの鉄球を特殊なワイヤーで繋げた投擲武器。
ホッピーを強者と認めるならば、この武器を使わぬ理由はない。
対応できず死ぬならそれで良し、見事対応してみせたなら”とても強い魂”を息子に捧げられる。
言わば値踏みの一投という訳だ。
「シィィ!」
柘榴女は《目むしり仔撃ち》により不可視となったボーラを投げつける。
夜の静けさを纏う立体駐車場に、風切り音が鳴り響いた。
「……鉄球?いえ、ボーラですわね」
事も無げにそう呟くと、ホッピーは身をかがめ、剣を天にかざす。
「呑宮流防御術、”絡”!」
ホッピーは手首を回して剣を動かし、見えざるワイヤーを絡めとっていく。
呑宮流防御術、”絡”。
それは、武器を繊細に操ることで鎖や鞭を絡めとり封じる技。
もしボーラが不可視でなかったならば、両端に鉄球を備えた緩やかな輪が見て取れただろう。
数瞬の後、ホッピーは身を起こし、剣先を床に向ける。
ゴトゴトンと、鉄球が落ちる音が重なった。
「……貴方は本当に強いねぇ……もしかしたら昨日のやつより強いかもしれない……魂を入れるのに一瓶じゃ足りないかもしれないねぇ……」
果たして何がきっかけとなったのか。
やや憑き物が落ちたような様子で、柘榴女の瞳はホッピーを捉える。
目を背けたくなるような狂気は和らいだが、代わりに背筋を凍らすような冷たい視線がホッピーを刺す。
「私を試したおつもりかしら?武器の音を子守唄としてきた私にとって、見えざるボーラを聞き分けるなど朝飯前のこと。あまり舐めないでいただきたいですわね。昨夜の相手がどなたかは知りませんけど、武器の扱いにおいて呑宮流の正統後継者たるこの私が遅れを取るなどということは――」
柘榴女の昨夜の相手、”鬼子”曇華院麗華の操る綾目流が呑宮流に劣るというわけではない。
戦場で呑宮流と綾目流が見えたなら、勝負の行方は使い手の実力と時の運によるだろう。
だが、武器全般の扱いというただ一点に限るなら、呑宮流は綾目流の上を行く。
音楽家がわずかな音色の違いで楽器を聞き分けるように、ホッピーは音のみであらゆる武器を聞き分ける。
「……イヒッ!イヒヒッ!強い!本当に強い!嬉しいねぇ、昨日に続いて大物だぁ!ウヘヘヒィ!」
柘榴女の手には、いつの間にかナイフが握られている。
それも、1本や2本ではない。
息を入れる間もなく、黒の革手袋から数多の刃が投げ出されていく。
投擲されたナイフは、無論目に見えるものばかりではない。
ナイフの群れに身を隠して、《目むしり仔撃ち》で視覚を封じたナイフがホッピーへと襲い掛かる。
木を隠すなら森の中、ナイフを隠すなら当然、たくさんのナイフの中。
「呑宮流防御術、”落”!」
対するホッピーの選択は、”反”ではなく”落”。
呑宮流防御術”反”は、迫り来る武器の軌道を反らし、相手に返し得る技。
しかし、繊細な武器の動きを要するゆえ、不可視の刃を反らすのはホッピーと言えども荷が重い。
見えざるナイフ1つだけというならまだしも、ナイフの群れとあっては反らし損じる恐れがある。
これに対して呑宮流防御術”落”は、飛び道具を武器で叩き落とす技。
相手の喉に刃を突きつけることはできねども、身を守るには大まかな動きで事足りる。
気を張らずに使える技ゆえ、回避行動にも支障はない。
音を頼りに見えざるナイフを避けながら、目に映るナイフを叩き落とす。
「ボーラでもナイフでも同じこと!私に武器で勝とうなど、思い上がりも甚だしいですわよ!いくら投げても無駄ですわ。これなら力任せに殴りかかった方がまだ――。ッ!」
突如、ホッピーの左腿、ドレスが裂け、肌に傷口が開く。
何も見えはしないが、ナイフがそこに刺さっていることは明らかだ。
ああ、これぞ柘榴女の仕掛けた罠。
《目むしり仔撃ち》で聴覚を封じたナイフをまず投げて、すかさず視覚を封じたナイフを投げ加える。
傍目には、姿が見えて音も聞こえる1本のナイフに思えるだろう。
しかし、囮のナイフに対処した次の瞬間、本命のナイフが敵を切り裂く。
武器の音を聞き分けるホッピーとて、迫り来るナイフの群れの前で、ナイフの音が生じる位置を正確に把握することは困難極まる。
不可視のナイフが発する音を、目に見えるナイフのものと間違えても不思議はない。
「――呑宮流剣術、”焦”」
ホッピーは己の足に刺さったナイフを引き抜き、ドレスをめくって傷口に剣の腹を当てる。
素早く引かれた剣の腹は、傷口ごと肌を焼き焦がす。
”焦”は接近戦にて敵を焼く摩擦の技だが、ホッピーは止血の術としてこれを用いた。
「オケ!イヒヒ!当たった、当たったぁ!」
柘榴女は、手を叩きながら嬉しそうに笑う。
それは己の望みが近付く喜び故か、それとも単に狂気が発露した故か。
対するホッピー。
出血は防げども、脚に感じる痛みは避けられぬ。
思いがけない苦痛に直面し、己への酔いは醒めたのか。
「毒も塗られていないようですし、運が良かったですわね。まあ私が穢れた毒ごときで倒れるわけはありませんけれど!あなたがそういう方だと分かったのですもの。ええ、ええ、とても安い買い物でしたわ――」
いや、決して醒めてはいない。
逆境に立ち向かうこのシチュエーションは、むしろ自分に酔うには好都合。
翠色の瞳を爛爛と輝かせながら、柘榴女への認識を改める。
殺人鬼と一口に言っても、そのタイプはさまざまだ。
自らの嗜好を満たすため、殺し方にこだわる者。
名声や金銭のため、殺人行為を喧伝する者。
芸術を表現するため、殺害現場をキャンバスに見立てる者。
そして、常人とは異なる理を持ち、圧倒的な暴力で蹂躙する怪物。
割れた右顔面と狂気じみた言動から、柘榴女を怪物と考える者は多いはず。
だが、実のところ柘榴女はただの怪物ではない。
闇に潜む狩人だ。
腹を減らした我が子のために餌を狩る、知性ある獣だ。
ホッピーは、即座に理解する。
この立体駐車場は、柘榴女の用意した狩場なのだと。
「ああ、私にもっと見せてくださいませ!あなたが何を見せたくないのかを!もっと聞かせてくださいませ!あなたが何を聞かせたくないのかを!」
ひた隠しにするものにこそ、人の本質は眠るもの。
一夜の逢瀬と洒落込むならば、覆われた闇を覗かずにはいられない。
たとえ、おぞましい狂気に触れることになるとしても。
「見せたくない?聞かせたくない?………アアァァァ!マー君!マー君!ごめんねぇぇぇぇぇ!」
ホッピーの問いかけに、突然柘榴女が頭を搔きむしる。
大きな呻きを上げ、顔に浮かぶは紛れもなく後悔の表情。
本人以外には分かりようがない何かが、柘榴女の心の内で渦巻いていた。
マー君、どうしたの?
あぁ、天井の染みがオバケみたいに見えたんだね。
大丈夫、怖くないよ、お母さんが一緒にいるからね。
――ああ、マー君が怖いものを瞳に映さずに済む世界でありますように
マー君、どうしたの?
そうかぁ、友だちに悪口を言われたんだね。
心配しなくても大丈夫、マー君は良い子だって、お母さんちゃんと分かっているからね。
――ああ、マー君が心無い言葉を耳へ入れずに済む世界でありますように
マー君、どうしたの?
うん、お父さんの臭いが嫌なの?
マー君に近付くときにはお酒の匂いがしないように、お母さんが注意しておくからね。
――ああ、マー君が嫌な臭いで顔をしかめずに済む世界でありますように
マー君、どうしたの?
えっ、ピーマンは苦くて嫌いなの?
でも野菜を食べないと大きくなれないよ、細かく切ってあげるから、頑張って食べようね。
――ああ、マー君が苦さを味わわずに済む世界でありますように
マー君、どうしたの?
あっ、転んで膝を擦りむいちゃったんだね。
今すぐ絆創膏を持ってくるから、痛いの痛いの飛んでいけしようね。
――ああ、マー君が痛みに触れずに済む世界でありますように
ああ、全てマー君を守りたかったからなのに。
どうして、あのとき私はマー君を助けられなかったのだろう。
(ママ、タスケテ……)
ごめんね、マー君。
せめて私のこの力で、辛くて苦しいその場所から救ってあげるからね。
《目むしり仔撃ち》――物体から五感のいずれかを封じる能力。
愛する我が子を守るために生まれたその能力は、今や命を奪う非道に堕ちた。
ああ、それでも柘榴女が我が子のために力を振るうことに変わりはない。
愛する息子をこの世に呼び戻すこと、それだけが柘榴女の存在理由なのだから。
柘榴女の呻きは、未だ止まらない。
「あらあら、実に感情豊かな方ですわね。しばらく問いかけは無意味かしら?それなら、武器をたんまりといただいたことですし、私の絶技をご覧に入れましょう――」
ホッピーは、地面に打ち落とした柘榴女のナイフを拾い上げる。
既に能力は解除されており、それらは今やただのナイフだ。
だが、ホッピーが手にしたなら?
《酔剣》――自分に酔えば酔うほど、使う武器の性能が向上する魔人能力。
煌めくナイフの刃は、俄かに鋭さを増す。
「呑宮流投擲術、”廻”――」
ホッピーは左手で掴んだ数本のナイフを投擲した。
それらのナイフは柘榴女には向かわず、ホッピーを中心に緩やかな楕円軌道を描く。
「からの”反”!」
続けて右手の剣が、周回するナイフの刃をなぞり、その軌道を変える。
軌道を変えたナイフの刃先は、別のナイフの刃をなぞり再び軌道を変えた。
ピンボールあるいはビリヤードのように、ナイフは次々と衝突を繰り返す。
反らしたナイフが別のナイフをまた反らす、極めて不規則な投射軌道。
「強く麗しい私が魅せる、かくも美しい剣の舞い!私なりの見えないナイフ、たんとご賞味くださいませ!」
ホッピーの脳内で描かれた複雑なダイヤグラムが、立体駐車場の空中にその姿を現した。
予測不能なナイフの群れが、方々の死角より柘榴女を狙う。
「ァァァ……?ァア?ウェヒ!貴方は強いけどぉ、頭の方は良くないわねぇ!馬鹿みたいに技の名前を叫んで、これから攻めると言っているようなものじゃな~~い?」
悔恨の世界より舞い戻った柘榴女は、再び何もない空間に左手を伸ばす。
かと思うと、ダンスでも踊るかのようにぐるりぐるりと回転してみせた。
ナイフは次々と何かに阻まれ、空中を優雅に舞う。
柘榴女が携えるものはいったい何か?
《目むしり仔撃ち》の覆いを払って答えを知れば、強化アラミド繊維で編まれたネットである。
優れた防刃性能を持つその網は、面の動きでナイフの群れを悉く絡め捕らえた。
鋭利な刃は見事に強化繊維を穿つも、肉を裂くには至らない。
「アヒ!ちゃぁんと攻めるならぁ、こういう風にやらないとねぇぇ!」
ホッピーの攻撃をいなした柘榴女は、再びボーラをホッピーに向けて投げつける。
今度は、鉄球とワイヤーの姿をありありと残したまま。
だが、先ほどのボーラとは訳が違う。
ボーラを投げつけると同時に、柘榴女はホッピーに向かい猛然と駆けた。
柘榴女が仕掛ける多重攻撃、ボーラはその最初の一撃に過ぎぬ。
1つ、触覚を封じたボーラ。
ホッピーが触れる感覚なしでは”絡”を繰り出せないならば、これは避けざるを得ない攻撃となる。
上下左右いずこに避けるとも、体勢が崩れることは必至。
たとえ”絡”を繰り出せたとしても、ボーラの受けに用いた剣は封じられる。
2つ、左手に持つ見えざる防刃ネット。
刃に絡みつくその網は、ホッピーの剣を着実に封じる。
ネットを避けて剣を引かれたとしても、剣を使えぬことには変わりなし。
攻めと守りのいずれからも、ひととき剣の存在を消し去るだろう。
3つ、右手に握った見えざる警棒。
柘榴女の膂力から放たれる警棒の一撃が当たれば、ホッピーの骨は脆くも砕け散る。
加えて、電流を浴びせる選択肢。
気を失わせるには足りぬとしても、触れるのみで致命の隙を生むことは間違いない。
4つ、見えざる義手。
ああ、そして柘榴女にはこれがある。
昨晩”鬼子”の命を奪った、冷たく硬い鋼の腕。
3つの攻撃が防がれようとも、透明な腕がホッピーの肉体を貫くだろう。
「イヒヒィ!死ねぇぇぇぇぇ!」
そう叫ぶ柘榴女へと、ホッピーは軽く息を吐いて向き直る。
1つ、触覚を封じたボーラ。
ホッピーは身を低く屈め、その攻撃を回避した。
回避直前、右手の剣の剣先がボーラにかすり、軽く金属音を鳴らす。
2つ、左手の見えざる防刃ネット。
刃を封じる網が触れた途端、ホッピーは剣から手を離した。
剣を犠牲に右手を後ろへと引き、ネットの搦めより逃れさせる。
3つ、右手の見えざる警棒。
ホッピーは後方への回避を試みた。
致命の一撃は避けれども、わずかに触れた先端へと電撃がほとばしり始める。
数瞬の後には、肉体に稲妻が走るだろう。
あとは義手を突き入れれば、それで終わり。
柘榴女は勝利を確信し、唇なき右の口元を舌なめずりした。
「――気を”反”らしましたわね?」
にやりと笑ったホッピーが言葉を投げかける。
刹那、柘榴女の左脚に強い衝撃。
「ボーラ、ですわよ」
柘榴女を襲った衝撃の正体は、ボーラの鉄球。
初撃、ホッピーは呑宮流防御術”反”にてボーラの軌道を操っていた。
軽く鳴った金属音は、その証。
ボーラはブーメランのように立体駐車場を巡り、背後から柘榴女の脚を強く打った。
「私がただ馬鹿みたいに技を名乗っていたと思っていまして?我が呑宮流は技を名乗るも自由、名乗らぬも自由。名乗らぬなら技はない、そう勘違いしたあなたこそお馬鹿さんですわ!ああ、でも私の技に心を奪われるのも仕方のないことですわね。私の名乗りは、俳句の世界でも大絶賛ですのよ――」
ホッピーは警棒より逃れて大きく距離を取り、両手を広げて自画自賛する。
わざとらしい技の名乗りは、呑宮流が擁する計略術の1つ。
技の名を叫ばねば技は来ない、そう敵に思い込ませて一撃を通す。
ホッピーの場合、十中八九ただ格好良いからやっているだけなのだが。
「……貴方は思った以上に危険なようだ……それならこうしないとねぇ……」
柘榴女は左脚を引きずりながら、懐から何かを取り出した。
蒸し暑い部屋のドアを開けたかのように、ぶわりと殺意が滲み出る。
ホッピーの動きが止まる。
こめかみの辺りに、チリリと嫌な感覚が走る。
類稀なるセンスが、呑宮流の戦略眼が、冴え渡る第六感が、これはまずいと告げている。
柘榴女は、親指でその何かを押した。
立体駐車場に仕掛けられた狩人の罠が炸裂する。
ホッピーの傍らで、駐車している自動車が次々と爆ぜた。
「呑宮流跳躍術、”旋”!」
突如として舞い上がった炎の波。
ホッピーは危機を察知して飛び退くも、炎の勢いを止めることなどできようはずもない。
炎はドレスに燃え移り、右半身を軽く焼く。
ホッピーはコンクリートの床に身体を転がして、迅速果敢に消火する。
さらに火が燃え移った右側の縦ロールを手で掴み、強引に炎を握り消した。
柘榴女の仕掛けた罠は、爆弾。
知能犯が用いる時限爆弾のような精密な代物ではない。
ただ自動車を爆破するだけのシンプルなもの。
しかし、《目むしり仔撃ち》で嗅覚を封じたガソリンが、荒れ狂う炎を呼び起こした。
梅雨時の立体駐車場、薄暗闇の中で、臭い無きガソリンは車を濡らす雨水に擬態する。
ホッピーは、わずかに逡巡する。
《目むしり仔撃ち》が使える対象は、本人の体積に留まる範囲のみ。
当然ながら自動車そのものを、見えない自動車にすることは不可能だ。
だが、そのことをホッピーは知る由もない。
それゆえホッピーの中で、立体駐車場の空きスペースは全て爆発する可能性を持ち始める。
ここがいわゆる運命の分岐点。
如何に通るか、呑宮ホッピー。
呑宮流。
あらゆる状況での戦闘を想定した総合武闘術。
この流派のことを、オーソドックスな武術から発展したものだと考える者は多い。
だが実のところ、流派の起こりは異なる。
呑宮流の創始者、呑宮濁六は尋常ならざる膂力と天才的な身体感覚を兼ね備えた猛者であった。
戦場に出れば無双の強さを見せつけ、その太刀筋は神速を超え音を置き去りにしたと謳われるほど。
しかし、呑宮濁六には1つだけ如何ともしがたい弱みがあった。
それは、あまりの膂力ゆえに振るう武器が長く持たぬこと。
業物と呼ばれるほどの刀剣であっても、夕日が沈む頃には原型を留めては居られぬ。
戦場で長く戦い抜くため、呑宮濁六は自ら武器を調達する必要があった。
まずは、敵の握る刀を奪うところから。
それでも足りず、武器ならざるものも武器とした。
つまり呑宮流は武器術としてではなく、武器収拾術としてこの世に生を受けた流派。
呑宮流に伝わる数多の戦闘技術も、呑宮濁六が天賦の才で繰り出した動きを弟子が体系化したものに過ぎない。
それゆえ呑宮流を学ぶものは、まず武器の扱いより先に武器の見つけ方を教えられる。
数多の技を繰り出そうにも、武器がなければ話にならぬ。
必殺必中の奥義でさえ、その猛威に耐えうる武器がなければ放つことさえできはしない。
呑宮流壱之心得、”まず武器を得るべし”。
ホッピーの両手に今、武器は握られていない。
夜の立体駐車場に、けたたましくアラームが鳴り響く。
天井に取り付けられた消火装置から化学泡の雨が降り注ぎ、炎は少しばかりその勢いを減じた。
「イヒィ!イヒヒィ!さぁ、マー君に魂を捧げなきゃねぇ!」
柘榴女は余裕の表情で、ホッピーの様子をうかがっている。
ホッピーは、選択を迫られた。
何もないように見える通路を、真っすぐ行くか?
車が駐車していない空きスペースを、警戒しながら通って退くか?
柘榴女が仕掛けた罠を使えぬよう、あえて距離を詰めるか?
「呑宮流瞬歩術、”揺”」
ホッピーの選択は、そのどれでもない。
左右に身体を揺らしながら、いまだ炎燃ゆる車へと自ら足を向ける。
当然のことだが、既に爆発してしまったものはもう爆発しない。
ひどく乱暴な安全ルート。
「あぁ、逃げても無駄っ!どこに行ってもな~~んにもならないよぉ」
それを見た柘榴女は、ホッピーを追い始める。
左脚にダメージが残るとも、それはホッピーも同じこと。
罠の位置を把握している柘榴女には、移動ルートの選択権がある。
炎の罠を匂わせ、ホッピーの行方を制御しながら少しずつ距離を詰めていく。
恐るべき膂力が届く範囲へと到達すれば、自らの手で葬り去れる。
追跡劇はすぐに終わりを告げる。
しかし、通り道で見つけたか、ホッピーの手には消火器が握られていた。
やや左腿を庇う様子を見せながらも、ホッピーは笑みを浮かべている。
「消火器なんか持ったって、爆発は止められないよぉ!”強くて美しい魂”の持ち主として、マー君のために死んでちょうだい!エヒ!」
「あら、消火器を甘く見てはいけませんわ。魔人は案外脆いもの。どんなに強い魔人でも、消火器1つで命を落とすことがありますのよ。使い手が私のように強く麗しい者であるなら、なおさらのこと。さあ、一泡吹かせて差し上げますわ!」
ホッピーはノズルを右手に持つと、おもむろに消火器を振り回し始める。
消火器の重量にホースが千切れそうなものだが、そうはならない。
《酔剣》――自分に酔えば酔うほど使う武器の性能が向上する能力。
ホッピーの認識の中で、消火器のホースはもはや千切れぬ鎖だ。
赤く輝く柄頭を持ったモーニングスターが、立体駐車場の宙を舞い始める。
「呑宮流撲殺術、”砕”!」
豪速の一撃が、柘榴女へと襲い掛かった。
体躯では劣るホッピーながら、遠心力を味方に付ければ話は別。
”砕”という技の名が示す通りに、柘榴女を砕き得る。
「ウヒ!ウヒェ!ちっとも怖くな~~い!」
柘榴女は、既に見えざる盾を構えていた。
最初の邂逅で、力のほどは見えている。
遠心力の助けを借りようとも、盾で守れば勝負はそこまで。
だが。
ホッピーのモーニングスターは、柘榴女の想像を上回るスピードまで加速し、不可視の盾を弾き飛ばした。
「たとえ炎がその身を灼くとしても、私の美貌は衰えを見せませんわ!それどころか、麗しいサイドテールで人々を魅了してしまいますわね!暗闇に舞うモーニングスターは、まさに世を照らす明けの明星!それを操る私は、ヴィーナスあるいはアフロディテ!言葉にできないほどの美しさで、この世を輝かせてみせますわ――」
呑宮ホッピーの精神は、戦場で身体の痛みを苦に感じない。
痛みそのものが存在しない訳ではないし、身体操作にも影響は出る。
しかし、否定的な感情とは無縁である。
たとえ傷が痛もうとも、これほどの痛みに耐えて戦う私は素晴らしい、逆境に立ち向かう主人公なのだと、自分自身にただただ酔いしれるのみ。
《酔剣》――自分に酔えば酔うほど使う武器の性能が向上する能力。
即ち、ホッピーは追い込まれてからの方が強い。
驚愕する柘榴女に向けて、ホッピーは続けざまにモーニングスターを叩きつける。
柄頭が鋼鉄製の右腕とぶつかり、ガキンと大きな音がした。
「ああ、やはり義手でしたのね!歩様のずれから、そうではないかと思っていましたの!いけませんわ、いけませんわ!呑宮流の正統後継者たるこの私の前で、仕込み腕を使おうなど笑止千万!それにしても、私の慧眼は例えようのないほど素晴らしいのではなくって?コートの下に隠された仕込み腕を一目で見抜くなど、この世に何人できる者がいるのかしら――」
ホッピーの自画自賛は止まらない。
さらなる一撃を柘榴女にぶつけて、見えざる鎧を破壊した。
翠色に輝くその瞳の奥を覗けば、夢見の色に濁っている。
「アァ……嫌だぁ……死ぬのは嫌だぁ……マー君をこの世に呼び戻すまで私は死ねないのにぃ!」
柘榴女は怯え逃げるふりをして、ホッピーを殺し得る暗器を中空に求める。
武器の威力は増すと言えども、慢心を突けば殺害は難くない。
柘榴女の頭にあるのは、愛息に魂を捧げることのみ。
ホッピーを殺せるならば、多少のダメージは覚悟の上。
「そうはいきませんわよ!呑宮流射撃術、”漣”!」
ホッピーは即座にモーニングスターを、水鉄砲に持ち替えた。
呑宮流射撃術、”漣”、それは水流をもって武器を弾く技である。
通常は炭酸飲料の噴出などを利用して放たれることの多い技。
だが、実戦で使うなら消火器の方が向いている。
ホッピーが引き金を引き放った化学泡は、柘榴女が掴まんとしたダガーを吹き飛ばす。
さらに泡は、《目むしり仔撃ち》によって隠されたバッグの存在を露にする。
《目むしり仔撃ち》で泡を不可視にすることは、もちろん可能。
だが、そのためには1分程度の時間が必要だ。
それゆえ、柘榴女の抱えるバッグは1分の間、恰好の標的となる。
「ああ、それがあなたの武器庫ですのね!果たして次に何が出てくるのかしら。興味は尽きませんけれど、その全てを許すというわけにはいきませんわね。頑丈なあなたの身体ごと、私が打ち砕いてみせますわ!」
ホッピーがバッグに向けて武器を振るうと、ガシャンという音と共に大きな瓶が転がり出た。
ひび割れた隙間から覗くものは、紛れもなく”鬼子”のしゃれこうべ。
柘榴女が愛する息子に捧げる、”強く美しい魂”そのものだ。
つまりこれは、虎の尾を踏んだということになるのだろう。
柘榴女は、獰猛な獣のごとく激しく咆哮した。
「ああああぁぁぁぁがあぁぁぁあああああ!!マー君に捧げる大事な魂が!マー君のために集めた魂が!キヒ、キヒヒ、キヒヒヒヒ!……あぁ!マー君、お母さん頑張るよ!イヒ!イヒヒィ!貴方は絶対許さないぃ!ウェヒ!ウヒヒ!」
柘榴女、今夜一番の狂いよう。
この狂乱からの暴力が、いかなるものかは想像に難くない。
殺人中継を見守るVIPにとっては、楽しい見世物になりそうだ。
柘榴女。
自分の名前すらもう思い出せないこの女は、いつ狂ったのだろうか。
息子を殺した加害者ともども、犯罪組織を皆殺しにしたときか?
いや、人を血だまりに溺れさせる女は実に恐ろしいが、その復讐心は理解できる範囲のもの。
この世に法の定めがなく、己にそれを成す力があるならば、子の仇に怒りの鉄槌を下す者は少なくないだろう。
では、カルト宗教の教祖に息子の復活を唆されたときか?
いや、心の弱った者であれば悪意ある甘言に堕ちても不思議はない。
とても信じられないようなことを当然のごとく信じる者を、見かけることは少なくないだろう。
なら、その教祖を”美しい魂”として息子に捧げたときか?
なるほど、確かにその行いは常人の思考の枠を超えているかもしれない。
しかし、それは既に狂っているからそうしたのだと言える。
そうしたから狂った、という訳ではないだろう。
とすればやはり、全てが歪んで狂ったのは、息子の死にざまを目にしたまさにそのとき。
およそ現実と認めがたい残虐な光景を目にした時点で、柘榴女の心は粉々に砕けていたのだろう。
柘榴女は、狂っている。
おそらくは、彼女の中の何もかもが。
大切な息子をこの世に蘇らせる、その愛でさえ。
脳に焼き付いて離れないと本人が話す、残酷な記憶でさえも。
ああ、そうでなければ。
『お母さん頑張るからね!絶対…ぜぇ~~ったい!負けないからねえ!』
『ママ助けて』
自らをお母さんと呼ぶ母親に、息子がママと語りかけるはずはない。
柘榴女は全身から禍々しい殺気を放っている。
稀代の名画へ真っ黒なペンキをぶちまけたかのようだ。
安易に手を伸ばしたなら、すぐさま闇に引きずり込まれてしまうだろう。
対するホッピーは消火器を床に置き、必然の衝突に向けて己の武器を確かめる。
腰のベルトのあたりをよく見れば、ワイパー・脱出用ハンマー・ルームミラーと多彩な武器が揃い踏み。
炎揺蕩う車の上は、単なる逃走経路にあらず。
ホッピーにとっての補給路だ。
突然弾けるように、柘榴女が前方へと踏み出す。
「イヒィ!シィィヤァ!ウヘヘヒィ!」
『警棒で殴って殺す』
『硬い靴底で蹴り殺す』
『鋼の義手で殴り殺す』
狂気で解除された肉体のリミッター。
柘榴女から剥き出しの殺意が放たれ、殺意の結実として連撃が襲い掛かる。
「呑宮流、”合”!”旋”!”砕”!」
素早く抜剣して剣で受ける。
踊り子が舞うように躱す。
攻めの出際を鎚で叩く。
ホッピーは、その連撃を1つ1つ華麗に往なす。
目が追いつかぬほどの殺意のコンビネーションを、自然に繰り出す呑宮流の技で止めていく。
「殺す……捧げる……殺す……」
『電流を流して殺す』
『不可視のワイヤーを仕掛けて殺す』
『ライターで火を付けて殺す』
かと思えば、柘榴女は冷徹な狩人の顔を見せる。
気を抜くことのできぬ悪辣さで、危険な罠を幾重にも仕掛けてくる。
「呑宮流、”流”!”漣”!”弾”!」
ゴムの刃で電流を流し受ける。
泡でワイヤーの位置を特定する。
鞭の衝撃波で炎の起こりを潰す。
ホッピーは、その罠を1つ1つ着実に外す。
悪魔じみた狩人の意図を、数多の戦場での経験をもとに読み解いていく。
「ウェフフ!イヒィ!…殺す……。オケッ!イヒェ!…捧げる…。シィィ!ウヒヒィ!死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
『斬って殺す』
『潰して殺す』
『殴って殺す』
『刺して殺す』
『踏んで殺す』
『焼いて殺す』
『叩いて殺す』
『貫いて殺す』
『締めて殺す』
柘榴女の中で、狂奔の暴力と冷徹な悪辣さが融合していく。
世にもおぞましい狂気と悪意のマリアージュ。
《目むしり仔撃ち》は、柘榴女の触れる全てから五感を奪い去っていく。
「呑宮流、”合”!”捻”!”払”!”流”!”骸”!”弾”!”廻”!”反”!”焦”!」
止めて、避けて、惑わして、流して、受けて、消して、牽制して、反らして、焦がす。
死の瀬戸際の緊迫感の中で、ホッピーは己に酔いしれる。
絶え間ない酩酊は、輝かしい夢の世界へとホッピーを誘う。
《酔剣》は、ホッピーの触れる全てに強さを与え続けていく。
これは言わば鬼才同士の1秒将棋。
手を誤れば、敗北は必至。
さりとて手を指さねば、即座に死が訪れる。
「本当にっ……本当に”強い魂”だ!イヒ!イヒィ!貴方ならぁ、1人で魂4つ分になるかもねぇぇぇ!マー君、もう少し、もう少しだよ!ウヒヒ!」
柘榴女の狂気と殺意は、いささかも衰えを見せない。
武器の質では劣ると言えども、膂力の差はいまだ健在。
体力勝負と相成れば、柘榴女に軍配が上がるのは間違いない。
「ああ、あなたは妄執に囚われた悲しき怪物!愛する我が子を想うあまり、許されざる業を背負った魔物!それならば、冥府送りがせめてもの慈悲というもの!呑宮流第25代後継者たるこの私、呑宮ホッピーが直々に引導を渡して差し上げますわ!」
ホッピーは左脚を庇いながら、懐から何かを取り出した。
劇場でスポットライトを浴びたかのように、きらりと殺意が煌めきだす。
柘榴女の動きが止まる。
剥き出しの右眼に、警戒の色が浮かぶ。
獣じみた危機感知能力が、狩人の思考回路が、殺人鬼の直観が、これはヤバいと告げている。
「オーホッホッホッホッ!これなるは、聖剣ライトブリンガー!闇を払い、光をもたらす伝説の剣ですのよ!」
発炎筒。
後続車に危険を伝えるために使われるそれは、点火の摩擦音と共に鮮やかな光を放った。
ああ、そして。
《酔剣》――自分に酔えば酔うほど使う武器の性能が向上する能力!
ホッピーが握る伝説の剣は、眩い輝きで立体駐車場を強く照らし、現実に光の刃を形成する。
「ギャァァアアァァァァァァァァァ!」
柘榴女の右眼にまぶたはない。
柘榴女は、右眼をつぶれない。
どれだけ見たくないとしても、眼前の光景からは逃れられない。
あの日、息子の凄絶な死から逃れられなかったときのように。
顔を背けようとも、暴力的なまでに明るい炎色反応の赤は、柘榴女の右眼を灼く。
一方、ホッピーは目を閉じている。
ホッピーは、柘榴女とは違う。
ホッピーは、両目をつぶれる。
見たくないものは見ない、と選択できる。
つまらない世界など信じる必要はない、そう吠えられる。
だが瞳を相手に向けぬまま、敵を斬り殺すことはできるのか。
ホッピーは、何ら迷うことなく剣を構えている。
これはいわゆる心眼か?
否、断じて否。
心眼など、ホッピーには全くもって必要ない。
目を開く開かぬにかかわらず、そもそも最初からホッピーは現実など見てはいない!
《酔剣》――自分に酔えば酔うほど使う武器の性能が向上する能力!
己の剣が敵を討つと信じるならば、その剣は必ず敵を斬る剣となるだろう。
剣が振り下ろされたその先に、必ず敵はいる。
愚かな妄想と笑うだろうか。
都合の良い認識だと訝しむだろうか。
だが、ホッピーはただの魔人ではない。
呑宮流。
その身に宿した数多の技が。
幾度となく繰り返された殺し合いの日々が。
戯けた妄想を、現実へと引き寄せる!
身体に染み付いた動きは、死生有命の立ち位置へ、唯一無二の斬り筋へとホッピーを誘う!
これぞまさしく魔人と武人の二刀流!
呑宮ホッピー、此処にあり!
「呑宮流剣術奥義――”鬼罌粟”!」
その技は。
見えざる死角より襲い来て。
音より速く斬り流し。
血の臭いすら残さぬほどの鋭さで。
切れ味を感じる間もなく斬り終わり。
傷が開くまで触れたことさえ気付かれぬ。
第六感を頼りに敵を切断する、神速の刃。
呑宮流剣術奥義、”鬼罌粟”――またの名を、麻酔剣。
「アァァアァァァァ!マー君!マー君!マー君!マー君!マー君!」
柘榴女は、右眼を灼かれながらも闇雲に警棒を振るう。
偶然にも鋼鉄の塊がホッピーに届かんとしたまさにそのときである。
ずり、と音がした。
柘榴女の身体に引かれた『線』は、たった今気付いたかのように傷を開いた。
コンクリートの床に、鮮血の花が咲く。
半身が、地にずれ落ちる。
「ゴハァ……ゴホッ……マー君……」
勝負は決した。
ホッピーの握る剣は光を失い、その役目を終えている。
そして、柘榴女がホッピーの命を脅かすことはもはやない。
「オーホッホッホッホ!昨日に続いて、実に、実に楽しい夜でしたわ!呑宮流第25代後継者たるこの呑宮ホッピーが認めて差し上げましょう。あなたは、とてもお強い方でしたわ!”鬼罌粟”を使えるほど素晴らしい相手に巡り合えたのは、本当に久しぶりですもの!」
ホッピーは嬉しそうに高笑いを上げた。
黒髪翠眼のその顔は喜色に満ちており、身体に残る痛みをまるで感じていないかのようである。
「マー君……あぁ……マー君………」
不意に柘榴女の背負っていたバッグから、ぎゅうぎゅうに目玉が詰められた割れかけの瓶が転がり出る。
見るもおぞましいその瓶の中身は、歪で濁った愛の結晶と呼べるのかもしれない。
たとえ、全てが狂っていたとしても。
「マー君……ごめんね……マー君………」
音だけを頼りに、柘榴女の右手が魂を集めた瓶を求めて彷徨う。
病に伏せる老母が、家族の温もりを求めて手を伸ばすかのように。
何の因果か、犠牲者の目をむしり続けた女の右眼には、今何も映ってはいない。
「ですから、ええ、ですからとても残念ですわ。儚い希望にすがるなら、もっと素敵な夢を見ればよかったものを!自分の願いを他人の言葉に託した者に、奇跡なんて起こるはずありませんわ!ああ、そう言ってもあなたにはもうどうしようもありませんけれど。それでは、さようなら、ごきげんよう」
道を違えた同族へ引導を渡すかのように、ホッピーは瓶を踏み潰す。
ぐちゅり、と嫌な音がした。
柘榴女の耳に、もう愛する息子の声は届かない。
「あぁ……マー君……どこ……」
哀れな女は、絶望の中で息絶えた。
脳裏に浮かんだ息子の顔は、未だもがき苦しみ助けを求めるものだったのだろうか。
その答えを知る術は、この世には存在しない。
知ったところで、どうなるものでもない。
ホッピーにとっては、既に興味のないことだ。
「今夜も実に楽しかったですわ。血濡れの魔都池袋と言えど、こうも素敵な夜が続くなんて。さすが私、運の良さも一級品ですわね」
エンドロールはもう降りた。
殺し合いの熱と傷痕を梅雨寒で冷ましながら、帰り道へと踵を返すのみ。
「ああ、それにしてもお腹が空きましたわ。まだ開いている店はあるかしら。いざ尋常に、晩御飯と参りましょう」
今宵の遊びは、もうおしまい。
よく食べ、よく寝て、また明日。
インドより伝わる訶梨帝母の話をしよう。
訶梨帝母は数多くの子を持ち、滋養のために人間の子を喰らう女であった。
これを見かねた釈迦は、訶梨帝母の末子を鉢に隠した。
訶梨帝母は必死に末子を探すも見つけられず、悲嘆の声を上げたという。
釈迦は子を失う親の悲しみを説き、人を喰らわず生きるよう諭した。
かくして訶梨帝母は三宝に帰依し、子供と安産を司る守り神となった。
釈迦が人肉の代わりに食べるべしと差し出したその果実の名は、柘榴。
であるならば。
まず子を失い、その後に人の魂を喰らい始めた母親は。
柘榴をその身に宿した、もはや思い出せる名もない哀れな女は。
いつかどこかで守り神となり、我が子に微笑みかけられるのだろうか?
冷たいコンクリートの床に転がる屍は、何の答えも返しはしない。
季節は仲夏、梅雨の降る頃。
柘榴が実を結ぶには、まだ早過ぎる。
雨音を聞きながら、ただ朱赤色の花を咲かせるばかり。
第二夜、立体駐車場。
勝者、”鬼ころし”呑宮ホッピー。