0 『ソーマの幻灯』オリジン


 小さな『劇場』で、映写機が回る。
 現代ではあまり見なくなった8ミリフィルムが、過去の幻灯を映し出す。

 そこは、小さな一軒家。
 父親と、母親と、幼い子ども。
 三人の穏やかな日常が続く、ささやかな幸せの庭。

 その日は、子どもの誕生日。
 折り紙で作った飾りがテーブルを彩り、子どもの好物の並んだ食卓。

 ――それが、赤に染められた。

 破裂音はクラッカーではなく銃声。
 食卓に響く声は歓声ではなく悲鳴と怨嗟と怒号。

 数名の乱入者により、一家は一方的な暴力によって蹂躙されていた。

「マー君! マー君! マー君!!」

 頭の半分を赤黒く潰された母親。
 足の先から丹念に潰され、太腿を今まさに削がれている父親。
 壁に太い釘で磔にされ、ダーツの的にされている子ども。

 家族三人、全員が致命傷。
 本来ならば気を失っているはずの重傷だ。
 だが、彼女らは全員が生きて、確かに互いの惨状を認識していた。

 蹂躙は続く。
 顔を隠した、性別も年齢もわからないものたちが、ただ暴力を体現する。
 殺すことが目的ではない。それならばもっと効率のよい手段がある。

 だから、彼らの意図は別。
 身体的なダメージは手段。目的は、魂を削ること。
 その執念は単なる加虐趣味からは生じない。怨恨。復讐。そういうものだ。

『ママ助けて! ママ助けてよ!
 デスか。あのとき、あの子もそう言いましたよねエ!』

 子どもの手のひらにダーツが刺さる。
 刺さった場所がハンマーで叩き潰される。

 子どもの耳にダーツが刺さる。
 刺さった場所が、ボールのように蹴り飛ばされ、首が一回転する。

 だが、子どもは死なない。
 死にそうになるたびに、襲撃者の一人の血を注がれて、生き延びてしまう。

「マー君! マー君! マー君! マー君! マー君!!」

 母親が叫ぶ。
 襲撃者は砕かれた母親の頭蓋の中身を指で撹拌する。

 だが、母親は死なない。
 死にそうになるたびに、襲撃者の一人の血を注がれて、生き延びてしまう。

『旦那さんは、貴方が何してきたか御存知でなかったですヨ。
 守秘義務、大事デスからネ。だから、すべて教えてあげましタ』

 父親が呻く。
 太ももはすっかり削ぎ落とされ、睾丸にハンマーが振り下ろされる。

 だが、父親は死なない。
 死にそうになるたびに、襲撃者の一人の血を注がれて、生き延びてしまう。

『知らなかったはずはないデスよネ。警視庁のエースさん。
 貴方が、何に加担してきたのカ。『芽むしり仔撃ち』の立役者サン!』

 小さな『劇場』で、映写機が回る。
 現代ではあまり見なくなった8ミリフィルムが、過去の幻灯を映し出す。

 人は死の直前、生前の記憶を走馬燈のように垣間見る。
 であれば、自分のものではないそれを観る存在は、なんなのか。
 その意味は、どこにあるのか。

 小さな『劇場』で、映写機が回る。
 現代ではあまり見なくなった8ミリフィルムが、過去の幻灯を映し出す。

 そんな、ひとつの家族の崩壊の惨状が、『ソーマの幻灯』の起源であった。




1 『柘榴女』邂逅


 地下鉄池袋駅。
 山手線沿いの三大副都心の一角に位置する、ターミナル駅である。

 地下鉄駅としては東京でも随一の乗客者数を誇るこの施設だが、今は人がまばらだ。
 併設されている商業施設も飲食店も、軒並みシャッターを降ろしている。

 指定された戦場である地下鉄駅構内へ、散歩するような気軽さで、オムニボアは歩く。

 身長約170㎝、中肉中背。
 分厚いロングコート、オープンハンドフィンガー、無骨な安全靴。
 肩からは大きなスポーツバッグを下げている。

 無造作に刈り込んだ黒髪は、外に暴れるように跳ねて存在感を主張する。
 整った顔立ちではあるが、サングラス越しの張り付いた笑みが軽薄な印象を与える。

 風変りではあるが、一見して、この男が池袋を混乱に陥れている殺人鬼の一角であるとは思えない、覇気や凄味といったものを感じさせない姿だった。

 口笛を吹きながら、男は死地へと赴く。

 殺人中継サイト『NOVA』。
 その運営側――といっても、中立とは無縁の、観客であるVIP会員だが――から、次の標的としてオムニボアへと提示された対戦相手は、『柘榴女』だった。

 殺人鬼ランキング1位。
 応用性の高い能力と、狂気と、高い身体能力で武闘派を屠ってきた毒の華。

 彼女を最悪たらしめているのは、特定物体に対する対象の『認知』を封じる異能。

 たとえば『嗅覚』の認知を封じた、無臭の毒ガスで殺す。
 たとえば『視覚』の認知を封じた、透明の義手で殺す。
 たとえば『聴覚』の認知を封じた、無音の爆発で殺す。
 たとえば『触覚』の認知を封じた、スタンガンの感電で殺す。

 人間は危険を知覚して命を脅かす事態に対処する。
 その手がかりを封じ、『気付かれない』致死要因を創り出す『柘榴女』は、戦士でなく、暗殺者として最適の能力を保有している殺人鬼だといえる。

 無論、彼女の強みは異能だけではない。
 たとえば、異常なほどのタフネス。

 精神が肉体を凌駕する、という言葉すら生易しいほどの継戦能力。
 致命傷を負ってなお、肉体の危険信号を無視して駆動し続ける、恐竜並の鈍覚。

 また、昨日見せた薬物による身体能力の増強は、能力抜きでの殴り合いでも脅威である。

 搦め手から直接戦闘に至るまで、およそ死角なく、己の破滅に周囲を巻き込む、時限爆弾のような存在が、『柘榴女』という標的だった。

 対して、オムニボアには、戦闘中に展開をひっくり返せるような異能はない。

 彼に許された常識改変――魔人能力は『ソーマの幻灯』。
 殺した相手の走馬燈を、外界と時間の切り離された『劇場』の心象で体験する。
 それだけの、時空操作・知覚系能力だ。

 だから、これまで、彼は強力な魔人殺人鬼に対し、外からリソースを持ってくることで対応してきた。

 それが、観客や運営からは評判がよくなかったのだろう。
 『NOVA』の視聴者が期待するのは、異能のぶつかりあい、血みどろの殺し合いであって、地味な心理的駆け引きや裏のかき合いではない。それは「見えない」からだ。

 より、華々しい殺し合いを。
 より、わかりやすい闘争を。

 まるでパンとサーカス、剣闘士奴隷のコロッセオ興行だ。
 ともあれ、そんな意図の元、事前の仕込みや第三者の協力を得ることが難しい場所が戦場として指定されたのだった。

 ただ、それは、『柘榴女』に対する牽制の意味もあるのだろうと、オムニボアは認識している。
 彼女の異能は、「事前の仕込み」によってこそ真価を発揮する。

 待ち伏せが可能な状況であれば、彼女は二重三重の罠で対象を即死せしめるだろう。
 それもまた、『NOVA』の望む「見栄えのいい戦い」とは対極の戦闘だ。

 本来戦士ではない殺人鬼同士の『闘い』をエンターテイメントとする。
 そんな矛盾が如実に現れたのだと言えるだろう。

 カメレオンに、何もない箱の中でかくれんぼを強要するようなもの。

 だが、オムニボアはそんな制約を意に介することはない。
 期待、希望、思惑、利益。
 そんなものは、殺人鬼とは最も遠いところにあるのだから。

 改札をくぐり、指定されたホームへと降りる。
 その間、誰ともすれ違うことはない。

 政界や警察を『NOVA』が抱きこんだのか。

 そうして向かった先。
 丸の内線、下り列車ホーム。
 長身の女が待っていた。

 分厚いトレンチコート、黒の皮手袋、編み上げブーツ。
 傘もささずにここまで来たせいだろう。
 濡れた生地が、鍛えられた体の輪郭を厚い生地越しでも露にする。

 身長はオムニボアより10cmは高いだろうか。
 青白い頬と、朱の引かれた真っ赤な唇。

 整った顔立ちと対極にある、崩れて露となった右頭部の傷口。
 ぱっくりと口を開いたザクロのようなおぞましき跡。
 それこそが、彼女の二つ名の由来。

 殺人鬼ランキング1位を維持し続けた『柘榴女』。
 殺人鬼ランキング最下位から生存した『オムニボア』。

 同じ服装をした女と男が向かい合う。

「貴方は、名乗らないのねぇ」

 女は喉の奥を鳴らすように笑い、小さく噎せた。

「ウェヒヒ!
 殺人鬼ランキングで、貴方だけは名前も素性もわからなかった(・・・・・・・・・・・・・)
 けど、私を知っていて、一人で! ここに来た!!
 マー君に捧げるにふさわしい、“美しい魂”の持ち主だ!!!!」

 哄笑する柘榴女。
 笑みを崩さないオムニボア。

 左から見れば、歳の離れた美男美女の逢瀬に見えた。
 それもまた半面の事実。

 しかして、この邂逅の本質は、右から見た姿にこそある。

 右腕を失った女と左手を失った男とが対峙する。
 右頭部を砕かれた女と左頭部を焼かれた男とが相対する。

 自らの傷を顧みず、他者を消費する殺人鬼の遭遇。

 ――間もなくホームに、電車が参ります。
   当該電車は、六両編成、貸し切り車両となっております。
   池袋駅到着後、列車は停車し、待ち合わせをいたします。
   発車時刻は未定です――

 そして、殺人鬼の死地となる列車がホームに停車する。
 運営から提示された条件。

 この列車に足を踏み入れてからが『殺し合い』の始まり。

 乗車できるのは、二人。
 下車できるのは、一人。




2 『幻灯法廷』冒頭手続


『被告人は前に』

『氏名と生年月日は』

 ■■ ■■■。1982年6月17日です。

『被告人は,平成22年4月29日午後19時20分ころ,■■区■■○丁目○番○号■■宅内に押し入り、――に集団で暴行を――罪名及び罰条――』

 私は、ただ、憎かったのです。
 目の前で子を殺されて。無惨にも解体されて。
 ママ助けて、って。そう、何度も助けを呼んだのに。
 あの子に、私は何もしてあげられなかったから。

『被告人に戸籍上、子はいないとされていますが』

 戸籍! 戸籍ね。ええ、そうでしょうとも。
 だから、あんなことができた。
 戸籍がなければ。
 他の子たちと同じ形をしていなければ。
 それは、人間ではない。だから、あんなことができたのです。

 貴方は『芽むしり仔撃ち』を、御存知ですか?

 御存知とお答えになるのでしょうね。
 昭和の文豪、ノーベル文学賞を受賞した日本人作家の若き日の作品だと。

 いいえ、違います。
 それは、隠語です。
 警察で、自衛隊で、そして、――エイリアンハンターと名乗る賞金稼ぎの間での。

そう。その言葉が意味するのは、国家組織による、秘密裡に遂行された対エイリアン・パラサイト駆除――寄生された幼体の積極的な発見・処理活動のことです。

 悪しき芽をむしり、害為す仔を撃つ。
 畑を、山を、人にとってよきものとするため、先んじて行う間引き行為。
 なんて傲慢。なんておぞましい。

 かの作品表題になぞらえたその隠語は、自分たちの行為への罪悪感からか、それとも、確信犯的な正義への盲信からでしょうか。まあ、理由を知る気もありませんが。

 とにかく、我々は、そんな名目で子を理不尽に奪われた。

 我々は連携し、政財界の中心に、警察組織に浸透して、機を伺い――復讐しました。

 計画のブレインの娘を殺し、子どもたちを解剖して研究材料にした病院の関係者の子を同様の目に合わせ、そして――私は、私の子を殺した張本人である女警官を狂わせた。

 女を、殺しはしなかったのです。
 だって、そうではないですか。

 殺したら、終わりです。
 苦しみも後悔も、私はずっとあの子を失ってから抱え続けているのに、あの女がここで一瞬肉体的な苦痛を感じるだけで全てから解放されてしまうなんて、許せなかった。

 だから、あの女から、子どもを奪い、心身ともに死なないぎりぎりの傷を刻んで、放置したのです。

 幸いにして、我々の仲間には、他者を治癒する能力者がいた。
 ……結局彼女は、『芽むしり仔撃ち』のブレインに捕獲され、心臓だけをいいように使われてしまうことになりましたが。
 ともあれ、仲間のおかげで、死ぬはずの傷を負ったあの女を活かさず殺さず苛めた。

 ええ、そう。
 ですから。私が。我々が。『柘榴女』を作り出したのですよ。

 そりゃあ、彼女の『協力者(ファン)』になるのも当然でしょう?
 あの女が苦しみ、狂い、破滅していく様を、特等席で見られるのですから。




3 『オムニボア』応戦


 柘榴女と、オムニボア。
 二人が車両に踏み込むと、空気圧注入音とともにドアが閉まった。

 車体長 17500mm x 車体幅 2780mm x 車体高 3480mm。
 定員137名の車両が6両。
 これが、たった二人の殺人鬼のための鉄の棺となる。

 互いに一歩後退、両者の手が脇へと伸びる。
 オムニボアは手首を振り、コート裾から滑り落ちた拳銃を構える。
 そして、柘榴女は虚空――おそらく透明化したストレージへ。

 嚆矢となったのは、オムニボアの銃撃だった。
 頭部、心臓、腰に脚。
 しかし、いずれもが彼女の皮膚に届くことも、コートを穿つこともなく弾かれる。

 昨日、一昨日と実銃を使わなかったのは、オムニボアのこだわりではない。
 単に、火力で追い詰めては池袋一斉起爆を誘発しかねない『パンク・キャノン』。
 狙撃による致命打を決定打にするため、銃という選択肢を見せるべきでなかった『Dr.Carnage』。
 それぞれの相手には、それを使わないことが最適解だったというだけのこと。
 そして、柘榴女相手には、それを使うことが必要だと判断しただけのこと。

 それを当然のように透明化したボディスーツで防ぐ柘榴女。
 この攻防は互いに想定の範囲だ。
 オムニボアは敵の防御力と機動力とを。
 柘榴女は敵の持ちうる火力と射撃精度を。
 戦術を構築する上で必要な互いの情報を交換する応酬だ。

「ヒッヒァ! ためらわない! 強い魂輝き! いいよォもっと強く!
 捧げるのさあマー君! お母さんね! がんばるわよぉ!」

 支離滅裂な言動で叫びながら、柘榴女は何かを放り投げるように腕を振るう。
 オムニボアはそれを横目に、車両の床へと小瓶を叩きつけた。

「ッ!」

 柘榴女が咄嗟に後方の座席へ身を隠すのと、オムニボアが車両の連結スペースに身をすべりこませるのが同時。

 爆発。爆風が遮蔽物に隠れた二人を掠めて行き過ぎる。

 柘榴女の投擲の動作はブラフ。
 透明なボーラを投げつけたと見せかけて上に意識を向け、足元に設置していた時限爆発物つきのラジコンカーを走らせたのだ。

 動作を読める達人相手には、透明化した攻撃でも体の動きで見切られる。
 ならば、起動を体の動きで読ませないものを透明化して使用する。
 鬼子、鬼ころしとの戦いを経ての戦術だった。

 モーター音は消せないが、柘榴女のこれまでの言動であれば、とりとめのない叫びでカモフラージュしても違和感を抱かせない。
 しかし、オムニボアはそれを見切り、床に粘着剤を散布して起爆地点をずらしてみせた。

 一昨日、昨日の映像から、柘榴女はオムニボアという男の能力を分析していた。
 この男の切り札は「危機回避能力」だ。

 技の洗練は鬼子に及ばない。
 膂力や速度は鬼ころしと比べるべくもない。
 だが、シンプルに、「致命傷への嗅覚」がずば抜けているのだ。

 長く狩人の銃弾を避け続けてきた、老練な山の獣のように。

 年齢は若く見える。
 柘榴女より20は下だろう。
 だが、その見た目とは不似合いな戦闘経験が挙動から透けて見える。

 しかし、それだけでは説明のつかない何かを、柘榴女はオムニボアから感じ取っていた。

 たとえば、先ほどの投擲。
 透明ボーラを本当に使用していたら、そこで決着がついていたはずだ。
 その可能性を排除できない限り、オムニボアには粘着剤を散布する猶予はなかった。

 単なる致命傷の嗅覚、戦闘経験という以上に、まるで、柘榴女という殺人鬼の行動パターンを熟知、その手札の保有状況すら理解しているかのような対応力。

 そもそも、オムニボアのあの服装は何だ。
 まるで柘榴女のコスプレ、出来の悪い雑なモノマネのようだ。

 一回戦で、顔面左に火傷を負ったことも。
 左の手を爆発で失ったのも。
 まるで、柘榴女という殺人鬼のあり方を、模倣しているようではないか。

 様々な道具を使い、相手の意識の外から命を刈り取るこれまでの戦い方も。
 道具を駆使するにも関わらず、野の獣を連想させる身のこなしも。

 柘榴女は、狂気と冷徹な戦術思考の中で逡巡する。

 オムニボア。
 この男は、何なのか。




4 『幻灯法廷』証拠調手続


 そう。
 連れ帰ったのです。
 殺したのではなく。

 あの女が、『マー君』、と呼んでいた子を。

 柘榴女は、自分の子が死んだと思い込んでいましたが。

 はははは、なんて愚かな女。

 砕かれた頭蓋に指を突っ込まれてかき回されて……そんなことをされても自分が生きていたんだから、息子だって、手が砕かれても、首があり得ない方向にねじ曲がっても、腹が魚の干物のように切り開かれても、死んだとは限らないじゃないですか!

 ええ、そうです。どこからどう見ても死んだとしか思えない暴行を加えながら、それでも、同志の回復能力は、『マー君』を生かすことができた。
 それを我々は連れ帰ったのです。

 鬼子母神の話を御存知で?
 母でありながら他人の子を食い殺していた化生の性根を正すため、お釈迦様は、その化生の子を連れ隠したと。

 まあ、我々は釈迦になる気も、柘榴女を更生させる気もなかった。
 ただ、「その方がより柘榴女を地獄へと叩き落とせる」と思ったのです。

 それから先は皆さん御存知のとおり。
 柘榴女は、死んでもいない『マー君』のため、殺人鬼となった。

 え? 『マー君』はどうしたのかって?

 もちろん、愛情を込めて育てましたよ。
 脳への損傷がひどかったのか、記憶を全て失っていたのは残念でしたが。

 同志の力でも回復しきれなかった脳機能を補うために、私の子から抽出していたエイリアン・パラサイトの細胞を移植してあげました。あの女たちが人間のために殺した人外。それと同じにしてあげました。
 おかげで、すっかり元気になりましたよ。

 『マー君』は映画が好きでした。

 だから、何度も、何度も、何度も何度もホームシアターであの日の地獄の映像を見せてやりました。
 母親が非道を働いた報いに、貴方はこんな苦しみを受けているのだと。
 そう、甘く囁いてあげました。

 そのたびに、私は幸せになりました。
 今、あの女は、この子が死んだと思い込んで破滅の道を進んでいる。

 全ては無駄。

 育児は大変でしたよ。
 うちの子と違って、『マー君』は聞き分けがよくなくて。
 何を考えているのかも、よくわからなかったから。

 でも、いつか、真実をあの女に叩きつける日のことを考えれば、そんな苦労も吹き飛びました。

 その愛が報われたのでしょう。
 彼はちゃんと、殺人鬼になってくれた。
 柘榴女と戦える、柘榴女に一方的に蹂躙されないだけの力をつけた、殺人鬼殺し(キラー・キラー)に。

 ええ、ええ。
 なぜ、『オムニボア』が、常にサングラスやガスマスクで素顔を隠し続けてきたのか。

 それは、素顔を見せるべきではない相手がいるからに他なりません。
 だって、感動の再会は、サプライズだからこそ、胸を打つものでしょう?




5 『幻灯法廷』弁論手続



 車両連結部に身を隠したオムニボアに対して、柘榴女の反応は迅速だった。
 相手の銃撃は効かない。
 そして、膂力と速度において、柘榴女はオムニボアを凌駕している。

 座席を駆けることで床の粘着剤を避け、柘榴女は一息に車両の端、第四車両へと繋がる連結部の扉に手をかけた。
 ばちり、と筋肉を収縮させる電流が走る。だが、急ごしらえのトラップ程度で、柘榴女は止まらない。

 ほんのわずかな感電による硬直。
 その隙にやはりオムニボアは後退し、距離をとった。

 透明特殊警棒による電撃、そして、シンプルな体格差によるプレッシャーを警戒しているのだろう。

「ヒッヒハハァ。逃げてばかりじゃないよねぇ。
 目は隠しても、強い意志は隠せないよう。貴方はまだ勝つ気がある。勝つ術がある」

 じりじりと。すり足で、距離を詰める。

「もっと動けるんでしょう? 逃げ回って豆鉄砲で決着がつけられるだなんて、思ってはいないのでしょう? 貴方の魂の輝きを見たい! 真正面から! 殴り合って!!」

 両の手を広げて、柘榴女が誘う。
 オムニボアは銃を放り投げると、応じるように一歩踏み出して――

「ヒャハハハハハハ!!」

 柘榴女が突如床を蹴り、座席へと飛び乗った。
 同時に何も持っていないはずの右手を床に振り下ろす。

 バヂィッ

 耳障りな音と共に、オムニボアの体が跳ねた。

 柘榴女が『見えない』ようにした水を床に撒き、そこに踏み込んだオムニボアに対して、水を介した特殊警棒による電撃を叩き込んだのである。

 痙攣しながらなおも立つオムニボアの腹に、柘榴女の蹴りが繰り出される。
 一昨日、鬼子には容易く裁かれたその一撃は、綺麗に男の体を吹き飛ばした。

「ウヒ、ウヒヒヒイ、殺人鬼の言うことなんて素直に聞いて……強くて素直な魂!」

 柘榴女の哄笑に、オムニボアは絞り出すように答えた。

「そりゃあ、聞くだろう。
 だって――たった一人の(・・・・・・)肉親の言葉なんだから(・・・・・・・・・・)

「ヒヘ――ヘ?」

 哄笑が、止まった。

 今、オムニボアは、何と口にしたのか。

「柘榴女。君は言ったね。

 殺人鬼ランキングで、貴方だけは名前も素性もわからなかった(・・・・・・・・・・・・・)、と。犠牲者一人一人の名前と経歴を炙りだし、魂の値踏みをしていた君が? これだけ派手に活動している殺人鬼の名前ひとつ調べられなかった?

 そんなはずはないだろう。

 君は、ぼくの名前に辿り着いていた。
 けれど、それを認められず、狂気の中で忘れてしまったんだ」

 オムニボアは、震える手で、サングラスを外す。
 年の割に恵まれた体格と、落ち着いた物言いからは予想外なほどに幼い、14歳の少年の素顔が、あらわになる。

「ああ、君と戦ったこれまでの二人は、正々堂々と名乗りを上げていたね。
 ぼくもその流儀に乗るとしよう。

 殺人鬼ランキング3位『オムニボア』。
 樫尾 猿馬(カシオ サルマ)

 名前に聞き覚えくらいは、あるだろう?」

 柘榴女の動きが止まる。
 その顔から、一切の表情が消え去る。

 この男は、何を言っているのか。
 だが、その面影は。その名前は。その声は。

「――『マー君』」

 オムニボアが、先ほど捨てたのとは別の銃――対魔人用『.357逆鱗弾』を射出するマグナム銃を構えても、柘榴女は、身じろぎもしなかった。

 なぜなら、全ての意味が消失したからだ。

「おやすみ、ママ」

 そう言って、オムニボアは、およそあらゆる防御を穿つ銀の弾丸を射出した。




 …………

 ……と。

 全ては、こうなるはずだったのです。
 こうなるべきだったのです。

 この光景を見るために、私は、『マー君』を育てました。
 この光景を見るために、我々は柘榴女を支援しました。

 それなのに。

 現実は、こうは、ならなかったのです。




6 『幻灯法廷』協議


 小さな『劇場』で、私は、オムニボアに詰め寄りました。
 なんで、私の筋書き通りに進めなかったのかと。

 彼は悪びれることなく、飄々としていました。

「そんな物語は望まれていない。ぼくもいい物語だとは思えない。
 だって、今更、柘榴女の背景、人間性、そんなものに興味のある観客はいないだろう?
 そんなものにこだわるのは、復讐者である君くらいのものだ。

 それに、もしぼくが、君の筋書き通りに動いたとして、柘榴女はぼくを『マー君』だと認識して手を止めただろうか? いやいや、それは君、彼女の理性に期待しすぎだろう。言葉や面影で彼女はもう止まれない。

 彼女はもう、そういう段階をとうに踏み越えている。
 もっと――彼女の認識の根底にあるものでなければ、彼女を理性の側へと引き戻せない。
 感動の再会に母の愛を求める子、そうと気付かず蹂躙する母――悲劇としては悪くない筋書きだけど、少しぼくの好みとはずれてしまうな」

 信じられない。
 まるで、そんな、他人事のように。

 自分の産みの母のことなのに。
 自分の育ての母の願いなのに。

 どうしてそんな、薄情なことができるのか。

「うん。それは申し訳なく思うよ。けれど」

 この10年間は全て、このときのためにあったというのに。

「君、「親を殺すバケモノ(エイリアン)」として、ぼくを育て直したんだろう?」




6 『目むしり仔撃ち』拡張


 やや時間を遡り、現実の柘榴女とオムニボアの戦いへと話を戻そう。

 ラジコン爆弾の爆破をやり過ごした後、動いたのはオムニボアだった。
 車両接続部のドアをわずかに開き、隙間からビニール袋を、柘榴女のいる車両の中へ放り込み、傘の先端で突き刺して、そのまままたドアを閉める。
 そして、車両連結部から後方車両へとオムニボアは退避した。

 一人取り残された車両。液体が沁みだすビニール袋。

 丸の内線の地下鉄車両。
 液体の入ったビニール袋。
 傘で穴をあける。

 わかりやすすぎるほどにあからさまなサイン。
 29年前の大惨事を連想させる小道具。
 しかし、この状況であの事件の再現などすれば、オムニボア自身もただではすむまい。
 9割方、茶番(ブラフ)であるはずだ。
 それは、狂気の殺人鬼にも予想できる。

 しかし、そんな安っぽい嘘を、柘榴女はそれでも無視できない。
 たとえこの車両に、この数分間で幾つもの「仕込み」を置いていたとしても。
 それら全てを置いて、この車両を放棄することを選択せざるをえない。

 かつて彼女は警官であったものだから。
 その事件のことは、当然に先達から叩き込まれている。
 国内史上最悪の無差別毒ガステロ事件として。

 柘榴女は息を浅くしつつ、真っすぐに駆けた。
 足元に広がる液体を踏まぬよう、座席を足場に、オムニボアの消えた車両へと滑り込み、後ろ手で「そのガス」が充満しつつある可能性のある車両へと繋がる扉を閉めた。

 オムニボアの待ち構えていた車両は、足元に白い靄が立ち込めていた。
 相手が避難する様子がない以上、無害な気体なのだろう。
 ドライアイスか何かを昇華させ、鬼ころしがした粉末インクによる透明看破策を模したというところだろうか。

 パチン

 車両入口に仕掛けられていたワイヤーが、踏み込んだ脚に触れて切れる。
 なるほど。靄は透明看破と、罠隠しの両方を目的としたもの。

 柘榴女の反応は速かった。

 脚をすくませることなく、身を丸くして回転し、衝撃に備えた。
 爆発。爆音。透明なボディスーツ越しに、内臓を叩く痛みが柘榴女を苛む。

 そこで、オムニボアが初めて距離を詰めた。
 右手に握られているのは、特殊警棒。

 柘榴女は倒れた状態から、手にしたバッグでオムニボアの脚を薙いだ。
 その一撃は跳躍で回避されるが、代わりに軌道の逸れた帯電の一撃は柘榴女の脇を掠めるに留まった。

 ばぢり。ばぢり。ばぢり。

 柘榴女もまたバッグから特殊警棒を取り出し、応戦をする。
 一合、二合と、互いの攻撃を受け、避け、牽制しあう。
 柘榴女の改造特殊警棒に仕込まれたスタンガンは、護身用とはレベルが違う、兵器としての電流を流す。並の服であれば厚手のものであっても、悶絶必死の痛みを伴うものだ。
 そして、それはオムニボアが振るうものも同じなのだろう。

 しかし、それでも互いに決定打にはならない。
 着ている防具の特殊性によるものか、あるいは薬物か何かで痛覚を麻痺させているのか。

 オムニボアの腕の動きは、蛇のようだった。
 ダメージを与えることではなく、柘榴女に自由な動きを取らせない――具体的には、膝立ちの状態から立ち上がらせないことを目的に、打撃を、電撃を使い、行動を縛っている。

 鬼子のように動きが洗練されているわけではない。目で追うことはできる。
 鬼ころしのように圧倒的な力もない。受ければ流すことはできる。
 しかし、もっとも柘榴女が弱いところに対して、嫌がることを、的確に、焦ることなく繰り返してくる。それが、オムニボアという男の戦い方だった。

 おそらく、この男は、柘榴女の欠点――打たれ強さとパワーを支え続ける、スタミナを削ろうとしている。
 たしかに、柘榴女の体力は無尽蔵ではない。
 持久力に難があるのも事実だ。

 だからこそ柘榴女は、鬼子や鬼ころしとの戦いで、戦闘後半では体力の削り合いではなく、心理戦により虚を突く作戦へと切り替えた。

 けれど。だとしたら、オムニボアの見込みは、思い上がりである。
 この男と、鬼子、鬼ころしとでは、戦士としての格が違う。
 あの二人との戦いであれば枯渇しかけているだろうが、今の柘榴女にはまだスタミナが温存できている。
 故に、今時間を稼ぎたいのは、時間を稼ぐことが利となるのは――

 柘榴女はオムニボアの蹴りを避けると、すがりつくように車両脇の座席へと身を乗せた。

 瞬間。

「!?」

 ぐらり、と。
 オムニボアの体が揺らぎ、膝を、手を突いた。
 戸惑うように周囲を見回す。
 状況を把握し、現状を打破するための正しい状況分析の試み。

 だがそれは、柘榴女にとっては、恰好の、致命的な隙である。

 オムニボアに、一体何が起きたのか?
 否。柘榴女は、一体何を仕掛けたのか?

 殺人鬼ランキング1位『柘榴女』。
 応用性の高い能力と、狂気と、高い身体能力で武闘派を屠ってきた毒の華。

 彼女を最悪たらしめているのは、特定物体に対する対象の『認知』を封じる異能。

 たとえば『嗅覚』の認知を封じた、無臭の毒ガスで殺す。
 たとえば『視覚』の認知を封じた、透明の義手で殺す。
 たとえば『聴覚』の認知を封じた、無音の爆発で殺す。
 たとえば『触覚』の認知を封じた、スタンガンの感電で殺す。

 そして今――彼女がしたことは。

 『触覚』の認知を封じた、地下鉄の床材で、殺す。

 彼女が能力を同時に負荷なく行使できるのは、自らの体積、およそ0.076㎥まで。
 消耗を覚悟して限界行使をしたとして、キャパシティは最大でその倍、0.152㎥。
 この車両に踏み入り、透明化を前提とした仕込みを後部車両に打ち捨てることになった瞬間に、彼女は、全ての異能を解除して、能力のキャパシティを全解放した。

【柘榴女は倒れた状態から、手にしたバッグでオムニボアの脚を薙いだ。】

 基本隠したままで戦い続けてきた武装ストレージをあらわにしたのも、その結果。
 そして、床材に、魔人能力を行使した。

 地下鉄の不燃性ビニール床材は、およそ厚さ2.5cm。
 前の車両で目算した限り、塗装の継ぎ目から、一車両あたり床材は、縦3枚、横3枚の9枚で敷き詰められていた。
 この車両の床面積は、車体長 17500mm x 車体幅 2780mm。
 すなわち、床材1枚あたりの体積は、17.5÷3×2.78÷3×0.025≒0.135㎥。

 負荷は大きいが、行使可能な範囲内である。

 柘榴女の能力には、効果発動まで一分間のラグがある。
 それを、オムニボアの牽制に付き合うことで稼ぎ切った。
 かくて、柘榴女は、オムニボアの立つ床から伝わる『触覚』を封じたのだ。

 人間が当然のように行っている、二足歩行での直立という複雑な機構。
 その一つを支える情報を消去したのだ。
 戦うことはおろか、まともに立ち、動くことすらできないだろう。

 柘榴女は右の腕を振るう。
 態勢は不安定。体の捻りも、体重も乗っていない一撃。

 しかし、その右腕は、新しいパトロンから与えられた、替えの義手。
 そこに仕込まれた隠し刃が、うずくまるオムニボアの背を、一閃した。

 鈍い感覚。
 特殊繊維の防具をコートの上に着ていたのか。
 だが、それでも、肉は裂いた。

 今の一閃の痛みと、床の『触覚』の封印により、オムニボアは起き上がれまい。

 それまでに息を整え、トドメを刺せば、柘榴女の勝利が確定する。

 だが――息が、整わない。
 体が重くなる。思考に靄がかかる。腕が動かなくなっていく。
 まだ、動けるだけの、戦えるだけのスタミナは温存できているはずなのに。

 毒ガス。
 そんな言葉が、柘榴女の脳裏をよぎる。

 オムニボアはこれまでも、柘榴女の戦いを意識したような戦術を取ってきた。
 であれば、鬼ころしとの戦いで、柘榴女がしたように、自分には効果のない、柘榴女にのみ効果を及ぼす、そんな条件で効果を発揮する毒ガスを使っているのか?

 だが、柘榴女とは違い、オムニボアには、毒ガスを無臭化することなどできない。
 ここまで気付かれずに、ガスを散布することなどできるはずがない。
 そもそも、オムニボア自身が目の前でガスマスクなどもつけずに無防備で倒れているではないか。
 こんな状況でガスを使えば、心中でしかない。

 わからない。
 理解できない。
 しかし、これは、目の前の男の攻撃だ。

 この状況で、ほぼ超常らしき力を使うことなく、この柘榴女を追い詰めた。
 それは、間違いなく強い魂だ。

 愛しい我が子に捧げるべき魂だ。

 柘榴女は、口の中に仕込んでいたアンプルを噛み、その中身を飲み下した。

 体が震える。
 視界が赤く染まる。
 傷口が燃えるように熱い。
 全身の血管が脈動する。
 血が、エネルギーと酸素とを全身の細胞に行きわたらせようとする。

 新たなパトロンから与えられた『狂化薬』。
 もう少し、体が動けばそれでいい。

 その後押しを、たとえ体を蝕むとも、薬物ですることができれば、戦いは終わる。

 だが。

「そうしてしまうよね、君は」

 そこで、初めて、オムニボアは柘榴女に語り掛けた。
 一瞬だけ、柘榴女はその声に、記憶の何かが反応したような気がした。
 しかし、殺人鬼としての狂気が『狂化薬』により増幅され、その「何か」の輪郭に思い当たることなく、彼女は吠え――

 ――吠え、られなかった。

 体が動かない。
 薬物で全身の筋力が増強され、痛覚も遮断されたはずなのに。
 それなのに、余計に、体が、重たく、座席へと縛りつけられてしまう。

 オムニボアはみっともなく芋虫のように体を這わせ、『触覚』を封じた床材から、柘榴女とは逆の座席へと身を移し、腰かけて向き合った。

 オムニボアは自分のバッグからスプレー缶を取り出すと、口元に噴出し、深呼吸をする。
 酸素スプレーだった。

 ようやく、柘榴女は自分を襲ったオムニボアの凶器に思い当たった。
 それは、『酸素』。

 正確に言えば、その欠乏。

 この車両にドライアイスの靄――二酸化炭素を充満させていたのは、透明化への対策と同時に、車両内の酸素濃度を低下させるため。
 柘榴女が車両に跳びこんでから、間断なく攻撃を繰り返してきたのは、焦りで呼吸を早めるため。
 ダメージよりも、床に転がし、膝立ちにする状態を柘榴女に強制することに重きを置いたのは、二酸化炭素が酸素よりも重く、その分低い位置にいる方が酸素濃度が低い呼吸を強いることができるため。

 『狂化薬』によって、肉体が過活動をするにあたって酸素をより必要としたことも、裏目に出た。

 そもそも、決定的だったのは、昨日の鬼ころしとの殺し合いの顛末だ。
 敵を屠るため、柘榴女は、『嗅覚』を封じた硫化水素を使った。

 相手に気取られぬよう、ガスマスクで己を守ることなしに。
 ただ、硫化水素は空気中では下部から充満するという節理を利用して。

 かくて、柘榴女より数10cm身長の低い鬼ころしは硫化水素を吸入して意識不明からの中毒死。
 柘榴女は即座に立体駐車場上階へ避難して一命を取り留めた。

 だが。死亡するほどでなくとも、柘榴女は相当量の高濃度硫化水素を吸入している。
 なにせ、数10cm下まで、致死濃度の気体が充満していたのだ。

 意識を失う硫化水素濃度300ppmに至らずとも、高濃度硫化水素を吸入すれば中毒症状が発生する。
 頭痛、目や口、鼻の粘膜への炎症、嗅覚の麻痺と代表的な症状は数多いが、特に致命的なのが、細胞内酵素と結合することによる、呼吸の阻害、気管支・肺の損傷だ。

 パトロンによって一晩でできる限りの応急処置はされたものの、柘榴女の体は、吸排気に欠陥を抱えた重機のようなものだったのである。

 スプレーをしまいこむと、オムニボアは、無骨なマグナム銃を構えた。
 柘榴女は、警視庁の押収品でそれを見たことがあった。

 .357逆鱗弾。
 強力な戦闘型魔人の防御を貫通すべく開発された、特殊弾丸に対応している銃だ。

 柘榴女は、鼓動一回ごとに、己の肉体の熱が消えていくのを感じていた。
 この肉体は、今まさに、酸素(ねんりょう)を失い、生命から、ただの死体(モノ)に成り下がろうとしている。

 ――モノ。生命だったモノ。

 その発想に、柘榴女は、一つの天啓を得た。

 柘榴女の魔人能力は、『目むしり仔撃ち』。
 元は別の名であったが、いつかの任務に参加したときに、自戒としてつけた名だ。
 もはや、何を戒めようとしたのか、どんな気持ちでつけたのかは覚えていないが。

 それは、特定物体に対する対象の『認知』を封じる異能。
 生物は対象にできない。
 同時に対象にできるのは、自らの体積と同等程度まで。
 封じることができる『認知』は五感いずれかに対応するもののみ。

 それが、この能力のルールである。

 しかし。認識により、ルールを踏み越えることこそ、魔人能力の本質。
 それが、己の能力のルールに適用されない理由など、ない。

 この能力は、生物は対象にできない。
 だが。今まさに、「物質」になろうとしている、もう「死体」同然のこの身であれば?

 この能力が封じることができる『認知』は、五感いずれかに対応するもののみ。
 だが。人間が危険を感じる『認知』は五感だけか?
 この池袋の様子を見るがいい。
 ただ、『人を害する何か』の存在を漠然と『認知』すること。
 それもまた、獣としての人が生存する上での、『第六番目』の『認知』ではないか?

「キヒッ」

 オムニボアは、トリガーを引かない。
 酸欠でこちらが死ぬのを待っているのか。
 ならば、ちょうどいい。一分間。その後、この掟破りの異能は発動する。

 これが、柘榴女、最後の殺人となるだろう。
 目の前の男が、愛する息子に捧げられる最後の供物となるだろう。

 捧げる魂は、100には足りない。けれど、この男の魂は、なぜか、なによりも、マー君に捧げるにふさわしいものであると、柘榴女は直感していた。

 魔人能力『目むしり仔撃ち』発動。

 ――『殺人鬼』の認知を封じた、『柘榴女』の死体で殺す。

 その瞬間。
 柘榴女が『殺人鬼』であることを認知できるものは、この世界から消失した。

 今後、あらゆる記録を見直しても、柘榴女による犠牲者の、加害者欄は「不明」であると『認知』されることだろう。

 殺人中継サイト『NOVA』の観客たちも、なぜ、オムニボアがただひとり腰かけている地下鉄の状況を見ていたのか、その経緯を『認知』できなくなった。
 彼らは、『殺人鬼』としての属性でのみ、柘榴女を『認知』していたからである。

 世界から、『柘榴女』という殺人鬼の『認知』を封じ、女は、ほぼ死体となった肉体を、腕を動かし、義手の先を、オムニボアへと向けた。

 自分の肉体を対象とした『目むしり仔撃ち』が発動したということは、間もなく女は死ぬ。
 なぜなら彼女自身が己を死体であると心底認識していなければ、魔人能力はかくの如く発動しないからだ。

 だから、速やかに。最後の供物を、捧げる。
 自分の愛する子どもへ。マー君へ。
 ごめんなさい。あなたを助けてあげられなくて。

 そして、女は、義手に仕込まれた銃を射出しようとして――

 ――オムニボアと、目が合った。

 サングラス越し。それでも理解できた。
 オムニボアは、彼女を見ていた。
 殺人鬼『柘榴女』を『認知』することは、今や世界中の誰にもできないというのに。

 いや。
 だとしたら。

 この、オムニボアという男が、戦っていたのは、その相手は。
 最初から、『柘榴女』という殺人鬼ではない。
 彼女自身すら忘れかけていた、元々の、人間としての、母親としての――

 言葉よりも明確に。面影よりも確実に。
 魔人能力という、自らの認識の根幹を為す現象が導いた答えが、女へと突きつけられる。

 オムニボア。
 この男は、何なのか。

 狂気で滲んでいたもの。
 忘却していたもの。
 目を逸らしていたもの。

 その全てが、走馬燈のように駆け巡り、女の脳裏でひとつの真実を組み上げる。

 女は、哭いた。

 そして、義手をオムニボアでなく、己へと向け、弾丸を撃ち放った。
 自決であった。

「君の物語は、そうなってしまうのか」

 オムニボアは、女の亡骸を見下ろした。

 その死体の瞳は濁り切り、悲しみに染まっていた。
 何をどうすればここまで悲嘆できるのかと誰もが疑念を持たざるを得ない瞳だった。

 その死体の顔は、深い深い絶望に沈んでいた。
 執行間際の死刑囚ですらここまでの絶望は抱かないと思えるほどの顔だった。

 その悲しみの理由を知るモノは、世界に二人しかいない。
 そして、彼女の物語の真実を、その走馬燈を垣間見たものは、一人もいない。



7 『幻灯法廷』判決手続


 裁判形式で、私の『走馬燈』は終わりを告げました。

 『劇場』に明かりがつきました。
 私は、隣に座っている育ての子――『オムニボア』の横顔を見ました。

 銀幕を見る姿は、いつも、年相応の幼い表情です。
 地下鉄の戦いの後、彼は真っすぐ私のもとを訪れ、そして、私を殺しました。

 この『劇場』のこと、彼の能力のことは察していたので、驚きはありません。

 殺されたこと自体に怒りもありません。
 いつかは来る日だと思っていました。

 ただ、悔いがあるとすれば、あの女の最後です。

 ああ、ああ。
 わからない。わからなくなってしまった。

 みんな、あの女の愚行を、『柘榴女』の殺戮行を、『認知』できなくなってしまった。

 確かに、最後、あの女は慟哭した。それはいい。
 けれど。けれど。全然足りない。
 こんなものじゃ、我々の悲しみは癒せない。

 あの女の。『目むしり仔撃ち』の裁きは、もっと、惨たらしく、救いなく、容赦なく慈悲もなく行われなければならなかったのに――

 ……それで。 

 あの女を殺したその足で、私を殺しに来たのは、実の親の仇討ちというところですか?

「彼女を殺したのはぼくだよ。そこに恨みも何もない。
 ただ、君の思い通りにならなかったぼくを、君は許さないだろう?
 護身は先んじて、というだけさ」

 そうですか。
 どこまでも――他人事のような子。

「ぼくのことも、『芽むしり仔撃ち』しておけばよかったと思うかい?」

 まさか。
 そんなことをしては、私は私が憎んだ女と同じモノになる。
 だから、好きに生きなさい。私の仔の欠片を宿すもの。

 雑に他人の物語に寄生し、侵略する、エイリアン・パラサイト。
 その生き方が、貴方には似合いでしょう。




8 『ソーマの幻灯』


 オムニボアはサングラスを外すと、柘榴女の死体を見下ろした。

 『透明化』に対抗するため、軍用のサーマルグラフを通して見続けてきた姿と比べて、肉眼で見る彼女の表情は、より人間らしいように、オムニボアには感じられた。

 けれど、それだけ。
 それ以上の感傷はない。

 いつか、実感のない『マー君(じぶん)』の惨劇(かこ)を繰り返し見せられたときもそうだった。
 自分に繋がる記憶だとは思えなかった。
 今の自分が殺害(うわがき)してしまった、走馬燈だとしか思えなかった。

 能力に目覚めてから、山で無数の獣を殺し、その生きざまを追体験し続けたときと同じ。
 それから、多くの人の人生を見てきたときと同じ。

 オムニボアの物語において、この殺人は、糧になれど大きな転機とはなりえない。

「雑に他人の物語に寄生し、侵略する、エイリアン・パラサイト。
 その生き方が、貴方には似合いでしょう――か」

 オムニボアは、バッグから、手のひらほどの大きさの金属塊を取り出した。

 不定形形状記憶金属『カルガネ』。
 一部のエイリアンハンターが用いる、エイリアン・パラサイト由来とされる武具である。

「今まで、実感はなかったんだけどね」

 生みの親を殺し。
 育ての親を殺し。
 それでもなお、ただ物語の観察者でしかない己と向き合い。

 オムニボアは、脳を補助する一部の細胞だけでなく、己の本質が、人の外にあるもの(エイリアン)であることを認めた。

「『カルガネ』。君は、どう思う?」

 男の問いに応えるように、金属は小さく波打った。
最終更新:2024年06月30日 22:13