まず、ざあざあとずっと続いている長雨の音が聞こえる。
次に、ぎちぎちと縄か何かが軋む音。

更に、濁った断末魔の喘鳴が。
「おごっ…ごっ、が、あが、が…がっ!」
そして、それら全てをかき消す勢いで何かがまとめてへし折れる音。
べぎょぼばぎゃべぎり。

その後、とてとて、と軽い足音が遠ざかっていく。
がちゃ、ばたん。こちらとは反対側の扉から誰かが出ていった。

以上が、この廃ビルの一室に息を潜めて聞いた、隣室から漏れ出る音の全てである。
間違いない。殺人鬼だ。殺人ショーを行っているという『NOVA』の噂は真実だった。
ナイフを握りしめる。殺りがいのある獲物はすぐそこだ。頬が緩むのを抑える。まだだ。まだ早い。

殺すのは、相応の強者だけと決めている。楽な殺しは、刃を鈍らせる。
殺人鬼としてより高みを目指すには、獲物をえり好みするべきだ。殺せて当然の相手を衝動に任せて殺すなど、獣か凡夫のやることだ。
俺は殺人鬼だ。殺人者を超え、人の身を超越した鬼と成る者だ。

慎重に扉を開く。先刻殺された死体があるはずだ。
聞こえる音は、雨音だけ。
殺風景な部屋の真ん中に転がっていたのは、なかなか見たことのない死体だった。

戦闘の痕跡はない。一方的な殺しだ。おそらくは絞殺。しかし、絞められたのは首ではない。
左右の二の腕を巻き込んで、胸部に細い横一文字の「くびれ」ができている。先刻の音と合わせて考えると、凶器は縄。死因はおそらく心臓か肺か、その辺の破壊。
ロープのような物を胸囲を測るみたいにぐるりと巻き付けて(二の腕を思いきり巻き込んでいるが)、そのまま凄まじい力で絞めたのだ。

まず解ることは、こいつを殺した殺人鬼は魔人能力か、さもなくば凄まじい怪力、あるいはその両方を有しているということだ。
胸腔を締め潰すなど、並のパワーではない。絞めるなら定番の首か、肋骨の無い腹を狙えばいいものを、頭蓋骨と並んで人体の最も防護が厚い部位をわざわざ潰すとは。よほど自分の力に自信があるのだろうか。
あるいは、たまたまそこに縄が巻き付いたから、そのまま部位を気にせずやったのか。

次に解ることは、こいつを殺した殺人鬼は、殺しに拘りがないということだ。まず獲物がショボい。そして殺り方がスマートじゃない。俺ならこんなしょっぱい獲物は殺らない。殺らなければならない理由があるなら、もっとスマートに美しい殺り方を考える。
つまるところ、力をひけらかすだけの獣か凡夫の類だ。

狩り殺すならば俺と同類の誇り高い鬼が望ましいが、力が強いだけの獣もまあ前菜としては悪くない。いずれ『NOVA』で名前が売れれば同類と死合うこともあるだろう。

―と、そこで足音が聞こえて来た。
俺が入って来たのとは反対側にある扉。その向こうだ。後10歩の距離。
ナイフを構える。肉厚の刃の慣れ親しんだ重みが、冷ややかに脳髄を研ぎ澄ます。
さあ、狩りの時間だ。
気付かず部屋に入って来るならば、先の先で殺す。俺の身体は魔人能力『鬼人変生』により全身が強化されており、特に知覚力に優れる。扉の向こうの獲物の位置も見逃しはしない。
もし相手がこちらに気付いて先手を取ろうとしているならば―

いや、それはない。やつはこちらに気付いていない。殺しをする足音ではない。
「殺気」と呼ばれるものの正体は、ほとんどの場合音だ。人は殺しという一大事に取り組む時、必ず平時とは違う体の動きをする。その時に出る微細な音が、「殺気」として知覚されるのだ。
そして、扉の向こうから聞こえる音は自然体のそれだ。油断しきっている。

とつ、とつ、と軽い足音が扉にたどり着くまで、あと五歩。
ドアノブを握ったタイミングでこちらから開け、体勢を崩したところを一突きだ。あと四歩。
慎重に、音も無く筋肉を撓ませる。引き絞られた弓のように。あと三歩。

ばん。あと0歩。

破裂音は、扉の向こうの人物が突如跳躍しドロップキックで扉をぶち破った音だった。

「―テメェッ!」

全く殺気が感じ取れなかった。如何なる手を使ったのか。
咄嗟に飛び退って距離を取る。悪手だ、と気付いた時には遅かった。
ナイフを持った右の手首に、縄が絡みついている。その縄が猛烈に引かれ、こちらを転倒させようとして来た。負けじと引き返す。

ぎぢぎぢぎぢ、という音と共に、力が拮抗する。
扉をぶち破り縄を投じて来た相手は、小柄な女だった。少女と言ってもいい。パーカーのフードを目深にかぶっていて、顔はよく見えない。
矮躯の癖に、縄から伝わる異様な怪力。先刻の死体の胴を締め潰したのはこいつに違いない。このままでは手首が砕かれる。
不利な状況だ。奴はフードの下でしてやったりとにやけ面に違いない。

「ふざけやがってェ…!」
ふざけやがって。この程度の不意打ちで俺を殺したつもりか。俺を何だと思っている!
俺は…!
「テメエみたいな凡百の殺人者とはちげえんだよ!」
鬼だ!

跳躍!奴が縄を引くのなら、その力を利用して一挙に飛び込む!
そのにやけ面の額に、ナイフ突き立ててやる!

我ながら、完璧な吶喊。バギャ!と肉厚のナイフが骨を叩き割る音!獲った!
見たか。これが鬼の殺しだ!
奴は赤い鮮血と脳漿を撒き散らし―
ていない。

ナイフが折れている。なぜ?
眼前の女の顔を隠していたフードが取れている。
女の長めの前髪を一房切って、ナイフは額で折れていた。
いや、額ではない。前髪に隠れて、女の額には小さなそれが、確かにあった―

角だ。

本物の、鬼。
前髪に隠れた小さな角の他は、顔のパーツはただの不愛想な女に見える。
だが、その表情は。殺しの場での、その顔は。
殺し合いの鉄火場で、色々な表情を見たことがある。
恐慌に駆られて殺そうとする者を見た。
血が流れる様に歓喜を覚える者を見た。
務めて冷静であろうと努め、無表情を作る者を見た。
もはや慣れたものと、余裕の微笑を浮かべる者を見た。
自らの心を殺し、死んだ魚のような目で殺す者を見た。

だが。
本当にどうでもよいという顔。
殺しなど、意識するにすら値しないという顔は、初めて見た。
足音から殺気がするはずがない。わざわざ「殺そう」などと思いもしていなかったのだから。

殺人鬼ではない。
わざわざ「殺人」などと号する必要はない。
鬼だ。

鬼は無造作に拳を振り上げ、殴った。
ぐぢゃん!

ああ、死んだ。致命傷だ。脳が逝った。
ずる、ずる、と引きずられていくことが分かる。もはや抵抗する気力も体力もない。このまま焼却炉にでも放り込まれるのか。
いや、なんだ。
引きずられていく先に、何かある。何かの境界が見える。
あれは、多分、死の境界だ。一度超えたら戻れない、不可逆の破滅。
それも、鬼にとっては「死体処理の手間が省けて便利」でしかないというのか。
い、いやだ。
こんな、こんな雑な死に方なんて。
せめて殺してくれ。「なんか死んだ」みたいに扱うのはやめてくれ。
やめて。やめてくれ。や


……………


雨の街を、飾り気のない傘をさしてとてとてと歩くパーカー姿の少女がいる。その懐で、ピピピ、とスマホが鳴った。

「もしもし~」
「よっ!『羅刹女(ラークシャシー)』、今回も見事な殺しだったネ!」
「らーくしゃしー…?」
「おまえのことだヨ!いいかげん覚えておくれよな~!」
「そういえばそうでした」
「まあいいヤ、それはそうと今回もお見事!最近頭角を現しつつあった『鬼人』を一発KOとは、さっすがうちのエース!」
「はあ、そうですか」
「それはそれとしてネ!こっからは業務連絡!今度『NOVA』でデッカイお祭りがあるんだヨ!」
「ふーん」
「いまあっちこっちから殺人鬼を集めてるのサ!それを4日でぶっ殺しまくって、一番ランキングが高い奴が優勝!」
「へー」
「優勝賞品はァ、なななんとォ!」
「…」
「なんとォ!」
「…なんとー?」
「【転校生になる権利】!ついでに副賞五億円」
「五億」
「反応するとこそっチ!?まあいいヤ、とにかく気張ってぶっ殺しまくること!以上!がんばレ!ばいば~い!」

そういったきり、電話は切れた。
羅刹女(ラークシャシー)の表情は、仏頂面のまま。
「ランキング1位で五億…」
そして呟く。
「めんどくさっ…ランキング上げるって、なんかこう、映えとか意識しないといけないんでしょ…」
と呟いたところで、ある事に気が付いた。
「いや、上位のヤツ全員殺せばいいのか」
そんならいけるかも。そんな気持ちがあった。そして―

「ま、いいか。とりあえず普段とやることは変わんないな」
皆殺しなど、羅刹にとってはその程度。

雨は、まだ止まない。
最終更新:2024年05月12日 23:28