その夜、木屋昴夫は行きつけのクラブでグラスを傾けていた。

木屋は池袋の一角に事務所を構える魔人ヤクザたちの首領である。
彼の御する角川組はまだ大きな組ではないが、そこそこのシノギはあった。

だが木屋は全く満足していなかった。
逆に組を大きくすることに執心しており、「まだまだウチの組はこんなもんじゃねェ」が口癖だった。

木屋はボトルの栓を親指で抜くと、一気に飲み干す。
荒くれ者の魔人ヤクザたちを従えているのだから、当然彼も魔人である。しかもすこぶる武闘派の。

「ッチ、不味い酒だな。おい! もっと持って来い!」

「お、オヤジ……飲みすぎッスよ……」

さらに酒を要求する木屋に、部下の一人が戦々恐々として口を挟む。
木屋の酒癖の悪さは悪名高い。これで暴れられたら、と怯えているのだろう。

「馬ァ鹿。酒はなあ、そのうちションベンになるんだからいくら飲んでもいいんだよ」

部下の頭にゲンコツをくれながら、木屋は本日15本目のボトルを完飲する。

すると、不意に木屋は尿意を催した。
あれだけしこたま飲んだのだから当然だろう。
もたれていたソファから起き上がり、厠へと立つ。

「夏ゥ~の夜の~」などと鼻歌交じりにアルコールを排出していると、やにわにトイレの外が騒がしくなる。
誰かが酔っ払って暴れているのだろうか。

「公共の場所でとんでもねェことしやがる」

自分のことを棚に上げて義憤に駆られた木屋は暴漢をのしてやろうとドアを乱暴に開け、驚きに目を見開いた。

従業員も部下も、木屋を除くクラブ内の人間が全員意識を失って倒れていたのだ。
こう見えて頭脳明晰な木屋は瞬時に酔いを覚まし、すぐに状況を把握する。

どうやら室内に催眠ガスが撒かれたらしい。

僅かに漂う芳香剤のような甘い香りと気体の白っぽい色でそれを察する。
木屋はすぐに上着を脱ぎ、顔に巻き付けてガスマスクの代わりにした。

よく見ると空調も切ってあるようで、下手人は相当準備が良い人物のようだ。

「カチコミか……?」

木屋はガスを吸い込まないように腹ばいで窓まで進み、ガスまみれの空気を入れ替えるべくサッシを開いた。

しかしそれは木屋の失策であった。
出入り口近くの観葉植物の陰に隠れていた何者かが、鋼線を両手に巻き付けたまま木屋に後ろから飛びかかったのだ。

ヒュンという音とともに首が締め付けられる感覚がする。
呼吸ができず、木屋の顔がみるみる蒼白になっていく。

木屋が意識を手放す前に見たのは、赤と白色の全身タイツのようなスーツに身を包んだ、特撮ヒーローのような男の姿であった。

数時間、いや十数時間後かもしれない。
とにかく木屋は薄暗い部屋で目を覚ました。

コンクリートが打ちっぱなしの、10メートル四方程度のだだっ広い部屋である。

「オイ! 誰が俺をこんな目にあわせやがった! ただじゃおかねェぞコラ!」

木屋は働かない頭を振りながら吠える。
異常な状況でもとりあえず威嚇。ヤクザの身に染み付いた行動指針であった。

「閑さや/岩にしみ入る/蝉の声」

すると、天井に取り付けられていたスピーカーから人の声が流れ始めた。
耳を澄まして聞いてみるとイントネーションがややおかしい。少なくとも日本人ではなさそうである。

「木屋さん、あなたいつも部下の人たちに守られてマス。だから、ちょっと一人になってもらいまシタ」

言っている意味がよく分からない。恐らくは国外マフィアの仕業だろうが、木屋の命が目当てならさっさと始末すればいいだけの話だ。

「突然ですが、今日は私と『俳句バトル』してもらいマス。勝てば開放デス。負けた方が『ハラキリ』デス」

ますます言っている意味が分からない。木屋はこの声の言っていることを理解することを諦めた。
確実に狂人である。だが、油断はできない。角川組の親分である自分を攫い、こんなところに閉じ込めた手腕は認めるべきだ。

「では、準備ができたら向かって正面右のドアから入ってきてくだサイ。私がいマス。俳句しまショウ」

ガチャ、と何らかの鍵が解除される音がした。
よく見ると、先ほどは暗くて分からなかったが薄いドアが右側に設置されていたようである。

早速ドアを開けようとした木屋だったが、はたと思い至った。
この先には例のイカレ野郎がいるか、はたまた罠があるかは置いておいて、十中八九危険が待っているだろう。
慎重になったほうがいいのではないか……?

「オラッ!!」

数秒逡巡し、木屋はドアを蹴破った。
いざとなれば自身の行動速度を3倍に引き上げる魔人能力『キャスバル』がある。

はたして、そこには木屋が気を失う前に見たヒーロースーツの怪人が棒立ちになっていた。

怪人は木屋の姿を認め、やや遅れてファイティングポーズを取る。
殺る気なのだろう。

「遅えよッ! クソボケがッ!」

木屋は叫ぶが早いか『キャスバル』を発動して怪人に飛びかかり、そのままチョークスリーパーで首を絞める。
チョークスリーパーは魔人能力ではないが、木屋の得意技である。平構成員時代はよくこの技で敵対組織の組員たちを圧倒していた。
木屋は魔人の中でもパワーに長けたタイプである。下手をすれば頚椎がへし折れ、耐久タイプの魔人でも気絶は免れない。詰みである。

すると、怪人がもがきながら何かを呟いた。

「浴びるまじ/鳴きつつ枯らす/鬨の声」

「はい、これはね、50点です。一句から三句にかけて全てに鳥の名前が入ってますね。浴びるの『アビ』、枯らすの『カラス』、鬨の声の『トキ』。季語は南風を表す『まじ』です。ただ発想はいいけど、季語が取って付けた感がありますよね。句と句の間に繋がりも薄い。改善としては、『浴びるまじ』を『まじ浴びる』に変えると風を浴びて鬨の声を枯れるほど出した、ということになりますね」

木屋の脳内に情報が流れ込む。
これは、いま目の前で首を絞められ苦しんでいるヒーロースーツの男の能力『詩徒(ミスター・リリック)』だ。
俳句を詠んで70点を超えればバフがかかり、逆に70点以下だとデバフがかかる条件付き強化能力のようである。

しかし、先ほど採点者の夏子先生はなんと言っていたか。

……50点?

「ゴハァッ!」

平均点の70点を下回ったためデバフがかかり、怪人が吐血する。
コイツは本当になにがしたいんだ……。

「オー、悔しいデス……」

マスクの隙間から血を滴らせたヒーローが呟く。

「何が悔しいんだ。せっかくの俳句が不発で何もできずに死んでいくことがか?」

木屋は黒い笑みを浮かべながら腕に力を込める。

「イイエ。俳句『では』勝てなかったことが悔しいデス」

そう言うが早いか、ヒーローは手にはめていた手袋の間からカミソリを取り出し、木屋の腕に突き立てた。

「ぐあッ……!」

木屋が呻き、腕の力が緩んだ。
その瞬間を俳句ヒーロー、通称「俳人575号」は見逃さなかった。

ラバー素材マスクの摩擦の低さを活かし、するりと腕の間から抜け、苦しむ木屋の腹に蹴りを入れる。

俳人575号は日本文化を愛している。だから575でこの世の全てを表現できる俳句が大好きだ。
彼は俳句の技術を鍛えるために人を殺している。俳句は力だ。そして、生きる源だ。

俳人575号が今度は後ろに回り込み、木屋の上に馬乗りになった。
うつ伏せのままもがく木屋だが、先ほどの意趣返しとばかりにそのまま後ろから鋼線で首を絞められる。

木屋の魔人能力『キャスバル』は……使えない。
一度発動すると次回まで1時間のインターバルが必要なのだ。

木屋の口から泡が漏れ、痺れたような感覚が全身を支配する。

俳人575号は鋼線を力一杯締め付けながら、朗々と俳句を詠む。

「死期悟り/一人で食むは/冷し瓜」

「35点。死ぬことを知って一人で食べるのが高級食材の冷やし瓜、つまり冷えたメロンっていうのは妙な感じがしませんか。病院のお見舞いなら冷えてはいないでしょう。もし変えるなら、一句をばっさり取って――――」

これが、木屋昴夫の脳に入ってきた最後の情報であった。
最終更新:2024年05月16日 00:21