殺人鬼、という者を語るときによく言われる人物像というものがあるだろう。
子供のころから周囲に馴染めず、虫を殺したりする傾向があってその対象が小動物になり、やがてそれが人間を狙うようになる……だとか。
あるいは家庭環境の劣悪さによって人間性に歪みが生じている……だとか。
きっと、君たちがこれから見る、あるいは既に見た殺人鬼たちが皆そういうものと同じとは言えないだろう。
もちろん曇華院麗華もそうであった。
ただ彼女が殺人鬼であると知っても、周囲の人間は笑ってしまうかもしれない。
大抵の場合、曇華院麗華は乱暴かつ粗野で自分のルールに則って生きている人間だと認識されているから。
***
少し、時はさかのぼる。
それはどんよりとした雲が重々しく空を覆い、月明りを塞いでしまう日だった。
夜の道場に二人の人影。
片方は男、もう片方は女。
その女の名前は曇華院麗華。
目の前の男を師とする武道家の卵である。
「お前には綾目流の多くを教えた、この領域まで至った速さだけを見れば、今までの門下生の中でも一番だろう」
男の顔には深いしわが刻まれ、その佇まいや随分と柔らかくなった胴着からもその強さが見て取れた。
収束する気の露見。
驚くほど長い樹齢を持つ木を見た時に人が息を呑むように、この男を見たものは息を呑むだろう。
大きな力が肉体の内側に潜んでいる。
それは活発に外に出てくることはないものの、皮膚や筋肉の中に流れる見えない力を否応なく人は感じてしまうものだ。
「はっ……ジジイが若い女に色目使ってんのか?」
挑発的な物言いと視線。
師の前で足を崩し、嘲笑うように笑う女。
曇華院は師と対極。
発散する気の発露。
剥き出しの刃物のような攻撃性が見て取れた。
「何が綾目流だ。お前はオレに全部を教えてないだろ」
「武道というものは一度に全てを見せることはない」
「ンな話じゃねえよ」
答えを引き出すのを早々に諦め、女は立ち上がる。
「綾目の技は殺めの技、だろ」
女の手に刃物。
どこから持ち出してきたのか、キャンプで扱うようなシースナイフ。
師は、弟子が持つそれよりも吐き出した言葉に目を見開いた。
「……どこでその言葉を」
「便りの無いのは良い便りってのは、頼りのねえ話だと思わんか? いまお前の自慢の弟子がどこにいるのか教えてやろうか?」
女は気付いていた。
古流武術などという謳い文句の綾目流、自身の学んだ技術の中にある血生臭さ。
型稽古の中に潜む、明らかに組手では使わない想定の技。
武器術の中に潜む、敵を絶命に至らせるのに効率的な技。
彼女からすれば、気付かないほうがおかしいことではあったが。
「ジジイ、これが最期の稽古になるかもしれねえな」
「外道に堕ちたか……!」
「違うね、修羅に入ったのさ」
師と弟子がぶつかりあう。
見届ける者のいない決闘は一時間と経たぬうちに終わり、翌日に男の変死体が道場に転がっていたという。
それからしばらく、全国各地で凄惨な事件が起こることとなる。
武芸者や格闘家たちを狙った連続殺人事件。
警察はその犯人をこの綾目流の門下生であると推定し、人知れず"鬼子"と呼んだという。
***
「……ぐっ……ふん……っ!」
夜のジム、女の肌に汗が浮かぶ。
黒いタンクトップから覗く腹は割れていて、短い丈のズボンから覗く足もまた鍛え上げられていた。
黄金の肉体ときつい目つき、割れた硝子のような鋭い雰囲気を持った女の周りに人はいなかった。
下心や親切心から声をかけようとする者もいない。
彼女に近づくことを周りの人間が避けている。
規定回数のスクワットを終え、握っていたバーベルを置く。
決めたことを決めた通りに行う。
頭の中のチェックリストに印をしていき、決めた通りのトレーニングをこなして、シャワールームへ。
それはとても慣れた動きで、この女がよくこのジムを利用しているのは誰の目から見ても明らかだった。
(今日は肉食って帰るか……)
池袋の夜風が頬を撫でる。
女がいつからその街の住民だったかはこの女しか知らない。
ただ、この雑多な街が自分の居場所だとは思っていないのは確かだった。
空いた腹を抱えてバイクにまたがり、エンジンをかける。
「ちっ、暇だ……」
思わず漏れ出たその独り言を聞く人間はおらず、夜の闇に消えていく。
女が向かったのは彼女の職場でもあるレストランだった。
休日の夜だからか、店は繁盛している様子である。
「あれ、ドンさん。今日休みっすよね」
「今日は客だ。休みの日でも売り上げへ貢献する優良従業員に感謝しろ」
髪を染めたアルバイトの青年が笑っていた。
彼女の物言いは普段からのものであり、それでも曇華院麗華をドンさんとあだ名で呼ぶのは、彼女がこの店に馴染んでいる証拠である。
「サーロインの400だ」
「味付けは……」
「醤油とワサビ……おい」
「?」
「あの席の鉄板を下げてやれ……食い終わったのにいつまでも居座られちゃかなわん」
メニューを見ることもなく、淀みなく注文を通し、目についたものについて指摘をする。
無駄のない行動であったがやはり女は退屈していた。
どこにいても満たされることがない。
きっと、この食事を終えたとしても満たされることはない。
乾いているのは女の心だ。
満足できていない、欲求が解消されていない、三大で数えられるものではない感情。
もっと喰らわなければいけない、もっと、もっと。
潤うために必要なものは、それなのだ。
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと――――『殺したい』
「……はっ」
気付けば、女は住宅街にいた。
どうやら家の近くまで戻ってきているらしい。
なぜだか、バイクを押している。
スマートフォンを見ればレストランに入った時から随分時間が経っている。
ズボンのポケットをまさぐって財布を確かめたが……会計は済ませていたようだ。
どうやらぼうっとしすぎていたらしい。
時々曇華院にはこういうこと……並々ならぬ集中によって、我を忘れてしまうことがあった。
無心、無我。
ある種の境地ではあるものの日常生活でそれを使える瞬間というのはなかなかないものである。
「我ながら……阿呆か……オレは」
思わず呟く。
しかしその言葉の続きを吐くことはなかった。
「……」
彼女の目が捉えたのはゴミステーションであった。
金属製の扉が開けっ放しにされ、そこから捨てられたゴミたちが見える。
そして、それらを燃やし尽くさんとしている炎も。
「ちっ」
舌打ちと共にスマートフォンを取り出す。
通報をしないといけない。
(別に通り過ぎてもいいんだがよ……近所で警察がうろうろすんのはごめんだぜ)
消防への通話を開始するために画面をタップしようとした瞬間である。
ぱしゃり。
なにかが、体を濡らす。
すんすん、と鼻を鳴らし理解する。
「……ッ!」
ガソリンだ。
バイクのハンドルから手を離し、その場にしゃがみ込む。
直後、彼女の頭があった位置に向かって火炎放射が飛び込んでいき――――
交差するように彼女のバイクが後方へと吹っ飛んだ。
「ぎゃっ……!」
潰れるような声が背後から響き、ゆっくりと女は立ち上がる。
「オレの勘違いならわりぃがよ。お前がやったってことでいいのかよ」
バイクの下から何かが這い出てきて、バイクを蹴り飛ばした。
中肉中背のサラリーマン風の男であった。
忌々しげに曇華院を見ているが、その視線を向けられている相手は涼しい顔をしている。
「……抵抗せずに焼かれてくれれば、楽だったんですがね……」
男の名前は一文字厚といった。
彼は殺人鬼であり、同時に放火魔であった。
はじめはほんと小さなストレス解消程度で、不審火やボヤを起こすくらいの犯罪者であった。
しかし炎の魔力に取り付かれ、建造物の放火に至り、より人の苦しみや炎の美しさを見たいがために人間を燃やすようになった変質者。
気付けば彼は"個人放火魔"の異名を取る殺人鬼になっていた。
そんなことを曇華院は知らない。
呼ばれている一文字自身も興味がない。
他者からの見られ方などどうでもいいのだ。
劇場型犯罪者などとは違う。
彼らは殺人鬼だ。
それも、お互いに知らない。
「おいおい、人生ってのは頑張りがいがないとつまらねぇぞ」
背負っていたリュックサックに手を突っ込み、獲物を取り出す。
「オレみてぇに」
筋引き包丁。
刃渡り二十三センチ程度、薄い刃が街灯の光を反射していた。
「そんなものを持ち歩いているんですか……職質はどうするおつもりで」
「お前が言うかね……」
黒いもやが包丁の刃にかかる。
ゆらり、と曇華院が近づく。
しかし逆手に構えた刃が振るわれるよりも早く、一文字が動いたのだ。
「金の切れ目が炎の切れ目(ファイアー・アスピレーション)」
彼の手のひらから炎が放たれる。
火の勢いこそそこまででもないが、先ほどガソリンを浴びせられた曇華院にとっては致命的な一撃になる。
はずだった。
「なんだ、炎は魔人能力かよ。オレにガソリンかぶせる意味なかっただろ」
曇華院の刃が炎を切り裂く。
いや、黒いもやに触れた瞬間に炎が弾けていく。
「……金銭と炎をトレードする能力でしてね。強い炎のためには金をそれなりに積む必要がある」
一旦、距離を離す。
夜闇に紛れていたから見えにくかったが、彼女の顔や頭はガソリンに濡れた雰囲気がない。
(……乾くほどの時間もなかったはずだが……これは……)
「少し……追加の投資が必要ですね」
「三途の橋渡し分は残しとけよ」
炎を放つ一文字と、それを切り裂く曇華院。
ゴミステーションの消火は出来ていない。
お互いに時間がそうないのは理解している。
この現場を誰かに見られるのもアウト。
ならば、早々に終わらせる必要がある。
しかしそれを強く意識することはない。
周りのことやもしものことを考えるのは窮屈で退屈なことだ。
命のやり取りの現場で必要なのは計算能力では無い。
殺せる人間はその殺せるという事実を遂行し、自分の性質を確認するだけでいい。
計画的殺人を求めない両者はその価値観を無意識下で共有している。
殺人という人類史の中で最も単純で罪深い行為を平然と行う人間たちなのだから。
……今この場で初めにこの超越の証明を完了したのは一文字だった。
「そろそろ終わらせましょう」
取り出したのはマネークリップ。
彼の指が一万円札を押し出した。
それは今まで最も強い火炎。
もはや火炎というよりも火柱というような規模の一撃。
だが、曇華院はひるまない。
刃を覆っていた黒いもやが彼女にも纏わされ、自分から死地へと向かっていく。
彼女の体が炎に包まれた瞬間――――炎が爆ぜた。
一手遅れたが、彼女もまた照明を完了したのだ。
曇華院は何も失うことなく敵へと到達し、刃も男の肉体へと達した。
思わず身を守るために曲げた左腕。
目にも留まらない一閃が腕を切り裂き、肉と骨を両断した。
その時に、気付く。
(熱い……!?)
傷口に現れている、熱。
斬られながら傷口を焼き潰されているような痛み。
事実、彼の腕の断面からは血が流れていない。
(もやが炎を吸収したのか……? いや、もやは煤や燃料になるなにかか?)
思考が一瞬のうちに巡っていく。
その判断を下す時間を曇華院は与えない。
「オレたちに考えながら人を殺す時間なんて、そうなかっただろ」
今この瞬間、差がついた。
殺す側と、それを回避せんと守る側に。
曇華院の拳や足が一文字の体を叩く。
女性とは思えないほどに思い打撃、体の奥に響いて骨をそのまま叩かれているような衝撃の連続。
こちらの反応を伺うように、何かを引き出さんとするようにいたぶっている。
殴り、蹴られ、斬られていたぶられる中で、一文字は刃がもたらす熱の正体へとたどり着いた。
(振動……)
刃が……違う、もやが震えている。
薄く刃にかかったもやが振動し、刃自体を震わせて熱を持たせているのだ。
ただの包丁が超音波振動メスよりもはるかに切れ味に優れた機能を持つ一品に変わった理由がこれなのだ。
「遺言はあるかよ」
「さっさと……殺しておけば……よかったものを……」
マネークリップから紙幣を弾き出す。
宙を舞う紙幣に曇華院は見覚えがなかった。
複数の金が空中を踊りながら炎へと変換されていく。
一文字の能力は貨幣価値によってその炎の威力が変わる性質を持つが、その威力の基準はあくまで円である。
ならば、円よりもレートの高い貨幣を使用した場合、その時一文字が認識しているレートで炎へと変換される。
弾かれたのはオマーン・リアルと呼ばれるオマーンで使われる貨幣。
彼が今朝確認した円とのレートは1オマーン・リアルが406.52円。
そして投げられたのは50オマーン・リアル紙幣。
その額、二万円を超える。
先ほどの倍以上の火力が複数展開される。
「さっきの技で……防ぎきれるか……」
紙幣ごとに変換されるタイミングが違う。
一度目を防いでも二度三度と炎が襲う時間差攻撃。
曇華院に思考の時間は残されていない、返答は本能と直感で行われる。
彼女が選んだのは、取り合わないということ。
「多分、オレの能力を振動だけだと思ってるだろうから教えてやるがよ」
一歩、踏み込んだ瞬間に曇華院の体が一文字にぶつかる。
刃が腹を抉り、相手ごと前進して彼女は炎の射線から逃れたのだ。
そのまま相手の体を地面へと叩きつけ、上を取る。
「振動の凝縮は衝撃を生む。誰がどう言おうとそう言う理論になっている」
曇華院の拳がもやを纏い、黒い色を持って一文字の顔面に叩き込まれる。
その時一文字はそのもやの正体が何なのかを見た。
真っ黒なもやの中に見える、小さな骸骨や人魂の群れ。
そして――――
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお』
『殺してやるうううううううううううううううううううううううううううううう』
『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
響くいくつもの怨嗟。
振動はこの怒りと、嘆きと、恨みの声。
それはきっと目の前の女に殺された者の、自分も並べられるであろう彼女の。
「ひ、ひいいいいいいい!」
恐怖の叫びはそう長く続かなかった。
「鬼哭啾啾」
振動が圧縮され、強烈なひとつの衝撃となって爆ぜる。
それは一瞬のうちに脳を破壊し、一文字の命を握り潰した。
「久しぶりにヤったが、前よりも調子は良さそうだ」
一文字の体と切り取られた腕をゴミステーションに放り込む。
腕が切断されている以上、これが自殺と断定されることは無いだろう。
面倒の影は自分の後ろから向かってきているが、まだ彼女の背中を見てはいないだろう。
「殺人鬼を殺すってのは……あの頃にはなかった発想だが、案外面白い」
ゴミステーションの火を煙草に灯し、女は紫煙を吐き出した。
「安心しろよジジイ、お前はまだ強い側だ」
その日を境に、池袋の闇に鬼が舞い降りる。