プロローグ:呑宮ホッピー
夜の喧噪からやや離れた路地裏で、見つめ合う一組の男女。
これがありふれた繁華街だったなら、爛れた逢瀬に思えたかも知れない。
だが此処は悪鬼羅刹の住まうところ、殺人鬼の集う街、池袋。
両者のぎらつく視線に宿る殺意を見れば、これが尋常ならざる殺人鬼同士の殺し合いであることは明らかである。
「ケヒャヒャ!やっと見つけましたよ、お嬢さん!」
男、名を鋸鋸八的太。
モヒカンヘアーに伊達眼鏡、無骨な作業服という出で立ちは、バイトに明け暮れるバンドマンのようにも見える。
しかし殺人に造詣の深い者なら、作業服に染みついたドス黒い汚れに気付くだろう。
それは紛うことなき被害者の返り血、殺人鬼たる証拠。
まるで、己の戦果を誇示する勲章のようである。
「今夜の遊び相手はあなたかしら?せっかく出逢えたことですし、遊び相手とは楽しい夜を過ごしたいものですわ。しかし、私ほどの絶好の相手を見つけるのにこれほど時間がかかるとは、獲物への嗅覚という意味であなたは――」
女、名を呑宮ホッピー。
可憐な漆黒のツインテール、そして透き通るような翠眼、一目見て彼女を殺人鬼と考える者は少ないだろう。
だが、間違いなく殺人鬼である。
表通りのネオン看板から差し込む光が照らし出す、ほのかに紅潮したその顔からは嗜虐の歓びが漂っている。
そして腰に目を移せば、冷徹な刃を備えたレイピアが堂々と鎮座しているのだ。
「ヒヒ!その酔いぶり、”鬼ころし”の名前通りというわけですか!」
”鬼ころし”、それは呑宮ホッピーの二つ名である。
酔って相手を殺すこと、殺人鬼ばかりを殺すこと、2つの意味を持つ異名。
極めて短期間に連続殺人鬼殺人を繰り返した彼女は、注目のホープとしてその名を轟かせていた。
「まあ、私のことをご存じですのね!それなら相応の覚悟を持ってお見えということ。ええ、ええ、いいですわね。いくら殺人鬼と言えども私の実力を理解せず、偶然相まみえて事故に遭ったかのように死んでいく、というのでは面白くありませんもの――」
「噂通り、酔いが回っておられる。実に楽しいお嬢さんだ!それでこそ、殺しがいがあるというものですな」
会話は成立すれど、対話は成立せず。
それもそのはず、殺人鬼のコミュニケーションとは基本言葉によるものではない。
ひたすらに殺しである。
殺人鬼が殺意を持って対峙したなら、先に待つのは殺し合い、ただそれのみ。
相対する両者。
先に動いたのは、鋸鋸であった。
「キャラの立った若い女殺人鬼。いかにもVIP達から人気を集めそうですが……吾輩としては哀れな犠牲者として名を馳せてほしいところですな!」
鋸鋸はそう言うと、仏を拝むかのように両の掌を合わせる。
するとどうしたことか、その掌の間に丸鋸の刃が8つ現れたではないか。
これはいかなる手品の類か?
否。
これこそ、魔人と呼ばれる者が持つ特殊な能力。
己の妄想を現実のものとし、世界を変える認識強制の力。
つい先ほどまでこの世に存在しなかった丸鋸は、物理法則や因果律を無視して、今この瞬間に突然現出したのだ。
「ふふ、ノコギリ使いとは随分テンプレートに沿った殺人鬼ですのね?ホッケーマスクは被らなくってよろしいので?ああ、被ったとしてもその髪型では鶏みたいになってしまいますわね。それにしてもこんなにたくさんのノコギリをお呼びになるなんて、よほど日曜大工がお好きなのかしら――」
「ヒヒヒ!なかなか煽りがお上手だ!しかし、これを見てもそう言えますかね?」
鋸鋸は腕を大きく広げ、道化のように芝居めいた動きを見せる。
すると8つの丸鋸は高速回転しながら宙を舞い、楕円の軌道を描き始めた。
その様子はまるで、太陽の周りを回る惑星のようではないか。
「これぞ、吾輩の能力『八鋸飛』!縦横無尽に空を飛ぶ8つの刃、果たしてあなたに避け切れますかな?!」
『八鋸飛』――8つの丸鋸を生成し、空中を舞わせる魔人能力。
恐るべきスピードで、次々と襲い来る凶悪な刃たち。
常人であれば、無残に命を奪われる運命は避けがたいだろう。
しかし見よ、此処にいるのは呑宮流の正統後継者。
矢の飛び交う戦場など、想定される状況の初歩の初歩でしかない。
ホッピーは人混みの合間を縫うかのように、丸鋸を見事に避けていく。
纏うドレスのスカートがふわりと揺らめき、その回避行動は舞踊のようでもある。
「あらあら、なんとも規則的な動きですこと!パンクな恰好をなさっているのに、能力は随分と優等生ですわね。素敵な夜になるかと思いましたのに、そうでもないのかしら――」
「なるほど、なるほど、これが音に聞こえし体さばき!数多の殺人鬼が返り討ちに遭ったというのも、十分納得できますな!しかし、ええしかし、これならどうです?」
そう言うや否や、鋸鋸はオーケストラの指揮者のごとく手を大仰に動かした。
すると1つの丸鋸が軌道から外れ、ホッピー目がけて高速で襲い掛かったではないか。
回避そのものはできようが、体勢が崩れ次なる刃に敗れることは必定。
呑宮ホッピー、如何にこの窮地を乗り切るか?
「笑止!呑宮流抜剣術、”合”!」
刹那、ホッピーの手にはレイピアが握られ、その剣身が丸鋸の刃とぶつかる。
呑宮流抜剣術、その真髄は居合いによる一撃ではなく、受けにこそある。
全くもって無防備に見える状況から、鍔迫り合いに持ち込む技術。
刃と刃がぶつかり、火花を散らしながらの力比べ、そうなるはずだった。
しかし、現実に起きた事象は異なった。
レイピアは丸鋸を受け止めたまま大きくしなり、そのままホッピーが剣を振るうと、丸鋸は鋸鋸を目がけて飛んでいく。
これぞ、呑宮ホッピーの特殊能力『酔剣』がなせる業。
ホッピーが酔えば酔うほど、振るう武器の性能が向上する魔人能力。
模造刀は真剣のごとき切れ味を発揮し、エアガンから放たれるBB弾は実弾のごとき威力を見せる。
元々殺傷能力を持つレイピアならば、驚くべき脅威となることに疑いの余地は無し。
持ち主に文字通り刃向かう刃。
しかし鋸鋸が軽く指を動かすと、彼に襲い掛かった丸鋸は元の軌道へと戻っていく。
「ほほう、これが『酔剣』というわけですか!剛と柔を兼ね備えた剣とは、実に珍妙な武器を生み出したものですな!」
珍妙な武器――鋭い指摘である。
見事にしなるレイピアの剣身を目にして、ふと疑問に感じた者もいるだろう。
そう、フェンシングのフルーレを想像して誤解する者も多いが、レイピアとは本来しならせて用いるような武器ではない。
ではなぜホッピーのレイピアは、大きくしなったのか。
その理由はホッピーが今、レイピアはしなる武器、本気でそう考えているからである。
酔っているホッピーは正しく世界を認識できず、陶酔の中で事象は歪んで解釈される。
故に彼女が握るその剣身は、ダイヤモンドのごとき硬さと竹のごときしなやかさが矛盾なく両立しているのだ。
「ふふ、流石にただ刃を舞わせるだけではありませんのね。少し安心しましたわ。それで?次の曲芸はどんなものかしら?夜はまだまだ長いのですもの、楽しませてくださいまし――」
「余裕ですな。だがお嬢さん、あなたは既に吾輩の術中にはまっているのですよ!」
鋸鋸は舞うかのごとく腕を振るい、次々とホッピーに丸鋸を襲い掛からせる。
避け、受け、しなり、返し、避け、避け、受け、しなり、返し、避け。
レイピアと丸鋸がぶつかり合う音の連続が、アップテンポな楽曲を奏でるかのように路地裏を支配した。
「それで?もうあなたに隠し玉はないのかしら?このチンケな舞踏会にも飽きてきましたわ」
鋸鋸の丸鋸を、ホッピーが避け、受け、返す。
一連の攻防は幾度となく繰り返され、既にかなりの時間が経過していた。
状況は変わらず、両者ともに傷はなし。
これが見世物小屋の興行死合であったなら、観客からはブーイングの嵐に違いない。
「言ったでしょう、お嬢さん。術中にはまっていると。気付きませんか?あなたの武器が、ただのレイピアに戻りつつあることに!」
長く続き、単調にも思える刃の激突。
しかし、よく見ればレイピアのしなりは鳴りを潜め、弱々しく弾くだけの鉄塊に変わっていた。
弾かれた丸鋸の刃も、もはや鋸鋸に刃向かってはいかない。
「殺し合いを楽しみたいがあまり、時間をかけ過ぎましたな。あなたは、もうすっかり酔いが覚めてしまっているはずだ」
血中のアルコール濃度を低下させるにあたり、もっとも重要なファクターは時間である。
どのような呑兵衛であろうとも、酒を飲まずに時を過ごせば肝臓がアルコールを分解する。
何人も酔い続けることなど出来はしない。
「『酔剣』敗れたり!あなたが吾輩に殺されるのも、まさに時間の問題というわけですな!」
恥知らずな時間稼ぎ、そうけなす者もいるだろう。
しかし殺し合いにおいて肝要なのは、敵の弱みを狙うこと。
名を揚げて目立てば目立つほど、隙を突かれやすくなるのは必然である。
「あなたの武器はもはや落命寸前。それに対して吾輩は、流れの中で1つずつ刃を入れ替えられるのです」
まるでその言葉をきっかけにしたかのように、レイピアは儚く折れ散った。
ホッピーの手に残るのは、柄とわずかに残る剣身のみ。
対する鋸鋸の丸鋸は交換を繰り返し、新品同様である。
絶体絶命という言葉で飾るなら、この場面をおいて他にはあるまい。
「興覚めですわ」
ホッピーは心底つまらなそうに鋸鋸を見据える。
薄く紅が差していたその顔は、もはや陶磁器のごとく白く透き通っていた。
「つまらない方。時間の無駄ですわね。とっとと終わらせましょう」
「この期に及んでやせ我慢とは!良いでしょう、お望み通り血祭りにしてさしあげますよ!」
鋸鋸はその両腕を上下左右に激しく動かす。
呼応するように乱舞する8つの丸鋸が、同時にホッピーへと襲い掛かる。
前後左右から舞い狂う凶刃、避けようのない死。
鮮血が、路地裏を赤く染めた。
「な、何故……吾輩が……」
鮮血の主は、呑宮ホッピーにあらず。
鋸鋸自身を斬り刻む8つの丸鋸を見れば、結果は明白。
死角から飛来した1つ目の丸鋸が致命傷となり、鋸鋸は残りの刃も漏れなく身で受ける羽目になったのだ。
己の意志で丸鋸を舞わせる魔人であろうと、鋭い痛みの中で精密に刃を操ることは至難である。
「分かり切った結果ですわ。目の前に8つも武器を用意されて、呑宮流の正統後継者たるこの私が負けるなどありえませんもの」
凶刃がまさに眼前へと迫ったとき、ホッピーは次々と丸鋸にレイピアの鍔を滑らせ、その軌道を変えた。
呑宮流防御術、”反”である。
本来は鍔や篭手を用いて相手の刀身を反らす技だが、呑宮流の秘奥を極めた彼女であれば、飛び道具の矛先を操ることなど児戯にも等しい。
「あなたの能力、『八鋸飛』でしたか?視線で狙いがばればれでしてよ。弾き返して命を刈り取るなど、朝飯前ですわ」
「いや……だとしても……なぜ……ただの…折れたレイピアで……吾輩の刃が……」
鋸鋸にとっては当然の疑問であろう。
策を弄して封じたはずの『酔剣』。
にもかかわらず、全ての丸鋸を難なく返されたのだから。
「あなたは私のことをご存知のようでしたけれど、実際は全然ご存知でなかったのね」
ホッピーは心底哀れなものを見るように、死にゆく鋸鋸の顔へと視線を向ける。
「私は、紛うことなき呑宮流第25代の後継者。そもそも『酔剣』などなくても、強く麗しい女でしてよ。酔っても強い、醒めても強い。言わば、魔人と武人の二刀流というわけですわ」
「そ、そんな……滅茶苦茶な話が……」
「そもそも8つの丸鋸で相手を殺したいなら、普通に持ち歩いて投げつければ良いだけのことでしょう?能力の無駄遣いもいいところですわ。ああ、そう言えばつい先日、8つの斧を投げ操る猫目の剣士の噂を耳にしましたわね」
いかに摩訶不思議な現象を起こせるとしても、同じ結果をもたらせるなら必ずしも魔人の能力である必要はない。
鋸鋸が見誤ったのは、まさにそこである。
「剣で斬れば魔人は死ぬ。槍で突けば魔人は死ぬ。銃で撃てば魔人は死ぬ。魔人とは案外脆いもの。だからこそ魔人の能力は強さのためではなく、自分らしくあるために使うべきではなくって?」
魔人は案外脆い、それは厳然たる事実である。
常人より強靭な肉体を持ちうるとは言え、魔人は決して不死ではない。
魔人中隊が治安維持において重要な役割を果たせているのも、支給される銃火器で大半の魔人を殺せるからに過ぎない。
「地獄に落ちる前に1つ勉強になりましたわね?魔人として生まれ変わることがあるなら、次はもう少し愉快な妄想を抱くことですわ」
そう言ってホッピーは、鋸鋸の頭を蹴り飛ばす。
もはや物言わぬその塊はあっけなく吹き飛び、爆ぜた。
革靴を汚した血の痕を洗い流そうとするかのごとく、池袋に小粒の雨が降り始める。
『NOVA』による大規模殺人中継が始まるまで、あと1日。
此処に出でたる参加者の名は、”鬼ころし”呑宮ホッピー。
この先、DANGEROUS。
命の保証なし。
いざ尋常に、殺人鬼殺しと参りましょう。