曇天の池袋、低気圧というのは実に不愉快なものだ…頭痛がひどい。
いや、それ以上に不愉快なのは――
『おはよう!今日も嫌な曇り空だね!』
頭に響いてくる謎の声だ。
原因は不明、この声は私にだけ聞こえている。以前はまともに話し合って変な人を見るような眼で見られた。
「ヴィアナちゃんおはよう!」
「ん…ああ、おはよう露呂子」
『露呂子ちゃんだ!おはよう!』
「ヴィアナちゃん元気ない…ちゃんと食べてる?」
|五百露呂子《いつももろろこ》は私の友人だ。
つややかな黒髪と透き通るような白い肌が、どこか日本人形を思わせるクラスメイト。
「食べてるよ。君は…いや、心配する必要はないな」
「そりゃもちろんですよ!」
ふふん、と胸をはる露呂子。確かに彼女の食事量は常人のそれではない。
「ヴィアナちゃん私は心配だよ…寝られないからって夜お散歩とかしないでね!」
「しないよ、こんな物騒な時期に外に出るほど馬鹿じゃない」
「だよね~ヴィアナちゃん頭いいもんね!」
最近巷では物騒な殺人事件が相次いでいる。
無差別的に人を襲う輩など自然災害に他ならない。
「あ、私今日日直だったんだ!ごめん先に行ってるね!」
『いってらっしゃーい!ほらほら、僕らも行こうよ|姉さん《・・・》!』
「…」
この幻聴、自我まで持ってるのが実に腹立たしい。
物事をそつなくこなせるということは時として自分の首を絞める。
無論、私は自分が器用である、有能である、という己惚れは抱いていない。
「ヴィアナちゃん!この書類なんだけど…」
「ねーねー今日の放課後なんだけど」
「宰相~悪いここの公式って」
「ヴィアナー今日提出の進路調査さー」
「ええい同時に喋ってくるんじゃない!並べ並べ!あとさらっと宰相って呼ぶな!」
ここの生徒は何かと私を輪の内に入れたがる。嬉しいことだ、頼られるのは嫌いじゃない。
なによりこういった用事に追われている間はあの声も気にならない。
放課後にと誘われたカフェでの一服を終え、帰路につく。私の毎日はいつも通りだ。
『本当に?姉さまは何も感じないんだね』
また、あの声。同時に頭を刺すような頭痛。
『みんな、見てるよ』
「うるさい――」
『たくさんの悪い人たちが、こっちを見てる』
幻聴がいつもより酷い。
私はフラフラと最寄りのベンチまでよろめきながら座り込んだ。たくさんの足音は、心なしか急いでいる。
殺人事件が多発していることもあって皆気が気ではないのだろう。
夜が近づいている。
『いいのかい、帰らなくても』
「分かっている…」
疾く帰らなければ。だが脚は錘がついたように動かず、瞼は鉛のように重い。
「お前は何の真似事でここにいる」
『僕は姉さまの兄、それだけだよ。その解答じゃ不満かい?』
ならば戒めだ。兄との別れを済ませることも満足にできなかった私への。
あの時の私は何も分からぬまま、彼との別れを明白に告げることもできぬまま、彼は逝ってしまった。
「帰らなければ…」
意思に反して閉じる瞼を引き留めるすべなど、私にはなかった。
顔に降りかかった冷たい一滴が、『わたし』の眼を醒ました。
「ここは…」
「目が覚めた?姉さん」
声が聞こえた。隣からのそれは酷く懐かしいもので。でも同時にずっとそばにいた声だった。
ベンチに座る『わたし』の隣に、木箱をかぶった少年が座っていた。
「お兄様…」
「そうだよ、姉さん」
「…あら…?なんだか、嫌な臭いがするわ」
「ん~多分それはあの子の所為かなあ」
お兄様が指さした方向に、1人の少女がいた。
異質なのは、彼女を中心として構成されている血の華だろう。
咲き誇っている形容が最もふさわしい。血と肉が花園のように広がっている。
「気持ち悪いわ、お兄様」
「そうだね、姉さん。でも僕ら、出遅れちゃったね」
「そうなの?」
「これだけの血肉があれば僕が姉さんと一緒にいることだってできたかもしれないのに」
お兄様が何を言っているのか分からないけれど、こんな雨に濡れた屠殺場にいるのは嫌だ。
帰りたい、彼女がこちらを見ている。ストレートな黒髪と、透き通る白い肌。
「わ、まだ生きてる人いた!」
「安心して。『わたし』たちはただ家に帰るだけだから」
「そういうわけにもいかないんだよねー、見逃しちゃうのはポリシーに反するっていうか…」
手の中で弄んでいた得物を彼女が投げつけてきた。
『わたし』めがけて飛んできていたそれは、割って入ったお兄様に弾かれた。
丸鋸は糸でもついてるかのように彼女の手元へ戻っていく。
「やっぱり貴方は魔人なのかな?」
「如何にも!僕と姉さんこそ魔人、世界を変える偉大なる革命家なのさ!」
「大げさね、お兄様。ところでまだ帰れないの?」
「姉さんすこしは話聞いてよね~!帰してくれないの!
でも、姉さんが僕のことをどう思っているかによってはすぐに帰れるよ?」
「お兄様をどう思ってるか?決まってるじゃない、大好きよお兄様――
『わたし』だけのヒーロー、いつでもどこでもすぐに助けてくれたものね」
お兄様は『わたし』のことを守ってくれる。
それは昔から、そして今も変わらない。
『わたし』のためだったらなんだってできちゃう、すごい人。
ぎゅっとお兄様が『わたし』を抱き留める。その背後で丸鋸を振りかざす彼女の姿が――
崩れ落ちた。
気付けばお兄様は鉈を手に、もう片手に彼女の首をもって立っていた。美しい顔のまま死んでいる。
「帰ろうか姉さん。この子の願いも、僕の構築に役立てよう。
この調子ならあと少しさ。ここには強い願いがたくさんある」
「それがお兄様の役に立つのなら、そうするといいわ。『わたし』は、お兄様がやることならなんだって応援できるもの」
「いつもありがとう、姉さん。まだ少ししか願いは集まってないけど、たくさん集まったその時にはきっと…また一緒にいようね、ずっとずっと」
「ええ、お兄様。そのためにも今日は帰りましょう。お肉のスープを作るの。とびっきり美味しいものを」
霧雨と化してきた雨が立ち込めるビル街を、『わたし』たちは歩き出す。
温かい我が家はもうすぐそこ、家族そろっての団欒は、何ものにも代えがたいのだから。
遅れてはいけない。門限を過ぎるのはよくない。
皆でたべるお肉のスープほど、美味しいものはないのだから。