アポテムノフィリア(身体欠損性愛)

 手や足などの四肢を欠損(破壊)しようとする行為への性的嗜好。広義には「アクロトモフィリア(四肢欠損性愛)」に含まれる。英語:Apotemnophilia または Somatoparaphrenia






——それはとても美しい切り口だった。


 惨劇の幕が下り、一人残された少年は寝室のクローゼットから顔を覗かせる。

 昏い部屋。ベッドの上は赤黒い血の海。腰から下を真っ二つに切断された少年の両親が、悲痛な表情を残したまま事切れている。とても人間業とは思えぬ凄惨な死に様。間違って明かりを点けてしまえば、その地獄絵図をまともに見ることになるだろう。
 はみ出した臓物の不快な臭いに吐き気を催すが、今は先にやるべき事がある。

 自分とは別の場所に隠れている、お姉ちゃんの無事を確かめなければ。

 少年はなけなしの勇気を振り絞って寝室を後にする。大丈夫、物音がしなくなって随分と経ったから、もう安全なはずだ。

 リビング。
 キッチン。
 書斎。

 お姉ちゃんの姿はない。まだ別の場所に隠れているのだろうか。それとも上手く逃げせ(おお)せられたのだろうか。
 だが宵闇の中、唯一明かりの点いていた浴室に続く引き戸を引いた時、そんな少年の希望的観測は粉々に打ち砕かれることとなった。

 脱衣所に散乱する引き裂かれた衣服。シャツ、スカート、下着に至るまで鮮やかな血に染まっている。その先、半開きになった浴室の戸から見える血溜まりと真っ白な素足。少年の脳髄に稲妻のような衝撃が奔る。

 視界が歪む。
 天地が歪む。
 認識が歪む。

 嘘だ。
 こんなこと、起こるはずが無い。
 昨日まで、ごく普通の日常を過ごしていたのに。
 こんな恐ろしいことが起こる、前触れすらなかったのに。

 少年は、飛びそうな意識を保ちながら、ゆらりゆらりと歩みを進める。この先に広がる光景が、自分の中にある決定的な何かを破壊する。そんな自覚はありつつも、「それ」を確認しない訳にはいかなかった。

 ゆらり。ゆらり。
 浴室の戸に手を掛け、中を覗く。

「あ……ああっ……!」


——壊れた。


「それ」は少年の想像を遥かに越えた景色——

 思春期の少女の、変わり果てた姿があった。

 血飛沫で彩られた浴室。返り血を浴びた浴槽を背もたれにして、項垂れるように座る裸の少女。
 彼女が本当に少年の姉なのかは判別出来ない。何故なら、首から上を失っていたから(・・・・・・・・・・・・)
 頭のない少女の裸体は、自らが流したその血でドレスアップされている。鮮血の赤と柔肌の白。そのコントラストに、少年の目が眩む。

「お姉……ちゃん……っ、おね……え……」

 少年は一目でこの死体が実の姉であると理解した。たとえこんな姿になり果てようとも、大好きなお姉ちゃんを見間違うはずが無い。けれどもその事実が、少年の悲しみをより深いものにした。

「うっ……うぐっ……うわああああああああ!!!」

 感情が溢れ、決壊する。冷たくなった姉の骸に縋りつき、べっとりと濡れた血に染まりながら泣き叫ぶ。血の匂いが充満する惨劇の跡にて、枯れることのない涙を流し続ける。

「あああああああああああ!!!」

 だけどどんなに泣き叫ぼうとも、この非情な現実は覆らない。両親も、お姉ちゃんも、二度と帰ってくることはないのだ。
 それでも少年は、頭を失い、痛みを訴えることのできぬ姉の代わりに叫び続けた。

「ああああああああああああああああああ!!!」

 その慟哭に応える者は、誰もいない。




——どれだけの時間が経ったのだろうか。

 ひとしきり泣いた後、少年は姉の致命の傷を眺め入る。達人の介錯を彷彿とさせる、実に見事な切断面。血が乾ききらず濡れた血と肉が、てらてらと妖艶な輝きを放っている。

「……ああ」

 無意識にため息が漏れる。

 首を失ってなお、いや、首を失ったからこそ。

 お姉ちゃんの一糸纏わぬ肢体は、とても綺麗だった。

 少年の下半身が疼く。インモラルな欲望が全身を満たしてゆく。その息遣いが徐々に荒くなっていく。バラバラに砕け散った価値観(何か)が再構築される。
 これ以上は駄目だ。そう思った時には、既に手遅れだった。

 気が付くと、少年は自らの下腹部を弄んでいた。ぎこちない手つきで、健気に手を動かす。
 少年がもう少し異常(まとも)であれば、死んだ姉の身体と交わり、この湧き上がる情欲を彼女の胎内に注ぎ込んでいたのかも知れない。
 しかし少年は、余りにも綺麗なその身体を穢すことはできないと感じていた。何より、少年の性衝動をもっとも突き動かしていたのは——

 最も美しい赤で彩られた、少女の首の切断面。


——それはとても美しい切り口だった。


 局部を刺激する速度が上がる。快感の波と背徳感が同時に襲い掛かる。理性はとっくに融け落ちて、剥き出しの本能が脳内に満ち溢れる。

 お姉ちゃん……お姉ちゃん!! お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃ

「うっ……!……ああっ!?」

 少年は涙を滲ませながら、無残に打ち捨てられた姉の死体の傍らで、果てた。





 それが、【殺人鬼】白石 喝人の原風景だった。


◇  ◇  ◇  ◇


——犯罪街区・池袋。

 自然災害級の殺人鬼同士が衝突し、数え切れぬほどの死者、行方不明者を出した池袋の大災害から四年半。あれ以来、この街の住人の質は、がらりと変わっていた。
 警察組織が崩壊し、治安の回復が遅れる中、日本各地の魔人犯罪者、反社会的勢力の流入が止まらなくなっている。
 強奪、性犯罪、殺人が日常的な風景となり、それを取り締まるべき治安維持機構も反社会的勢力の買収工作によってほとんど機能していない。
 善良な住人たちは街を去り、ここを出ていけない貧民たちは只々踏みにじられるだけの日々。
 今やこの地域は、堅気の人間がほぼ排斥された日本有数のスラム街と化してしまっていた。

 そして今現在、殺人中継サイト【NOVA】の台頭により、この無法地帯は【殺人鬼】同士の蟲毒ショーの舞台となっている。

 今宵も血に飢えた鬼たちが、更なる惨劇を求めて夜の街を徘徊する。

 とある廃ビルの一角、通称『猟犬』と呼ばれる魔人犯罪者が、獲物の女を犯し殺そうとしていた。

「へへっ。泣いても叫んでもこんな場所じゃあ助けは来ねーよ」
「嫌っ! 近づかないで! これ以上近づいたら……」
「近づいたらなんだってんだよッ!」

 犬の獣人に変化した男は意にも介さず、後ずさる女ににじり寄る。それが本物の『警告』だったことにも気付かずに。

——風切り音。

 ただそれだけで、『猟犬』の腹部が切り裂かれ、(はらわた)がぼとぼととはみ出した。

「うぇ!?」
「こうなるのよ」

 混乱する『猟犬』。何が起こっているのか理解が追いつかない。もっとも、追いついたところで、その傷では既に手遅れなのだが。

「お、お前も【殺人鬼】だった……のか!?」
「はぁ……貴方の頭の悪さには辟易するわ。自分で言うのもなんだけど、この時間の女の独り歩きなんて、この街じゃ一番警戒しなきゃいけない地雷でしょうが……」
「でも、どうやって……」

『猟犬』の疑問ももっともである。女は武器を使用した形跡はおろか、不自然な動き一つ見せていなかったのだから。

「それは地獄で考えなさいな。これが【NOVA】で中継される以上、そう簡単に手の内を明かすわけにはいかないのよ」

 女は『猟犬』にとどめを刺そうと牙を向く。しかしそれを制止するかのように、背後から小さな音が聞こえた。

 チキチキ。
 チキチキ。

 女は咄嗟に振り返る。それと同時に輝く銀の軌跡が女の首筋をかすめ、その背後にあるものに命中する。

「ぐわああああああっ!!!」

『猟犬』が叫び声をあげる。彼の眼窩には、闖入者が放った銀の軌跡――カッターナイフが深々と突き刺さっていた。

 女は闇の中に潜んでいた闖入者を凝視する。物陰から現れたのは、琥珀色の瞳を光らせた、黒髪の男だった。

「うん、いい反応だ。偉い偉い」
「貴方は……?」
「ああ、ただの通りすがりの一般人さ、綺麗なお姉さん(・・・・・・・)

 お前のような一般人がいるか。女はそんな表情を浮かべるが、彼女が数日前に殺した関係者から入手した、【NOVA】参加者の詳細データリストに彼の情報は無かった。恐らく池袋に来て日の浅い新参者だろう。
 まあ、どのみちこの現場に居合わせた以上、一般人だろうと【殺人鬼】だろうと消すしか無い。

「……あんたの殺し、多分【見えない腕】か何かを使っているんだろ?」

 女の顔色が変わる。自分の能力をズバリ言い当てられてしまったからだ。

「お、その表情。ビンゴだった? ハハハ」
「何で……そう思ったのよ……」
「超スピードで切り裂いたにしては、風切り音が低いし、その割に肩口の予備動作が無さ過ぎる。それにこの切り口、そんなに綺麗じゃないんだよね」

 男は足音一つ立てず、女のすぐそばまで迫ってきた。女の背筋が凍る。敵意も害意も感じさせぬまま、女の必殺の間合い(能力射程)まで、堂々と侵入してきたからだ。こうも容易く接近されると逆に手が出せない。

「ほら、あれ見て」

 男がポンと女の肩を叩き背後を指さすと、悶える『猟犬』の眼窩の傷が徐々に裂け始めてゆく。傷口は逆側の目、こめかみ、犬耳の下側、後頭部にまで届き——

「あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 直後。
『猟犬』の頭の上半分がずるりと落ちた。

「!!」

 女の血の気が引く。『猟犬』は力無く膝をつき、そのまま前のめりに倒れ伏す。大脳が露出した切断面は、CTスキャンで撮影された写真のような美しさだった。

「これこれ。この切り口がいいんだよね」
「離れろっ!!」

 女が【見えない腕】——能力名・『クイックシルヴァー』を横薙ぎにする。黒髪の男は抜群の勘を働かせ素早く身を引くが、躱しきれずに胸部を浅く切り裂かれる。

「おっと……予測より少し腕が長かったようだ。危ない危ない」

 チキチキ。
 チキチキ。

 男はいつの間にか『猟犬』の死体からカッターナイフを取り戻していた。そしておもむろに、自分に刻まれた胸の傷を精査する。

「うん、やっぱり速さも精度も大したことなさそうだ。この傷口が語ってくれる」

 男が不敵な笑みを浮かべると、破けた服の内側でその胸の傷がみるみると塞がっていく。

 女は戦慄の表情を浮かべる。コイツはヤバい。【殺人鬼】としての勘がそう告げている。
 異常性、残虐性においては、今回の優勝候補とされている【殺人鬼】たちにも何ら引けを取らない。
 傷口を操るらしい能力も危険だ。間違ってかすり傷を付けられでもしたら、それが致命傷となりかねな……い……?

——明確な違和感。

 女はここで、自分の右肩が濡れていることに気付いた。慌ててそこに手を当てると、掌に血がべっとりと付着していた。

「あ……」

 細く、熱を帯びた痛みが後追いで襲ってくる。女は自分が既に詰んでいたことを理解する。『猟犬』に刺さったカッターナイフはその直前、自分の首筋をかすめていたことを思い出したのだ。故に——

「あ……い……嫌、落ちないで……」

 裂ける。裂ける。傷口が裂ける。

 女の懇願もむなしく、ころりとバランスを失った首はいとも容易く落下した。

 男はそのまま倒れかけた女の身体を抱き留めて、傷口から溢れ出る血を全身に浴びながら恍惚の表情を浮かべた。

「ああ、僕の見立て通りだ」

 駅前から、ずっと目を付けていた。
 血の匂いを隠す定番の香水。その香りが情欲を掻き立てる。瑞々しく、柔らかそうな肢体も、今すぐ中身を確かめたいほどに魅力的だ。
 あんたのような美人の『人殺し』ならば、その切り口も、さぞかし素敵なものだろう。

 チキチキ。
 チキチキ。

 そして今、頭を失った女が見せたこの新鮮な切り口は、期待通りの艶かしさで——




「お姉さん、やっぱり首がない方が断然綺麗だよ(・・・・・・・・・・・・)





『アンピュテート・マニア』白石喝人

 6月某日。南池袋3丁目の廃ビルにて、『猟犬』犬飼 堂辺留(どーべる)・『ミズ・マンティス』鎌田 キリコ両名を殺害。殺人中継サイト【NOVA】において鮮烈なデビューを果たす。参戦目的は現在不明。
最終更新:2024年05月19日 09:38