「晴れの舞台は東京じゃない。池袋だ」
『NOVA』の舞台を定める何者かは、まるで神の奇跡を拝領した聖職者のような敬虔さで、彼の存在を決定打とし、舞台を選んだ。
無差別殺人中継のテスト撮影で偶然知った彼、『人医者』ドクター・アペイロンを殺人鬼と呼んでいいのかはわからない。
しかし、彼を外した殺人鬼ランキングには何の説得力もない。
これはそのような、前提の話だった。
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夜雨の音は、長く続く背景音となり、次第に無音へと変わる。
老若男女の騒めきや、ビル群がそれぞれ奏でるメロディも、雨音によって掻き消される。
雨音自身も、持続的な雨粒の旋律によって意味を失い、都会へありえざる静寂を齎すのだ。
そんな梅雨の池袋の一角、薄暗い路地裏に小さな診療所が佇んでいた。
表看板には『アペイロンクリニック』と金色の文字が暗闇と水に翳りながらも輝いている。
診療所の中は控えめに言って、惨劇だった。
血と脳漿と内臓と骨と血管と水と油と、人体を構成するあらゆる部品が散乱し、穢れ切っていた。
そして穢れの中心、カウンセリング室中央。
寝椅子に横たわっている《患者》の心臓へ突き立てられていた三本の刃が、ゆっくりと引き抜かれていく。
小指の刃を抜き。
薬指の刃を抜き。
中指の刃を抜き。
ゆっくりと、刃のついていない剥き出しの人差し指で《患者》の露出した喉元を撫でて、離す、ある男。
《患者》に治療を行っていたこの男こそが、『アペイロンクリニック』の主、ドクター・アペイロンである。
ノーネクタイで、深緑の下地に黒い線が走る上下ストライプ柄のスーツ。金縁眼鏡。優しい笑み。
カウンセラーにありがちの、フォーマルでありながらどこか気楽なスタイルは、この惨劇の創造者には到底不釣り合いな安穏さを醸し出していた。
このインクの染みが何に見える? とでも訊ねてきそうなカウンセラーのイメージ通りの男性の目は。
暗く強く、熱く滾っていた。
褪せた翡翠のような濃緑色が、患者をたとえどんな苦難があったとしても治療するという決意で鈍く閃く。
同時に、小指・薬指・中指に刃物が装着され人差し指と親指が露出した奇妙な指抜きレザーグローブをつけた両手から、血が雫となり床へ垂れる。
雨のように。
ドクター・アペイロンは、雨のような男だった。
アペイロンが血がつかないようにまきあげていた《患者》の服を正している間に、処置の間中ずっと意識を保ちながらも忘我に陥っていた《患者》の見開いた目が、カウンセラーへピントを合わせる。
アペイロンは笑顔を見せる。
「あと少しだ。ついでに歪んでいた骨格も、手遅れな内臓も、寝不足と不摂生を原因とする節々の不調箇所も、切除して回復、整形しておいた。出血大サービスだ。そして仕上げとまいろうか」
次の瞬間、ドクター・アペイロンは鮮やかな手つきで患者の喉を掻き切った。
紛れもない殺人。
《患者》は死んだ――死んでいない。
《患者》は痛みを感じた――感じない。
《患者》は致命傷を負った――傷はない。
異常な現象、その種はドクター・アペイロンの能力、【痛し癒し愛し】である。
彼は触れた相手が感じている、あるいは感じるはずの『痛み』を『癒し』に変換することができるのだ。
致命傷さえ完全回復に入れ替える、医療者垂涎の業である。
だが、確実に死んだはずなのに生き返り、傷を負ったはずなのに快調で、壊れたはずなのに健康になる。
それは如何様な視点から見ても悍ましい矛盾を孕んでおり、彼の血濡れの狂気、その実現の原理となった。
すなわち、永続的反復殺人。
死に続けているのに死なず、痛みもないのに殺され続けているという状態に陥らせ、延々と続く臨死体験により《患者》の人間性を破壊する治療である。
これもまた、雨のようだった。
痛みを雨になぞらえるならば、長く続く雨を無痛で無音の背景に変えて、癒しと静寂を齎す、今まさに診療所へ降る夜雨と同じ在り方。
ドクター・アペイロンはやはり、雨のような男である。
その陰惨な治療の締めくくりとしてアペイロンは、《患者》が正気を取り戻した直後に臨死体験を今再び叩き込み、《患者》の人間性を、今度こそ完全に破壊した。
目から光を失った《患者》へ見えるように、ドクター・アペイロンは両手の親指を自分のこめかみに立てて、両手のひらを《患者》に向け、ふざけるように脅かす。
「べろべろばー」
「う、ウワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
大絶叫を上げて、傷一つない驚くほど健康になった《患者》は血の汚れ一つない来院時と同じ服装のまま、本能を爆発させてカウンセリング室から飛び出した。
「死にたくない! 死にたくない!! もう死は嫌だ! 千回死んだ!? 二千回死んだ!? 二千一回目はッ、耐えられない!!」
そして『アペイロンクリニック』の玄関口からもんどり打つように飛び出して、雨降る夜の街の闇へ《患者》だった何者かは消えていった。
「治療完了……雨で聞こえずとも、聴こえるとも。”死なんてうんざりだ、だから生きる”というその声が。
人間病を克服した健康な君を見送るのが、私のひそかな歓びなのだ」
ドクター・アペイロンは穏やかに言いながら『アペイロンクリニック』の扉を閉めようとして、動作を止めた。
「迷信は病である」
呟く。
「狂乱は病である」 「自縛は病である」
「不明は病である」
「絶望は病である」
「人は病である」
そうとも、人間であることは、病なのだ。
ドクター・アペイロンは玄関先のコート掛けから黒いロングコートを掴み、羽織り、外へと踏み出した。
「治療でなしに人を殺す性向というものは、重症化した人間病の症状である。君は病気だ。見逃すことはできない」
病気の兆候がある者に、病院の診察を勧めることを躊躇うことはあっても厭う医療従事者がいないように。
ドクター・アペイロンは《患者》を決して見捨てない。
そんな重症患者が彼のホーム、池袋に集まるなら尚更だった。
「だから、治すのだよ」
―――誰が治してほしいと言った? と殺人鬼は訊ねた。
「私だ」
ドクター・アペイロンは礼儀正しく腰を折り、新たな《患者》へ告げた。
「私が治すと、言ったのだ――必ず君を、救けてみせる」
ドクター・アペイロンは殺人鬼にとって、痛みと癒しと、そして何かを降らす、ばったり行き当たった土砂降りの雨のようなものである。
だが長く留まる土砂降りの通り雨は通り雨ではない。それは雨季、あるいは梅雨。
どちらにしても、その人医師は人でなし。
晴れ舞台に降る雨だった。